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🏯 歴史

観光鯛網の歴史|鞆の浦に伝わる初夏の豪快な鯛漁

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観光鯛網の歴史|鞆の浦に伝わる初夏の豪快な鯛漁

広島県福山市の南端、瀬戸内海に突き出した沼隈半島の先に、古くからの港町・鞆の浦(とものうら)があります。万葉の昔から「潮待ちの港」として知られ、常夜燈や雁木(がんぎ)、波止場が今も残るこの町には、初夏の海を舞台にした勇壮な伝統行事が受け継がれています。それが「観光鯛網(かんこうたいあみ)」です。複数の船が大きな網を仙酔島の沖に張り、掛け声とともに鯛を追い込む光景は、まさに海上の一大絵巻。福山藩の時代からおよそ380年伝わるとされるこの鯛漁は、春から初夏にかけて産卵のため瀬戸内海中央部にやってくる真鯛をねらった、鞆ならではの漁法に由来します。本記事では、鞆の浦に伝わる観光鯛網について、その起源・歴史・漁法・現在の姿を、史実を確認しながらじっくりとたどっていきます。

なお、観光鯛網のルーツである「鞆の浦鯛しばり網漁法(とものうらたいしばりあみぎょほう)」は、江戸時代初頭に考案されたと伝わる伝統漁法で、現在は実漁としては行われていません。毎年5月を中心に、観光行事として往時の漁法を再現する形で続けられており、平成27年(2015年)には福山市の無形民俗文化財に指定されています。年代や経緯には諸説ある部分もありますが、本記事では自治体・観光協会・百科事典・新聞報道など信頼できる情報をもとに、できるかぎり正確に記していきます。

ゆかりの史跡・図鑑

観光鯛網の舞台となる鞆の浦は、町全体が「歴史の博物館」とも呼ばれる港町です。鯛網が張られる仙酔島や田の浦海岸、見学拠点となる鞆港周辺には、江戸時代から続く港湾施設や寺社が数多く残っています。まずは、鞆の浦と福山市に伝わるゆかりの史跡を図鑑で見ていきましょう。一覧・比較・詳細の3つの形で、関連するスポットをたどれます。

福山城 伏見櫓 📖江戸時代(元和年間)📍 福山駅前(福山市街)福山城 📖近世(江戸)📍 丸之内福山城博物館 📖近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)📍 福山駅前(福山市街)草戸千軒町遺跡 📖中世📍 草戸町明王院 📖中世📍 草戸町鞆の津の町並み(重伝建) 📖江戸時代(中世〜近代の建造物群)📍 鞆町鞆の浦の常夜燈と港湾施設 📖江戸時代📍 鞆町福山市鞆の浦歴史民俗資料館 📖近代(昭和)📍 鞆町鞆の浦 📖中世〜近世📍 鞆町福禅寺 対潮楼 📖近世📍 鞆町太田家住宅 📖江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)📍 鞆町いろは丸展示館 📖近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)📍 鞆町仙酔島古代(地質)/近代(指定)📍 鞆町廉塾(菅茶山旧宅) 📖近世📍 神辺町神辺城跡 📖中世📍 神辺町福山八幡宮 📖近世📍 北吉津町沼名前神社 📖近世📍 鞆町阿伏兎観音(磐台寺観音堂)近世📍 沼隈町吉備津神社(備後一宮)江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる📍 新市町素盞嗚神社(備後一宮) 📖飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮📍 新市町

史跡時代概要📍 エリア詳細
福山城 伏見櫓江戸時代(元和年間)伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最…📍 福山駅前(福山市街)下へ ↓
福山城近世(江戸)備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御…📍 丸之内下へ ↓
福山城博物館近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩…📍 福山駅前(福山市街)下へ ↓
草戸千軒町遺跡中世芦田川の中州にあった中世の港町・集落遺跡。発…📍 草戸町下へ ↓
明王院中世本堂と五重塔がともに国宝。中世密教寺院で、五…📍 草戸町下へ ↓
鞆の津の町並み(重伝建)江戸時代(中世〜近代の建造物群)潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と…📍 鞆町下へ ↓
鞆の浦の常夜燈と港湾施設江戸時代江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯…📍 鞆町下へ ↓
福山市鞆の浦歴史民俗資料館近代(昭和)鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬…📍 鞆町下へ ↓
鞆の浦中世〜近世瀬戸内の「潮待ちの港」。常夜燈・雁木・波止場…📍 鞆町下へ ↓
福禅寺 対潮楼近世朝鮮通信使の使節が「日東第一形勝」と讃えた客…📍 鞆町下へ ↓
太田家住宅江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で…📍 鞆町下へ ↓
いろは丸展示館近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵…📍 鞆町下へ ↓
仙酔島古代(地質)/近代(指定)鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連…📍 鞆町下へ ↓
廉塾(菅茶山旧宅)近世儒学者・菅茶山が開いた私塾。当時の塾舎・住宅…📍 神辺町下へ ↓
神辺城跡中世備後南部の中世山城。福山城が築かれる以前、備…📍 神辺町下へ ↓
福山八幡宮近世福山城の北に鎮座し、東西二つの宮を備える。歴…📍 北吉津町下へ ↓
沼名前神社近世鞆の「祇園さん」。夏の大松明を担ぐ「お手火神…📍 鞆町下へ ↓
阿伏兎観音(磐台寺観音堂)近世断崖の上に建つ朱塗りの観音堂。国の重要文化財…📍 沼隈町下へ ↓
吉備津神社(備後一宮)江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で…📍 新市町下へ ↓
素盞嗚神社(備後一宮)飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏の…📍 新市町下へ ↓

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福山城 伏見櫓

江戸時代(元和年間) / 📍福山駅前(福山市街)

伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最古級の三層入母屋造の現存櫓。 福山城伏見櫓は、元和8年(1622年)の福山城築城に際し、城主水野勝成が将軍徳川秀忠から下賜を受け、京都の伏見城から移築させたと伝えられる櫓である。長らく伝承とされていたが、昭和29年(1954年)の解体修理の際、梁の陰刻に「松ノ丸ノ東やく(ら)」の文字が発見され、伏見城からの移築を裏付ける確かな遺構であることが明らかになった。構造は三層入母屋造で、初層と二層を同じ柱割とし、その上にやや小さい三層を望楼状に載せる。桁行八間・梁間三間、本瓦葺の規模をもつ。慶長期の城郭建築の様式を残す初期の典型として価値が高く、昭和8年(1933年)1月23日に国の重要文化財に指定された。福山城内に現存し、特別公開が行われることもある。

🕰 時代江戸時代(元和年間)
🏛 成立・築造元和8年(1622年)水野勝成の福山城築城時に伏見城から移築。国指定重要文化財(昭和8年=1933年1月23日指定)
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目(福山城内)
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福山城

近世(江戸) / 📍丸之内

備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御門は京都伏見城からの移築と伝わる。2022年に築城400年を迎えた。

🕰 時代近世(江戸)
🏛 成立・築造1622年(元和8)・水野勝成
👤 関連水野勝成・阿部正弘
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目8
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福山城博物館

近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期) / 📍福山駅前(福山市街)

水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩の歴史を体験型展示で伝える博物館 福山城博物館は、JR福山駅のすぐ北に建つ福山城天守内に置かれた市立の歴史資料館です。福山城は1622年(元和8年)、徳川譜代の大名・水野勝成が西国鎮衛の拠点として築いた近世城郭で、天守は1931年に国宝に指定されました。しかし1945年8月の福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリート造で外観が復興され、その内部が博物館として公開されました。2022年には築城400年に合わせて大規模リニューアルされ、北面の鉄板張り(黒い装い)の再現や、一番槍レース・火縄銃などの体験型コンテンツ、デジタル映像を用いた展示が整えられ、福山城と福山藩の歴史を学べる施設となっています。城内に現存する伏見櫓と筋鉄御門は、京都・伏見城からの移築と伝えられ、国の重要文化財に指定されています。常設展は有料、月曜休館とされます。

🕰 時代近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)
🏛 成立・築造福山城は1622年(元和8年)に初代福山藩主・水野勝成が築城。天守は1945年福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリートで外観復興、内部を博物館として開館。2022年に大規模リニューアル
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目8番
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鞆の津の町並み(重伝建)

江戸時代(中世〜近代の建造物群) / 📍鞆の浦

潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と町家が一体で残る重伝建地区 鞆の浦は瀬戸内海の中央に位置し、古来「潮待ちの港」として栄え、万葉集にも詠まれた歴史を持つとされる。江戸時代には北前船など廻船の寄港地として繁栄し、朝鮮通信使の寄港地ともなった。2017年(平成29年)11月28日、「福山市鞆町伝統的建造物群保存地区」として約8.6ヘクタールが国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。範囲は鞆字西町の全域を中心に、石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地の一部に及ぶ。中世から江戸期に整えられた地割の上に、江戸時代から昭和30年代までの町家や寺社、石垣などが一体的に残る近世港町の景観が評価された。常夜燈・雁木・波止・焚場・船番所の5つの港湾施設がほぼ完全に残る点は全国でも稀とされる。広島県内では3例目の選定で、2018年には日本遺産にも認定された。

🕰 時代江戸時代(中世〜近代の建造物群)
🏛 成立・築造2017年(平成29年)11月28日に国の重要伝統的建造物群保存地区へ選定。地割は中世〜江戸期、建造物は江戸時代〜昭和30年代まで。
📍 所在地広島県福山市鞆町(鞆字西町全域ほか、字石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地字古城跡・草谷の各一部)
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鞆の浦の常夜燈と港湾施設

江戸時代 / 📍鞆の浦

江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯一の近世港、鞆港。 鞆の浦の鞆港には、常夜燈・雁木・波止・焚場(たでば)・船番所という江戸時代の港湾施設5点がほぼ揃って現存し、これらが一体で残るのは全国でも鞆港のみとされる。シンボルの常夜燈は安政6年(1859)の刻銘をもつ石造灯台で、海中の基礎石から宝珠の頂までは約12.1mに及び、江戸期の石造常夜燈としては国内最大級とされる。雁木は潮の干満に応じて船を着けられる階段状の船着き場で、半円形の港内に連続して巡らされている。波止は花崗岩を積んだ全長約146mの防波堤で、江戸後期に築かれ明治期に修築された。鞆港を含む沿岸と沖の島々一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定され、鞆町西町を中心とする区域は2017年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。日本遺産「瀬戸の夕凪が包む 国内随一の近世港町」の構成要素でもある。

🕰 時代江戸時代
🏛 成立・築造常夜燈は安政6年(1859)造立とされる。雁木・波止・焚場・船番所は江戸後期築造、波止は明治期に修築。鞆港一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定。
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆
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福山市鞆の浦歴史民俗資料館

近代(昭和) / 📍鞆の浦

鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬戸内の歴史・民俗を伝える市立資料館 福山市鞆の浦歴史民俗資料館は、広島県福山市鞆町後地に建つ市立の博物館で、「潮待ちの館」の愛称で親しまれる。1977年(昭和52年)からの地元有志による調査・収集活動を背景に、福山市制70周年記念事業として1988年(昭和63年)に開館した。立地は、福島正則が築いたとされる鞆城跡(福山市指定史跡)の高台で、瀬戸内海を見渡せる。万葉の時代から潮待ち・風待ちの港として栄えた鞆の浦を中心に、古代から近世にいたる歴史資料を展示。鯛網漁のジオラマや錨を製造した鍛冶場、朝鮮通信使関連資料、保命酒に関する資料に加え、お手火神事・お弓神事といった地域の民俗文化財も常設展示する。鞆の歴史と暮らしを総合的に学べる拠点とされる。

🕰 時代近代(昭和)
🏛 成立・築造1988年(昭和63年)開館。福山市制70周年記念事業として建設。建つ鞆城跡は福島正則が築いたとされる(福山市指定史跡)
📍 所在地広島県福山市鞆町後地536-1
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太田家住宅

江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期) / 📍鞆の浦

鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で、国の重要文化財 鞆の浦を代表する歴史的建造物で、薬用酒「保命酒」の醸造で財を成した商家の旧宅。もとは大坂の漢方医を出自とする中村家の屋敷で、明暦元年(1655年)に鞆へ移り住み、まもなく十六味地黄保命酒の製造・販売を始めて大ヒットし、福山藩の御用名酒屋として販売独占権を得たとされる。明治期に廻船業を営んだ太田家が継承し、現在の名で呼ばれる。主屋を中心に保命酒蔵や各種土蔵など九棟が建ち並び、建築年代は18世紀中期から19世紀前期に及ぶ。瀬戸内の商家建築を伝える貴重な遺構として、1991年に国の重要文化財に指定された。幕末には三条実美ら尊王攘夷派の公卿が立ち寄ったと伝わり、別宅の朝宗亭とともに「鞆七卿落遺跡」として広島県の史跡(1940年指定)にもなっている。

🕰 時代江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)
🏛 成立・築造主屋は18世紀中期、ほか北保命酒蔵が天明8年(1788年)、西蔵が寛政元年(1789年)、東保命酒蔵が寛政7年(1795年)など18世紀中期〜19世紀前期。国の重要文化財指定は1991年(平成3年)5月31日。
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆842
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いろは丸展示館

近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期) / 📍鞆の浦

坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵を活かした資料館 鞆の浦のシンボル常夜灯(とうろどう)のすぐそばに建つ資料館。1867年(慶応3年)、坂本龍馬と海援隊が運航したいろは丸が紀州藩の明光丸と備後灘で衝突・沈没した「いろは丸事件」を伝える施設で、その談判が鞆の浦で行われた縁にちなむ。建物は江戸期に建てられた太い梁が印象的な土蔵で、地元では「大蔵」と呼ばれ、国の登録有形文化財とされる。館内には海底に沈むいろは丸を再現したジオラマ、引き揚げられた陶器や部品、調査風景の写真などを展示し、2階には龍馬が宿泊先で身を潜めたという「隠れ部屋」が再現され、龍馬の蝋人形も置かれている。1989年(平成元年)7月の開館。幕末史と鞆の港町文化を同時に味わえるスポットである。

🕰 時代近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)
🏛 成立・築造1989年(平成元年)7月開館。建物は江戸期築の土蔵「大蔵(浜蔵)」で、国の登録有形文化財とされる。展示題材のいろは丸事件は1867年(慶応3年)
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆843-1
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仙酔島

古代(地質)/近代(指定) / 📍鞆の浦

鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連なる瀬戸内海国立公園の名勝 仙酔島は鞆の浦の沖合に浮かぶ周囲約6キロの島で、住所は福山市鞆町後地。鞆港から市営渡船で約5分の距離にあり、観光客の往来はあるが定住者のいない無人島とされる。1925年(大正14年)に国の名勝「鞆公園」の一部として指定され、1934年(昭和9年)には日本で最初に指定された国立公園・瀬戸内海国立公園に含まれた。島は約9000万年前の大規模な火山活動による溶結凝灰岩を主体とし、南側海岸には青・赤・黄・白・黒の岩が200メートル以上連なる「五色岩」が見られ、地質的に貴重とされる。「仙人が酔うほど美しい島」が名の由来と言われる。江戸後期の学者・頼山陽が当地の景観を「山紫水明」と評したとも伝わる。

🕰 時代古代(地質)/近代(指定)
🏛 成立・築造1925年(大正14年)国名勝「鞆公園」に指定。1934年(昭和9年)日本初の国立公園・瀬戸内海国立公園に編入。島自体は約9000万年前の火山活動で形成されたとされる
📍 所在地広島県福山市鞆町後地
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吉備津神社(備後一宮)

江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる / 📍新市・北部

備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で「いっきゅうさん」と親しまれる古社 福山市新市町宮内に鎮座する備後国一宮で、地元では「一宮さん(いっきゅうさん)」と親しまれる。社伝では大同元年(806年)に吉備国の吉備津神社から勧請し創建されたと伝わるが、延喜式神名帳に記載がないことなどから実際の成立はより後とする説もある。主祭神は吉備国を治めたとされる大吉備津彦命。現在の本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が旧規模にならい造営したもので、桁行七間・梁間四間の入母屋造檜皮葺、国の重要文化財に指定されている。ほかにも木造狛犬や太刀などが重要文化財として伝えられ、複数の建造物が広島県・福山市指定文化財となっている。隣接する櫻山城跡なども史跡として知られ、備後の信仰と歴史を今に伝える。

🕰 時代江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる
🏛 成立・築造本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が造営、国の重要文化財。創建は大同元年(806年)と伝わるが諸説ある
📍 所在地広島県福山市新市町宮内400
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素盞嗚神社(備後一宮)

飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮 / 📍新市・北部

祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏のけんか神輿で名高い古社 福山市新市町戸手に鎮座する素盞嗚神社は、『延喜式神名帳』に載る式内社で備後国一宮を称し、旧社格は県社です。主祭神は素盞嗚尊で、稲田姫命・八王子を配祀します。社伝では天武天皇の治世、7世紀ごろ(679年か)の創建とされます。『釈日本紀』所収の「備後国風土記」逸文に伝わる蘇民将来説話の舞台「疫隈国社」と結びつけられ、茅の輪くぐりや祇園信仰・祇園祭発祥の地の一つとされています。神仏習合期には牛頭天王を祀り、遣唐使・吉備真備が734年に当社から播磨の広峯神社へ勧請したとも伝わります。毎年7月の例祭では、勇壮なけんか神輿(神輿合わせ)が行われることで知られます。

🕰 時代飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮
🏛 成立・築造社伝では天武天皇期の7世紀ごろ(679年か)創建とされる。『延喜式神名帳』記載の式内社で、旧県社
📍 所在地広島県福山市新市町大字戸手1-1

観光鯛網とは何か――初夏の鞆を彩る海上絵巻

鞆の浦の港と町並み
鞆の浦の港と町並み(画像:Wikimedia Commons / CC)

観光鯛網とは、鞆の浦に古くから伝わる「鯛しばり網漁法」を、観光客が船上から見学できる形で再現する行事です。例年4月下旬から5月にかけて、仙酔島(せんすいじま)の田の浦海岸を拠点に行われます。観覧客は鞆港から市営の渡船で仙酔島へ渡り、そこから観覧船に乗って、沖合に張られた網に鯛が追い込まれていく様子を間近で見学します。

鯛しばり網漁法は、複数の船が連携して大きな網を操る集団漁です。長さ約1,500メートル、幅(深さ)約100メートルにも及ぶ大網を海中に張り巡らせ、船と船の距離を縮めながら互いの網を「しばり上げて」鯛を網の中へ追い込み、最後に一気に引き上げます。漁師たちは烏帽子(えぼし)に法被(はっぴ)といういでたちで船に乗り込み、「エットー、エットー、ヨーイヤサンジャー」といった威勢のよい掛け声に合わせて網を手繰ります。大漁旗が初夏の潮風にはためき、観覧船からは盛んな拍手と歓声が上がる――それが鞆の鯛網の名物光景です。

この漁の主役は、瀬戸内海の真鯛(まだい)です。真鯛は春先になると産卵のために瀬戸内海の中央部、すなわち鞆の浦周辺の海域へとやってきます。この時期の鯛は「桜鯛(さくらだい)」とも呼ばれ、体色が鮮やかで脂のりもよく、めでたい魚の代表格として古くから珍重されてきました。鞆の鯛網は、まさにこの真鯛の生態と、瀬戸内海中央という鞆の浦の地理的条件が結びついて生まれた、土地に根ざした漁といえます。

現在の観光鯛網は、漁業としての生産活動ではなく、伝統漁法を後世に伝える文化行事として位置づけられています。とはいえ、網の張り方や船団の連携、掛け声といった所作は往時の漁法を踏襲しており、地元では「当時の漁法がそのまま伝えられているのはここだけ」と自負されています。海の伝統文化を体感できる貴重な機会として、毎年多くの見学客を集めています。

観光鯛網が「海上絵巻」と称されるのは、その視覚的な迫力ゆえです。穏やかな瀬戸内の海に、色とりどりの大漁旗をなびかせた複数の船が一列に並び、号令とともに一斉に動き出す――その様子は、まるで巻物に描かれた合戦絵図のような壮観さがあります。網が次第にしぼられ、銀色に輝く真鯛が水面で跳ねるクライマックスでは、観覧船から大きな歓声が上がります。漁という日常の営みが、長い時間をかけて磨かれ、見る者を魅了する一幅の絵へと昇華した――それが鞆の観光鯛網なのです。海と人とのかかわりが生み出した、生きた文化財ともいえるこの行事は、瀬戸内海ならではの歴史風土が育んだ宝といってよいでしょう。

鞆の浦という港――潮待ちの港の千年

観光鯛網の背景を理解するには、まず舞台となる鞆の浦そのものの歴史を知る必要があります。鞆の浦は、瀬戸内海のほぼ中央に位置する天然の良港です。瀬戸内海では、東の紀伊水道から入る潮と、西の豊後水道・関門海峡から入る潮とが、ちょうど鞆の沖あたりでぶつかり合います。満ち潮になると両側から潮が押し寄せ、引き潮になると両側へ引いていく――この潮の流れが変わる地点が鞆の浦でした。

帆と櫓(ろ)を頼りに進んだ時代の船は、潮の流れに大きく左右されました。瀬戸内海を横断する船は、鞆まで来ると一度ここで停泊し、潮の流れが順方向に変わるのを待ってから再び出航しました。こうして鞆は「潮待ちの港」と呼ばれ、人と物が行き交う寄港地として古くから栄えてきたのです。その歴史は古く、奈良時代の『万葉集』にも鞆の浦を詠んだ歌が残されており、千年を超える港町の歴史を物語っています。

港町として栄えた鞆の浦には、潮の干満に対応するための港湾施設が築かれました。船を係留する「常夜燈(じょうやとう)」、潮位に合わせて荷の上げ下ろしができる階段状の「雁木」、防波堤としての「波止場」、船底の修理を行う「焚場(たでば)」、そして「船番所」――これら江戸時代の港湾施設が一通りそろって現存しているのは、全国でも鞆港だけといわれています。鞆港のシンボルである常夜燈は、海中の基礎から含めた高さが10メートルを超える堂々たるもので、今も港のランドマークとして親しまれています。

こうした港町・鞆の浦の繁栄を背景に育まれたのが、鯛網をはじめとする漁の文化です。豊かな瀬戸内海の幸と、人や情報が集まる港町ならではの活気が、勇壮な集団漁を支えてきました。鞆の浦の街並みについては、別記事「鞆の浦の街並みガイド」でも詳しく紹介していますので、あわせてご覧ください。

福山藩と鞆奉行所――鯛網を育んだ江戸時代

鞆の浦の町並み(保命酒屋の通り)
鞆の浦の町並み(保命酒屋の通り)(画像:Wikimedia Commons / CC)

鞆の浦の歴史を語るうえで欠かせないのが、福山藩の存在です。江戸時代初め、徳川家康の従弟にあたる水野勝成(みずの かつなり)が備後福山藩の初代藩主として入封し、現在の福山市中心部に福山城を築きました。鞆の浦はこの福山藩の領内にあり、藩にとって重要な港町として位置づけられました。

鞆の城跡(鞆城跡)には、藩の出先機関である「鞆奉行所(ともぶぎょうしょ)」が設けられました。鞆奉行所は、港の管理や海運、町の統治などを担い、鞆の浦が福山藩の海の玄関口として機能するうえで中心的な役割を果たしました。瀬戸内海の交通の要衝である鞆の浦を藩がしっかりと押さえていたことは、この港町がいかに重要視されていたかを示しています。福山藩を開いた水野勝成については「水野勝成」の記事で詳しく取り上げています。

江戸時代の鞆の浦は、国内の海運でも大きな役割を担いました。江戸時代に西廻り航路が整備されると、北前船(きたまえぶね)などの商船が瀬戸内海を頻繁に行き交うようになり、鞆の浦はその寄港地としてにぎわいました。さらに、江戸幕府の慶賀などのために朝鮮通信使が来日した際には、鞆の浦にもたびたび寄港しています。鞆の福禅寺・対潮楼(たいちょうろう)から望む海の景色は、朝鮮通信使の一行に「日東第一形勝(にっとうだいいちけいしょう/日本一の景勝地)」と讃えられたと伝わります。

このように、福山藩の重要港・商都として栄えた鞆の浦では、海運だけでなく漁業も盛んに営まれていました。鯛しばり網漁法が考案され、発展していったのも、まさにこの江戸時代の鞆の浦においてでした。藩の保護と港町の活気を背景に、鯛網は鞆を代表する漁として根づいていきます。福山城の歴史については「福山城ガイド」もあわせてご覧ください。

鯛しばり網漁法の起源――村上太郎兵衛と当納屋忠兵衛

鞆の浦の鯛網のルーツとされる「鯛しばり網漁法」は、江戸時代初頭、寛永(かんえい)年間(1630年ごろ)に考案されたと伝えられています。この漁法を考案したとされるのが、村上水軍(村上海賊)ゆかりの網元・村上太郎兵衛義光(むらかみ たろべえ よしみつ)です。村上水軍は、戦国時代に瀬戸内海で活躍した海の武士団として知られ、その海の技術や知恵が、平和な江戸時代になって漁の世界に生かされたとも考えられます。

鯛しばり網漁法の考案にあたっては、鞆の地元の人物である「当納屋忠兵衛(とうなや ちゅうべえ)」が協力した、あるいは村上太郎兵衛と一緒に考えたとも伝えられています。両者の協力によって、瀬戸内海の真鯛をねらった独特の集団漁が生み出されたとされます。一説には、福山城主の命を受けて、寛永9年(1632年)に村上太郎兵衛と当納屋忠兵衛が共同で考案したとも伝わります。年代や経緯には諸説あり、史料によって記述に幅がある点には留意が必要です。

また、漁法そのものの源流については、別の説もあります。紀州(現在の和歌山県)の塩津浦を起源とし、室町時代後期(1500年ごろ)のイワシしばり網漁法が瀬戸内海へと伝わり、鞆で鯛漁向けに改良されたとする見方です。いずれにしても、しばり網という漁の技術が瀬戸内海各地で発展し、鞆の浦では真鯛をねらう形に磨き上げられていったと考えられています。

「鯛網は約380年の伝統」とされるのは、この寛永年間(1630年ごろ)の考案から数えての年月です。福山藩が成立して間もない時期に生まれ、江戸時代を通じて鞆の主要な漁として受け継がれてきたことになります。約380年という年月は、福山という土地の歴史とほぼ重なるものであり、鯛網が地域の歴史とともに歩んできた伝統であることを物語っています。

江戸時代の記録――菅茶山が書き留めた鯛網

鞆の浦の渡船「平成いろは丸」(いろは丸を模した船)
鞆の浦の渡船「平成いろは丸」(いろは丸を模した船)(画像:Wikimedia Commons / CC)

鯛しばり網漁法が江戸時代に実際に行われていたことを示す記録も残っています。文政2年(1819年)、備後福山藩出身の儒学者・菅茶山(かん ちゃざん)は、地域の風俗を記した記録の中で、鯛網について書き留めています。茶山は備後神辺(かんなべ/現在の福山市神辺町)の出身で、廉塾(れんじゅく)を開いた江戸時代後期を代表する漢詩人・教育者として知られる人物です。

菅茶山が記した『備後福山領風俗記』には、「3月 鯛網のこと」として鯛網に関する記述があるとされ、19世紀初頭の鞆ですでに鯛網が行われていたことがうかがえます。地元の学者がその風俗をわざわざ書き留めるほど、鯛網は鞆を代表する季節の風物詩として定着していたのでしょう。こうした文献記録は、鯛網が単なる言い伝えではなく、実際に営まれていた漁であることを裏づける貴重な手がかりです。

江戸時代の鞆では、鯛網のほかにもさまざまな漁が営まれ、瀬戸内海の豊かな海の幸が人々の暮らしを支えていました。なかでも産卵期の真鯛をねらう鯛網は、大量の人手と複数の船を要する大がかりな漁であり、漁師たちの結束と高度な連携が求められました。1つの船団あたり60人ほどの人手を要したとも伝えられ、まさに港町・鞆の浦の総力を挙げた一大事業だったといえます。

鯛しばり網漁法の仕組み――船団と大網の連携

鯛しばり網漁法は、複数の船が役割を分担し、一糸乱れぬ連携で行う集団漁です。その仕組みを少し詳しく見てみましょう。漁には、網を引く「親船(網船)」をはじめ、錨(いかり)を打つ「錨船」、獲れた魚を運ぶ「生船(いけぶね)」、全体を統率する指揮船、そして魚を追い込む役を担う船など、多くの船が参加します。1つの船団を構成する船の数は多く、それぞれが定められた役割を果たすことで、初めて大網を操ることができます。

使われる網は、長さ約1,500メートル、幅(深さ)約100メートルにも及ぶ巨大なものです。この大網は1種類ではなく、目の粗さの異なる複数の網――たとえば外側の「大引網(おおびきあみ)」、中ほどの「手網(てあみ)」、そして魚を最終的に追い込む「袋網(ふくろあみ)」――を組み合わせて構成されています。魚を広い範囲から徐々に狭い網へと追い込んでいく、緻密な設計がなされているのです。

漁の流れはおおむね次の通りです。まず船団が沖合に出て、真鯛の群れがいる海域に大網を大きく張り巡らせます。次に、船と船とが互いの距離を縮めながら、両側から網を「しばり上げて」いきます。これによって網の囲む範囲が次第に狭まり、鯛が逃げ場を失って袋網へと追い込まれていきます。最後に、追い込まれた鯛を一気に引き上げて漁を終えます。この一連の動作を、漁師たちは掛け声に合わせて呼吸を合わせ、見事な連携で行います。

1つの船団に60人ほどもの人手を要したとされるのは、この大網を操るために多くの漕ぎ手と網手が必要だったからです。動力船のなかった時代、これだけの大網を人力で操るには、漁師一人ひとりの熟練と、船団全体の統率が欠かせませんでした。鯛しばり網漁法は、鞆の浦の漁師たちの技術と団結の結晶ともいえる漁法なのです。

観光鯛網の誕生――1923年(大正12年)の挑戦

江戸時代から続いてきた鯛しばり網漁法が、「観光」という新しい形をまとうのは大正時代のことです。観光用の鯛網が始まったのは1923年(大正12年)からとされています。この年の5月、第1回の観光鯛網が主催・挙行され、大盛況を収めたと伝えられています。福山観光コンベンション協会の紹介によれば、第1回は大正12年5月6日に挙行されたとされます。

観光鯛網の実現に尽力したのが、当時の鞆町長と地元出身の実業家でした。鞆町の第2代町長・横山運次(よこやま うんじ)が観光開発に乗り出し、鯛網を観光資源として打ち出します。これを後押ししたのが、鞆出身の実業家・森下博(もりした ひろし)です。森下博は、関西を中心に名を知られた実業家で、彼の働きかけによって、鞆の鯛網は広く誘客の対象として注目されるようになりました。郷土の発展を願う人々の連携が、観光鯛網という新しい伝統を生み出したのです。

当初の観光鯛網は、5月の毎日曜日に午前中1回だけ行われていたと伝えられます。その後、1924年(大正13年)からは日曜日に午前・午後の2回開催されるようになるなど、回を重ねるごとに規模を広げていきました。生産のための漁を、観光客に見てもらう「見せる漁」へと昇華させたこの試みは、当時としては先進的な観光開発であり、地域資源を生かしたまちおこしの先駆けともいえるものでした。

観光鯛網の誕生は、鞆の浦が港町としての役割を変えつつあった時代背景とも無関係ではありません。鉄道や近代的な海運の発達により、潮待ちの港としての鞆の役割は次第に薄れていきました。そうしたなかで、長く受け継がれてきた鯛網を観光の核に据えたことは、新しい時代における鞆の浦の魅力づくりという意味でも大きな意義を持っていたといえるでしょう。

昭和天皇の台覧――全国に知られた鞆の鯛網

観光鯛網が始まってまもなく、鞆の鯛網の名を全国に知らしめる出来事がありました。1926年(大正15年)5月24日、摂政宮(せっしょうのみや)、すなわち後の昭和天皇による台覧興行が行われたのです。当時、皇太子であった昭和天皇は摂政としての立場にあり、鞆を訪れて鯛網をご覧になりました。皇室の方が見学された漁として、鞆の鯛網は一躍、全国にその存在を知られることになりました。

この台覧は、観光鯛網にとって大きな転機となりました。地方の一漁村の行事が、皇室ゆかりの催しとして権威づけられ、「日本の鯛網」としての地位を確立する契機になったとされます。新聞などを通じて全国に報じられたことで、鞆の浦には多くの見学客が訪れるようになり、観光鯛網は鞆を代表する初夏の風物詩として広く認知されていきました。

大正末から昭和初期にかけて、観光鯛網は最盛期を迎えました。色とりどりの大漁旗をなびかせた船団が仙酔島の沖で網を張り、勇壮な掛け声が海に響く――その光景は多くの人々を魅了しました。鞆の浦という美しい港町の景観と相まって、鯛網は瀬戸内を代表する観光行事の1つとして、確固たる地位を築いていったのです。

戦争による中断と昭和24年の復活

順調に発展していた観光鯛網も、時代の荒波と無縁ではいられませんでした。太平洋戦争(第二次世界大戦)の影響により、観光鯛網は一時中断を余儀なくされます。戦時下では、観光どころではなく、人手も物資も戦争に振り向けられました。長く続いてきた鯛網の伝統も、戦争という非常時のなかで一時的に途絶えることになったのです。

しかし、戦後になると鯛網は再び息を吹き返します。昭和24年(1949年)、観光鯛網が復活しました。戦争で中断していた伝統行事を、地元の人々の手で再び立ち上げたのです。荒廃から立ち直りつつあった日本社会のなかで、郷土の誇りである鯛網を復活させたことは、地域の人々にとって大きな意味を持つ出来事でした。以来、観光鯛網は毎年の初夏の恒例行事として、現在まで連綿と続けられています。

戦後の復活以降、漁業を取り巻く環境は大きく変化しました。動力船の普及や漁業形態の変化により、鯛しばり網漁法そのものは実漁としては行われなくなっていきます。それでも、伝統漁法を後世に伝えるという観光鯛網の意義は失われませんでした。むしろ「実際の漁としては姿を消した漁法を、今に伝える貴重な行事」として、その文化的価値が一層重みを増していったといえます。

戦後の混乱を乗り越え、地域の手で守り継がれてきた観光鯛網は、単なる観光イベントを超えて、鞆の浦の人々のアイデンティティを象徴する行事となりました。世代から世代へと受け継がれてきた所作や掛け声には、この海とともに生きてきた港町の記憶が込められています。

無形民俗文化財への指定――2015年の評価

長い歴史を重ねてきた鞆の鯛網は、その文化的価値が公式に認められることになります。平成27年(2015年)、「鞆の浦鯛しばり網漁法」が福山市の無形民俗文化財に指定されました。これは、この漁法が地域の歴史と暮らしに根ざした貴重な民俗文化であると、行政的にも評価されたことを意味します。

無形民俗文化財は、地域に伝わる風俗習慣や民俗芸能、生活の技術などのうち、人々の生活の推移を理解するうえで欠かせないものを保護・継承するための制度です。鞆の浦鯛しばり網漁法が指定を受けたことは、約380年にわたって受け継がれてきた漁法と、それを伝える観光鯛網という行事が、福山市にとってかけがえのない文化遺産であると公に位置づけられたことを示しています。

文化財指定は、伝統の継承に取り組む地元の人々にとって大きな励みとなりました。実漁としては姿を消した漁法を、後世にどう伝えていくか――その課題に向き合いながら、毎年の観光鯛網を続けてきた努力が、こうした形で報われたといえます。指定を機に、漁法の記録保存や担い手の育成にも、より一層の関心が寄せられるようになっています。

現在に受け継がれるもの――今の観光鯛網

現在の観光鯛網は、毎年4月下旬から5月にかけて、ゴールデンウィークを中心とした期間に開催されています。福山観光コンベンション協会の案内によれば、近年は4月26日、29日、5月2日から6日までの計7日間といった日程で、午前11時から行われています。会場は仙酔島の田の浦海岸沖。鞆港から市営渡船で仙酔島に渡り、そこから観覧船に乗って見学するのが一般的な流れです。

見学にあたっては、観覧券を購入し、渡船と観覧船を乗り継いで沖合の漁を間近で見ることになります。観覧船からは、烏帽子に法被姿の漁師たちが掛け声とともに網を手繰り、大漁旗がはためくなか、網のなかで跳ねる真鯛の姿を見ることができます。海の上で繰り広げられる勇壮な絵巻は、写真や映像では味わえない迫力があり、初夏の鞆ならではの体験として人気を集めています。

観光鯛網で水揚げされた真鯛は、めでたい縁起物として参加者に振る舞われたり、販売されたりすることもあります。春の真鯛は身がしまり、味も良いことで知られ、鯛網の見学とあわせて、瀬戸内の鯛料理を味わうのも鞆ならではの楽しみです。鞆の浦の宿や料理店では、鯛飯や鯛の浜焼きなど、鯛を使った郷土料理を提供している店もあります。

観光鯛網は、単に漁を「見る」だけの行事ではありません。約380年にわたって受け継がれてきた漁の技術と、港町・鞆の浦の歴史、そして瀬戸内海の豊かな自然――それらが一体となって体感できる、生きた文化遺産です。実漁としては姿を消した漁法を、地域の人々が手間を惜しまず再現し続けていることにこそ、この行事の大きな価値があります。

仙酔島と田の浦――鯛網の舞台

観光鯛網の舞台となる仙酔島は、鞆港の目の前に浮かぶ島です。「仙人も酔うほど美しい島」という意味の名を持つこの島は、瀬戸内海国立公園に含まれる景勝地で、変化に富んだ海岸線や緑豊かな自然が広がっています。鞆港からはわずか数分の市営渡船で渡ることができ、鯛網の見学拠点となるほか、海水浴やハイキングなど、季節を通じてさまざまな楽しみ方ができる島として親しまれています。

鯛網が張られる田の浦海岸は、この仙酔島にある入り江です。穏やかな海面と美しい島影を背景に、色とりどりの船団が網を操る光景は、まさに一幅の絵のよう。背後に広がる瀬戸内の多島美も相まって、観光鯛網の見どころをいっそう引き立てています。観覧船から眺める鯛網は、漁そのものの迫力に加えて、瀬戸内海の風光明媚な景観も同時に楽しめる、贅沢な体験です。

仙酔島と鞆港を結ぶ市営渡船は、それ自体が鞆の浦観光の楽しみの1つです。短い船旅のあいだに、常夜燈や雁木といった港の景観を海上から眺めることができ、潮待ちの港・鞆の浦の雰囲気を存分に味わえます。鯛網の見学に訪れた際には、ぜひ仙酔島の自然散策や、鞆の町並み歩きとあわせて、ゆっくりと時間をかけて鞆の浦を巡ってみてください。

鞆の浦の見どころと周辺スポット

観光鯛網を見学するなら、あわせて鞆の浦の町並みや史跡もぜひ巡りたいところです。鞆港のシンボル・常夜燈をはじめ、朝鮮通信使が「日本一の景勝」と讃えたと伝わる福禅寺・対潮楼、坂本龍馬ゆかりの「いろは丸」事件の舞台としても知られる町並みなど、見どころは尽きません。狭い路地に古い町家が軒を連ねる鞆の町は、歩くだけで江戸から明治の港町情緒を感じられます。鞆の浦の街並みの詳細は「鞆の浦の街並みガイド」をご覧ください。

鞆の浦から少し足を延ばせば、福山市内には他にも見どころが豊富にあります。福山城は、水野勝成が築いた近世城郭で、福山駅のすぐ近くという好立地。天守からは市街地を一望できます。福山城の歴史については「福山城ガイド」で詳しく紹介しています。また、福山が育んできた伝統産業として、藍染めの絣(かすり)である「備後絣」や、松永地区の地場産業として栄えた「松永の下駄」なども、福山のものづくりの歴史を知るうえで興味深いテーマです。

近代以降の福山は、鉄鋼業のまちとしても発展しました。臨海部に広がる製鉄所を擁する「鉄のまち福山」の歩みは、古い港町・鞆の浦とはまた違った福山の一面を見せてくれます。古代からの港町文化と近代産業――その両方を併せ持つのが福山という都市の奥行きです。福山の歴史全体を俯瞰したい方は、まず「福山の歴史 完全ガイド」を読むと、各テーマのつながりがよく見えてくるはずです。

鯛網を支えた漁師の所作と道具

烏帽子と法被――いでたちに込められた意味

観光鯛網で網を操る漁師たちは、烏帽子(えぼし)に法被(はっぴ)といういでたちで船に乗り込みます。烏帽子は古くから祭礼や晴れの場で用いられてきた被り物であり、鯛網に臨む漁師たちが烏帽子をまとうことには、めでたい真鯛をねらう漁を「ハレの行事」として大切にしてきた心持ちがうかがえます。色鮮やかな法被とともに、海の上で繰り広げられる漁の様子に祝祭的な華やかさを添えています。こうした装いは、観光鯛網が単なる漁の再現にとどまらず、地域の祭礼的な性格を帯びた行事であることを示しているといえるでしょう。

掛け声がつなぐ船団の呼吸

大網を人力で操る集団漁では、船と船、漁師と漁師の呼吸を合わせることが何より大切でした。そこで欠かせなかったのが、威勢のよい掛け声です。「エットー、エットー、ヨーイヤサンジャー」といった独特の掛け声に合わせて、漁師たちは一斉に網を手繰り、力を合わせて鯛を追い込んでいきます。掛け声は、単に作業の調子を合わせるだけでなく、漁師たちの士気を高め、海の上で一体感を生み出す役割も果たしていました。観覧船から響いてくるこの掛け声は、観光鯛網の臨場感を高める大きな要素となっています。

大漁旗が告げる初夏の海

鯛網の船団を彩るもう1つの象徴が、色とりどりの大漁旗です。大漁旗は、豊漁を願い、また祝うために船に掲げられる旗で、鮮やかな色彩とおめでたい図柄が特徴です。初夏の潮風にはためく大漁旗は、青い海と緑の島影を背景にいっそう映え、観光鯛網の華やかさを引き立てます。漁の道具としての網や船とともに、こうした旗や装束が一体となって、鞆の鯛網ならではの祝祭的な光景をつくり出しているのです。海の上で繰り広げられる色彩豊かな絵巻は、訪れる人々の記憶に深く刻まれます。

鞆の鯛網にまつわる年表

ここで、鞆の鯛網と鞆の浦の歴史を、年表の形で整理してみましょう。年代や経緯には諸説ある事項を含みますので、おおよその流れをつかむための目安としてご覧ください。

この年表からも分かるように、鞆の鯛網はおよそ380年という長い歳月を、福山という土地の歴史とともに歩んできました。江戸時代の漁から、大正時代の観光行事へ、そして戦後の復活を経て、現在では文化財として大切に守られています。1つの漁法が時代とともに姿を変えながらも、その核心を失わずに受け継がれてきた歩みは、地域文化の生きた継承の好例といえるでしょう。

観光鯛網の楽しみ方と見学のポイント

観光鯛網をより楽しむためには、いくつか押さえておきたいポイントがあります。まず開催時期ですが、例年4月下旬から5月のゴールデンウィーク前後に集中して行われます。開催日程は年によって変わるため、訪問前には福山観光コンベンション協会など公式の案内で、最新の日程・時間・料金を必ず確認してください。当日の天候や海の状況によって、内容が変更・中止となる場合もあります。

当日は、鞆港から市営渡船で仙酔島へ渡り、観覧船に乗り換えて見学するのが基本の流れです。海の上での見学になりますので、日差し対策や、海風に備えた羽織りものがあると安心です。船上は揺れることもあるため、船酔いが心配な方は事前に対策をしておくとよいでしょう。鯛網は午前中に行われることが多いので、時間に余裕を持って鞆の浦に到着しておくのがおすすめです。

見学のあとは、鞆の浦の町歩きや、鯛料理を味わう時間もぜひ確保してください。鞆では、めでたい魚として珍重されてきた鯛にちなんだ料理を提供する店があり、鯛飯や鯛そうめんなど、瀬戸内の海の幸を堪能できます。また、鞆の浦は「保命酒(ほうめいしゅ)」という薬味酒の産地としても知られ、古い造り酒屋の建物が町並みに趣を添えています。鯛網見学を起点に、鞆の浦の食や歴史をまるごと楽しむのが、おすすめの過ごし方です。

初夏の鞆の浦は、気候もよく、海も穏やかで、散策には絶好の季節です。観光鯛網という非日常の海上絵巻を体感したあとに、潮待ちの港町をゆっくりと歩けば、約380年の伝統が今も生きていることを肌で感じられるはずです。福山を訪れるなら、ぜひこの時期を狙って、鞆の浦の鯛網を見学してみてください。

よくある質問(FAQ)

Q観光鯛網はいつ開催されますか?
A

例年4月下旬から5月にかけて、ゴールデンウィークを中心とした期間に開催されます。近年は4月26日・29日、5月2日から6日までの計7日間といった日程で、午前11時ごろから行われることが多いです。日程は年により変わりますので、福山観光コンベンション協会など公式の案内で最新情報をご確認ください。

Q「約380年の伝統」とは何を基準にした年数ですか?
A

鯛しばり網漁法が考案されたとされる江戸時代初頭、寛永年間(1630年ごろ)から数えての年数です。福山藩が成立して間もない時期に生まれ、江戸時代を通じて受け継がれてきた漁法であることを示しています。なお、考案の年代や経緯には諸説あります。

Q鯛しばり網漁法は誰が考案したのですか?
A

村上水軍ゆかりの網元・村上太郎兵衛義光が考案したと伝えられ、鞆の当納屋忠兵衛が協力した、あるいは一緒に考えたともいわれています。福山城主の命で寛永9年(1632年)に両者が共同で考案したとする説もあります。記録によって記述に幅があり、諸説ある点にご留意ください。

Qどんな魚を獲る漁ですか?
A

主に真鯛(まだい)を獲る漁です。真鯛は春先になると産卵のため瀬戸内海中央部にやってきます。この時期の鯛は「桜鯛」とも呼ばれ、体色が美しく、めでたい魚として古くから珍重されてきました。

Qどこで見学できますか?
A

仙酔島の田の浦海岸沖が会場です。鞆港から市営渡船で仙酔島へ渡り、そこから観覧船に乗って沖合の漁を見学します。観覧券の購入が必要です。

Q観光鯛網はいつ始まったのですか?
A

観光用の鯛網は1923年(大正12年)に始まりました。第1回は同年5月に挙行され、大盛況だったと伝えられています。鞆町第2代町長・横山運次が観光開発に乗り出し、実業家・森下博が後押ししました。

Q昭和天皇がご覧になったというのは本当ですか?
A

本当です。1926年(大正15年)5月24日、当時摂政宮であった後の昭和天皇が鞆を訪れ、鯛網を台覧(ご覧に)されました。これを機に、鞆の鯛網は全国にその名を知られるようになったとされます。

Q戦争で中断したと聞きましたが、いつ復活したのですか?
A

太平洋戦争(第二次世界大戦)の影響で観光鯛網は一時中断しましたが、昭和24年(1949年)に復活しました。以後、毎年の初夏の恒例行事として現在まで続けられています。

Q鯛網は文化財に指定されているのですか?
A

はい。平成27年(2015年)に「鞆の浦鯛しばり網漁法」が福山市の無形民俗文化財に指定されました。地域の歴史と暮らしに根ざした貴重な民俗文化として、その価値が公に認められています。

Q今も実際の漁として行われているのですか?
A

現在、この鯛しばり網漁法は生産のための漁としては行われていません。毎年5月を中心に、伝統漁法を後世に伝える観光行事として、往時の漁法を再現する形で続けられています。

Qどれくらいの規模の漁なのですか?
A

長さ約1,500メートル、幅(深さ)約100メートルにも及ぶ大網を、複数の船が連携して操る大規模な集団漁です。かつては1つの船団に60人ほどの人手を要したとも伝えられています。

Q鯛網のほかに鞆の浦で楽しめることはありますか?
A

はい。常夜燈や雁木などの江戸時代の港湾施設、福禅寺・対潮楼からの眺望、古い町家が連なる町並み散策など、見どころが豊富です。鯛飯などの鯛料理や、名産の保命酒を味わうのもおすすめです。仙酔島での自然散策とあわせて楽しめます。

Q鞆の浦はどんな港町だったのですか?
A

瀬戸内海のほぼ中央に位置し、東西から入る潮がぶつかる地点にあったため、潮の流れが変わるのを待つ「潮待ちの港」として古くから栄えました。江戸時代には福山藩の重要な港町として、北前船の寄港地や朝鮮通信使の寄港地ともなり、海運・商業の拠点として大いににぎわいました。

真鯛と瀬戸内――「めでたい魚」の文化

鞆の鯛網が真鯛をねらう漁であることは、この行事の文化的な意味を考えるうえでも重要です。真鯛は、その鮮やかな赤い体色と端正な姿から、古くから「めでたい(鯛)」の語呂にもかけて、祝いの席に欠かせない魚として尊ばれてきました。婚礼や祝賀の膳に尾頭付きの鯛が供される風習は全国に広く見られ、真鯛は日本人にとって特別な意味を持つ魚です。鞆の鯛網が、産卵期に瀬戸内海中央へやってくるこの真鯛をねらった漁であることは、漁そのものに祝祭的な性格を与える要因にもなっています。

瀬戸内海は、潮の流れが速く、餌となる小魚やプランクトンが豊富なことから、身のしまった良質な真鯛が育つ海として知られてきました。とりわけ春先、産卵を控えた真鯛は脂がのり、体色も鮮やかになります。この時期の鯛を「桜鯛」と呼んで珍重する文化は、瀬戸内沿岸の各地に見られます。鞆の鯛網が初夏に行われるのも、まさにこの真鯛の旬と生態に合わせたものであり、自然のリズムに寄り添って営まれてきた漁であることが分かります。

こうした真鯛をめぐる文化の背景があるからこそ、鞆の鯛網は単なる漁の見学を超えた、めでたさと豊かさを感じさせる行事として人々に親しまれてきました。網のなかで跳ねる真鯛を見ることは、瀬戸内海の自然の恵みと、それを巧みに利用してきた先人の知恵に触れることでもあります。約380年という歳月を経てなお続くこの行事には、海の幸への感謝と、豊漁を願う人々の素朴な祈りが、今も静かに息づいているといえるでしょう。

Q14. 鯛網が観光行事になったのはなぜですか?

鉄道や近代海運の発達により、潮待ちの港としての鞆の役割が薄れていくなかで、長く受け継がれてきた鯛網を観光資源として打ち出し、新しい時代の鞆の魅力づくりにつなげようとしたためです。大正時代に鞆町長や地元出身の実業家らが尽力し、地域資源を生かしたまちおこしの先駆けとして観光鯛網が生まれました。生産のための漁を「見せる漁」へと転換させた、当時としては先進的な試みでした。

Q15. 鞆の浦へはどうやって行けますか?

鞆の浦は広島県福山市の南部、沼隈半島の先端にあります。JR福山駅からバスでアクセスするのが一般的です。観光鯛網の見学には、鞆港から市営渡船で仙酔島へ渡る必要があります。具体的な交通手段や所要時間、渡船の時刻などは、訪問前に最新情報をご確認ください。

まとめ――海とともに生きた港町の誇り

鞆の浦の観光鯛網は、福山藩の時代に生まれ、約380年にわたって受け継がれてきたとされる初夏の伝統漁です。村上水軍ゆかりの網元・村上太郎兵衛らが考案したと伝わる鯛しばり網漁法は、瀬戸内海中央という鞆の地理と、産卵期にやってくる真鯛の生態が結びついて生まれた、土地に根ざした漁でした。江戸時代には菅茶山がその風俗を書き留め、港町・鞆の浦の暮らしを彩る季節の風物詩として定着していきました。

大正時代に入ると、横山運次や森下博らの尽力によって観光鯛網として生まれ変わり、1926年(大正15年)の摂政宮(後の昭和天皇)の台覧を機に全国に知られるようになりました。太平洋戦争による中断を経て昭和24年(1949年)に復活し、平成27年(2015年)には福山市の無形民俗文化財に指定されるなど、その文化的価値は時代を超えて評価され続けています。

実漁としては姿を消した漁法を、地域の人々が毎年手間を惜しまず再現し続けていること――そこにこそ、観光鯛網の最大の価値があります。勇壮な掛け声、大漁旗、跳ねる真鯛、そして仙酔島の美しい海景。それらが一体となった海上絵巻は、海とともに生きてきた港町・鞆の浦の誇りそのものです。福山を訪れる際には、ぜひこの初夏の伝統行事を体感し、約380年の歴史が今も息づく鞆の浦の魅力にふれてみてください。福山の歴史をより深く知りたい方は、「福山の歴史 完全ガイド」もあわせてご覧ください。

出典・注意

本記事は、福山観光コンベンション協会、福山市、広島県、鞆の浦歴史民俗資料館などの公開情報、新聞報道、百科事典等の信頼できる情報をもとに作成しています。鯛しばり網漁法の考案者・年代、観光鯛網の沿革などについては、史料や紹介媒体によって記述に幅がある場合があります。

※年代・経緯には諸説ある事項を含みます。詳細は各施設・公式情報や郷土資料でご確認ください。

最終更新: 2026年6月10日

史跡情報は福山NOTE 史跡図鑑(fn_history)より。