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🏯 歴史

福山の祭りの歴史|お手火神事・二上りおどり・あばれ神輿

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福山の祭りの歴史|お手火神事・二上りおどり・あばれ神輿

夏が近づくと、福山のまちのあちこちで太鼓の音や三味線の音色が響きはじめます。鞆の浦の夜空を焦がす炎、福山駅前の大通りを埋め尽くす踊りの輪、そして新市町の神社の境内で神輿と神輿が激しくぶつかり合う轟音。福山の祭りは、海と川と田畑に生きてきた人びとが、季節の節目に神とふれあい、無病息災と豊かな暮らしを願ってきた営みそのものです。この記事では、福山を代表する三つの祭り、鞆の浦・沼名前神社(ぬなくまじんじゃ)の「お手火神事(おてびしんじ)」、福山の夏を彩る「二上りおどり」、そして新市町戸手・素盞嗚神社(すさのおじんじゃ)の祇園祭で行われる「けんか神輿(あばれ神輿)」を軸に、その歴史と背景、受け継がれてきた人びとの思いをたどっていきます。

祭りは単なる年中行事ではありません。そこには、その土地がどのような信仰を育み、どのような災いを恐れ、どのような願いを共有してきたのかという、地域の記憶が凝縮されています。福山という土地は、瀬戸内海に開いた港町・鞆の浦、芦田川がつくる平野の田園地帯、そして近世に水野勝成が築いた城下町という、性格の異なる複数の地域が結びついて成り立ってきました。その多様さがそのまま、祭りの多様さとなって今に伝わっています。年号や経緯には諸説ある事項も多く含まれますが、確かな史料や公式情報にもとづいて、ていねいにひもといていきましょう。

ゆかりの史跡・図鑑

福山の祭りは、それぞれの神社や旧跡と分かちがたく結びついています。沼名前神社、素盞嗚神社、福山城下の社寺など、祭りの舞台となってきた史跡を一覧・比較・詳細の三つの切り口で確認できます。実際に足を運ぶ際の手がかりとして、まずはゆかりの史跡を見渡してみてください。

福山城 伏見櫓 📖江戸時代(元和年間)📍 福山駅前(福山市街)福山城 📖近世(江戸)📍 丸之内福山城博物館 📖近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)📍 福山駅前(福山市街)草戸千軒町遺跡 📖中世📍 草戸町明王院 📖中世📍 草戸町鞆の津の町並み(重伝建) 📖江戸時代(中世〜近代の建造物群)📍 鞆町鞆の浦の常夜燈と港湾施設 📖江戸時代📍 鞆町福山市鞆の浦歴史民俗資料館 📖近代(昭和)📍 鞆町鞆の浦 📖中世〜近世📍 鞆町福禅寺 対潮楼 📖近世📍 鞆町太田家住宅 📖江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)📍 鞆町いろは丸展示館 📖近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)📍 鞆町仙酔島古代(地質)/近代(指定)📍 鞆町廉塾(菅茶山旧宅) 📖近世📍 神辺町神辺城跡 📖中世📍 神辺町福山八幡宮 📖近世📍 北吉津町沼名前神社 📖近世📍 鞆町阿伏兎観音(磐台寺観音堂)近世📍 沼隈町吉備津神社(備後一宮)江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる📍 新市町素盞嗚神社(備後一宮) 📖飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮📍 新市町

史跡時代概要📍 エリア詳細
福山城 伏見櫓江戸時代(元和年間)伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最…📍 福山駅前(福山市街)下へ ↓
福山城近世(江戸)備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御…📍 丸之内下へ ↓
福山城博物館近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩…📍 福山駅前(福山市街)下へ ↓
草戸千軒町遺跡中世芦田川の中州にあった中世の港町・集落遺跡。発…📍 草戸町下へ ↓
明王院中世本堂と五重塔がともに国宝。中世密教寺院で、五…📍 草戸町下へ ↓
鞆の津の町並み(重伝建)江戸時代(中世〜近代の建造物群)潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と…📍 鞆町下へ ↓
鞆の浦の常夜燈と港湾施設江戸時代江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯…📍 鞆町下へ ↓
福山市鞆の浦歴史民俗資料館近代(昭和)鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬…📍 鞆町下へ ↓
鞆の浦中世〜近世瀬戸内の「潮待ちの港」。常夜燈・雁木・波止場…📍 鞆町下へ ↓
福禅寺 対潮楼近世朝鮮通信使の使節が「日東第一形勝」と讃えた客…📍 鞆町下へ ↓
太田家住宅江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で…📍 鞆町下へ ↓
いろは丸展示館近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵…📍 鞆町下へ ↓
仙酔島古代(地質)/近代(指定)鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連…📍 鞆町下へ ↓
廉塾(菅茶山旧宅)近世儒学者・菅茶山が開いた私塾。当時の塾舎・住宅…📍 神辺町下へ ↓
神辺城跡中世備後南部の中世山城。福山城が築かれる以前、備…📍 神辺町下へ ↓
福山八幡宮近世福山城の北に鎮座し、東西二つの宮を備える。歴…📍 北吉津町下へ ↓
沼名前神社近世鞆の「祇園さん」。夏の大松明を担ぐ「お手火神…📍 鞆町下へ ↓
阿伏兎観音(磐台寺観音堂)近世断崖の上に建つ朱塗りの観音堂。国の重要文化財…📍 沼隈町下へ ↓
吉備津神社(備後一宮)江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で…📍 新市町下へ ↓
素盞嗚神社(備後一宮)飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏の…📍 新市町下へ ↓

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福山城 伏見櫓

江戸時代(元和年間) / 📍福山駅前(福山市街)

伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最古級の三層入母屋造の現存櫓。 福山城伏見櫓は、元和8年(1622年)の福山城築城に際し、城主水野勝成が将軍徳川秀忠から下賜を受け、京都の伏見城から移築させたと伝えられる櫓である。長らく伝承とされていたが、昭和29年(1954年)の解体修理の際、梁の陰刻に「松ノ丸ノ東やく(ら)」の文字が発見され、伏見城からの移築を裏付ける確かな遺構であることが明らかになった。構造は三層入母屋造で、初層と二層を同じ柱割とし、その上にやや小さい三層を望楼状に載せる。桁行八間・梁間三間、本瓦葺の規模をもつ。慶長期の城郭建築の様式を残す初期の典型として価値が高く、昭和8年(1933年)1月23日に国の重要文化財に指定された。福山城内に現存し、特別公開が行われることもある。

🕰 時代江戸時代(元和年間)
🏛 成立・築造元和8年(1622年)水野勝成の福山城築城時に伏見城から移築。国指定重要文化財(昭和8年=1933年1月23日指定)
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目(福山城内)
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福山城

近世(江戸) / 📍丸之内

備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御門は京都伏見城からの移築と伝わる。2022年に築城400年を迎えた。

🕰 時代近世(江戸)
🏛 成立・築造1622年(元和8)・水野勝成
👤 関連水野勝成・阿部正弘
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目8
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福山城博物館

近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期) / 📍福山駅前(福山市街)

水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩の歴史を体験型展示で伝える博物館 福山城博物館は、JR福山駅のすぐ北に建つ福山城天守内に置かれた市立の歴史資料館です。福山城は1622年(元和8年)、徳川譜代の大名・水野勝成が西国鎮衛の拠点として築いた近世城郭で、天守は1931年に国宝に指定されました。しかし1945年8月の福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリート造で外観が復興され、その内部が博物館として公開されました。2022年には築城400年に合わせて大規模リニューアルされ、北面の鉄板張り(黒い装い)の再現や、一番槍レース・火縄銃などの体験型コンテンツ、デジタル映像を用いた展示が整えられ、福山城と福山藩の歴史を学べる施設となっています。城内に現存する伏見櫓と筋鉄御門は、京都・伏見城からの移築と伝えられ、国の重要文化財に指定されています。常設展は有料、月曜休館とされます。

🕰 時代近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)
🏛 成立・築造福山城は1622年(元和8年)に初代福山藩主・水野勝成が築城。天守は1945年福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリートで外観復興、内部を博物館として開館。2022年に大規模リニューアル
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目8番
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鞆の津の町並み(重伝建)

江戸時代(中世〜近代の建造物群) / 📍鞆の浦

潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と町家が一体で残る重伝建地区 鞆の浦は瀬戸内海の中央に位置し、古来「潮待ちの港」として栄え、万葉集にも詠まれた歴史を持つとされる。江戸時代には北前船など廻船の寄港地として繁栄し、朝鮮通信使の寄港地ともなった。2017年(平成29年)11月28日、「福山市鞆町伝統的建造物群保存地区」として約8.6ヘクタールが国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。範囲は鞆字西町の全域を中心に、石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地の一部に及ぶ。中世から江戸期に整えられた地割の上に、江戸時代から昭和30年代までの町家や寺社、石垣などが一体的に残る近世港町の景観が評価された。常夜燈・雁木・波止・焚場・船番所の5つの港湾施設がほぼ完全に残る点は全国でも稀とされる。広島県内では3例目の選定で、2018年には日本遺産にも認定された。

🕰 時代江戸時代(中世〜近代の建造物群)
🏛 成立・築造2017年(平成29年)11月28日に国の重要伝統的建造物群保存地区へ選定。地割は中世〜江戸期、建造物は江戸時代〜昭和30年代まで。
📍 所在地広島県福山市鞆町(鞆字西町全域ほか、字石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地字古城跡・草谷の各一部)
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鞆の浦の常夜燈と港湾施設

江戸時代 / 📍鞆の浦

江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯一の近世港、鞆港。 鞆の浦の鞆港には、常夜燈・雁木・波止・焚場(たでば)・船番所という江戸時代の港湾施設5点がほぼ揃って現存し、これらが一体で残るのは全国でも鞆港のみとされる。シンボルの常夜燈は安政6年(1859)の刻銘をもつ石造灯台で、海中の基礎石から宝珠の頂までは約12.1mに及び、江戸期の石造常夜燈としては国内最大級とされる。雁木は潮の干満に応じて船を着けられる階段状の船着き場で、半円形の港内に連続して巡らされている。波止は花崗岩を積んだ全長約146mの防波堤で、江戸後期に築かれ明治期に修築された。鞆港を含む沿岸と沖の島々一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定され、鞆町西町を中心とする区域は2017年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。日本遺産「瀬戸の夕凪が包む 国内随一の近世港町」の構成要素でもある。

🕰 時代江戸時代
🏛 成立・築造常夜燈は安政6年(1859)造立とされる。雁木・波止・焚場・船番所は江戸後期築造、波止は明治期に修築。鞆港一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定。
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆
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福山市鞆の浦歴史民俗資料館

近代(昭和) / 📍鞆の浦

鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬戸内の歴史・民俗を伝える市立資料館 福山市鞆の浦歴史民俗資料館は、広島県福山市鞆町後地に建つ市立の博物館で、「潮待ちの館」の愛称で親しまれる。1977年(昭和52年)からの地元有志による調査・収集活動を背景に、福山市制70周年記念事業として1988年(昭和63年)に開館した。立地は、福島正則が築いたとされる鞆城跡(福山市指定史跡)の高台で、瀬戸内海を見渡せる。万葉の時代から潮待ち・風待ちの港として栄えた鞆の浦を中心に、古代から近世にいたる歴史資料を展示。鯛網漁のジオラマや錨を製造した鍛冶場、朝鮮通信使関連資料、保命酒に関する資料に加え、お手火神事・お弓神事といった地域の民俗文化財も常設展示する。鞆の歴史と暮らしを総合的に学べる拠点とされる。

🕰 時代近代(昭和)
🏛 成立・築造1988年(昭和63年)開館。福山市制70周年記念事業として建設。建つ鞆城跡は福島正則が築いたとされる(福山市指定史跡)
📍 所在地広島県福山市鞆町後地536-1
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太田家住宅

江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期) / 📍鞆の浦

鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で、国の重要文化財 鞆の浦を代表する歴史的建造物で、薬用酒「保命酒」の醸造で財を成した商家の旧宅。もとは大坂の漢方医を出自とする中村家の屋敷で、明暦元年(1655年)に鞆へ移り住み、まもなく十六味地黄保命酒の製造・販売を始めて大ヒットし、福山藩の御用名酒屋として販売独占権を得たとされる。明治期に廻船業を営んだ太田家が継承し、現在の名で呼ばれる。主屋を中心に保命酒蔵や各種土蔵など九棟が建ち並び、建築年代は18世紀中期から19世紀前期に及ぶ。瀬戸内の商家建築を伝える貴重な遺構として、1991年に国の重要文化財に指定された。幕末には三条実美ら尊王攘夷派の公卿が立ち寄ったと伝わり、別宅の朝宗亭とともに「鞆七卿落遺跡」として広島県の史跡(1940年指定)にもなっている。

🕰 時代江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)
🏛 成立・築造主屋は18世紀中期、ほか北保命酒蔵が天明8年(1788年)、西蔵が寛政元年(1789年)、東保命酒蔵が寛政7年(1795年)など18世紀中期〜19世紀前期。国の重要文化財指定は1991年(平成3年)5月31日。
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆842
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いろは丸展示館

近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期) / 📍鞆の浦

坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵を活かした資料館 鞆の浦のシンボル常夜灯(とうろどう)のすぐそばに建つ資料館。1867年(慶応3年)、坂本龍馬と海援隊が運航したいろは丸が紀州藩の明光丸と備後灘で衝突・沈没した「いろは丸事件」を伝える施設で、その談判が鞆の浦で行われた縁にちなむ。建物は江戸期に建てられた太い梁が印象的な土蔵で、地元では「大蔵」と呼ばれ、国の登録有形文化財とされる。館内には海底に沈むいろは丸を再現したジオラマ、引き揚げられた陶器や部品、調査風景の写真などを展示し、2階には龍馬が宿泊先で身を潜めたという「隠れ部屋」が再現され、龍馬の蝋人形も置かれている。1989年(平成元年)7月の開館。幕末史と鞆の港町文化を同時に味わえるスポットである。

🕰 時代近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)
🏛 成立・築造1989年(平成元年)7月開館。建物は江戸期築の土蔵「大蔵(浜蔵)」で、国の登録有形文化財とされる。展示題材のいろは丸事件は1867年(慶応3年)
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆843-1
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仙酔島

古代(地質)/近代(指定) / 📍鞆の浦

鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連なる瀬戸内海国立公園の名勝 仙酔島は鞆の浦の沖合に浮かぶ周囲約6キロの島で、住所は福山市鞆町後地。鞆港から市営渡船で約5分の距離にあり、観光客の往来はあるが定住者のいない無人島とされる。1925年(大正14年)に国の名勝「鞆公園」の一部として指定され、1934年(昭和9年)には日本で最初に指定された国立公園・瀬戸内海国立公園に含まれた。島は約9000万年前の大規模な火山活動による溶結凝灰岩を主体とし、南側海岸には青・赤・黄・白・黒の岩が200メートル以上連なる「五色岩」が見られ、地質的に貴重とされる。「仙人が酔うほど美しい島」が名の由来と言われる。江戸後期の学者・頼山陽が当地の景観を「山紫水明」と評したとも伝わる。

🕰 時代古代(地質)/近代(指定)
🏛 成立・築造1925年(大正14年)国名勝「鞆公園」に指定。1934年(昭和9年)日本初の国立公園・瀬戸内海国立公園に編入。島自体は約9000万年前の火山活動で形成されたとされる
📍 所在地広島県福山市鞆町後地
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吉備津神社(備後一宮)

江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる / 📍新市・北部

備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で「いっきゅうさん」と親しまれる古社 福山市新市町宮内に鎮座する備後国一宮で、地元では「一宮さん(いっきゅうさん)」と親しまれる。社伝では大同元年(806年)に吉備国の吉備津神社から勧請し創建されたと伝わるが、延喜式神名帳に記載がないことなどから実際の成立はより後とする説もある。主祭神は吉備国を治めたとされる大吉備津彦命。現在の本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が旧規模にならい造営したもので、桁行七間・梁間四間の入母屋造檜皮葺、国の重要文化財に指定されている。ほかにも木造狛犬や太刀などが重要文化財として伝えられ、複数の建造物が広島県・福山市指定文化財となっている。隣接する櫻山城跡なども史跡として知られ、備後の信仰と歴史を今に伝える。

🕰 時代江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる
🏛 成立・築造本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が造営、国の重要文化財。創建は大同元年(806年)と伝わるが諸説ある
📍 所在地広島県福山市新市町宮内400
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素盞嗚神社(備後一宮)

飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮 / 📍新市・北部

祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏のけんか神輿で名高い古社 福山市新市町戸手に鎮座する素盞嗚神社は、『延喜式神名帳』に載る式内社で備後国一宮を称し、旧社格は県社です。主祭神は素盞嗚尊で、稲田姫命・八王子を配祀します。社伝では天武天皇の治世、7世紀ごろ(679年か)の創建とされます。『釈日本紀』所収の「備後国風土記」逸文に伝わる蘇民将来説話の舞台「疫隈国社」と結びつけられ、茅の輪くぐりや祇園信仰・祇園祭発祥の地の一つとされています。神仏習合期には牛頭天王を祀り、遣唐使・吉備真備が734年に当社から播磨の広峯神社へ勧請したとも伝わります。毎年7月の例祭では、勇壮なけんか神輿(神輿合わせ)が行われることで知られます。

🕰 時代飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮
🏛 成立・築造社伝では天武天皇期の7世紀ごろ(679年か)創建とされる。『延喜式神名帳』記載の式内社で、旧県社
📍 所在地広島県福山市新市町大字戸手1-1

福山の祭り文化の起源と背景

福山城
福山城(画像:Wikimedia Commons / CC)

福山の祭りを理解するうえでまず押さえておきたいのは、この地域が古代から「祇園信仰(ぎおんしんこう)」と深い関わりをもってきたという点です。祇園信仰とは、疫病をはらう神として知られる牛頭天王(ごずてんのう)、そして神話に登場する須佐之男命(すさのおのみこと)を祀り、夏に流行する疫病から人びとを守ってもらおうとする信仰です。京都の八坂神社で行われる祇園祭が全国的によく知られていますが、その源流をめぐっては各地にさまざまな伝承があり、福山の地もその物語の一端に深く関わっているとされています。

夏は古来、人びとにとって最も病が広がりやすい季節でした。高温多湿のなか、食べ物は傷みやすく、水は濁り、疫病がしばしば人びとの命を奪いました。医学が未発達だった時代、人びとは目に見えない災いの正体を「神」や「鬼」のしわざと考え、神の力にすがって災いを退けようとしました。福山に伝わる夏の祭りの多くが、無病息災・疫病退散を中心の願いとしているのは、こうした切実な背景があったからです。鞆の浦のお手火神事も、新市町の祇園祭も、その根底には「夏を無事に越したい」という人びとの祈りが流れています。

一方で、福山の祭りには疫病退散の祈りだけでなく、海の安全を願う港町ならではの信仰や、城下町で育まれた芸能、田畑の実りに感謝する農村の行事など、土地の暮らしに根ざした多様な要素が混じり合っています。鞆の浦は瀬戸内海航路の要衝として古くから栄えた港町であり、潮の満ち引きを待って船が行き交う「潮待ちの港」として知られてきました。海を生業とする人びとにとって、航海の無事は何より大切な願いであり、その願いが火祭りという形をとって受け継がれてきたと考えられています。

こうした祭りの土台が形づくられた背景には、福山の歴史そのものがあります。古代の備後国の中心地のひとつとして栄えた地域、中世に瀬戸内交易で栄えた港、そして江戸時代初期に水野勝成が築いた福山城下町という重層的な歴史が、それぞれの土地に固有の祭りを育てました。福山という都市の歩み全体については、福山の歴史を通史でたどるガイドでも詳しく紹介しています。祭りはその歴史の節目節目に人びとが寄せた願いの結晶であり、地域の記憶を今に伝える生きた文化財なのです。

鞆の浦・沼名前神社とお手火神事の由来

福山の祭りのなかでもとりわけ古い由緒をもつのが、鞆の浦に鎮座する沼名前神社の「お手火神事」です。沼名前神社は「ぬなくまじんじゃ」と読み、平安時代に編まれた律令の施行細則『延喜式(えんぎしき)』の神名帳にも記載されている、いわゆる式内社(しきないしゃ)にあたる古社とされています。延喜式神名帳には備後国沼隈郡の「沼名前神社」として記され、その読みについては「ヌナサキ」「ヌナクマ」の二説が伝わっています。

現在の沼名前神社は、もとは別々の二つの社が合わさった神社です。海の神である大綿津見命(おおわたつみのみこと)を祀る渡守神社(わたすじんじゃ)と、須佐之男命を祀る鞆祇園宮(ともぎおんぐう)が一つになり、明治期に「沼名前神社」として一社にまとめられたと伝わります。このうち、お手火神事と深く結びついているのが、須佐之男命を祀る鞆祇園宮の系譜です。地元では「祇園さん」の愛称で親しまれ、今も鞆の浦の人びとの信仰の中心であり続けています。

鞆祇園宮はもともと鞆の関町に鎮座していましたが、慶長4年(1599年)の火災で焼失し、現在地に遷座したと伝えられています。鞆という地名の由来についても、この神社にまつわる伝承があります。神社側の説明によれば、祇園神の前に「稜威の高鞆(いづのたかとも)」という武具を奉じたことから「鞆」の地名が起こったとされています。地名の由来には諸説あり、確証のある一つの説に断定することはできませんが、神社と土地の名がこれほど深く結びついている例は珍しく、鞆の浦と沼名前神社の関わりの深さを物語っています。

沼名前神社には、もう一つ全国的に知られた宝物があります。境内の能舞台です。この舞台は、もとは京都の伏見城内にあり、豊臣秀吉も愛用したと伝えられる組立式の能舞台で、福山藩初代藩主が将軍から拝領したものとされています。1658年から1660年ごろに神社へ寄進され、1738年に固定式の舞台に改められたと伝わります。現在この能舞台は国の重要文化財に指定されており、桃山時代の文化の薫りを今に伝える貴重な遺構となっています。祭りだけでなく、こうした文化財の面からも、沼名前神社は福山を代表する古社のひとつといえるでしょう。

お手火神事の歩み――火と水の壮絶な火祭り

鞆の浦の港と町並み
鞆の浦の港と町並み(画像:Wikimedia Commons / CC)

お手火神事は、沼名前神社の祭神・須佐之男命を祀る祇園宮の祭礼に先立って行われる神事です。港町・鞆の浦の航海の安全と、町民の無病息災を願って始められたと伝えられています。江戸時代から続くとされるこの神事は、鞆の浦を代表する火祭りであり、日本遺産に認定された鞆の浦の構成文化財の一つにも数えられています。福山市の指定無形民俗文化財にも指定されており、地域をあげて守り伝えられてきました。

神事の主役となるのが、「お手火」と呼ばれる巨大な松明(たいまつ)です。神の木とされるムロの木や松、青竹で作られたお手火は、長さおよそ4メートル、重さは約200キロにもおよぶと伝えられています。この巨大な火の塊を、若衆たちが水をかぶりながら担ぎ、神社の随身門から拝殿、そして本殿を目指して石段を少しずつ持ち上げていくのです。火の粉が舞い散るなか、担ぎ手は交代を繰り返しながら、豪快かつ慎重に時間をかけて進んでいきます。炎の熱と水しぶき、男たちの掛け声が一体となった光景は、見る者を圧倒する迫力に満ちています。

お手火神事は、毎年7月の第2日曜日の前夜に行われるのが習わしとされています。夏祭りの本祭である神輿渡御祭に先立ち、まず火によって場を清め、悪疫をはらうという意味が込められているといわれます。火は古来、けがれを焼きはらい、災いを退ける力をもつと信じられてきました。お手火が石段を上りきり、その火が拝殿にともされることで、祭りの神聖な場が整えられるのです。火と水という相反する力をぶつけ合いながら神事を成し遂げるその姿には、自然の脅威と向き合いながら生きてきた港町の人びとの祈りと覚悟が映し出されています。

担ぎ手にとって、お手火神事は並大抵のことではありません。200キロ近い重さの燃え盛る松明を、火傷の危険を覚悟しながら担ぐのですから、相当の体力と気力、そして仲間との息の合った連携が求められます。だからこそ、この神事を担うことは鞆の浦の男たちにとって名誉であり、地域の絆を確かめ合う大切な機会ともなってきました。世代から世代へと担ぎ手が受け継がれていくなかで、神事そのものが地域の連帯を生み出す装置として機能してきたといえるでしょう。

鞆の浦は、瀬戸内海の潮の流れが分かれる地点に位置し、潮の満ち引きを待って船が出入りする「潮待ちの港」として、古代から多くの船人や商人が行き交いました。海に生きる人びとにとって、ひとたび海に出れば命の保証はなく、無事に港へ帰ることは何にもまさる願いでした。お手火神事が航海の安全を祈る神事として始まったと伝えられるのも、こうした港町の暮らしと深く結びついているからです。今も古い町並みが残る鞆の浦については、鞆の浦の街並みガイドでくわしく紹介しています。

二上りおどりの起源――江戸から伝わった踊り

鞆の浦の火祭りが海と信仰の祭りだとすれば、福山城下の夏を彩るのが、軽快な三味線の音に乗って踊られる「二上りおどり(にあがりおどり)」です。二上りおどりは広島県福山市に伝わる盆踊りの一種で、毎年お盆の時期、8月13日・14日・15日の3日間にわたって開催される「福山夏まつり」を代表する踊りとして知られています。福山駅前の大通りや久松通りを舞台に、大勢の踊り手が連をつくって練り歩く光景は、福山の夏の風物詩となっています。

「二上り」という名は、三味線の調弦法に由来します。三味線の二の糸を一音上げた調子を「二上り」と呼び、明るく華やかな響きが特徴です。二上りおどりは、この三味線の二上りを基調に、胡弓(こきゅう)の三下り、尺八の合奏を合わせた音色に乗せて踊られます。踊り手は、ステップを踏むごとに「四つ竹(よつだけ)」という小さな竹の打楽器を手にして拍子をとります。三味線、胡弓、尺八という和楽器のしっとりとした音色と、四つ竹の小気味よい音が重なり合い、独特の風情を生み出すのです。

二上りおどりの起源については、確かなことははっきりしていません。一般には、二上り節が流行した文化文政(ぶんかぶんせい)の時代、すなわち1790年代から1830年代ごろに、江戸詰めの備後福山藩士たちによって江戸から伝えられたと言われています。参勤交代の制度のもと、福山藩の武士たちは江戸と国元を行き来していました。江戸で流行していた粋な踊りや音曲が、こうした往来を通じて福山の地にもたらされ、やがて土地の盆踊りとして根づいていった――そうした道筋が伝えられています。ただし起源には諸説あり、一つの説に確定することはできません。

二上りおどりは、当初は頭に折笠や頬かむりをし、手にうちわを持って踊られていたと伝わります。唄はなく、楽器の音にあわせて踊るものだったともいわれます。それが年月を経るなかで、踊り手によってさまざまなアレンジが加えられていきました。かぶりものは折笠から鉢巻や手拭へと変わり、地方(じかた、伴奏の人びと)には鉦(かね)や太鼓が加えられていきました。手に持つ道具も、昭和3年(1928年)以降はうちわから四つ竹へと代わったと伝えられています。こうした変化を重ねながら、二上りおどりは時代ごとの人びとの感性を取り込んで進化してきたのです。

二上りおどりは、その文化的な価値が認められ、1961年(昭和36年)4月18日に広島県の無形文化財(のちの無形民俗文化財)に指定されています。地域に古くから伝わる踊りが、行政によって正式に保護の対象とされたことは、二上りおどりが単なる娯楽ではなく、守り伝えるべき郷土の文化遺産として位置づけられたことを意味します。なお、福山市内には神辺地区に伝わる「神辺二上り踊り(かんなべにあがりおどり)」という別系統の踊りもあり、こちらも地域の伝統として受け継がれています。同じ「二上り」の名を冠しながらも、それぞれの土地で異なる味わいをもって伝えられている点は、福山の祭り文化の奥行きを感じさせます。

二上りおどりの歩み――戦災を越えて受け継がれた踊り

福山ばら公園(「ばらのまち福山」の象徴)
福山ばら公園(「ばらのまち福山」の象徴)(画像:Wikimedia Commons / CC)

二上りおどりの歴史を語るうえで、避けて通れないのが太平洋戦争末期の福山空襲です。昭和20年(1945年)8月8日の夜、福山の市街地はアメリカ軍のB29爆撃機による大規模な空襲を受け、中心市街地の大部分が焼け野原となりました。1000人を超える犠牲者が出たと伝えられ、城下町以来の町並みも、人びとの暮らしも、一夜にして失われてしまいました。福山城の天守もこの空襲で焼失し、戦後に再建されたものです。

こうした壊滅的な打撃のなかで、二上りおどりもまた一時その姿を消しかけました。しかし、焼け跡から立ち上がろうとする人びとにとって、慣れ親しんだ踊りは心のよりどころでもありました。戦後、二上りおどりは人びとの手によってふたたび踊られるようになり、復興していく福山のまちとともに息を吹き返していきます。荒廃した暮らしのなかで、夏になればまた踊りの輪ができる――その営みの再開は、人びとに「日常が戻ってきた」という確かな実感をもたらしたことでしょう。

復興の歩みのなかで、二上りおどりは「福山夏まつり」の中心的な催しとして定着していきました。お盆の3日間、福山駅前の大通りを多くの連が華やかに踊り進む姿は、戦後の福山が培ってきた平和な日常そのものを象徴しています。バラのまちとして知られる福山は、戦災からの復興の願いを込めてバラを植え育ててきた歴史をもちますが、二上りおどりもまた、失われたものを取り戻し、未来へつないでいこうとする市民の思いと響き合いながら歩んできました。

近年では、新型コロナウイルスの感染拡大の影響で福山夏まつりが規模を縮小したり中止を余儀なくされたりする年もありました。しかし、感染状況が落ち着くと、二上りおどりは数年ぶりの本格的な復活を遂げ、ふたたび大通りに踊りの輪が戻ってきました。長い歴史のなかで、戦災や疫病といったさまざまな困難に直面しながらも、そのたびに人びとの手によって踊り継がれてきた二上りおどり。その姿は、伝統文化が「続けようとする人びとの意志」によってこそ守られるものであることを教えてくれます。

二上りおどりの継承には、若い世代の参加も欠かせません。地域の保存会や学校、企業、団体などがそれぞれ連を組んで参加し、踊りの所作や囃子を次の世代へと伝えています。年配の踊り手から若者へと手ほどきがなされ、家族で世代を超えて同じ踊りを踊る光景も見られます。こうした地道な継承の積み重ねがあってこそ、二上りおどりは生きた伝統として今日まで残ってきたのです。

新市町・素盞嗚神社と祇園信仰の伝承

福山の北部、新市町戸手(しんいちちょうとで)に鎮座する素盞嗚神社は、福山の祭り文化のなかでも特別な重みをもつ古社です。主祭神は素盞嗚尊(すさのおのみこと)で、配神として稲田姫命(いなだひめのみこと)や八王子が祀られています。創建は古く、天武天皇の治世であった7世紀ごろ、679年頃に創建されたとも伝えられています。『延喜式』神名帳に記される式内社であり、備後国一宮(びんごのくにいちのみや)を称する格式の高い神社です。

この神社が全国的に注目されるのは、祇園信仰・祇園祭の発祥の地のひとつとされているからです。素盞嗚神社はかつて「江熊(えのくま)祇園牛頭天王社」と呼ばれていたと伝わり、疫病をはらう牛頭天王・須佐之男命を祀る祇園信仰の重要な拠点でした。地元では、この地から京都の祇園祭や博多の祇園山笠へと祇園信仰が広まっていったとする伝承が語られています。祇園祭の発祥をめぐっては各地に伝承があり、確定的に一か所に断定することはできませんが、備後の地が古くから祇園信仰の中心地のひとつであったことは、史料の上からもうかがえます。

素盞嗚神社を語るうえで欠かせないのが、「蘇民将来(そみんしょうらい)」の伝承です。この説話は、奈良時代に編まれた『備後国風土記(びんごのくにふどき)』の逸文として伝わっているもので、茅の輪くぐりの起源とされる物語として広く知られています。物語のあらすじはおおむね次のようなものです。旅をしていた武塔神(むとうのかみ)という神が、一夜の宿を求めて二人の兄弟のもとを訪ねました。裕福な弟の巨旦将来(こたんしょうらい)は宿を貸すことを断りましたが、貧しい兄の蘇民将来は、乏しいなかにも心を尽くして神をもてなしました。

のちにこの神は、自らが須佐之男命であることを明かし、蘇民将来の子孫に対して「茅の輪を腰につければ疫病から逃れられる」と教えたと伝わります。やがて疫病が流行したとき、教えのとおり茅の輪を身につけていた蘇民将来の一族だけが災いをまぬがれた――この物語が、夏越の祓(なごしのはらえ)などで今も各地の神社に伝わる「茅の輪くぐり」の起源とされています。『備後国風土記』逸文では、この舞台となった社が「疫隈国社(えのくまのくにつやしろ)」と記されており、素盞嗚神社がその社にあたると伝えられています。なお、その比定をめぐっては学術的な議論もあり、本社か関連する社かについては諸説あります。境内には、神をもてなさなかった巨旦将来の屋敷跡と伝わる場所もあるとされています。

このように、素盞嗚神社は単なる一地域の神社にとどまらず、日本各地に広がる祇園信仰や茅の輪くぐりの源流を物語る、信仰史の上でも重要な古社なのです。祭りの背景にこうした古代以来の伝承が息づいているという事実は、新市町の祇園祭に独特の奥行きを与えています。

素盞嗚神社の祇園祭とけんか神輿の歴史

素盞嗚神社の祇園祭は、毎年7月に行われる夏の大祭です。この祭りのクライマックスを飾るのが、「けんか神輿(あばれ神輿)」と呼ばれる勇壮な神事です。祭りの最終日の夜、それぞれの地域を巡行してきた3基の神輿が神社の境内に集まり、神輿どうしを激しくぶつけ合う「神輿合わせ」が繰り広げられます。担ぎ手たちが声を張り上げ、何百人もの力が一体となって神輿をぶつけ合うさまは、見る者の心を揺さぶる迫力に満ちています。

神輿を荒々しくぶつけ合うのは、単なる威勢のよさや勝負ごとのためではありません。神輿を激しく揺さぶり、ぶつけ合うことで神の霊威を高め、その荒ぶる力によって疫病や災厄を退け、地域に活力をもたらすという信仰がその背景にあると伝えられています。荒々しく振る舞う「あばれ」のなかにこそ、神を喜ばせ、災いをはらう祈りが込められているのです。けんか神輿は、祇園信仰の本質である疫病退散の願いを、もっとも激しく、もっとも身体的な形で表現した神事といえるでしょう。

素盞嗚神社の祇園祭そのものは、神社の長い歴史とともに古くから続いてきたとされ、平安時代にさかのぼるとも、1100年から1200年に及ぶ歴史をもつとも語られています。そのなかで、現在のように神輿をぶつけ合う「けんか神輿」の形が定着したのは、300年以上前のことと伝えられています。神を喜ばせるために神輿を勢いよくぶつけ合う風習が、長い年月のなかで祭りの中心的な見どころとして育っていったのです。年代や経緯には諸説あり、正確な始まりを一点に定めることは難しいものの、何世代にもわたって地域の人びとがこの神事を守り続けてきたことは確かです。

けんか神輿には、新市・中津原・戸手(戸手・相方)といった地域から、それぞれ大勢の担ぎ手が参加すると伝えられています。各地区がそれぞれの誇りをかけて神輿を担ぎ、境内でぶつかり合うこの神事は、地域どうしの結びつきと競い合いの精神を今に伝えています。一つの神輿を担ぐには多くの人手が必要であり、祭りの準備から当日の運行まで、地域ぐるみの協力なしには成り立ちません。けんか神輿は、神への祈りであると同時に、地域共同体の絆を確かめ、世代を超えて受け継いでいく場ともなっているのです。

祭りの当日には、お旅山(おたびやま)への巡行や、夜空を彩る花火、参道に並ぶ夜店など、さまざまな催しが繰り広げられます。地域の人びとはもちろん、近年では市内外から多くの見物客が訪れ、新市町の夏を熱気で包みます。古代以来の祇園信仰と蘇民将来の伝承を背景にもつこの祭りは、信仰の深さと祭りの華やかさをあわせもつ、福山を代表する夏祭りのひとつとなっています。

福山城下町の祭りと社寺の信仰

三つの代表的な祭りのほかにも、福山には城下町ならではの祭りや社寺の年中行事が数多く伝えられています。福山城は、江戸時代初期の元和年間に、徳川家康の従弟にあたる水野勝成が築いた近世城郭です。水野勝成は、それまで小さな漁村や農村が点在していた福山の地に城を築き、町割りを定め、瀬戸内に開けた一大城下町をつくり上げました。城下町が整えられるなかで、人びとの暮らしを支える社寺も整備され、それぞれに祭礼が営まれるようになっていきました。福山城そのものの歴史については、福山城ガイドでくわしく紹介しています。

城下町の祭りには、武家の文化と町人の文化が混じり合った独特の雰囲気がありました。前述の二上りおどりが江戸詰めの藩士によって伝えられたとされるのも、城下町という土地柄あってのことです。参勤交代を通じて江戸と国元を往来した武士たちは、最新の流行や芸能を福山にもたらす媒介者の役割を果たしました。一方で、商人や職人といった町人たちは、自分たちの祭りや踊りに新しい要素を取り込みながら、独自の祭礼文化を育てていきました。こうして城下町の祭りは、さまざまな階層の人びとの営みが重なり合うなかで形づくられていったのです。

福山城下を中心とする一帯は、近代以降は産業都市として大きく発展しました。明治期以降、繊維産業や鉄鋼業が興り、人口も増え、まちは大きく姿を変えていきました。鉄のまち福山として知られるようになるのも、こうした近代化の歩みのなかでのことです。産業の発展とともに人口が増えると、祭りもまた多くの人びとが参加する大規模なものへと変わっていきました。二上りおどりが福山夏まつりの中心として大勢の市民を集めるようになった背景には、こうした都市の成長があります。祭りは、その土地の経済や社会の変化を映し出す鏡でもあるのです。

福山の社寺には、年間を通じてさまざまな行事が営まれています。正月の初詣、節分、春や秋の例祭、夏の祇園会や夏越の祓、そして年末の行事まで、季節の節目ごとに人びとは社寺に集い、祈りを捧げてきました。沼名前神社では、お手火神事のほかにも、旧正月に悪鬼を射はらう「お弓神事(おゆみしんじ)」など、福山藩ゆかりの古社にふさわしい神事が今も受け継がれています。こうした一年を通じた祭礼の積み重ねが、福山の地域社会のリズムをつくり、人びとの暮らしに節目と彩りを与えてきました。

祭りと地域産業――備後絣や松永の下駄との関わり

福山の祭りは、地域の産業や暮らしの文化とも深く結びついてきました。祭りに欠かせない衣装や履物、道具などは、いずれもその土地で育まれた手仕事の産物であり、地域の産業の歴史を抜きにしては語れません。たとえば、福山地方を代表する織物である備後絣(びんごがすり)は、福山の人びとの暮らしを支えてきた伝統産業のひとつです。藍染めの落ち着いた風合いをもつ備後絣は、かつて庶民の普段着や仕事着として広く用いられ、祭りや盆踊りの場でもなじみ深い装いでした。

盆踊りである二上りおどりにおいても、揃いの浴衣や法被に身を包んだ踊り手たちが連をつくって踊る姿は、福山の祭りの華やかさを象徴しています。地域の織物文化と祭りの装いは、互いに支え合いながら発展してきたといえるでしょう。手仕事で織られた布、染められた色合いには、その土地の風土と人びとの美意識が込められています。祭りの装いを通じて、地域の産業文化が今に伝えられている点も見逃せません。

また、福山市松永地区は古くから下駄の一大産地として知られてきました。松永の下駄は、全国的にも名高い福山の地場産業のひとつです。浴衣に下駄という装いは、日本の夏祭りの定番の姿であり、祭りの場で鳴る下駄の音は、夏の風情を引き立てる大切な要素でもありました。祭りという非日常の場は、こうした地域の産品が活躍する舞台でもあったのです。祭りと産業は、それぞれ別々に存在していたのではなく、人びとの暮らしのなかで密接に結びつき、互いを支え合いながら福山の文化を形づくってきました。

このように、福山の祭りを深く知ろうとすると、必ずその土地の産業や暮らしの歴史に行き着きます。火祭りの松明をつくる人、神輿を担ぐ若衆、三味線を奏でる地方、揃いの衣装を仕立てる職人――数えきれない人びとの手仕事と協力があってはじめて、一つの祭りは成り立っています。祭りは地域の総力の結晶であり、だからこそ地域のアイデンティティを最も色濃く映し出す文化なのです。

現在に受け継がれるもの――保存と継承の取り組み

福山の祭りは、いずれも単なる過去の遺産ではなく、今を生きる人びとの手によって現在進行形で守られ、受け継がれている生きた文化です。沼名前神社のお手火神事は福山市の指定無形民俗文化財として、二上りおどりは広島県の無形民俗文化財として、それぞれ行政の保護の対象に位置づけられています。文化財としての指定は、その祭りが地域にとってかけがえのない価値をもつことの社会的な証であると同時に、後世へ確実に伝えていくための制度的な裏づけでもあります。

しかし、制度だけで祭りが守られるわけではありません。実際に祭りを支えているのは、保存会や地域の人びと、神社の関係者、そして毎年祭りを楽しみに参加する一人ひとりです。担ぎ手の確保、囃子や踊りの伝承、道具や衣装の維持、運営の担い手の育成――現代の祭りは、少子高齢化や人口減少、生活様式の変化といったさまざまな課題に直面しながら、それでも続けようとする人びとの努力によって支えられています。お手火神事のような体力を要する神事では、若い担ぎ手の確保が大きな課題であり、地域をあげての取り組みが続けられています。

二上りおどりにおいても、戦後に復活させた先人たちの思いを受け継ぎ、若い世代に踊りや囃子を伝えていく取り組みが続けられています。学校教育の場で郷土の踊りを学んだり、地域のイベントで披露したりと、日常のなかに祭りの文化を組み込んでいく工夫もなされています。こうした地道な活動の一つひとつが、伝統を未来へつなぐ確かな力となっています。伝統は、ただ放っておいて残るものではなく、それを大切に思い、続けようとする人びとの意志があってはじめて受け継がれていくものなのです。

近年では、福山の祭りは地域住民だけのものにとどまらず、観光資源としても注目されています。鞆の浦は日本遺産にも認定され、お手火神事はその構成文化財のひとつとして、国内外の観光客に向けて発信されています。素盞嗚神社のけんか神輿や福山夏まつりの二上りおどりも、多くの来訪者を惹きつける夏の風物詩となっています。祭りを通じて地域の魅力を広く発信することは、地域の活性化にもつながります。一方で、観光化が進むなかでも、祭りの本来の意味や信仰の心を見失わないようにすることが大切だといえるでしょう。

福山の祭りに関する年表

福山の祭りと、その背景となる出来事の主な流れを年表にまとめます。年代や経緯には諸説あるものも含まれるため、目安としてご覧ください。

福山の祭りの楽しみ方と関連スポット

福山の祭りを訪ねるなら、それぞれの祭りの開催時期に合わせて計画を立てるのがおすすめです。鞆の浦・沼名前神社のお手火神事は、毎年7月の第2日曜日の前夜に行われるのが習わしとされています。炎が石段を上っていく壮絶な光景は、ぜひ実際に足を運んで体感したいものです。お手火神事を訪れる際は、あわせて鞆の浦の古い町並みもめぐってみてください。鞆の浦の街並みガイドを参考に、潮待ちの港として栄えた歴史ある町を散策すれば、お手火神事が育まれた背景がいっそう深く感じられるはずです。

二上りおどりを楽しむなら、お盆の時期、8月13日から15日にかけて開催される福山夏まつりがねらい目です。福山駅前の大通りに踊りの輪が広がり、三味線や四つ竹の音が夜の街に響きます。福山駅からほど近い福山城とあわせて訪れれば、城下町の歴史と祭りの華やぎを一日で味わうことができます。揃いの浴衣や法被をまとった踊り手たちの姿には、地域に伝わる織物文化や松永の下駄といった手仕事の伝統も垣間見られるでしょう。

素盞嗚神社の祇園祭・けんか神輿は、毎年7月に新市町戸手で行われます。神輿どうしが激しくぶつかり合う神事は迫力満点で、お旅山への巡行や花火、夜店なども楽しめます。祇園信仰や蘇民将来の伝承に思いを馳せながら参拝すれば、祭りの背景にある古代以来の信仰の深さを感じることができるでしょう。それぞれの祭りは、福山の重層的な歴史の異なる側面を映し出しています。三つの祭りをめぐることで、海の港町・城下町・古社の里という福山の多様な顔にふれることができます。福山の歴史全体を見渡したい方は、福山の歴史を通史でたどるガイドもあわせてご覧ください。

祭りを訪れる際には、いくつか心がけたいこともあります。お手火神事やけんか神輿は火や大勢の人を伴う勇壮な神事ですので、見物の際は係員の指示に従い、安全な場所から見守ることが大切です。また、いずれの祭りも地域の人びとが信仰の心をもって営む神事であることを忘れず、敬意をもって参加・見物したいものです。開催日時や内容は年によって変わることがあり、天候や社会情勢によって中止・変更となる場合もあります。訪れる前には各神社や福山市の公式情報で最新の日程を確認しておくと安心です。

よくある質問(FAQ)

Qお手火神事はいつ、どこで行われますか?
A

お手火神事は、鞆の浦に鎮座する沼名前神社(ぬなくまじんじゃ)で行われます。毎年7月の第2日曜日の前夜に行われるのが習わしとされています。鞆の浦を代表する火祭りで、日本遺産に認定された鞆の浦の構成文化財のひとつにも数えられています。開催日時は年によって変わることがあるため、訪れる前に公式情報をご確認ください。

Qお手火とはどのようなものですか?
A

お手火は、神の木とされるムロの木や松、青竹で作られた巨大な松明です。長さはおよそ4メートル、重さは約200キロにもおよぶと伝えられています。この巨大な火の塊を、若衆たちが水をかぶりながら担ぎ、神社の石段を本殿目指して持ち上げていきます。火と水がせめぎ合う壮絶な光景が、この神事の最大の見どころです。

Q沼名前神社はどのような神社ですか?
A

沼名前神社は、平安時代の『延喜式』神名帳に記される式内社とされる古社です。海の神・大綿津見命と、須佐之男命を祀り、須佐之男命を祀る系譜は「鞆祇園宮」「祇園さん」として親しまれてきました。境内には、豊臣秀吉も愛用したと伝わる能舞台があり、国の重要文化財に指定されています。

Q二上りおどりとはどのような踊りですか?
A

二上りおどりは、広島県福山市に伝わる盆踊りの一種です。三味線の「二上り」という調子を基調に、胡弓や尺八の音色にあわせ、四つ竹という竹の打楽器で拍子をとりながら踊ります。お盆の8月13日から15日の福山夏まつりで踊られ、福山の夏の風物詩となっています。1961年に広島県の無形文化財に指定されています。

Q二上りおどりの起源はいつ頃ですか?
A

起源ははっきりしていませんが、一般には、文化文政の時代(1790年代から1830年代ごろ)に、江戸詰めの備後福山藩士たちによって江戸から伝えられたと言われています。参勤交代を通じて江戸の流行が福山にもたらされ、土地の盆踊りとして根づいたと伝わります。ただし起源には諸説あります。

Q「二上り」とはどういう意味ですか?
A

「二上り」は三味線の調弦法のひとつです。二の糸を一音上げた調子を「二上り」と呼び、明るく華やかな響きが特徴です。二上りおどりは、この三味線の二上りを基調にした音色にあわせて踊られることから、この名がつけられたとされています。

Qけんか神輿(あばれ神輿)とは何ですか?
A

けんか神輿は、新市町戸手の素盞嗚神社の祇園祭で行われる勇壮な神事です。祭りの最終日の夜、各地域を巡行してきた3基の神輿が境内に集まり、神輿どうしを激しくぶつけ合う「神輿合わせ」が行われます。神輿を荒々しくぶつけ合うことで神の霊威を高め、疫病や災厄を退けるという信仰がその背景にあると伝えられています。

Qけんか神輿はいつ頃から行われていますか?
A

素盞嗚神社の祇園祭そのものは、神社の長い歴史とともに古くから続いてきたとされ、1100年から1200年に及ぶ歴史をもつとも語られています。現在のように神輿をぶつけ合う「けんか神輿」の形が定着したのは、300年以上前のことと伝えられています。年代や経緯には諸説あります。

Q素盞嗚神社はどのような神社ですか?
A

新市町戸手に鎮座する素盞嗚神社は、素盞嗚尊を主祭神とする古社で、『延喜式』神名帳に記される式内社、備後国一宮を称する格式の高い神社です。創建は7世紀ごろ(679年頃とも)と伝えられています。祇園信仰・祇園祭の発祥の地のひとつとされ、蘇民将来の伝承の舞台としても知られています。

Q蘇民将来の伝承とは何ですか?
A

蘇民将来の伝承は、『備後国風土記』の逸文として伝わる説話で、茅の輪くぐりの起源とされる物語です。旅の神(須佐之男命とされる)をもてなした蘇民将来の子孫が、「茅の輪を身につければ疫病から逃れられる」と教えられ、災いをまぬがれたと伝わります。この物語が、各地の神社で行われる茅の輪くぐりの由来になったとされています。

Q福山には他にどのような祭りがありますか?
A

福山には、本記事で紹介したお手火神事・二上りおどり・けんか神輿のほかにも、沼名前神社のお弓神事(旧正月に悪鬼を射はらう神事)など、各地の社寺でさまざまな祭礼が営まれています。神辺地区には、二上りおどりとは別系統の「神辺二上り踊り」も伝わっています。季節の節目ごとに、福山の各地で多彩な祭りが行われています。

Q福山の祭りは観光客でも楽しめますか?
A

はい、いずれの祭りも地域住民だけでなく、多くの見物客でにぎわう夏の風物詩となっています。お手火神事やけんか神輿は火や大勢の人を伴う勇壮な神事ですので、係員の指示に従い、安全な場所から見守ることが大切です。地域の人びとが信仰の心をもって営む神事であることを忘れず、敬意をもって参加・見物しましょう。開催日時は年によって変わるため、事前に公式情報をご確認ください。

Q福山の祭りは文化財に指定されていますか?
A

はい。沼名前神社のお手火神事は福山市の指定無形民俗文化財で、鞆の浦の日本遺産構成文化財のひとつにも数えられています。二上りおどりは1961年に広島県の無形文化財に指定されています。いずれも地域にとってかけがえのない文化遺産として、保存・継承の取り組みが続けられています。

まとめ――祭りが伝える福山の心

福山の祭りをたどってきて見えてくるのは、この土地が育んできた信仰の深さと、人びとの暮らしの豊かさです。鞆の浦・沼名前神社のお手火神事は、海に生きる港町の人びとが、航海の安全と無病息災を願って炎にこめた祈りです。福山城下を彩る二上りおどりは、江戸から伝わったとされる粋な踊りが、戦災を越えてなお踊り継がれてきた、市民の誇りそのものです。そして新市町・素盞嗚神社のけんか神輿は、古代以来の祇園信仰と蘇民将来の伝承を背景に、神の力で災いをはらおうとする激しくも切実な祈りの表現です。

これらの祭りはいずれも、海の港町、城下町、古社の里という、性格の異なる福山の地域がそれぞれに育んできた文化です。三つの祭りをあわせて見渡すと、福山という都市が単一の歴史ではなく、複数の土地の記憶が重なり合って成り立っていることがよくわかります。祭りは、その土地が何を恐れ、何を願い、何を大切にしてきたのかを、もっとも雄弁に物語る文化遺産なのです。

そして忘れてはならないのは、これらの祭りが今もなお、現在進行形で受け継がれているという事実です。担ぎ手を確保し、囃子や踊りを伝え、道具や衣装を守り、運営を支える――数えきれない人びとの努力があってはじめて、祭りは毎年その姿を現します。福山の祭りは、過去の遺物ではなく、未来へ向かって続いていく生きた文化です。機会があればぜひ実際に足を運び、炎の熱を、踊りのリズムを、神輿のぶつかり合う轟音を、その身で感じてみてください。そこには、福山という土地が長い歴史のなかで紡いできた、人びとの願いと誇りが息づいています。

出典・注意

本記事は、福山市公式ホームページ、沼名前神社・素盞嗚神社の公式情報、日本遺産ポータルサイト、ひろしま文化大百科、各種百科事典、新聞報道などの公開情報をもとに構成しています。お手火神事の規模やお手火の大きさ・重さ、二上りおどりの文化財指定年(1961年)、素盞嗚神社の創建や祇園信仰・蘇民将来の伝承、けんか神輿の概要などは、これらの信頼できる情報源にもとづいて記述しています。

※年代・経緯には諸説ある事項を含みます。詳細は各施設・公式情報や郷土資料でご確認ください。

最終更新: 2026年6月10日

史跡情報は福山NOTE 史跡図鑑(fn_history)より。