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🏯 歴史

鉄のまち福山|日本鋼管(JFE)と戦後の発展

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鉄のまち福山|日本鋼管(JFE)と戦後の発展

広島県福山市の海辺に立つと、煙突の列と巨大なクレーン、そして昼夜を問わず稼働を続ける製鉄所の姿が目に入る。福山という都市を語るとき、戦国の福山城や潮待ちの港・鞆の浦と並んで欠かせないのが、この「鉄のまち」としての顔である。戦後、人口十数万の地方都市にすぎなかった福山が、わずか二十年で人口三十万を超える中核都市へと変貌した背景には、日本鋼管(にっぽんこうかん、NKK)福山製鉄所の立地という大きな転機があった。現在のJFEスチール株式会社 西日本製鉄所 福山地区がそれである。

この記事では、福山がいかにして「鉄のまち」になったのか、その誘致の経緯から埋立・建設、操業開始、そして高度経済成長期からオイルショック、平成の経営統合を経て今日に至るまでの歩みを、自治体や企業の公的資料・郷土史をもとにできるだけ正確にたどっていく。年号や経緯には諸説ある事項もあるため、断定できる範囲とそうでない範囲を分けて記すよう努めた。あわせて、製鉄所がもたらした地域社会の変化や、現在に残るゆかりの場所、見学・楽しみ方についても紹介する。

史跡図鑑|福山の歴史を彩る場所

本題に入る前に、福山の歴史を学ぶうえで押さえておきたい史跡・歴史スポットを「史跡図鑑」としてまとめておく。鉄のまちの物語は近現代の産業史だが、その土台には福山城下の町づくりや鞆の浦の海運の歴史が連なっている。下の一覧・比較・詳細から、関心のある場所をたどってほしい。

福山城 伏見櫓 📖江戸時代(元和年間)📍 福山駅前(福山市街)福山城 📖近世(江戸)📍 丸之内福山城博物館 📖近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)📍 福山駅前(福山市街)草戸千軒町遺跡 📖中世📍 草戸町明王院 📖中世📍 草戸町鞆の津の町並み(重伝建) 📖江戸時代(中世〜近代の建造物群)📍 鞆町鞆の浦の常夜燈と港湾施設 📖江戸時代📍 鞆町福山市鞆の浦歴史民俗資料館 📖近代(昭和)📍 鞆町鞆の浦 📖中世〜近世📍 鞆町福禅寺 対潮楼 📖近世📍 鞆町太田家住宅 📖江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)📍 鞆町いろは丸展示館 📖近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)📍 鞆町仙酔島古代(地質)/近代(指定)📍 鞆町廉塾(菅茶山旧宅) 📖近世📍 神辺町神辺城跡 📖中世📍 神辺町福山八幡宮 📖近世📍 北吉津町沼名前神社 📖近世📍 鞆町阿伏兎観音(磐台寺観音堂)近世📍 沼隈町吉備津神社(備後一宮)江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる📍 新市町素盞嗚神社(備後一宮) 📖飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮📍 新市町

史跡時代概要📍 エリア詳細
福山城 伏見櫓江戸時代(元和年間)伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最…📍 福山駅前(福山市街)下へ ↓
福山城近世(江戸)備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御…📍 丸之内下へ ↓
福山城博物館近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩…📍 福山駅前(福山市街)下へ ↓
草戸千軒町遺跡中世芦田川の中州にあった中世の港町・集落遺跡。発…📍 草戸町下へ ↓
明王院中世本堂と五重塔がともに国宝。中世密教寺院で、五…📍 草戸町下へ ↓
鞆の津の町並み(重伝建)江戸時代(中世〜近代の建造物群)潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と…📍 鞆町下へ ↓
鞆の浦の常夜燈と港湾施設江戸時代江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯…📍 鞆町下へ ↓
福山市鞆の浦歴史民俗資料館近代(昭和)鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬…📍 鞆町下へ ↓
鞆の浦中世〜近世瀬戸内の「潮待ちの港」。常夜燈・雁木・波止場…📍 鞆町下へ ↓
福禅寺 対潮楼近世朝鮮通信使の使節が「日東第一形勝」と讃えた客…📍 鞆町下へ ↓
太田家住宅江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で…📍 鞆町下へ ↓
いろは丸展示館近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵…📍 鞆町下へ ↓
仙酔島古代(地質)/近代(指定)鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連…📍 鞆町下へ ↓
廉塾(菅茶山旧宅)近世儒学者・菅茶山が開いた私塾。当時の塾舎・住宅…📍 神辺町下へ ↓
神辺城跡中世備後南部の中世山城。福山城が築かれる以前、備…📍 神辺町下へ ↓
福山八幡宮近世福山城の北に鎮座し、東西二つの宮を備える。歴…📍 北吉津町下へ ↓
沼名前神社近世鞆の「祇園さん」。夏の大松明を担ぐ「お手火神…📍 鞆町下へ ↓
阿伏兎観音(磐台寺観音堂)近世断崖の上に建つ朱塗りの観音堂。国の重要文化財…📍 沼隈町下へ ↓
吉備津神社(備後一宮)江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で…📍 新市町下へ ↓
素盞嗚神社(備後一宮)飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏の…📍 新市町下へ ↓

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福山城 伏見櫓

江戸時代(元和年間) / 📍福山駅前(福山市街)

伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最古級の三層入母屋造の現存櫓。 福山城伏見櫓は、元和8年(1622年)の福山城築城に際し、城主水野勝成が将軍徳川秀忠から下賜を受け、京都の伏見城から移築させたと伝えられる櫓である。長らく伝承とされていたが、昭和29年(1954年)の解体修理の際、梁の陰刻に「松ノ丸ノ東やく(ら)」の文字が発見され、伏見城からの移築を裏付ける確かな遺構であることが明らかになった。構造は三層入母屋造で、初層と二層を同じ柱割とし、その上にやや小さい三層を望楼状に載せる。桁行八間・梁間三間、本瓦葺の規模をもつ。慶長期の城郭建築の様式を残す初期の典型として価値が高く、昭和8年(1933年)1月23日に国の重要文化財に指定された。福山城内に現存し、特別公開が行われることもある。

🕰 時代江戸時代(元和年間)
🏛 成立・築造元和8年(1622年)水野勝成の福山城築城時に伏見城から移築。国指定重要文化財(昭和8年=1933年1月23日指定)
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目(福山城内)
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福山城

近世(江戸) / 📍丸之内

備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御門は京都伏見城からの移築と伝わる。2022年に築城400年を迎えた。

🕰 時代近世(江戸)
🏛 成立・築造1622年(元和8)・水野勝成
👤 関連水野勝成・阿部正弘
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目8
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福山城博物館

近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期) / 📍福山駅前(福山市街)

水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩の歴史を体験型展示で伝える博物館 福山城博物館は、JR福山駅のすぐ北に建つ福山城天守内に置かれた市立の歴史資料館です。福山城は1622年(元和8年)、徳川譜代の大名・水野勝成が西国鎮衛の拠点として築いた近世城郭で、天守は1931年に国宝に指定されました。しかし1945年8月の福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリート造で外観が復興され、その内部が博物館として公開されました。2022年には築城400年に合わせて大規模リニューアルされ、北面の鉄板張り(黒い装い)の再現や、一番槍レース・火縄銃などの体験型コンテンツ、デジタル映像を用いた展示が整えられ、福山城と福山藩の歴史を学べる施設となっています。城内に現存する伏見櫓と筋鉄御門は、京都・伏見城からの移築と伝えられ、国の重要文化財に指定されています。常設展は有料、月曜休館とされます。

🕰 時代近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)
🏛 成立・築造福山城は1622年(元和8年)に初代福山藩主・水野勝成が築城。天守は1945年福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリートで外観復興、内部を博物館として開館。2022年に大規模リニューアル
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目8番
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鞆の津の町並み(重伝建)

江戸時代(中世〜近代の建造物群) / 📍鞆の浦

潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と町家が一体で残る重伝建地区 鞆の浦は瀬戸内海の中央に位置し、古来「潮待ちの港」として栄え、万葉集にも詠まれた歴史を持つとされる。江戸時代には北前船など廻船の寄港地として繁栄し、朝鮮通信使の寄港地ともなった。2017年(平成29年)11月28日、「福山市鞆町伝統的建造物群保存地区」として約8.6ヘクタールが国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。範囲は鞆字西町の全域を中心に、石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地の一部に及ぶ。中世から江戸期に整えられた地割の上に、江戸時代から昭和30年代までの町家や寺社、石垣などが一体的に残る近世港町の景観が評価された。常夜燈・雁木・波止・焚場・船番所の5つの港湾施設がほぼ完全に残る点は全国でも稀とされる。広島県内では3例目の選定で、2018年には日本遺産にも認定された。

🕰 時代江戸時代(中世〜近代の建造物群)
🏛 成立・築造2017年(平成29年)11月28日に国の重要伝統的建造物群保存地区へ選定。地割は中世〜江戸期、建造物は江戸時代〜昭和30年代まで。
📍 所在地広島県福山市鞆町(鞆字西町全域ほか、字石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地字古城跡・草谷の各一部)
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鞆の浦の常夜燈と港湾施設

江戸時代 / 📍鞆の浦

江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯一の近世港、鞆港。 鞆の浦の鞆港には、常夜燈・雁木・波止・焚場(たでば)・船番所という江戸時代の港湾施設5点がほぼ揃って現存し、これらが一体で残るのは全国でも鞆港のみとされる。シンボルの常夜燈は安政6年(1859)の刻銘をもつ石造灯台で、海中の基礎石から宝珠の頂までは約12.1mに及び、江戸期の石造常夜燈としては国内最大級とされる。雁木は潮の干満に応じて船を着けられる階段状の船着き場で、半円形の港内に連続して巡らされている。波止は花崗岩を積んだ全長約146mの防波堤で、江戸後期に築かれ明治期に修築された。鞆港を含む沿岸と沖の島々一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定され、鞆町西町を中心とする区域は2017年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。日本遺産「瀬戸の夕凪が包む 国内随一の近世港町」の構成要素でもある。

🕰 時代江戸時代
🏛 成立・築造常夜燈は安政6年(1859)造立とされる。雁木・波止・焚場・船番所は江戸後期築造、波止は明治期に修築。鞆港一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定。
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆
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福山市鞆の浦歴史民俗資料館

近代(昭和) / 📍鞆の浦

鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬戸内の歴史・民俗を伝える市立資料館 福山市鞆の浦歴史民俗資料館は、広島県福山市鞆町後地に建つ市立の博物館で、「潮待ちの館」の愛称で親しまれる。1977年(昭和52年)からの地元有志による調査・収集活動を背景に、福山市制70周年記念事業として1988年(昭和63年)に開館した。立地は、福島正則が築いたとされる鞆城跡(福山市指定史跡)の高台で、瀬戸内海を見渡せる。万葉の時代から潮待ち・風待ちの港として栄えた鞆の浦を中心に、古代から近世にいたる歴史資料を展示。鯛網漁のジオラマや錨を製造した鍛冶場、朝鮮通信使関連資料、保命酒に関する資料に加え、お手火神事・お弓神事といった地域の民俗文化財も常設展示する。鞆の歴史と暮らしを総合的に学べる拠点とされる。

🕰 時代近代(昭和)
🏛 成立・築造1988年(昭和63年)開館。福山市制70周年記念事業として建設。建つ鞆城跡は福島正則が築いたとされる(福山市指定史跡)
📍 所在地広島県福山市鞆町後地536-1
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太田家住宅

江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期) / 📍鞆の浦

鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で、国の重要文化財 鞆の浦を代表する歴史的建造物で、薬用酒「保命酒」の醸造で財を成した商家の旧宅。もとは大坂の漢方医を出自とする中村家の屋敷で、明暦元年(1655年)に鞆へ移り住み、まもなく十六味地黄保命酒の製造・販売を始めて大ヒットし、福山藩の御用名酒屋として販売独占権を得たとされる。明治期に廻船業を営んだ太田家が継承し、現在の名で呼ばれる。主屋を中心に保命酒蔵や各種土蔵など九棟が建ち並び、建築年代は18世紀中期から19世紀前期に及ぶ。瀬戸内の商家建築を伝える貴重な遺構として、1991年に国の重要文化財に指定された。幕末には三条実美ら尊王攘夷派の公卿が立ち寄ったと伝わり、別宅の朝宗亭とともに「鞆七卿落遺跡」として広島県の史跡(1940年指定)にもなっている。

🕰 時代江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)
🏛 成立・築造主屋は18世紀中期、ほか北保命酒蔵が天明8年(1788年)、西蔵が寛政元年(1789年)、東保命酒蔵が寛政7年(1795年)など18世紀中期〜19世紀前期。国の重要文化財指定は1991年(平成3年)5月31日。
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆842
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いろは丸展示館

近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期) / 📍鞆の浦

坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵を活かした資料館 鞆の浦のシンボル常夜灯(とうろどう)のすぐそばに建つ資料館。1867年(慶応3年)、坂本龍馬と海援隊が運航したいろは丸が紀州藩の明光丸と備後灘で衝突・沈没した「いろは丸事件」を伝える施設で、その談判が鞆の浦で行われた縁にちなむ。建物は江戸期に建てられた太い梁が印象的な土蔵で、地元では「大蔵」と呼ばれ、国の登録有形文化財とされる。館内には海底に沈むいろは丸を再現したジオラマ、引き揚げられた陶器や部品、調査風景の写真などを展示し、2階には龍馬が宿泊先で身を潜めたという「隠れ部屋」が再現され、龍馬の蝋人形も置かれている。1989年(平成元年)7月の開館。幕末史と鞆の港町文化を同時に味わえるスポットである。

🕰 時代近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)
🏛 成立・築造1989年(平成元年)7月開館。建物は江戸期築の土蔵「大蔵(浜蔵)」で、国の登録有形文化財とされる。展示題材のいろは丸事件は1867年(慶応3年)
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆843-1
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仙酔島

古代(地質)/近代(指定) / 📍鞆の浦

鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連なる瀬戸内海国立公園の名勝 仙酔島は鞆の浦の沖合に浮かぶ周囲約6キロの島で、住所は福山市鞆町後地。鞆港から市営渡船で約5分の距離にあり、観光客の往来はあるが定住者のいない無人島とされる。1925年(大正14年)に国の名勝「鞆公園」の一部として指定され、1934年(昭和9年)には日本で最初に指定された国立公園・瀬戸内海国立公園に含まれた。島は約9000万年前の大規模な火山活動による溶結凝灰岩を主体とし、南側海岸には青・赤・黄・白・黒の岩が200メートル以上連なる「五色岩」が見られ、地質的に貴重とされる。「仙人が酔うほど美しい島」が名の由来と言われる。江戸後期の学者・頼山陽が当地の景観を「山紫水明」と評したとも伝わる。

🕰 時代古代(地質)/近代(指定)
🏛 成立・築造1925年(大正14年)国名勝「鞆公園」に指定。1934年(昭和9年)日本初の国立公園・瀬戸内海国立公園に編入。島自体は約9000万年前の火山活動で形成されたとされる
📍 所在地広島県福山市鞆町後地
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吉備津神社(備後一宮)

江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる / 📍新市・北部

備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で「いっきゅうさん」と親しまれる古社 福山市新市町宮内に鎮座する備後国一宮で、地元では「一宮さん(いっきゅうさん)」と親しまれる。社伝では大同元年(806年)に吉備国の吉備津神社から勧請し創建されたと伝わるが、延喜式神名帳に記載がないことなどから実際の成立はより後とする説もある。主祭神は吉備国を治めたとされる大吉備津彦命。現在の本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が旧規模にならい造営したもので、桁行七間・梁間四間の入母屋造檜皮葺、国の重要文化財に指定されている。ほかにも木造狛犬や太刀などが重要文化財として伝えられ、複数の建造物が広島県・福山市指定文化財となっている。隣接する櫻山城跡なども史跡として知られ、備後の信仰と歴史を今に伝える。

🕰 時代江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる
🏛 成立・築造本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が造営、国の重要文化財。創建は大同元年(806年)と伝わるが諸説ある
📍 所在地広島県福山市新市町宮内400
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素盞嗚神社(備後一宮)

飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮 / 📍新市・北部

祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏のけんか神輿で名高い古社 福山市新市町戸手に鎮座する素盞嗚神社は、『延喜式神名帳』に載る式内社で備後国一宮を称し、旧社格は県社です。主祭神は素盞嗚尊で、稲田姫命・八王子を配祀します。社伝では天武天皇の治世、7世紀ごろ(679年か)の創建とされます。『釈日本紀』所収の「備後国風土記」逸文に伝わる蘇民将来説話の舞台「疫隈国社」と結びつけられ、茅の輪くぐりや祇園信仰・祇園祭発祥の地の一つとされています。神仏習合期には牛頭天王を祀り、遣唐使・吉備真備が734年に当社から播磨の広峯神社へ勧請したとも伝わります。毎年7月の例祭では、勇壮なけんか神輿(神輿合わせ)が行われることで知られます。

🕰 時代飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮
🏛 成立・築造社伝では天武天皇期の7世紀ごろ(679年か)創建とされる。『延喜式神名帳』記載の式内社で、旧県社
📍 所在地広島県福山市新市町大字戸手1-1

福山の通史をひととおり押さえたい方は、まず福山の歴史 完全ガイドから読み進めると、城下町の時代から近代・現代までの流れがつかみやすい。本記事はそのうち「戦後の産業発展」に焦点を当てた一編である。

「鉄のまち福山」とは何か――近現代史のなかの位置づけ

芦田川の河口部
芦田川の河口部(画像:Wikimedia Commons / CC)

福山市は広島県の東端、岡山県との県境近くに位置する。江戸時代には水野勝成が築いた福山城の城下町として栄え、瀬戸内海に面した鞆の浦は古くから「潮待ちの港」として知られた海運の要衝だった。しかし、こうした歴史的な蓄積がありながらも、戦前から戦後にかけての福山は、繊維業や農業を中心とした地方都市の域を出ていなかった。

その福山が、全国的にも知られる「鉄のまち」へと姿を変えたのは、昭和三十年代後半から四十年代にかけてのことである。日本鋼管福山製鉄所の立地は、単に一つの大工場ができたという出来事にとどまらない。臨海部の広大な埋立、関連企業や下請けの集積、爆発的な人口増加、都市インフラの整備――都市そのものの構造を作り替えるほどのインパクトを福山にもたらした。

「鉄は国家なり」という言葉が象徴するように、鉄鋼業は戦後日本の高度経済成長を支えた基幹産業であった。自動車、造船、建築、家電――あらゆる産業の素材を供給する鉄鋼業の大規模製鉄所をどこに置くかは、地域の運命を左右する一大事だった。瀬戸内の温暖で工事のしやすい遠浅の海、大型船が入れる立地、そして首都圏や阪神工業地帯への海上輸送の利便性。福山はこうした条件を備えていたことから、巨大製鉄所の候補地として浮上したのである。

本記事で扱う中心的な事実は、郷土史や企業・自治体の公的情報によれば概ね次のように整理される。福山市は昭和三十二年(1957年)に工場設置奨励条例を制定して工業都市への転換を志向し、昭和三十四年(1959年)秋ごろから当時の徳永豊市長らが日本鋼管の誘致運動を本格化させた。昭和三十六年(1961年)十月に誘致協定が結ばれ、県が広大な埋立地を造成、昭和四十年(1965年)二月に日本鋼管福山製鉄所が発足し、翌昭和四十一年(1966年)に第一高炉が火入れされて操業を開始した――というのが大きな流れである。以下、節を分けて詳しくたどっていく。

戦後の福山と工業都市への志向

戦災からの復興と産業構造

福山は太平洋戦争末期の昭和二十年(1945年)八月、空襲によって市街地の大部分を焼失した。福山城の天守も焼失するなど、市の中心部は大きな被害を受けた。戦後の福山は、まずこの戦災からの復興と、焼け跡からの市街地再建という課題に取り組むことになる。

当時の福山の産業は、繊維(綿織物・染色加工)や、周辺の農村地帯を背景とした農業関連が中心であった。しかし、戦後復興が一段落し、日本全体が高度経済成長へと向かうなかで、地方都市が将来にわたって発展していくには、より付加価値の高い近代工業を誘致して産業構造を転換する必要がある――という危機感と展望が、市政の側に生まれていった。

工場設置奨励条例(1957年)の制定

こうした流れのなかで、福山市は昭和三十二年(1957年)に工場設置奨励条例を制定した。これは、市内に工場を設置する企業に対して税の優遇などの便宜を図り、積極的に企業を呼び込もうとする政策である。郷土史の記述によれば、当時の福山市はこの条例を足がかりに、日本エクスランや大昭和製紙といった企業の誘致を構想し、工業都市への脱皮を図ろうとしていたとされる。

この時期、瀬戸内海沿岸の各地では、遠浅の海を埋め立てて臨海工業地帯を造成し、大規模工場を誘致する動きが各地で進んでいた。倉敷市水島、岩国・大竹、坂出、新居浜など、瀬戸内は日本有数の工業ベルトを形成しつつあった。福山もまた、その流れのなかで自らの位置を確保しようとしていたといえる。工場設置奨励条例は、その後の日本鋼管誘致へと続く「工業都市・福山」の出発点に位置づけられる重要な政策だった。

なぜ鉄鋼業だったのか

誘致の対象が最終的に鉄鋼業、すなわち日本鋼管の銑鋼一貫製鉄所となった背景には、当時の日本経済の構造がある。高度経済成長期の日本では、鉄鋼の需要が急増していた。自動車産業の拡大、造船の活況、ビルや橋梁などの建設ラッシュ、家電製品の普及――いずれも大量の鉄を必要とした。鉄鋼各社は需要に応えるべく、臨海部に大規模で最新鋭の一貫製鉄所を次々と建設していた。

銑鋼一貫製鉄所とは、鉄鉱石から銑鉄を作る高炉、銑鉄から鋼を作る製鋼工程、そして鋼を板や形鋼に加工する圧延工程までを一つの敷地で連続して行う、いわばフルセットの巨大工場である。原料の鉄鉱石や石炭は大型船で海外から運び込まれるため、大型船が接岸できる深い港と広大な敷地が不可欠だった。瀬戸内の遠浅の海を埋め立てれば、こうした条件を満たす用地を造成できる。福山の臨海部はその好適地と見なされたのである。

日本鋼管誘致の経緯――陳情と協定

福山城
福山城(画像:Wikimedia Commons / CC)

徳永豊市長と誘致運動の始動

郷土史によれば、福山市が日本鋼管の誘致運動を本格的に始めたのは昭和三十四年(1959年)秋ごろのことで、当時の福山市長・徳永豊が中心となって運動を進めたと伝えられる。大企業の製鉄所を呼び込むには、市単独の力では到底足りない。県や国を巻き込み、政治家や財界に働きかけ、何度も陳情を重ねる、地道で粘り強い活動が必要だった。

巨大製鉄所の立地は、複数の自治体が誘致を争う一大プロジェクトでもあった。どこに製鉄所を置くかをめぐっては、各地が激しく競い合った。福山が最終的に立地先として選ばれた背景には、瀬戸内の良好な立地条件に加え、市・県を挙げた熱心な誘致活動があったとされる。地元では「鉄は国家なり」を合言葉に、官民が一体となって誘致に取り組んだと語り継がれている。

池田勇人首相の仲介と誘致協定(1961年10月)

誘致協定が結ばれたのは昭和三十六年(1961年)十月とされる。郷土史の記述によれば、この協定は当時の内閣総理大臣・池田勇人の仲介によって成立したと伝えられている。池田勇人は「所得倍増計画」を掲げて高度経済成長を主導した政治家として知られ、広島県出身でもあった。福山市はのちに池田勇人を名誉市民とし、その日本鋼管福山製鉄所の誘致への尽力を顕彰している。

協定の内容として郷土史が伝えるところでは、広島県が約730万平方メートル(約220万坪)に及ぶ埋立地を造成し、これを日本鋼管に提供すること、あわせて航路の整備や工業用水の確保などを県・市が担うことなどが盛り込まれていたとされる。提供価格は当初坪あたり5,000円とされ、実際には5,500円となったとも伝えられる。いずれにせよ、航路浚渫や工業用水道の整備を含めれば、県・市にとって多額の財政負担を伴う一大事業であった。それでもなお製鉄所を呼び込もうとしたのは、それに見合うだけの将来の発展が期待されたからにほかならない。

期待された波及効果

製鉄所一つの立地は、その工場で働く従業員の雇用だけにとどまらない。原料の荷揚げや製品の出荷に関わる港湾・物流、設備の保全や工事を担う関連企業、従業員とその家族が暮らす住宅地、商店街、学校、病院――こうした関連需要が次々と生まれ、都市全体が活性化する。これを経済学では「波及効果」と呼ぶが、当時の福山が日本鋼管に賭けたのは、まさにこの波及効果による都市の発展だった。後述するように、その期待は人口の増加という形で現実のものとなっていく。

海を陸に変える――大規模埋立工事

前例のない規模の埋立

製鉄所を建設するには、まず海を埋め立てて広大な平地を造成しなければならない。福山臨海部の埋立は、当時としては前例のない大規模なものだった。郷土史によれば、埋立工事は水野組(現在の五洋建設)が手がけ、昭和三十七年(1962年)三月ごろから昭和四十年(1965年)にかけて施工されたとされる。工事の規模は約140億円に及び、当時の日本記録となるほどの大事業だったと伝えられている。

遠浅の海に土砂を投入し、護岸を築き、広大な人工の陸地を生み出す。今でこそ大規模な埋立は珍しくないが、昭和三十年代の技術と施工能力でこれだけの規模をやり遂げたことは、土木史の上でも注目される。福山の臨海工業地帯は、まさに「海を陸に変えた」事業によって誕生したのである。

広島・岡山の県境をまたぐ敷地

造成された製鉄所の敷地は非常に広大で、現在のJFEスチール西日本製鉄所福山地区は、行政区域としては広島県福山市だけでなく、隣接する岡山県笠岡市にもまたがっている。郷土史や企業資料によれば、福山側と笠岡側を合わせた敷地面積はきわめて広く、県境部分には連絡用の橋(両国橋・新両国橋)が架けられているとされる。一つの製鉄所が二つの県にまたがるという事実だけでも、この施設の規模の大きさがうかがえる。

埋立によって生まれたこの新しい土地には、製鉄所の本体だけでなく、関連企業や物流施設も立地し、瀬戸内有数の臨海工業地帯を形成した。福山港・福山地区の港湾もこれに合わせて整備が進み、原料船・製品船が出入りする一大物流拠点となっていった。

「鋼管町」という地名

埋立によって誕生した製鉄所一帯の土地には「鋼管町(こうかんちょう)」という地名が付けられた。日本鋼管に由来する地名であり、現在もJFEスチール西日本製鉄所福山地区の所在地は「広島県福山市鋼管町一番地」とされている。会社の名前がそのまま町名になっているという事実は、この製鉄所が福山という都市にとっていかに大きな存在であったかを端的に物語っている。鉄のまち福山を象徴する地名といってよいだろう。

製鉄所の発足と操業開始(1965〜1966年)

戦前の福山駅(奥に焼失前の福山城天守。1945年以前)
戦前の福山駅(奥に焼失前の福山城天守。1945年以前)(画像:Wikimedia Commons / CC)

日本鋼管福山製鉄所の発足(1965年2月)

埋立と建設が進むなか、昭和四十年(1965年)二月に「日本鋼管福山製鉄所」が正式に発足した。これが、福山の鉄鋼業の出発点である。日本鋼管(NKK)は明治末の創立にさかのぼる歴史ある鉄鋼メーカーで、当時すでに京浜地区などに製鉄所を有していたが、福山製鉄所は同社が威信をかけて建設した最新鋭の大規模一貫製鉄所だった。

第一高炉の火入れと操業開始(1966年)

製鉄所の心臓部ともいえるのが高炉(溶鉱炉)である。鉄鉱石とコークスを交互に投入し、熱風を送り込んで鉄鉱石を溶かし、銑鉄を取り出す巨大な炉だ。福山製鉄所では、企業資料によれば昭和四十一年(1966年)に操業を開始し、第一高炉の火入れもこの年(1966年八月とされる)に行われた。火入れとは高炉に初めて火を入れて操業を始める儀式であり、製鉄所が本格的に動き出した記念すべき瞬間である。

第一高炉の火入れにより、福山の地で銑鉄の生産が始まった。海を埋め立て、巨大な工場を築き、そこに火が入る――誘致運動の開始からおよそ七年、福山が思い描いた「工業都市」の夢が、ここに具体的な形をとり始めたのである。

高炉の増設と世界最大級の製鉄所へ

第一高炉の操業開始後、福山製鉄所は急速に規模を拡大していく。鉄鋼需要の旺盛な高度経済成長期にあって、製鉄所は次々と高炉を増設した。資料によれば、第一高炉の火入れ(1966年)以降、昭和四十年代を通じて高炉が順次建設され、第五高炉が稼働する昭和四十八年(1973年)ごろまでに、複数の高炉を擁する世界最大規模の製鉄所が完成したとされる。操業開始からわずか七年ほどで世界最大級の製鉄所を作り上げたという事実は、当時の日本の鉄鋼業の勢いと、福山という立地のポテンシャルを物語っている。

製鉄所では高炉だけでなく、製鋼工程(転炉など)や圧延工程の設備も整えられ、鋼板(厚板・薄板)、H形鋼などの形鋼、鋼管、レール(軌条)といった多様な鉄鋼製品が生産されるようになった。これらの製品は、自動車や造船、建築、土木、家電など、日本のものづくりのあらゆる現場へと供給されていった。

銑鋼一貫製鉄所のしくみ

福山製鉄所が「銑鋼一貫製鉄所」と呼ばれるのは、鉄づくりの全工程を一つの敷地で連続して行うからである。少し詳しく見ておこう。まず原料となる鉄鉱石と石炭(コークスの原料)は、大型の貨物船で海外から運び込まれ、岸壁で荷揚げされて原料ヤードに積み上げられる。石炭はコークス炉で蒸し焼きにされ、燃料・還元剤となるコークスになる。鉄鉱石は焼結工場で扱いやすい形に整えられる。

これらを高炉(溶鉱炉)に上から交互に投入し、下から熱風を送り込むと、コークスが燃えて生じる高温とガスによって鉄鉱石が還元され、溶けた銑鉄が炉の底にたまる。取り出された銑鉄はまだ炭素を多く含んでもろいため、製鋼工程(転炉など)で酸素を吹き込んで余分な炭素を取り除き、粘り強い「鋼(はがね)」にする。さらに連続鋳造で固め、圧延工程で板や形鋼、鋼管へと加工して製品とする。原料の荷揚げから製品の出荷まで、すべてが一つの臨海敷地で完結する――これが大型船の入る港と広大な用地を必要とした理由であり、福山臨海部が選ばれた理由でもある。

高炉という巨大装置

製鉄所の象徴である高炉は、内部で千数百度に達する超高温が保たれ、いったん火を入れると数年から十数年にわたって連続稼働を続ける装置である。福山製鉄所では、1966年の第一高炉火入れを皮切りに、高度経済成長期の旺盛な鉄鋼需要に応えるべく高炉が順次増設され、1973年ごろまでに第五高炉までが揃ったとされる。高炉は耐火れんがの寿命などにより、一定期間ごとに操業を止めて内部を改修する「改修(改修工事)」を行いながら、世代を重ねて使われ続ける。そのたびに最新の技術が投入され、生産効率や環境性能が高められてきた。福山地区では近年も高炉の改修が行われ、操業が続けられている。

高度経済成長と福山の変貌

爆発的な人口増加

製鉄所の立地が福山にもたらした最も劇的な変化は、人口の急増である。郷土史によれば、福山市の人口は昭和三十六年(1961年)の約14万6千人から、昭和五十六年(1981年)には約34万8千人へと増加した。二十年間で人口がおよそ2.4倍になった計算で、世帯数も約3万2千戸から約10万6千戸へと大きく増えたとされる。郷土史は、この人口増加の主たる要因として「日本鋼管福山製鉄所の進出によるところが非常に大きい」と評価している。

製鉄所で働く従業員とその家族、関連企業の従業員、そして増えた人口を支えるサービス業の従事者――こうした人々が全国から福山に集まり、街は活気を帯びた。製鉄所周辺には社宅が建ち並び、新しい住宅地が次々と造成された。福山は、瀬戸内の一地方都市から、広島県東部(備後地域)の中心都市へと急成長を遂げていった。

関連産業の集積

大規模製鉄所の立地は、それ自体が一大産業であるだけでなく、周辺に関連産業を呼び込む磁石でもあった。製鉄所に資材や設備を納入する企業、鉄鋼製品を加工する二次・三次の加工業、設備の保全やメンテナンスを担う企業、物流を担う運送業など、製鉄所を中心とした産業の集積が福山臨海部に形成されていった。

福山にはもともと繊維業や、家具・木工、農業機械などの地場産業があったが、鉄鋼業を核とする重化学工業の集積によって、市の産業構造は大きく多角化・高度化した。鉄鋼に加え、福山はその後、デニム生地の生産や造船関連、各種製造業でも知られるようになり、備後地域を代表する「ものづくりのまち」としての性格を強めていった。

都市インフラの整備

急増する人口と産業を支えるため、福山では道路、上下水道、工業用水、港湾、住宅、学校、病院といった都市インフラの整備が急ピッチで進められた。臨海部の埋立と港湾整備、市街地の拡大、新たな団地の造成など、福山の都市の骨格はこの時期に大きく形づくられたといってよい。山陽新幹線の福山駅開業(1975年)も、こうした都市の成長を背景としたものだった。鉄のまち福山の発展は、製鉄所という一企業の枠を超えて、都市そのものの近代化と一体だったのである。

教育・医療・商業の充実

人口の急増は、教育や医療、商業といった生活基盤の整備をも促した。子どもの増加に対応して学校が新設・増設され、増えた市民の健康を支えるために医療機関が拡充された。市の中心部や駅周辺には商業施設が集まり、買い物や娯楽の場としてにぎわった。製鉄所という巨大な雇用の場ができたことで、そこに人が集まり、人が集まればその暮らしを支える産業が育つ――この好循環が、福山を備後地域の中心都市へと押し上げていった。鉄のまちとしての発展は、単に工場が増えたというだけでなく、人々の暮らしの場としての都市が厚みを増していく過程でもあった。

全国から集まった人々

製鉄所とその関連産業は、地元の人々だけでなく、全国各地から多くの働き手を福山に呼び寄せた。新たに福山に移り住んだ人々は、社宅や新興住宅地に暮らし、地域の祭りや行事に加わり、やがて福山の新しい市民として根を下ろしていった。さまざまな土地から来た人々が混じり合うことで、福山の街には新しい活気とおおらかさが生まれたともいわれる。爆発的な人口増加の数字の裏には、こうして福山に新たな生活を築いた一人ひとりの暮らしの物語が積み重なっている。鉄のまち福山の歴史は、製鉄所の歴史であると同時に、そこに集った人々の歴史でもあるのだ。

生産のピークとオイルショック

粗鋼生産のピーク(1975年度)

福山製鉄所の生産は、操業開始後、高度経済成長の波に乗って急拡大した。企業資料によれば、福山地区の粗鋼生産量は昭和五十年度(1975年度)に年間1,343万トンというピークに達したとされる。これは単一の製鉄所(事業所)としては国内最大級の規模であり、福山が名実ともに日本有数の製鉄拠点となったことを示している。日本のものづくりを支える鉄の多くが、この福山の地で生み出されていたのである。

オイルショックと構造転換

しかし、昭和四十八年(1973年)の第一次オイルショック以降、日本経済は高度経済成長の時代から安定成長の時代へと移行し、鉄鋼需要も頭打ちとなっていく。原油価格の高騰はエネルギー多消費型の鉄鋼業を直撃し、生産量はピーク時から徐々に減少していった。世界的にも鉄鋼の供給過剰が問題となり、各製鉄所は規模の調整や合理化を迫られた。

こうしたなかで福山製鉄所は、単に量を追うのではなく、品質の高い製品へとシフトしていった。自動車用の鋼板、飲料缶などに使われる容器用鋼板、家電向けの鋼板など、高い技術力を要する高付加価値製品の生産に重点を移し、量から質への転換を図った。エネルギー効率の改善や省力化、環境対策など、製鉄所の近代化も継続的に進められた。鉄のまち福山は、時代の変化に対応しながら、その地位を保ち続けたのである。

累計粗鋼生産量という金字塔

長年にわたる操業の積み重ねは、累計の生産量という形でも記録されている。企業資料によれば、福山地区の累計粗鋼生産量は、1978年に1億トン、1991年に2億トン、2003年に3億トン、そして2013年には4億トンに到達したとされる。単一の事業所としての累計粗鋼生産量4億トン達成は世界初の記録だったと伝えられており、操業開始(1966年)からおよそ46年10か月での達成だったという。半世紀近くにわたって福山の地で膨大な量の鉄が作られ続けてきたことを示す、まさに金字塔といえる数字である。

経営統合とJFEスチールの誕生

日本鋼管と川崎製鉄の統合(2002年)

平成に入り、鉄鋼業界は世界的な再編の波にさらされた。国際競争の激化を背景に、国内大手鉄鋼メーカーの間で経営統合が進む。そのなかで、福山製鉄所を運営してきた日本鋼管(NKK)は、川崎製鉄との経営統合に踏み切った。企業資料によれば、平成十四年(2002年)九月、両社は株式移転によって持株会社「JFEホールディングス」を設立し、経営統合を果たした。「JFE」は Japan(日本)、Future(未来)、Enterprise(企業)の頭文字に由来するとされる。

JFEスチールの発足(2003年)

翌平成十五年(2003年)四月、JFEホールディングスのもとで事業再編が行われ、日本鋼管と川崎製鉄の鉄鋼部門が統合して「JFEスチール株式会社」が発足した。あわせてエンジニアリング部門はJFEエンジニアリングなどに再編された。これにより、長らく福山の鉄を支えてきた「日本鋼管福山製鉄所」は、「JFEスチール株式会社 西日本製鉄所 福山地区」へとその名を変えることになった。

倉敷と一体の「西日本製鉄所」へ

統合にあたっては、旧川崎製鉄が岡山県倉敷市水島に有していた製鉄所(水島地区)と、旧日本鋼管の福山製鉄所(福山地区)が、一体の「西日本製鉄所」として再編された。瀬戸内をはさんで近接する二つの大製鉄所を一体運営することで、効率化と競争力強化を図ったのである。こうして福山地区は、倉敷地区と並ぶJFEスチール西日本製鉄所の中核拠点として、新たな時代を歩み始めた。

会社の名前は変わっても、福山の臨海部で鉄を作り続けるという営みは途切れることなく続いている。「鋼管町」という地名が今も残るように、福山にとって製鉄所は半世紀を超えて街と共にあり続ける存在である。福山城や鞆の浦が江戸時代の福山を象徴するように、JFEスチール西日本製鉄所福山地区は、戦後・現代の福山を象徴する存在だといえるだろう。

環境対策と地域との共生

大規模な製鉄所は地域に大きな恩恵をもたらす一方で、煤煙や排水などの環境問題とも向き合わなければならなかった。高度経済成長期の日本では各地で公害が深刻化し、産業界には環境対策の強化が強く求められるようになった。鉄鋼業もその例外ではなく、各製鉄所は集塵装置の設置や排水処理、エネルギー効率の改善などに取り組んでいった。福山においても、操業の歴史を重ねるなかで、環境負荷の低減と地域社会との共生が継続的な課題とされ、設備の更新とともに対策が進められてきた。製鉄所が半世紀以上にわたって地域とともにあり続けるには、雇用や経済だけでなく、環境面での信頼関係の構築も欠かせない要素であった。

脱炭素時代の鉄づくりへ

近年、世界的な気候変動対策の流れのなかで、鉄鋼業は大きな転換点を迎えている。高炉でコークスを用いて鉄鉱石を還元する従来の製鉄法は、その過程で多くの二酸化炭素を排出するため、鉄鋼各社は二酸化炭素の排出を抑える新しい製鉄技術の開発に力を注いでいる。電炉の活用や、水素を使った還元など、さまざまな取り組みが模索されている。半世紀以上にわたり日本のものづくりを支えてきた福山の製鉄所もまた、こうした脱炭素時代の鉄づくりへの対応という新たな課題に向き合っている。具体的な技術や計画は時期によって変化するため、最新の状況は企業の公式情報で確認してほしいが、鉄のまち福山の物語は、過去を振り返るだけでなく、未来へと続く現在進行形の物語でもある。

ゆかりの地・現在に残るもの

JFEスチール西日本製鉄所 福山地区

鉄のまち福山を象徴する最大の「現在に残るもの」は、いうまでもなく稼働中の製鉄所そのものである。福山市鋼管町に広がるJFEスチール西日本製鉄所福山地区は、今も日本有数の規模を誇る銑鋼一貫製鉄所として操業を続けている。臨海部を走る道路や橋の上から、あるいは沿岸の高台から、巨大な高炉や煙突、原料ヤード、岸壁に接岸する大型船などを望むことができる。夜間に煙突や設備がライトに浮かび上がる「工場夜景」は、近年では一つの景観として注目されることもある。

なお、製鉄所は稼働中の産業施設であり、自由に立ち入れる観光地ではない。見学を希望する場合は、団体向けの製鉄所見学が実施される場合があるため、事前に公式情報を確認のうえ、所定の手続きに従う必要がある。立入禁止区域や安全上のルールを必ず守ってほしい。

「鋼管町」と臨海部の景観

前述のとおり、製鉄所一帯には「鋼管町」という地名が残り、日本鋼管時代の記憶を今に伝えている。臨海部一帯には製鉄所のほか、関連企業の工場や物流施設が立ち並び、福山の産業を支える一大エリアを形成している。福山港・福山地区の港湾も、原料・製品の海上輸送を担う重要な拠点であり続けている。これらの景観は、戦後の埋立と製鉄所立地によって生まれた「人工の海辺」であり、鉄のまち福山の歴史そのものといえる。

社宅・住宅地に残る痕跡

製鉄所の立地に伴い、福山各地には従業員のための社宅や、関連して造成された住宅地が広がった。これらの住宅地は、爆発的な人口増加を受け止めた都市の受け皿であり、福山の市街地拡大の歴史を物語る存在でもある。当時の社宅群は時代とともに姿を変えつつあるが、地名や街並みのなかに、鉄のまちとして発展した時代の痕跡を見いだすことができる。

城下町・港町の歴史とのつながり

鉄のまち福山の物語は近現代のものだが、それは福山という都市が積み重ねてきた長い歴史の最新の一章にすぎない。戦国から江戸の時代に築かれた福山城の城下町、潮待ちの港として栄えた鞆の浦――こうした歴史的な蓄積の上に、戦後の工業都市・福山が築かれた。製鉄所の歴史をたどったあとに城下町や港町を歩くと、一つの都市が時代ごとにどのように姿を変えてきたかを、立体的に感じ取ることができるだろう。

関連年表――鉄のまち福山のあゆみ

これまで述べてきた出来事を、年表の形で整理しておく。年代や経緯には諸説ある事項も含まれるため、目安として参照してほしい。

モデルコース・楽しみ方

「近現代の福山」を学ぶ半日コース

鉄のまち福山の歴史を実感したいなら、まずは福山駅周辺を起点に、市街地と臨海部を組み合わせて巡るのがおすすめだ。福山駅から徒歩すぐの福山城で城下町としての福山の出発点を学んだあと、市内の博物館・資料館で近現代の歩みに触れ、車や公共交通で臨海部へ向かって製鉄所一帯の景観を遠望する――こうした流れで、城下町から工業都市へと変貌した福山の重層的な歴史を体感できる。ただし製鉄所は稼働中の施設であり、見学は公式の手続きに従うこと。沿道や港湾エリアでは安全と立入ルールを必ず守ってほしい。

鞆の浦と組み合わせる歴史散歩

福山の港町の歴史も味わいたいなら、市南部の鞆の浦まで足を延ばしたい。鞆の浦では、朝鮮通信使も賞賛したと伝わる福禅寺 対潮楼から瀬戸内の多島美を眺め、いろは丸展示館で坂本龍馬といろは丸事件にまつわる歴史に触れ、鞆の浦の街並みを歩けば、近世の海運で栄えた港町の風情を堪能できる。現代の臨海工業地帯と、近世の潮待ちの港。同じ福山の海辺でありながら、まったく異なる二つの時代の表情を対比できるのが、福山ならではの楽しみ方である。

工場夜景を眺める

近年、各地の工業地帯で「工場夜景」が観光資源として注目されている。福山の臨海工業地帯も、夜間にはプラントや煙突がライトに照らされ、独特の幻想的な景観を見せることがある。安全に配慮された場所から遠望すれば、鉄のまち福山の今を象徴する光景に出会えるだろう。ただし、撮影や見物の際は、立入禁止区域に入らない、交通の妨げにならない、私有地に立ち入らないなど、マナーと安全を最優先にしてほしい。

よくある質問(FAQ)

Q日本鋼管福山製鉄所はいつできたのですか?
A

企業・自治体の資料によれば、日本鋼管福山製鉄所は昭和四十年(1965年)二月に発足し、翌昭和四十一年(1966年)に操業を開始しました。第一高炉の火入れも1966年(8月とされる)に行われたとされます。

Qなぜ福山に製鉄所が建てられたのですか?
A

瀬戸内の遠浅の海を埋め立てて広大な用地を確保でき、大型船が入れる港を整備できる立地条件に加え、福山市・広島県を挙げた熱心な誘致活動があったためとされます。郷土史によれば、誘致協定は1961年10月に、当時の池田勇人首相の仲介で結ばれたと伝えられています。

Q製鉄所の誘致に尽力した人物は誰ですか?
A

郷土史によれば、当時の福山市長・徳永豊が誘致運動の中心となったと伝えられます。また、誘致協定の仲介役として池田勇人首相の名が伝えられており、福山市は後に池田勇人を名誉市民として顕彰しています。経緯には諸説あるため、詳細は公的な郷土資料でご確認ください。

Q「鋼管町」という地名の由来は何ですか?
A

製鉄所を運営した「日本鋼管(にっぽんこうかん)」に由来する地名です。現在もJFEスチール西日本製鉄所福山地区の所在地は「福山市鋼管町一番地」とされており、会社名がそのまま町名として残っています。

Q埋立工事はどのくらいの規模だったのですか?
A

郷土史によれば、広島県が約730万平方メートル(約220万坪)に及ぶ埋立地を造成したとされ、工事は水野組(現五洋建設)が昭和三十七年(1962年)三月ごろから施工し、その規模は約140億円に及ぶ当時の日本記録級の大事業だったと伝えられています。

Q製鉄所の立地で福山の人口はどう変わりましたか?
A

郷土史によれば、福山市の人口は昭和三十六年(1961年)の約14万6千人から、昭和五十六年(1981年)には約34万8千人へと増加したとされます。世帯数も大きく増え、その主因は日本鋼管福山製鉄所の進出によるところが大きいと評価されています。

Q福山製鉄所ではどんな製品が作られていますか?
A

鋼板(厚板・薄板)、H形鋼などの形鋼、鋼管、レール(軌条)など、多様な鉄鋼製品が生産されてきました。自動車用や容器用、家電向けなど、高付加価値の鋼板生産にも力を入れているとされます。

Q粗鋼生産のピークはいつでしたか?
A

企業資料によれば、福山地区の粗鋼生産量は昭和五十年度(1975年度)に年間1,343万トンのピークに達したとされます。これは単一の製鉄所(事業所)としては国内最大級の規模でした。

Q日本鋼管はなぜJFEスチールになったのですか?
A

国際競争の激化を背景に、日本鋼管(NKK)は川崎製鉄と経営統合しました。2002年(平成14)9月に持株会社JFEホールディングスが設立され、2003年(平成15)4月の事業再編で両社の鉄鋼部門が統合してJFEスチールが発足しました。これにより福山製鉄所はJFEスチール西日本製鉄所福山地区となりました。

Q製鉄所を見学することはできますか?
A

製鉄所は稼働中の産業施設であり、自由に立ち入れる観光地ではありません。団体向けの見学が実施される場合があるため、希望する場合は事前に公式情報を確認し、所定の手続きに従ってください。立入禁止区域や安全ルールを必ず守ることが大切です。

Q製鉄所はどこにありますか? 県境をまたぐというのは本当ですか?
A

JFEスチール西日本製鉄所福山地区の所在地は広島県福山市鋼管町とされています。敷地は非常に広大で、隣接する岡山県笠岡市にもまたがっており、県境部分には連絡用の橋が架けられているとされます。一つの製鉄所が二つの県にまたがる、規模の大きな施設です。

Q鉄のまち福山の歴史を観光と組み合わせて楽しむには?
A

福山駅周辺の福山城で城下町としての歴史を学び、市内の資料館で近現代の歩みに触れ、臨海部で製鉄所一帯の景観を遠望するコースがおすすめです。あわせて鞆の浦まで足を延ばせば、近世の港町の歴史と現代の工業都市を対比して味わえます。安全と立入ルールには十分ご注意ください。

Q鉄のまち以前の福山はどんな都市でしたか?
A

江戸時代には水野勝成が築いた福山城の城下町として栄え、瀬戸内に面した鞆の浦は古くから「潮待ちの港」として知られた海運の要衝でした。戦前から戦後にかけては繊維業などを中心とする地方都市でしたが、戦後の工業都市化によって大きく姿を変えました。

Q累計粗鋼生産量4億トンとはどれほどすごい記録ですか?
A

企業資料によれば、福山地区は2013年に累計粗鋼生産量4億トンを達成し、これは単一の事業所としては世界初の記録だったとされます。操業開始(1966年)からおよそ46年10か月での達成で、半世紀近くにわたって膨大な量の鉄を作り続けてきたことを示す記録です。1億トンは1978年、2億トンは1991年、3億トンは2003年に達成したとされます。

Q「JFE」という社名は何に由来しますか?
A

「JFE」は Japan(日本)、Future(未来)、Enterprise(企業)の頭文字に由来するとされます。2002年に日本鋼管と川崎製鉄が経営統合してJFEホールディングスが設立され、2003年の事業再編で鉄鋼部門が統合してJFEスチールが発足しました。福山製鉄所はこのときJFEスチール西日本製鉄所福山地区となりました。

まとめ――海辺に刻まれた戦後福山の物語

「鉄のまち福山」は、戦後日本の高度経済成長と、それを呼び込もうとした地方都市の意志が交差した場所に生まれた。1957年の工場設置奨励条例に始まり、市長らによる粘り強い誘致運動、1961年の誘致協定、前例のない大規模埋立、そして1965年の製鉄所発足と1966年の第一高炉火入れ――この一連の歩みは、海を陸に変え、一地方都市を人口三十万超の中核都市へと押し上げた、福山近現代史の最大のドラマだった。

その後、オイルショックによる時代の転換や、平成の経営統合によるJFEスチールの誕生を経てもなお、福山の海辺では鉄が作られ続けている。「鋼管町」という地名が語るように、製鉄所は半世紀を超えて福山という都市と一体であり続けてきた。福山城や鞆の浦が近世の福山を象徴するように、JFEスチール西日本製鉄所福山地区は、戦後・現代の福山を象徴する存在である。

福山を訪れたなら、城下町や港町の歴史とあわせて、この「鉄のまち」の物語にもぜひ目を向けてほしい。臨海部に立ち並ぶ巨大な設備の向こうに、海を埋め立て、火を入れ、街を作り上げてきた人々の営みが見えてくるはずだ。福山の歴史全体を俯瞰したい方は、福山の歴史 完全ガイドもあわせて読んでいただきたい。

出典・注意

本記事は、JFEスチール株式会社・JFEホールディングス株式会社などの企業公開情報、福山市・広島県の公的情報、および備後地域の郷土史資料を参照して作成しました。年代・経緯・数値には、資料によって異なる記述や、地元に語り継がれてきた伝承を含む場合があります。

※年代・経緯には諸説ある事項を含みます。詳細は各施設の公式情報や郷土資料でご確認ください。

最終更新: 2026年6月10日

史跡情報は福山NOTE 史跡図鑑(fn_history)より。