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🏯 歴史

ばらのまち福山の歴史|戦災復興から100万本、ローズマインドのまちへ

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ばらのまち福山の歴史|戦災復興から100万本、ローズマインドのまちへ

広島県東部に位置する福山市は、いまや全国に名を知られた「ばらのまち」です。市内のいたるところに花壇が整えられ、毎年五月にはおよそ数十万人が訪れる「福山ばら祭」でまち全体が華やぎます。けれども、この光景は決して最初からあったものではありません。すべては、太平洋戦争末期の大空襲によって市街地のおよそ八割を焼かれた焼け跡から始まりました。荒廃した街に潤いと希望を取り戻そうと、近隣の住民が一本また一本とばらの苗木を植えていったこと――それが「ばらのまち福山」の出発点だったと伝わります。本稿では、戦災復興の小さな一歩から、「100万本のばらのまち」、そして「ローズマインド」という理念へとつながる福山のばらの歩みを、確認できる史実に基づいてたどります。

ばらは単なる観賞用の花ではありません。福山では、思いやり・やさしさ・助け合いの心を象徴する存在として、まちづくりや市民活動の理念のなかに位置づけられてきました。その背景には、焼け跡から街を立て直そうとした人々の願いと、半世紀以上にわたって苗木を育て続けた市民の地道な手仕事があります。なぜ福山が「ばらのまち」になったのか。その答えは、戦争の記憶と復興への祈り、そして世代を越えて受け継がれた市民の手の温もりのなかにあります。順を追って、その歴史を見ていきましょう。

ゆかりの史跡・図鑑

「ばらのまち福山」の歩みは、ばら公園(旧・南公園)をはじめとする市内各所のばらスポットや、戦災復興の記憶をとどめる場所と深く結びついています。まずは、福山の歴史を語るうえで欠かせない史跡・スポットを図鑑形式で一覧してみましょう。それぞれの場所が、どのように福山の歩みと関わっているのかを確かめながらご覧ください。

福山城 伏見櫓 📖江戸時代(元和年間)📍 福山駅前(福山市街)福山城 📖近世(江戸)📍 丸之内福山城博物館 📖近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)📍 福山駅前(福山市街)草戸千軒町遺跡 📖中世📍 草戸町明王院 📖中世📍 草戸町鞆の津の町並み(重伝建) 📖江戸時代(中世〜近代の建造物群)📍 鞆町鞆の浦の常夜燈と港湾施設 📖江戸時代📍 鞆町福山市鞆の浦歴史民俗資料館 📖近代(昭和)📍 鞆町鞆の浦 📖中世〜近世📍 鞆町福禅寺 対潮楼 📖近世📍 鞆町太田家住宅 📖江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)📍 鞆町いろは丸展示館 📖近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)📍 鞆町仙酔島古代(地質)/近代(指定)📍 鞆町廉塾(菅茶山旧宅) 📖近世📍 神辺町神辺城跡 📖中世📍 神辺町福山八幡宮 📖近世📍 北吉津町沼名前神社 📖近世📍 鞆町阿伏兎観音(磐台寺観音堂)近世📍 沼隈町吉備津神社(備後一宮)江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる📍 新市町素盞嗚神社(備後一宮) 📖飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮📍 新市町
史跡時代概要📍 エリア詳細
福山城 伏見櫓江戸時代(元和年間)伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最…📍 福山駅前(福山市街)下へ ↓
福山城近世(江戸)備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御…📍 丸之内下へ ↓
福山城博物館近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩…📍 福山駅前(福山市街)下へ ↓
草戸千軒町遺跡中世芦田川の中州にあった中世の港町・集落遺跡。発…📍 草戸町下へ ↓
明王院中世本堂と五重塔がともに国宝。中世密教寺院で、五…📍 草戸町下へ ↓
鞆の津の町並み(重伝建)江戸時代(中世〜近代の建造物群)潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と…📍 鞆町下へ ↓
鞆の浦の常夜燈と港湾施設江戸時代江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯…📍 鞆町下へ ↓
福山市鞆の浦歴史民俗資料館近代(昭和)鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬…📍 鞆町下へ ↓
鞆の浦中世〜近世瀬戸内の「潮待ちの港」。常夜燈・雁木・波止場…📍 鞆町下へ ↓
福禅寺 対潮楼近世朝鮮通信使の使節が「日東第一形勝」と讃えた客…📍 鞆町下へ ↓
太田家住宅江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で…📍 鞆町下へ ↓
いろは丸展示館近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵…📍 鞆町下へ ↓
仙酔島古代(地質)/近代(指定)鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連…📍 鞆町下へ ↓
廉塾(菅茶山旧宅)近世儒学者・菅茶山が開いた私塾。当時の塾舎・住宅…📍 神辺町下へ ↓
神辺城跡中世備後南部の中世山城。福山城が築かれる以前、備…📍 神辺町下へ ↓
福山八幡宮近世福山城の北に鎮座し、東西二つの宮を備える。歴…📍 北吉津町下へ ↓
沼名前神社近世鞆の「祇園さん」。夏の大松明を担ぐ「お手火神…📍 鞆町下へ ↓
阿伏兎観音(磐台寺観音堂)近世断崖の上に建つ朱塗りの観音堂。国の重要文化財…📍 沼隈町下へ ↓
吉備津神社(備後一宮)江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で…📍 新市町下へ ↓
素盞嗚神社(備後一宮)飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏の…📍 新市町下へ ↓
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福山城 伏見櫓

江戸時代(元和年間) / 📍福山駅前(福山市街)

伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最古級の三層入母屋造の現存櫓。 福山城伏見櫓は、元和8年(1622年)の福山城築城に際し、城主水野勝成が将軍徳川秀忠から下賜を受け、京都の伏見城から移築させたと伝えられる櫓である。長らく伝承とされていたが、昭和29年(1954年)の解体修理の際、梁の陰刻に「松ノ丸ノ東やく(ら)」の文字が発見され、伏見城からの移築を裏付ける確かな遺構であることが明らかになった。構造は三層入母屋造で、初層と二層を同じ柱割とし、その上にやや小さい三層を望楼状に載せる。桁行八間・梁間三間、本瓦葺の規模をもつ。慶長期の城郭建築の様式を残す初期の典型として価値が高く、昭和8年(1933年)1月23日に国の重要文化財に指定された。福山城内に現存し、特別公開が行われることもある。

🕰 時代江戸時代(元和年間)
🏛 成立・築造元和8年(1622年)水野勝成の福山城築城時に伏見城から移築。国指定重要文化財(昭和8年=1933年1月23日指定)
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目(福山城内)
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福山城

近世(江戸) / 📍丸之内

備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御門は京都伏見城からの移築と伝わる。2022年に築城400年を迎えた。

🕰 時代近世(江戸)
🏛 成立・築造1622年(元和8)・水野勝成
👤 関連水野勝成・阿部正弘
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目8
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福山城博物館

近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期) / 📍福山駅前(福山市街)

水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩の歴史を体験型展示で伝える博物館 福山城博物館は、JR福山駅のすぐ北に建つ福山城天守内に置かれた市立の歴史資料館です。福山城は1622年(元和8年)、徳川譜代の大名・水野勝成が西国鎮衛の拠点として築いた近世城郭で、天守は1931年に国宝に指定されました。しかし1945年8月の福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリート造で外観が復興され、その内部が博物館として公開されました。2022年には築城400年に合わせて大規模リニューアルされ、北面の鉄板張り(黒い装い)の再現や、一番槍レース・火縄銃などの体験型コンテンツ、デジタル映像を用いた展示が整えられ、福山城と福山藩の歴史を学べる施設となっています。城内に現存する伏見櫓と筋鉄御門は、京都・伏見城からの移築と伝えられ、国の重要文化財に指定されています。常設展は有料、月曜休館とされます。

🕰 時代近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)
🏛 成立・築造福山城は1622年(元和8年)に初代福山藩主・水野勝成が築城。天守は1945年福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリートで外観復興、内部を博物館として開館。2022年に大規模リニューアル
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目8番
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鞆の津の町並み(重伝建)

江戸時代(中世〜近代の建造物群) / 📍鞆の浦

潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と町家が一体で残る重伝建地区 鞆の浦は瀬戸内海の中央に位置し、古来「潮待ちの港」として栄え、万葉集にも詠まれた歴史を持つとされる。江戸時代には北前船など廻船の寄港地として繁栄し、朝鮮通信使の寄港地ともなった。2017年(平成29年)11月28日、「福山市鞆町伝統的建造物群保存地区」として約8.6ヘクタールが国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。範囲は鞆字西町の全域を中心に、石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地の一部に及ぶ。中世から江戸期に整えられた地割の上に、江戸時代から昭和30年代までの町家や寺社、石垣などが一体的に残る近世港町の景観が評価された。常夜燈・雁木・波止・焚場・船番所の5つの港湾施設がほぼ完全に残る点は全国でも稀とされる。広島県内では3例目の選定で、2018年には日本遺産にも認定された。

🕰 時代江戸時代(中世〜近代の建造物群)
🏛 成立・築造2017年(平成29年)11月28日に国の重要伝統的建造物群保存地区へ選定。地割は中世〜江戸期、建造物は江戸時代〜昭和30年代まで。
📍 所在地広島県福山市鞆町(鞆字西町全域ほか、字石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地字古城跡・草谷の各一部)
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鞆の浦の常夜燈と港湾施設

江戸時代 / 📍鞆の浦

江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯一の近世港、鞆港。 鞆の浦の鞆港には、常夜燈・雁木・波止・焚場(たでば)・船番所という江戸時代の港湾施設5点がほぼ揃って現存し、これらが一体で残るのは全国でも鞆港のみとされる。シンボルの常夜燈は安政6年(1859)の刻銘をもつ石造灯台で、海中の基礎石から宝珠の頂までは約12.1mに及び、江戸期の石造常夜燈としては国内最大級とされる。雁木は潮の干満に応じて船を着けられる階段状の船着き場で、半円形の港内に連続して巡らされている。波止は花崗岩を積んだ全長約146mの防波堤で、江戸後期に築かれ明治期に修築された。鞆港を含む沿岸と沖の島々一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定され、鞆町西町を中心とする区域は2017年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。日本遺産「瀬戸の夕凪が包む 国内随一の近世港町」の構成要素でもある。

🕰 時代江戸時代
🏛 成立・築造常夜燈は安政6年(1859)造立とされる。雁木・波止・焚場・船番所は江戸後期築造、波止は明治期に修築。鞆港一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定。
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆
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福山市鞆の浦歴史民俗資料館

近代(昭和) / 📍鞆の浦

鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬戸内の歴史・民俗を伝える市立資料館 福山市鞆の浦歴史民俗資料館は、広島県福山市鞆町後地に建つ市立の博物館で、「潮待ちの館」の愛称で親しまれる。1977年(昭和52年)からの地元有志による調査・収集活動を背景に、福山市制70周年記念事業として1988年(昭和63年)に開館した。立地は、福島正則が築いたとされる鞆城跡(福山市指定史跡)の高台で、瀬戸内海を見渡せる。万葉の時代から潮待ち・風待ちの港として栄えた鞆の浦を中心に、古代から近世にいたる歴史資料を展示。鯛網漁のジオラマや錨を製造した鍛冶場、朝鮮通信使関連資料、保命酒に関する資料に加え、お手火神事・お弓神事といった地域の民俗文化財も常設展示する。鞆の歴史と暮らしを総合的に学べる拠点とされる。

🕰 時代近代(昭和)
🏛 成立・築造1988年(昭和63年)開館。福山市制70周年記念事業として建設。建つ鞆城跡は福島正則が築いたとされる(福山市指定史跡)
📍 所在地広島県福山市鞆町後地536-1
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太田家住宅

江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期) / 📍鞆の浦

鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で、国の重要文化財 鞆の浦を代表する歴史的建造物で、薬用酒「保命酒」の醸造で財を成した商家の旧宅。もとは大坂の漢方医を出自とする中村家の屋敷で、明暦元年(1655年)に鞆へ移り住み、まもなく十六味地黄保命酒の製造・販売を始めて大ヒットし、福山藩の御用名酒屋として販売独占権を得たとされる。明治期に廻船業を営んだ太田家が継承し、現在の名で呼ばれる。主屋を中心に保命酒蔵や各種土蔵など九棟が建ち並び、建築年代は18世紀中期から19世紀前期に及ぶ。瀬戸内の商家建築を伝える貴重な遺構として、1991年に国の重要文化財に指定された。幕末には三条実美ら尊王攘夷派の公卿が立ち寄ったと伝わり、別宅の朝宗亭とともに「鞆七卿落遺跡」として広島県の史跡(1940年指定)にもなっている。

🕰 時代江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)
🏛 成立・築造主屋は18世紀中期、ほか北保命酒蔵が天明8年(1788年)、西蔵が寛政元年(1789年)、東保命酒蔵が寛政7年(1795年)など18世紀中期〜19世紀前期。国の重要文化財指定は1991年(平成3年)5月31日。
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆842
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いろは丸展示館

近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期) / 📍鞆の浦

坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵を活かした資料館 鞆の浦のシンボル常夜灯(とうろどう)のすぐそばに建つ資料館。1867年(慶応3年)、坂本龍馬と海援隊が運航したいろは丸が紀州藩の明光丸と備後灘で衝突・沈没した「いろは丸事件」を伝える施設で、その談判が鞆の浦で行われた縁にちなむ。建物は江戸期に建てられた太い梁が印象的な土蔵で、地元では「大蔵」と呼ばれ、国の登録有形文化財とされる。館内には海底に沈むいろは丸を再現したジオラマ、引き揚げられた陶器や部品、調査風景の写真などを展示し、2階には龍馬が宿泊先で身を潜めたという「隠れ部屋」が再現され、龍馬の蝋人形も置かれている。1989年(平成元年)7月の開館。幕末史と鞆の港町文化を同時に味わえるスポットである。

🕰 時代近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)
🏛 成立・築造1989年(平成元年)7月開館。建物は江戸期築の土蔵「大蔵(浜蔵)」で、国の登録有形文化財とされる。展示題材のいろは丸事件は1867年(慶応3年)
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆843-1
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仙酔島

古代(地質)/近代(指定) / 📍鞆の浦

鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連なる瀬戸内海国立公園の名勝 仙酔島は鞆の浦の沖合に浮かぶ周囲約6キロの島で、住所は福山市鞆町後地。鞆港から市営渡船で約5分の距離にあり、観光客の往来はあるが定住者のいない無人島とされる。1925年(大正14年)に国の名勝「鞆公園」の一部として指定され、1934年(昭和9年)には日本で最初に指定された国立公園・瀬戸内海国立公園に含まれた。島は約9000万年前の大規模な火山活動による溶結凝灰岩を主体とし、南側海岸には青・赤・黄・白・黒の岩が200メートル以上連なる「五色岩」が見られ、地質的に貴重とされる。「仙人が酔うほど美しい島」が名の由来と言われる。江戸後期の学者・頼山陽が当地の景観を「山紫水明」と評したとも伝わる。

🕰 時代古代(地質)/近代(指定)
🏛 成立・築造1925年(大正14年)国名勝「鞆公園」に指定。1934年(昭和9年)日本初の国立公園・瀬戸内海国立公園に編入。島自体は約9000万年前の火山活動で形成されたとされる
📍 所在地広島県福山市鞆町後地
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吉備津神社(備後一宮)

江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる / 📍新市・北部

備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で「いっきゅうさん」と親しまれる古社 福山市新市町宮内に鎮座する備後国一宮で、地元では「一宮さん(いっきゅうさん)」と親しまれる。社伝では大同元年(806年)に吉備国の吉備津神社から勧請し創建されたと伝わるが、延喜式神名帳に記載がないことなどから実際の成立はより後とする説もある。主祭神は吉備国を治めたとされる大吉備津彦命。現在の本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が旧規模にならい造営したもので、桁行七間・梁間四間の入母屋造檜皮葺、国の重要文化財に指定されている。ほかにも木造狛犬や太刀などが重要文化財として伝えられ、複数の建造物が広島県・福山市指定文化財となっている。隣接する櫻山城跡なども史跡として知られ、備後の信仰と歴史を今に伝える。

🕰 時代江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる
🏛 成立・築造本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が造営、国の重要文化財。創建は大同元年(806年)と伝わるが諸説ある
📍 所在地広島県福山市新市町宮内400
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素盞嗚神社(備後一宮)

飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮 / 📍新市・北部

祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏のけんか神輿で名高い古社 福山市新市町戸手に鎮座する素盞嗚神社は、『延喜式神名帳』に載る式内社で備後国一宮を称し、旧社格は県社です。主祭神は素盞嗚尊で、稲田姫命・八王子を配祀します。社伝では天武天皇の治世、7世紀ごろ(679年か)の創建とされます。『釈日本紀』所収の「備後国風土記」逸文に伝わる蘇民将来説話の舞台「疫隈国社」と結びつけられ、茅の輪くぐりや祇園信仰・祇園祭発祥の地の一つとされています。神仏習合期には牛頭天王を祀り、遣唐使・吉備真備が734年に当社から播磨の広峯神社へ勧請したとも伝わります。毎年7月の例祭では、勇壮なけんか神輿(神輿合わせ)が行われることで知られます。

🕰 時代飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮
🏛 成立・築造社伝では天武天皇期の7世紀ごろ(679年か)創建とされる。『延喜式神名帳』記載の式内社で、旧県社
📍 所在地広島県福山市新市町大字戸手1-1

これらのスポットは、いずれも福山の歴史と文化を語るうえで重要な意味をもっています。ばら公園のような復興の象徴から、福山城をはじめとする近世以来の史跡まで、まちの記憶は点ではなく面として広がっています。以下では、ばらのまちが生まれた背景にさかのぼり、時代を追ってその歩みを深掘りしていきます。

起源――一九四五年八月八日、焼け跡からの出発

福山ばら公園(「ばらのまち福山」の象徴)
福山ばら公園(「ばらのまち福山」の象徴)(画像:Wikimedia Commons / CC)

福山のばらの歴史を語るには、まず一九四五年(昭和二十年)八月八日の福山大空襲にさかのぼらなければなりません。総務省の戦災記録や福山市の資料によれば、この日の夜十時二十五分ごろ、福山市上空に照明弾が炸裂し、その直後にアメリカ軍のB29の大編隊が市内へ進入しました。約一時間にわたって大量の焼夷弾が投下され、市街地は火の海と化したと記録されています。

被害は甚大でした。福山市の資料によれば、市街地のおよそ八割にあたる三百十四ヘクタールが焼失し、死者は三百五十四人、焼失家屋は一万戸を超えたとされます。当時の福山市の人口のうち、実に八割前後にあたる人々が被災したと伝わります。さらに、当時国宝に指定されていた福山城の天守閣や御湯殿も、この空襲によって焼失しました。終戦のわずか一週間前のことです。歴史ある城下町は、一夜にして瓦礫と灰の街へと変わってしまいました。

荒廃した街と、市民の心の痛み

終戦を迎えても、人々の暮らしはすぐには元に戻りませんでした。焼け野原となった市街地では、住まいと食料を確保することが何よりの課題であり、街には潤いも彩りもありませんでした。復興は少しずつ進んでいったものの、戦争で深く傷ついた人々の心まで癒すには、長い時間が必要でした。こうした状況のなかで、「荒れた街に花を植え、人々の心に和らぎを取り戻したい」という思いが、市民のあいだから自然に生まれてきたと伝えられています。

福山市は「花は美しい、それを愛し育む人の心はなお美しい」という言葉を、ばらのまちづくりの合言葉として今も大切にしています。これはまさに、焼け跡に花を植えた人々の心情を端的に表したものといえるでしょう。ばらを選んだ理由について確証のある一つの定説があるわけではありませんが、復興の象徴として、美しく香り高く、それでいて手をかけて育てる必要のあるばらが選ばれていったことは、その後の歴史が物語っています。

南公園に植えられた約一〇〇〇本の苗木

福山市の公式資料によれば、一九五六年(昭和三十一年)から翌一九五七年(昭和三十二年)にかけて、御門町の南公園(現在のばら公園)付近の住民が、約一〇〇〇本のばらの苗木を植えたと伝えられています。これが「ばらのまち福山」の直接の起源とされています。行政が大々的に主導したというよりも、まずは近隣の人々が自分たちの手で苗木を植えたという点に、この物語の原点があります。

南公園は一九五六年に開設された公園で、後に「ばら公園」と呼ばれるようになる場所です。福山市の資料では、一九五七年(昭和三十二年)にばら公園の整備に着工し、その後の整備を経て、一九六五年(昭和四十年)ごろにはほぼ現在の姿となり、市民のあいだで自然に「ばら公園」と呼ばれるようになったとされています。焼け跡に植えられた一〇〇〇本の苗木が、やがて街を象徴する公園へと育っていったのです。

福山ばら会の結成と展覧会のはじまり

苗木を植える動きと前後して、市内のばら愛好家たちが集まり、組織的な活動が始まりました。福山市の資料によれば、一九五六年(昭和三十一年)、福山のばら愛好家らによって「福山ばら会」が結成されたと伝えられています。結成時のメンバーは四十数名であったとされ、ばらを愛する市民たちの自発的な集まりが、その後のまちづくりを支える原動力となっていきました。

第一回バラ展覧会

福山市の公式資料によると、一九五七年(昭和三十二年)十月、福山市主催の「第一回福山バラ展覧会」が南公園で開催されました。市民が育てたばらを持ち寄り、その美しさを競い、分かち合う場として、この展覧会は大きな意味をもちました。展覧会は単なる花の品評会ではなく、戦災から立ち直ろうとする市民の心の表現でもあったといえるでしょう。

こうした市民主体の活動は、年を追うごとに広がりを見せました。ばらを育てる人が増え、街角や家庭の庭にもばらが植えられるようになっていきます。「福山といえばばら」という結びつきは、行政の宣伝によって作られたものではなく、まず市民の手と心によって育まれていったところに、その強さの源があったと考えられます。

展覧会から「ばら祭」へ

市民のばらへの熱意は、やがて全国からも注目されるようになります。福山市の資料によれば、一九六八年(昭和四十三年)、福山市は「全国美しい町づくり賞最優秀賞」を受賞しました。荒廃した街に花を植え、育て続けた市民の取り組みが、全国的に評価された瞬間でした。そしてこの年、それまで「バラ展」と呼ばれてきた春の催しを「バラ祭」と改め、市が主催する形で第一回が開催されたとされています。今日まで続く「福山ばら祭」は、この一九六八年を起点としています。

展覧会から祭へという名称の変化は、単なる呼び名の問題ではありません。それは、ばらが一部の愛好家の趣味から、まち全体で祝う市民の祭典へと位置づけを変えたことを意味します。祭としての福山ばら祭は、年を追うごとに規模を拡大し、市内中心部を会場とした大規模なイベントへと成長していきました。

「市の花」への制定とばら公園の成熟

夕暮れの福山城
夕暮れの福山城(画像:Wikimedia Commons / CC)

市民の手で育まれてきたばらは、やがて行政の施策としても明確に位置づけられていきます。福山市の資料によれば、一九八五年(昭和六十年)四月、ばらが福山市の花に制定されました。空襲から四十年、最初の苗木が植えられてから約三十年を経て、ばらは名実ともに福山を象徴する花となったのです。

シンボルマークの制定

福山市の資料によると、一九九三年(平成五年)十一月には「ばらシンボルマーク」が制定されました。市の花としての制定に続き、視覚的な象徴も整えられたことで、ばらは福山の都市イメージを形づくる重要な要素となっていきます。市の刊行物やイベント、公共施設など、さまざまな場面でばらのモチーフが用いられるようになり、「ばらのまち」というアイデンティティが市民のあいだに浸透していきました。

広がるばらの花壇

ばらの輪は、ばら公園だけにとどまりませんでした。福山市の資料によれば、二〇〇一年(平成十三年)五月には緑町公園のばら花壇が完成するなど、市内各所にばらのスポットが整えられていきました。一か所の公園から始まったばらが、市内全域へと広がっていく――この面的な広がりこそが、後の「100万本のばらのまち」構想を支える土台となっていきます。

ばら公園そのものも、年を追うごとに充実していきました。福山市の資料によれば、近年のばら公園には数百品種・数千本のばらが植えられており、季節になると色とりどりのばらが咲き誇ります。二〇二四年(令和六年)には植栽のリニューアルも行われ、開設からの年月を重ねながら、今も進化を続けています。なお、ばら公園は二〇二六年(令和八年)には開設七十周年の節目を迎えるとされ、福山のばらの歴史の長さをあらためて感じさせます。

世界に認められたばら公園

福山のばらは、国内にとどまらず国際的な評価も得るようになります。福山市の資料によれば、二〇〇六年(平成十八年)五月、大阪で開かれた世界バラ会議の場で、ばら公園が「世界バラ会連合優秀庭園賞」を受賞しました。世界バラ会連合(The World Federation of Rose Societies)は世界のばら愛好団体が加盟する国際組織であり、その優秀庭園賞を受賞したことは、福山のばら公園が世界的にも価値のある庭園として認められたことを意味します。

焼け跡に植えられた約一〇〇〇本の苗木が、半世紀を経て世界に認められる庭園へと育ったのです。この受賞は、市民の地道な活動の積み重ねが結実した象徴的な出来事であり、福山の人々に大きな誇りと自信をもたらしました。そして、この国際的な評価が、後の世界バラ会議福山大会の招致へとつながっていくことになります。

市民が育てた庭園という価値

世界的な賞を受けたばら公園ですが、その価値は美しさだけにあるのではありません。この庭園が、行政の力だけでなく、長年にわたる市民の手によって育てられてきたという点こそが、福山のばら公園を特別なものにしています。世代を越えて受け継がれた市民活動の蓄積が、目に見える形となって庭園に表れている――その物語性こそが、福山のばらの最大の魅力だといえるでしょう。

「100万本のばらのまち」構想の始動

福山城
福山城(画像:Wikimedia Commons / CC)

二〇〇〇年代に入ると、福山市はばらのまちづくりをさらに大きな構想へと発展させていきます。福山市の資料によれば、二〇〇七年度(平成十九年度)に策定された第四次福山市総合計画のなかで、「100万本のばらのまち福山」という目標が掲げられました。約一〇〇〇本から始まったばらを、市民とともに100万本にまで育てよう――という壮大な構想です。

アクションプランとキャラクター「ローラ」

福山市の資料によれば、二〇一〇年(平成二十二年)には「ばらのアクションプラン」が策定され、ばらのまちづくりを推進するための具体的な取り組みが進められました。同年にはばらをモチーフにしたキャラクター「ローラ」も誕生し、ばらのまちのシンボルとして親しまれるようになります。こうした施策によって、ばらのまちづくりは市民にとってより身近で参加しやすいものになっていきました。

「みんなの『ばら』100万本プロジェクト」

100万本という目標を実現するために、福山市では市民参加型の取り組みが展開されました。福山市の「物語」によれば、二〇一〇年から「みんなの『ばら』100万本プロジェクト」が進められ、学区ごとのボランティア団体や学校、地域の人々がそれぞれの場所にばらを植えていきました。たとえば、福相学区のボランティアの会が整備を始めた花壇には約四百五十本のばらが植えられ、霞学区のボランティアの会は約四百二十本を管理するなど、地域ごとに具体的な取り組みが積み重ねられていったとされています。

金江小学校では複数年にわたる整備を経て「ローズガーデン金江」が育まれ、駅前大通り沿道でも二〇一五年(平成二十七年)から植栽が進められるなど、まちのあちこちでばらが増えていきました。100万本という数字は、行政が一度に植えて達成したものではなく、市民一人ひとりの手によって少しずつ積み上げられていったものだという点に、このプロジェクトの本質があります。

「ローズマインド」という理念と条例

ばらを増やしていく過程で、福山市はばらに込められた精神そのものを「ローズマインド」という言葉で表現し、まちづくりの理念として位置づけていきました。ローズマインドとは、福山市の説明によれば、思いやり・やさしさ・助け合いの心を表す言葉であり、焼け跡に花を植えた市民の心や、ばらを育て守ってきた人々の精神を継承するものとされています。

「福山市ばらのまち条例」と「ばらの日」

福山市の資料によれば、二〇一五年(平成二十七年)には「福山市ばらのまち条例」が制定されました。この条例によって、ローズマインドを福山の文化として根付かせ、世界に誇れるばらのまちをめざすことが定められたとされています。また、五月二十一日が「ばらの日」と定められ、ばらに込められた思いを市民が共有し、次の世代へ伝えていく日として位置づけられました。

条例という形で理念を明文化したことは、ばらのまちづくりが一時的なブームではなく、福山という都市の根幹をなす価値であることを示すものでした。ばらは観賞の対象であると同時に、市民が共有する精神的な拠りどころとなったのです。焼け跡から始まった物語が、ここに至って「まちの哲学」へと昇華したといえるでしょう。

100万本の達成と市制施行一〇〇周年

そして、長年の目標がついに実を結ぶときが来ます。福山市の資料によれば、福山市の市制施行一〇〇周年にあたる二〇一六年(平成二十八年)、「100万本のばらのまち福山」が実現したとされています。とりわけ五月二十一日の「ばらの日」は、100万本達成の象徴的な日として記憶されています。約一〇〇〇本から始まったばらが、約六十年の歳月を経て100万本に到達したのです。

福山市の人口はおよそ四十数万人とされますが、福山市の説明によれば、これは市民一人あたりおよそ二本のばらを育てている計算になるといいます。100万本という数字は、単なる本数の多さを誇るものではなく、それだけ多くの市民がばらのまちづくりに関わってきたことの証でもあります。市制一〇〇周年という大きな節目に、市民の手による100万本が達成されたことは、福山にとって象徴的な出来事となりました。

数字の背後にある市民の物語

100万本という到達点は、けっして一足飛びに達成されたものではありません。学区ごとのボランティア団体、学校の子どもたち、地域の高齢者、企業や商店街――数えきれないほどの人々が、それぞれの場所で苗木を植え、水をやり、世話を続けてきました。福山のばらの本数の一本一本には、それを植え育てた誰かの手と心が宿っています。100万本という数字は、その膨大な市民の営みの集積なのです。

世界バラ会議福山大会への道

100万本の達成と前後して、福山のばらのまちづくりは国際的な舞台へと進んでいきます。福山市の資料によれば、二〇一八年(平成三十年)、福山市が第二十回世界バラ会議の開催地に決定しました。世界バラ会議は、世界のばら愛好団体が加盟する世界バラ会連合の最大の大会であり、おおむね三年に一度、世界各地で開催される国際会議です。その第二十回の舞台に福山が選ばれたことは、福山のばらのまちづくりが世界に認められた証でもありました。

第二十回世界バラ会議福山大会2025

そして二〇二五年(令和七年)、「第二十回世界バラ会議福山大会2025」が開催されました。福山市や大会公式の情報によれば、大会は二〇二五年五月十八日から二十四日にかけて行われ、世界各国からばらの愛好家や専門家が福山に集いました。あわせて「Rose Expo FUKUYAMA 2025」などの関連催事も展開され、まち全体がばら一色に染まりました。焼け跡に植えられた一〇〇〇本のばらから始まった物語は、世界の人々が福山に集う国際会議へと結実したのです。

この世界大会の開催は、福山のばらの歴史における一つの到達点であると同時に、新たな出発点でもありました。世界から訪れた人々に福山のばらとローズマインドを伝えるとともに、世界のばら文化を福山が受け止め、次の世代へとつないでいく――そうした循環のなかに、福山のばらのまちづくりは今も息づいています。

戦災復興のなかのばら――他都市と比べて見えるもの

福山のばらのまちづくりを理解するうえで、その時代背景に目を向けることも大切です。福山が大空襲を受けた一九四五年は、日本各地の都市が同じように空襲によって焼け野原となった年でした。戦後の復興のなかで、多くの都市が街路樹を植え、公園を整え、花を育てることで街に潤いを取り戻そうとしました。福山もまた、そうした全国的な復興の流れのなかにあったといえます。

ただし、福山の場合に特徴的なのは、行政が一方的に主導したのではなく、まず近隣の住民が自分たちの手でばらの苗木を植え始めたという点です。福山市の資料が伝える「花は美しい、それを愛し育む人の心はなお美しい」という合言葉は、まさにこの市民主体の姿勢を象徴しています。花を植えるという行為が、行政の施策である以前に、市民一人ひとりの祈りや願いの表現であったところに、福山のばらの物語の原点があります。

「育てる文化」が根づいた理由

多くの都市で街路樹や花壇が整備されても、それが市民全体の文化として根づくとは限りません。福山でばらが半世紀以上にわたって愛され続けてきた背景には、福山ばら会のような愛好家団体の存在や、バラ展覧会・ばら祭といった市民が花を持ち寄り分かち合う場が早くから設けられてきたことがあると考えられます。育てたばらを見せ合い、競い合い、称え合う――そうした循環があったからこそ、ばらは一過性のブームに終わらず、まちの文化として定着していったのでしょう。

さらに、市の花への制定やシンボルマークの制定、条例の制定といった行政による裏づけが、市民の自発的な活動を後押ししてきました。市民の熱意と行政の支えが両輪となって機能してきたことが、福山のばらのまちづくりを息の長いものにしてきた要因だと考えられます。一方が欠けても、ここまでの広がりは生まれなかったかもしれません。

ばら祭の発展とまちのにぎわい

一九六八年に第一回が開催された福山ばら祭は、その後、福山を代表する市民祭へと成長していきました。毎年五月、ばらが見頃を迎える時期に開催され、ばらの展示や即売、パレード、ステージイベントなど、さまざまな催しでまち全体がにぎわいます。市民が主体となって運営に関わる点も、福山ばら祭の大きな特徴です。

市民とともにつくる祭

福山ばら祭は、行政や観光団体だけが運営する祭ではなく、多くの市民ボランティアが関わって作り上げられてきた祭です。ばらを育ててきた市民にとって、ばら祭は一年の成果を披露する晴れの舞台でもあります。来場者は数十万人規模にのぼるとされ、福山の初夏を彩る一大行事として定着しています。ばらの香りに包まれた会場を歩けば、福山が「ばらのまち」と呼ばれる理由を肌で感じることができるでしょう。

祭が果たしてきた役割

ばら祭は、単なる観光イベントではありません。それは、戦災から復興してきた福山の歩みを市民が共有し、確認し合う場でもありました。世代を越えて受け継がれてきたばらの文化を、毎年あらためて祝うこの祭は、福山という都市のアイデンティティそのものを表現する場となっています。子どもから高齢者まで、幅広い世代が一緒にばらを楽しむこの行事は、ローズマインドを次の世代へ伝える役割も果たしてきました。

福山城の焼失・再建とばらのまち

ばらのまちの歴史を語るとき、福山城の存在を抜きにすることはできません。福山城は、江戸時代初期に初代福山藩主・水野勝成によって築かれた城で、長く福山のシンボルとして親しまれてきました。その天守は近代に入って国宝に指定されていましたが、一九四五年八月八日の福山大空襲によって焼失したと記録されています。城下町の象徴を失ったことは、市民にとって大きな喪失でした。

復興のシンボルとしての城とばら

焼失した福山城天守は、戦後の復興のなかで再建されました。城の再建とばらの植栽は、いずれも戦災から立ち直ろうとする福山市民の願いの表れだったといえます。失われたものを取り戻し、新たに育てていく――その姿勢において、城の再建とばらのまちづくりは通じ合っています。福山を訪れると、再建された福山城とまちに咲くばらの両方を目にすることができ、復興の物語を二重に感じ取ることができます。

福山城を築いた水野勝成は、城下町としての福山の礎を築いた人物として知られています。近世の城下町づくりから、近代の産業発展、そして戦後の復興とばらのまちづくりへ――福山の歴史は、それぞれの時代の人々が街を育ててきた営みの連続です。ばらのまちは、その長い歴史のいちばん新しい章として位置づけられるものなのです。

数字で振り返る「1000本から100万本」

「ばらのまち福山」の歩みは、しばしば「1000本のばらから100万本のばらへ」という言葉で語られます。この二つの数字のあいだには、約六十年という長い時間と、数えきれない市民の手があります。ここで、その歩みを数字の面から振り返ってみましょう。

約六十年で千倍に

一九五六年から五七年にかけて植えられた約一〇〇〇本のばらが、二〇一六年に100万本に達したとされます。単純計算で、約六十年のあいだに本数はおよそ千倍になったことになります。これは一気に達成されたものではなく、ばら公園の整備、市内各所への花壇の拡大、学区ボランティアや学校による植栽など、長年の積み重ねの結果でした。とりわけ二〇一〇年からの「みんなの『ばら』100万本プロジェクト」が、達成に向けた市民参加の取り組みを加速させたとされています。

一人あたり約二本という数字の意味

福山市の説明によれば、100万本というのは、市民一人あたりおよそ二本のばらを育てている計算になるといいます。この数字が示すのは、ばらのまちづくりが特定の人々だけのものではなく、市民全体で取り組んできたものだということです。100万本という到達点は、それだけ多くの市民が苗木を植え、世話を続けてきたことの証なのです。数字の大きさよりも、その背後にある市民の参加の広さにこそ意味があります。

「1000本から100万本へ」という物語は、福山のばらのまちづくりを象徴的に語る言葉として、市民のあいだに深く根づいています。それは、小さな一歩の積み重ねが大きな成果を生むという希望の物語であり、戦災からの復興という福山の歴史そのものを映し出すものでもあります。

ばらがつなぐ国際交流

福山のばらは、まちの内側で育まれてきただけでなく、国際的なつながりも生み出してきました。二〇〇六年の世界バラ会連合優秀庭園賞の受賞は、福山のばらが世界に認められた最初の大きな出来事でした。そして二〇一八年の世界バラ会議福山開催決定、二〇二五年の大会開催へと、福山のばらは国際舞台での存在感を高めていきました。

世界バラ会議とは

世界バラ会議は、世界各国のばら愛好団体が加盟する世界バラ会連合(The World Federation of Rose Societies)が主催する国際大会です。おおむね三年に一度、世界の各都市で開催され、ばらの栽培や育種、ガーデニング、文化に関する知見が世界中から集まります。第二十回の開催地に福山が選ばれたことは、戦災復興から始まった福山のばらのまちづくりが、世界的にも評価される水準に達したことを意味していました。

大会がまちに残したもの

二〇二五年五月に開催された世界バラ会議福山大会は、福山にとって大きな節目となりました。世界各国から訪れた人々に福山のばらとローズマインドを伝えるとともに、世界のばら文化に触れる貴重な機会ともなりました。こうした国際交流は、ばらを通じて世界とつながるという、福山のばらのまちづくりの新しい可能性を示すものです。焼け跡に植えられた一〇〇〇本のばらが、世界の人々を福山に呼び寄せるまでに育ったことは、改めて市民の営みの大きさを感じさせます。

現在に受け継がれるもの

戦災復興から始まり、世界大会の開催にまで至った福山のばらの歩み。その根底に一貫して流れているのは、「市民の手で育てる」という姿勢です。福山のばらは、行政が一方的に植えたものではなく、市民が自分たちの街を美しくしたいという願いのもとに、世代を越えて育て続けてきたものです。この市民参加の精神こそが、福山のばらのまちづくりを唯一無二のものにしています。

ローズマインドの継承

思いやり・やさしさ・助け合いを表すローズマインドは、ばらの花そのものと同じように、世代から世代へと受け継がれていくべきものとされています。学校でのばらの栽培体験や、地域のボランティア活動を通じて、子どもたちは花を育てることの大切さと、それに込められた心を学んでいきます。ばらを育てる行為は、同時に思いやりの心を育てる教育でもあるのです。

まちのいたるところに咲くばら

今日の福山では、ばら公園や緑町公園といった主要なスポットだけでなく、駅前の大通り、学校、商店街、家庭の庭など、まちのいたるところにばらが咲いています。季節になれば、市内を歩くだけで色とりどりのばらに出会うことができます。この日常のなかにばらがあるという状態こそ、福山が長い時間をかけて作り上げてきた最大の財産だといえるでしょう。

戦争で焼かれた街が、世界に誇るばらのまちへと生まれ変わった――この物語は、福山という都市が困難を乗り越えてきた歴史そのものを映し出しています。福山城の焼失と再建、産業の発展、そして市民による復興。ばらは、それらすべての象徴として、今も福山の街角に咲き続けています。

関連年表で見る「ばらのまち福山」

ここで、これまでたどってきた歩みを年表にまとめておきます。年代や経緯には諸説ある事項も含まれますが、福山市の公式資料で確認できる主な出来事を中心に整理しました。

この年表を眺めると、福山のばらの歩みが、市民の小さな営みから始まり、行政の施策、国内外の評価、そして世界大会の開催へと、段階的に広がっていったことがよく分かります。一つひとつの出来事が、次の一歩を準備していったのです。

楽しみ方・巡り方と関連スポット

福山のばらの歴史を知ったうえで実際にまちを訪れると、その魅力はいっそう深く感じられます。ここでは、ばらのまち福山を楽しむためのポイントと、あわせて巡りたい関連スポットを紹介します。

ばらの見頃と福山ばら祭

福山のばらの最大の見頃は、一般に五月とされています。この時期にはばら公園をはじめ市内各所のばらが一斉に咲き誇り、毎年「福山ばら祭」が開催されます。ばら祭は一九六八年の第一回以来続く福山最大級の市民祭であり、ばらの展示やパレード、各種イベントでまち全体がにぎわいます。ばらの香りに包まれた福山の五月は、一年でもっとも華やかな季節です。秋にも返り咲きのばらを楽しめる場合があり、訪れる季節によって異なる表情を見せてくれます。

ばら公園の歩き方

ばらのまちの原点であるばら公園は、ぜひ訪れたい場所です。約一〇〇〇本の苗木から始まったこの公園には、現在では数百品種・数千本のばらが植えられているとされ、色も形も香りもさまざまなばらをゆっくりと観賞できます。一本一本のばらの背後に、それを育ててきた市民の歴史があることを思い浮かべながら歩くと、ただ美しいだけでない深みを感じられるでしょう。

あわせて巡りたい福山の史跡・文化

福山には、ばら以外にも豊かな歴史と文化が息づいています。たとえば、空襲で天守を焼失しながらも再建された福山城は、ばらのまちの歴史を語るうえでも欠かせない場所です。福山城を築いた初代藩主・水野勝成の足跡をたどれば、城下町福山の成り立ちが見えてきます。

また、福山が育んできた地場産業や伝統工芸も見逃せません。古くから愛されてきた備後絣松永の下駄、近代以降に発展した鉄のまち福山の歩みなど、福山の多彩な産業史とあわせて知ると、まちの全体像がより立体的に浮かび上がります。福山の歴史を通して理解したい方は、福山の歴史を総まとめした通史ガイドもあわせてご覧ください。

よくある質問(FAQ)

Q福山が「ばらのまち」になったきっかけは何ですか?
A

一九四五年(昭和二十年)の福山大空襲で市街地の約八割が焼失した後、荒廃した街に潤いを取り戻そうと、一九五六年から五七年にかけて南公園(現在のばら公園)付近の住民が約一〇〇〇本のばらの苗木を植えたことが始まりとされています。市民の自発的な取り組みがその出発点でした。

Q最初にばらが植えられたのはどこですか?
A

福山市の資料によれば、御門町の南公園(現在のばら公園)付近です。南公園は一九五六年に開設され、後に「ばら公園」と呼ばれるようになりました。福山のばらのまちづくりの原点となる場所です。

Q「福山ばら会」とは何ですか?
A

一九五六年(昭和三十一年)に福山のばら愛好家らによって結成された団体とされています。結成時のメンバーは四十数名であったと伝えられ、市民主体のばらのまちづくりを支える存在となりました。

Q「福山ばら祭」はいつから始まりましたか?
A

福山市の資料によれば、一九六八年(昭和四十三年)に、それまでの「バラ展」を「バラ祭」と改めて第一回が開催されたとされています。以来、福山を代表する市民祭として毎年五月に開催されています。

Qばらが福山市の花に制定されたのはいつですか?
A

福山市の資料によれば、一九八五年(昭和六十年)四月にばらが市の花に制定されました。最初の苗木が植えられてから約三十年を経て、ばらは名実ともに福山を象徴する花となりました。

Q「100万本のばらのまち福山」はいつ実現しましたか?
A

福山市の資料によれば、市制施行一〇〇周年にあたる二〇一六年(平成二十八年)に「100万本のばらのまち福山」が実現したとされています。とくに五月二十一日の「ばらの日」が、その象徴的な日として記憶されています。

Q「ローズマインド」とは何ですか?
A

福山市の説明によれば、思いやり・やさしさ・助け合いの心を表す言葉です。焼け跡に花を植え、ばらを育て守ってきた市民の精神を象徴するもので、福山のまちづくりの理念として位置づけられています。

Q「ばらの日」はいつですか?
A

福山市の資料によれば、五月二十一日が「ばらの日」と定められています。二〇一五年(平成二十七年)制定の「福山市ばらのまち条例」のなかで、ばらに込められた思いを伝える日として位置づけられました。

Qばら公園はどんな賞を受けていますか?
A

福山市の資料によれば、二〇〇六年(平成十八年)五月、大阪で開かれた世界バラ会議の場で、ばら公園が「世界バラ会連合優秀庭園賞」を受賞しました。福山のばら公園が世界的にも価値のある庭園として認められた出来事です。

Q世界バラ会議福山大会はいつ開催されましたか?
A

「第二十回世界バラ会議福山大会2025」は、二〇二五年(令和七年)五月に開催されました。大会公式の情報によれば、大会期間は五月十八日から二十四日とされ、世界各国からばらの愛好家や専門家が福山に集いました。開催地が福山に決定したのは二〇一八年(平成三十年)です。

Qばらの見頃はいつですか?
A

一般に五月が最大の見頃とされ、この時期に福山ばら祭も開催されます。秋にも返り咲きのばらを楽しめる場合があります。訪れる前に各施設や公式情報で最新の開花状況を確認するとよいでしょう。

Q福山大空襲ではどのくらいの被害があったのですか?
A

福山市や総務省の資料によれば、一九四五年八月八日の福山大空襲では、市街地の約八割にあたる三百十四ヘクタールが焼失し、死者は三百五十四人を数えたと記録されています。国宝だった福山城の天守なども焼失しました。この甚大な被害からの復興のなかで、ばらのまちづくりが始まりました。

Q福山はなぜ「ばら」を選んだのですか?
A

ばらが選ばれた明確な唯一の理由については諸説あり、断定的な記録は多くありません。ただ、戦災で荒廃した街に潤いと希望をもたらす花として、美しく香り高いばらが市民に愛され、育てられていったことが、その後の歴史から確かめられます。「花は美しい、それを愛し育む人の心はなお美しい」という合言葉が、福山のばらの精神をよく表しています。

Qばらのまち福山を訪れるおすすめの時期はいつですか?
A

もっともおすすめなのは、ばらが見頃を迎え、福山ばら祭が開催される五月です。市内各所のばらが一斉に咲き誇り、まち全体がばら一色に染まります。混雑を避けてゆっくり楽しみたい方は、見頃の前後の平日や、秋の返り咲きの時期を狙うのもよいでしょう。いずれの場合も、訪問前に開花状況やイベント日程を公式情報で確認することをおすすめします。

Q「1000本から100万本」とはどういう意味ですか?
A

戦災復興のなかで南公園付近に植えられた約一〇〇〇本のばらが、約六十年を経て二〇一六年に100万本に達したという、福山のばらのまちづくりの歩みを象徴する言葉です。小さな市民の営みの積み重ねが大きな成果につながったことを表しており、福山市の「物語」のなかでも繰り返し語られています。

まとめ――一本のばらから世界へ

「ばらのまち福山」の歴史は、一九四五年の大空襲で焼け野原となった街に、市民が約一〇〇〇本のばらの苗木を植えたところから始まりました。それは、戦争で深く傷ついた人々が、荒廃した街と心に潤いを取り戻そうとした祈りの行為でもありました。福山ばら会の結成、バラ展覧会からばら祭への発展、市の花への制定、そして世界バラ会連合優秀庭園賞の受賞――一歩ずつ積み重ねられた歩みは、やがて「100万本のばらのまち福山」という壮大な構想へとつながっていきます。

二〇一六年、市制施行一〇〇周年に100万本が実現し、二〇二五年には世界バラ会議福山大会が開催されました。約一〇〇〇本から100万本へ、そして世界へ。この物語の主役は、つねに市民でした。思いやり・やさしさ・助け合いを表す「ローズマインド」は、ばらの花とともに、これからも世代を越えて受け継がれていくことでしょう。福山を訪れる機会があれば、ぜひばら公園に足を運び、一本一本のばらに込められた人々の心の歴史に思いをはせてみてください。

出典・注意

本稿は、福山市公式ホームページ「ばらのまち福山」「ばらのまち福山の歴史」「『1000本のばらから100万本のばら』物語」、福山市の公園緑地課・関連部局による公開情報、総務省「一般戦災死没者の追悼」の福山市戦災状況、第20回世界バラ会議福山大会2025の公式情報などをもとに、確認できた範囲で記述しています。年号・本数・経緯などは公開時点の資料に基づくものであり、最新の数値や状況は変動する場合があります。

※年代・経緯には諸説ある事項を含みます。詳細は各施設・公式情報や郷土資料でご確認ください。

最終更新: 2026年6月10日

史跡情報は福山NOTE 史跡図鑑(fn_history)より。