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🏯 歴史

備後絣の歴史|日本三大絣に数えられた福山の織物

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備後絣の歴史|日本三大絣に数えられた福山の織物

広島県福山市。いまでこそ「日本一のデニム産地」として世界に名を知られる繊維のまちですが、その礎を築いたのは、江戸時代の終わりにこの地で生まれた一反の藍染め木綿でした。備後絣(びんごがすり)——伊予絣、久留米絣とともに「日本三大絣」の一つに数えられたとされるこの織物は、福山市新市町から芦田町にかけての一帯で発展し、明治から昭和にかけて全国の絣生産の大半を占めるほどの一大産業へと成長しました。昭和三十年代には年間三百万反を超える反物が織り出され、国内で流通する絣のおよそ七割が備後の地から生まれていたといいます。

けれども備後絣の物語は、単なる「かつて栄えた地場産業」の回顧にとどまりません。庶民の野良着・普段着として愛された素朴な藍染め木綿は、戦後、洋装化の波のなかで需要を失いながらも、そこで培われた藍染めと厚手生地を織る技術を次の世代へと手渡し、やがて備後デニムという新しい産業へと姿を変えていきます。一人の青年が竹の皮で糸をくくって生み出した小さな工夫が、百数十年の時を経て、世界中の人々が身につけるジーンズの源流につながっている——備後絣の歴史は、福山という土地の「ものづくり」の連続性そのものを映し出しています。

この記事では、備後絣の起源から最盛期、そして衰退と継承までの歩みを、確認できる史実に基づいてできるだけ正確にたどります。あわせて、福山藩の綿作奨励という時代背景、創始者と伝わる富田久三郎の足跡、絣がどのように織られるのかという技術、そしてデニム産地への転換まで、深く掘り下げていきます。福山の歴史を一本の糸でたどる旅に、どうぞお付き合いください。なお、福山の歴史全体を俯瞰したい方は、福山の歴史 完全ガイドもあわせてご覧ください。

史跡図鑑|備後絣ゆかりの地を一覧で見る

備後絣にまつわる土地や、福山の歴史を語るうえで欠かせない史跡を「福山NOTE 史跡図鑑(fn_history)」からまとめました。まずは全体像を一覧表で把握し、比較表で位置関係や時代を確認し、気になる場所は詳細カードから深掘りしてみてください。新市・芦田の織物のまちから、福山城下、鞆の浦まで、福山の歴史は一つにつながっています。

福山城 伏見櫓 📖江戸時代(元和年間)📍 福山駅前(福山市街)福山城 📖近世(江戸)📍 丸之内福山城博物館 📖近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)📍 福山駅前(福山市街)草戸千軒町遺跡 📖中世📍 草戸町明王院 📖中世📍 草戸町鞆の津の町並み(重伝建) 📖江戸時代(中世〜近代の建造物群)📍 鞆町鞆の浦の常夜燈と港湾施設 📖江戸時代📍 鞆町福山市鞆の浦歴史民俗資料館 📖近代(昭和)📍 鞆町鞆の浦 📖中世〜近世📍 鞆町福禅寺 対潮楼 📖近世📍 鞆町太田家住宅 📖江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)📍 鞆町いろは丸展示館 📖近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)📍 鞆町仙酔島古代(地質)/近代(指定)📍 鞆町廉塾(菅茶山旧宅) 📖近世📍 神辺町神辺城跡 📖中世📍 神辺町福山八幡宮 📖近世📍 北吉津町沼名前神社 📖近世📍 鞆町阿伏兎観音(磐台寺観音堂)近世📍 沼隈町吉備津神社(備後一宮)江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる📍 新市町素盞嗚神社(備後一宮) 📖飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮📍 新市町
史跡時代概要📍 エリア詳細
福山城 伏見櫓江戸時代(元和年間)伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最…📍 福山駅前(福山市街)下へ ↓
福山城近世(江戸)備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御…📍 丸之内下へ ↓
福山城博物館近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩…📍 福山駅前(福山市街)下へ ↓
草戸千軒町遺跡中世芦田川の中州にあった中世の港町・集落遺跡。発…📍 草戸町下へ ↓
明王院中世本堂と五重塔がともに国宝。中世密教寺院で、五…📍 草戸町下へ ↓
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鞆の浦の常夜燈と港湾施設江戸時代江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯…📍 鞆町下へ ↓
福山市鞆の浦歴史民俗資料館近代(昭和)鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬…📍 鞆町下へ ↓
鞆の浦中世〜近世瀬戸内の「潮待ちの港」。常夜燈・雁木・波止場…📍 鞆町下へ ↓
福禅寺 対潮楼近世朝鮮通信使の使節が「日東第一形勝」と讃えた客…📍 鞆町下へ ↓
太田家住宅江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で…📍 鞆町下へ ↓
いろは丸展示館近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵…📍 鞆町下へ ↓
仙酔島古代(地質)/近代(指定)鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連…📍 鞆町下へ ↓
廉塾(菅茶山旧宅)近世儒学者・菅茶山が開いた私塾。当時の塾舎・住宅…📍 神辺町下へ ↓
神辺城跡中世備後南部の中世山城。福山城が築かれる以前、備…📍 神辺町下へ ↓
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沼名前神社近世鞆の「祇園さん」。夏の大松明を担ぐ「お手火神…📍 鞆町下へ ↓
阿伏兎観音(磐台寺観音堂)近世断崖の上に建つ朱塗りの観音堂。国の重要文化財…📍 沼隈町下へ ↓
吉備津神社(備後一宮)江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で…📍 新市町下へ ↓
素盞嗚神社(備後一宮)飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏の…📍 新市町下へ ↓
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福山城 伏見櫓

江戸時代(元和年間) / 📍福山駅前(福山市街)

伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最古級の三層入母屋造の現存櫓。 福山城伏見櫓は、元和8年(1622年)の福山城築城に際し、城主水野勝成が将軍徳川秀忠から下賜を受け、京都の伏見城から移築させたと伝えられる櫓である。長らく伝承とされていたが、昭和29年(1954年)の解体修理の際、梁の陰刻に「松ノ丸ノ東やく(ら)」の文字が発見され、伏見城からの移築を裏付ける確かな遺構であることが明らかになった。構造は三層入母屋造で、初層と二層を同じ柱割とし、その上にやや小さい三層を望楼状に載せる。桁行八間・梁間三間、本瓦葺の規模をもつ。慶長期の城郭建築の様式を残す初期の典型として価値が高く、昭和8年(1933年)1月23日に国の重要文化財に指定された。福山城内に現存し、特別公開が行われることもある。

🕰 時代江戸時代(元和年間)
🏛 成立・築造元和8年(1622年)水野勝成の福山城築城時に伏見城から移築。国指定重要文化財(昭和8年=1933年1月23日指定)
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目(福山城内)
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福山城

近世(江戸) / 📍丸之内

備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御門は京都伏見城からの移築と伝わる。2022年に築城400年を迎えた。

🕰 時代近世(江戸)
🏛 成立・築造1622年(元和8)・水野勝成
👤 関連水野勝成・阿部正弘
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目8
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福山城博物館

近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期) / 📍福山駅前(福山市街)

水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩の歴史を体験型展示で伝える博物館 福山城博物館は、JR福山駅のすぐ北に建つ福山城天守内に置かれた市立の歴史資料館です。福山城は1622年(元和8年)、徳川譜代の大名・水野勝成が西国鎮衛の拠点として築いた近世城郭で、天守は1931年に国宝に指定されました。しかし1945年8月の福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリート造で外観が復興され、その内部が博物館として公開されました。2022年には築城400年に合わせて大規模リニューアルされ、北面の鉄板張り(黒い装い)の再現や、一番槍レース・火縄銃などの体験型コンテンツ、デジタル映像を用いた展示が整えられ、福山城と福山藩の歴史を学べる施設となっています。城内に現存する伏見櫓と筋鉄御門は、京都・伏見城からの移築と伝えられ、国の重要文化財に指定されています。常設展は有料、月曜休館とされます。

🕰 時代近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)
🏛 成立・築造福山城は1622年(元和8年)に初代福山藩主・水野勝成が築城。天守は1945年福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリートで外観復興、内部を博物館として開館。2022年に大規模リニューアル
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目8番
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鞆の津の町並み(重伝建)

江戸時代(中世〜近代の建造物群) / 📍鞆の浦

潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と町家が一体で残る重伝建地区 鞆の浦は瀬戸内海の中央に位置し、古来「潮待ちの港」として栄え、万葉集にも詠まれた歴史を持つとされる。江戸時代には北前船など廻船の寄港地として繁栄し、朝鮮通信使の寄港地ともなった。2017年(平成29年)11月28日、「福山市鞆町伝統的建造物群保存地区」として約8.6ヘクタールが国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。範囲は鞆字西町の全域を中心に、石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地の一部に及ぶ。中世から江戸期に整えられた地割の上に、江戸時代から昭和30年代までの町家や寺社、石垣などが一体的に残る近世港町の景観が評価された。常夜燈・雁木・波止・焚場・船番所の5つの港湾施設がほぼ完全に残る点は全国でも稀とされる。広島県内では3例目の選定で、2018年には日本遺産にも認定された。

🕰 時代江戸時代(中世〜近代の建造物群)
🏛 成立・築造2017年(平成29年)11月28日に国の重要伝統的建造物群保存地区へ選定。地割は中世〜江戸期、建造物は江戸時代〜昭和30年代まで。
📍 所在地広島県福山市鞆町(鞆字西町全域ほか、字石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地字古城跡・草谷の各一部)
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鞆の浦の常夜燈と港湾施設

江戸時代 / 📍鞆の浦

江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯一の近世港、鞆港。 鞆の浦の鞆港には、常夜燈・雁木・波止・焚場(たでば)・船番所という江戸時代の港湾施設5点がほぼ揃って現存し、これらが一体で残るのは全国でも鞆港のみとされる。シンボルの常夜燈は安政6年(1859)の刻銘をもつ石造灯台で、海中の基礎石から宝珠の頂までは約12.1mに及び、江戸期の石造常夜燈としては国内最大級とされる。雁木は潮の干満に応じて船を着けられる階段状の船着き場で、半円形の港内に連続して巡らされている。波止は花崗岩を積んだ全長約146mの防波堤で、江戸後期に築かれ明治期に修築された。鞆港を含む沿岸と沖の島々一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定され、鞆町西町を中心とする区域は2017年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。日本遺産「瀬戸の夕凪が包む 国内随一の近世港町」の構成要素でもある。

🕰 時代江戸時代
🏛 成立・築造常夜燈は安政6年(1859)造立とされる。雁木・波止・焚場・船番所は江戸後期築造、波止は明治期に修築。鞆港一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定。
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆
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福山市鞆の浦歴史民俗資料館

近代(昭和) / 📍鞆の浦

鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬戸内の歴史・民俗を伝える市立資料館 福山市鞆の浦歴史民俗資料館は、広島県福山市鞆町後地に建つ市立の博物館で、「潮待ちの館」の愛称で親しまれる。1977年(昭和52年)からの地元有志による調査・収集活動を背景に、福山市制70周年記念事業として1988年(昭和63年)に開館した。立地は、福島正則が築いたとされる鞆城跡(福山市指定史跡)の高台で、瀬戸内海を見渡せる。万葉の時代から潮待ち・風待ちの港として栄えた鞆の浦を中心に、古代から近世にいたる歴史資料を展示。鯛網漁のジオラマや錨を製造した鍛冶場、朝鮮通信使関連資料、保命酒に関する資料に加え、お手火神事・お弓神事といった地域の民俗文化財も常設展示する。鞆の歴史と暮らしを総合的に学べる拠点とされる。

🕰 時代近代(昭和)
🏛 成立・築造1988年(昭和63年)開館。福山市制70周年記念事業として建設。建つ鞆城跡は福島正則が築いたとされる(福山市指定史跡)
📍 所在地広島県福山市鞆町後地536-1
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太田家住宅

江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期) / 📍鞆の浦

鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で、国の重要文化財 鞆の浦を代表する歴史的建造物で、薬用酒「保命酒」の醸造で財を成した商家の旧宅。もとは大坂の漢方医を出自とする中村家の屋敷で、明暦元年(1655年)に鞆へ移り住み、まもなく十六味地黄保命酒の製造・販売を始めて大ヒットし、福山藩の御用名酒屋として販売独占権を得たとされる。明治期に廻船業を営んだ太田家が継承し、現在の名で呼ばれる。主屋を中心に保命酒蔵や各種土蔵など九棟が建ち並び、建築年代は18世紀中期から19世紀前期に及ぶ。瀬戸内の商家建築を伝える貴重な遺構として、1991年に国の重要文化財に指定された。幕末には三条実美ら尊王攘夷派の公卿が立ち寄ったと伝わり、別宅の朝宗亭とともに「鞆七卿落遺跡」として広島県の史跡(1940年指定)にもなっている。

🕰 時代江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)
🏛 成立・築造主屋は18世紀中期、ほか北保命酒蔵が天明8年(1788年)、西蔵が寛政元年(1789年)、東保命酒蔵が寛政7年(1795年)など18世紀中期〜19世紀前期。国の重要文化財指定は1991年(平成3年)5月31日。
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆842
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いろは丸展示館

近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期) / 📍鞆の浦

坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵を活かした資料館 鞆の浦のシンボル常夜灯(とうろどう)のすぐそばに建つ資料館。1867年(慶応3年)、坂本龍馬と海援隊が運航したいろは丸が紀州藩の明光丸と備後灘で衝突・沈没した「いろは丸事件」を伝える施設で、その談判が鞆の浦で行われた縁にちなむ。建物は江戸期に建てられた太い梁が印象的な土蔵で、地元では「大蔵」と呼ばれ、国の登録有形文化財とされる。館内には海底に沈むいろは丸を再現したジオラマ、引き揚げられた陶器や部品、調査風景の写真などを展示し、2階には龍馬が宿泊先で身を潜めたという「隠れ部屋」が再現され、龍馬の蝋人形も置かれている。1989年(平成元年)7月の開館。幕末史と鞆の港町文化を同時に味わえるスポットである。

🕰 時代近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)
🏛 成立・築造1989年(平成元年)7月開館。建物は江戸期築の土蔵「大蔵(浜蔵)」で、国の登録有形文化財とされる。展示題材のいろは丸事件は1867年(慶応3年)
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆843-1
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仙酔島

古代(地質)/近代(指定) / 📍鞆の浦

鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連なる瀬戸内海国立公園の名勝 仙酔島は鞆の浦の沖合に浮かぶ周囲約6キロの島で、住所は福山市鞆町後地。鞆港から市営渡船で約5分の距離にあり、観光客の往来はあるが定住者のいない無人島とされる。1925年(大正14年)に国の名勝「鞆公園」の一部として指定され、1934年(昭和9年)には日本で最初に指定された国立公園・瀬戸内海国立公園に含まれた。島は約9000万年前の大規模な火山活動による溶結凝灰岩を主体とし、南側海岸には青・赤・黄・白・黒の岩が200メートル以上連なる「五色岩」が見られ、地質的に貴重とされる。「仙人が酔うほど美しい島」が名の由来と言われる。江戸後期の学者・頼山陽が当地の景観を「山紫水明」と評したとも伝わる。

🕰 時代古代(地質)/近代(指定)
🏛 成立・築造1925年(大正14年)国名勝「鞆公園」に指定。1934年(昭和9年)日本初の国立公園・瀬戸内海国立公園に編入。島自体は約9000万年前の火山活動で形成されたとされる
📍 所在地広島県福山市鞆町後地
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吉備津神社(備後一宮)

江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる / 📍新市・北部

備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で「いっきゅうさん」と親しまれる古社 福山市新市町宮内に鎮座する備後国一宮で、地元では「一宮さん(いっきゅうさん)」と親しまれる。社伝では大同元年(806年)に吉備国の吉備津神社から勧請し創建されたと伝わるが、延喜式神名帳に記載がないことなどから実際の成立はより後とする説もある。主祭神は吉備国を治めたとされる大吉備津彦命。現在の本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が旧規模にならい造営したもので、桁行七間・梁間四間の入母屋造檜皮葺、国の重要文化財に指定されている。ほかにも木造狛犬や太刀などが重要文化財として伝えられ、複数の建造物が広島県・福山市指定文化財となっている。隣接する櫻山城跡なども史跡として知られ、備後の信仰と歴史を今に伝える。

🕰 時代江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる
🏛 成立・築造本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が造営、国の重要文化財。創建は大同元年(806年)と伝わるが諸説ある
📍 所在地広島県福山市新市町宮内400
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素盞嗚神社(備後一宮)

飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮 / 📍新市・北部

祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏のけんか神輿で名高い古社 福山市新市町戸手に鎮座する素盞嗚神社は、『延喜式神名帳』に載る式内社で備後国一宮を称し、旧社格は県社です。主祭神は素盞嗚尊で、稲田姫命・八王子を配祀します。社伝では天武天皇の治世、7世紀ごろ(679年か)の創建とされます。『釈日本紀』所収の「備後国風土記」逸文に伝わる蘇民将来説話の舞台「疫隈国社」と結びつけられ、茅の輪くぐりや祇園信仰・祇園祭発祥の地の一つとされています。神仏習合期には牛頭天王を祀り、遣唐使・吉備真備が734年に当社から播磨の広峯神社へ勧請したとも伝わります。毎年7月の例祭では、勇壮なけんか神輿(神輿合わせ)が行われることで知られます。

🕰 時代飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮
🏛 成立・築造社伝では天武天皇期の7世紀ごろ(679年か)創建とされる。『延喜式神名帳』記載の式内社で、旧県社
📍 所在地広島県福山市新市町大字戸手1-1

図鑑で全体像をつかんだら、本文で備後絣そのものの歴史を時代順にたどっていきましょう。なお、ここに並ぶ史跡の多くは備後絣そのものの遺構ではなく、絣を育んだ福山という土地の歴史を構成するスポットです。城下町、港町、寺社や遺跡といった史跡を通して福山の歩みを知ることが、備後絣という織物の背景を理解する近道になります。藍と綿が結びついて一つの産業へと育っていったこの土地の物語を、ぜひ図鑑と本文の両面から味わってみてください。

備後絣とは何か|日本三大絣に数えられた藍染め木綿

備後絣の織物
備後絣の織物(画像:Wikimedia Commons / CC)

備後絣とは、広島県福山市の新市町から芦田町にかけての一帯で発展した、藍染めの綿織物です。「絣(かすり)」とは、あらかじめ糸の一部を染め分けてから織り上げることで、布の上に十字や井桁(いげた)といった文様を浮かび上がらせる技法、あるいはそうして織られた織物を指します。染め残した部分と染まった部分が織りのなかで少しずつずれて、輪郭がかすれたように見えることから「絣」と呼ばれます。この、にじむような独特の風合いこそが絣の最大の魅力です。

備後絣は、愛媛県松山周辺の伊予絣、福岡県久留米周辺の久留米絣とともに、「日本三大絣」の一つに数えられるとされています。この三大絣という呼称は、いずれも江戸後期から幕末にかけて庶民の木綿絣として確立し、明治以降に量産体制を整えて全国に流通した産地を指す通称で、公的に定義された格付けではありませんが、絣を語るうえで広く用いられてきた表現です。なかでも備後絣は、生産量の面では他の二つを大きく引き離し、最盛期には全国の絣のおよそ七割を生み出したといわれます。

備後絣の文様は、創始期の井桁絣に代表されるように、藍地に白く抜いた幾何学的な模様を基本とします。素材は木綿、染料は藍。木綿は丈夫で扱いやすく、藍染めには防虫・防臭の効果や生地を強くする働きがあるとされ、汗をかき土にまみれる庶民の労働着・普段着にうってつけでした。華やかな絹の着物ではなく、農家の野良着や子どもの普段着、布団地として日本中の暮らしに溶け込んでいったところに、備後絣という織物の性格がよく表れています。

「かすり」という技法の特徴

絣の製作で最も核心となるのが、織る前に糸を部分的に括(くく)って防染する工程です。模様にしたい部分の糸を、染料が染み込まないようにきつく縛っておき、藍甕(あいがめ)に浸して染める。括った部分は白く残り、それ以外は藍に染まります。括りを解いてから縦糸・横糸を機(はた)にかけ、白く残した部分が織り合わさるよう緻密に位置を合わせて織り進めると、布の上に文様が現れます。糸の段階で模様を「設計」しておく逆算の作業であり、わずかなずれが風合いとなって現れるところに、手仕事の絣ならではの味わいがあります。

庶民の暮らしを支えた木綿の織物

絹織物が武家や富裕層のものであったのに対し、木綿絣は広く庶民が日常で身につける衣料でした。丈夫で安価、洗えば洗うほど藍がなじみ、繕いながら長く使える。備後絣が全国に広まったのは、単に技術が優れていたからだけでなく、こうした庶民の生活実需にぴたりと合致していたからにほかなりません。明治から大正、昭和初期にかけて、日本各地の家庭で「絣の着物」といえば、その多くが備後の地で織られたものだった時代があったのです。

藍という色がもたらしたもの

備後絣の地色である藍は、単に美しいだけの色ではありませんでした。藍に含まれる成分には防虫・防臭の働きがあるとされ、また布の繊維を引き締めて丈夫にする効果があるとも言い伝えられてきました。野や畑で働く人々にとって、虫を寄せつけにくく、汗や汚れが目立ちにくく、しかも擦り切れにくい藍染めの木綿は、まさに理にかなった労働着の素材だったのです。さらに、藍は色落ちすらも「味わい」として愛されました。洗いを重ねるほどに濃藍から淡い水色へと表情を変えていく藍染めの経年変化は、後にデニムの「色落ち」の魅力として世界中で評価される感性と、深いところで通じ合っています。庶民の実用の知恵が、結果として時を超える美意識を育んでいたのです。

絣文様に込められた意味

絣の文様には、井桁や十字、亀甲、絵絣など、さまざまな種類があります。これらは単なる装飾ではなく、暮らしの願いを託した意匠でもありました。たとえば井桁は水が絶えない井戸を象り、生活の安定や繁栄を願う文様とされることがあります。幾何学的に整然と並ぶ絣模様は、糸を一つひとつ括って染め分ける気の遠くなるような手仕事の積み重ねによってはじめて成立するものであり、その端正さの背後には作り手の根気と祈りのような集中が宿っています。素朴でありながら奥行きのある美——それが備後絣の文様の魅力です。

時代背景|福山藩の綿作奨励と備後の土壌

備後絣が福山の地で生まれ育った背景には、江戸時代を通じて積み重ねられた綿作(めんさく=綿の栽培)と織物の伝統があります。一つの工芸品が一夜にして生まれることはなく、その土地に原料と技術と需要が揃っていてはじめて、産業として根を張ることができます。備後絣もまた、福山藩時代から続く綿作りの土壌の上に咲いた花でした。

水野勝成と綿作りの奨励

福山藩は、元和年間に初代藩主水野勝成が入封して開かれた藩です。勝成は福山城を築き、城下町を整え、芦田川の治水や干拓、産業の振興に力を注いだ人物として知られます。この地域では江戸時代を通じて綿の栽培が奨励され、温暖で日照に恵まれた備後平野の気候は綿作に適していました。原料となる木綿が地元で安定して得られたことは、のちに絣産業が興るうえで決定的な条件となりました。福山城やその城下の歴史については、福山城ガイドに詳しくまとめています。

綿が穫れれば、それを紡ぎ、織り、染める手仕事が家々に根づきます。農閑期の女性たちが機を織り、藍を育て染めに使う——こうした副業的な織物の営みが、備後一帯には早くから広く存在していました。備後絣は、いわばこの「織りと染めの蓄積」のなかから、ある一つの技法的なひらめきによって結晶した織物だったのです。

幕末という転換期

備後絣が誕生したとされる文久年間(一八六一〜一八六四年)は、まさに幕末の動乱期にあたります。黒船来航から開国へ、そして明治維新へと、日本が大きく揺れ動いていた時代です。鞆の浦では、慶応年間に坂本龍馬といろは丸事件の交渉が行われたことが知られていますが、その同じ備後の地で、海沿いの政治劇とは別に、内陸の村では一人の青年が新しい織物の技法を黙々と工夫していました。激動の時代に庶民の暮らしを支える木綿絣が芽吹いていたという対比は、福山の歴史の奥行きを感じさせます。鞆の浦の歴史については、いろは丸展示館鞆の浦の街並みガイドもあわせてご覧ください。

備後絣の起源|富田久三郎と井桁絣の誕生

福山城
福山城(画像:Wikimedia Commons / CC)

備後絣の創始者として伝えられているのが、福山市芦田町下有地(しもあるじ)の出身とされる富田久三郎です。各種の郷土資料や公的機関の解説によれば、文久年間、久三郎は「キシ縞(きしじま)」と呼ばれる浅葱(あさぎ)色の絹の絣織物を見せられ、これにヒントを得たと伝わります。手引きの糸を使い、縦糸の一部を竹の皮できつくくくって防染し、それを藍で染めることで、井桁の文様を織り出す技法を考え出した——これが備後絣の始まりとされています。

当初、この織物は元号にちなんで「文久絣」と呼ばれていました。やがて品質の改良が進み、産地として広く知られるようになるなかで、旧国名の「備後」を冠した「備後絣」の名で全国に流通していくことになります。なお、創始の正確な年については資料により記述に幅がありますが、富田久三郎が嘉永から文久にかけての時期に絣を完成させ、その後さらに改良を重ねたという点はおおむね共通しています。年代や経緯の細部には諸説あることを踏まえて読んでいただければと思います。

「キシ縞」からのひらめき

久三郎が手がかりにしたと伝わる「キシ縞」は、絹を素材とする絣でした。絹は高価で、庶民の日常着には向きません。久三郎の工夫の核心は、この絣の発想を、より丈夫で安価な木綿に置き換えたことにあったと考えられます。竹の皮で糸をくくって防染するという素朴で身近な方法を用いて、誰もが手にできる木綿の絣をつくり出した——この「庶民の素材への翻訳」こそが、備後絣を一地方の珍品ではなく、全国に広がる量産品へと押し上げる原動力になりました。

井桁文様という原点

創始期の備後絣を象徴するのが、井戸の縁を組んだ枠を図案化した「井桁」の文様です。藍地に白く抜かれた幾何学的な井桁模様は、シンプルでありながら端正で、木綿絣の素朴さとよく調和しました。この井桁絣が備後絣の出発点であり、のちにさまざまな絣文様へと展開していく原型となりました。技法の発明者と原点の文様がはっきりと結びついている点で、備後絣は起源の物語をたどりやすい工芸品だといえます。

洋綿糸の導入と品質向上

備後絣の発展を語るうえで見落とせないのが、原料糸の進化です。郷土資料によれば、富田久三郎は当初の手引き糸による絣を完成させたのち、一八六一年(文久元年)ごろには輸入綿を用いた洋綿糸を採用して、より精緻で美しい絣を製作したと伝えられています。手で紡いだ和綿の糸はどうしても太さが不均一になりがちですが、機械紡績による洋綿糸は細く均一で、緻密な文様を安定して織り出すのに適していました。原料・道具・技法の改良が積み重なることで、備後絣は素朴な野良着の布から、模様の美しさそのものを楽しめる織物へと、その表現の幅を広げていったのです。こうした不断の改良の姿勢が、後の量産化と全国展開を支える基盤となりました。

創始年をめぐる諸説の整理

備後絣の創始年については、資料によって記述に幅があります。一方には「文久年間(一八六一〜一八六四年ごろ)に考案された」とする説があり、他方には「一八五三年(嘉永六年)に富田久三郎が初めて絣を完成させ、一八六一年に洋綿糸でさらに精緻なものを製作した」と、より具体的な年を示す記述もあります。これらは互いに矛盾するというより、最初の試作・完成の段階と、文久年間における技法の確立・改良の段階を、それぞれ異なる視点から語ったものと整理するのが妥当でしょう。いずれにせよ、江戸時代末期の十数年のあいだに、福山・芦田の地で備後絣の基礎が固められていったことは、おおむね各資料に共通しています。本記事では、こうした年代の幅を踏まえ、断定を避けつつ事実関係を記しています。

明治の飛躍|全国市場への進出と量産化

文久絣として生まれた備後の木綿絣は、明治に入ると急速に産業としての規模を拡大していきます。維新後の社会の安定と、庶民の購買力の高まり、そして流通網の整備が、地場の織物を全国商品へと押し上げました。

伊藤忠商店との取引開始

備後絣の歴史を語るうえで重要な出来事として伝えられるのが、明治のはじめ、一八六八年(明治元年)に大阪市場の伊藤忠商店との取引が始まったことです。近江商人として知られる伊藤忠兵衛が起こした商店との結びつきによって、備後絣は大阪という大消費地・流通拠点への販路を得ました。これを足がかりに「備後絣」の名は全国に広まり、地方の副業的な織物から、商品として大量に取引される産地ブランドへと脱皮していったとされます。

手織りから力織機へ

需要の拡大に応えるため、製造の現場では機械化が進みました。当初は一反一反を手で織り上げる手織りが中心でしたが、明治後期から大正にかけて、動力で織機を動かす力織機(りきしょっき)が導入され、生産効率は飛躍的に高まります。括りや染めといった絣ならではの工程にも工夫が重ねられ、緻密で美しい文様を効率よく量産できる体制が整っていきました。手仕事の風合いを残しつつ量産を実現したことが、備後絣を「三大絣のなかでも群を抜く生産量」へと導いた技術的な背景です。

産地としての組織化

新市・芦田を中心とする一帯には、絣を織る工場や染め屋、糸を扱う問屋が集まり、分業による産地が形成されていきました。一軒の家で完結する副業ではなく、糸・染め・織り・仕上げ・流通がそれぞれ専門化し、地域全体で一つの大きな産業を構成する——こうした産地のかたちは、のちのデニム産地へと受け継がれていく重要な遺産でもあります。明治から大正にかけて、備後は名実ともに「絣のまち」へと成長しました。

分業体制が進むと、それぞれの工程に専門の職人が育ち、技術はいっそう洗練されていきました。括りを専門とする者、藍染めを担う染め師、機を操る織り手、そして全国の問屋とつながる仲買人——こうした人々が役割を分かち合うことで、量と質を両立させる産地ならではの強みが生まれます。一地域に一連の工程が完結して揃い、互いに支え合う「産地の生態系」とでも呼ぶべき構造が、備後絣の繁栄を底から支えていました。この厚い集積こそ、後に世界に通用するデニム産地へと姿を変えていく土台となったのです。

教育・文化への広がり

絣産業の隆盛は、単に経済を潤すだけでなく、地域の暮らしや文化にも影響を与えました。家々で女性が括りや織りを担い、子どもの頃から糸や藍に親しむ環境が生まれます。絣にまつわる知恵や手仕事の作法が世代を越えて受け継がれ、地域のアイデンティティの一部となっていきました。野良着としての実用から始まった備後絣は、いつしか「この土地が生み出す誇り」として人々の心に根を下ろしていったのです。こうした文化的な厚みもまた、備後絣が単なる商品を超えて地域の歴史に刻まれている理由といえるでしょう。

昭和の最盛期|年間三百万反、全国の七割

芦田川の河口部
芦田川の河口部(画像:Wikimedia Commons / CC)

備後絣が最も輝いたのは、戦後の復興期から高度経済成長の入り口にあたる昭和三十年代でした。福山市や広島県の公的資料によれば、昭和三十五年(一九六〇年)ごろには年間およそ三百三十万反が生産され、国内で流通する絣のおよそ七割を備後が占めていたと記録されています。最盛期には、新市・芦田を中心に二百社あまりの業者がひしめき、地域経済を力強く牽引していました。

三百万反という規模感

「三百万反」という数字は、にわかには実感しにくいかもしれません。一反はおおむね大人一人分の着物を一着仕立てられる量です。年間三百万反とは、単純に考えれば毎年三百万着分もの絣地が備後の地から織り出されていたことになります。これだけの量が日本全国の家庭へと流れ、人々の野良着や普段着、布団地となっていたのですから、当時の備後絣がいかに人々の暮らしに深く入り込んでいたかがわかります。全国の絣の七割という数字は、この産地が文字通り日本の庶民衣料を支えていたことを物語っています。

絣のまちのにぎわい

最盛期の新市・芦田一帯では、いたるところで機の音が響き、藍染めの工程から立ちのぼる独特の香りが町を包んでいたといいます。織り手、染め師、糸商、仲買人——絣に関わるさまざまな職人や商人が暮らしを立て、産地は活気にあふれていました。地域の祭りや暮らしの文化にも、絣産業の繁栄が色濃く影を落としていたことでしょう。備後絣の最盛期は、福山の近代産業史のなかでも特筆すべき黄金時代でした。

広島県指定伝統的工芸品へ

絣の需要が減退していくなかでも、その歴史的・文化的価値は高く評価され続けました。一九九二年(平成四年)、備後絣は広島県指定の伝統的工芸品に登録されています。量産品としての全盛期は過ぎても、地域が育んだ技術と文化を後世に伝える工芸として、公的に位置づけられたのです。

衰退と転機|洋装化の波と需要の激減

これほどの隆盛を誇った備後絣でしたが、昭和三十年代をピークとして、その後は急速に生産を縮小していきます。栄華の絶頂と衰退の始まりがほぼ同じ時期に重なっているところに、時代の大きな転換が表れています。

暮らしの洋装化

衰退の最大の要因は、人々の暮らしの洋装化でした。高度経済成長とともに生活様式が西洋化し、日常的に和服を着る人が減っていきます。野良着や普段着の主役が木綿絣から既製の洋服へと移り変わるなかで、絣そのものの需要が根底から細っていきました。庶民の日常着であったがゆえに、その日常が変われば需要も失われる——備後絣は、まさにこの構造的な変化に直面したのです。

生産業者の激減

最盛期に二百社あまりを数えた業者は、需要の縮小とともに次々と姿を消していきました。福山市の資料によれば、平成二十二年(二〇一〇年)ごろには製造を続けるのはわずか二社、年間生産量も三千反程度にまで落ち込んだとされます。三百万反からわずか三千反へ——半世紀ほどの間に、生産規模は実に千分の一の水準にまで縮小したことになります。さらに、絣業者でつくる協同組合も二〇二三年度限りで解散したと伝えられ、産地としての備後絣は大きな節目を迎えました。

それでも続く手仕事

こうした厳しい状況のなかでも、橘髙兄弟商会、森田織物といった事業者が備後絣の製造を続けていると伝えられています。最盛期の量産とは異なり、伝統の技を守り、絣の文化を後世に伝える担い手として、いまも織り続けられているのです。需要の激減という現実のなかで火を絶やさず手仕事を継承する人々がいることは、備後絣の歴史がまだ終わっていないことを示しています。

伝えられるところによれば、残された織元はそれぞれに個性を打ち出しながら絣づくりを続けています。一方は天然染料による手染めと素朴な意匠を大切にし、もう一方は新しい文様の開発や色彩豊かな絣に積極的に取り組むなど、守りつつ攻めるかたちで伝統を更新しているといいます。若い後継者が伝統の製法を受け継いでいるとも伝えられ、備後絣が単なる「過去の遺産」ではなく、現在進行形で更新され続ける生きた工芸であることがうかがえます。

他の素材・用途への展開

絣の需要が和服から離れていくなかで、備後絣の素材や技術は、新しい用途へと活路を求めてきました。野良着や普段着としての着物だけでなく、もんぺや作業着、暖簾(のれん)や小物、インテリア向けの生地など、現代の暮らしに合った製品への展開が試みられています。また、備後絣の技術や精神を受け継ぎつつ、絣とは異なる新しい風合いの生地ブランドを立ち上げる動きもあるとされます。藍の深い色合いと、洗うほどに増す味わいという絣の魅力は、形を変えながらも現代に受け継がれているのです。古いものをそのまま守るだけでなく、新しい価値へと橋渡ししていく——この柔軟さこそ、備後絣が幕末以来培ってきた「ものづくりの土地」の底力といえるでしょう。

備後絣からデニムへ|技術が受け継がれた産地転換

備後絣の物語のなかで、おそらく最も重要で、そして最も希望に満ちているのが、絣で培われた技術が戦後のデニム産業へと受け継がれていったという事実です。一つの伝統産業の衰退が、別の新しい産業の興隆へと接続したこの転換は、福山という土地の「ものづくりの底力」を象徴しています。

藍染めと厚手生地の技術が生きる

絣の需要が細っていくなかで、地元の織物業者たちは、長年蓄積してきた技術を新しい分野に活かす道を模索しました。備後絣で磨かれたのは、第一に藍を扱う染色の技術であり、第二に丈夫な綿の厚手生地を均一に織り上げる技術でした。この二つは、奇しくも当時世界的に需要が高まりつつあったデニム(インディゴ=藍で染めた綾織りの厚手綿生地)の製造に、そのまま応用できる技術だったのです。藍で染め、厚い綿地を織るという絣の経験が、デニム生地づくりへと自然に橋渡しされていきました。

日本一のデニム産地へ

一九六〇年代以降、国産ジーンズの需要が高まると、福山・備後地域はその生地供給を担う一大産地へと成長していきます。今日では、福山はデニム生地の生産において全国で大きなシェアを占める「日本一のデニム産地」として知られ、ここで織られたデニムは岡山県児島などの縫製の地へと運ばれ、世界に通用するジーンズへと仕立てられています。福山藩の綿作奨励に始まり、備後絣の藍染め技術を経て、現代のデニムへ——この一本の糸でつながる連続性こそ、福山の繊維産業の真髄だといえるでしょう。福山のデニムについては福山市の関連情報もあわせて参照すると、産地の現在像がより立体的に見えてきます。

「三備地区」という繊維の風土

福山を含む備後・備中・備前にまたがる地域は、しばしば「三備(さんび)地区」と呼ばれ、古くから綿作と織物・染色が盛んな繊維の風土を共有してきました。備後絣とデニム、岡山県側のジーンズ縫製などは、この広い繊維文化圏のなかでそれぞれの役割を担っています。備後絣は、その繊維王国の歴史の出発点に位置する織物として、今日のデニム産業の源流に静かに息づいているのです。

絣ができるまで|藍染めと括りの手仕事

備後絣の魅力を深く味わうには、その製作工程を知ることが欠かせません。絣は「織る前に染め、染める前に括る」という逆算の織物です。完成品からは想像しにくい、緻密で根気のいる手仕事の積み重ねがそこにあります。ここでは絣づくりのおおまかな流れを紹介します。

図案と糸の準備

まず、どのような文様を織り出すかを設計し、それに合わせて糸のどの部分を染め分けるかを決めます。絣は糸の段階で模様を仕込むため、織り上がりを正確に頭の中で逆算する必要があります。井桁や十字といった幾何学文様が絣に多いのは、糸の染め分けで再現しやすいという技術的な理由もあります。

括り(くくり)と防染

模様にあたる部分の糸を、染料が染み込まないようきつく縛ります。創始期の備後絣では、富田久三郎が竹の皮を用いて縦糸を括ったと伝わります。この「括り」が絣のすべての出発点であり、括りの精度が文様の美しさを決定づけます。括られた部分は染液をはじき、白く残ることになります。

藍染め

括りを終えた糸を藍甕に浸して染めます。藍染めは一度で濃く染まるものではなく、染めては空気にさらして酸化させるという工程を何度も繰り返すことで、深く堅牢な藍色に仕上げていきます。染め上がったら括りを解くと、括られていた部分が白く、それ以外が藍に染まった「絣糸」ができあがります。

織り上げ

最後に、白と藍に染め分けられた糸を縦糸・横糸として機にかけ、文様がぴたりと合うよう一段ずつ慎重に織り進めます。糸のわずかなずれが、絣特有の「にじみ」や「かすれ」となって現れ、機械では出せない独特の味わいを生みます。括り・染め・織りのいずれもが熟練を要する工程であり、一反の絣には膨大な手間と技が凝縮されているのです。

なぜ絣は手間がかかるのか

絣の製作がこれほど手間を要するのは、「布の完成図を、織る前の糸の段階で逆算しなければならない」という根本的な構造によります。後から布に模様を刷り込むプリント染めと異なり、絣では括りの位置が一つでもずれれば、織り上がりの文様全体が狂ってしまいます。経糸と緯糸の双方に絣糸を用いる経緯絣ともなれば、両者の染め分けを織りの段階でミリ単位で合わせる必要があり、その難度は格段に上がります。手間がかかるからこそ、機械生産が主流となった時代に絣は不利を強いられました。しかし同時に、この手間こそが、一点一点に宿る温かみと、二つとして同じものがない味わいを生み出しているのです。効率では測れない価値が、手仕事の絣には確かにあります。

藍染めと天候の関係

備後絣の藍染めは、自然と向き合う仕事でもありました。天然藍の発酵を利用した染液は、気温や湿度によって状態が大きく変わり、染め師は毎日の天候や藍甕の機嫌を読みながら染めを進めます。染めた糸を天日に干して色を馴染ませる工程も、晴天が頼りです。思うように天気が運ばなければ作業は滞り、計画どおりに進まないことも珍しくありませんでした。自然のリズムに寄り添いながら一反一反を仕上げていく——そうした地道な営みの積み重ねが、備後絣の深く澄んだ藍色を生み出してきたのです。近代以降は合成藍(インディゴ)も用いられるようになり、安定した生産が可能になりましたが、天然藍が宿す独特の色の深みは、今も多くの人を惹きつけてやみません。

ゆかりの地・現在に残るもの

備後絣の歴史を体感したいなら、創始の地である福山市の新市・芦田一帯を訪ねるのがよいでしょう。かつて二百社あまりがひしめいた絣のまちには、いまも織物に関わる事業者が点在し、藍染めの伝統を伝えています。地域の博物館や資料館、現役の織元の取り組みを通じて、備後絣の文化に触れることができます。

新市・芦田の織物のまち

福山市新市町から芦田町にかけての地域は、備後絣発祥の地として知られます。創始者・富田久三郎の出身地と伝わる芦田町下有地をはじめ、この一帯には絣産業が育んだ歴史の記憶が刻まれています。最盛期の喧噪は遠くなりましたが、織機の音や藍の香りがまちを満たしていた時代の面影を、いまも資料や継承者の手仕事のなかに見いだすことができます。

福山藩政の名残と城下

備後絣を生んだ土壌をたどるなら、福山城とその城下にも足を運びたいところです。初代藩主・水野勝成による綿作奨励は、福山の繊維産業の遠い源流にあたります。城下町の構造や、芦田川流域の干拓・治水によって広がった平野は、綿作を支えた基盤そのものでした。城をめぐりながら、この土地がいかにして「ものをつくり、商う」風土を育んできたかに思いを巡らせると、備後絣の歴史がいっそう立体的に見えてきます。福山の通史を一望したい方は福山の歴史 完全ガイドを、城下の成り立ちは福山城ガイドを参照してください。

受け継がれる藍とデニム

備後絣そのものを織り続ける事業者に加え、その技術を受け継いだデニム産業が、福山の繊維文化を現代に生かし続けています。藍染めの工房やデニムのファクトリーを訪ねれば、江戸時代の木綿絣から現代のジーンズへとつながる「藍と綿の物語」を肌で感じられるはずです。福山を訪れる際は、城下や鞆の浦の歴史散策とあわせて、繊維のまちとしての一面にも目を向けてみてください。鞆の浦の歴史的な街並みを楽しむなら、福禅寺 対潮楼太田家住宅もおすすめです。

備後絣 関連年表

備後絣の歩みを、確認できる範囲で年表にまとめました。年代や経緯の細部には諸説ある事項を含みますので、目安としてご覧ください。

年代 できごと
江戸時代 福山藩で綿作が奨励され、備後一帯に綿作・織物・藍染めの土壌が育つ
文久年間(1861〜1864年ごろ) 富田久三郎が「キシ縞」にヒントを得て、竹の皮で糸を括り井桁絣を考案。「文久絣」と呼ばれる
1868年(明治元年)ごろ 大阪の伊藤忠商店との取引が始まり、販路が全国へ広がったと伝わる
明治後期〜大正 力織機の導入などで量産化が進み、産地として組織化される
昭和35年(1960年)ごろ 年間約330万反を生産し、国内の絣のおよそ7割を占めたとされる。業者は最盛期で200社あまり
昭和40年代以降 洋装化により絣需要が減退。藍染め・厚手生地の技術がデニム生産へ受け継がれる
1992年(平成4年) 広島県指定の伝統的工芸品に登録される
2010年(平成22年)ごろ 製造業者は2社、年間生産量は約3,000反にまで減少
2023年度 備後絣の協同組合が解散。一部事業者が製造を継続

モデルコース|福山の歴史と繊維文化をめぐる一日

備後絣の歴史に思いを馳せながら、福山の歴史と繊維文化をあわせて楽しむモデルコースを提案します。城下町から海辺の港町まで、一日でめぐることができます。

午前|福山城と城下町

まずは福山駅前にそびえる福山城から。福山城ガイドを参照しつつ、水野勝成が築いたこの城から福山の歴史をたどり始めましょう。綿作を奨励した藩政のまなざしが、のちの備後絣やデニム産業の土壌をつくったことを思い起こしながら歩くと、城下の景色も違って見えてきます。

午後|鞆の浦で港町の歴史を

午後は瀬戸内の港町・鞆の浦へ。江戸時代の街並みが色濃く残るこの地では、福禅寺 対潮楼からの絶景や、いろは丸展示館で坂本龍馬ゆかりの歴史に触れられます。鞆の浦の街並みを歩けば、幕末の備後が政治と産業の両面で動いていた時代の空気を感じられるでしょう。

プラスワン|新市・芦田の織物のまちへ

時間に余裕があれば、備後絣発祥の地である新市・芦田方面へ足を延ばすのもおすすめです。藍染めやデニムに関わる工房・施設を訪ね、福山が「繊維のまち」であることを実感してみてください。福山の歴史を糸でたどる旅が、より立体的なものになるはずです。

よくある質問(FAQ)

Q備後絣とは何ですか?
A

広島県福山市の新市町から芦田町にかけての一帯で発展した、藍染めの綿織物です。糸をあらかじめ染め分けてから織り、布に井桁や十字などの文様を浮かび上がらせる「絣」の技法で作られます。伊予絣・久留米絣とともに「日本三大絣」の一つに数えられるとされています。

Q「日本三大絣」とは何を指しますか?
A

備後絣、伊予絣(愛媛県)、久留米絣(福岡県)の三つを指す通称です。いずれも江戸後期から幕末に庶民の木綿絣として確立し、明治以降に量産・全国流通した産地です。公的に定義された格付けではなく、絣を語る際に広く用いられてきた呼び方です。

Q備後絣を作り始めたのは誰ですか?
A

福山市芦田町下有地の出身と伝わる富田久三郎が創始者とされています。文久年間に「キシ縞」という絹の絣にヒントを得て、竹の皮で糸を括り藍で染めることで井桁絣を考案したと伝えられます。

Qなぜ最初は「文久絣」と呼ばれたのですか?
A

創始されたのが江戸時代末期の「文久」年間であったことから、当初は元号にちなんで「文久絣」と呼ばれました。のちに産地として広く知られるようになる過程で、旧国名を冠した「備後絣」の名で流通するようになったとされます。

Q備後絣はどこで作られていましたか?
A

主に広島県福山市の新市町から芦田町にかけての一帯で製造されてきました。創始者・富田久三郎の出身地と伝わる芦田町下有地を含むこの地域が、備後絣発祥の地とされています。

Q備後絣はどのくらい生産されていましたか?
A

最も盛んだった昭和35年(1960年)ごろには、年間およそ330万反が生産され、国内で流通する絣のおよそ7割を占めたとされます。最盛期には200社あまりの業者が製造に携わっていました。

Qなぜ備後絣は衰退したのですか?
A

戦後の高度経済成長とともに人々の暮らしが洋装化し、野良着や普段着として絣を身につける機会が大きく減ったためです。日常着としての需要が根底から細ったことが、生産の急減につながりました。

Q現在も備後絣は作られていますか?
A

最盛期に比べると大幅に縮小しましたが、橘髙兄弟商会や森田織物といった事業者が製造を続けていると伝えられています。協同組合は2023年度限りで解散したとされますが、伝統の技は受け継がれています。

Q備後絣とデニムにはどんな関係がありますか?
A

備後絣で培われた藍染めと厚手の綿生地を織る技術が、戦後、デニム生地の製造へと受け継がれました。福山は今日では国内有数のデニム産地として知られ、備後絣はその源流に位置づけられます。

Q絣はどのように作られるのですか?
A

織る前に、模様にしたい部分の糸を括って防染し、藍で染めてから織り上げます。染め残した白い部分と藍に染まった部分が織り合わさって文様が現れます。括り・染め・織りのいずれも熟練を要する手仕事です。

Q備後絣は文化財に指定されていますか?
A

1992年(平成4年)に広島県指定の伝統的工芸品に登録されています。量産品としての全盛期は過ぎても、地域が育んだ技術と文化を伝える工芸として公的に位置づけられています。

Q備後絣ゆかりの地はどこを訪ねればよいですか?
A

発祥の地である福山市の新市・芦田一帯がまず挙げられます。あわせて、綿作を奨励した福山城や、幕末の歴史を伝える鞆の浦をめぐると、備後の歴史と繊維文化を立体的に楽しめます。

Q備後絣はどんな色や模様が特徴ですか?
A

藍色の地に、白く抜いた井桁や十字などの幾何学文様が浮かび上がるのが基本的な特徴です。木綿を素材とし、藍で染めた糸を織り合わせるため、模様の輪郭がわずかにかすれて見える独特の風合いがあります。素朴でありながら端正なこの表情が、備後絣ならではの魅力です。

Q備後絣と現在の福山のデニムはどちらが先ですか?
A

備後絣のほうが先です。江戸時代末期に生まれた備後絣で培われた藍染めと厚手生地の織りの技術が、戦後にデニム生地の製造へと受け継がれ、福山は国内有数のデニム産地へと発展しました。つまり、現在のデニム産業は備後絣を源流の一つとしているといえます。

Qなぜ福山で綿の栽培や織物が盛んになったのですか?
A

福山藩初代藩主・水野勝成が綿作を奨励したことや、温暖で日照に恵まれた備後平野の気候が綿の栽培に適していたことが背景にあるとされます。原料の木綿が地元で安定して得られたことで、紡ぎ・織り・染めの手仕事が家々に根づき、絣産業が育つ土壌が整いました。

まとめ|一本の糸がつなぐ福山のものづくり

備後絣は、幕末の福山で一人の青年・富田久三郎が竹の皮で糸を括るという素朴な工夫から生み出した、藍染めの木綿絣でした。当初は「文久絣」と呼ばれたこの織物は、明治に入って大阪の伊藤忠商店との取引を機に全国へと販路を広げ、力織機の導入による量産化を経て、昭和三十年代には年間三百万反を超え、国内の絣のおよそ七割を占めるという日本一の絣産地へと成長しました。伊予絣・久留米絣とともに「日本三大絣」に数えられたとされるその名声は、福山の近代産業史に燦然と輝いています。

洋装化の波のなかで需要を失い、産地は大きく縮小しましたが、備後絣で磨かれた藍染めと厚手生地の技術は、戦後のデニム産業へと受け継がれ、福山を「日本一のデニム産地」へと押し上げました。江戸時代の福山藩による綿作奨励に始まり、備後絣を経て現代のデニムへ——福山のものづくりは、一本の糸で確かにつながっています。栄えた産業の単なる回顧ではなく、技術と文化が形を変えながら生き続けてきた連続性こそ、備後絣の歴史が私たちに教えてくれる最も大切なことなのかもしれません。福山を訪れる際には、城下や鞆の浦の歴史とあわせて、ぜひこの「藍と綿の物語」にも思いを馳せてみてください。

一枚の絣に向き合うとき、私たちはそこに、藍を建てた染め師の手、糸を括った人の指先、機に向かった織り手の根気、そしてそれを商いとして全国へ届けた人々の営みを見ることができます。備後絣は、名もなき多くの人々の手仕事の集積であり、福山という土地が積み重ねてきた時間そのものです。最盛期の喧噪は遠くなり、織元の数も大きく減りましたが、いまも織り続ける人がいて、その技がデニムという形で世界とつながっている——この事実は、伝統が「終わるもの」ではなく「受け継がれ、変わりながら生き続けるもの」であることを静かに教えてくれます。福山を旅するとき、藍色の一反の向こうに広がる長い歴史に、どうか思いを馳せてみてください。

※年代・経緯には諸説ある事項を含みます。詳細は各施設の公式情報や郷土資料でご確認ください。

最終更新: 2026年6月10日

史跡情報は福山NOTE 史跡図鑑(fn_history)より。