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🏯 歴史

福山藩の治水と新田開発|芦田川と城下を守った普請

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福山藩の治水と新田開発|芦田川と城下を守った普請

広島県東部を流れる芦田川。その水量豊かな流れは、いまでこそ穏やかな田園と市街地のあいだを抜けていきますが、江戸時代の人々にとっては、暮らしを潤す恵みであると同時に、たびたび城下を脅かす脅威でもありました。福山という町が、河口近くの低湿な干潟と、暴れ川のほとりに築かれた城下町であったことを考えれば、福山藩二百五十年の歴史とは、見方を変えれば「水との折り合いをつけてきた歴史」だったとも言えます。

元和五年(一六一九年)、初代藩主・水野勝成が入封してから福山の地で本格的に始まったのが、芦田川の治水と、海や低地を田畑に変える干拓・新田開発でした。蛇行する川筋を付け替え、堤防を築き、ため池を掘り、海を埋め立てて田を起こす。こうした地味で大規模な土木普請(ふしん)の積み重ねが、福山城下を水害から守り、藩の財政を支える石高(こくだか)を生み出していったのです。本記事では、確認できる史実をもとに、福山藩の治水と新田開発の歩み、そこに込められた工夫、そしていま私たちの足元に残るその痕跡をたどっていきます。

あわせて福山の通史を押さえたい方は、福山の歴史まるごとガイドもご覧ください。城そのものの歴史は福山城ガイドに詳しくまとめています。

福山の治水・干拓ゆかりの史跡図鑑

まずは、福山藩の治水と新田開発にゆかりのある史跡・スポットを一覧で見渡してみましょう。ため池や堤防の跡、干拓地に残る地名、関連する寺社など、現地を歩くときの手がかりになります。比較表や詳細情報もあわせてご活用ください。なお、年代や経緯には諸説ある事項も含まれますので、訪問の際は各施設の公式情報をご確認ください。

福山城 伏見櫓 📖江戸時代(元和年間)📍 福山駅前(福山市街)福山城 📖近世(江戸)📍 丸之内福山城博物館 📖近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)📍 福山駅前(福山市街)草戸千軒町遺跡 📖中世📍 草戸町明王院 📖中世📍 草戸町鞆の津の町並み(重伝建) 📖江戸時代(中世〜近代の建造物群)📍 鞆町鞆の浦の常夜燈と港湾施設 📖江戸時代📍 鞆町福山市鞆の浦歴史民俗資料館 📖近代(昭和)📍 鞆町鞆の浦 📖中世〜近世📍 鞆町福禅寺 対潮楼 📖近世📍 鞆町太田家住宅 📖江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)📍 鞆町いろは丸展示館 📖近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)📍 鞆町仙酔島古代(地質)/近代(指定)📍 鞆町廉塾(菅茶山旧宅) 📖近世📍 神辺町神辺城跡 📖中世📍 神辺町福山八幡宮 📖近世📍 北吉津町沼名前神社 📖近世📍 鞆町阿伏兎観音(磐台寺観音堂)近世📍 沼隈町吉備津神社(備後一宮)江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる📍 新市町素盞嗚神社(備後一宮) 📖飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮📍 新市町
史跡時代概要📍 エリア詳細
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鞆の浦中世〜近世瀬戸内の「潮待ちの港」。常夜燈・雁木・波止場…📍 鞆町下へ ↓
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福山城 伏見櫓

江戸時代(元和年間) / 📍福山駅前(福山市街)

伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最古級の三層入母屋造の現存櫓。 福山城伏見櫓は、元和8年(1622年)の福山城築城に際し、城主水野勝成が将軍徳川秀忠から下賜を受け、京都の伏見城から移築させたと伝えられる櫓である。長らく伝承とされていたが、昭和29年(1954年)の解体修理の際、梁の陰刻に「松ノ丸ノ東やく(ら)」の文字が発見され、伏見城からの移築を裏付ける確かな遺構であることが明らかになった。構造は三層入母屋造で、初層と二層を同じ柱割とし、その上にやや小さい三層を望楼状に載せる。桁行八間・梁間三間、本瓦葺の規模をもつ。慶長期の城郭建築の様式を残す初期の典型として価値が高く、昭和8年(1933年)1月23日に国の重要文化財に指定された。福山城内に現存し、特別公開が行われることもある。

🕰 時代江戸時代(元和年間)
🏛 成立・築造元和8年(1622年)水野勝成の福山城築城時に伏見城から移築。国指定重要文化財(昭和8年=1933年1月23日指定)
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目(福山城内)
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福山城

近世(江戸) / 📍丸之内

備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御門は京都伏見城からの移築と伝わる。2022年に築城400年を迎えた。

🕰 時代近世(江戸)
🏛 成立・築造1622年(元和8)・水野勝成
👤 関連水野勝成・阿部正弘
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目8
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福山城博物館

近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期) / 📍福山駅前(福山市街)

水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩の歴史を体験型展示で伝える博物館 福山城博物館は、JR福山駅のすぐ北に建つ福山城天守内に置かれた市立の歴史資料館です。福山城は1622年(元和8年)、徳川譜代の大名・水野勝成が西国鎮衛の拠点として築いた近世城郭で、天守は1931年に国宝に指定されました。しかし1945年8月の福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリート造で外観が復興され、その内部が博物館として公開されました。2022年には築城400年に合わせて大規模リニューアルされ、北面の鉄板張り(黒い装い)の再現や、一番槍レース・火縄銃などの体験型コンテンツ、デジタル映像を用いた展示が整えられ、福山城と福山藩の歴史を学べる施設となっています。城内に現存する伏見櫓と筋鉄御門は、京都・伏見城からの移築と伝えられ、国の重要文化財に指定されています。常設展は有料、月曜休館とされます。

🕰 時代近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)
🏛 成立・築造福山城は1622年(元和8年)に初代福山藩主・水野勝成が築城。天守は1945年福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリートで外観復興、内部を博物館として開館。2022年に大規模リニューアル
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目8番
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鞆の津の町並み(重伝建)

江戸時代(中世〜近代の建造物群) / 📍鞆の浦

潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と町家が一体で残る重伝建地区 鞆の浦は瀬戸内海の中央に位置し、古来「潮待ちの港」として栄え、万葉集にも詠まれた歴史を持つとされる。江戸時代には北前船など廻船の寄港地として繁栄し、朝鮮通信使の寄港地ともなった。2017年(平成29年)11月28日、「福山市鞆町伝統的建造物群保存地区」として約8.6ヘクタールが国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。範囲は鞆字西町の全域を中心に、石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地の一部に及ぶ。中世から江戸期に整えられた地割の上に、江戸時代から昭和30年代までの町家や寺社、石垣などが一体的に残る近世港町の景観が評価された。常夜燈・雁木・波止・焚場・船番所の5つの港湾施設がほぼ完全に残る点は全国でも稀とされる。広島県内では3例目の選定で、2018年には日本遺産にも認定された。

🕰 時代江戸時代(中世〜近代の建造物群)
🏛 成立・築造2017年(平成29年)11月28日に国の重要伝統的建造物群保存地区へ選定。地割は中世〜江戸期、建造物は江戸時代〜昭和30年代まで。
📍 所在地広島県福山市鞆町(鞆字西町全域ほか、字石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地字古城跡・草谷の各一部)
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鞆の浦の常夜燈と港湾施設

江戸時代 / 📍鞆の浦

江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯一の近世港、鞆港。 鞆の浦の鞆港には、常夜燈・雁木・波止・焚場(たでば)・船番所という江戸時代の港湾施設5点がほぼ揃って現存し、これらが一体で残るのは全国でも鞆港のみとされる。シンボルの常夜燈は安政6年(1859)の刻銘をもつ石造灯台で、海中の基礎石から宝珠の頂までは約12.1mに及び、江戸期の石造常夜燈としては国内最大級とされる。雁木は潮の干満に応じて船を着けられる階段状の船着き場で、半円形の港内に連続して巡らされている。波止は花崗岩を積んだ全長約146mの防波堤で、江戸後期に築かれ明治期に修築された。鞆港を含む沿岸と沖の島々一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定され、鞆町西町を中心とする区域は2017年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。日本遺産「瀬戸の夕凪が包む 国内随一の近世港町」の構成要素でもある。

🕰 時代江戸時代
🏛 成立・築造常夜燈は安政6年(1859)造立とされる。雁木・波止・焚場・船番所は江戸後期築造、波止は明治期に修築。鞆港一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定。
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆
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福山市鞆の浦歴史民俗資料館

近代(昭和) / 📍鞆の浦

鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬戸内の歴史・民俗を伝える市立資料館 福山市鞆の浦歴史民俗資料館は、広島県福山市鞆町後地に建つ市立の博物館で、「潮待ちの館」の愛称で親しまれる。1977年(昭和52年)からの地元有志による調査・収集活動を背景に、福山市制70周年記念事業として1988年(昭和63年)に開館した。立地は、福島正則が築いたとされる鞆城跡(福山市指定史跡)の高台で、瀬戸内海を見渡せる。万葉の時代から潮待ち・風待ちの港として栄えた鞆の浦を中心に、古代から近世にいたる歴史資料を展示。鯛網漁のジオラマや錨を製造した鍛冶場、朝鮮通信使関連資料、保命酒に関する資料に加え、お手火神事・お弓神事といった地域の民俗文化財も常設展示する。鞆の歴史と暮らしを総合的に学べる拠点とされる。

🕰 時代近代(昭和)
🏛 成立・築造1988年(昭和63年)開館。福山市制70周年記念事業として建設。建つ鞆城跡は福島正則が築いたとされる(福山市指定史跡)
📍 所在地広島県福山市鞆町後地536-1
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太田家住宅

江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期) / 📍鞆の浦

鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で、国の重要文化財 鞆の浦を代表する歴史的建造物で、薬用酒「保命酒」の醸造で財を成した商家の旧宅。もとは大坂の漢方医を出自とする中村家の屋敷で、明暦元年(1655年)に鞆へ移り住み、まもなく十六味地黄保命酒の製造・販売を始めて大ヒットし、福山藩の御用名酒屋として販売独占権を得たとされる。明治期に廻船業を営んだ太田家が継承し、現在の名で呼ばれる。主屋を中心に保命酒蔵や各種土蔵など九棟が建ち並び、建築年代は18世紀中期から19世紀前期に及ぶ。瀬戸内の商家建築を伝える貴重な遺構として、1991年に国の重要文化財に指定された。幕末には三条実美ら尊王攘夷派の公卿が立ち寄ったと伝わり、別宅の朝宗亭とともに「鞆七卿落遺跡」として広島県の史跡(1940年指定)にもなっている。

🕰 時代江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)
🏛 成立・築造主屋は18世紀中期、ほか北保命酒蔵が天明8年(1788年)、西蔵が寛政元年(1789年)、東保命酒蔵が寛政7年(1795年)など18世紀中期〜19世紀前期。国の重要文化財指定は1991年(平成3年)5月31日。
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆842
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いろは丸展示館

近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期) / 📍鞆の浦

坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵を活かした資料館 鞆の浦のシンボル常夜灯(とうろどう)のすぐそばに建つ資料館。1867年(慶応3年)、坂本龍馬と海援隊が運航したいろは丸が紀州藩の明光丸と備後灘で衝突・沈没した「いろは丸事件」を伝える施設で、その談判が鞆の浦で行われた縁にちなむ。建物は江戸期に建てられた太い梁が印象的な土蔵で、地元では「大蔵」と呼ばれ、国の登録有形文化財とされる。館内には海底に沈むいろは丸を再現したジオラマ、引き揚げられた陶器や部品、調査風景の写真などを展示し、2階には龍馬が宿泊先で身を潜めたという「隠れ部屋」が再現され、龍馬の蝋人形も置かれている。1989年(平成元年)7月の開館。幕末史と鞆の港町文化を同時に味わえるスポットである。

🕰 時代近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)
🏛 成立・築造1989年(平成元年)7月開館。建物は江戸期築の土蔵「大蔵(浜蔵)」で、国の登録有形文化財とされる。展示題材のいろは丸事件は1867年(慶応3年)
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆843-1
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仙酔島

古代(地質)/近代(指定) / 📍鞆の浦

鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連なる瀬戸内海国立公園の名勝 仙酔島は鞆の浦の沖合に浮かぶ周囲約6キロの島で、住所は福山市鞆町後地。鞆港から市営渡船で約5分の距離にあり、観光客の往来はあるが定住者のいない無人島とされる。1925年(大正14年)に国の名勝「鞆公園」の一部として指定され、1934年(昭和9年)には日本で最初に指定された国立公園・瀬戸内海国立公園に含まれた。島は約9000万年前の大規模な火山活動による溶結凝灰岩を主体とし、南側海岸には青・赤・黄・白・黒の岩が200メートル以上連なる「五色岩」が見られ、地質的に貴重とされる。「仙人が酔うほど美しい島」が名の由来と言われる。江戸後期の学者・頼山陽が当地の景観を「山紫水明」と評したとも伝わる。

🕰 時代古代(地質)/近代(指定)
🏛 成立・築造1925年(大正14年)国名勝「鞆公園」に指定。1934年(昭和9年)日本初の国立公園・瀬戸内海国立公園に編入。島自体は約9000万年前の火山活動で形成されたとされる
📍 所在地広島県福山市鞆町後地
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吉備津神社(備後一宮)

江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる / 📍新市・北部

備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で「いっきゅうさん」と親しまれる古社 福山市新市町宮内に鎮座する備後国一宮で、地元では「一宮さん(いっきゅうさん)」と親しまれる。社伝では大同元年(806年)に吉備国の吉備津神社から勧請し創建されたと伝わるが、延喜式神名帳に記載がないことなどから実際の成立はより後とする説もある。主祭神は吉備国を治めたとされる大吉備津彦命。現在の本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が旧規模にならい造営したもので、桁行七間・梁間四間の入母屋造檜皮葺、国の重要文化財に指定されている。ほかにも木造狛犬や太刀などが重要文化財として伝えられ、複数の建造物が広島県・福山市指定文化財となっている。隣接する櫻山城跡なども史跡として知られ、備後の信仰と歴史を今に伝える。

🕰 時代江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる
🏛 成立・築造本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が造営、国の重要文化財。創建は大同元年(806年)と伝わるが諸説ある
📍 所在地広島県福山市新市町宮内400
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素盞嗚神社(備後一宮)

飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮 / 📍新市・北部

祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏のけんか神輿で名高い古社 福山市新市町戸手に鎮座する素盞嗚神社は、『延喜式神名帳』に載る式内社で備後国一宮を称し、旧社格は県社です。主祭神は素盞嗚尊で、稲田姫命・八王子を配祀します。社伝では天武天皇の治世、7世紀ごろ(679年か)の創建とされます。『釈日本紀』所収の「備後国風土記」逸文に伝わる蘇民将来説話の舞台「疫隈国社」と結びつけられ、茅の輪くぐりや祇園信仰・祇園祭発祥の地の一つとされています。神仏習合期には牛頭天王を祀り、遣唐使・吉備真備が734年に当社から播磨の広峯神社へ勧請したとも伝わります。毎年7月の例祭では、勇壮なけんか神輿(神輿合わせ)が行われることで知られます。

🕰 時代飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮
🏛 成立・築造社伝では天武天皇期の7世紀ごろ(679年か)創建とされる。『延喜式神名帳』記載の式内社で、旧県社
📍 所在地広島県福山市新市町大字戸手1-1

これらの史跡を念頭に置きながら、いよいよ福山藩の水との格闘の歴史を時代を追ってひもといていきます。

芦田川とはどんな川か――暴れ川と干潟の地形

芦田川の河口部
芦田川の河口部(画像:Wikimedia Commons / CC)

福山藩の治水を理解するには、まず芦田川という川そのものの性格を知っておく必要があります。芦田川は広島県東部を流れる芦田川水系の本流で、一級河川に指定されています。流路延長はおよそ八十六キロメートル、流域面積はおよそ八百六十平方キロメートルとされ、水源は世羅台地の三原市大和町(標高五百七十メートルほど)付近にあり、備後灘(瀬戸内海)へと注いでいます。

上流から運ばれてきた土砂は、河口付近で広大な干潟と中洲をつくり出していました。江戸時代の初め、現在の河口付近では川が鷹取川(たかとりがわ)と芦田川とに分かれて流れており、その間にできた中洲には、かつて港町・市場町として栄えた草戸千軒町(くさどせんげんちょう)があったと伝えられます。草戸千軒については草戸千軒・明王院ゆかりの地のガイドでも触れています。

恵みと災いが背中合わせの土地

こうした地形は、稲作にとって本来は恵まれた条件を備えていました。水と肥沃な土が豊富にあるからです。しかしその一方で、大雨のたびに川が氾濫し、低湿地は沼沢地(しょうたくち=湿地)と化しやすく、人が安定して暮らし耕すには大きな困難がともないました。芦田川や周辺河川が流れる平野部では、豪雨のたびに大きな災害が起こり、土地が湿地状態になっていたと記録されています。

つまり福山の地は、「水が豊かであること」が恵みであると同時に災いでもある、という二面性を抱えた土地でした。この水を御(ぎょ)し、田畑に変えていく――そこに、福山藩の治水と新田開発という大事業の出発点があったのです。

城下町を河口近くに置くという選択

水野勝成が築いた福山城下は、このように水害の危険をはらむ芦田川下流の低地に位置していました。なぜわざわざそのような場所を選んだのか。瀬戸内海の海運の便、山陽道の要衝としての立地、そして干拓によって新田を生み出せる広大な低地の存在――こうした条件が、リスクを上回る魅力だったと考えられます。ただし、これは「水を治めることができれば」という前提つきの選択でした。だからこそ、治水は福山藩にとって町づくりと一体の、避けて通れない事業だったのです。

水野勝成の入封と福山藩の成立

福山藩の治水と新田開発を主導したのは、なんといっても初代藩主・水野勝成です。勝成は徳川家康のいとこにあたる譜代の重臣で、戦場では「鬼日向(おにひゅうが)」の異名で恐れられた猛将として知られます。その一方で、領国経営においては城下町の建設、産業の育成、そして治水・干拓といった土木事業に手腕を発揮した、いわば「文武両道」の名君でした。

勝成が福山に入封したのは元和五年(一六一九年)、五十六歳のときと伝えられます。同年、勝成は蝙蝠山(こうもりやま)と呼ばれた丘に城(福山城)の築城を開始し、わずか二年後の元和七年(一六二一年)に城を完成させたとされます。築城とほぼ並行して、城下町の整備、上水道(福山上水)の敷設、そして芦田川の治水と新田開発が一気に進められていきました。

築城と治水が一体だった理由

福山城の築城と芦田川の治水が同時期に始められたのは偶然ではありません。城と城下町を水害から守ることは、町を機能させる前提条件だったからです。城を建てても、毎年のように川が氾濫して城下が水に浸かるようでは、町は立ち行きません。勝成にとって、川筋の付け替えや堤防の構築は、城づくりの一部だったと言ってよいでしょう。福山城そのものの歴史は福山城ガイドでくわしく紹介しています。

人材を集めて進めた大普請

大規模な土木工事を成し遂げるには、優れた技術者や指揮監督役が欠かせません。記録によれば、水野勝成は「土木工事に有為な人材を得て、干拓や開墾をし、池を掘り、治水工事を施して田畑の増大を図られた」と伝えられています。つまり勝成自身が陣頭に立つだけでなく、専門の人材を登用し、組織的に普請を進めていたことがうかがえます。後述する服部大池の築造で総奉行を務めたとされる神谷治部(かみやじぶ)も、そうした人材の一人でした。

「水を御する大名」としての勝成

水野勝成は、しばしば「水をあやつる大名」「水を御する大名」として語られます。これは、彼が単に城を築いた武将ではなく、川を付け替え、海を干拓し、上水を引き、ため池を掘るという、水にまつわるあらゆる土木に取り組んだことを言い表したものです。当時、城下に飲み水を安定して供給する上水道の整備は容易なことではありませんでしたが、勝成は福山上水を敷設し、城下の人々の暮らしを支えたとされます。芦田川の治水・干拓と上水道の整備は、いずれも「水をどう扱うか」という一つの大きな構想のなかにあったと見ることができます。

勝成の没年は慶安四年(一六五一年)、八十八歳と伝えられます。戦国の世を生き抜いた猛将が、晩年は隠居後もなお服部大池の築造に心を砕いていたことは、彼の関心が最後まで「領民の暮らしを支える土木」にあったことを示していると言えるでしょう。武勇で名を馳せた人物が、後世にまで残る恵みとして遺したものが、城そのものと同じくらい、水を御する数々の普請だったというのは、福山の歴史を語るうえで見落としてはならない点です。

芦田川の付け替え――城下を守る流路の改修

福山城
福山城(画像:Wikimedia Commons / CC)

福山藩の治水事業のなかでも、最も大胆かつ象徴的だったのが、芦田川の流路(川筋)そのものを付け替える工事でした。これは単に堤防を高くするといった対症療法ではなく、川の流れる場所を人為的に変えてしまうという、地形を作り変える規模の土木普請です。

伝えられるところによれば、水野勝成は入封後、府中の南側で山寄りに大きく蛇行していた川筋を、一直線にして東へ付け替え、中津原(なかつはら)のあたりで直角に南下させる川へと改修したとされます。つまり、自然のままに曲がりくねっていた川を、より制御しやすい形に整え直したのです。これによって、城下町からできるだけ川を遠ざけ、氾濫の危険を減らそうとしたと考えられています。

中津原の「直角の曲がり角」に込めた意図

注目すべきは、中津原で川を直角に曲げたという点です。川を直角に曲げれば、その曲がり角には水の勢いが集中し、本来は氾濫しやすい弱点になります。ところが福山藩は、これを逆手に取りました。曲がり角に「砂堰(すなぜき)」あるいは「砂土手(すなどて)」と呼ばれる特殊な堤防を設け、増水時には意図的にここから水を溢れさせて、下流の城下町を守る構造を設計したと伝えられています。

つまり、川の一部をあえて「決壊させてよい場所」として設定し、洪水のエネルギーをそこで逃がすことで、最も守りたい城下への被害を防ぐという発想です。これは現代の治水でいう「遊水地(ゆうすいち)」や「越流堤(えつりゅうてい)」の考え方に通じるもので、当時としては非常に高度な水管理の知恵だったと言えるでしょう。

分流が生んだ水運の道

流路の改修は、防災だけでなく物流の面でも町に恩恵をもたらしました。記録によれば、城山と松山の間に分流を導いて吉津川(よしづがわ)を形成し、舟運(しゅううん=船による輸送)によって物資を運べるようにしたとされます。治水のために作られた水路が、そのまま城下の経済を支える流通の動脈にもなったわけです。水を「防ぐ」だけでなく「使う」という発想が、福山藩の土木にはつねにありました。

砂堰をめぐる上流と下流の攻防

中津原の砂堰は、城下町を守るための巧みな仕組みでしたが、その一方で、新たな対立の火種にもなりました。なぜなら、城下を守るためにここから水を溢れさせるということは、上流側の村々が水をかぶる側になることを意味したからです。

砂堰は「一定の水位を超すと土手が切れるようにした」構造で、決壊したときの濁流は中津原・森脇(もりわき)・下岩成(しもいわなり)といった村々の方面へ流れ込むものだったと伝えられます。下流の城下を守るための仕掛けが、上流の農村にとっては田畑を失う危険そのものでした。ここに、利害の真っ向からの対立が生まれます。

「ほぼ毎年」繰り返された争い

伝えられるところによれば、上流側(現在の御幸町〔みゆきちょう〕周辺)の住民は、砂を盛り上げて自分たちの側の堤防を守ろうとし、下流側の人々はそれを妨害しようとしました。この攻防は、ほぼ毎年のように繰り返された農民同士の激しい争いだったとされ、江戸期には警察(取り締まりの役人)が鎮圧に当たることもあったと伝わります。水をめぐる利害は、それほどまでに死活問題だったのです。

「三尺」の妥協と石柱

果てしない争いを避けるため、やがて妥協案が採られたと伝えられます。それは、盛り土の高さを「三尺(約九十センチメートル)」に制限するというものでした。これ以上は積み上げてはならない、という上限を定めることで、上流と下流の利害に折り合いをつけようとしたのです。そして、その高さを測定するための石柱が砂堰に埋められたとされます(この石柱は明治三十八年に設置されたものと伝わります)。

砂堰そのものは、昭和八年(一九三三年)の芦田川の大改修によって撤去され、関連する記念碑は森脇八幡神社へ移されたと伝えられます。かつて砂堰があった場所は、幸千(こうせん)中学校から北へおよそ三百メートルの河川敷(現在はゴルフ場の敷地内)にあたるとされます。城下を守るための一本の堤防が、数百年にわたる人々の苦闘と知恵の舞台であったことを、いまに伝える数少ない手がかりです。

服部大池の築造――旱魃に備える水がめ

鞆の浦の港と町並み
鞆の浦の港と町並み(画像:Wikimedia Commons / CC)

芦田川の付け替えが「あふれる水を御する」治水だったとすれば、ため池の築造は「足りない水を蓄える」治水でした。雨の少ない年には、せっかく開いた田も水不足(旱魃〔かんばつ〕)に苦しみます。これに備えて造られた福山藩最大のため池が、服部大池(はっとりおおいけ)です。

服部大池は、現在の福山市駅家町(えきやちょう)にあり、芦田川水系の支流・服部川をせき止めて造られたため池です。伝えられるところによれば、初代藩主・水野勝成が隠居後に、神辺(かんなべ)平野の旱魃対策の一つとして築造を命じ、総奉行(そうぶぎょう=工事の最高責任者)には神谷治部があたったとされます。

二年がかりの難工事

築造が始まったのは寛永二十年(一六四三年)で、完成は正保二年(一六四五年)と伝えられます。およそ二年がかりの大工事で、多くの村々の人々が動員されてこの難事業をやり遂げたとされます。完成した服部大池は、下流のおよそ二十か村を潤し、周辺の水利を大きく安定させたと伝えられています。福山藩のなかでも最大級のため池で、春日池(かすがいけ)・瀬戸池(せといけ)とともに藩の三大池の一つに数えられたとも言われます。

人柱伝説と現在

服部大池には、難工事の完成にまつわる「人柱(ひとばしら)伝説」も伝わっています。堤がなかなか固まらず、犠牲となった女性が人柱になったという類の伝説で、こうした言い伝え自体は各地のため池や橋に広く見られるものです。あくまで伝承であり、史実として確認されたものではありませんが、それだけ難工事であったことを物語る民間の記憶とも言えるでしょう。

服部大池は築造から三百八十年近くを経たいまも、現役の灌漑(かんがい)用ため池として使われています。平成二十二年(二〇一〇年)には、農林水産省の「ため池百選」に選定され、広島県内で唯一の選定池となったと伝えられます。江戸時代の藩政が残した水利施設が、現代の農業をなお支えているという事実は、福山藩の治水・土木の確かさを示すものと言えるでしょう。

海を田に変える――干拓と新田開発

治水とならぶ福山藩のもう一つの大事業が、海岸の干潟や低湿地を埋め立てて田にする干拓・新田開発でした。芦田川が運ぶ土砂が河口に広大な遠浅の海岸をつくっていたことが、皮肉にも干拓には好条件となりました。堤防で海を仕切り、内側の水を抜いて塩分を洗い流せば、そこは新しい田に生まれ変わります。

水野勝成は、治水・干拓・鉱山開発などを積極的に進め、現在の福山市の基盤を築いたとされます。とりわけ新田開発の成果は大きく、芦田川流域の新田開発による石高はおよそ一万千七百五十四石、芦田川・加茂川(かもがわ)・高屋川(たかやがわ)の合流地域の新田開発による石高はおよそ六千三百二十六石に上ったと記録されています。これは藩の財政基盤を厚くする、きわめて大きな増産でした。

次々と開かれた新田・新開

具体的な干拓地・新田の名としては、吉田新開(よしだしんがい)、市村沖新田(いちむらおきしんでん)、佃沖新田(つくだおきしんでん)、深津沖新田(ふかつおきしんでん)、福山沖新田(ふくやまおきしんでん)などが伝えられています。記録によれば、市村新田の造成は寛永二十年(一六四三年)ごろに始まり、深津沖新田は正保三年(一六四六年)に造成、正保四年(一六四七年)には深津高地の西方海域がほぼ開拓を終えたとされます。海を仕切る堤を一筋また一筋と築きながら、福山の海岸線は少しずつ陸へと押し広げられていったのです。

「沖」「新開」「新田」という地名の記憶

現在の福山市内には、「沖(おき)」「新涯(しんがい)」「新田(しんでん)」「干拓(かんたく)」といった文字を含む地名が数多く残っています。これらの多くは、かつてそこが海であり、干拓によって田に変えられた土地であることの名残です。何気なく通り過ぎる町名のなかに、江戸時代以来の土木の歴史が刻まれているわけです。地名を手がかりに歩けば、足元の平地が「人がつくった大地」であることに気づかされるでしょう。

水野期八十年の蓄積と「新田五万石」

水野勝成にはじまる福山藩の治水・新田開発は、勝成一代で完結したものではなく、その後の水野家の歴代藩主にも受け継がれていきました。記録によれば、水野家が治めたおよそ八十年の間に、現在の福山市街や新市街にあたる地域の多くが、農地として開発されていったとされます。一代の事業ではなく、世代を超えた継続的な営みだったことが、福山の平野を形づくったのです。

その成果の大きさを物語る記録として、水野家の代替わりの際、新たに開発された土地(新田)がおよそ五万石にも上ったとされる伝えがあります。福山藩の表高(おもてだか=公式の石高)が十万石であったことを考えれば、新田開発だけで藩の規模に匹敵するほどの石高を生み出したことになり、その規模の大きさがうかがえます。なお、こうした石高の数字は史料によって幅があり、諸説ある点には留意が必要です。

藩財政を支えた「見えない普請」

城や寺社のように目に見える建造物と違い、堤防や水路、干拓地、ため池といった土木の成果は、完成してしまえばあたりまえの風景に溶け込み、その苦労が忘れられがちです。しかし、福山藩の財政と人々の暮らしを底辺で支えていたのは、まさにこうした「見えない普請」の積み重ねでした。米の収穫高が藩の力を左右する時代にあって、治水と新田開発こそが、福山藩の繁栄の土台だったと言ってよいでしょう。

江戸時代の土木技術――手作業でどう川を変えたか

現代の私たちは、川の付け替えやため池の築造と聞くと、つい重機やコンクリートを思い浮かべてしまいます。しかし、福山藩がこれらの大事業を成し遂げたのは、もちろんそうした機械のない時代です。基本となる道具は鍬(くわ)や鋤(すき)、もっこ(土を運ぶ道具)や畚(ふご)、そして人と牛馬の力でした。膨大な量の土を掘り、運び、積み上げる作業は、ほとんどが人の手によるものだったのです。

服部大池の築造に多くの村々の人々が動員され、二年がかりの難工事となったと伝えられるのも、こうした手作業中心の時代背景を考えれば当然のことでした。堤を一つ築くにも、土を突き固め、水を堰き止め、漏れを防ぐといった一連の作業に、膨大な人手と時間が必要だったのです。

堤防づくりの知恵

堤防やため池の堤は、ただ土を盛り上げればよいというものではありません。水圧に耐え、水漏れを防ぐためには、土を層ごとに丁寧に突き固めていく必要があります。粘土質の土を選び、何度も踏み固めて締めることで、水を通しにくい堅固な堤がつくられました。中津原の砂堰のように「一定の水位を超えると切れる」よう設計された堤は、逆にあえて弱点を仕込む高度な工夫であり、こうした技術の蓄積があってはじめて可能になったものです。

用水路と分水の仕組み

ため池に蓄えた水は、用水路を通じて田へと配られます。どの田にどれだけの水を流すかを公平に分ける「分水(ぶんすい)」の仕組みは、村々の利害が直接ぶつかる繊細な問題でした。水が豊かな年はよいとして、水の乏しい年には、わずかな水の配分をめぐって争いが起きることも珍しくありませんでした。砂堰をめぐる上流・下流の攻防も、突き詰めればこうした「限られた水をどう分けるか」という問題の一つの現れだったと言えます。土木とは、技術であると同時に、人と人との利害を調整する営みでもあったのです。

砂防普請――山を治めて川を守る

芦田川の治水は、川そのものへの工事だけにとどまりませんでした。福山藩は、上流の山々から流れ出る土砂を抑えるための「砂防(さぼう)」にも取り組んでいたとされます。山が荒れて土砂が大量に流れ出れば、川底が浅くなり、ため池も埋まり、洪水も起こりやすくなります。川を守るには、その源である山を治めることが欠かせなかったのです。

記録によれば、福山藩は広い範囲で砂防のための施設(砂留〔すなどめ〕)を多数築造したと伝えられます。なかでも知られるのが、堂々川(どうどうがわ)の砂留群です。これらの砂留のうちには、天保六年(一八三五年)に施工されたとされる古い事例も含まれており、江戸時代を通じて砂防への取り組みが続けられていたことがうかがえます。

「川を治める」とは流域全体を治めること

砂防への取り組みは、福山藩の治水が単なる「川岸の工事」ではなく、上流の山から下流の海まで、流域全体を視野に入れたものだったことを示しています。山の土砂を抑え、川筋を整え、ため池に水を蓄え、海を干拓して田にする――これらは別々の事業のようでいて、実は「水と土をどう扱うか」という一つの大きな営みの異なる側面でした。福山藩の土木が長く機能し続けたのは、こうした流域全体を見渡す視点があったからだとも言えるでしょう。

新田開発がもたらしたもの――暮らしと産業の広がり

干拓と新田開発は、単に米の収穫高を増やしただけではありませんでした。新しい田が開かれれば、そこを耕す人々が住み着き、村ができ、道や水路が整えられ、新たな暮らしの場が生まれます。福山の平野が現在のように広く人が住む土地になっていった背景には、こうした新田開発の積み重ねがありました。

また、干拓地や新田の周辺では、米作りだけでなくさまざまな産業も育っていきました。瀬戸内の温暖で雨の少ない気候は、綿(わた)の栽培にも適しており、福山藩の領内では木綿(もめん)づくりが盛んになっていったとされます。水を治めて田を広げる営みは、めぐりめぐって地域の産業全体の土台を厚くしていったのです。

塩分との戦い――干拓地ならではの苦労

海を干拓して開いた新田には、ふつうの田にはない苦労がありました。それは塩分です。もとが海であった土地には塩が残っており、そのままでは稲が育ちません。堤で海を仕切ったあと、雨水や川の水を引いて何度も土を洗い、塩分を抜いていく「除塩(じょえん)」の作業が必要でした。新田が安定した田になるまでには、長い年月と地道な手間がかかったのです。「沖新田」と名のつく土地が、最初から豊かな田だったわけではなく、人々の根気強い営みによって少しずつ実りの土地に変えられていったことを、忘れてはなりません。

水害との終わりなき付き合い

新田開発によって広がった低地は、その性質上、つねに水害の危険と隣り合わせでした。堤防が切れれば、せっかく開いた田も一夜にして水没してしまいます。だからこそ、堤防やため池、水路の維持管理は、藩にとっても村々にとっても欠かせない毎年の仕事であり続けました。福山の平野が安定した田園地帯になっていったのは、一度の大工事の成果ではなく、世代を超えて続けられた絶え間ない手入れの賜物だったのです。

水野家断絶と藩主の交代――治水事業の継承

福山の礎を築いた水野家でしたが、その治世は永遠には続きませんでした。伝えられるところによれば、五代藩主・水野勝岑(みずのかつみね)はわずか幼くして家督を継いだものの、元禄十一年(一六九八年)に夭折(ようせつ=幼くして亡くなること)し、跡継ぎがいなかったため、水野家は改易(かいえき=大名としての地位を取り上げられること)となったと伝えられます。初代勝成の入封からおよそ八十年での断絶でした。

水野家の断絶後、福山は一時的に幕府直轄領(天領)となったとされます。その後、元禄十三年(一七〇〇年)に松平忠雅(まつだいらただまさ)が十万石で入封することが決まり、宝永六年(一七〇九年)に福山に入ったものの、翌宝永七年(一七一〇年)には伊勢国桑名藩へ転封となったと伝えられます。続いて、下野国宇都宮藩から阿部正邦(あべまさくに)が十万石で入封し、以後、廃藩置県に至るまでおよそ百六十年にわたって阿部家が福山を治めたとされます。

阿部家の時代へ受け継がれた水との営み

藩主家が水野・松平・阿部と移り変わっても、芦田川を御し、新田を維持し、ため池を守るという営みそのものは絶えることなく続けられました。堤防や水路、ため池は、造って終わりではなく、毎年の維持管理(普請)を欠かせない施設です。中津原の砂堰をめぐる上流・下流の攻防が江戸期を通じて繰り返されたことからも分かるように、水との折り合いは、どの藩主の時代にも続く課題でした。阿部家の時代には、七代藩主・阿部正弘(あべまさひろ)が幕末の老中として開国問題を主導し、また藩校・誠之館(せいしかん)を設立するなど、藩政・教育の面でも知られています。

近代以降の芦田川改修――先人の治水を受け継ぐ

江戸時代に水野家が始めた芦田川の治水は、近代以降も形を変えながら受け継がれていきました。明治・大正期に入っても芦田川の水害はなお続き、大正八年(一九一九年)の梅雨前線による洪水を契機に、本格的な河川改修が始まったとされます。

この近代改修の最大の事業の一つが、かつて芦田川と分かれて流れていた鷹取川を廃川(はいせん=川を廃止すること)にして埋め立て、その付近の中洲を掘削して芦田川の川幅を広げる工事だったと伝えられます。江戸期に城下を守るために行われた流路の操作が、近代には洪水を安全に流すための拡幅へと引き継がれていったわけです。

河口堰とダムによる総合的な水管理

戦後になると、治水と利水(水資源の利用)を総合的に図る施設が整えられていきました。伝えられるところによれば、昭和五十六年(一九八一年)に芦田川河口堰(かこうぜき)が竣工し、平成九年(一九九七年)には上流に八田原(はったばら)ダムが竣工したとされます。芦田川が一級河川に指定されたのは昭和四十二年(一九六七年)のことです。水野勝成が川筋を付け替えた江戸時代から、ダムと河口堰で水を総合的に管理する現代まで、福山の人々は四百年にわたって芦田川と向き合い続けてきたのです。

いまに残る治水・干拓の痕跡をたどる

福山藩の治水と新田開発の歴史は、特別な遺跡として大々的に残っているわけではありません。むしろ、ふだんの暮らしの風景のなかにさりげなく溶け込んでいるのが特徴です。だからこそ、「ここはかつてこういう場所だった」という視点を持って歩くと、見慣れた町が違って見えてきます。

服部大池――現役の江戸時代ため池

もっとも分かりやすく当時の土木を体感できるのが、福山市駅家町の服部大池です。寛永から正保にかけて築かれたこのため池は、いまも灌漑用水として現役で使われており、「ため池百選」にも選ばれています。広い水面と堤を眺めながら、これが手作業中心の時代に二年がかりで築かれたことを思い起こせば、当時の普請の規模が実感できるでしょう。周囲は散策にも適しており、季節の景色も楽しめます。

中津原・森脇周辺――砂堰の記憶

芦田川中流の中津原・森脇のあたりは、城下を守るための砂堰が置かれ、上流と下流の村々が水をめぐって争った舞台です。砂堰そのものは昭和の大改修で姿を消しましたが、関連する記念碑が森脇八幡神社に移されていると伝えられます。河川敷を歩きながら、ここで繰り広げられた「水の攻防」に思いをはせるのもよいでしょう。

「沖」「新涯」の地名と平野の風景

福山市街地の南部に広がる平野には、「沖」「新涯」「新田」を含む地名が点在します。これらはかつての干拓地の名残です。地図を片手に地名をたどれば、どこまでが昔の海で、どこからが人の手で田に変えられた土地なのか、おおまかな輪郭が見えてきます。何の変哲もない田や宅地が、実は四百年前に海だった――そう気づくと、平野の風景がぐっと立体的になります。

関連年表で見る福山藩の治水・新田開発

ここで、これまで述べてきた出来事を年表として整理しておきます。年代や経緯には史料によって幅があり、諸説ある事項を含む点はあらかじめご了承ください。

年(和暦) おもな出来事
一六一九年(元和五年) 水野勝成が福山に入封。福山城の築城を開始し、芦田川の治水・付け替えに着手したとされる
一六二一年(元和七年) 福山城が完成したと伝えられる
一六四三年ごろ(寛永二十年) 市村新田の造成が始まる。服部大池の築造も始まったとされる
一六四五年(正保二年) 服部大池が完成したと伝えられる
一六四六年(正保三年) 深津沖新田の造成
一六四七年(正保四年) 深津高地の西方海域がほぼ開拓を終えたとされる
一六五一年(慶安四年) 水野勝成が没したと伝えられる(八十八歳)
一六九八年(元禄十一年) 五代・水野勝岑の夭折により水野家が改易。福山は一時天領となる
一七〇〇年(元禄十三年) 松平忠雅の入封が決まる(一七一〇年に転封)
一七一〇年(宝永七年)以降 阿部正邦が入封し、以後およそ百六十年阿部家が福山を治める
一九一九年(大正八年) 洪水を機に芦田川の本格的な近代改修が始まったとされる
一九三三年(昭和八年) 芦田川の大改修により中津原の砂堰が撤去されたと伝えられる
一九六七年(昭和四十二年) 芦田川が一級河川に指定される
一九八一年(昭和五十六年) 芦田川河口堰が竣工したとされる
一九九七年(平成九年) 八田原ダムが竣工したとされる
二〇一〇年(平成二十二年) 服部大池が「ため池百選」に選定されたと伝えられる

治水・干拓の歴史をたどるモデルコース

福山藩の水との歴史を一日でたどるなら、城下と郊外を組み合わせた巡り方がおすすめです。ここでは、治水・新田開発をテーマにしたモデルコースの一例をご紹介します。治水や干拓の痕跡は地味で見過ごしやすいものですが、「ここは昔こうだった」という背景を知っておくだけで、見える風景が大きく変わります。無理のない範囲で、興味のあるスポットを取捨選択してください。なお、各スポットの開館時間やアクセスは時期によって変わることがありますので、お出かけ前に最新の情報をご確認ください。

午前:福山城で町づくりの全体像をつかむ

まずは福山城からスタートします。城は治水・城下町整備と一体で築かれたものですから、ここで福山という町の成り立ちの全体像をつかんでおくと、その後の散策の理解が深まります。天守からは、かつての城下町と芦田川がつくった平野を一望でき、干拓で広がった土地の広がりも実感できるでしょう。城の詳細は福山城ガイドを参照してください。

昼:芦田川沿いと中津原・森脇周辺へ

午後は芦田川中流域へ足を延ばします。中津原・森脇のあたりは、城下を守る砂堰が置かれた治水の最前線でした。河川敷を歩きながら、城下を守るために上流の村が水をかぶる側に回らざるをえなかったという、治水のもつ難しさに思いをはせてみてください。森脇八幡神社に立ち寄れば、砂堰ゆかりの記念碑にも出会えるかもしれません。

午後:服部大池でため池の規模を体感

締めくくりは、福山市駅家町の服部大池です。江戸時代に二年がかりで築かれ、いまも現役で使われるこのため池は、福山藩の土木の確かさを最も雄弁に物語る場所です。広い水面を前に、旱魃から田を守るために費やされた人々の労力を思い浮かべれば、福山の田園風景がただの自然ではなく、先人の普請の結晶であることが見えてくるでしょう。

余裕があれば鞆の浦へ――海運と港町の歴史

時間に余裕があれば、福山藩が重視した瀬戸内海運の拠点・鞆の浦(とものうら)まで足を延ばすのもおすすめです。治水・新田開発が「陸をつくる」営みだったとすれば、鞆の浦は「海を活かす」福山のもう一つの顔です。鞆の浦の街並みガイドや、潮待ちの港町を象徴する福禅寺 対潮楼いろは丸展示館太田家住宅などをあわせて巡れば、福山という地域が「水」とどう向き合ってきたかを、より立体的に感じ取ることができます。

よくある質問(FAQ)

Q福山藩の治水・新田開発を主導したのは誰ですか。
A

初代藩主・水野勝成です。元和五年(一六一九年)に福山へ入封し、福山城の築城とあわせて芦田川の治水・付け替え、干拓・新田開発、ため池の築造などを進め、福山の礎を築いたとされます。

Q芦田川はどのような川ですか。
A

広島県東部を流れる芦田川水系の本流で、一級河川です。流路延長はおよそ八十六キロメートル、流域面積はおよそ八百六十平方キロメートルとされ、世羅台地付近を水源として備後灘に注ぎます。豊かな水量をもつ一方、たびたび氾濫する暴れ川でもありました。

Q芦田川の付け替えとはどういう工事ですか。
A

蛇行していた川筋を一直線に整え、東へ付け替えて中津原で直角に南下させるよう改修したと伝えられます。城下町からできるだけ川を遠ざけ、氾濫の危険を減らす目的があったとされます。

Q砂堰(すなぜき)とは何ですか。
A

中津原の曲がり角に設けられたとされる特殊な堤防で、一定の水位を超えると土手が切れ、上流側へ水を逃がすことで下流の城下を守る仕組みだったと伝えられます。現代でいう越流堤や遊水地に近い発想です。

Q砂堰をめぐる「上流と下流の争い」とは何ですか。
A

城下を守るために砂堰から水を逃がすと、上流側の村々が水をかぶることになりました。上流は盛り土で堤を守ろうとし、下流はそれを妨げようとして、ほぼ毎年のように争いが起きたと伝えられます。やがて盛り土の高さを三尺(約九十センチメートル)に制限する妥協が図られたとされます。

Q服部大池はいつ造られましたか。
A

寛永二十年(一六四三年)ごろに築造が始まり、正保二年(一六四五年)に完成したと伝えられます。水野勝成が神辺平野の旱魃対策として築かせ、総奉行を神谷治部が務めたとされます。

Q服部大池はいまも使われていますか。
A

はい。築造から三百八十年近くを経たいまも、現役の灌漑用ため池として使われています。平成二十二年(二〇一〇年)には農林水産省の「ため池百選」に選ばれ、広島県内で唯一の選定池になったと伝えられます。

Q新田開発でどれくらいの石高が増えたのですか。
A

記録によれば、芦田川流域の新田開発でおよそ一万千七百五十四石、芦田川・加茂川・高屋川の合流地域でおよそ六千三百二十六石が新たに生み出されたとされます。水野家の代替わりの際には、新田がおよそ五万石に上ったとも伝えられますが、数字には諸説あります。

Q福山にはどんな干拓地・新田がありましたか。
A

吉田新開、市村沖新田、佃沖新田、深津沖新田、福山沖新田などが伝えられています。現在の市内に残る「沖」「新涯」「新田」を含む地名の多くは、こうした干拓地の名残とされます。

Q福山藩の藩主家はどう移り変わりましたか。
A

水野家が初代勝成から五代続いた後、元禄十一年(一六九八年)に五代勝岑の夭折で改易となり、一時天領となりました。その後、松平忠雅の短い在封を経て、阿部家が入封し、廃藩置県までおよそ百六十年福山を治めたとされます。

Q江戸時代の治水は近代以降どう受け継がれましたか。
A

大正八年(一九一九年)の洪水を機に本格的な近代改修が始まり、鷹取川の廃川と芦田川の拡幅などが行われました。戦後には昭和五十六年(一九八一年)に河口堰、平成九年(一九九七年)に八田原ダムが竣工し、治水と利水の総合的な管理が進められたとされます。

Q治水・新田開発の歴史をたどれる場所はどこですか。
A

現役のため池である服部大池(駅家町)、砂堰の舞台となった中津原・森脇周辺、干拓地の名残を伝える「沖」「新涯」などの地名が残る福山市街南部の平野が代表的です。あわせて福山城を訪れると、治水と城下町整備が一体だったことが実感できます。

Q草戸千軒と芦田川はどう関係していますか。
A

江戸時代の初め、芦田川河口付近では川が鷹取川と芦田川に分かれて流れており、その中洲に港町・草戸千軒町があったと伝えられます。詳しくは草戸千軒・明王院ゆかりの地のガイドもご覧ください。

まとめ――水を御した普請が福山をつくった

福山藩二百五十年の歴史は、芦田川という暴れ川と、河口に広がる干潟という土地条件のうえに成り立っていました。初代藩主・水野勝成は、城を築くのと同時に川筋を付け替え、中津原の砂堰で洪水を巧みに逃がし、服部大池をはじめとするため池で旱魃に備え、海を干拓して次々と新田を開いていきました。芦田川流域や三川合流域で生み出された新田の石高は、藩財政を支える大きな柱となりました。

こうした治水と新田開発は、水野家一代で終わるものではなく、八十年にわたる水野期の蓄積、そして松平・阿部両家の時代へと受け継がれ、近代の河川改修やダム・河口堰の建設にまで連なっていきました。砂堰をめぐる上流と下流の長い攻防が示すように、水との折り合いはどの時代にも続く難題でしたが、その一つひとつの普請の積み重ねが、いまの福山平野の田園と市街地をかたちづくっているのです。

服部大池の水面、「沖」や「新涯」という地名、まっすぐに流れる芦田川――そのどれもが、先人の土木の営みの証です。ふだん何気なく目にしている福山の風景の多くが、実は「人がつくった大地」であること。それを知って歩けば、福山の町はきっと、これまでとは違う深い表情を見せてくれるはずです。福山の歴史をさらに広く知りたい方は、ぜひ福山の歴史まるごとガイドもあわせてご覧ください。

出典・注意

本記事は、福山市・福山城博物館などの公的機関や郷土資料、芦田川の河川管理に関する公開情報、および「服部大池」「芦田川」「福山藩」に関する百科事典的な解説などを参照して作成しました。年代・石高・地名・人物については可能な範囲で複数の情報をつき合わせて確認していますが、史料によって記述に幅があるものや、伝承として伝わるものも含まれます。

※年代・経緯には諸説ある事項を含みます。詳細は各施設の公式情報や郷土資料でご確認ください。

最終更新: 2026年6月10日

史跡情報は福山NOTE 史跡図鑑(fn_history)より。