広島県福山市の中心部を歩くと、JR福山駅のすぐ北に堂々とした天守がそびえ、その足元から東へ向かって、アーケードのかかる商店街や細い路地が網の目のように広がっています。今でこそ百貨店や商業ビル、にぎやかな飲食店街が並ぶこの一帯ですが、もとをたどれば、ここは江戸時代のはじめに一から計画してつくられた「城下町」であり、武士の屋敷と並んで、商人や職人が暮らす「町(まち)」が整然と配置された場所でした。城下町には市(いち)が立ち、近隣の村々から人々が集まり、備後(びんご)の特産品が売り買いされ、港から海を渡って各地へと運ばれていきました。
この記事では、福山という「まち」の商業の歴史を、城下町ができる以前の中世の市場町から説き起こし、水野勝成(みずの・かつなり)による城下町の整備、商人町・職人町の成り立ち、藩の専売政策、港町・鞆(とも)の浦の交易、そして近代の鉄道開通と商店街の発展、戦災からの復興までを、時代を追ってたどっていきます。年代や経緯には諸説あるところも含まれますので、断定できる範囲と、伝承・諸説として伝わる範囲を区別しながら、できるだけ正確にお伝えします。福山の「市と商人」の歩みは、そのまま、この地域がどのように人とモノとお金を集めてきたかという物語でもあります。
ゆかりの史跡・図鑑
福山の市と商人の歴史をたどるうえで手がかりとなる史跡や町並み、博物館などを、福山NOTEの史跡図鑑から一覧でご紹介します。城下町の名残をとどめる町名や、中世の市場町の遺跡、港町の街並みなど、現地を訪ねるときの手がかりにご活用ください。下の図鑑では、一覧・比較・詳細の三つの形で関連する史跡情報をまとめています。
| 史跡 | 時代 | 概要 | 📍 エリア | 詳細 |
|---|---|---|---|---|
| 福山城 伏見櫓 | 江戸時代(元和年間) | 伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最… | 📍 福山駅前(福山市街) | 下へ ↓ |
| 福山城 | 近世(江戸) | 備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御… | 📍 丸之内 | 下へ ↓ |
| 福山城博物館 | 近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期) | 水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩… | 📍 福山駅前(福山市街) | 下へ ↓ |
| 草戸千軒町遺跡 | 中世 | 芦田川の中州にあった中世の港町・集落遺跡。発… | 📍 草戸町 | 下へ ↓ |
| 明王院 | 中世 | 本堂と五重塔がともに国宝。中世密教寺院で、五… | 📍 草戸町 | 下へ ↓ |
| 鞆の津の町並み(重伝建) | 江戸時代(中世〜近代の建造物群) | 潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 鞆の浦の常夜燈と港湾施設 | 江戸時代 | 江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 福山市鞆の浦歴史民俗資料館 | 近代(昭和) | 鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 鞆の浦 | 中世〜近世 | 瀬戸内の「潮待ちの港」。常夜燈・雁木・波止場… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 福禅寺 対潮楼 | 近世 | 朝鮮通信使の使節が「日東第一形勝」と讃えた客… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 太田家住宅 | 江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期) | 鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| いろは丸展示館 | 近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期) | 坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 仙酔島 | 古代(地質)/近代(指定) | 鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 廉塾(菅茶山旧宅) | 近世 | 儒学者・菅茶山が開いた私塾。当時の塾舎・住宅… | 📍 神辺町 | 下へ ↓ |
| 神辺城跡 | 中世 | 備後南部の中世山城。福山城が築かれる以前、備… | 📍 神辺町 | 下へ ↓ |
| 福山八幡宮 | 近世 | 福山城の北に鎮座し、東西二つの宮を備える。歴… | 📍 北吉津町 | 下へ ↓ |
| 沼名前神社 | 近世 | 鞆の「祇園さん」。夏の大松明を担ぐ「お手火神… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 阿伏兎観音(磐台寺観音堂) | 近世 | 断崖の上に建つ朱塗りの観音堂。国の重要文化財… | 📍 沼隈町 | 下へ ↓ |
| 吉備津神社(備後一宮) | 江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる | 備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で… | 📍 新市町 | 下へ ↓ |
| 素盞嗚神社(備後一宮) | 飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮 | 祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏の… | 📍 新市町 | 下へ ↓ |
福山城 伏見櫓
伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最古級の三層入母屋造の現存櫓。 福山城伏見櫓は、元和8年(1622年)の福山城築城に際し、城主水野勝成が将軍徳川秀忠から下賜を受け、京都の伏見城から移築させたと伝えられる櫓である。長らく伝承とされていたが、昭和29年(1954年)の解体修理の際、梁の陰刻に「松ノ丸ノ東やく(ら)」の文字が発見され、伏見城からの移築を裏付ける確かな遺構であることが明らかになった。構造は三層入母屋造で、初層と二層を同じ柱割とし、その上にやや小さい三層を望楼状に載せる。桁行八間・梁間三間、本瓦葺の規模をもつ。慶長期の城郭建築の様式を残す初期の典型として価値が高く、昭和8年(1933年)1月23日に国の重要文化財に指定された。福山城内に現存し、特別公開が行われることもある。
| 🕰 時代 | 江戸時代(元和年間) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 元和8年(1622年)水野勝成の福山城築城時に伏見城から移築。国指定重要文化財(昭和8年=1933年1月23日指定) |
| 📍 所在地 | 広島県福山市丸之内一丁目(福山城内) |
福山城
備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御門は京都伏見城からの移築と伝わる。2022年に築城400年を迎えた。
| 🕰 時代 | 近世(江戸) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 1622年(元和8)・水野勝成 |
| 👤 関連 | 水野勝成・阿部正弘 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市丸之内一丁目8 |
福山城博物館
水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩の歴史を体験型展示で伝える博物館 福山城博物館は、JR福山駅のすぐ北に建つ福山城天守内に置かれた市立の歴史資料館です。福山城は1622年(元和8年)、徳川譜代の大名・水野勝成が西国鎮衛の拠点として築いた近世城郭で、天守は1931年に国宝に指定されました。しかし1945年8月の福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリート造で外観が復興され、その内部が博物館として公開されました。2022年には築城400年に合わせて大規模リニューアルされ、北面の鉄板張り(黒い装い)の再現や、一番槍レース・火縄銃などの体験型コンテンツ、デジタル映像を用いた展示が整えられ、福山城と福山藩の歴史を学べる施設となっています。城内に現存する伏見櫓と筋鉄御門は、京都・伏見城からの移築と伝えられ、国の重要文化財に指定されています。常設展は有料、月曜休館とされます。
| 🕰 時代 | 近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 福山城は1622年(元和8年)に初代福山藩主・水野勝成が築城。天守は1945年福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリートで外観復興、内部を博物館として開館。2022年に大規模リニューアル |
| 📍 所在地 | 広島県福山市丸之内一丁目8番 |
草戸千軒町遺跡
芦田川の中州にあった中世の港町・集落遺跡。発掘成果は広島県立歴史博物館で町並みが原寸復元展示されている。
| 🕰 時代 | 中世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 鎌倉〜室町 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市草戸町 |
明王院
本堂と五重塔がともに国宝。中世密教寺院で、五重塔は全国でも有数の古塔。
| 🕰 時代 | 中世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 本堂1321年・五重塔1348年 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市草戸町1473 |
鞆の津の町並み(重伝建)
潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と町家が一体で残る重伝建地区 鞆の浦は瀬戸内海の中央に位置し、古来「潮待ちの港」として栄え、万葉集にも詠まれた歴史を持つとされる。江戸時代には北前船など廻船の寄港地として繁栄し、朝鮮通信使の寄港地ともなった。2017年(平成29年)11月28日、「福山市鞆町伝統的建造物群保存地区」として約8.6ヘクタールが国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。範囲は鞆字西町の全域を中心に、石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地の一部に及ぶ。中世から江戸期に整えられた地割の上に、江戸時代から昭和30年代までの町家や寺社、石垣などが一体的に残る近世港町の景観が評価された。常夜燈・雁木・波止・焚場・船番所の5つの港湾施設がほぼ完全に残る点は全国でも稀とされる。広島県内では3例目の選定で、2018年には日本遺産にも認定された。
| 🕰 時代 | 江戸時代(中世〜近代の建造物群) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 2017年(平成29年)11月28日に国の重要伝統的建造物群保存地区へ選定。地割は中世〜江戸期、建造物は江戸時代〜昭和30年代まで。 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町(鞆字西町全域ほか、字石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地字古城跡・草谷の各一部) |
鞆の浦の常夜燈と港湾施設
江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯一の近世港、鞆港。 鞆の浦の鞆港には、常夜燈・雁木・波止・焚場(たでば)・船番所という江戸時代の港湾施設5点がほぼ揃って現存し、これらが一体で残るのは全国でも鞆港のみとされる。シンボルの常夜燈は安政6年(1859)の刻銘をもつ石造灯台で、海中の基礎石から宝珠の頂までは約12.1mに及び、江戸期の石造常夜燈としては国内最大級とされる。雁木は潮の干満に応じて船を着けられる階段状の船着き場で、半円形の港内に連続して巡らされている。波止は花崗岩を積んだ全長約146mの防波堤で、江戸後期に築かれ明治期に修築された。鞆港を含む沿岸と沖の島々一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定され、鞆町西町を中心とする区域は2017年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。日本遺産「瀬戸の夕凪が包む 国内随一の近世港町」の構成要素でもある。
| 🕰 時代 | 江戸時代 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 常夜燈は安政6年(1859)造立とされる。雁木・波止・焚場・船番所は江戸後期築造、波止は明治期に修築。鞆港一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定。 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町鞆 |
福山市鞆の浦歴史民俗資料館
鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬戸内の歴史・民俗を伝える市立資料館 福山市鞆の浦歴史民俗資料館は、広島県福山市鞆町後地に建つ市立の博物館で、「潮待ちの館」の愛称で親しまれる。1977年(昭和52年)からの地元有志による調査・収集活動を背景に、福山市制70周年記念事業として1988年(昭和63年)に開館した。立地は、福島正則が築いたとされる鞆城跡(福山市指定史跡)の高台で、瀬戸内海を見渡せる。万葉の時代から潮待ち・風待ちの港として栄えた鞆の浦を中心に、古代から近世にいたる歴史資料を展示。鯛網漁のジオラマや錨を製造した鍛冶場、朝鮮通信使関連資料、保命酒に関する資料に加え、お手火神事・お弓神事といった地域の民俗文化財も常設展示する。鞆の歴史と暮らしを総合的に学べる拠点とされる。
| 🕰 時代 | 近代(昭和) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 1988年(昭和63年)開館。福山市制70周年記念事業として建設。建つ鞆城跡は福島正則が築いたとされる(福山市指定史跡) |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町後地536-1 |
鞆の浦
瀬戸内の「潮待ちの港」。常夜燈・雁木・波止場・焚場・船番所の港湾施設が一体で残る全国的にも貴重な町並み。
| 🕰 時代 | 中世〜近世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 古代〜 |
| 👤 関連 | 朝鮮通信使・足利義昭・坂本龍馬 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町 |
福禅寺 対潮楼
朝鮮通信使の使節が「日東第一形勝」と讃えた客殿からの眺め。仙酔島を望む座敷が名高い。
| 🕰 時代 | 近世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 客殿は元禄年間 |
| 👤 関連 | 朝鮮通信使 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町2 |
太田家住宅
鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で、国の重要文化財 鞆の浦を代表する歴史的建造物で、薬用酒「保命酒」の醸造で財を成した商家の旧宅。もとは大坂の漢方医を出自とする中村家の屋敷で、明暦元年(1655年)に鞆へ移り住み、まもなく十六味地黄保命酒の製造・販売を始めて大ヒットし、福山藩の御用名酒屋として販売独占権を得たとされる。明治期に廻船業を営んだ太田家が継承し、現在の名で呼ばれる。主屋を中心に保命酒蔵や各種土蔵など九棟が建ち並び、建築年代は18世紀中期から19世紀前期に及ぶ。瀬戸内の商家建築を伝える貴重な遺構として、1991年に国の重要文化財に指定された。幕末には三条実美ら尊王攘夷派の公卿が立ち寄ったと伝わり、別宅の朝宗亭とともに「鞆七卿落遺跡」として広島県の史跡(1940年指定)にもなっている。
| 🕰 時代 | 江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 主屋は18世紀中期、ほか北保命酒蔵が天明8年(1788年)、西蔵が寛政元年(1789年)、東保命酒蔵が寛政7年(1795年)など18世紀中期〜19世紀前期。国の重要文化財指定は1991年(平成3年)5月31日。 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町鞆842 |
いろは丸展示館
坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵を活かした資料館 鞆の浦のシンボル常夜灯(とうろどう)のすぐそばに建つ資料館。1867年(慶応3年)、坂本龍馬と海援隊が運航したいろは丸が紀州藩の明光丸と備後灘で衝突・沈没した「いろは丸事件」を伝える施設で、その談判が鞆の浦で行われた縁にちなむ。建物は江戸期に建てられた太い梁が印象的な土蔵で、地元では「大蔵」と呼ばれ、国の登録有形文化財とされる。館内には海底に沈むいろは丸を再現したジオラマ、引き揚げられた陶器や部品、調査風景の写真などを展示し、2階には龍馬が宿泊先で身を潜めたという「隠れ部屋」が再現され、龍馬の蝋人形も置かれている。1989年(平成元年)7月の開館。幕末史と鞆の港町文化を同時に味わえるスポットである。
| 🕰 時代 | 近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 1989年(平成元年)7月開館。建物は江戸期築の土蔵「大蔵(浜蔵)」で、国の登録有形文化財とされる。展示題材のいろは丸事件は1867年(慶応3年) |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町鞆843-1 |
仙酔島
鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連なる瀬戸内海国立公園の名勝 仙酔島は鞆の浦の沖合に浮かぶ周囲約6キロの島で、住所は福山市鞆町後地。鞆港から市営渡船で約5分の距離にあり、観光客の往来はあるが定住者のいない無人島とされる。1925年(大正14年)に国の名勝「鞆公園」の一部として指定され、1934年(昭和9年)には日本で最初に指定された国立公園・瀬戸内海国立公園に含まれた。島は約9000万年前の大規模な火山活動による溶結凝灰岩を主体とし、南側海岸には青・赤・黄・白・黒の岩が200メートル以上連なる「五色岩」が見られ、地質的に貴重とされる。「仙人が酔うほど美しい島」が名の由来と言われる。江戸後期の学者・頼山陽が当地の景観を「山紫水明」と評したとも伝わる。
| 🕰 時代 | 古代(地質)/近代(指定) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 1925年(大正14年)国名勝「鞆公園」に指定。1934年(昭和9年)日本初の国立公園・瀬戸内海国立公園に編入。島自体は約9000万年前の火山活動で形成されたとされる |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町後地 |
廉塾(菅茶山旧宅)
儒学者・菅茶山が開いた私塾。当時の塾舎・住宅が残り、国の特別史跡に指定されている。
| 🕰 時代 | 近世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 18世紀末 |
| 👤 関連 | 菅茶山 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市神辺町川北640 |
神辺城跡
備後南部の中世山城。福山城が築かれる以前、備後支配の拠点だった。
| 🕰 時代 | 中世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 南北朝期 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市神辺町 |
福山八幡宮
福山城の北に鎮座し、東西二つの宮を備える。歴代藩主の崇敬を集めた。
| 🕰 時代 | 近世 |
|---|---|
| 👤 関連 | 水野家 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市北吉津町1-2-16 |
沼名前神社
鞆の「祇園さん」。夏の大松明を担ぐ「お手火神事」で知られる古社。
| 🕰 時代 | 近世 |
|---|---|
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町後地 |
阿伏兎観音(磐台寺観音堂)
断崖の上に建つ朱塗りの観音堂。国の重要文化財。古来、海上安全と子授け・安産の祈願で知られる。
| 🕰 時代 | 近世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 16世紀末 |
| 👤 関連 | 毛利輝元 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市沼隈町能登原 |
吉備津神社(備後一宮)
備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で「いっきゅうさん」と親しまれる古社 福山市新市町宮内に鎮座する備後国一宮で、地元では「一宮さん(いっきゅうさん)」と親しまれる。社伝では大同元年(806年)に吉備国の吉備津神社から勧請し創建されたと伝わるが、延喜式神名帳に記載がないことなどから実際の成立はより後とする説もある。主祭神は吉備国を治めたとされる大吉備津彦命。現在の本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が旧規模にならい造営したもので、桁行七間・梁間四間の入母屋造檜皮葺、国の重要文化財に指定されている。ほかにも木造狛犬や太刀などが重要文化財として伝えられ、複数の建造物が広島県・福山市指定文化財となっている。隣接する櫻山城跡なども史跡として知られ、備後の信仰と歴史を今に伝える。
| 🕰 時代 | 江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が造営、国の重要文化財。創建は大同元年(806年)と伝わるが諸説ある |
| 📍 所在地 | 広島県福山市新市町宮内400 |
素盞嗚神社(備後一宮)
祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏のけんか神輿で名高い古社 福山市新市町戸手に鎮座する素盞嗚神社は、『延喜式神名帳』に載る式内社で備後国一宮を称し、旧社格は県社です。主祭神は素盞嗚尊で、稲田姫命・八王子を配祀します。社伝では天武天皇の治世、7世紀ごろ(679年か)の創建とされます。『釈日本紀』所収の「備後国風土記」逸文に伝わる蘇民将来説話の舞台「疫隈国社」と結びつけられ、茅の輪くぐりや祇園信仰・祇園祭発祥の地の一つとされています。神仏習合期には牛頭天王を祀り、遣唐使・吉備真備が734年に当社から播磨の広峯神社へ勧請したとも伝わります。毎年7月の例祭では、勇壮なけんか神輿(神輿合わせ)が行われることで知られます。
| 🕰 時代 | 飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 社伝では天武天皇期の7世紀ごろ(679年か)創建とされる。『延喜式神名帳』記載の式内社で、旧県社 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市新市町大字戸手1-1 |
福山の商業のはじまり――城下町以前の市場町

福山の商業の歴史を語るとき、まず触れておきたいのは、城下町ができるよりもずっと前、中世にさかのぼる時代に、すでにこの地域が瀬戸内海の交易の舞台となっていたという事実です。福山市街地の西を流れる芦田川(あしだがわ)の河口近くには、かつて「草戸千軒(くさどせんげん)」と呼ばれる中世の港町・市場町がありました。
草戸千軒町遺跡は、長らく川底に埋もれていましたが、1961年(昭和36年)から本格的な発掘調査が始まり、その全容が少しずつ明らかになってきました。調査の結果、この町は13世紀半ば(鎌倉時代)からにぎわいはじめ、16世紀初頭(室町時代)にかけて衰えていったと考えられています。江戸時代なかごろに書かれた郷土史料『備陽六郡誌(びようろくぐんし)』には、1673年(延宝元年)の大水で町が流されたと記されていましたが、発掘調査によって、実際の繁栄期はそれよりずっと早い中世であったことがわかってきたのです。
草戸千軒からは、陶磁器や漆器、木製品、金属製品、銭貨など、数多くの生活用品や商品が大量に出土しました。これらの出土品から、この町に数多くの商工業者が暮らし、近隣の荘園(しょうえん)や領主の保護のもとで、他地域との物流交流の拠点として栄えていたと考えられています。出土品のなかには、遠く朝鮮半島や中国大陸との交易をうかがわせるものもあり、福山平野の一角がすでに中世の段階で、瀬戸内の交易ネットワークに組み込まれていたことを物語っています。
草戸千軒の暮らしは、現在、広島県立歴史博物館(ふくやま草戸千軒ミュージアム)の展示室で、町の一角を実物大で復原する形でよみがえっています。市(いち)が立ち、人々が商いをし、海を介して各地と結ばれていた――この中世の市場町の記憶は、のちに城下町福山に受け継がれていく商業のにぎわいの、いわば前史にあたるものといえるでしょう。
中世末から近世初頭にかけて、芦田川の流路の変化や洪水などによって、こうした河口の港町は次第にその機能を失っていきました。それに代わって新たな経済の中心として浮かび上がってくるのが、芦田川下流のデルタ地帯と、その海寄りに位置する神島(かしま)の一帯です。やがてこの低湿地と海辺の地に、まったく新しい計画都市――福山城下町――が築かれることになります。
水野勝成と城下町の誕生
福山という「まち」の名が歴史に登場するのは、江戸時代のはじめ、1619年(元和5年)のことです。この年、徳川家康のいとこにあたる武将・水野勝成が、備後10万石(後にさらに加増され、備中の一部も含む)の領主としてこの地に入りました。勝成は数多くの戦場を駆け抜けた歴戦の武将として知られ、西国の有力な外様大名に対する備えとして、幕府から重要な役割を期待されての入封でした。
勝成は入封後、芦田川河口のデルタ地帯にある「常興寺山(じょうこうじやま)」と呼ばれた小高い丘を選び、ここに新しい城を築きました。福山城の築城は、入封の3年後にあたる1622年(元和8年)ごろに完成したと伝えられます。城が築かれた丘の名にちなみ、あるいは縁起のよい字を当てて、このまちは「福山」と名づけられました。城下町福山は、もともと農地や湿地が広がっていた土地を新たに造成し、城の建設と並行して、一から計画的に建設された「新興の城下町」だったのです。
城下町の建設にあたって、勝成は大規模な土木工事を行いました。芦田川や周辺の河川・海岸部での新田開発(干拓)を積極的に進め、城下に必要な飲み水を確保するために上水道も整備したと伝えられます。福山の上水道は、日本でも有数の早い時期に整えられた都市の上水のひとつに数えられることがあります。城のまわりには堀がめぐらされ、外郭として「総構え(そうがまえ)」が築かれて、城下町全体が一つの防御単位として設計されました。
こうした城下町建設の事業は、勝成の代だけでは終わらず、その子・水野勝俊(かつとし)の代へと引き継がれていきました。城下の初期の整備が一段落するのは、おおむね正保(しょうほう)年間(1644〜1648年ごろ)のことで、このころにはまちの骨格がほぼできあがり、領内各地から多くの商人たちが城下へ移り住むようになっていったとされています。城の北側、現在の主要街道沿いに広がる新田の開発も、おおむねこの時期までに相次いで完成していったと伝えられます。
水野勝成という人物については、城下町を築いた人物として地域で広く知られています。その生涯や治政について、より詳しくは関連記事もあわせてご覧ください。城下町の商業を語るうえで、その都市計画の起点に勝成がいたことは、たびたび立ち返るべき重要な出発点です。
城下町の町割り――武士の町と商人の町

近世の城下町は、住む人の身分や職業によって居住区域を分ける「町割り(まちわり)」が行われるのが一般的でした。福山城下町も例外ではなく、城を中心として、武士が住む「侍屋敷(さむらいやしき)」の区域と、商人や職人が暮らす「町屋(まちや)」の区域とが、明確に分けて配置されていました。
記録によれば、城下町福山では、城の南側と西側に藩士の住む侍屋敷が大半を占め、商人や職人の暮らす町屋は、城の東側から南東側にかけて集中していたとされます。城を防衛上の中心に据え、武士の居住区で城の守りを固めつつ、その外縁に商業・手工業の区域を配するという考え方が、町割りの背景にあったと考えられています。
町屋の区域では、職業ごとに同業者がまとまって住むように編成されていました。これは、城下に必要な物資や役務を効率よく集めるための仕組みであり、同時に、藩が商人や職人を管理しやすくするための工夫でもありました。福山城下の町名のなかには、こうした職業別編成の名残をとどめるものが少なくありません。たとえば、鍛冶(かじ)職人が集められた「鍛冶屋町(かじやちょう)」、米を扱う商人が集まった「米屋町(こめやちょう)」、大工が住んだ「大工町(だいくちょう)」、医者が集められた「医者町(いしゃまち)」などが伝えられています。
城下の東側から南東側にかけては、笠岡町(かさおかちょう)、今町(いままち)、大黒町(だいこくちょう)、胡町(えびすちょう)、船町(ふなまち)といった商人町が並んでいました。これらの町名の多くは、今日でも福山市中心部の地名や商店街の名に受け継がれており、城下町時代の町割りの記憶を今に伝えています。城下の南側には、神島町(かしまちょう)、奈良屋町(ならやちょう)、新町(しんまち)、藺町(いまち)など、特産品の取り扱いや市と結びついた町が広がっていました。
城下町は、城の防御上の境界である「総構え」によってひとまとまりに囲まれていましたが、その内部の町屋は、商業の発展とともに時代を追って拡大していきました。当初の城下町は12の町(12町)から成っていたと伝えられますが、水野氏の治世の終わりごろまでには、30の町(30町)にまで増えていたとされています。短期間でこれだけ町が増えたことは、城下町福山がいかに急速に商業都市として成長していったかを物語っています。
なぜ商人が集まったのか――地子免除と城下町への誘致
新しく築かれた城下町福山に、これほど多くの商人や職人が集まってきたのには理由があります。その大きな要因のひとつとされるのが、藩による「地子(じし)免除」の政策です。地子とは、町屋の宅地に課される税のことで、福山城下の町屋区域では、この地子をはじめとする負担が免除されていたと伝えられています。
宅地への税が免除されるということは、商人や職人にとって、城下で商いや仕事をする際の負担が軽くなることを意味します。藩はこうした優遇措置を打ち出すことで、遠方の地域からも積極的に人々を呼び込もうとしました。結果として、領内各地はもちろん、より遠くの地域からも商人や職人が福山城下へと移り住み、町屋の区域は次第に拡大していったのです。先に触れた「12町から30町へ」という町数の増加は、まさにこうした商人誘致策の成果のひとつとみることができます。
城下町への商人の集積は、単に人口を増やしただけではありません。各地から多様な技能や商才を持った人々が集まることで、城下にはさまざまな業種の店や工房が立ち並ぶようになり、まちの経済に厚みが生まれていきました。米や塩、布、日用品といった生活に欠かせない物資から、特産の畳表(たたみおもて)のような商品まで、城下の市や店では多種多様なモノが売り買いされるようになっていったのです。
こうした城下町の建設と商人誘致によって、芦田川下流のデルタという、もともとは農地や湿地でしかなかった土地に、備後地域の政治・経済の中心が新たに立ち上がりました。中世に栄えた草戸千軒の市場町の機能が失われたあと、その役割を引き継ぐ形で、計画都市・福山が地域の商業の中心地として台頭していったのです。
神島の市と備後の畳表――城下町の名産品

福山城下の商業を語るうえで欠かせないのが、備後地方の名産品として知られた「畳表(たたみおもて)」です。畳表は、い草(藺草/いぐさ)を織り上げてつくる畳の表面材で、備後はその一大産地として古くから名を知られていました。「備後表(びんごおもて)」の名は、上質な畳表の代名詞として全国に通用したと伝えられます。
この備後の畳表を扱う商業の中心となったのが、城下の南方に位置する神島(かしま)の一帯でした。伝えられるところによれば、城の築城にあたって、畳表を扱う商人たちが、それまでの場所から城下へと移されました。その見返りとして、彼らには備後の名産・畳表の独占的な売買が許されたとされています。城下には畳表を取り扱う市が立ち、追手(おうて)の御門前のあたりにあったとされる「神島市」では、備後表が活発に売り買いされたと伝えられます。
城下の町名のひとつ「藺町(いまち)」は、い草を扱う市と結びついた町とされ、ここでもい草や畳表に関わる商いが行われていたと考えられています。い草の栽培から畳表の生産、そしてその売買にいたるまで、福山の経済は備後表という特産品と深く結びついていました。畳表は城下の市で売買されるだけでなく、海路を通じて各地へと出荷され、福山の名を全国に広める役割も果たしました。
畳表に代表される特産品の取り扱いは、藩にとっても重要な財源でした。後述するように、福山藩は畳表や綿、塩といった特産品から税(運上)を取り立て、藩の財政を支えようとしました。特産品をめぐる商いは、城下の商人にとっての生業(なりわい)であると同時に、藩の経済政策の核心でもあったのです。なお、備後地域の織物文化については、のちに発展する「備後絣(びんごがすり)」の歴史ともつながっていきます。い草・畳表と並んで、綿織物もまた、この地域の重要な産業として育っていきました。
城下町を支えた物流――舟入と城下の流通
城下町の商業が成り立つためには、モノを運び込み、運び出すための物流の仕組みが欠かせません。福山城下では、城下の東南端にあたる「舟入(ふないり)」が、物資の集散をになう重要な拠点となっていました。舟入は、城下と海とを結ぶ水運の結節点であり、船で運ばれてきた米や塩、各種の商品がここで荷揚げされ、城下の市や店へと流れていったと考えられています。
城下に近い海辺は遠浅で、干拓によって新田が次々と開かれていきました。新田の開発は耕地を増やすだけでなく、城下と海とを結ぶ水路や入り江の整備とも結びついており、城下町の経済を物流の面から下支えしていました。芦田川やその支流、城下にめぐらされた堀や水路は、物資を運ぶ動脈としての役割も果たしていたと考えられます。
城下のなかでも、当初もっとも栄えていたとされるのが「本町(ほんまち)」でした。本町は城下の商業の中心として活気にあふれていたと伝えられますが、城下の総門(そうもん)の位置が移されたことなどに伴い、次第にその繁栄に陰りが生じたともいわれています。城下町の盛衰は、城門や街道といったまちの構造の変化とも密接に結びついており、人の流れが変わればにぎわいの中心も移ろっていく――そうした都市の生き物のような性質を、本町の盛衰は示しています。
城下の市や店で売買された商品は、城下の人々の暮らしを支えるだけでなく、近隣の農村から人々を引き寄せる磁力にもなりました。村々で生産された米や野菜、い草や綿などが城下へ運ばれて売られ、村人たちは城下で日用品や道具を買い求めました。城下町と周辺農村との間に生まれたこうしたモノの循環こそが、福山という都市を地域経済の中心たらしめていた原動力だったといえるでしょう。
阿部氏の時代と藩の商業政策
福山藩は、城下町を築いた水野氏のあと、いくつかの変遷を経て、阿部(あべ)氏が長く治めることになりました。福山藩の財政は、時代が下るにつれて厳しさを増していき、歴代の藩主は、いかにして藩財政の窮乏から脱するかという課題に直面し続けました。こうしたなかで、藩の財政を支える柱として重視されたのが、城下や領内で生産・取引される特産品でした。
阿部氏の治世においては、畳表・綿・塩といった特産品から「運上銀(うんじょうぎん)」と呼ばれる税を取り立てて、藩の収入を増やそうとする政策がとられました。運上銀とは、商工業者などに課される営業税の一種で、特産品の売買や生産に対して課されるものです。備後の名産である畳表をはじめ、綿や塩といった商品が活発に取引されるなかで、藩はそこから税収を得ることで、苦しい財政の立て直しを図ろうとしたのです。
また、藩は「藩札(はんさつ)」と呼ばれる紙幣を発行することで、領内の経済を活性化させようとする試みも行いました。藩札は、藩の領内で通用する紙のお金で、正貨(金銀銭)の流通を補い、藩の経済政策の手段として用いられました。特産品からの運上銀の確保と、藩札の発行による経済活性化――これらは、苦しい財政のなかで藩が打ち出した経済政策の代表例といえます。
こうした藩の商業政策は、城下の商人たちの活動と表裏一体の関係にありました。藩は商人の商いから税を得る一方で、商人が活動しやすいように城下を整え、特産品の生産と流通を奨励しました。藩の財政事情と商人の経済活動とが互いに影響し合いながら、福山の城下町経済は近世を通じて回り続けたのです。なお、藩主としての阿部氏の治政や、福山藩の歩み全般については、福山城の歴史を扱った関連記事もあわせてご覧いただくと、より立体的に理解できます。
港町・鞆の浦の繁栄と海の商人
福山の商業を語るうえで、城下町と並んで欠かせないのが、福山市南部の港町・鞆(とも)の浦です。鞆の浦は、瀬戸内海のほぼ中央に位置し、東西から流れてくる潮の流れがちょうどぶつかり合う場所にあります。動力を持たない帆船にとって、潮の流れは風とともに重要な推進力でした。そのため、潮の流れが変わるのを待つ「潮待ち(しおまち)の港」として、鞆の浦は古くから多くの船でにぎわってきました。
江戸時代になると、鞆の浦は瀬戸内海航路の要衝として、いっそうの繁栄を見せます。日本海側と大坂・江戸方面とを結ぶ廻船(かいせん)が瀬戸内を行き交い、鞆の浦はその寄港地のひとつとして、北前船(きたまえぶね)などの大型廻船も立ち寄る港となりました。港には、積荷の売買を仲介したり、船主のために荷を集めたり運送を取り次いだりする「廻船問屋(かいせんどんや/船問屋)」が軒を連ね、海の商人たちが活発な商いを繰り広げました。
鞆の浦には、江戸時代の港湾に不可欠とされた施設が、今もほぼ完全な形で残されていることで知られています。夜間に船を導く「常夜灯(じょうやとう)」、船の積み下ろしに使う階段状の石積み「雁木(がんぎ)」、波をふせぐ「波止(はと)」、船底を焼いて手入れする「焚場(たでば)」、そして船を取り締まる「船番所(ふなばんしょ)」――これら五つの施設がそろって良好な状態で残っているのは、全国でも鞆の浦だけだといわれることがあります。これらの港湾施設は、近世の海の商業がいかに体系的に営まれていたかを今に伝える、貴重な歴史遺産です。
鞆の浦は、国内の交易だけでなく、対外的な交流の舞台ともなりました。江戸時代、朝鮮王朝から日本へ派遣された外交使節「朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)」も、瀬戸内を東上する道中でたびたび鞆の浦に寄港したと伝えられます。潮待ちの港という地の利を背景に、鞆の浦は人とモノと文化が行き交う、海の商業の拠点として栄えたのです。鞆の浦の街並みや港の景観については、別の関連記事でも詳しく取り上げていますので、あわせてご覧ください。
城下から在郷へ――備後の特産と地域の商い
福山の商業は、城下町や港町だけで完結していたわけではありません。城下町を中心としながらも、周辺の農村や在郷町(ざいごうまち)にまで、商いのネットワークが広がっていました。備後地域では、い草・畳表に加えて、綿の栽培や綿織物の生産が盛んになり、これらが地域の重要な産物として育っていきました。
とくに綿織物は、近世から近代にかけて、備後地域を代表する産業のひとつへと発展していきます。藍(あい)で染めた糸を用いて、あらかじめ模様を計算して織り上げる絣(かすり)の技術が広まり、「備後絣」として全国に知られるようになりました。城下の商人たちは、こうした在郷で生産された織物を買い集め、各地へと出荷する役割をになうこともありました。城下の市や問屋と、在郷の生産者とが結びつくことで、地域全体の経済が活性化していったのです。
また、福山周辺では、木工や日用品の生産も発達しました。たとえば、後の時代に松永(まつなが)地区を中心に発展する下駄(げた)の製造は、瀬戸内の塩づくりと結びつきながら、地域の特産業として成長していきました。塩田で使う燃料の関係から木材が集まり、その端材を活かして下駄づくりが盛んになったとも伝えられます。こうした在郷の手仕事と、城下や港の商業とが結びつくことで、福山地域は多様な産物を抱えた経済圏を形づくっていきました。
城下の市には、こうした地域各地の産物が集まり、また、外から運び込まれた商品も並びました。市は単なる売買の場であるだけでなく、人々が情報を交換し、つながりを結ぶ社交の場でもありました。城下の市のにぎわいは、地域経済の活力をそのまま映し出す鏡だったといえるでしょう。地域の特産品については、備後絣や松永の下駄を扱った関連記事もあわせてご覧いただくと、福山の「ものづくりと商い」の広がりがよりよく見えてきます。
明治維新と城下町の転換
長く備後地域の中心として栄えた福山城下町でしたが、明治維新を迎えると、まちは大きな転換期にさしかかります。1871年(明治4年)の廃藩置県によって、藩という枠組みそのものが消滅し、武士の身分制度も廃止されました。城下町の根幹を支えてきた「武士の町と商人の町」という構造が、根本から揺らぐことになったのです。
1873年(明治6年)には、明治政府の方針によって、福山城をはじめとする多くの城が廃城とされました。城の建物の多くは取り壊され、あるいは払い下げられて、城下町福山は「城を中心とする武家の都市」としての性格を失っていきます。城下に住んでいた武士たちは禄(給与)を失い、商いに転じる者や、まちを離れる者も少なくありませんでした。城下町の商人たちにとっても、それまで頼みとしてきた武士という大口の顧客層が大きく変化したことは、商売のあり方を見直さざるをえない事態でした。
しかし、福山のまちは、城下町としての役割を終えたあとも、商業都市としての歩みを止めませんでした。城下町時代から続く商人町や市のにぎわいは、近代の新しい経済のなかで姿を変えながら生き延びていきます。とくに、城下の東側に広がっていた商人町の一帯は、その後も福山の商業の中心地としての地位を保ち続けました。城下町時代の町割りが、近代の市街地の骨格としてそのまま受け継がれていったのです。
武士の都市から商工業の都市へ――明治維新は、福山にとって、まちの性格を大きく変える契機となりました。けれども、城下町時代に培われた商業の伝統や町並みの骨格は、決して失われたわけではなく、近代のまちづくりの土台として生き続けたのです。
鉄道の開通とまちのにぎわいの回復
近代の福山の商業に新たな活力をもたらしたのが、鉄道の開通でした。明治期、本州を東西に貫く幹線として建設が進められた山陽鉄道(後の山陽本線)が、1891年(明治24年)に福山にも通じました。鉄道の開通は、人とモノの移動を一変させ、城下町時代から続いてきたまちのにぎわいに、再び勢いを取り戻すきっかけとなったとされています。
鉄道の駅は、城下町の中心に近い場所に設けられ、駅と既存の商人町とが結びつくことで、福山の中心市街地は近代的な商業地として再編されていきました。各地から鉄道で運ばれてくる商品や、福山から出荷される特産品が、駅を介して効率よく流通するようになり、まちの商業は新しい段階へと入っていったのです。城下の東側に広がっていた商店の集積は、鉄道の開通によっていっそう活気づきました。
城下町時代から「とおり町」の名で親しまれてきた商人町の一帯は、近代に入ると、本通り(本通商店街)を中心とする商店街へと発展していきました。今町・笠岡町といった城下町以来の町を含むこの一帯は、福山の買い物の中心地として、多くの人々を集めるようになります。城下町時代の町割りの上に、近代の商店街が重なって発展していったのです。商店街の歴史は、城下町の市と商人のにぎわいが、形を変えて受け継がれていった証しといえます。
商店街の近代化を象徴するのが「アーケード」の登場です。福山の本通りでは、早い時期にアーケードがかけられたと伝えられ、最初のアーケードは1928年(昭和3年)に完成したとされています。雨や日差しを気にせず買い物ができるアーケード商店街は、近代の都市的なにぎわいを象徴する存在でした。城下町の市が、近代のアーケード商店街へと姿を変えていったところに、福山の商業の連続性が見てとれます。
戦災と復興――よみがえる商店街
近代に発展を遂げた福山の商業は、第二次世界大戦末期に大きな試練を迎えます。1945年(昭和20年)8月、終戦の直前に行われた福山大空襲によって、福山の中心市街地は壊滅的な被害を受けました。城下町時代から続いてきた商店街も、近代に整備されたアーケードも、空襲によって焼け野原となり、多くの店や家が失われました。福山城の天守をはじめとする歴史的建造物も、この空襲で焼失しています。
しかし、福山の人々は、焼け跡から立ち上がり、まちと商業の復興に取り組みました。戦後、中心市街地では商店街の再建が進められ、本通りでは1951年(昭和26年)にアーケードが再び完成したと伝えられます。続いて本通船町のアーケードも整備され、戦災で失われた商店街のにぎわいが、少しずつよみがえっていきました。城下町以来の商業の伝統は、戦災という未曾有の困難を乗り越えて、再び息を吹き返したのです。
戦後の復興期から高度経済成長期にかけて、福山の中心市街地には、百貨店や商業ビルが建ち並ぶようになり、商店街は多くの買い物客でにぎわいました。城下町時代の市や商人町に始まり、近代の商店街、そして戦後の商業集積へと、福山の商業はその姿を変えながらも、まちの中心であり続けてきたのです。福山城の天守も、戦後の1966年(昭和41年)に市民の願いによって再建され、まちのシンボルとして復活しました。
大黒町(だいこくちょう)のように、レトロモダンな町並みを活かしたまちづくりに取り組む商店街も生まれました。城下町以来の町名を冠したこれらの商店街は、近代から現代へと受け継がれてきた商業の歴史を、今に伝える生きた舞台となっています。古い町並みの魅力を再発見し、観光やまちづくりに活かそうとする動きは、城下町福山の商業の記憶を、現代によみがえらせる試みでもあります。
現代へ――近代産業都市と城下町の記憶
戦後の福山は、商業都市としての性格に加えて、重化学工業を中心とする近代産業都市としての顔も持つようになりました。臨海部に大規模な製鉄所が建設され、「鉄のまち福山」として全国に知られるようになったのです。製鉄業をはじめとする工業の発展は、福山の人口を大きく増やし、まちの経済規模を飛躍的に拡大させました。城下町に始まった福山の商業は、こうした近代工業の発展とも結びつきながら、地域経済の重要な一翼をにない続けています。
一方で、近年の福山の中心市街地は、全国の地方都市と同様に、郊外への商業の分散やライフスタイルの変化といった課題にも直面しています。城下町以来の商店街は、にぎわいを保つための新しい取り組みを重ねています。たとえば、本通り・本通船町の一帯では、アーケードの改修にあわせて、開放的で公園のようなまちなみへと生まれ変わらせる再整備が行われ、まちの魅力を高める努力が続けられています。城下町時代から「とおり町」と呼ばれてきたこの一帯は、歴史と現代とをつなぐ場として、新たな価値を模索しているのです。
福山のまちを歩くと、城下町時代の町割りに由来する町名や、商人町・職人町の名残を、今でもあちこちで見つけることができます。笠岡町、今町、大黒町、胡町、船町――こうした地名のひとつひとつが、城下町福山の商業のにぎわいを今に伝えるささやかな証言です。中世の市場町・草戸千軒に始まり、城下町の市と商人、港町の海運、近代の商店街、そして現代の中心市街地へと、福山の商業の歴史は、形を変えながらも一本の糸でつながっています。
市(いち)が立ち、人々が集い、モノとお金が行き交う――その根源的なにぎわいこそが、福山という「まち」を400年にわたって支え続けてきた力でした。城下町の市と商人の歴史をたどることは、この地域がどのように人とモノを結びつけ、経済を育んできたかを知ることであり、それは現代のまちづくりを考えるうえでの、確かな手がかりにもなるのです。
福山の市と商人の歴史 関連年表
福山の市と商人の歩みを、おもなできごとを中心に年表にまとめました。年代や経緯には諸説ある事項も含まれますので、参考としてご覧ください。
あわせて訪ねたい関連スポットと内部リンク
福山の市と商人の歴史をより深く知るために、あわせて訪ねたいスポットや、関連する記事をご紹介します。城下町の中心であった福山城、城下町以来の商人町の面影をとどめる中心市街地、港町・鞆の浦、そして備後の特産品を生んだ地域――それぞれを実際に歩いてみると、この記事でたどった歴史が、より立体的に感じられるはずです。
まず、城下町の起点となった福山城の歴史と見どころについては、専用の記事で詳しく紹介しています。城下町の商業は、この城を中心とした町割りから始まりました。城下町を築いた人物・水野勝成の生涯についても、あわせてご覧いただくと、福山の都市づくりの原点がよくわかります。
港町の商業については、鞆の浦の街並みと港の景観を扱った記事が参考になります。常夜灯や雁木など、近世の港湾施設が残る鞆の浦を歩けば、海の商人たちの活躍した時代に思いをはせることができます。また、備後の特産品については、備後絣の歴史や松永の下駄の記事で、地域のものづくりと商いの広がりを知ることができます。近代の産業都市としての福山については、鉄のまち福山の記事もあわせてどうぞ。
そして、福山という地域全体の歴史の流れをつかみたい方は、ぜひ福山の歴史 完全ガイド(通史)をご覧ください。城下町の市と商人の歴史は、福山という地域の長い歩みの、重要な一章をなしています。通史とあわせて読むことで、この記事の内容が地域史全体のなかにどう位置づけられるかが見えてくるはずです。
城下町の名残を楽しむ歩き方
福山の市と商人の歴史は、史料や年表のなかだけにあるのではなく、今のまちのなかにも、たくさんの手がかりとして残っています。最後に、城下町の名残を楽しみながらまちを歩くための、いくつかの視点をご紹介します。
町名を手がかりに歩く
福山の中心市街地には、笠岡町、今町、大黒町、胡町、船町といった、城下町時代に由来する町名が今も残っています。これらの町名は、かつてそこにどんな商人や職人が暮らしていたかを想像する手がかりになります。「鍛冶屋町」「米屋町」のように職業を冠した町名に出会ったら、そこが城下町時代に同業者の集まった町であった可能性を思い起こしてみてください。地図を片手に町名をたどって歩くと、城下町の町割りの記憶が、足元から立ち上がってきます。
商店街でにぎわいの連続性を感じる
「とおり町」と呼ばれてきた本通り・本通船町の商店街は、城下町時代の市と商人のにぎわいが、近代・現代へと受け継がれてきた場所です。アーケードの下を歩きながら、ここがかつて城下町の商業の中心であったこと、戦災を乗り越えて復興してきたことに思いをめぐらせると、商店街の風景がまた違って見えてきます。大黒町のように、レトロな町並みを活かしたまちづくりに取り組む一角も、歩く楽しみのひとつです。
博物館で中世の市場町に出会う
城下町以前の福山の商業を知りたいなら、草戸千軒の出土品や復原展示を見られる博物館を訪ねるのがおすすめです。実物大に復原された中世の町並みのなかに立つと、城下町ができるよりずっと前から、この地域が瀬戸内の交易でにぎわっていたことを、肌で感じることができます。中世の市場町から近世の城下町へ――福山の商業の長い歴史を、時間を追って体感できる貴重な場所です。
よくある質問(FAQ)
Q福山城下町はいつ、誰によってつくられたのですか?
福山城下町は、江戸時代のはじめ、武将・水野勝成によってつくられました。勝成は1619年(元和5年)に備後に入封し、芦田川河口のデルタ地帯に城を築きました。福山城は1622年(元和8年)ごろに完成したと伝えられ、城の建設と並行して、城下町も一から計画的に建設されました。もともと農地や湿地だった土地を造成してつくられた、新興の計画都市だったのです。
Q城下町で商人や職人はどこに住んでいたのですか?
福山城下町では、身分や職業によって居住区域が分けられていました。城の南側と西側には武士の住む侍屋敷が大半を占め、商人や職人の暮らす町屋は、城の東側から南東側にかけて集中していたとされています。さらに町屋のなかでも、職業ごとに同業者がまとまって住むように編成され、鍛冶屋町や米屋町、大工町といった職業由来の町名が生まれました。
Qなぜ福山城下に多くの商人が集まったのですか?
大きな要因のひとつとされるのが、藩による「地子免除」の政策です。地子とは町屋の宅地に課される税で、城下の町屋区域ではこの負担が免除されていたと伝えられます。藩はこうした優遇によって遠方からも積極的に商人や職人を呼び込み、その結果、城下の町数は、当初の12町から水野氏治世末期の30町へと大きく増えていったとされています。
Q福山の城下町を代表する特産品は何ですか?
備後地方の名産として知られたのが、い草を織り上げてつくる「畳表(備後表)」です。城下の南方の神島の一帯がその取引の中心となり、畳表を扱う商人には独占的な売買が許されたと伝えられます。畳表のほか、綿や塩なども重要な商品で、藩はこれらの特産品から運上銀を取り立てて財政を支えようとしました。
Q「神島市」とはどのような市だったのですか?
神島市は、城下の南方・神島の一帯で開かれた市で、備後の名産である畳表などが活発に売買されたと伝えられます。追手の御門前のあたりにあったとされ、城下の商業を支える重要な市のひとつでした。い草を扱う市と結びついたとされる「藺町」という町名も残っており、い草・畳表をめぐる商いが城下の経済の柱であったことがうかがえます。
Q城下町以前の福山には、商業の中心がなかったのですか?
城下町ができる以前、中世には、芦田川河口近くに「草戸千軒」と呼ばれる港町・市場町が栄えていました。13世紀半ばから16世紀初頭にかけてにぎわい、近隣の荘園や領主の保護のもと、他地域との物流の拠点として発展しました。出土品からは、遠く朝鮮半島や中国大陸との交易もうかがわれます。城下町福山は、この中世の市場町の機能が失われたあと、新たな経済の中心として台頭したのです。
Q鞆の浦は、福山の商業のなかでどんな役割を担ったのですか?
鞆の浦は、瀬戸内海のほぼ中央に位置し、潮の流れが変わるのを待つ「潮待ちの港」として古くから栄えました。江戸時代には瀬戸内海航路の要衝として、北前船などの廻船が立ち寄り、廻船問屋が活発な商いを繰り広げました。常夜灯・雁木・波止・焚場・船番所といった港湾施設が今もそろって残っていることでも知られ、海の商業の拠点として重要な役割を担いました。
Q阿部氏は、どのような商業政策をとったのですか?
福山藩を長く治めた阿部氏は、厳しい藩財政の立て直しを大きな課題としていました。そのため、畳表・綿・塩といった特産品から「運上銀」と呼ばれる税を取り立てて収入を増やそうとし、また「藩札」と呼ばれる紙幣を発行することで領内の経済を活性化させようとしました。藩の財政事情と城下の商人の活動とは、互いに密接に結びついていたのです。
Q明治維新で城下町の商業はどう変わったのですか?
1871年(明治4年)の廃藩置県で藩がなくなり、1873年(明治6年)には福山城が廃城となって、城下町は「武士の都市」としての性格を失いました。武士という大口の顧客層が大きく変化したことで、商人たちも商売の見直しを迫られました。ただし、城下町以来の商人町や町割りは、近代の市街地の骨格として受け継がれ、福山は商工業の都市として歩みを続けました。
Q鉄道の開通は、福山の商業にどんな影響を与えましたか?
1891年(明治24年)に山陽鉄道が福山に開通したことで、人とモノの移動が一変し、まちのにぎわいが再び勢いを取り戻したとされています。駅と既存の商人町とが結びつき、中心市街地は近代的な商業地として再編されました。城下町以来の「とおり町」は本通商店街へと発展し、1928年(昭和3年)には最初のアーケードが完成したと伝えられています。
Q福山の商店街は、戦災からどのように復興したのですか?
1945年(昭和20年)の福山大空襲で、中心市街地と商店街は壊滅的な被害を受けました。しかし戦後、人々は商店街の再建に取り組み、本通りでは1951年(昭和26年)にアーケードが再建されたと伝えられます。続いて本通船町のアーケードも整備され、城下町以来の商業のにぎわいが、戦災を乗り越えて再びよみがえっていきました。
Q城下町の名残は、今の福山のどこで感じられますか?
福山の中心市街地には、笠岡町・今町・大黒町・胡町・船町など、城下町時代に由来する町名が今も残っています。これらの地名や、「とおり町」と呼ばれてきた本通り・本通船町の商店街、レトロな町並みを活かす大黒町などを歩くと、城下町の市と商人のにぎわいの記憶を感じることができます。また、草戸千軒を展示する博物館を訪ねれば、城下町以前の中世の市場町にも出会えます。
Q福山の商業の歴史を、ひとことでまとめると?
中世の市場町・草戸千軒に始まり、江戸時代の城下町の市と商人、港町・鞆の浦の海運、藩の特産品政策、近代の鉄道開通と商店街の発展、戦災からの復興、そして現代の中心市街地へ――福山の商業の歴史は、時代ごとに姿を変えながらも、「市が立ち、人が集い、モノとお金が行き交う」という根源的なにぎわいを、400年以上にわたって受け継いできた歩みだといえます。
まとめ
福山の「市と商人」の歴史は、ひとつの計画都市が、どのように人とモノとお金を集め、地域経済の中心となっていったかという物語です。中世には芦田川河口の草戸千軒が瀬戸内の市場町として栄え、近世になると水野勝成が城下町福山を築き、地子免除によって商人を呼び込みました。城下には武士の町と商人の町が整然と配され、神島の市では備後の名産・畳表が売買され、舟入が物流を支えました。
阿部氏の時代には、特産品からの運上銀や藩札の発行といった商業政策がとられ、港町・鞆の浦は潮待ちの港・廻船の寄港地として海の商業を担いました。明治維新で城下町としての性格は大きく変わりましたが、商人町や町割りは近代の市街地に受け継がれ、鉄道の開通とともにまちのにぎわいは回復しました。戦災という未曾有の困難を乗り越えて商店街は復興し、城下町以来の商業の伝統は、現代の福山にまで脈々と受け継がれています。
福山のまちを歩くとき、城下町に由来する町名や、長い歴史を持つ商店街、港町の街並みに目を向けてみてください。そこには、市が立ち、人々が集い、にぎわってきた数百年の記憶が、確かに息づいています。福山の市と商人の歴史を知ることは、この地域の今と未来を考えるうえでの、豊かな手がかりとなるはずです。
出典・注意
本記事は、福山市ホームページ(福山市のあゆみ、福山城の歴史ほか)、広島県教育委員会・広島県立歴史博物館(ふくやま草戸千軒ミュージアム)の草戸千軒に関する解説、福山城築城400年記念事業の関連資料、福山本通商店街振興組合の情報、および「福山(城下町)」をはじめとする百科事典等の信頼できる資料を参照し、複数の情報を照合してまとめました。地名・町名・年号・固有名詞は、できるだけ正確を期しています。
※年代・経緯には諸説ある事項を含みます。詳細は各施設・公式情報や郷土資料でご確認ください。
最終更新: 2026年6月10日
史跡情報は福山NOTE 史跡図鑑(fn_history)より。