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🏯 歴史

福山旧水道の歴史|水野勝成が築いた近世日本有数の上水道

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福山旧水道の歴史|水野勝成が築いた近世日本有数の上水道

広島県福山市の市街地を歩いていると、「蓮池(はすいけ)」「御手洗川(みたらしがわ)」といった、いかにも水にまつわる地名や川名に出会います。これらはただの自然地形ではなく、いまから四百年ほど前、福山藩初代藩主・水野勝成(みずの・かつなり)が福山城下を築くと同時に整備した、近世日本でも有数の上水道の名残です。福山旧水道は、江戸の神田上水、播磨(兵庫県)の赤穂上水とともに「日本三大上水道」のひとつに数えられることもあるほどの、画期的な土木事業でした。

この記事では、福山市上下水道局や福山市公式サイトなどの公開資料をもとに、福山旧水道がいつ・なぜ・どのように築かれたのか、その仕組みと規模、城下の暮らしを支えた役割、そして明治以降に近代水道へと移り変わっていく経緯、いま市内に残る遺構までを、できるだけ史実に沿ってたどっていきます。年代や経緯には諸説ある事項も含まれますので、確実なものと不確実なものを丁寧に区別しながら読み進めていただければ幸いです。

ゆかりの史跡・図鑑

本文に入る前に、福山旧水道や水野勝成の福山開府に関わる史跡を、福山NOTEの史跡図鑑(fn_history)からご紹介します。蓮池(どんどん池)周辺の公園や記念碑、福山城、城下町の遺構など、実際に歩いて確かめられるスポットが並びます。気になる史跡があれば、現地公式情報とあわせてめぐり方の参考にしてください。

福山城 伏見櫓 📖江戸時代(元和年間)📍 福山駅前(福山市街)福山城 📖近世(江戸)📍 丸之内福山城博物館 📖近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)📍 福山駅前(福山市街)草戸千軒町遺跡 📖中世📍 草戸町明王院 📖中世📍 草戸町鞆の津の町並み(重伝建) 📖江戸時代(中世〜近代の建造物群)📍 鞆町鞆の浦の常夜燈と港湾施設 📖江戸時代📍 鞆町福山市鞆の浦歴史民俗資料館 📖近代(昭和)📍 鞆町鞆の浦 📖中世〜近世📍 鞆町福禅寺 対潮楼 📖近世📍 鞆町太田家住宅 📖江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)📍 鞆町いろは丸展示館 📖近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)📍 鞆町仙酔島古代(地質)/近代(指定)📍 鞆町廉塾(菅茶山旧宅) 📖近世📍 神辺町神辺城跡 📖中世📍 神辺町福山八幡宮 📖近世📍 北吉津町沼名前神社 📖近世📍 鞆町阿伏兎観音(磐台寺観音堂)近世📍 沼隈町吉備津神社(備後一宮)江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる📍 新市町素盞嗚神社(備後一宮) 📖飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮📍 新市町
史跡時代概要📍 エリア詳細
福山城 伏見櫓江戸時代(元和年間)伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最…📍 福山駅前(福山市街)下へ ↓
福山城近世(江戸)備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御…📍 丸之内下へ ↓
福山城博物館近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩…📍 福山駅前(福山市街)下へ ↓
草戸千軒町遺跡中世芦田川の中州にあった中世の港町・集落遺跡。発…📍 草戸町下へ ↓
明王院中世本堂と五重塔がともに国宝。中世密教寺院で、五…📍 草戸町下へ ↓
鞆の津の町並み(重伝建)江戸時代(中世〜近代の建造物群)潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と…📍 鞆町下へ ↓
鞆の浦の常夜燈と港湾施設江戸時代江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯…📍 鞆町下へ ↓
福山市鞆の浦歴史民俗資料館近代(昭和)鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬…📍 鞆町下へ ↓
鞆の浦中世〜近世瀬戸内の「潮待ちの港」。常夜燈・雁木・波止場…📍 鞆町下へ ↓
福禅寺 対潮楼近世朝鮮通信使の使節が「日東第一形勝」と讃えた客…📍 鞆町下へ ↓
太田家住宅江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で…📍 鞆町下へ ↓
いろは丸展示館近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵…📍 鞆町下へ ↓
仙酔島古代(地質)/近代(指定)鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連…📍 鞆町下へ ↓
廉塾(菅茶山旧宅)近世儒学者・菅茶山が開いた私塾。当時の塾舎・住宅…📍 神辺町下へ ↓
神辺城跡中世備後南部の中世山城。福山城が築かれる以前、備…📍 神辺町下へ ↓
福山八幡宮近世福山城の北に鎮座し、東西二つの宮を備える。歴…📍 北吉津町下へ ↓
沼名前神社近世鞆の「祇園さん」。夏の大松明を担ぐ「お手火神…📍 鞆町下へ ↓
阿伏兎観音(磐台寺観音堂)近世断崖の上に建つ朱塗りの観音堂。国の重要文化財…📍 沼隈町下へ ↓
吉備津神社(備後一宮)江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で…📍 新市町下へ ↓
素盞嗚神社(備後一宮)飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏の…📍 新市町下へ ↓
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福山城 伏見櫓

江戸時代(元和年間) / 📍福山駅前(福山市街)

伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最古級の三層入母屋造の現存櫓。 福山城伏見櫓は、元和8年(1622年)の福山城築城に際し、城主水野勝成が将軍徳川秀忠から下賜を受け、京都の伏見城から移築させたと伝えられる櫓である。長らく伝承とされていたが、昭和29年(1954年)の解体修理の際、梁の陰刻に「松ノ丸ノ東やく(ら)」の文字が発見され、伏見城からの移築を裏付ける確かな遺構であることが明らかになった。構造は三層入母屋造で、初層と二層を同じ柱割とし、その上にやや小さい三層を望楼状に載せる。桁行八間・梁間三間、本瓦葺の規模をもつ。慶長期の城郭建築の様式を残す初期の典型として価値が高く、昭和8年(1933年)1月23日に国の重要文化財に指定された。福山城内に現存し、特別公開が行われることもある。

🕰 時代江戸時代(元和年間)
🏛 成立・築造元和8年(1622年)水野勝成の福山城築城時に伏見城から移築。国指定重要文化財(昭和8年=1933年1月23日指定)
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目(福山城内)
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福山城

近世(江戸) / 📍丸之内

備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御門は京都伏見城からの移築と伝わる。2022年に築城400年を迎えた。

🕰 時代近世(江戸)
🏛 成立・築造1622年(元和8)・水野勝成
👤 関連水野勝成・阿部正弘
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目8
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福山城博物館

近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期) / 📍福山駅前(福山市街)

水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩の歴史を体験型展示で伝える博物館 福山城博物館は、JR福山駅のすぐ北に建つ福山城天守内に置かれた市立の歴史資料館です。福山城は1622年(元和8年)、徳川譜代の大名・水野勝成が西国鎮衛の拠点として築いた近世城郭で、天守は1931年に国宝に指定されました。しかし1945年8月の福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリート造で外観が復興され、その内部が博物館として公開されました。2022年には築城400年に合わせて大規模リニューアルされ、北面の鉄板張り(黒い装い)の再現や、一番槍レース・火縄銃などの体験型コンテンツ、デジタル映像を用いた展示が整えられ、福山城と福山藩の歴史を学べる施設となっています。城内に現存する伏見櫓と筋鉄御門は、京都・伏見城からの移築と伝えられ、国の重要文化財に指定されています。常設展は有料、月曜休館とされます。

🕰 時代近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)
🏛 成立・築造福山城は1622年(元和8年)に初代福山藩主・水野勝成が築城。天守は1945年福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリートで外観復興、内部を博物館として開館。2022年に大規模リニューアル
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目8番
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鞆の津の町並み(重伝建)

江戸時代(中世〜近代の建造物群) / 📍鞆の浦

潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と町家が一体で残る重伝建地区 鞆の浦は瀬戸内海の中央に位置し、古来「潮待ちの港」として栄え、万葉集にも詠まれた歴史を持つとされる。江戸時代には北前船など廻船の寄港地として繁栄し、朝鮮通信使の寄港地ともなった。2017年(平成29年)11月28日、「福山市鞆町伝統的建造物群保存地区」として約8.6ヘクタールが国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。範囲は鞆字西町の全域を中心に、石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地の一部に及ぶ。中世から江戸期に整えられた地割の上に、江戸時代から昭和30年代までの町家や寺社、石垣などが一体的に残る近世港町の景観が評価された。常夜燈・雁木・波止・焚場・船番所の5つの港湾施設がほぼ完全に残る点は全国でも稀とされる。広島県内では3例目の選定で、2018年には日本遺産にも認定された。

🕰 時代江戸時代(中世〜近代の建造物群)
🏛 成立・築造2017年(平成29年)11月28日に国の重要伝統的建造物群保存地区へ選定。地割は中世〜江戸期、建造物は江戸時代〜昭和30年代まで。
📍 所在地広島県福山市鞆町(鞆字西町全域ほか、字石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地字古城跡・草谷の各一部)
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鞆の浦の常夜燈と港湾施設

江戸時代 / 📍鞆の浦

江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯一の近世港、鞆港。 鞆の浦の鞆港には、常夜燈・雁木・波止・焚場(たでば)・船番所という江戸時代の港湾施設5点がほぼ揃って現存し、これらが一体で残るのは全国でも鞆港のみとされる。シンボルの常夜燈は安政6年(1859)の刻銘をもつ石造灯台で、海中の基礎石から宝珠の頂までは約12.1mに及び、江戸期の石造常夜燈としては国内最大級とされる。雁木は潮の干満に応じて船を着けられる階段状の船着き場で、半円形の港内に連続して巡らされている。波止は花崗岩を積んだ全長約146mの防波堤で、江戸後期に築かれ明治期に修築された。鞆港を含む沿岸と沖の島々一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定され、鞆町西町を中心とする区域は2017年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。日本遺産「瀬戸の夕凪が包む 国内随一の近世港町」の構成要素でもある。

🕰 時代江戸時代
🏛 成立・築造常夜燈は安政6年(1859)造立とされる。雁木・波止・焚場・船番所は江戸後期築造、波止は明治期に修築。鞆港一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定。
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆
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福山市鞆の浦歴史民俗資料館

近代(昭和) / 📍鞆の浦

鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬戸内の歴史・民俗を伝える市立資料館 福山市鞆の浦歴史民俗資料館は、広島県福山市鞆町後地に建つ市立の博物館で、「潮待ちの館」の愛称で親しまれる。1977年(昭和52年)からの地元有志による調査・収集活動を背景に、福山市制70周年記念事業として1988年(昭和63年)に開館した。立地は、福島正則が築いたとされる鞆城跡(福山市指定史跡)の高台で、瀬戸内海を見渡せる。万葉の時代から潮待ち・風待ちの港として栄えた鞆の浦を中心に、古代から近世にいたる歴史資料を展示。鯛網漁のジオラマや錨を製造した鍛冶場、朝鮮通信使関連資料、保命酒に関する資料に加え、お手火神事・お弓神事といった地域の民俗文化財も常設展示する。鞆の歴史と暮らしを総合的に学べる拠点とされる。

🕰 時代近代(昭和)
🏛 成立・築造1988年(昭和63年)開館。福山市制70周年記念事業として建設。建つ鞆城跡は福島正則が築いたとされる(福山市指定史跡)
📍 所在地広島県福山市鞆町後地536-1
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太田家住宅

江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期) / 📍鞆の浦

鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で、国の重要文化財 鞆の浦を代表する歴史的建造物で、薬用酒「保命酒」の醸造で財を成した商家の旧宅。もとは大坂の漢方医を出自とする中村家の屋敷で、明暦元年(1655年)に鞆へ移り住み、まもなく十六味地黄保命酒の製造・販売を始めて大ヒットし、福山藩の御用名酒屋として販売独占権を得たとされる。明治期に廻船業を営んだ太田家が継承し、現在の名で呼ばれる。主屋を中心に保命酒蔵や各種土蔵など九棟が建ち並び、建築年代は18世紀中期から19世紀前期に及ぶ。瀬戸内の商家建築を伝える貴重な遺構として、1991年に国の重要文化財に指定された。幕末には三条実美ら尊王攘夷派の公卿が立ち寄ったと伝わり、別宅の朝宗亭とともに「鞆七卿落遺跡」として広島県の史跡(1940年指定)にもなっている。

🕰 時代江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)
🏛 成立・築造主屋は18世紀中期、ほか北保命酒蔵が天明8年(1788年)、西蔵が寛政元年(1789年)、東保命酒蔵が寛政7年(1795年)など18世紀中期〜19世紀前期。国の重要文化財指定は1991年(平成3年)5月31日。
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆842
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いろは丸展示館

近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期) / 📍鞆の浦

坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵を活かした資料館 鞆の浦のシンボル常夜灯(とうろどう)のすぐそばに建つ資料館。1867年(慶応3年)、坂本龍馬と海援隊が運航したいろは丸が紀州藩の明光丸と備後灘で衝突・沈没した「いろは丸事件」を伝える施設で、その談判が鞆の浦で行われた縁にちなむ。建物は江戸期に建てられた太い梁が印象的な土蔵で、地元では「大蔵」と呼ばれ、国の登録有形文化財とされる。館内には海底に沈むいろは丸を再現したジオラマ、引き揚げられた陶器や部品、調査風景の写真などを展示し、2階には龍馬が宿泊先で身を潜めたという「隠れ部屋」が再現され、龍馬の蝋人形も置かれている。1989年(平成元年)7月の開館。幕末史と鞆の港町文化を同時に味わえるスポットである。

🕰 時代近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)
🏛 成立・築造1989年(平成元年)7月開館。建物は江戸期築の土蔵「大蔵(浜蔵)」で、国の登録有形文化財とされる。展示題材のいろは丸事件は1867年(慶応3年)
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆843-1
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仙酔島

古代(地質)/近代(指定) / 📍鞆の浦

鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連なる瀬戸内海国立公園の名勝 仙酔島は鞆の浦の沖合に浮かぶ周囲約6キロの島で、住所は福山市鞆町後地。鞆港から市営渡船で約5分の距離にあり、観光客の往来はあるが定住者のいない無人島とされる。1925年(大正14年)に国の名勝「鞆公園」の一部として指定され、1934年(昭和9年)には日本で最初に指定された国立公園・瀬戸内海国立公園に含まれた。島は約9000万年前の大規模な火山活動による溶結凝灰岩を主体とし、南側海岸には青・赤・黄・白・黒の岩が200メートル以上連なる「五色岩」が見られ、地質的に貴重とされる。「仙人が酔うほど美しい島」が名の由来と言われる。江戸後期の学者・頼山陽が当地の景観を「山紫水明」と評したとも伝わる。

🕰 時代古代(地質)/近代(指定)
🏛 成立・築造1925年(大正14年)国名勝「鞆公園」に指定。1934年(昭和9年)日本初の国立公園・瀬戸内海国立公園に編入。島自体は約9000万年前の火山活動で形成されたとされる
📍 所在地広島県福山市鞆町後地
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吉備津神社(備後一宮)

江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる / 📍新市・北部

備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で「いっきゅうさん」と親しまれる古社 福山市新市町宮内に鎮座する備後国一宮で、地元では「一宮さん(いっきゅうさん)」と親しまれる。社伝では大同元年(806年)に吉備国の吉備津神社から勧請し創建されたと伝わるが、延喜式神名帳に記載がないことなどから実際の成立はより後とする説もある。主祭神は吉備国を治めたとされる大吉備津彦命。現在の本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が旧規模にならい造営したもので、桁行七間・梁間四間の入母屋造檜皮葺、国の重要文化財に指定されている。ほかにも木造狛犬や太刀などが重要文化財として伝えられ、複数の建造物が広島県・福山市指定文化財となっている。隣接する櫻山城跡なども史跡として知られ、備後の信仰と歴史を今に伝える。

🕰 時代江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる
🏛 成立・築造本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が造営、国の重要文化財。創建は大同元年(806年)と伝わるが諸説ある
📍 所在地広島県福山市新市町宮内400
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素盞嗚神社(備後一宮)

飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮 / 📍新市・北部

祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏のけんか神輿で名高い古社 福山市新市町戸手に鎮座する素盞嗚神社は、『延喜式神名帳』に載る式内社で備後国一宮を称し、旧社格は県社です。主祭神は素盞嗚尊で、稲田姫命・八王子を配祀します。社伝では天武天皇の治世、7世紀ごろ(679年か)の創建とされます。『釈日本紀』所収の「備後国風土記」逸文に伝わる蘇民将来説話の舞台「疫隈国社」と結びつけられ、茅の輪くぐりや祇園信仰・祇園祭発祥の地の一つとされています。神仏習合期には牛頭天王を祀り、遣唐使・吉備真備が734年に当社から播磨の広峯神社へ勧請したとも伝わります。毎年7月の例祭では、勇壮なけんか神輿(神輿合わせ)が行われることで知られます。

🕰 時代飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮
🏛 成立・築造社伝では天武天皇期の7世紀ごろ(679年か)創建とされる。『延喜式神名帳』記載の式内社で、旧県社
📍 所在地広島県福山市新市町大字戸手1-1

各史跡の所在地や見学可否、最終確認日などの詳細は、図鑑の個別ページからご確認いただけます。なお、上水道の遺構には現在も水を引いている河川や、私有地・住宅地に近い場所もありますので、見学の際はマナーと安全に十分ご配慮ください。

近世の城下町づくりにおいて、上水道のような土木インフラは、城そのものや町割りと同じくらい都市の運命を左右する要素でした。水がなければ人は住めず、人がいなければ町は育ちません。福山旧水道の物語は、単なる水道工事の話ではなく、「ひとつの都市がいかにして生まれ、いかにして人々の暮らしを支えたか」という、福山という町の出発点そのものをめぐる物語でもあります。以下では、その背景にある人物・地理・技術・暮らしを、順を追って丁寧にひもといていきます。

水野勝成と福山開府

福山城
福山城(画像:Wikimedia Commons / CC)

福山旧水道を理解するには、まずその生みの親である水野勝成と、彼が福山という町をゼロから築いた経緯を知る必要があります。上水道は単独の事業ではなく、福山城と城下町という新しい都市づくりの一部として、同時並行で計画されたものだからです。

徳川家ゆかりの大名・水野勝成

水野勝成は、徳川家康の生母・於大の方(伝通院)の実家である水野家の出身で、家康の従兄弟(いとこ)にあたる人物とされます。若い頃は各地を放浪し、さまざまな大名のもとで武功を重ねた「戦国の荒武者」として知られますが、後年は徳川幕府に重く用いられました。大坂の陣などでの働きを経て、元和5年(1619年)、備後・備中のうち十万石の領地を与えられ、福山の地に入封します。

福山は瀬戸内海に面し、西国の外様大名ににらみを利かせる軍事・交通上の要衝でした。徳川一門に近い勝成をこの地に配置したこと自体が、幕府による西国支配の布石だったと考えられています。勝成は、それまで小さな漁村や干潟が広がっていたとされる芦田川河口のデルタ地帯に、まったく新しい城と城下町を築こうとしました。

福山城と城下町の建設

福山城は、1619年(元和5年)に水野勝成が築いた城です。築城と並行して、武家屋敷・町人町・寺社地などを配置した城下町が整えられていきました。城下町は計画的に区画され、街路や水路、堀が一体的に設計された、近世初期を代表する都市計画の事例のひとつとされています。

福山城そのものについては、別記事の福山城の歴史・見どころガイドでも詳しく取り上げています。天守をはじめとする城郭の歩みと、本記事で扱う上水道とをあわせて読むと、勝成が「城」と「町」と「水」を一体のものとして構想していたことがより立体的に見えてきます。水野勝成という人物の生涯については、水野勝成の生涯ガイドもあわせてご覧ください。

なぜ「水」が最優先だったのか

新しい城下町を築くうえで、勝成が早い段階から取り組んだのが飲み水の確保でした。福山市の資料では、城下町の建設とともに「まっ先に飲用水の供給対策」が進められたと説明されています。これは、後述するように城下町が立地した土地が、井戸水に恵まれない場所だったことが大きく関係しています。

当時の都市づくりにおいて、城の防御や町割りとならんで、人々の生活を支える水の確保は死活問題でした。とりわけ多くの武士・町人・職人を新たに呼び集めて人口を増やそうとするなら、安定した飲み水なしには町は成り立ちません。勝成が上水道の整備を後回しにせず、開府とほぼ同時に着手したと伝わるのは、その重要性を深く理解していたためと考えられます。

事業を支えた家臣たち

大規模な土木事業は、藩主ひとりの号令だけで実現するものではありません。福山市の資料によれば、福山旧水道の工事では、家老の中山勝時(なかやま・かつとき)が惣奉行(そうぶぎょう/工事全体の総責任者)を、神谷治部(かみや・じぶ)が水道工事の指揮をとったと伝えられています。藩の中枢を担う重臣を責任者に据えていたこと自体が、この上水道整備が藩をあげての一大事業として位置づけられていたことを物語っています。

水源の選定、水路の経路設計、勾配(傾き)の計算、石や木・竹を用いた管の施工、そして城下の町割りとの調整――これらを一体的に進めるには、土木・測量の知識を持つ技術者や、多くの人足を動員する組織力が必要でした。勝成の構想を、こうした家臣や職人たちが現場で形にしていったのです。なお、個々の人物の具体的な事績については史料により伝わり方が異なる場合もあり、詳細には不確実な部分も残ります。

上水道整備の背景|塩気を含む井戸水

福山旧水道がなぜ必要とされたのか。その最大の理由は、城下町が築かれた土地の地質的な条件にありました。

芦田川河口のデルタという立地

福山城と城下町は、芦田川(あしだがわ)河口の三角州(デルタ)の上に造られました。福山市の資料によれば、このデルタ上では「井戸を掘っても塩気・鉄気などを含んだ水しか出てこなかった」とされています。海に近い低地であるため地下水に塩分が混じりやすく、また鉄分なども含まれて、そのままでは飲用に適さない水しか得られなかったというのです。

このような土地では、いくら井戸を掘っても良質な飲み水を確保することは困難です。城下町の人口を増やし、都市として機能させていくためには、井戸に頼るのではなく、別の水源から良質な水を引いてくる「上水道」という発想が不可欠でした。

井戸ではなく「水道」を選んだ判断

勝成は、塩気を含む井戸水に頼ることをあきらめ、城下から離れた上流の川から水を引く道を選びました。福山市上下水道局の資料では、城から約2キロメートル北西にある芦田川を水源とし、そこから水路で城下へと水を導いたと説明されています。

水を高い所から低い所へと自然に流す「自然流下」の原理を用いることで、ポンプのような動力がなくても城下の各所まで水を行き渡らせる仕組みが整えられました。標高差をたくみに利用し、町中を水が自然に流れ下る構造になっていた点は、福山旧水道の大きな特徴です。

全国でも早い時期の上水道

福山旧水道は、一般向けの飲用水道としては全国で5番目に位置づけられるほど早い時期に整備されたとされています。福山市の資料に示された一例では、江戸の神田上水(1590年)、近江八幡水道(1607年)、赤穂水道(1616年)、中津上水(1620年)に次ぐものとされ、続いて福山の上水道が整備されたと説明されています。なお、こうした「全国〇番目」という順位づけは、何をもって上水道とみなすかなどの基準により諸説あり、確定的なものではない点には注意が必要です。

いずれにせよ、江戸時代の初期という早い段階で、城下町全体に飲用水を供給する本格的な上水道を整えた事例は全国的にも限られており、福山旧水道がその先駆けのひとつであったことは間違いないといえるでしょう。

「上水道」という発想の先進性

現代の私たちにとって、蛇口をひねれば水が出るのは当たり前のことですが、江戸時代初期において、都市全体に管を通して飲み水を配るという発想は、決してありふれたものではありませんでした。多くの城下町や農村では、人々は井戸を掘り、あるいは川や池から水を汲んで暮らしていました。そうしたなかで、上流の川から水を引き、貯水・沈殿させ、地中の管を通して各戸まで届けるという「上水道システム」を構築したことは、当時としては高度に計画的・先進的な取り組みでした。

しかも福山の場合、その動機は「井戸水が塩気を含んで飲めない」という切実な事情に根ざしていました。土地の不利を技術と計画でくつがえし、人が住める町をつくりあげる――福山旧水道は、近世初期の日本における都市インフラ整備の意志と知恵を象徴する事業だったといえるでしょう。

福山旧水道の仕組み|水源から城下まで

福山駅前から望む福山城(石垣と伏見櫓)
福山駅前から望む福山城(石垣と伏見櫓)(画像:Wikimedia Commons / CC)

ここからは、福山旧水道がどのような仕組みで水を運んでいたのかを、水源・貯水池・配水という流れに沿って見ていきます。

水源と導水路(吉津川)

福山旧水道の水源は、城下から約2キロメートル北西の芦田川でした。福山市の資料によれば、芦田川と高屋川(たかやがわ)の合流地点の下流側にあたる「高崎」付近で取水し、「吉津川(よしづがわ)」と呼ばれた導水路を通じて城下へと水を供給したとされています。芦田川から城下へと向かう、この導水路が旧水道の出発点でした。

取水した水は、自然の高低差を利用して城下方面へと導かれます。途中で水を貯め、ごみや泥を沈める施設を経ることで、ある程度きれいになった水を町へ届ける仕組みになっていました。

貯水池・蓮池(どんどん池)

導かれた水は、いったん「蓮池(はすいけ)」と呼ばれる池にためられました。この蓮池は、貯水池であると同時に、水中のごみやほこり、泥などを沈めて水をきれいにする沈殿池の役割も兼ねていたとされます。福山市の資料では、その面積はおよそ9,000平方メートルとされています。

蓮池には「どんどん池」という愛称があり、これは水が樋門(ひもん/水の出入り口)から流れ出る際に「ドンドン」と音を立てたことに由来するといわれています。この呼び名は現在まで親しまれており、池の周辺は公園として整備され、記念碑も建てられています。福山旧水道の歴史を今に伝える、象徴的な場所のひとつといえるでしょう。

城下への給水系統

蓮池などを経た水は、複数の幹線(おもな水路)に分かれて城下町の各方面へと配られました。福山市の資料では、おもな幹線として、護国神社と城山の間を掘削して城の東側を通る系統、西町を外堀沿いに南下して城の南側地域へ向かう系統、御手洗川(みたらしがわ)から吉津村へ通じる系統などが挙げられています。資料によっては、城下の西側・南側・東側・北側(寺社地)に向かう幹線として整理されることもあります。

こうして城の周囲をぐるりと取り囲むように水路網が張りめぐらされ、武家地・町人地・寺社地のそれぞれに水が行き渡るよう計画されていたことがわかります。御手洗川という川の名も、もとはこの上水道の一部であったことに由来すると説明されており、現在の福山の地形や地名のなかに旧水道の痕跡が刻まれているのです。

各戸へ配る木樋・竹樋・土樋

幹線から先、個々の家々へと水を配るためには、地中に埋めた管(樋)が用いられました。福山市の資料では、土管や木管を使って城下町の各戸へ給水する仕組みであったとされ、別の説明では木管・竹管によって各戸へ配水したとも記されています。木をくり抜いた木樋(もくひ)、竹を用いた竹樋(たけひ)、焼き物の土樋(どひ)といった管を組み合わせて、町のすみずみまで水を届けていたと考えられます。

また、四つ辻など主要な場所には「貫洞(かんどう)」と呼ばれる方形の井戸状の水溜めが設けられていたとされ、ここから木管・竹管を通じて各戸へ水が引かれていたと説明されています。井戸のように見えても、その水源は地下水ではなく上流の川から引いた上水であった点が、福山旧水道ならではの特徴です。

水路の規模と総延長

福山旧水道の主要な幹線には、石を組んで造られた暗渠(あんきょ/ふたをした水路)が用いられました。福山市の資料では、おもな幹線は幅おおよそ0.6〜0.9メートル、深さおおよそ0.45〜0.6メートルほどの石造暗渠であったとされています。これらをつなげた管路の総延長は、約14キロメートル(約3里半)に及んだと説明されています。

城から約2キロメートル北西の水源から城下の各戸まで、合計14キロメートルにわたって水路を張りめぐらせるという事業は、当時としては非常に大規模なものでした。動力に頼らず、土地の高低差だけで水を流すには、水路の勾配(傾き)を精密に計算して施工する必要があり、高い土木技術が求められたと考えられます。

石・木・竹を使い分けた理由

福山旧水道では、水を運ぶ場所や役割に応じて、石・木・竹といった素材が使い分けられていたと考えられます。多くの水量が流れる主要な幹線には、強度と耐久性に優れた石造の暗渠が用いられました。石を組んで造った水路は、土の崩れや管の損傷に強く、長期にわたって幹線の水流を支えることができます。

一方、幹線から分かれて各戸へと水を導く細い配管には、加工しやすい木をくり抜いた木樋や、節を抜いた竹を用いた竹樋が使われたとされます。これらは石ほどの耐久性はないものの、入手しやすく、細かな取り回しがききました。さらに焼き物の土樋も用いられたとされ、現場の条件や水量に応じて素材を選んでいたことがうかがえます。素材を適材適所で使い分けるこうした工夫もまた、福山旧水道の技術的な見どころのひとつです。

沈殿による「浄化」の工夫

近代的なろ過装置や消毒薬のなかった江戸時代、水をきれいにする手段は限られていました。福山旧水道では、蓮池などの貯水池で水をいったんため、流れをゆるやかにすることで、水に混じったごみやほこり、泥などを底に沈める「沈殿」によって、ある程度水を浄化していたとされます。福山市の資料でも、池でごみやほこりを沈殿させて浄化したと説明されています。

これは、自然の力を利用した素朴ながら理にかなった方法でした。もちろん、目に見えない病原菌などを取り除くことはできませんでしたが、当時の技術水準のなかで、できるかぎり清浄な水を城下へ届けようとした工夫の表れといえます。後の時代に近代水道が求められた背景には、この沈殿だけでは衛生面で限界があったという事情もありました。

城下への給水と人々の暮らし

では、こうして整えられた上水道は、実際に城下の人々の暮らしをどのように支えたのでしょうか。

初期の給水人口

福山市上下水道局の資料によれば、福山旧水道の初期の給水人口はおよそ2,500人とされています。城下町の建設が進み、人口が増えていくにつれて、上水道が支える人々の数も増えていったと考えられます。塩気を含む井戸水しか得られなかった土地で、これだけの人々に良質な飲み水を安定して供給できたことは、城下町の発展の前提条件となりました。

飲み水が確保されてはじめて、商人や職人が安心して町に住み着き、町は産業や文化の集積地として育っていきます。福山が後に備後地方の中心都市として栄えていく土台には、この上水道による水の確保があったといえるでしょう。

「自然流下」で水が来るありがたさ

福山旧水道は、ポンプのような動力を使わず、土地の高低差だけで水を流す「自然流下」の仕組みでした。上流から城下へと水が自然に流れ下り、貫洞や各戸の水溜めへと届く――井戸を深く掘ったり、毎日遠くまで水を汲みに行ったりしなくても、町の中で良質な水が手に入るというのは、当時の人々にとって大きな恩恵だったはずです。

もっとも、ろ過や消毒といった近代的な浄水処理は行われておらず、水のきれいさは蓮池などでの沈殿に頼っていました。そのため、後の時代になると水源の汚れや衛生面の問題が顕在化していくことになりますが、江戸時代の技術水準のなかでは、城下全体に上水を行き渡らせたこと自体が画期的な達成でした。

城下町と産業・文化の発展

安定した水の供給に支えられて、福山の城下町ではさまざまな産業や文化が育っていきました。たとえば、後の時代には備後地方を代表する織物として知られる備後絣(びんごがすり)が生まれ、染めや洗いに水を多く使う染織業も盛んになっていきます。また、近代以降には鉄のまち福山として重工業も発展しました。こうした産業の歩みも、まずは城下に人が集まり暮らせる環境が整ったことが出発点であり、その根底には水の確保があったといえます。

瀬戸内の港町としては、福山藩領内の鞆の浦の街並みのように、独自の歴史を刻んだ町もあります。福山という地域全体の歴史のなかで、城下町の上水道は、人々の暮らしと産業を静かに支え続けた基盤的なインフラだったのです。

水とともにあった町の地名

福山旧水道は、現在の福山の地名や川名のなかにもその痕跡を残しています。たとえば「蓮池」は旧水道の貯水池に由来し、「どんどん池」という愛称も水が流れ出る音から生まれたとされます。「御手洗川」も、もとは上水道の一部であったことに由来する名と説明されており、水にまつわる地名が町のあちこちに刻まれています。

こうした地名は、四百年前の水のネットワークが、現在の福山の暮らしの風景のなかに今も生き続けていることを教えてくれます。何気なく通り過ぎる川や池の名にも、城下町を生み出した水の物語が宿っているのです。地名をたどりながら町を歩くと、福山旧水道がいかに生活の隅々まで行き渡っていたかを実感できるでしょう。

城下の人口を支えた基盤

新しい城下町に人を呼び込み、定着させるには、まず暮らしの基盤が整っていなければなりません。塩気を含む井戸水しか得られなかった土地で、上水道によって良質な飲み水が安定して供給されたことは、武士・町人・職人が安心して移り住むための前提条件でした。水の確保があってはじめて、町は人口を増やし、商業や手工業の集積地として成長していくことができたのです。

福山が備後地方の中心都市として発展していく長い歩みの、まさに第一歩を支えたのが福山旧水道でした。城や町割りといった目に見える都市の骨格の陰で、上水道という見えにくいインフラが、人々の日々の暮らしを根底から支え続けたのです。

江戸時代を通じての維持と「日本三大上水道」

芦田川の河口部
芦田川の河口部(画像:Wikimedia Commons / CC)

福山旧水道は、水野家の時代に築かれた後、藩主が代わっても引き継がれ、長く城下の水を支え続けました。

水野・松平・阿部家へと引き継がれた水道

福山城は、水野氏のあと松平氏、そして阿部氏へと藩主が移り変わっていきました。城下町とその基盤である上水道も、こうした藩主の交代をこえて維持・利用され続けたと考えられます。一度築かれたインフラが世代をこえて使われ続けたことは、それだけこの上水道が城下の暮らしに不可欠だったことを物語っています。

江戸時代を通じて、水路の補修や管の取り替えなどの維持管理が必要であったはずですが、その仕組みによって長期にわたり城下に水が供給され続けた点は、近世の都市インフラとして特筆されます。

「日本三大上水道」という呼び名

福山旧水道は、しばしば「福山上水」と呼ばれ、江戸の神田上水、播磨の赤穂上水とともに「日本三大上水道」のひとつに数えられることがあります。福山市の資料でもこの呼び名が紹介されています。ただし、「三大上水道」という括り方は通称的なものであり、選び方には諸説ある点に留意が必要です。

比較対象となる神田上水は、江戸の都市を支えた代表的な上水で、井之頭池などを水源とし、江戸の住人の飲み水をまかなったことで知られます。赤穂上水(赤穂水道)も、塩田で有名な播磨・赤穂の城下に飲み水を供給した近世上水道です。これらと並び称されること自体が、福山旧水道の規模と先進性を物語っているといえるでしょう。なお、こうした近世上水道は、いずれも海に近く井戸水に塩分が混じりやすい城下町に築かれている点で共通しており、立地の課題を土木技術で乗り越えた知恵の結晶でもありました。

中四国地方でも古い上水道

福山市の資料では、福山旧水道は「中四国地方で一番古い上水道」とも記されています。全国的に見ても早い時期に整備された上水道であり、中国・四国地方という地域のなかでは先駆的な存在でした。地域の都市史・土木史を考えるうえでも、重要な事例といえます。

他の近世上水道との比較で見る福山旧水道

福山旧水道の意義をより深く理解するために、同じ江戸時代に各地で築かれた近世上水道と比べながら、その特徴を整理してみましょう。なお、各上水道の年代や規模には資料により諸説あり、ここでは一般的に伝わる位置づけをもとに紹介します。

江戸・神田上水との比較

神田上水は、江戸という日本最大の都市を支えた代表的な上水で、井之頭池などを水源としたとされます。人口が急増する巨大都市の飲み水をまかなった点で、規模の大きさは際立っています。一方、福山旧水道は地方の城下町を対象としたものですが、海に近いデルタ上という、井戸水に頼れない土地で都市そのものを成立させるために不可欠だったという点で、その必然性は神田上水にも劣りません。大都市を支えた水道と、都市を生み出すために築かれた水道――それぞれに異なる役割があったといえます。

播磨・赤穂上水との共通点

赤穂上水(赤穂水道)は、塩田で知られる播磨・赤穂の城下に飲み水を供給した近世上水道です。赤穂もまた海に近く、塩分を含む土地柄であったため、良質な飲み水の確保が課題でした。井戸水に塩気が混じるという立地の困難を、上流から水を引く上水道によって克服したという構図は、福山旧水道とよく似ています。この共通点こそが、両者が「日本三大上水道」として並び称される背景にあるといえるでしょう。

「全国でも早い時期」という意味

福山旧水道が、一般向け飲用水道として全国でも早い時期に整備されたとされることは、それだけ当時の福山藩が都市づくりに先進的・計画的に取り組んでいたことを示します。神田上水・近江八幡水道・赤穂水道・中津上水などに続く時期に整備されたとされ、これらと肩を並べる存在でした。ただし「全国〇番目」という順位や年代の前後関係は、何をもって上水道とするかなどの基準により諸説あるため、確定的なものとしてではなく、おおよその位置づけとして受け止めるのが適切です。

近代以降の上水道|旧水道から近代水道へ

江戸時代を通じて城下を支えた福山旧水道も、明治以降の時代の変化のなかで、しだいにその役割を終えていきます。

明治期も使われ続けた旧水道

福山旧水道は、明治時代に入ってからもしばらく使われ続けました。江戸時代に築かれた水路網が、近代になってもなお市民の飲み水を支えていたのです。しかし、長い年月のあいだに水路や管は老朽化し、また都市の人口が増えるにつれて、旧来の仕組みでは水の量や質の面で対応しきれなくなっていきました。

衛生問題と近代水道への要請

旧水道は、ろ過や消毒といった近代的な浄水処理を行っていなかったため、水源の汚れがそのまま飲み水の汚染につながる弱点がありました。明治以降、コレラなどの伝染病が流行するなかで、汚れた水が病気を広げる原因になりうることが強く意識されるようになります。福山市の資料でも、旧水道の老朽化、人口増加、伝染病の発生といった課題が、近代水道整備の背景として挙げられています。

こうして、衛生的で安全な水を安定して供給できる新しい水道――近代水道の建設が、市民の念願となっていきました。1916年(大正5年)には念願の「福山市」が誕生し、市としての都市基盤を整えるうえでも、近代水道の実現は重要な課題でした。

近代水道の完成(大正14年)

そして大正14年(1925年)、熊野ダム・佐波(さば)浄水場などを擁する近代上水道が竣工し、福山の近代水道が始まりました。これにより、城下町の時代から三百年にわたって使われてきた旧水道は、近代的な水道へとその役割を譲っていくことになります。ろ過・消毒を備えた近代水道の登場は、福山市民の暮らしに、より安全で衛生的な水をもたらしました。

江戸初期に水野勝成が築いた上水道が、大正時代の近代水道へと受け継がれていった――この長い水の歴史は、福山という都市が常に「水の確保」という課題と向き合い続けてきたことを示しています。福山の歴史全体の流れを通史としてつかみたい方は、福山の歴史 完全ガイド(通史)もあわせてご覧ください。城の築城から城下町の発展、近代化までの大きな流れのなかに、上水道の物語を位置づけて読むことができます。

現在に残るもの|旧水道の遺構をたどる

近代水道に役割を譲った福山旧水道ですが、その痕跡は今も市内のあちこちに残っています。実際に歩いて確かめられる遺構をいくつか紹介します。

蓮池(どんどん池)と記念碑

旧水道の貯水池兼沈殿池であった蓮池は、現在も「どんどん池」の愛称とともに親しまれ、周辺は公園として整備されています。福山市の資料によれば、蓮池の東側には記念碑が建てられており、福山旧水道の歴史を伝える場所となっています。水野勝成が築いた上水道の中心施設であった場所を、いまも身近に感じることができます。

御手洗川と取水口の遺構

御手洗川は、もともと旧水道の一部であったことに由来する名を持つ川で、城の北側の寺社地などへの給水・かんがいに用いられたとされます。福山市の資料では、蓮池から400メートルほど東に、御手洗川の取水口の石組み遺構が残っていると紹介されています。石を組んで造られた当時の取水施設の様子を、現地でうかがい知ることができます。

妙政寺前の取水扉門

主要な取水地点のひとつとされるのが、妙政寺(みょうしょうじ)前にある取水扉門です。資料によれば、これは幅0.65メートル・深さ1.45メートル・奥行き0.6メートルほどの石造りの施設で、現在は石でふさがれているものの、当時の取水構造を今に伝える数少ない遺構とされています。寺の南を流れる川は別名「御手洗川」とも呼ばれ、その水が主要な水路と農業用のかんがいの両方に使われたと説明されています。

天神山南の小川など

このほか、天神山の南には幅約2.5メートル・深さ約1.4メートルほどの小川が残るなど、旧水道に関わる水路の痕跡が市内に点在しています。これらの遺構は、四百年前の都市の水のネットワークが、現在の福山の地形のなかに今も生き続けていることを教えてくれます。見学の際は、私有地や住宅地に近い場所もありますので、立ち入りや見学の可否を確認し、マナーを守って訪れてください。

遺構を未来へ|保存と活用の意義

福山旧水道の遺構は、単なる古い水路の跡ではありません。それは、四百年前に福山という都市が生まれた瞬間と、その後の長い暮らしの歴史を物語る、貴重な文化遺産です。

土木遺産としての価値

動力に頼らず土地の高低差だけで水を流す自然流下の仕組み、素材を使い分けた水路、沈殿による浄化の工夫――福山旧水道には、近世初期の土木技術の知恵が凝縮されています。総延長約14キロメートルという規模で、城下町全体に飲み水を供給したこの上水道は、地域の都市史・土木史を考えるうえで重要な事例です。蓮池や取水口の遺構は、その技術と工夫を今に伝える生きた証人といえます。

地域の記憶を伝える役割

遺構や地名は、地域の人々が自分たちの町の成り立ちを知り、誇りを持つためのよりどころにもなります。「どんどん池」という親しみやすい愛称が今も使われ、蓮池の周辺が公園として整備されていることは、福山旧水道が単なる過去の遺物ではなく、地域の暮らしのなかに生き続けていることを示しています。こうした場所を大切に守り、次の世代へ伝えていくことには、大きな意義があります。

見学する際の心がけ

旧水道の遺構のなかには、現在も水を引いている河川や、私有地・住宅地に近い場所もあります。見学にあたっては、立ち入りや見学の可否を事前に確認し、地域の方々の生活に配慮することが大切です。川辺や水路の近くは足元が滑りやすいこともあるため、安全にも十分注意してください。マナーを守って訪れることが、貴重な遺構を未来へ残すことにもつながります。

福山旧水道 関連年表

福山旧水道と福山の都市の歩みを、年表で整理します。年代には諸説ある事項も含まれますので、目安としてご覧ください。

年(西暦/和暦) おもなできごと
1590年(天正18年) 江戸の神田上水が開かれたとされる(福山旧水道の比較対象)
1619年(元和5年) 水野勝成が福山に入封し、福山城・城下町の建設に着手。上水道の整備にも早くから取り組む
1622年ごろ(元和8年ごろ) 福山旧水道が整備・完成したとされる
江戸時代を通じて 水野・松平・阿部家へと藩主が代わるなか、上水道が維持・利用され続ける
明治期 旧水道が引き続き使われるが、老朽化・人口増加・伝染病の発生が課題に
1916年(大正5年) 福山市が誕生し、初代市長に阿武信一が選任される
1925年(大正14年) 熊野ダム・佐波浄水場などによる近代上水道が竣工し、福山の近代水道が始まる

福山旧水道のめぐり方|あわせて読みたい福山史

福山旧水道の遺構をめぐるなら、ぜひ福山城や城下町の歴史とあわせて訪ねるのがおすすめです。城・城下町・上水道は、水野勝成によって一体的に構想された都市づくりの三本柱だからです。

福山城周辺の蓮池公園や御手洗川沿いを歩きながら、四百年前に水野勝成が思い描いた「水の通う町」の姿を想像してみてください。地名や川の名のひとつひとつに、上水道の記憶が刻まれていることに気づくはずです。

よくある質問(FAQ)

Q福山旧水道は誰が造ったのですか?
A

福山旧水道は、備後福山藩の初代藩主・水野勝成によって整備されたとされています。福山市の資料では、家老の中山勝時が惣奉行を、神谷治部が水道工事の指揮をとったと伝えられています。勝成は1619年(元和5年)に福山へ入封し、福山城と城下町の建設とあわせて上水道の整備にも取り組みました。

Q福山旧水道はいつ造られたのですか?
A

福山市の資料では、城下町の建設が始まった1619年(元和5年)ごろから飲用水の供給対策が進められ、完成は1622年ごろ(元和8年ごろ)とされています。ただし、年代には諸説ある事項も含まれますので、目安としてお考えください。

Qなぜ福山では上水道が必要だったのですか?
A

福山城と城下町は芦田川河口の三角州(デルタ)の上に築かれたため、井戸を掘っても塩気や鉄気を含んだ水しか出ず、そのままでは飲用に適さなかったとされています。そこで、井戸に頼らず、城から約2キロメートル北西の芦田川から良質な水を引いてくる上水道が整備されました。

Q水源はどこでしたか?
A

水源は、城から約2キロメートル北西にある芦田川でした。福山市の資料によれば、芦田川と高屋川の合流地点の下流側にあたる高崎付近で取水し、「吉津川」と呼ばれた導水路を通じて城下へ水を供給したとされています。

Q「どんどん池」とは何ですか?
A

「どんどん池」は、旧水道の貯水池兼沈殿池であった「蓮池(はすいけ)」の愛称です。水が樋門から流れ出る際に「ドンドン」と音を立てたことが名前の由来といわれています。面積はおよそ9,000平方メートルとされ、現在は周辺が公園として整備され、記念碑も建てられています。

Q福山旧水道の総延長はどのくらいですか?
A

福山市の資料では、管路の総延長は約14キロメートル(約3里半)とされています。城から約2キロメートル北西の水源から、城下の各戸まで水路を張りめぐらせた大規模なものでした。

Qどんな材料で水を配っていたのですか?
A

主要な幹線には石を組んだ暗渠(ふたをした水路)が用いられ、そこから各戸へは土管・木管・竹管といった管(樋)で水が配られたとされています。四つ辻など主要な場所には「貫洞」と呼ばれる方形の水溜めが設けられ、そこから各戸へ水が引かれていたと説明されています。

Qどのくらいの人が水道を使っていたのですか?
A

福山市上下水道局の資料によれば、福山旧水道の初期の給水人口はおよそ2,500人とされています。城下町の発展とともに、上水道が支える人々の数も増えていったと考えられます。

Q「日本三大上水道」とは何ですか?
A

福山上水は、江戸の神田上水、播磨の赤穂上水とともに「日本三大上水道」のひとつに数えられることがあります。福山市の資料でも紹介されている呼び名です。ただし「三大」という括り方は通称的なもので、選び方には諸説あります。

Q福山旧水道は全国でも早い時期の上水道なのですか?
A

福山市の資料では、一般向けの飲用水道としては全国で5番目に位置づけられるほど早い時期に整備されたとされ、また「中四国地方で一番古い上水道」とも記されています。なお「全国〇番目」という順位づけは基準により諸説ある点に注意が必要です。

Q旧水道はいつまで使われたのですか?
A

福山旧水道は明治以降もしばらく使われ続けましたが、老朽化や人口増加、伝染病の発生といった課題から、近代水道への移行が進みました。大正14年(1925年)に熊野ダム・佐波浄水場などによる近代上水道が竣工し、旧水道はその役割を譲っていきました。

Qいま旧水道の遺構を見ることはできますか?
A

はい。蓮池(どんどん池)周辺の公園や記念碑、蓮池から約400メートル東の御手洗川取水口の石組み遺構、妙政寺前の取水扉門、天神山南の小川などが、旧水道の名残として市内に残っています。見学の際は、私有地や住宅地に近い場所もありますので、立ち入りや見学の可否を確認し、マナーと安全に配慮してお訪ねください。

Q福山旧水道は神田上水とどう違うのですか?
A

神田上水は江戸の都市を支えた代表的な上水で、井之頭池などを水源としたとされます。福山旧水道は芦田川を水源とし、瀬戸内のデルタ上に築かれた城下町に飲み水を供給した点に特徴があります。海に近く井戸水に塩分が混じりやすい城下町に、土木技術で水を引いたという課題と解決の構図は、両者に共通する近世上水道の知恵といえます。

Q水はどうやって浄化していたのですか?
A

近代的なろ過や消毒は行われておらず、蓮池などの貯水池で水をいったんため、流れをゆるやかにして、ごみやほこり・泥を底に沈める「沈殿」によって浄化していたとされます。福山市の資料でも、池でごみやほこりを沈殿させて浄化したと説明されています。自然の力を利用した素朴な方法でしたが、病原菌までは取り除けず、後の近代水道が求められる一因にもなりました。

Q工事の責任者は誰だったのですか?
A

福山市の資料によれば、福山旧水道の工事では、家老の中山勝時が惣奉行(工事全体の総責任者)を、神谷治部が水道工事の指揮をとったと伝えられています。藩の重臣が責任者を務めていたことから、この上水道整備が藩をあげての一大事業であったことがうかがえます。なお、人物の具体的な事績には史料により伝わり方が異なる部分もあります。

Q福山城や水野勝成についても知りたいのですが?
A

福山旧水道は、福山城・城下町と一体的に構想されたインフラです。城そのものの歩みは福山城の歴史・見どころガイド、初代藩主の生涯は水野勝成の生涯ガイド、福山の歴史全体は福山の歴史 完全ガイド(通史)で詳しく取り上げています。あわせて読むと、上水道の物語をより立体的に理解できます。

まとめ|水で町を生んだ水野勝成の知恵

福山旧水道は、1619年(元和5年)に福山へ入封した水野勝成が、福山城と城下町の建設とあわせて整備した上水道です。芦田川河口の三角州という、井戸水に塩気や鉄気が混じる土地にあって、勝成は井戸に頼らず、城から約2キロメートル北西の芦田川から良質な水を引くという道を選びました。「吉津川」と呼ばれた導水路で水を導き、蓮池(どんどん池)に貯めて沈殿させ、石造の暗渠や木樋・竹樋・土樋によって城下の各戸へと配る――総延長約14キロメートルにおよぶこの上水道は、初期にはおよそ2,500人の暮らしを支えたとされます。

福山上水は、江戸の神田上水、播磨の赤穂上水とともに「日本三大上水道」のひとつに数えられることもあり、一般向けの飲用水道としては全国でも早い時期に整備された、中四国地方でも古い上水道とされています。江戸時代を通じて藩主の交代をこえて維持され、明治以降もしばらく使われましたが、老朽化や伝染病といった課題から、大正14年(1925年)の近代水道へとその役割を譲っていきました。

蓮池の記念碑や御手洗川の取水口、妙政寺前の取水扉門など、いまも市内に残る遺構は、四百年前に水野勝成が思い描いた「水の通う町」の記憶を静かに伝えています。福山城や城下町、そして水野勝成その人の歩みとあわせて、ぜひ現地を歩きながら、近世日本有数の上水道がもたらした恵みに思いをはせてみてください。

※年代・経緯には諸説ある事項を含みます。詳細は各施設・公式情報や郷土資料でご確認ください。

最終更新: 2026年6月10日

史跡情報は福山NOTE 史跡図鑑(fn_history)より。