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🏯 歴史

足利義昭と鞆幕府|室町最後の将軍が滞在した港町

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足利義昭と鞆幕府|室町最後の将軍が滞在した港町

広島県福山市の南端、瀬戸内海に面した古い港町・鞆の浦(とものうら)。万葉の昔から「潮待ちの港」として栄えたこの町には、戦国時代の終わりに、日本史の表舞台から退いたはずの一人の将軍が長く身を寄せていました。室町幕府15代将軍・足利義昭(あしかが・よしあき、1537〜1597)です。織田信長によって京都を追われた義昭は、西国の雄・毛利氏を頼り、天正4年(1576年)2月、この鞆の地に動座しました。以後およそ十年あまり、鞆を拠点に幕府再興の望みをつなぎ続けた義昭の政権は、後世「鞆幕府(ともばくふ)」と呼ばれています。

一般に室町幕府の滅亡は、義昭が京都を追放された天正元年(1573年)とされます。しかし義昭はその後も将軍位を保ち続け、鞆の浦で全国の大名に御内書(ごないしょ)を発し、寺院の住持を任じるなど、なお「将軍」として振る舞っていました。鞆の浦は、滅びたはずの室町幕府が最後の灯をともし続けた、いわば「もう一つの将軍御所」の地だったのです。本稿では、自治体・百科事典・郷土史料の記録をもとに、足利義昭と鞆幕府の歴史をたどります。あわせて、福山の通史のなかにこの時代を位置づけるべく、福山の歴史 通史ガイドもご参照ください。

史跡図鑑(福山の史跡データベース)

まずは、鞆幕府ゆかりの史跡をはじめ、福山市内に点在する歴史スポットを一覧・比較・詳細の3つの形式でご覧ください。義昭が御所を構えた鞆城跡や常国寺、津之郷の御所跡といった鞆幕府関連の地は、いずれも今も町なかに痕跡をとどめています。鞆の浦の港町風景や福山城下の史跡とあわせて巡ることで、福山の歴史の奥行きをより立体的に感じられるはずです。下記の図鑑は、福山NOTEが整理した史跡データベース(fn_history)から自動で表示されます。

福山城 伏見櫓 📖江戸時代(元和年間)📍 福山駅前(福山市街)福山城 📖近世(江戸)📍 丸之内福山城博物館 📖近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)📍 福山駅前(福山市街)草戸千軒町遺跡 📖中世📍 草戸町明王院 📖中世📍 草戸町鞆の津の町並み(重伝建) 📖江戸時代(中世〜近代の建造物群)📍 鞆町鞆の浦の常夜燈と港湾施設 📖江戸時代📍 鞆町福山市鞆の浦歴史民俗資料館 📖近代(昭和)📍 鞆町鞆の浦 📖中世〜近世📍 鞆町福禅寺 対潮楼 📖近世📍 鞆町太田家住宅 📖江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)📍 鞆町いろは丸展示館 📖近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)📍 鞆町仙酔島古代(地質)/近代(指定)📍 鞆町廉塾(菅茶山旧宅) 📖近世📍 神辺町神辺城跡 📖中世📍 神辺町福山八幡宮 📖近世📍 北吉津町沼名前神社 📖近世📍 鞆町阿伏兎観音(磐台寺観音堂)近世📍 沼隈町吉備津神社(備後一宮)江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる📍 新市町素盞嗚神社(備後一宮) 📖飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮📍 新市町
史跡時代概要📍 エリア詳細
福山城 伏見櫓江戸時代(元和年間)伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最…📍 福山駅前(福山市街)下へ ↓
福山城近世(江戸)備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御…📍 丸之内下へ ↓
福山城博物館近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩…📍 福山駅前(福山市街)下へ ↓
草戸千軒町遺跡中世芦田川の中州にあった中世の港町・集落遺跡。発…📍 草戸町下へ ↓
明王院中世本堂と五重塔がともに国宝。中世密教寺院で、五…📍 草戸町下へ ↓
鞆の津の町並み(重伝建)江戸時代(中世〜近代の建造物群)潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と…📍 鞆町下へ ↓
鞆の浦の常夜燈と港湾施設江戸時代江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯…📍 鞆町下へ ↓
福山市鞆の浦歴史民俗資料館近代(昭和)鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬…📍 鞆町下へ ↓
鞆の浦中世〜近世瀬戸内の「潮待ちの港」。常夜燈・雁木・波止場…📍 鞆町下へ ↓
福禅寺 対潮楼近世朝鮮通信使の使節が「日東第一形勝」と讃えた客…📍 鞆町下へ ↓
太田家住宅江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で…📍 鞆町下へ ↓
いろは丸展示館近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵…📍 鞆町下へ ↓
仙酔島古代(地質)/近代(指定)鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連…📍 鞆町下へ ↓
廉塾(菅茶山旧宅)近世儒学者・菅茶山が開いた私塾。当時の塾舎・住宅…📍 神辺町下へ ↓
神辺城跡中世備後南部の中世山城。福山城が築かれる以前、備…📍 神辺町下へ ↓
福山八幡宮近世福山城の北に鎮座し、東西二つの宮を備える。歴…📍 北吉津町下へ ↓
沼名前神社近世鞆の「祇園さん」。夏の大松明を担ぐ「お手火神…📍 鞆町下へ ↓
阿伏兎観音(磐台寺観音堂)近世断崖の上に建つ朱塗りの観音堂。国の重要文化財…📍 沼隈町下へ ↓
吉備津神社(備後一宮)江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で…📍 新市町下へ ↓
素盞嗚神社(備後一宮)飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏の…📍 新市町下へ ↓
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福山城 伏見櫓

江戸時代(元和年間) / 📍福山駅前(福山市街)

伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最古級の三層入母屋造の現存櫓。 福山城伏見櫓は、元和8年(1622年)の福山城築城に際し、城主水野勝成が将軍徳川秀忠から下賜を受け、京都の伏見城から移築させたと伝えられる櫓である。長らく伝承とされていたが、昭和29年(1954年)の解体修理の際、梁の陰刻に「松ノ丸ノ東やく(ら)」の文字が発見され、伏見城からの移築を裏付ける確かな遺構であることが明らかになった。構造は三層入母屋造で、初層と二層を同じ柱割とし、その上にやや小さい三層を望楼状に載せる。桁行八間・梁間三間、本瓦葺の規模をもつ。慶長期の城郭建築の様式を残す初期の典型として価値が高く、昭和8年(1933年)1月23日に国の重要文化財に指定された。福山城内に現存し、特別公開が行われることもある。

🕰 時代江戸時代(元和年間)
🏛 成立・築造元和8年(1622年)水野勝成の福山城築城時に伏見城から移築。国指定重要文化財(昭和8年=1933年1月23日指定)
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目(福山城内)
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福山城

近世(江戸) / 📍丸之内

備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御門は京都伏見城からの移築と伝わる。2022年に築城400年を迎えた。

🕰 時代近世(江戸)
🏛 成立・築造1622年(元和8)・水野勝成
👤 関連水野勝成・阿部正弘
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目8
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福山城博物館

近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期) / 📍福山駅前(福山市街)

水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩の歴史を体験型展示で伝える博物館 福山城博物館は、JR福山駅のすぐ北に建つ福山城天守内に置かれた市立の歴史資料館です。福山城は1622年(元和8年)、徳川譜代の大名・水野勝成が西国鎮衛の拠点として築いた近世城郭で、天守は1931年に国宝に指定されました。しかし1945年8月の福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリート造で外観が復興され、その内部が博物館として公開されました。2022年には築城400年に合わせて大規模リニューアルされ、北面の鉄板張り(黒い装い)の再現や、一番槍レース・火縄銃などの体験型コンテンツ、デジタル映像を用いた展示が整えられ、福山城と福山藩の歴史を学べる施設となっています。城内に現存する伏見櫓と筋鉄御門は、京都・伏見城からの移築と伝えられ、国の重要文化財に指定されています。常設展は有料、月曜休館とされます。

🕰 時代近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)
🏛 成立・築造福山城は1622年(元和8年)に初代福山藩主・水野勝成が築城。天守は1945年福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリートで外観復興、内部を博物館として開館。2022年に大規模リニューアル
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目8番
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鞆の津の町並み(重伝建)

江戸時代(中世〜近代の建造物群) / 📍鞆の浦

潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と町家が一体で残る重伝建地区 鞆の浦は瀬戸内海の中央に位置し、古来「潮待ちの港」として栄え、万葉集にも詠まれた歴史を持つとされる。江戸時代には北前船など廻船の寄港地として繁栄し、朝鮮通信使の寄港地ともなった。2017年(平成29年)11月28日、「福山市鞆町伝統的建造物群保存地区」として約8.6ヘクタールが国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。範囲は鞆字西町の全域を中心に、石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地の一部に及ぶ。中世から江戸期に整えられた地割の上に、江戸時代から昭和30年代までの町家や寺社、石垣などが一体的に残る近世港町の景観が評価された。常夜燈・雁木・波止・焚場・船番所の5つの港湾施設がほぼ完全に残る点は全国でも稀とされる。広島県内では3例目の選定で、2018年には日本遺産にも認定された。

🕰 時代江戸時代(中世〜近代の建造物群)
🏛 成立・築造2017年(平成29年)11月28日に国の重要伝統的建造物群保存地区へ選定。地割は中世〜江戸期、建造物は江戸時代〜昭和30年代まで。
📍 所在地広島県福山市鞆町(鞆字西町全域ほか、字石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地字古城跡・草谷の各一部)
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鞆の浦の常夜燈と港湾施設

江戸時代 / 📍鞆の浦

江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯一の近世港、鞆港。 鞆の浦の鞆港には、常夜燈・雁木・波止・焚場(たでば)・船番所という江戸時代の港湾施設5点がほぼ揃って現存し、これらが一体で残るのは全国でも鞆港のみとされる。シンボルの常夜燈は安政6年(1859)の刻銘をもつ石造灯台で、海中の基礎石から宝珠の頂までは約12.1mに及び、江戸期の石造常夜燈としては国内最大級とされる。雁木は潮の干満に応じて船を着けられる階段状の船着き場で、半円形の港内に連続して巡らされている。波止は花崗岩を積んだ全長約146mの防波堤で、江戸後期に築かれ明治期に修築された。鞆港を含む沿岸と沖の島々一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定され、鞆町西町を中心とする区域は2017年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。日本遺産「瀬戸の夕凪が包む 国内随一の近世港町」の構成要素でもある。

🕰 時代江戸時代
🏛 成立・築造常夜燈は安政6年(1859)造立とされる。雁木・波止・焚場・船番所は江戸後期築造、波止は明治期に修築。鞆港一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定。
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆
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福山市鞆の浦歴史民俗資料館

近代(昭和) / 📍鞆の浦

鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬戸内の歴史・民俗を伝える市立資料館 福山市鞆の浦歴史民俗資料館は、広島県福山市鞆町後地に建つ市立の博物館で、「潮待ちの館」の愛称で親しまれる。1977年(昭和52年)からの地元有志による調査・収集活動を背景に、福山市制70周年記念事業として1988年(昭和63年)に開館した。立地は、福島正則が築いたとされる鞆城跡(福山市指定史跡)の高台で、瀬戸内海を見渡せる。万葉の時代から潮待ち・風待ちの港として栄えた鞆の浦を中心に、古代から近世にいたる歴史資料を展示。鯛網漁のジオラマや錨を製造した鍛冶場、朝鮮通信使関連資料、保命酒に関する資料に加え、お手火神事・お弓神事といった地域の民俗文化財も常設展示する。鞆の歴史と暮らしを総合的に学べる拠点とされる。

🕰 時代近代(昭和)
🏛 成立・築造1988年(昭和63年)開館。福山市制70周年記念事業として建設。建つ鞆城跡は福島正則が築いたとされる(福山市指定史跡)
📍 所在地広島県福山市鞆町後地536-1
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太田家住宅

江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期) / 📍鞆の浦

鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で、国の重要文化財 鞆の浦を代表する歴史的建造物で、薬用酒「保命酒」の醸造で財を成した商家の旧宅。もとは大坂の漢方医を出自とする中村家の屋敷で、明暦元年(1655年)に鞆へ移り住み、まもなく十六味地黄保命酒の製造・販売を始めて大ヒットし、福山藩の御用名酒屋として販売独占権を得たとされる。明治期に廻船業を営んだ太田家が継承し、現在の名で呼ばれる。主屋を中心に保命酒蔵や各種土蔵など九棟が建ち並び、建築年代は18世紀中期から19世紀前期に及ぶ。瀬戸内の商家建築を伝える貴重な遺構として、1991年に国の重要文化財に指定された。幕末には三条実美ら尊王攘夷派の公卿が立ち寄ったと伝わり、別宅の朝宗亭とともに「鞆七卿落遺跡」として広島県の史跡(1940年指定)にもなっている。

🕰 時代江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)
🏛 成立・築造主屋は18世紀中期、ほか北保命酒蔵が天明8年(1788年)、西蔵が寛政元年(1789年)、東保命酒蔵が寛政7年(1795年)など18世紀中期〜19世紀前期。国の重要文化財指定は1991年(平成3年)5月31日。
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆842
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いろは丸展示館

近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期) / 📍鞆の浦

坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵を活かした資料館 鞆の浦のシンボル常夜灯(とうろどう)のすぐそばに建つ資料館。1867年(慶応3年)、坂本龍馬と海援隊が運航したいろは丸が紀州藩の明光丸と備後灘で衝突・沈没した「いろは丸事件」を伝える施設で、その談判が鞆の浦で行われた縁にちなむ。建物は江戸期に建てられた太い梁が印象的な土蔵で、地元では「大蔵」と呼ばれ、国の登録有形文化財とされる。館内には海底に沈むいろは丸を再現したジオラマ、引き揚げられた陶器や部品、調査風景の写真などを展示し、2階には龍馬が宿泊先で身を潜めたという「隠れ部屋」が再現され、龍馬の蝋人形も置かれている。1989年(平成元年)7月の開館。幕末史と鞆の港町文化を同時に味わえるスポットである。

🕰 時代近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)
🏛 成立・築造1989年(平成元年)7月開館。建物は江戸期築の土蔵「大蔵(浜蔵)」で、国の登録有形文化財とされる。展示題材のいろは丸事件は1867年(慶応3年)
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆843-1
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仙酔島

古代(地質)/近代(指定) / 📍鞆の浦

鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連なる瀬戸内海国立公園の名勝 仙酔島は鞆の浦の沖合に浮かぶ周囲約6キロの島で、住所は福山市鞆町後地。鞆港から市営渡船で約5分の距離にあり、観光客の往来はあるが定住者のいない無人島とされる。1925年(大正14年)に国の名勝「鞆公園」の一部として指定され、1934年(昭和9年)には日本で最初に指定された国立公園・瀬戸内海国立公園に含まれた。島は約9000万年前の大規模な火山活動による溶結凝灰岩を主体とし、南側海岸には青・赤・黄・白・黒の岩が200メートル以上連なる「五色岩」が見られ、地質的に貴重とされる。「仙人が酔うほど美しい島」が名の由来と言われる。江戸後期の学者・頼山陽が当地の景観を「山紫水明」と評したとも伝わる。

🕰 時代古代(地質)/近代(指定)
🏛 成立・築造1925年(大正14年)国名勝「鞆公園」に指定。1934年(昭和9年)日本初の国立公園・瀬戸内海国立公園に編入。島自体は約9000万年前の火山活動で形成されたとされる
📍 所在地広島県福山市鞆町後地
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吉備津神社(備後一宮)

江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる / 📍新市・北部

備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で「いっきゅうさん」と親しまれる古社 福山市新市町宮内に鎮座する備後国一宮で、地元では「一宮さん(いっきゅうさん)」と親しまれる。社伝では大同元年(806年)に吉備国の吉備津神社から勧請し創建されたと伝わるが、延喜式神名帳に記載がないことなどから実際の成立はより後とする説もある。主祭神は吉備国を治めたとされる大吉備津彦命。現在の本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が旧規模にならい造営したもので、桁行七間・梁間四間の入母屋造檜皮葺、国の重要文化財に指定されている。ほかにも木造狛犬や太刀などが重要文化財として伝えられ、複数の建造物が広島県・福山市指定文化財となっている。隣接する櫻山城跡なども史跡として知られ、備後の信仰と歴史を今に伝える。

🕰 時代江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる
🏛 成立・築造本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が造営、国の重要文化財。創建は大同元年(806年)と伝わるが諸説ある
📍 所在地広島県福山市新市町宮内400
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素盞嗚神社(備後一宮)

飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮 / 📍新市・北部

祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏のけんか神輿で名高い古社 福山市新市町戸手に鎮座する素盞嗚神社は、『延喜式神名帳』に載る式内社で備後国一宮を称し、旧社格は県社です。主祭神は素盞嗚尊で、稲田姫命・八王子を配祀します。社伝では天武天皇の治世、7世紀ごろ(679年か)の創建とされます。『釈日本紀』所収の「備後国風土記」逸文に伝わる蘇民将来説話の舞台「疫隈国社」と結びつけられ、茅の輪くぐりや祇園信仰・祇園祭発祥の地の一つとされています。神仏習合期には牛頭天王を祀り、遣唐使・吉備真備が734年に当社から播磨の広峯神社へ勧請したとも伝わります。毎年7月の例祭では、勇壮なけんか神輿(神輿合わせ)が行われることで知られます。

🕰 時代飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮
🏛 成立・築造社伝では天武天皇期の7世紀ごろ(679年か)創建とされる。『延喜式神名帳』記載の式内社で、旧県社
📍 所在地広島県福山市新市町大字戸手1-1

図鑑の各カードからは、それぞれの史跡の個別ページへ進めます。気になる史跡をブックマークしておき、後述する「モデルコース」と組み合わせて、鞆の浦を歩く旅の計画を立ててみてください。

足利義昭が生きた時代──戦国の終わりと室町幕府の黄昏

鞆の浦の町並み(保命酒屋の通り)
鞆の浦の町並み(保命酒屋の通り)(画像:Wikimedia Commons / CC)

足利義昭が生きた16世紀は、応仁の乱以降長く続いた戦国の世が、ようやく一人の天下人のもとへ収斂しようとしていた激動の時代でした。京都を中心に権威を保っていた室町幕府は、たび重なる内紛と有力大名の台頭によって実権を失い、将軍はしばしば京都を追われ、あるいは傀儡として担がれる存在となっていました。義昭の兄である13代将軍・足利義輝が永禄8年(1565年)に家臣の三好三人衆らによって殺害された事件は、将軍の権威がいかに脆くなっていたかを象徴する出来事でした。

その一方で、地方では実力をもった戦国大名が広大な領国を築き、独自の秩序を打ち立てていました。なかでも中国地方では、安芸(現在の広島県西部)を本拠とする毛利氏が、毛利元就の代に大きく勢力を伸ばし、山陰・山陽から北九州にまで影響を及ぼす大勢力へと成長していました。義昭が頼ることになるのは、元就の孫にあたる毛利輝元(もうり・てるもと)でした。

織田信長の台頭

同じころ、尾張(現在の愛知県西部)から身を起こした織田信長が、急速に勢力を拡大していました。信長は永禄11年(1568年)、亡命中だった義昭を奉じて上洛を果たし、これによって義昭は15代将軍に就くことができました。当初、両者の関係は良好で、信長は将軍を立てることで自らの上洛と畿内支配に正当性を与え、義昭は信長の軍事力を後ろ盾に幕府の再興を図ろうとしました。しかしこの蜜月は長くは続きません。実権をめぐる両者の思惑のずれは、やがて全面的な対立へと発展していきます。

「潮待ちの港」鞆の浦という土地

義昭が最終的に身を寄せることになる鞆の浦は、瀬戸内海のほぼ中央、沼隈(ぬまくま)半島の南端に位置する港町です。瀬戸内海を東西に行き来する船は、満ち潮と引き潮の流れが鞆のあたりでちょうど分かれるため、ここで潮の変わるのを待ってから出航しました。そのため鞆は古くから「潮待ちの港」と呼ばれ、人と物が集まる海上交通の要衝として栄えてきたとされます。『万葉集』にも鞆の浦を詠んだ歌が複数収められており、飛鳥・奈良時代にはすでに重要な港として知られていたことがうかがえます。義昭が鞆を選んだ背景には、こうした海運上の要地であったこと、そして毛利氏の勢力圏のなかで京都ともつながりやすい立地であったことがあると考えられます。

足利義昭という人物──僧から将軍へ

鞆幕府を率いた足利義昭は、もともと将軍になるべく育てられた人物ではありませんでした。天文6年(1537年)、12代将軍・足利義晴の子として京都に生まれた義昭は、兄に13代将軍となる義輝がいたため、家督を継ぐ立場にはありませんでした。当時の武家の慣例にならい、義昭は幼くして仏門に入れられます。天文11年(1542年)ごろ、奈良の興福寺一乗院に入室し、僧として「覚慶(かくけい)」と名乗りました。本来であれば、彼はそのまま大寺院の高僧として一生を終えるはずだったのです。

その運命を一変させたのが、永禄8年(1565年)、兄・義輝が京都で三好三人衆らに襲撃され殺害された事件でした。将軍の座が空き、足利将軍家の血を引く男子として、覚慶に思わぬ重責がのしかかります。命の危険を感じた覚慶は、細川藤孝(のちの細川幽斎)らの助けを得て興福寺を脱出。各地を頼って身を寄せながら、還俗して「義秋」、さらに「義昭」と名を改め、将軍復活を目指す道を歩み始めました。僧侶から将軍へという異例の経歴は、彼の生涯に独特の陰影を与えています。

兄・義輝の悲劇と将軍家の苦境

義昭が将軍位に執着し続けた背景には、兄・義輝の非業の死があったといわれます。義輝は剣豪としても知られ、将軍権威の回復に努めた人物でしたが、最後は御所を襲われ、自ら刀を取って奮戦の末に討たれたと伝わります。将軍がその居所で殺害されるという衝撃的な事件は、戦国期における室町将軍家の弱体ぶりを象徴していました。義昭にとって、将軍家を再興し、その権威を取り戻すことは、兄の無念を晴らすことでもあったのかもしれません。鞆の浦での長い亡命生活を通じて義昭が将軍であることをやめなかった執念の根には、こうした足利将軍家の苦難の歴史があったと考えられます。

信長による上洛の実現

還俗した義昭は、自らを将軍に擁立してくれる有力大名を探し求めました。越前の朝倉氏のもとに身を寄せた時期もありましたが、なかなか上洛の機会は訪れません。そこで義昭が頼ったのが、尾張・美濃を制し勢いに乗る織田信長でした。永禄11年(1568年)、信長は義昭を奉じて軍を率い、上洛を果たします。同年、義昭は念願の15代将軍に就任しました。兄の死から3年あまり、流浪の末に手にした将軍の座でした。信長という強力な軍事力を得たことで、義昭の幕府再興の夢は、一度は現実のものとなったのです。

信長との対立と「信長包囲網」

鞆の浦の港と町並み
鞆の浦の港と町並み(画像:Wikimedia Commons / CC)

将軍に就いた当初こそ協調していた義昭と信長ですが、信長が畿内の支配を強め、将軍の権限に制約を加えていくにつれ、両者の溝は深まっていきました。義昭は自らの権威を取り戻すべく、信長と対立する各地の大名や勢力に密かに連携を呼びかけます。甲斐の武田信玄、越前の朝倉氏、近江の浅井氏、石山本願寺(一向一揆)など、信長と敵対する諸勢力を糾合しようとするこの動きは、後世「信長包囲網」と呼ばれています。義昭は将軍という立場を活かし、御内書を各地に発して反信長の輪を広げようとしました。

武田信玄の死と包囲網の瓦解

包囲網の中心的な存在として期待されたのが、当代屈指の戦国大名・武田信玄でした。信玄が西上の軍を起こし、信長・徳川連合軍を三方ヶ原で破ったことは、義昭らに大きな希望を与えました。しかし元亀4年(天正元年・1573年)、信玄が西上の途上で病に倒れ陣中で没したと伝わると、信長包囲網は急速に勢いを失います。後ろ盾を欠いたまま、義昭は信長との対決へと進まざるを得ませんでした。

槙島城の戦いと京都追放

天正元年(1573年)、義昭は京都南郊の槙島城(まきしまじょう、現在の京都府宇治市)に拠って信長に対し挙兵しました。しかし信長の大軍に包囲され、ひと月とたたずに城は落ち、義昭は降伏します。信長は義昭を殺さず、京都からの退去を命じました。これをもって、室町幕府は事実上滅亡したとされるのが一般的な理解です。京都を追われた義昭は、ここから各地を流浪する亡命生活へと入っていきます。

もっとも、義昭はこのとき将軍位を奪われたわけではありませんでした。征夷大将軍としての地位はなお保ったまま、義昭は信長を倒し幕府を再興する望みを捨てていませんでした。京都を離れた後も、彼の頭にあったのは「将軍として返り咲くこと」だったのです。

流浪の末に──鞆の浦への動座

京都を追われた義昭は、河内(現在の大阪府東部)の若江城、紀伊(現在の和歌山県)の由良などを転々としました。紀伊由良の興国寺などに身を寄せていた義昭は、いよいよ西国の大勢力・毛利氏を本格的に頼る決断をします。義昭は御内書をもって毛利氏の重臣・吉川元春らに働きかけ、毛利輝元に幕府の復興を依頼しました。

そして天正4年(1576年)2月、義昭は毛利氏の庇護のもと、その勢力圏であった備後国の鞆へと動座しました。これが「鞆幕府」の始まりとされます。鞆の浦は、毛利領のなかでも京都に近い東端に位置し、海路で各地と結ばれた要衝でした。亡命政権の拠点として、これ以上ない立地だったといえるでしょう。

毛利輝元が反信長へ

義昭を迎え入れたことは、毛利氏にとって信長との対決を意味しました。天正4年(1576年)、毛利輝元は反信長の旗幟を鮮明にし、領国の諸将に義昭の命令に従うよう通達したと伝えられます。義昭は輝元を、将軍に次ぐ地位である副将軍に任じたとされます。ここに、将軍・足利義昭を頂き、毛利氏が実力で支える反織田政権が形を取ることになりました。以後、毛利水軍が石山本願寺へ兵糧を運び込み、木津川口で織田水軍と戦うなど、毛利と信長の本格的な抗争が始まっていきます。

なぜ「鞆」だったのか

義昭が動座先に鞆を選んだことには、地理的・歴史的な意味があったとする見方があります。鞆は瀬戸内海運の結節点であり、毛利の勢力圏でありながら京都とも海路でつながる場所でした。また、鞆はかつて足利氏ゆかりの地とも語られることがあります。室町幕府を開いた足利尊氏が九州へ落ち延びる途上、あるいは再起の途上で鞆に立ち寄ったという伝承が残り、「足利氏は鞆に始まり鞆に終わる」といった言い回しで語られることもあります。ただし、こうした足利氏と鞆をめぐる逸話には伝承的な要素も含まれるため、史実としては慎重に扱う必要があります。本稿でも、確実な記録に裏づけられた範囲を中心に述べることとします。

鞆幕府の実態──将軍はそこで何をしていたのか

福山城
福山城(画像:Wikimedia Commons / CC)

「幕府」と呼ばれてはいるものの、鞆幕府は領国を直接支配する政権ではありませんでした。義昭は毛利氏の庇護下にあり、その軍事力と経済力に支えられて存続していました。とはいえ、義昭は単に保護される亡命者にとどまらず、将軍としての権威を駆使してさまざまな政治活動を行っていたことが、残された文書から確認できます。

全国の大名へ発した御内書

義昭は鞆の浦から、各地の大名に向けて御内書を発し続けました。反織田勢力を取りまとめ、再起を図ろうとしたのです。上杉、武田、島津、伊予の河野、土佐の長宗我部といった諸大名が義昭のもとへ使者を派遣したと伝えられ、鞆幕府がなお「将軍の政権」として全国の大名から一定の認知を受けていたことがうかがえます。山内首藤家文書をはじめとする諸家の古文書には、この時期の義昭の御内書が現存しており、彼の活動を今に伝えています。

寺院住持の任命と栄典の授与

義昭はまた、京都五山をはじめとする禅宗寺院の住持を任命する権限を行使していたとされます。さらに、諸国の武士に対して栄典(官位や称号など名誉的な地位)を授けることもありました。寺院の人事や栄典の授与は、本来将軍の重要な権能のひとつであり、義昭が鞆にあってなお将軍としての職務を続けていたことを示しています。亡命先にありながら、彼は「将軍であること」を実体として保ち続けようとしたのです。

料所(直轄領)の確保

亡命政権を維持するには、当然ながら経済的な裏づけが必要でした。義昭は将軍の権威を背景に、毛利氏に対して料所(りょうしょ=将軍の直轄領)の進上を強く求めたと伝えられます。郷土史料によれば、津之郷(現在の福山市津之郷町)や長和(現在の福山市瀬戸町)などが義昭の料所として獲得され、これらの地の寺社が義昭から社領・寺領の寄進を受けた記録が残るとされます。天正19年(1591年)の『毛利家八ヶ国御配置絵図』には「昌山(義昭の出家後の号)様領 千参百五拾石」と記され、義昭が一定の所領を有していたことを示しています。

鞆に置かれた複数の御所

鞆幕府の時代、義昭は鞆の浦やその周辺に複数の御所(御座所)を構えていたと伝えられます。十年あまりに及ぶ滞在のなかで、義昭の居所は一か所に固定されていたわけではなく、時期によって移っていたようです。これらの御所は、それぞれ毛利方の武将が守備にあたっていたとされ、亡命政権を物理的に支える拠点となっていました。

鞆御所(鞆城)

義昭の中心的な居所とされるのが、鞆の港を見下ろす古城山(ふるしろやま)に営まれた鞆御所です。毛利氏が義昭のために造営したと伝えられ、後にこの地に築かれる鞆城の遺構に、その痕跡が含まれるとされています。鞆城は江戸時代初め、慶長14年(1609年)に一国一城令に先立って廃城となりましたが、その前身として義昭の御所があったと考えられています。鞆御所は、大可島城(たいがしまじょう)主の村上亮康(むらかみ・すけやす)が守備にあたったと伝わります。鞆の浦の町なかには、現在も「鞆城跡」として石垣の一部などが残されており、当時を偲ぶことができます。

常国寺御所(常国寺)

鞆に近い山田(現在の福山市熊野町・沼隈町域)の常国寺(じょうこくじ)もまた、義昭が御座所とした時期があると伝えられます。日蓮宗の古刹であるこの寺は、一乗山城主・渡辺氏(渡辺元、民部少輔)によって守備されていたとされます。常国寺には義昭ゆかりの品が伝わるともいわれ、鞆幕府の歴史を語るうえで欠かせない場所のひとつです。近年では、大河ドラマの放映を機に、この常国寺を訪ねる歴史ツアーが企画されるなど、改めて注目を集めています。

津之郷御所

義昭は後年、御座所を鞆から、山陽道に近い沼隈郡津之郷(現在の福山市津之郷町)へと移させたと伝えられます。これは、海辺の鞆よりも陸路の幹線に近い場所へ拠点を移すことで、各地との連絡や情勢への対応をしやすくする狙いがあったとも考えられます。津之郷の御所の近くには神島城(こうのしまじょう)があり、義昭の近臣である真木島昭光(まきしま・あきみつ)がここに入って御所を守備したとされます。真木島昭光は、かつて義昭が籠もった槙島城にちなむ名を持つ側近で、流浪と亡命の日々を通じて義昭に従い続けた人物です。

毛利氏にとっての足利義昭

義昭を鞆に迎えたことは、毛利氏にとって極めて重い政治的選択でした。それまで毛利氏は、信長との関係を必ずしも全面的な敵対に置いていたわけではありませんでした。しかし、室町幕府の正統な将軍である義昭を庇護下に置くということは、信長に対して明確に敵対の姿勢を示すことを意味しました。毛利輝元がこの決断に踏み切った背景には、将軍を擁することで自軍の行動に大義名分を与えられるという計算と、西国の盟主としての立場を確固たるものにしたいという思惑があったと考えられます。

将軍・義昭を頂くことで、毛利氏は「将軍を奉じて天下の秩序を守る」という名分を得ました。これは、ちょうど信長がかつて義昭を奉じて上洛したのと同じ構図でもあります。義昭という存在は、それを擁する大名にとって、軍事行動を正当化する象徴的な価値を持っていたのです。鞆幕府は、こうした義昭と毛利氏の相互の思惑が交差する地点に成立した政権だったといえるでしょう。

毛利水軍と石山合戦

義昭を擁した毛利氏は、信長と各地で抗争を繰り広げました。なかでも知られるのが、信長に抵抗を続けた石山本願寺への支援です。毛利水軍は、信長方の海上封鎖をかいくぐって石山本願寺へ兵糧を運び込み、木津川口(現在の大阪湾)で織田方の水軍と激しく戦いました。第一次の海戦では毛利水軍が勝利を収めたと伝えられますが、信長が鉄甲船とも称される大型船を投入したとされる第二次の海戦では形勢が逆転したともいわれます。こうした毛利と信長の抗争の渦中に、鞆の義昭の存在があったのです。義昭は、まさに反織田陣営の象徴として、その中心に位置していました。

秀吉の中国攻めと和睦

天正年間に入ると、信長は家臣の羽柴秀吉を中国地方の攻略にあたらせます。秀吉は播磨(現在の兵庫県南西部)から備中(現在の岡山県西部)へと進攻し、毛利氏と各地で激突しました。天正10年(1582年)、秀吉が備中高松城を水攻めにし、毛利方との対峙が頂点に達したまさにそのとき、京都で本能寺の変が起こります。信長の死を知った秀吉は、毛利氏と急ぎ和睦を結び、軍を返して「中国大返し」で京都へ取って返し、明智光秀を討ちました。この毛利と秀吉の和睦は、義昭の運命にも大きな影を落とすことになります。後ろ盾であった毛利氏が秀吉と結んだことで、義昭の幕府再興の道はいよいよ閉ざされていったのです。

本能寺の変と情勢の急転

鞆幕府の運命を大きく左右したのが、天正10年(1582年)の本能寺の変でした。長く義昭の打倒すべき敵であり続けた織田信長が、家臣・明智光秀の謀反によって京都・本能寺で自刃したのです。これは義昭にとって、幕府再興の好機が訪れたかに見える出来事でした。義昭は毛利氏の支援のもと、京都への帰還と将軍復職を期待したと考えられます。

しかし、信長亡き後の天下の主導権を握ったのは、明智光秀をただちに討ち取った羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)でした。秀吉は山崎の戦いで光秀を破り、清洲会議を経て織田家中での地位を固め、急速に天下統一へと突き進んでいきます。義昭が頼みとした毛利氏も、本能寺の変の直前に秀吉と和睦に向かいつつあり、やがて秀吉に従属する道を選んでいきました。義昭にとって、復権の道はかえって遠のいていったのです。

秀吉への帰順

天下の趨勢が秀吉のもとへ定まっていくなか、義昭もまた現実を受け入れざるを得ませんでした。天正15年(1587年)、義昭は秀吉と対面し、これに帰順します。秀吉の九州平定の前後にあたるこの時期、義昭は長年の亡命生活に一区切りをつけました。同年10月ごろ、義昭は毛利氏の兵に護衛されながら、ついに京都へと帰還したと伝えられます。天正4年(1576年)から数えて、実におよそ十一年に及んだ鞆を中心とする亡命の日々でした。

将軍位の返上と義昭のその後

京都に戻った義昭でしたが、もはや将軍として実権を振るう時代ではありませんでした。天下は秀吉のものとなり、室町幕府の再興という義昭の長年の望みは、ついにかなうことはありませんでした。

将軍職を朝廷へ返上

天正16年(1588年)正月、義昭は秀吉とともに参内し、征夷大将軍の職を正式に朝廷へ返上したとされます。これをもって、名実ともに室町幕府は終焉を迎えました。義昭は出家し、「昌山道休(しょうざん・どうきゅう)」と号します。将軍位を退いた後の義昭は、秀吉から一定の所領を与えられ、かつての将軍として相応の待遇を受けたと伝えられます。槙島城の戦いから数えれば、室町幕府が完全に幕を閉じるまでには、なお十五年の歳月を要したことになります。その間、幕府の最後の灯をともし続けたのが、ほかならぬ鞆の浦だったのです。

晩年と死

晩年の義昭は、出家の身として京都で過ごし、秀吉のもとで御伽衆(おとぎしゅう=主君の側に仕えて話相手などを務める者)に列したとも伝えられます。かつて天下に号令しようとした将軍は、戦国の世を生き抜き、慶長2年(1597年)に京都で生涯を閉じました。享年61。室町幕府最後の将軍は、激動の時代を最後まで見届けて世を去ったのです。その人生の長い後半を彩った地が、瀬戸内の港町・鞆の浦であったことは、福山の歴史にとって特筆すべき事実といえるでしょう。

鞆幕府をめぐる歴史評価の変化

かつて、足利義昭は「無力な傀儡」「幕府を滅ぼした暗愚な将軍」といった否定的なイメージで語られることが少なくありませんでした。信長に擁立され、対立し、追放され、最後は秀吉に従ったその経歴から、戦国の大きな流れに翻弄され続けた弱い将軍という見方がされてきたのです。鞆幕府についても、実権を伴わない名ばかりの政権として、長らく軽視される傾向がありました。

しかし近年では、こうした評価を見直す動きが進んでいます。義昭が鞆にあって十年以上も将軍として活動し、全国の大名や寺社から将軍として遇され続けた事実は、彼が単なる無力な存在ではなかったことを示しています。信長を倒すために包囲網を築き、追放後もなお諸大名を動かそうとした義昭の政治的な働きは、戦国末期の権力構造を理解するうえで無視できないものとして、改めて注目されるようになりました。鞆幕府は、室町幕府の「余命」を10年以上も延ばした、義昭の不屈の政治活動の舞台だったのです。

大河ドラマと鞆幕府への関心の高まり

足利義昭と鞆幕府への関心は、近年の大河ドラマなどでこの時代が取り上げられたことで、一般にも広く高まりました。福山市でも、鞆幕府をテーマにした展示や、義昭ゆかりの地をめぐるツアーの企画など、地域の歴史資源として鞆幕府を活かす取り組みが進められています。福山市の資料館では、義昭ゆかりの書状や品々を紹介する展示が行われたこともあり、「もう一つの将軍御所」だった鞆の歴史に光が当てられています。地域にとって、鞆幕府は誇るべき歴史の一ページとして再評価されつつあるのです。

鞆幕府が福山の歴史に残したもの

足利義昭の鞆滞在は、単なる一人の亡命者のエピソードにとどまりません。室町幕府の最後の将軍が、ほかでもないこの鞆の浦を拠点に十年あまりも将軍として活動していたという事実は、鞆の浦という港町が当時いかに重要な位置を占めていたかを物語っています。海上交通の要衝であり、毛利の勢力圏でありながら中央ともつながる――その地政学的な価値があったからこそ、義昭は鞆を選んだのです。

鞆幕府の時代は、その後の鞆・福山の歴史にもつながっていきます。義昭が御所を構えた古城山には、後に毛利氏によって鞆城が築かれ、さらに福山藩政の時代を経て、鞆は港町・商業の町として独自の発展を遂げていきました。鞆の浦が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、日本遺産にも認定されるほどの歴史的価値を今に伝えているのは、義昭の時代から連なる長い歴史の積み重ねの上に成り立っているのです。

福山城下とのつながり

義昭の没後、時代は江戸へと移り、元和年間に水野勝成が福山城を築いて福山藩が成立します。鞆もまた福山藩領となり、藩の重要な港町として位置づけられました。義昭の鞆幕府から福山藩の城下町形成へと至る流れは、福山という地域が中世から近世へと移り変わる歴史の縮図でもあります。福山城下の成り立ちについては福山城ガイドもあわせてご覧いただくと、鞆と福山城下、二つの歴史の核がどのようにつながっていったのかが見えてきます。

将軍を支えた人々──側近と毛利方の武将たち

鞆幕府は、義昭ひとりで成り立っていたわけではありません。京都を追われた義昭には、流浪と亡命の苦しい日々をともにした側近たちがいました。彼らは将軍家の伝統を守り、義昭の政治活動を実務面で支え、亡命政権という困難な体制を機能させる役割を担っていました。こうした人々の存在があったからこそ、鞆幕府は十年あまりにわたって「幕府」としての体裁を保ち続けることができたのです。

真木島昭光ら奉公衆

義昭に従い続けた側近のなかでも代表的な人物が、近臣の真木島昭光です。彼は津之郷の御所に近い神島城に入り、御所の守備を担ったとされます。義昭が槙島城で挙兵した際にもこの城に関わったとされ、流浪の時代を通じて義昭から厚い信任を受けていたとみられます。このほか、京都脱出を助けた細川藤孝をはじめ、幕府の旧臣(奉公衆)のなかには義昭に従って西国まで下った者がいたと伝えられます。彼らは、室町幕府の故実や儀礼を伝える担い手でもあり、亡命先の鞆にあっても将軍家の伝統を守ろうとしたのです。

御所を守った毛利方の武将

義昭の各御所は、毛利方の在地武将によって守備されていたと伝えられます。鞆御所は大可島城主の村上亮康、常国寺御所は一乗山城主の渡辺氏が、それぞれ守りにあたったとされます。これらの武将は、義昭の身辺の安全を確保するとともに、毛利氏による庇護を現地で具体的に担う存在でした。とくに大可島城を拠点とした村上氏は、瀬戸内の海上勢力(いわゆる村上水軍の系譜に連なる一族)とも関わりが深く、海の道を押さえる立場から義昭を守る役割を果たしたと考えられます。亡命政権を支えたこうした地元勢力の存在は、鞆という土地が持つ海上勢力との結びつきをも物語っています。

「室町幕府の終わり」をどう数えるか

足利義昭と鞆幕府の歴史は、私たちに「ひとつの時代の終わりとは何か」という問いを投げかけます。教科書では、室町幕府の滅亡を天正元年(1573年)の義昭追放とすることが多いものです。これは、将軍が京都という政治の中心から物理的に排除され、幕府が中央政権として機能しなくなった時点をもって「滅亡」とする考え方に基づいています。

しかし、義昭はその後も征夷大将軍であり続け、天正16年(1588年)にその職を返上するまで、名目上は将軍の地位を保っていました。この点を重視すれば、室町幕府が制度として完全に終わったのは1588年だということになります。1573年か、1588年か――この十五年の幅は、まさに鞆幕府の存続期間とほぼ重なります。鞆の浦は、「すでに滅びた幕府」と「まだ終わっていない幕府」という二つの見方のあいだに横たわる、歴史の余白を体現する土地なのです。

「滅亡」の多義性

歴史における「滅亡」という言葉は、実は一義的ではありません。実権の喪失、本拠地の放棄、制度の正式な終了――どの基準を採るかによって、時代の区切りは変わってきます。室町幕府の場合、実権の喪失はもっと早い時期にさかのぼるとも、義昭追放の1573年だとも、制度の終了は将軍位返上の1588年だともいえます。鞆幕府の存在は、こうした「終わり方」の多義性を私たちに教えてくれます。歴史の流れは、ある一日を境にきれいに切り替わるものではなく、長い移行のグラデーションのなかで移り変わっていくのだということを、義昭の鞆滞在は静かに物語っています。

鞆の浦に残る、もう一つの歴史

足利義昭の時代から下って江戸時代後期、鞆の浦は再び日本史の重要な舞台となります。幕末の慶応3年(1867年)、坂本龍馬率いる海援隊の蒸気船「いろは丸」が、紀州藩の船と鞆の浦沖で衝突して沈没する「いろは丸事件」が起こり、龍馬らはこの鞆で賠償交渉を行いました。鞆の浦が、室町から幕末まで、たびたび歴史の転換点に立ち会ってきた港町であることがわかります。

義昭が鞆にいた時代から龍馬の時代まで、鞆の浦は瀬戸内海の要衝として人と歴史を運び続けてきました。義昭ゆかりの地をめぐる際には、こうした鞆のもう一つの歴史にも目を向けると、町歩きがいっそう豊かなものになります。いろは丸事件についてはいろは丸展示館に詳しく紹介されています。

関連年表──足利義昭と鞆幕府

年(和暦/西暦) おもな出来事
天文6年(1537年) 足利義昭、12代将軍・足利義晴の子として京都に生まれる
天文11年(1542年)ごろ 幼くして興福寺一乗院に入り、僧となる(法名・覚慶)
永禄8年(1565年) 兄・13代将軍義輝が三好三人衆らに殺害される。義昭は興福寺を脱出
永禄11年(1568年) 織田信長に奉じられて上洛、15代将軍に就任
元亀年間 信長と対立を深め、各地の反信長勢力に呼びかける(信長包囲網)
天正元年(1573年) 槙島城で挙兵するも敗れ、信長に京都を追放される。室町幕府は事実上滅亡とされる
天正4年(1576年)2月 毛利輝元を頼り、備後国の鞆へ動座。「鞆幕府」成立。輝元を副将軍に任じたとされる
鞆滞在期 全国の大名へ御内書を発し、寺院住持の任命・栄典の授与を行う。料所を確保
天正10年(1582年) 本能寺の変で織田信長が没する
天正15年(1587年) 豊臣秀吉に帰順。10月ごろ京都へ帰還
天正16年(1588年)正月 将軍職を朝廷へ返上し出家、昌山道休と号す。室町幕府が名実ともに終焉
慶長2年(1597年) 京都で死去。享年61

※年代や経緯には諸説ある事項を含みます。とくに鞆滞在中の御所の移転時期などについては、史料によって解釈が分かれる部分があります。

鞆幕府ゆかりの地をめぐるモデルコース

足利義昭と鞆幕府の足跡をたどるなら、鞆の浦の町歩きが最適です。義昭ゆかりの史跡だけでなく、潮待ちの港として栄えた江戸期の港湾施設や、幕末の歴史スポットもあわせて巡ることで、鞆の浦という町の歴史の重層性を体感できます。ここでは、半日から一日かけて歩くモデルコースをご紹介します。

午前:鞆城跡と港の風景

まずは義昭の中心的な御所があったとされる鞆城跡(古城山)からスタートしましょう。高台に位置するこの場所からは、鞆の浦の港と瀬戸内の島々を一望できます。義昭がこの景色を眺めながら、京都への帰還を夢見ていた日々に思いを馳せてみてください。続いて、港のシンボルである常夜燈(じょうやとう)や雁木(がんぎ)、波止(はと)など、江戸期の港湾施設が今もまとまって残る港周辺を散策します。これらは「潮待ちの港」鞆の繁栄を物語る貴重な遺構です。鞆の浦の町並みについては鞆の浦の街並みガイドもあわせてご覧ください。

昼:町なかの古い商家と保命酒

昼は、鞆の浦に伝わる薬酒「保命酒(ほうめいしゅ)」を醸す古い商家のたたずまいを楽しみながら、町なかを歩きます。国の重要文化財に指定された太田家住宅は、保命酒の醸造で栄えた商家の屋敷で、江戸期の鞆の繁栄を今に伝える建物です。義昭の時代から下った江戸の鞆の姿を知ることができます。

午後:福禅寺対潮楼と幕末の鞆

午後は、海に面した福禅寺 対潮楼へ。座敷から望む仙酔島(せんすいじま)や弁天島の眺めは「日本一の景勝」とも称えられ、朝鮮通信使の一行も絶賛したと伝えられます。その後、いろは丸事件の資料を展示するいろは丸展示館を訪ねれば、室町から幕末まで、鞆の浦が立ち会ってきた歴史の幅広さを実感できるでしょう。時間に余裕があれば、義昭が御座所としたと伝わる常国寺へ足を延ばすのもおすすめです。

よくある質問(FAQ)

Q「鞆幕府」とは何ですか?
A

室町幕府15代将軍・足利義昭が、織田信長によって京都を追放された後、毛利氏を頼って備後国の鞆(現在の広島県福山市鞆町)に拠点を置いて活動した亡命政権を、後世「鞆幕府」と呼びます。天正4年(1576年)から始まり、義昭が京都へ帰還する天正15年(1587年)ごろまで続いたとされます。

Q足利義昭が鞆に来たのはいつですか?
A

天正4年(1576年)2月とされます。紀伊由良などを転々とした後、義昭は毛利輝元の庇護を求めて鞆へ動座しました。

Q室町幕府が滅んだのは1573年ではないのですか?
A

一般に室町幕府の滅亡は、義昭が京都を追放された天正元年(1573年)とされます。ただし義昭はその後も将軍位を保ち、鞆の浦で将軍としての活動を続けました。征夷大将軍の職を正式に返上したのは天正16年(1588年)であり、この年をもって室町幕府が名実ともに終わったとする見方もあります。

Qなぜ義昭は鞆を選んだのですか?
A

鞆は瀬戸内海運の要衝「潮待ちの港」であり、毛利氏の勢力圏でありながら海路で京都ともつながりやすい立地でした。亡命政権の拠点として地理的に適していたためと考えられます。なお、足利氏ゆかりの地という伝承も語られますが、こちらは史実として慎重に扱う必要があります。

Q義昭を庇護したのは誰ですか?
A

安芸を本拠とする戦国大名・毛利輝元です。義昭は輝元を将軍に次ぐ副将軍に任じたとされ、毛利氏の軍事力・経済力に支えられて鞆幕府は存続しました。

Q義昭は鞆で何をしていたのですか?
A

全国の大名に御内書を発して反織田勢力の結集を図り、京都五山など禅宗寺院の住持を任命し、諸士に栄典を授与するなど、将軍としての職務を続けていました。料所(直轄領)の確保も行っています。亡命先にありながら「将軍であること」を実体として保ち続けたのです。

Q義昭の御所はどこにあったのですか?
A

鞆の港を見下ろす古城山の鞆御所(後の鞆城の地)が中心とされます。ほかに、山田の常国寺を御座所とした時期や、後に沼隈郡津之郷へ御座所を移したことも伝えられ、滞在期を通じて複数の御所があったとされます。

Q鞆幕府はどのくらい続いたのですか?
A

天正4年(1576年)の動座から、義昭が京都へ帰還する天正15年(1587年)ごろまで、およそ十一年に及んだとされます。

Q本能寺の変で義昭は復権できたのですか?
A

できませんでした。天正10年(1582年)の本能寺の変で信長が没した後、天下の主導権は羽柴(豊臣)秀吉が握り、毛利氏も秀吉に従う道を選びました。義昭の幕府再興の望みは、かえって遠のいていきました。

Q義昭はその後どうなったのですか?
A

天正15年(1587年)に秀吉へ帰順して京都へ帰還し、天正16年(1588年)に将軍職を朝廷へ返上して出家、昌山道休と号しました。その後は京都で過ごし、慶長2年(1597年)に61歳で死去しました。

Q鞆幕府ゆかりの史跡は今も見られますか?
A

はい。義昭の御所があったとされる鞆城跡(古城山)には石垣の一部などが残り、高台から港を一望できます。御座所と伝わる常国寺も現存します。いずれも鞆の浦の町歩きのなかで訪ねることができます。

Q鞆の浦には他にどんな歴史がありますか?
A

鞆の浦は『万葉集』にも詠まれた古い港町で、潮待ちの港として栄えました。江戸期の港湾施設(常夜燈・雁木・波止など)がまとまって残り、国の重要伝統的建造物群保存地区・日本遺産に選定されています。幕末には坂本龍馬のいろは丸事件の舞台にもなりました。

まとめ──滅びた幕府が灯をともし続けた港町

足利義昭と鞆幕府の物語は、「室町幕府の滅亡」という歴史用語が示すよりもずっと複雑で、人間味にあふれています。京都を追われ、各地を流浪した末に瀬戸内の港町・鞆の浦にたどり着いた最後の将軍は、それでもなお将軍であることをやめませんでした。全国の大名へ御内書を発し、寺院の人事を握り、料所を確保しながら、義昭は十年あまりにわたって幕府再興の望みをつなぎ続けたのです。

その望みは、ついにかなうことはありませんでした。しかし、滅びたはずの室町幕府が最後の灯をともし続けた地が、ほかでもないこの福山・鞆の浦であったという事実は、地域の歴史に深い陰影を与えています。潮待ちの港として千年以上の歴史を刻んできた鞆の浦は、室町の終わりにも、そして幕末にも、たびたび日本史の重要な場面に立ち会ってきました。義昭ゆかりの地を歩くとき、私たちは港町・鞆が背負ってきた歴史の重みを、足もとから感じ取ることができるはずです。福山の歴史全体のなかでこの時代を捉え直したい方は、ぜひ福山の歴史 通史ガイドもあわせてご覧ください。

出典・参考/ご利用にあたっての注意

本記事は、福山市の公式情報、フリー百科事典、ならびに郷土史に関する資料などをもとに、足利義昭と鞆幕府の歴史を整理したものです。歴史的事実については可能な限り複数の情報源で確認していますが、戦国期の出来事には史料の解釈によって諸説あるものが含まれます。とくに、義昭の鞆滞在中における御所の移転時期、各御所の守備にあたった人物、足利氏と鞆をめぐる伝承などについては、資料によって記述が異なる場合があります。本記事中で「とされる」「伝えられる」「諸説ある」と記した事項は、断定を避けるべき内容であることを示しています。

史跡を訪れる際は、各施設の開館時間・拝観の可否・最新の状況を、必ず公式情報でご確認ください。常国寺など信仰の場である寺院を訪ねる場合は、参拝のマナーを守り、静かに見学してください。

※年代・経緯には諸説ある事項を含みます。詳細は各施設の公式情報や郷土資料でご確認ください。

最終更新: 2026年6月10日

史跡情報は福山NOTE 史跡図鑑(fn_history)より。