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🏯 歴史

クワイ(慈姑)の歴史|全国シェア日本一、福山が育てた縁起物の野菜

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クワイ(慈姑)の歴史|全国シェア日本一、福山が育てた縁起物の野菜

正月のおせち料理に、青みを帯びた丸い実から一本の芽がぴんと天を突くように伸びた野菜が盛り付けられているのを見たことがあるだろうか。それが「くわい(慈姑)」である。芽が出る姿から「めでたい(芽・出・たい)」に通じる縁起物として、古くから祝いの膳を彩ってきた。そして、その全国一の産地が、ここ広島県福山市だ。芦田川がはぐくんだ温暖な平野の水田で、福山のくわいは全国シェアのおよそ七割を占めるまでに育ち、流通量の六割を握る一大産地となった。明治のころ、福山城の堀のひとすみで始まったささやかな栽培が、なぜ日本一の特産にまで成長したのか。本稿では、福山のくわいが歩んできた歴史を、確かな史実に沿ってたどっていく。

くわいは決して派手な野菜ではない。スーパーの野菜売り場でも、出回るのは年末のごくわずかな期間に限られる。しかし福山に暮らす人々にとっては、城の名と並んで誇りとされる「まちの宝」であり、農家が代々手をかけて守り継いできた在来の作物である。本記事では、くわいという作物そのものの来歴から、福山での栽培の始まり、出荷組合の結成による産地化、全国一への道のり、地域団体商標やGI(地理的表示)登録による現在のブランド確立まで、時代を追ってていねいに見ていきたい。あわせて、味わい方や関連する福山の歴史スポットも紹介する。

ゆかりの史跡・図鑑

福山のくわいは、福山城の堀から始まったと伝わる作物である。その歴史は、城下町としての福山の成り立ちや、芦田川が運んだ豊かな平野の歴史と分かちがたく結びついている。ここでは、くわいの物語とゆかりの深い福山の史跡を図鑑形式で紹介する。城跡や水辺の景観、城下の町並みなど、くわいの背景にある福山の歴史をあわせて知ることで、この縁起物の野菜の奥行きがいっそう感じられるはずだ。

福山城 伏見櫓 📖江戸時代(元和年間)📍 福山駅前(福山市街)福山城 📖近世(江戸)📍 丸之内福山城博物館 📖近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)📍 福山駅前(福山市街)草戸千軒町遺跡 📖中世📍 草戸町明王院 📖中世📍 草戸町鞆の津の町並み(重伝建) 📖江戸時代(中世〜近代の建造物群)📍 鞆町鞆の浦の常夜燈と港湾施設 📖江戸時代📍 鞆町福山市鞆の浦歴史民俗資料館 📖近代(昭和)📍 鞆町鞆の浦 📖中世〜近世📍 鞆町福禅寺 対潮楼 📖近世📍 鞆町太田家住宅 📖江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)📍 鞆町いろは丸展示館 📖近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)📍 鞆町仙酔島古代(地質)/近代(指定)📍 鞆町廉塾(菅茶山旧宅) 📖近世📍 神辺町神辺城跡 📖中世📍 神辺町福山八幡宮 📖近世📍 北吉津町沼名前神社 📖近世📍 鞆町阿伏兎観音(磐台寺観音堂)近世📍 沼隈町吉備津神社(備後一宮)江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる📍 新市町素盞嗚神社(備後一宮) 📖飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮📍 新市町
史跡時代概要📍 エリア詳細
福山城 伏見櫓江戸時代(元和年間)伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最…📍 福山駅前(福山市街)下へ ↓
福山城近世(江戸)備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御…📍 丸之内下へ ↓
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素盞嗚神社(備後一宮)飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏の…📍 新市町下へ ↓
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福山城 伏見櫓

江戸時代(元和年間) / 📍福山駅前(福山市街)

伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最古級の三層入母屋造の現存櫓。 福山城伏見櫓は、元和8年(1622年)の福山城築城に際し、城主水野勝成が将軍徳川秀忠から下賜を受け、京都の伏見城から移築させたと伝えられる櫓である。長らく伝承とされていたが、昭和29年(1954年)の解体修理の際、梁の陰刻に「松ノ丸ノ東やく(ら)」の文字が発見され、伏見城からの移築を裏付ける確かな遺構であることが明らかになった。構造は三層入母屋造で、初層と二層を同じ柱割とし、その上にやや小さい三層を望楼状に載せる。桁行八間・梁間三間、本瓦葺の規模をもつ。慶長期の城郭建築の様式を残す初期の典型として価値が高く、昭和8年(1933年)1月23日に国の重要文化財に指定された。福山城内に現存し、特別公開が行われることもある。

🕰 時代江戸時代(元和年間)
🏛 成立・築造元和8年(1622年)水野勝成の福山城築城時に伏見城から移築。国指定重要文化財(昭和8年=1933年1月23日指定)
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目(福山城内)
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福山城

近世(江戸) / 📍丸之内

備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御門は京都伏見城からの移築と伝わる。2022年に築城400年を迎えた。

🕰 時代近世(江戸)
🏛 成立・築造1622年(元和8)・水野勝成
👤 関連水野勝成・阿部正弘
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目8
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福山城博物館

近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期) / 📍福山駅前(福山市街)

水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩の歴史を体験型展示で伝える博物館 福山城博物館は、JR福山駅のすぐ北に建つ福山城天守内に置かれた市立の歴史資料館です。福山城は1622年(元和8年)、徳川譜代の大名・水野勝成が西国鎮衛の拠点として築いた近世城郭で、天守は1931年に国宝に指定されました。しかし1945年8月の福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリート造で外観が復興され、その内部が博物館として公開されました。2022年には築城400年に合わせて大規模リニューアルされ、北面の鉄板張り(黒い装い)の再現や、一番槍レース・火縄銃などの体験型コンテンツ、デジタル映像を用いた展示が整えられ、福山城と福山藩の歴史を学べる施設となっています。城内に現存する伏見櫓と筋鉄御門は、京都・伏見城からの移築と伝えられ、国の重要文化財に指定されています。常設展は有料、月曜休館とされます。

🕰 時代近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)
🏛 成立・築造福山城は1622年(元和8年)に初代福山藩主・水野勝成が築城。天守は1945年福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリートで外観復興、内部を博物館として開館。2022年に大規模リニューアル
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目8番
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鞆の津の町並み(重伝建)

江戸時代(中世〜近代の建造物群) / 📍鞆の浦

潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と町家が一体で残る重伝建地区 鞆の浦は瀬戸内海の中央に位置し、古来「潮待ちの港」として栄え、万葉集にも詠まれた歴史を持つとされる。江戸時代には北前船など廻船の寄港地として繁栄し、朝鮮通信使の寄港地ともなった。2017年(平成29年)11月28日、「福山市鞆町伝統的建造物群保存地区」として約8.6ヘクタールが国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。範囲は鞆字西町の全域を中心に、石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地の一部に及ぶ。中世から江戸期に整えられた地割の上に、江戸時代から昭和30年代までの町家や寺社、石垣などが一体的に残る近世港町の景観が評価された。常夜燈・雁木・波止・焚場・船番所の5つの港湾施設がほぼ完全に残る点は全国でも稀とされる。広島県内では3例目の選定で、2018年には日本遺産にも認定された。

🕰 時代江戸時代(中世〜近代の建造物群)
🏛 成立・築造2017年(平成29年)11月28日に国の重要伝統的建造物群保存地区へ選定。地割は中世〜江戸期、建造物は江戸時代〜昭和30年代まで。
📍 所在地広島県福山市鞆町(鞆字西町全域ほか、字石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地字古城跡・草谷の各一部)
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鞆の浦の常夜燈と港湾施設

江戸時代 / 📍鞆の浦

江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯一の近世港、鞆港。 鞆の浦の鞆港には、常夜燈・雁木・波止・焚場(たでば)・船番所という江戸時代の港湾施設5点がほぼ揃って現存し、これらが一体で残るのは全国でも鞆港のみとされる。シンボルの常夜燈は安政6年(1859)の刻銘をもつ石造灯台で、海中の基礎石から宝珠の頂までは約12.1mに及び、江戸期の石造常夜燈としては国内最大級とされる。雁木は潮の干満に応じて船を着けられる階段状の船着き場で、半円形の港内に連続して巡らされている。波止は花崗岩を積んだ全長約146mの防波堤で、江戸後期に築かれ明治期に修築された。鞆港を含む沿岸と沖の島々一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定され、鞆町西町を中心とする区域は2017年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。日本遺産「瀬戸の夕凪が包む 国内随一の近世港町」の構成要素でもある。

🕰 時代江戸時代
🏛 成立・築造常夜燈は安政6年(1859)造立とされる。雁木・波止・焚場・船番所は江戸後期築造、波止は明治期に修築。鞆港一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定。
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆
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福山市鞆の浦歴史民俗資料館

近代(昭和) / 📍鞆の浦

鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬戸内の歴史・民俗を伝える市立資料館 福山市鞆の浦歴史民俗資料館は、広島県福山市鞆町後地に建つ市立の博物館で、「潮待ちの館」の愛称で親しまれる。1977年(昭和52年)からの地元有志による調査・収集活動を背景に、福山市制70周年記念事業として1988年(昭和63年)に開館した。立地は、福島正則が築いたとされる鞆城跡(福山市指定史跡)の高台で、瀬戸内海を見渡せる。万葉の時代から潮待ち・風待ちの港として栄えた鞆の浦を中心に、古代から近世にいたる歴史資料を展示。鯛網漁のジオラマや錨を製造した鍛冶場、朝鮮通信使関連資料、保命酒に関する資料に加え、お手火神事・お弓神事といった地域の民俗文化財も常設展示する。鞆の歴史と暮らしを総合的に学べる拠点とされる。

🕰 時代近代(昭和)
🏛 成立・築造1988年(昭和63年)開館。福山市制70周年記念事業として建設。建つ鞆城跡は福島正則が築いたとされる(福山市指定史跡)
📍 所在地広島県福山市鞆町後地536-1
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太田家住宅

江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期) / 📍鞆の浦

鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で、国の重要文化財 鞆の浦を代表する歴史的建造物で、薬用酒「保命酒」の醸造で財を成した商家の旧宅。もとは大坂の漢方医を出自とする中村家の屋敷で、明暦元年(1655年)に鞆へ移り住み、まもなく十六味地黄保命酒の製造・販売を始めて大ヒットし、福山藩の御用名酒屋として販売独占権を得たとされる。明治期に廻船業を営んだ太田家が継承し、現在の名で呼ばれる。主屋を中心に保命酒蔵や各種土蔵など九棟が建ち並び、建築年代は18世紀中期から19世紀前期に及ぶ。瀬戸内の商家建築を伝える貴重な遺構として、1991年に国の重要文化財に指定された。幕末には三条実美ら尊王攘夷派の公卿が立ち寄ったと伝わり、別宅の朝宗亭とともに「鞆七卿落遺跡」として広島県の史跡(1940年指定)にもなっている。

🕰 時代江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)
🏛 成立・築造主屋は18世紀中期、ほか北保命酒蔵が天明8年(1788年)、西蔵が寛政元年(1789年)、東保命酒蔵が寛政7年(1795年)など18世紀中期〜19世紀前期。国の重要文化財指定は1991年(平成3年)5月31日。
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆842
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いろは丸展示館

近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期) / 📍鞆の浦

坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵を活かした資料館 鞆の浦のシンボル常夜灯(とうろどう)のすぐそばに建つ資料館。1867年(慶応3年)、坂本龍馬と海援隊が運航したいろは丸が紀州藩の明光丸と備後灘で衝突・沈没した「いろは丸事件」を伝える施設で、その談判が鞆の浦で行われた縁にちなむ。建物は江戸期に建てられた太い梁が印象的な土蔵で、地元では「大蔵」と呼ばれ、国の登録有形文化財とされる。館内には海底に沈むいろは丸を再現したジオラマ、引き揚げられた陶器や部品、調査風景の写真などを展示し、2階には龍馬が宿泊先で身を潜めたという「隠れ部屋」が再現され、龍馬の蝋人形も置かれている。1989年(平成元年)7月の開館。幕末史と鞆の港町文化を同時に味わえるスポットである。

🕰 時代近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)
🏛 成立・築造1989年(平成元年)7月開館。建物は江戸期築の土蔵「大蔵(浜蔵)」で、国の登録有形文化財とされる。展示題材のいろは丸事件は1867年(慶応3年)
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆843-1
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仙酔島

古代(地質)/近代(指定) / 📍鞆の浦

鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連なる瀬戸内海国立公園の名勝 仙酔島は鞆の浦の沖合に浮かぶ周囲約6キロの島で、住所は福山市鞆町後地。鞆港から市営渡船で約5分の距離にあり、観光客の往来はあるが定住者のいない無人島とされる。1925年(大正14年)に国の名勝「鞆公園」の一部として指定され、1934年(昭和9年)には日本で最初に指定された国立公園・瀬戸内海国立公園に含まれた。島は約9000万年前の大規模な火山活動による溶結凝灰岩を主体とし、南側海岸には青・赤・黄・白・黒の岩が200メートル以上連なる「五色岩」が見られ、地質的に貴重とされる。「仙人が酔うほど美しい島」が名の由来と言われる。江戸後期の学者・頼山陽が当地の景観を「山紫水明」と評したとも伝わる。

🕰 時代古代(地質)/近代(指定)
🏛 成立・築造1925年(大正14年)国名勝「鞆公園」に指定。1934年(昭和9年)日本初の国立公園・瀬戸内海国立公園に編入。島自体は約9000万年前の火山活動で形成されたとされる
📍 所在地広島県福山市鞆町後地
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吉備津神社(備後一宮)

江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる / 📍新市・北部

備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で「いっきゅうさん」と親しまれる古社 福山市新市町宮内に鎮座する備後国一宮で、地元では「一宮さん(いっきゅうさん)」と親しまれる。社伝では大同元年(806年)に吉備国の吉備津神社から勧請し創建されたと伝わるが、延喜式神名帳に記載がないことなどから実際の成立はより後とする説もある。主祭神は吉備国を治めたとされる大吉備津彦命。現在の本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が旧規模にならい造営したもので、桁行七間・梁間四間の入母屋造檜皮葺、国の重要文化財に指定されている。ほかにも木造狛犬や太刀などが重要文化財として伝えられ、複数の建造物が広島県・福山市指定文化財となっている。隣接する櫻山城跡なども史跡として知られ、備後の信仰と歴史を今に伝える。

🕰 時代江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる
🏛 成立・築造本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が造営、国の重要文化財。創建は大同元年(806年)と伝わるが諸説ある
📍 所在地広島県福山市新市町宮内400
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素盞嗚神社(備後一宮)

飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮 / 📍新市・北部

祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏のけんか神輿で名高い古社 福山市新市町戸手に鎮座する素盞嗚神社は、『延喜式神名帳』に載る式内社で備後国一宮を称し、旧社格は県社です。主祭神は素盞嗚尊で、稲田姫命・八王子を配祀します。社伝では天武天皇の治世、7世紀ごろ(679年か)の創建とされます。『釈日本紀』所収の「備後国風土記」逸文に伝わる蘇民将来説話の舞台「疫隈国社」と結びつけられ、茅の輪くぐりや祇園信仰・祇園祭発祥の地の一つとされています。神仏習合期には牛頭天王を祀り、遣唐使・吉備真備が734年に当社から播磨の広峯神社へ勧請したとも伝わります。毎年7月の例祭では、勇壮なけんか神輿(神輿合わせ)が行われることで知られます。

🕰 時代飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮
🏛 成立・築造社伝では天武天皇期の7世紀ごろ(679年か)創建とされる。『延喜式神名帳』記載の式内社で、旧県社
📍 所在地広島県福山市新市町大字戸手1-1

くわい(慈姑)とは何か――作物としての基礎

芦田川の河口部
芦田川の河口部(画像:Wikimedia Commons / CC)

くわいは、オモダカ科オモダカ属に分類される水生植物の一種で、水田などの浅い水辺で育つ。私たちが食べるのは、地下に伸びた「ほふく茎」の先にできる球茎(塊茎)の部分だ。秋から冬にかけて泥の中でふくらんだこの球茎を掘り上げて収穫する。コロンと丸みのある実から、先端に向かってまっすぐ一本の芽が伸びるのが大きな特徴で、この姿こそが縁起物として珍重されてきた理由でもある。

くわいには大きく「青くわい」「白くわい」、そして在来種である「吹田くわい」などの系統があるとされる。このうち日本で広く流通し、福山で栽培されているのも「青くわい」である。青くわいは丸い球形で、表面が藍色を帯びた鮮やかな青みを持つのが特徴だ。福山ではこの美しい色合いから、青くわいを「田んぼのサファイア」と呼ぶこともある。加熱するとホクホクとした食感になり、独特のほろ苦さのなかにほんのりとした甘みが感じられる。この個性的な味わいが、和食の含め煮や揚げ物などで生きる。

名前の「くわい」については、芽の形が農具の「鍬(くわ)」に似ていることから「鍬芋(くわいも)」と呼ばれ、それが略されて「くわい」になったと言われている。漢字の「慈姑」については、一つの根からたくさんの子球がつく姿が、子をいつくしむ母のように見えることに由来するという説が伝わる。いずれも諸説あるが、子孫繁栄や慈愛のイメージを宿した名であることは、縁起物としての性格をよく物語っている。

くわいそのものは、平安時代に中国から日本へ伝わったとも言われるが、その渡来の経緯には諸説あり、確定したことは多くない。ただ、古くから水田を持つ各地で細々と栽培され、正月の祝い膳に欠かせない食材として大切にされてきたことは確かである。そうした全国に点在する小さな産地のなかから、近代以降に頭ひとつ抜けて大産地へと成長したのが福山だった。

なぜ縁起物なのか――くわいに込められた願い

くわいが正月料理やおせちに欠かせない縁起物とされてきた最大の理由は、その独特の姿にある。丸い球茎から、太くまっすぐな芽が天に向かって勢いよく伸びる。この「芽が出る」さまが、「めでたい(芽・出・たい)」という言葉に重ねられ、新年の祝いにふさわしい食材とされてきた。芽が上へ上へと伸びていく姿は、立身出世や向上を連想させるとも言われ、「出世野菜」として親しまれてきた歴史を持つ。

縁起物としての意味づけには、ほかにもいくつかの言い伝えがある。たとえば、かつて「か」を「くわ」と書き表していたことから、くわいを食べると「快(かい)」となり、一年を快く過ごせるようになる、という語呂合わせも伝えられている。また、慈姑の字の由来に通じる「一つの根に多くの子球がつく」という性質から、子孫繁栄の願いを込める向きもある。これらの言い伝えはいずれも俗説・縁起担ぎの域を出ないものだが、人々がこの野菜にどれほど多くの願いを託してきたかをうかがわせる。

こうした縁起のよさゆえに、くわいはおせち料理のなかでも特別な位置を占めてきた。特に正月の祝い膳に向けた需要が大きく、出荷の最盛期もそこに合わせて年末に集中する。福山のくわいが市場で高く評価されてきた背景には、こうした「縁起物としての需要」と、それに応える「安定した品質と供給」とがしっかりと噛み合っていたことがある。単なる野菜ではなく、新年の幸福を願う気持ちを乗せる器として、くわいは特別な意味を帯びているのだ。

福山の生産者たちは、この縁起物を「ハレの日の食材」として誇りを持って育ててきた。一年の苦労が報われるのは、年の瀬に各地の食卓へくわいが届き、めでたい新年を彩るその瞬間だ。栽培の手間や難しさを越えてこの作物が守られてきた理由のひとつには、こうした「人々の祝いに寄り添う」という、くわいならではの役割があったといえるだろう。

福山でのくわい栽培の起源――福山城の堀から

福山城
福山城(画像:Wikimedia Commons / CC)

福山でのくわい栽培の始まりは、明治の終わりごろにさかのぼると伝えられている。複数の資料によれば、その起源は明治35年(1902年)ごろ、福山市の千田町あたりの沼地に自生していたくわいを、福山城周辺の堀に移し植えたことにあるとされる。城の堀は埋め立てや造成によって土地が新しく、なおかつ肥沃であったため、そこで育ったくわいの出来が非常に良かったという。その良質な出来を見て、本格的な栽培へと広がっていったと伝わる。

農林水産省の地理的表示(GI)登録に関する資料でも、福山のくわいの歴史について「明治35年頃、福山城周辺の肥沃な堀で栽培が始まった」とされている。城の堀という、いかにも城下町・福山らしい場所から栽培が始まったという由来は、この特産品の物語に独特の風情を添えている。福山城は、初代福山藩主・水野勝成が江戸時代初期に築いた城であり、その堀がのちに名産野菜のゆりかごになったというのは、歴史の偶然がもたらした面白い縁といえるだろう。

もっとも、こうした「堀での栽培開始」という由来には、伝承として語り継がれてきた側面もあり、細部については諸説ある点に留意したい。沼地に自生していたものを城の堀に移したのか、あるいは別の経緯があったのか、史料の解釈には幅がある。ただ、明治末から大正・昭和初期にかけて、福山の市街地周辺で本格的なくわい栽培が始まり、根づいていったという大きな流れについては、各種資料がおおむね一致している。

栽培の場は、やがて城の堀から市街地南東側へと広がっていった。福山城の南東に位置する川口町、新涯町、曙町といった地域は、芦田川が運んだ土砂が堆積してできた低湿な土地で、水を張る水田耕作に向いていた。こうした地形と土壌が、水生植物であるくわいの栽培にうってつけだったのである。城の堀という小さな点から始まった栽培は、平野の水田という広い面へと展開し、産地としての厚みを増していった。

芦田川と瀬戸内――くわいを育てた土地の条件

福山がくわいの一大産地となった背景には、この土地ならではの自然条件がある。まず大きいのが、瀬戸内海式気候の温暖さと、日照時間の長さだ。瀬戸内地域は年間を通じて晴れの日が多く、降水量が比較的少ない穏やかな気候で知られる。この温暖で日照に恵まれた気候が、くわいの生育に適していたとされる。冬場の収穫期にも極端な寒さに見舞われにくいことは、年末の出荷を主とするくわい栽培にとって有利な条件であった。

そしてもうひとつ欠かせないのが、芦田川の存在である。芦田川は福山平野を貫いて瀬戸内海へ注ぐ、備後地方を代表する川だ。この川の流域に広がる低地の水田が、くわいの栽培地となってきた。くわいは栽培期間中、常に水を張った湛水状態を保つ必要がある水生作物であり、安定して水を得られる芦田川流域の水田環境は、その栽培にまさにうってつけだった。川がはぐくんだ豊かな水と肥沃な沖積土が、福山のくわいを支える土台となっている。

芦田川下流の福山平野は、もともと遠浅の海や潟であった場所を、長い年月をかけて干拓・新田開発してきた歴史を持つ。福山城下の整備とともに進められた新田造成は、城下の発展を支えると同時に、のちの農業の基盤をかたちづくった。川口町や新涯町といった地名に「川」「涯(みぎわ)」の字が含まれることからも、これらの地域がもともと水辺・新開地であったことがうかがえる。くわい栽培は、こうした水と深く関わってきた土地の歴史の延長線上にあるのだ。

水田というと一般には米作りを思い浮かべるが、福山のくわい栽培は、その水田を米とは異なる縁起物の野菜づくりに生かしてきた点に特色がある。温暖な気候、豊かな水、肥沃な土壌――この三つの条件がそろってはじめて、くわいの安定した生産が可能になった。自然の恵みと先人の土地づくりの積み重ねが、日本一の産地・福山を準備したといえるだろう。

産地化への歩み――出荷組合の結成

福山ばら公園(「ばらのまち福山」の象徴)
福山ばら公園(「ばらのまち福山」の象徴)(画像:Wikimedia Commons / CC)

城の堀や水田で個々の農家が育てていたくわいが、ひとつの「産地」として全国に名を知られるようになるには、生産者がまとまって出荷する仕組みが必要だった。その転機となったのが、昭和42年(1967年)の「福山くわい出荷組合」の設立である。この組合の結成によって、福山のくわい栽培は個別の生産から、共同出荷を軸とした組織的な産地へと大きく踏み出すことになった。

出荷組合の設立にあわせて、川口に集積場(共同の出荷施設)が設けられ、生産者が育てたくわいを一カ所に集めて選別・出荷する体制が整えられた。バラバラに出荷していたものを集約し、品質や規格をそろえて市場に送り出すことで、産地全体としての信頼度を高めようという取り組みである。共同出荷は、量をまとめて安定供給するだけでなく、一定の品質を保証するうえでも大きな意味を持っていた。

市場、とりわけ大都市の青果市場に対して「福山のくわいは品質が安定している」「規格がそろっている」という評価を勝ち取ることは、産地が生き残るうえで決定的に重要だった。福山くわい出荷組合は、共同選果と共同出荷を通じて、そうした市場の信頼を地道に積み上げていった。年末の祝い需要に向けて、確かな品質のくわいを、確かな量だけ届ける――その積み重ねが、福山という産地のブランド価値を少しずつ高めていったのである。

こうした組織的な産地形成の努力は、すぐに全国一の地位へと直結したわけではない。だが、出荷組合の結成と共同出荷体制の確立は、その後の飛躍を支える土台となった。生産者が手を取り合い、品質と信頼を旗印に掲げて市場に向き合ったこと――それが、のちに福山を日本一の産地へと押し上げる原動力になったといえるだろう。

全国一への道のり――生産量日本一の達成

福山くわい出荷組合の結成から長い努力を経て、福山のくわいはついに全国一の座をつかむことになる。資料によれば、平成7年(1995年)から、福山は生産量で全国第一位の産地となったとされる。明治末に城の堀で始まったとされる栽培が、およそ一世紀をかけて日本一の特産にまで成長したのである。これは、温暖な気候や芦田川の水といった自然条件に恵まれただけでなく、出荷組合を中心とした産地ぐるみの努力があってこその到達点であった。

全国一の規模を示す数値として、しばしば引かれるのが全国シェアの大きさだ。福山のくわいは、全国の流通量のおよそ六割を占めるとされ、生産量でも日本一を誇る。より具体的な数字としては、2016年の出荷量が162トンで、全国シェアの72.3パーセントを占めたという記録がある。くわいという作物全体の生産量がもともと多くないなかで、その七割前後を一つの市が担っているという事実は、福山がいかに突出した産地であるかを物語っている。

もっとも、くわいは栽培に手間がかかり、収穫も泥の中から一つひとつ掘り上げる重労働をともなう。そのため、全国的には生産者の高齢化や栽培面積の減少といった課題も抱えている。福山においても、GI登録がなされた2020年時点で、出荷組合に所属する農家は64戸、栽培面積は約17ヘクタールとされ、決して大規模とはいえない。日本一とはいえ、限られた担い手が手間をいとわず守り続けている特産品であることを忘れてはならない。

裏を返せば、これだけ手のかかる作物を、福山の生産者たちは世代を超えて守り抜いてきたということである。種球の準備から田植え、水管理、そして泥の中での収穫、洗浄、選別まで、くわい栽培は一年を通じて細やかな手仕事の連続だ。その労苦の上に「全国一」という看板は成り立っている。日本一という言葉の背後にある、人々の地道な営みにこそ、福山のくわいの本当の価値があるといえるだろう。

くわい栽培の一年――種球から収穫まで

福山のくわいがどのように作られているのか、その栽培の流れを知ると、この作物への見方が変わる。くわい栽培は、前年に自家採種した種球(くわいの球茎)を冷蔵保存しておくところから始まる。市場に出すための実とは別に、翌年の植え付け用の種球を毎年自分たちで確保し続けるのだ。在来の青くわいの特性を保つうえでも、こうした自家採種の積み重ねは大きな意味を持っている。

春になると、保存しておいた種球を水田に植え付ける。くわいは水生植物であるため、栽培の間は田に水を張った湛水状態を常に保つ必要がある。水が切れないよう、また水温や水深に気を配りながら、夏の生育期を管理していく。地上では細長い葉が茂り、地下ではほふく茎が伸びて、その先に新しい球茎が次々とふくらんでいく。この球茎こそが、収穫の対象となる「くわい」である。

収穫の時期は、おおむね秋の終わりから年末にかけてだ。福山では11月の中旬ごろから出荷が始まり、正月のおせち需要に向けて年末にかけて最盛期を迎える。収穫は、泥水を張った田んぼの中から、ひとつひとつのくわいを手探りで掘り出していく、たいへんな重労働である。冷たい水に手を入れての作業は体にこたえるが、芽を折らないよう、傷をつけないよう、ていねいに掘り上げていく。

掘り上げたくわいは、泥を落とすために二度にわたって洗浄され、その後サイズ別に選別される。福山のくわいが市場で高い評価を受けてきた背景には、この厳しい選果体制がある。大きさや形、色つやをそろえ、規格に満たないものを丁寧に取り除くことで、産地全体の品質を保ってきた。種球の確保から湛水管理、収穫、洗浄、選別まで――くわい栽培の一年は、まさに手間ひまの連続なのである。

ブランドの確立――地域団体商標とGI登録

全国一の産地として知られるようになった福山のくわいは、近年、その地位とブランド価値を制度的にも確かなものとしてきた。まず、平成23年(2011年)に「福山のくわい」が地域団体商標として登録された(登録第5385225号)。地域団体商標は、地域名と商品名を組み合わせた名称を、その地域の団体が独占的に使えるようにする制度で、地域ブランドを保護するうえで大きな意味を持つ。これにより、「福山のくわい」という名前が産地のブランドとして法的に裏づけられた。

さらに、令和2年(2020年)6月29日には、農林水産省の地理的表示(GI)保護制度に「福山のくわい」が登録された(登録番号第97号)。GI保護制度は、特定の産地ならではの品質や特徴を備えた農産物・食品について、その産地名を知的財産として保護する仕組みだ。生産地は広島県福山市とされ、登録生産者団体には福山市農業協同組合(JA福山市)が名を連ねている。GI登録は、産地と品質の結びつきを国が公式に認めたあかしであり、福山のくわいのブランドをいっそう確かなものにした。

GI登録にあたっては、福山のくわいの特性として、「表面の青色が鮮やかな美しい外観」と「ほっこりとした食感」が優れている点が評価されたとされる。あわせて、おせち料理における縁起のよい食材としての需要の高さ、長年にわたる安定した供給、そして厳しい選果体制などが、市場関係者から高い評価を受けてきたことも挙げられている。長い歴史のなかで積み上げてきた品質と信頼が、こうした制度上の評価につながったのである。

このように、福山のくわいは「全国一の生産量」という実績に加え、地域団体商標とGIという二つの制度的な裏づけを得て、名実ともにトップブランドとしての地位を固めてきた。制度による保護は、産地の努力を守り、にせものや産地偽装から本物を区別する盾となる。明治の堀から始まったとされる小さな栽培は、いまや知的財産として保護されるブランド作物へと成長したのである。

手作業が支える品質――選別と出荷の現場

福山のくわいが市場で「品質が安定している」と評価され続けてきた背景には、収穫後の徹底した手作業がある。泥水を張った田から掘り上げられたくわいは、まず泥を落とすために洗浄される。資料によれば、福山では収穫後に二度の洗浄を行って泥を丁寧に除去するという。一度では落としきれない泥や汚れを念入りに取り除くことで、青くわい本来の鮮やかな色つやが引き出される。「田んぼのサファイア」と称される美しい外観は、こうした洗いの手間があってこそ保たれているのだ。

洗浄を終えたくわいは、サイズ別に選別される。おせち料理に使われる縁起物だけに、見た目の統一感が重視され、大きさや形、芽の状態をそろえて規格化していく。芽が折れていたり、傷がついていたり、色づきの悪いものは取り除かれ、規格に満たないものは丁寧にはじかれる。GI登録の際にも、福山のくわいの「厳しい選果体制」が市場関係者から高い評価を受けてきたことが評価点のひとつに挙げられている。産地全体で品質の足並みをそろえる仕組みが、ブランドの信頼を支えているのである。

この選別の工程は、機械任せにできない繊細な作業を多く含む。くわいは芽が命であり、その芽を折らないように扱うには人の手と目が欠かせない。一つひとつ手に取り、状態を見極めて分けていく――その地道な積み重ねが、年末の市場に届く「福山のくわい」の品質を決めている。共同出荷の集積場では、こうした選果が産地ぐるみで行われ、規格のそろった製品として送り出されていく。手間を惜しまない現場の仕事こそが、日本一の産地の土台なのだ。

年末に集中する出荷のリズム

福山のくわいの出荷は、正月のおせち需要に合わせて年末に集中する独特のリズムを持つ。出荷が始まるのはおおむね11月中旬ごろで、そこから年末にかけて一気に最盛期を迎える。一年のうちこのわずかな期間に出荷が集中するため、生産者にとっては短期決戦ともいえる忙しさだ。冷たい水のなかでの収穫と、休む間もない洗浄・選別・出荷の作業が、年の瀬の現場では連日続くことになる。

この「年末に売り切る」というリズムは、くわいが縁起物であることと表裏一体だ。需要のピークが正月に集中するからこそ、それに合わせた収穫・出荷の段取りが組まれる。逆に言えば、年末以外の時期にはなかなか流通しにくいという面もある。近年、加工品や新しいメニューによって年間を通じてくわいに親しむ工夫が広がってきたのも、こうした季節の偏りを和らげ、くわいの魅力を一年中届けようという狙いがあるといえるだろう。

城下町・福山の歴史とくわい

福山のくわいの物語は、城下町・福山の歴史と切り離して語ることはできない。栽培の始まりが福山城の堀であったと伝えられること自体、この特産品が城下町の歴史に深く根ざしていることを示している。福山という都市は、江戸時代初期、初代福山藩主・水野勝成が芦田川河口の地に城を築き、城下町を整備したことに始まる。水野勝成は徳川家ゆかりの武将で、新たな城と町を一から造り上げた人物として知られる。

城下町の建設にあたっては、芦田川の流れを整え、低湿地や潟を干拓して新田を開く大規模な土地づくりが進められた。城の堀や水路、新たに生まれた水田は、城下の暮らしと産業を支える基盤となった。くわい栽培が城の堀で始まり、やがて川口町や新涯町といった新開地の水田へと広がっていったという流れは、まさにこの城下町づくりが用意した「水の地形」の上に乗っていたといえる。城を築いた水野勝成の都市計画が、三百年の時を経て名産野菜のゆりかごを準備していた、と見ることもできるだろう。

福山は、城下町としての歴史だけでなく、ものづくりのまちとしての顔も持つ。古くは備後絣(びんごがすり)の産地として、また松永地区の下駄づくりで知られ、近代以降は鉄のまちとしても発展してきた。くわいという農の特産は、こうした多彩な地場産業のなかにあって、福山の「食」と「縁起」を象徴する存在となっている。城、織物、下駄、鉄、そしてくわい――それぞれが福山の歴史の一断面を映し出しているのだ。

また、瀬戸内海に面した福山には、潮待ちの港として栄えた鞆の浦(とものうら)のような歴史的な町並みも残る。海と川がつくり出した地形のなかで、福山は港町・城下町・農村が織りなす豊かな歴史を育んできた。くわいは、その芦田川下流の農の営みが生んだ結晶であり、福山の風土が長い時間をかけてかたちづくった「まちの味」なのである。城や町並みといった史跡とあわせてくわいを味わうとき、この野菜の背後にある歴史の厚みがいっそう感じられるはずだ。

芦田川下流の風土と新開地の歴史

福山のくわいが広がっていった川口町・新涯町・曙町といった市街南東部の地域は、いずれも芦田川下流の低湿地に生まれた土地である。これらの地名には、その成り立ちを物語る手がかりがある。「川口」は川が海へ注ぐ河口部を、「新涯(しんがい)」は新しく開かれた水辺・新開地を意味し、もともと海や潟であった場所を干拓して陸地にしてきた歴史をうかがわせる。くわいという水生作物がこの一帯に根づいたのは、決して偶然ではなく、土地そのものが水と深く関わってきたからである。

城下町・福山の建設にあたっては、芦田川の流れを整え、河口部の遠浅の海や潟を干拓して新田を開く大規模な土地づくりが進められた。こうして生まれた新開地の水田は、当初は米作りを中心に城下の暮らしを支えたが、やがてその一部がくわいの栽培地としても活用されるようになった。常に水を張れる低湿な水田は、湛水状態を必要とするくわいにとって理想的な環境であり、先人が築いた新田の歴史が、思わぬかたちでくわいの産地化を後押ししたのである。

芦田川は、ただ水を供給するだけの存在ではない。上流から運ばれてくる土砂が下流に堆積し、肥沃な沖積土の平野をつくり出してきた。この豊かな土が、良質なくわいを育てる土台となっている。城の堀で「土地が新しく肥沃だったため良質なくわいが育った」と伝えられるのも、もとをたどれば芦田川がもたらした土の力にほかならない。川と平野、そしてそこに暮らす人々の土地づくりの営みが、長い時間をかけて福山のくわいを準備してきたのだ。

水とともにある福山のものづくり

水と土に恵まれた福山平野は、くわいだけでなく、さまざまな農や産業を育んできた。芦田川の水は田畑をうるおし、瀬戸内の温暖な気候とあいまって、この地に多彩な実りをもたらしてきた。くわいは、そうした福山の「水とともにあるものづくり」を象徴する作物のひとつといえる。城の堀や新開地の水田という、人の手が加わった水辺で育つくわいは、自然の恵みと人の営みが交わるところに生まれた特産なのである。

福山が港町・城下町・農村の三つの顔を併せ持つ都市であることは、すでに触れたとおりだ。海に開かれた港、川がつくった平野、そして城を中心に整えられた町――この重層的な地形と歴史のなかで、くわいは農の側面を代表する存在として育ってきた。城や港や織物といった福山の他の歴史的資産とあわせてくわいを見つめ直すと、この野菜が単独で生まれたのではなく、福山という土地の総合的な歴史のなかから生まれてきたことがよくわかる。

現在に受け継がれるもの――福山の宝としてのくわい

今日、福山のくわいは「ふくやまブランド農産物」として認定され、市を代表する特産品のひとつに位置づけられている。年末になると、生産量日本一を誇る福山のくわいの出荷が始まったというニュースが地元で報じられ、季節の風物詩となっている。城の堀から始まったとされるこの作物は、いまや福山の名とともに語られる「まちの宝」として、市民の誇りとなっているのだ。

その一方で、くわい栽培は手間のかかる重労働であり、担い手の高齢化や栽培面積の維持といった課題も抱えている。限られた農家が、毎年自家採種を続け、泥の中での収穫をいとわず、厳しい選果を守り抜くことで、ようやく「全国一」の品質と量が保たれている。日本一の看板は、けっして当たり前のものではなく、生産者の絶え間ない努力によって支えられている、ということを改めて心に留めておきたい。

こうしたなかで、産地ではくわいの新たな魅力づくりにも取り組んできた。伝統的なおせちの含め煮だけでなく、くわいを使ったチップスやポタージュスープといった加工品・新メニューも生まれ、年末以外にもくわいに親しめる工夫が広がっている。縁起物としての伝統を守りながら、現代の食卓に合わせた新しい食べ方を提案することで、くわいの裾野を広げようという試みである。伝統と革新の両輪で、福山のくわいは次の時代へと受け継がれようとしている。

地域団体商標とGIという制度的な裏づけを得たことも、この特産品を未来へつなぐ大きな力となる。本物の「福山のくわい」を守り、産地の努力に正当な評価を与える仕組みが整ったことで、若い担い手にとっても誇りを持って取り組める作物となった。明治の堀から一世紀以上をかけて育まれたこの縁起物が、これからも福山の食文化と歴史を象徴する存在であり続けることが期待される。

福山のくわい関連年表

福山のくわいが歩んできた歴史を、主な出来事とともに年表で整理する。なお、明治期の栽培開始など古い事柄については、伝承として語られてきた側面があり、年代や経緯に諸説を含む点に留意されたい。

くわいの味わい方――おせちから現代の食卓へ

福山のくわいを味わうなら、まずは王道のおせち料理から始めたい。くわいの代表的な調理法といえば、やはり「含め煮(甘煮)」だ。皮をむき、芽を残したまま、だしと砂糖・しょうゆなどでじっくりと煮含める。芽を上にして盛り付けるのが縁起物としての作法とされ、めでたさを演出する。加熱されたくわいは、ホクホクとした独特の食感と、ほろ苦さのなかにほんのりとした甘みを感じさせ、祝いの膳に深みを添える。広島県では、このくわいの甘煮が郷土料理としても親しまれてきた。

近年は、おせち以外の食べ方も広がっている。薄く切って揚げた「くわいチップス(くわいの素揚げ)」は、ほろ苦さとサクサク感が後を引くと人気だ。ほかにも、ほっくりとした食感を生かしたくわいご飯、クリーム煮、ポタージュスープなど、和食にとどまらない多彩なメニューが生まれている。独特のほろ苦さは大人の味わいで、工夫しだいでさまざまな料理に展開できる。年末の縁起物という枠を超えて、日常の食材としてのくわいの可能性も少しずつ知られるようになってきた。

選ぶときは、表面の青みが鮮やかで色つやがよく、芽がしっかりと付いているものがよいとされる。芽が折れてしまうと縁起物としての見栄えが損なわれるため、おせちに使う場合は特に芽の状態に気を配りたい。出回るのは主に11月中旬から年末にかけてのごく限られた時期なので、見かけたら旬を逃さず手に入れたい。福山のくわいは、その色の美しさから「田んぼのサファイア」と称されるだけあって、料理に盛り付けたときの見た目の華やかさも魅力のひとつである。

くわいを味わうことは、単に旬の野菜を口にするだけでなく、福山という土地の歴史や、新年に幸福を願う日本の食文化に触れることでもある。城の堀から始まったとされる栽培の物語、芦田川がはぐくんだ風土、そして「芽が出る」縁起に込められた人々の願い――そうした背景を思いながら一口味わえば、このほろ苦い野菜の味わいもまた格別なものになるだろう。

あわせて知りたい福山の歴史・特産

福山のくわいの歴史をより深く味わうために、福山の都市と産業の歩みもあわせて知っておきたい。くわい栽培の起源とされる福山城は、城下町・福山のすべての始まりであり、芦田川下流の干拓や新田開発もこの城下町づくりから本格化した。城を築いた人物や城の歴史を知ることは、くわいがなぜこの土地で育ったのかを理解する手がかりになる。福山という都市の全体像をつかみたい方は、まず通史ガイドから読み進めるのがおすすめだ。

くわいと並ぶ福山の特産・地場産業についても、ぜひ目を向けてほしい。藍染めの織物・備後絣、松永地区で発展した下駄づくり、近代以降に発展した鉄のまちとしての歴史など、福山には多彩なものづくりの伝統が息づいている。これらの産業は、くわいと同じく、この土地の自然や歴史に根ざして育まれてきた。福山の歴史と文化をひとつのつながりとしてとらえることで、くわいという特産の位置づけもいっそう鮮明になるだろう。

  • 福山の歴史 完全ガイド(通史)――くわいを生んだ城下町・福山の歩みを一望できる総合ガイド。まずはここから。
  • 福山城ガイド――くわい栽培の起源と伝わる城の堀。城下町・福山の出発点を知る。
  • 水野勝成――福山城を築き、城下町と新田開発の礎を築いた初代福山藩主。
  • 備後絣――福山を代表する伝統産業のひとつ、藍染めの織物の歴史。
  • 松永の下駄――松永地区で栄えた下駄づくりの歴史と文化。
  • 鞆の浦の街並み――潮待ちの港として栄えた歴史的町並み。
  • 鉄のまち福山――近代以降に発展した、ものづくりのまち・福山の一断面。

よくある質問(FAQ)

Q福山のくわいは本当に全国一の産地なのですか?
A

はい。福山市はくわいの生産量で全国第一位とされ、流通量のおよそ六割を占める日本一の産地です。資料によれば、平成7年(1995年)から生産量全国一位となり、2016年には出荷量162トン、全国シェア72.3%を占めたとされています。

Q福山でのくわい栽培はいつ始まったのですか?
A

明治35年(1902年)ごろ、千田町の沼地に自生していたくわいを福山城周辺の堀に移し植えたことが始まりと伝えられています。城の堀で良質なくわいが育ったことから、本格的な栽培へと広がったとされます。ただし古い事柄のため、経緯には諸説があります。

Qなぜくわいは正月の縁起物とされるのですか?
A

丸い球茎から芽がまっすぐ伸びる姿が「芽が出る=めでたい(芽・出・たい)」に通じ、また立身出世を連想させることから、縁起物とされてきました。「快く一年を過ごせる」といった語呂合わせや、子孫繁栄の願いを込める言い伝えもありますが、これらは縁起担ぎの域を出ないものです。

Q福山で作られているのはどんな品種のくわいですか?
A

福山で栽培されているのは、日本で広く流通する「青くわい」です。丸い球形で表面が藍色を帯びた鮮やかな青みを持ち、その美しさから「田んぼのサファイア」とも呼ばれます。加熱するとホクホクとした食感になり、ほろ苦さのなかに甘みが感じられます。

Qくわいの名前や「慈姑」という漢字の由来は?
A

芽の形が農具の「鍬(くわ)」に似ていることから「鍬芋」と呼ばれ、略されて「くわい」になったと言われています。漢字の「慈姑」は、一つの根に多くの子球がつく姿が子をいつくしむ母のように見えることに由来するという説が伝わりますが、いずれも諸説あります。

Qなぜ福山はくわいの栽培に向いているのですか?
A

瀬戸内海式気候の温暖さと日照時間の長さ、そして芦田川流域に広がる豊かな水と肥沃な水田が、水生植物であるくわいの栽培に適しているとされます。常に水を張る湛水状態を保てる芦田川下流の低地の環境が、くわいづくりを支えています。

Q福山くわい出荷組合とは何ですか?
A

昭和42年(1967年)に設立された生産者の組合で、川口に集積場を設けて共同出荷体制を確立しました。バラバラだった出荷を集約し、品質や規格をそろえて市場の信頼を高めたことが、のちの全国一への土台となりました。

Q「福山のくわい」はブランドとして保護されているのですか?
A

はい。平成23年(2011年)に地域団体商標(登録第5385225号)として登録され、令和2年(2020年)6月29日には農林水産省の地理的表示(GI)保護制度に登録番号第97号として登録されました。生産地は広島県福山市とされています。

Qくわいの出荷時期はいつごろですか?
A

福山のくわいは、おおむね11月中旬ごろから出荷が始まり、正月のおせち需要に向けて年末にかけて最盛期を迎えます。市場に出回るのは年末のごく限られた時期に集中するため、旬を逃さないようにしたい食材です。

Qくわいはどのように調理して食べますか?
A

代表的なのは、芽を残して煮含める「含め煮(甘煮)」で、おせち料理の定番です。広島県の郷土料理としても親しまれています。ほかに、素揚げにしたくわいチップスや、くわいご飯、クリーム煮、ポタージュスープなど、和洋を問わず多彩な食べ方が広がっています。

Qくわいを選ぶときのポイントは?
A

表面の青みが鮮やかで色つやがよく、芽がしっかりと付いているものが良品とされます。芽が折れていると縁起物としての見栄えが損なわれるため、おせちに使う場合は特に芽の状態に注意して選ぶとよいでしょう。

Qくわいの栽培にはどのくらいの手間がかかるのですか?
A

前年に自家採種した種球を冷蔵保存し、春に植え付け、栽培中は常に水を張った湛水状態を保ちます。収穫は泥の中から一つひとつ掘り上げる重労働で、収穫後は二度の洗浄とサイズ別の選別を行います。一年を通じて細やかな手仕事が必要な、たいへん手間のかかる作物です。

Q福山城とくわいにはどんな関係がありますか?
A

福山でのくわい栽培は、福山城周辺の肥沃な堀で始まったと伝えられています。城を築いた水野勝成による城下町づくりと芦田川下流の干拓・新田開発が、のちのくわい栽培を支える「水の地形」を準備したとも考えられ、城下町・福山の歴史と深く結びついた特産品といえます。

まとめ――堀から日本一へ、福山が育てた縁起物

福山のくわいは、明治35年(1902年)ごろ、福山城周辺の堀で栽培が始まったと伝えられる、縁起物の特産野菜である。芦田川がはぐくんだ温暖な気候と肥沃な水田に支えられ、昭和42年(1967年)の福山くわい出荷組合の結成による共同出荷体制の確立を経て、平成7年(1995年)には生産量全国一の産地へと成長した。いまや全国流通量のおよそ六割を占め、2016年には全国シェア72.3%に達するなど、突出した日本一の産地となっている。

その地位は、平成23年(2011年)の地域団体商標、令和2年(2020年)の地理的表示(GI)第97号登録という制度的な裏づけによって、いっそう確かなものとなった。一方で、くわいは手間のかかる作物であり、限られた担い手が自家採種から泥の中の収穫、厳しい選果までを守り抜くことで、ようやくその品質と量が保たれている。「芽が出る=めでたい」という縁起に人々の願いを乗せながら、福山のくわいは城下町の歴史とともに育まれ、これからも福山の食文化と誇りを象徴する「まちの宝」として受け継がれていくだろう。

出典・ご注意

本記事は、福山市公式ホームページ、広島県公式情報、農林水産省の地理的表示(GI)保護制度に関する公開情報、および各種百科・公的資料をもとに作成しています。年代・経緯・数値については、公開されている資料に基づいて記載しました。

※年代・経緯には諸説ある事項を含みます。詳細は各施設・公式情報や郷土資料でご確認ください。

最終更新: 2026年6月10日

史跡情報は福山NOTE 史跡図鑑(fn_history)より。