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🏯 歴史

鞆鉄道の歴史|福山と鞆の浦を結んだ軽便鉄道「とんてつ」

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鞆鉄道の歴史|福山と鞆の浦を結んだ軽便鉄道「とんてつ」

広島県福山市の市街地と、潮待ちの港町として知られる景勝地・鞆の浦。この二つの土地を、かつて一本の小さな鉄道が結んでいました。軌間わずか762ミリメートルのナローゲージ(狭軌)を走る軽便鉄道、その名を「鞆鉄道(とものてつどう)」といいます。地元では親しみを込めて「とんてつ」「らっきょ汽車」などと呼ばれ、大正・昭和の時代に福山と鞆の浦をのんびりと往復していました。1913年(大正2年)の開業から1954年(昭和29年)の廃止まで、およそ40年あまり。芦田川のほとりを縫い、瀬戸内の海風を受けながら走ったこの小さな汽車は、観光客や通学・通勤の人々、そして沿線の産業を支え、福山の近代化の一翼を担いました。鉄道そのものは姿を消しましたが、その精神は「トモテツバス」として今も福山の足を担い続けています。この記事では、鞆鉄道の歩みを、確かめられる史実にもとづいて時代を追ってたどっていきます。

なお、鞆鉄道の創業や開業をめぐる年代・経緯には、資料によって細部の異なる部分があります。本稿では複数の信頼できる情報を照らし合わせ、確実とされる事項を中心に、不確実な点は「とされる」「諸説ある」と明記して紹介します。

ゆかりの史跡・図鑑

鞆鉄道が走った沿線には、芦田川や草戸稲荷、水呑(みのみ)、そして終点・鞆の浦の港町など、今も歴史の面影を残すスポットが点在しています。まずは福山NOTEの史跡図鑑で、鞆鉄道にゆかりの深い場所や、福山の歴史を物語る史跡をまとめて見渡してみましょう。一覧・比較・詳細の三つの切り口から、各スポットの基本情報や見どころを確認できます。

福山城 伏見櫓 📖江戸時代(元和年間)📍 福山駅前(福山市街)福山城 📖近世(江戸)📍 丸之内福山城博物館 📖近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)📍 福山駅前(福山市街)草戸千軒町遺跡 📖中世📍 草戸町明王院 📖中世📍 草戸町鞆の津の町並み(重伝建) 📖江戸時代(中世〜近代の建造物群)📍 鞆町鞆の浦の常夜燈と港湾施設 📖江戸時代📍 鞆町福山市鞆の浦歴史民俗資料館 📖近代(昭和)📍 鞆町鞆の浦 📖中世〜近世📍 鞆町福禅寺 対潮楼 📖近世📍 鞆町太田家住宅 📖江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)📍 鞆町いろは丸展示館 📖近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)📍 鞆町仙酔島古代(地質)/近代(指定)📍 鞆町廉塾(菅茶山旧宅) 📖近世📍 神辺町神辺城跡 📖中世📍 神辺町福山八幡宮 📖近世📍 北吉津町沼名前神社 📖近世📍 鞆町阿伏兎観音(磐台寺観音堂)近世📍 沼隈町吉備津神社(備後一宮)江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる📍 新市町素盞嗚神社(備後一宮) 📖飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮📍 新市町

史跡時代概要📍 エリア詳細
福山城 伏見櫓江戸時代(元和年間)伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最…📍 福山駅前(福山市街)下へ ↓
福山城近世(江戸)備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御…📍 丸之内下へ ↓
福山城博物館近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩…📍 福山駅前(福山市街)下へ ↓
草戸千軒町遺跡中世芦田川の中州にあった中世の港町・集落遺跡。発…📍 草戸町下へ ↓
明王院中世本堂と五重塔がともに国宝。中世密教寺院で、五…📍 草戸町下へ ↓
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鞆の浦の常夜燈と港湾施設江戸時代江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯…📍 鞆町下へ ↓
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鞆の浦中世〜近世瀬戸内の「潮待ちの港」。常夜燈・雁木・波止場…📍 鞆町下へ ↓
福禅寺 対潮楼近世朝鮮通信使の使節が「日東第一形勝」と讃えた客…📍 鞆町下へ ↓
太田家住宅江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で…📍 鞆町下へ ↓
いろは丸展示館近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵…📍 鞆町下へ ↓
仙酔島古代(地質)/近代(指定)鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連…📍 鞆町下へ ↓
廉塾(菅茶山旧宅)近世儒学者・菅茶山が開いた私塾。当時の塾舎・住宅…📍 神辺町下へ ↓
神辺城跡中世備後南部の中世山城。福山城が築かれる以前、備…📍 神辺町下へ ↓
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沼名前神社近世鞆の「祇園さん」。夏の大松明を担ぐ「お手火神…📍 鞆町下へ ↓
阿伏兎観音(磐台寺観音堂)近世断崖の上に建つ朱塗りの観音堂。国の重要文化財…📍 沼隈町下へ ↓
吉備津神社(備後一宮)江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で…📍 新市町下へ ↓
素盞嗚神社(備後一宮)飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏の…📍 新市町下へ ↓

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福山城 伏見櫓

江戸時代(元和年間) / 📍福山駅前(福山市街)

伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最古級の三層入母屋造の現存櫓。 福山城伏見櫓は、元和8年(1622年)の福山城築城に際し、城主水野勝成が将軍徳川秀忠から下賜を受け、京都の伏見城から移築させたと伝えられる櫓である。長らく伝承とされていたが、昭和29年(1954年)の解体修理の際、梁の陰刻に「松ノ丸ノ東やく(ら)」の文字が発見され、伏見城からの移築を裏付ける確かな遺構であることが明らかになった。構造は三層入母屋造で、初層と二層を同じ柱割とし、その上にやや小さい三層を望楼状に載せる。桁行八間・梁間三間、本瓦葺の規模をもつ。慶長期の城郭建築の様式を残す初期の典型として価値が高く、昭和8年(1933年)1月23日に国の重要文化財に指定された。福山城内に現存し、特別公開が行われることもある。

🕰 時代江戸時代(元和年間)
🏛 成立・築造元和8年(1622年)水野勝成の福山城築城時に伏見城から移築。国指定重要文化財(昭和8年=1933年1月23日指定)
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目(福山城内)
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福山城

近世(江戸) / 📍丸之内

備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御門は京都伏見城からの移築と伝わる。2022年に築城400年を迎えた。

🕰 時代近世(江戸)
🏛 成立・築造1622年(元和8)・水野勝成
👤 関連水野勝成・阿部正弘
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目8
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福山城博物館

近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期) / 📍福山駅前(福山市街)

水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩の歴史を体験型展示で伝える博物館 福山城博物館は、JR福山駅のすぐ北に建つ福山城天守内に置かれた市立の歴史資料館です。福山城は1622年(元和8年)、徳川譜代の大名・水野勝成が西国鎮衛の拠点として築いた近世城郭で、天守は1931年に国宝に指定されました。しかし1945年8月の福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリート造で外観が復興され、その内部が博物館として公開されました。2022年には築城400年に合わせて大規模リニューアルされ、北面の鉄板張り(黒い装い)の再現や、一番槍レース・火縄銃などの体験型コンテンツ、デジタル映像を用いた展示が整えられ、福山城と福山藩の歴史を学べる施設となっています。城内に現存する伏見櫓と筋鉄御門は、京都・伏見城からの移築と伝えられ、国の重要文化財に指定されています。常設展は有料、月曜休館とされます。

🕰 時代近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)
🏛 成立・築造福山城は1622年(元和8年)に初代福山藩主・水野勝成が築城。天守は1945年福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリートで外観復興、内部を博物館として開館。2022年に大規模リニューアル
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目8番
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鞆の津の町並み(重伝建)

江戸時代(中世〜近代の建造物群) / 📍鞆の浦

潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と町家が一体で残る重伝建地区 鞆の浦は瀬戸内海の中央に位置し、古来「潮待ちの港」として栄え、万葉集にも詠まれた歴史を持つとされる。江戸時代には北前船など廻船の寄港地として繁栄し、朝鮮通信使の寄港地ともなった。2017年(平成29年)11月28日、「福山市鞆町伝統的建造物群保存地区」として約8.6ヘクタールが国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。範囲は鞆字西町の全域を中心に、石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地の一部に及ぶ。中世から江戸期に整えられた地割の上に、江戸時代から昭和30年代までの町家や寺社、石垣などが一体的に残る近世港町の景観が評価された。常夜燈・雁木・波止・焚場・船番所の5つの港湾施設がほぼ完全に残る点は全国でも稀とされる。広島県内では3例目の選定で、2018年には日本遺産にも認定された。

🕰 時代江戸時代(中世〜近代の建造物群)
🏛 成立・築造2017年(平成29年)11月28日に国の重要伝統的建造物群保存地区へ選定。地割は中世〜江戸期、建造物は江戸時代〜昭和30年代まで。
📍 所在地広島県福山市鞆町(鞆字西町全域ほか、字石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地字古城跡・草谷の各一部)
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鞆の浦の常夜燈と港湾施設

江戸時代 / 📍鞆の浦

江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯一の近世港、鞆港。 鞆の浦の鞆港には、常夜燈・雁木・波止・焚場(たでば)・船番所という江戸時代の港湾施設5点がほぼ揃って現存し、これらが一体で残るのは全国でも鞆港のみとされる。シンボルの常夜燈は安政6年(1859)の刻銘をもつ石造灯台で、海中の基礎石から宝珠の頂までは約12.1mに及び、江戸期の石造常夜燈としては国内最大級とされる。雁木は潮の干満に応じて船を着けられる階段状の船着き場で、半円形の港内に連続して巡らされている。波止は花崗岩を積んだ全長約146mの防波堤で、江戸後期に築かれ明治期に修築された。鞆港を含む沿岸と沖の島々一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定され、鞆町西町を中心とする区域は2017年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。日本遺産「瀬戸の夕凪が包む 国内随一の近世港町」の構成要素でもある。

🕰 時代江戸時代
🏛 成立・築造常夜燈は安政6年(1859)造立とされる。雁木・波止・焚場・船番所は江戸後期築造、波止は明治期に修築。鞆港一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定。
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆
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福山市鞆の浦歴史民俗資料館

近代(昭和) / 📍鞆の浦

鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬戸内の歴史・民俗を伝える市立資料館 福山市鞆の浦歴史民俗資料館は、広島県福山市鞆町後地に建つ市立の博物館で、「潮待ちの館」の愛称で親しまれる。1977年(昭和52年)からの地元有志による調査・収集活動を背景に、福山市制70周年記念事業として1988年(昭和63年)に開館した。立地は、福島正則が築いたとされる鞆城跡(福山市指定史跡)の高台で、瀬戸内海を見渡せる。万葉の時代から潮待ち・風待ちの港として栄えた鞆の浦を中心に、古代から近世にいたる歴史資料を展示。鯛網漁のジオラマや錨を製造した鍛冶場、朝鮮通信使関連資料、保命酒に関する資料に加え、お手火神事・お弓神事といった地域の民俗文化財も常設展示する。鞆の歴史と暮らしを総合的に学べる拠点とされる。

🕰 時代近代(昭和)
🏛 成立・築造1988年(昭和63年)開館。福山市制70周年記念事業として建設。建つ鞆城跡は福島正則が築いたとされる(福山市指定史跡)
📍 所在地広島県福山市鞆町後地536-1
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太田家住宅

江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期) / 📍鞆の浦

鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で、国の重要文化財 鞆の浦を代表する歴史的建造物で、薬用酒「保命酒」の醸造で財を成した商家の旧宅。もとは大坂の漢方医を出自とする中村家の屋敷で、明暦元年(1655年)に鞆へ移り住み、まもなく十六味地黄保命酒の製造・販売を始めて大ヒットし、福山藩の御用名酒屋として販売独占権を得たとされる。明治期に廻船業を営んだ太田家が継承し、現在の名で呼ばれる。主屋を中心に保命酒蔵や各種土蔵など九棟が建ち並び、建築年代は18世紀中期から19世紀前期に及ぶ。瀬戸内の商家建築を伝える貴重な遺構として、1991年に国の重要文化財に指定された。幕末には三条実美ら尊王攘夷派の公卿が立ち寄ったと伝わり、別宅の朝宗亭とともに「鞆七卿落遺跡」として広島県の史跡(1940年指定)にもなっている。

🕰 時代江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)
🏛 成立・築造主屋は18世紀中期、ほか北保命酒蔵が天明8年(1788年)、西蔵が寛政元年(1789年)、東保命酒蔵が寛政7年(1795年)など18世紀中期〜19世紀前期。国の重要文化財指定は1991年(平成3年)5月31日。
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆842
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いろは丸展示館

近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期) / 📍鞆の浦

坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵を活かした資料館 鞆の浦のシンボル常夜灯(とうろどう)のすぐそばに建つ資料館。1867年(慶応3年)、坂本龍馬と海援隊が運航したいろは丸が紀州藩の明光丸と備後灘で衝突・沈没した「いろは丸事件」を伝える施設で、その談判が鞆の浦で行われた縁にちなむ。建物は江戸期に建てられた太い梁が印象的な土蔵で、地元では「大蔵」と呼ばれ、国の登録有形文化財とされる。館内には海底に沈むいろは丸を再現したジオラマ、引き揚げられた陶器や部品、調査風景の写真などを展示し、2階には龍馬が宿泊先で身を潜めたという「隠れ部屋」が再現され、龍馬の蝋人形も置かれている。1989年(平成元年)7月の開館。幕末史と鞆の港町文化を同時に味わえるスポットである。

🕰 時代近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)
🏛 成立・築造1989年(平成元年)7月開館。建物は江戸期築の土蔵「大蔵(浜蔵)」で、国の登録有形文化財とされる。展示題材のいろは丸事件は1867年(慶応3年)
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆843-1
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仙酔島

古代(地質)/近代(指定) / 📍鞆の浦

鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連なる瀬戸内海国立公園の名勝 仙酔島は鞆の浦の沖合に浮かぶ周囲約6キロの島で、住所は福山市鞆町後地。鞆港から市営渡船で約5分の距離にあり、観光客の往来はあるが定住者のいない無人島とされる。1925年(大正14年)に国の名勝「鞆公園」の一部として指定され、1934年(昭和9年)には日本で最初に指定された国立公園・瀬戸内海国立公園に含まれた。島は約9000万年前の大規模な火山活動による溶結凝灰岩を主体とし、南側海岸には青・赤・黄・白・黒の岩が200メートル以上連なる「五色岩」が見られ、地質的に貴重とされる。「仙人が酔うほど美しい島」が名の由来と言われる。江戸後期の学者・頼山陽が当地の景観を「山紫水明」と評したとも伝わる。

🕰 時代古代(地質)/近代(指定)
🏛 成立・築造1925年(大正14年)国名勝「鞆公園」に指定。1934年(昭和9年)日本初の国立公園・瀬戸内海国立公園に編入。島自体は約9000万年前の火山活動で形成されたとされる
📍 所在地広島県福山市鞆町後地
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吉備津神社(備後一宮)

江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる / 📍新市・北部

備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で「いっきゅうさん」と親しまれる古社 福山市新市町宮内に鎮座する備後国一宮で、地元では「一宮さん(いっきゅうさん)」と親しまれる。社伝では大同元年(806年)に吉備国の吉備津神社から勧請し創建されたと伝わるが、延喜式神名帳に記載がないことなどから実際の成立はより後とする説もある。主祭神は吉備国を治めたとされる大吉備津彦命。現在の本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が旧規模にならい造営したもので、桁行七間・梁間四間の入母屋造檜皮葺、国の重要文化財に指定されている。ほかにも木造狛犬や太刀などが重要文化財として伝えられ、複数の建造物が広島県・福山市指定文化財となっている。隣接する櫻山城跡なども史跡として知られ、備後の信仰と歴史を今に伝える。

🕰 時代江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる
🏛 成立・築造本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が造営、国の重要文化財。創建は大同元年(806年)と伝わるが諸説ある
📍 所在地広島県福山市新市町宮内400
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素盞嗚神社(備後一宮)

飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮 / 📍新市・北部

祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏のけんか神輿で名高い古社 福山市新市町戸手に鎮座する素盞嗚神社は、『延喜式神名帳』に載る式内社で備後国一宮を称し、旧社格は県社です。主祭神は素盞嗚尊で、稲田姫命・八王子を配祀します。社伝では天武天皇の治世、7世紀ごろ(679年か)の創建とされます。『釈日本紀』所収の「備後国風土記」逸文に伝わる蘇民将来説話の舞台「疫隈国社」と結びつけられ、茅の輪くぐりや祇園信仰・祇園祭発祥の地の一つとされています。神仏習合期には牛頭天王を祀り、遣唐使・吉備真備が734年に当社から播磨の広峯神社へ勧請したとも伝わります。毎年7月の例祭では、勇壮なけんか神輿(神輿合わせ)が行われることで知られます。

🕰 時代飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮
🏛 成立・築造社伝では天武天皇期の7世紀ごろ(679年か)創建とされる。『延喜式神名帳』記載の式内社で、旧県社
📍 所在地広島県福山市新市町大字戸手1-1

鞆鉄道とは何だったのか――小さな軽便鉄道の輪郭

戦前の福山駅(奥に焼失前の福山城天守。1945年以前)
戦前の福山駅(奥に焼失前の福山城天守。1945年以前)(画像:Wikimedia Commons / CC)

鞆鉄道線は、鞆鉄道株式会社が福山駅と鞆駅のあいだで運行していた鉄道路線です。総延長はおよそ12.5キロメートル。一般的な国鉄(現在のJR)の在来線が1067ミリメートルの軌間を採用していたのに対し、鞆鉄道は762ミリメートルという、より狭い軌間(ナローゲージ)を用いていました。この762ミリという数値は、当時の地方私鉄や軽便鉄道で広く使われた規格で、線路の幅が狭いぶん建設費を抑えられ、急なカーブや勾配にも対応しやすいという利点がありました。その代わり車体は小ぶりで、輸送力や速度には限界がありました。鞆鉄道は、まさにこの「軽便鉄道」の典型といえる存在でした。

「軽便鉄道」とは、明治末から大正・昭和初期にかけて全国各地で建設された、簡易な規格の小型鉄道の総称です。1910年(明治43年)に公布された軽便鉄道法は、こうした簡易鉄道の建設を後押しする法律で、手続きや基準を緩和することで地方の交通整備を促しました。鞆鉄道もこの軽便鉄道法のもとで計画・建設されており、当初の社名は「鞆軽便鉄道株式会社」でした。福山という城下町と、瀬戸内屈指の景勝地・鞆の浦を結ぶこの路線は、観光輸送と地域住民の足、そして沿線の物資輸送という、複数の役割を背負って生まれたのです。

鞆鉄道の路線は、福山の市街地を起点に芦田川沿いを南下し、水呑を経て瀬戸内海に面した鞆の浦へと至るルートをたどりました。途中には草戸稲荷や妙見、水呑薬師といった、信仰や地名にちなんだ駅が並びます。瀬戸内の穏やかな海と、芦田川の流れ、そして潮待ちの港・鞆の浦。鞆鉄道は、福山の自然と歴史をつなぐ「動く回廊」のような存在だったといえるでしょう。福山の城下町については福山城のガイド記事でも詳しく紹介しています。福山藩の成り立ちを知ると、鞆鉄道が走った土地の背景がより立体的に見えてきます。

「らっきょ汽車」「とんてつ」――愛称が物語る親しみ

鞆鉄道には、いくつもの愛称がありました。なかでもよく知られているのが「らっきょ汽車」です。これは、開業当初に使われていた蒸気機関車の煙突の形が、薬味として親しまれる野菜「らっきょう」の形によく似ていたことに由来するとされています。煙突の上部がふっくらと膨らんだ独特のシルエットが、市民の目には愛らしく映ったのでしょう。小さな機関車が白い煙を吐きながらコトコトと走る姿は、沿線の人々にとって日常の風景であり、その親しみが「らっきょ汽車」という愛称に込められていました。

また「とんてつ」という略称も、地元で親しまれてきた呼び方です。「鞆鉄道」を縮めた呼び名で、現在のトモテツバスにもその語感が受け継がれています。こうした愛称が複数生まれ、長く語り継がれてきたこと自体が、鞆鉄道が地域の人々の暮らしにどれほど深く根づいていたかを物語っています。鉄道は単なる移動手段ではなく、街の景色の一部であり、世代を超えた共通の記憶でもあったのです。

蒸気機関車から始まった鞆鉄道は、後にガソリンを燃料とする気動車(ガソリンカー)へと主力を移していきます。煙を吐く「らっきょ汽車」の時代から、より軽快な気動車の時代へ。車両が移り変わってもなお、人々は鞆鉄道への親しみを変えませんでした。愛称は時代とともに、その意味あいを少しずつ広げながら生き続けたといえるでしょう。

起源と背景――鞆の浦と福山を結ぶ夢

鞆の浦の港と町並み
鞆の浦の港と町並み(画像:Wikimedia Commons / CC)

鞆鉄道が構想された背景には、鞆の浦という土地の特別な価値がありました。鞆の浦は古くから「潮待ちの港」として栄えた瀬戸内海航路の要衝で、満潮と干潮で流れの向きが変わる潮流を待つために多くの船が寄港しました。江戸時代には朝鮮通信使も立ち寄り、北前船の交易でもにぎわった、まさに海の道の結節点です。その美しい景観と歴史的なたたずまいは、近代以降も多くの人を惹きつけてきました。一方の福山は、江戸時代初期に水野勝成が福山城を築いて以来、備後地方の中心都市として発展してきた城下町です。この鞆と福山という二つの拠点を陸路で結ぼうという発想が、鞆鉄道の出発点でした。

鞆と福山を結ぶ鉄道の計画は、明治期にさかのぼるとされています。1909年(明治42年)には、福山町から鞆町への交通機関として「鞆軌道」の出願がなされたと伝わります。その後、1910年(明治43年)に軽便鉄道法が公布されると、これを受けて計画を改め、「鞆軽便鉄道」として免許を得る方向へと進んでいきました。郷土資料のなかには、鞆鉄道の構想そのものはさらに古く明治期から存在し、日清・日露の戦役などの影響で工事が一時中断したと伝えるものもあります。創業の正確な経緯には資料によって差があり、諸説あるといってよいでしょう。いずれにせよ、地域の有力者たちが幾度かの困難を乗り越えて鉄道を実現させたことは間違いありません。

鞆軽便鉄道株式会社は、1910年(明治43年)に設立されたとされます。鉄道の敷設には、用地の取得、芦田川を渡る橋梁の建設、軌道の敷設など、多くの工事が必要でした。当時の福山にとって、自前の鉄道を持つことは地域の近代化を象徴する一大事業であり、沿線の人々の期待を一身に集めた挑戦だったのです。観光地・鞆の浦への足を確保するという目的に加え、沿線の産業や軍関連の輸送など、複数の需要が鉄道建設を後押ししました。

福山は、備後絣(びんごがすり)や下駄といった地場産業でも知られる土地でした。備後絣は明治から昭和にかけて全国有数の生産量を誇った木綿織物で、福山を中心とする備後地方の経済を支えました。こうした地場産業の物資輸送という観点からも、鉄道への期待は大きかったと考えられます。鞆鉄道は、観光と産業、その両面で地域の発展に貢献することを期待されて産声をあげたのです。

開業――1913年、らっきょ汽車が走り出す

鞆鉄道線が最初に開業したのは、1913年(大正2年)11月17日のことでした。このときに開通したのは、野上(のがみ)と鞆のあいだの区間です。福山の市街地に近い野上を起点に、芦田川沿いを南下して鞆の浦へと至るルートが、まず先行して開業しました。続いて翌1914年(大正3年)4月12日には、福山町と野上のあいだが開通し、福山の中心部から鞆まで一本につながりました。こうして福山と鞆の浦を結ぶ軽便鉄道が完成したのです。敷設には数年の歳月を要したと伝えられ、関係者の苦労がしのばれます。

開業当初の鞆鉄道では、蒸気機関車が客車や貨車を牽いて走りました。前述のとおり、この機関車の煙突の形から「らっきょ汽車」の愛称が生まれたとされます。開業時には、雨宮製作所製の機関車や、海外メーカー製の機関車が用いられたと記録されています。軽便鉄道らしい小ぶりな車両が、白い煙をたなびかせながら芦田川のほとりをゆっくりと走る――それが大正初期の鞆鉄道の姿でした。瀬戸内の海と山を望む車窓は、観光客にとっても魅力的なものだったことでしょう。

鞆鉄道は、開業当初から観光輸送に大きな役割を果たしました。鞆の浦は瀬戸内屈指の景勝地であり、その海辺の風景や歴史ある港町のたたずまいを目当てに、福山方面から多くの行楽客が鉄道を利用しました。鉄道の開通によって、それまで船や徒歩・人力に頼っていた福山〜鞆間の往来が格段に便利になり、鞆の浦は「気軽に行ける景勝地」へと変わっていったのです。観光鉄道としての側面は、鞆鉄道の存在意義の中核をなすものでした。

同時に、鞆鉄道は沿線住民の生活路線でもありました。水呑や田尻村といった沿線集落の人々にとって、鉄道は福山の市街地へ通う大切な足でした。買い物や通学、通院、商用など、日々の暮らしのさまざまな場面で鞆鉄道が利用されました。観光客と地元住民、その双方を運ぶことで、鞆鉄道は地域に欠かせない交通機関としての地位を確立していったのです。鞆の浦の街並みについては鞆の浦の街並みガイドもあわせてご覧ください。鉄道が運んだ人々が降り立った、終点の港町の魅力を知ることができます。

路線をたどる――福山から鞆まで、12の駅

福山城
福山城(画像:Wikimedia Commons / CC)

鞆鉄道線には、福山駅から鞆駅まで、複数の駅が並んでいました。記録によれば、福山駅・三ノ丸駅・野上駅・草戸稲荷駅・半坂駅・妙見駅・水呑薬師駅・水呑駅・葛城駅・田尻村駅・金崎駅・鞆駅といった駅が存在したとされます。総延長およそ12.5キロメートルの路線に、これだけの駅が置かれていたわけですから、駅間距離はかなり短く、各集落にこまめに停車する地域密着型の鉄道だったことがうかがえます。軽便鉄道らしい、のんびりとした運行だったことでしょう。

起点となる福山側では、福山駅や三ノ丸駅が市街地への玄関口でした。福山駅は国鉄(現在のJR)の山陽本線とも接続する交通の要であり、鞆鉄道はここから乗客を鞆の浦方面へと運びました。三ノ丸という駅名は、福山城の三の丸に由来すると考えられ、城下町・福山の地理を今に伝える名前です。郷土資料には、鞆鉄道の始発駅は当初、福山の三の丸付近にあったと伝えるものもあり、福山駅と三ノ丸駅の関係や開業時期には段階的な経緯があったとされます。

福山を出た鞆鉄道は、野上を経て芦田川を渡り、水呑方面へと南下していきました。途中の草戸稲荷駅は、芦田川のほとりに鎮座する草戸稲荷神社にちなんだ駅です。草戸稲荷は商売繁盛や五穀豊穣の信仰を集める神社で、参拝客の利用も見込まれていたと考えられます。妙見駅や水呑薬師駅といった駅名も、沿線の信仰や地名に由来しており、駅名を眺めるだけでも、鞆鉄道が地域の暮らしや信仰と密接に結びついていたことが伝わってきます。

水呑(みのみ)は、芦田川の河口近くに位置する地域で、鞆鉄道の沿線の主要な集落のひとつでした。水呑薬師駅・水呑駅と二つの駅名が見られることからも、この地域が鉄道にとって重要な拠点だったことがわかります。さらに南下すると、葛城・田尻村・金崎といった駅を経て、終点の鞆駅に至ります。鞆駅は鞆の浦の港町に近く、鉄道で訪れた行楽客はここで降り立って、潮待ちの港の風情を楽しんだのです。福山駅から鞆駅まで、12の駅を結ぶこの小さな路線は、福山南部の暮らしと観光を支える背骨のような存在でした。

芦田川との格闘――橋梁と河川改修

鞆鉄道の歴史を語るうえで欠かせないのが、芦田川との関わりです。福山の市街地から鞆方面へ向かうには、福山平野を流れる芦田川を渡らなければなりませんでした。そのため鞆鉄道は、芦田川に橋梁(鉄橋)を架けて川を越える必要がありました。軽便鉄道にとって、大きな川に橋を架けることは技術的にも費用的にも大きな課題であり、芦田川の橋梁は鞆鉄道の生命線ともいえる施設でした。郷土資料には、この芦田川の鉄橋の橋脚が、鉄道廃止後の昭和40年(1965年)頃まで川に残っていたと伝えるものもあり、鞆鉄道がたしかにこの川を越えていたことの証となっています。

芦田川は、しばしば洪水を引き起こす暴れ川としても知られていました。鞆鉄道もその影響を受け、台風による被害で橋梁が損傷した記録が残っています。自然の猛威にさらされながら、鉄道を維持し続けることは決して容易ではありませんでした。川のそばを走る軽便鉄道にとって、出水や台風は常に脅威であり、そのたびに復旧の苦労が重ねられたのです。

さらに大きな転機となったのが、芦田川の河川改修工事でした。福山平野の治水のために芦田川の流路を整える改修が進められると、それまでの鞆鉄道の線路の一部が、新たに造られる川敷(新川敷)にかかることになりました。このため鞆鉄道は、線路の付け替えを余儀なくされました。記録によれば、芦田川改修にともなう線路の新設・付け替えが、昭和初期に行われたとされています。河川改修という大規模な公共事業に合わせて鉄道のルートを変更するという、地域のインフラ整備と鉄道経営が交差する出来事でした。

こうした芦田川との「格闘」は、鞆鉄道が自然環境と隣り合わせで運行されていたことを如実に物語っています。福山の地形と水運・治水の歴史のなかに、鞆鉄道は組み込まれていました。橋を架け、洪水に耐え、改修に合わせて線路を付け替える――その一つひとつが、鞆鉄道を支えた人々の努力の証なのです。芦田川という大河の存在は、鞆鉄道の運命に大きな影を落とし続けました。

蒸気からガソリンカーへ――車両の近代化

開業当初の鞆鉄道は、蒸気機関車が客車や貨車を牽く「らっきょ汽車」の時代でした。しかし昭和に入ると、鉄道車両の世界に新しい技術がもたらされます。それがガソリンエンジンで自走する気動車、いわゆる「ガソリンカー」です。鞆鉄道でも、1920年代後半からガソリンカーの導入が進められたとされています。蒸気機関車に比べて、ガソリンカーは始動が速く、運転にかかる手間や燃料・人件費を抑えられる利点がありました。小規模な軽便鉄道にとって、ガソリンカーの導入は経営合理化の有力な手段だったのです。

記録によれば、鞆鉄道は1927年(昭和2年)頃からガソリンカーの導入を始め、車両メーカーから単端式(たんたんしき)と呼ばれる形式の気動車を製造させたとされます。単端式とは、運転台が片側だけにある気動車で、終点で方向を転換する必要がある形式です。その後も段階的に気動車を増備し、蒸気機関車主体の運行から、ガソリンカー中心の運行へと移っていきました。これにより、運行の頻度や利便性が高まり、より機動的な輸送が可能になったと考えられます。

車両の近代化は、軽便鉄道が時代の変化に対応しようとした努力の表れでした。蒸気からガソリンへという動力の転換は、当時の地方鉄道に共通する流れであり、鞆鉄道もその潮流のなかにありました。煙を吐く小さな機関車から、軽快に走る気動車へ。動力の進化は、鞆鉄道の輸送力やサービスを向上させ、地域の足としての役割をいっそう確かなものにしていったのです。

もっとも、車両を新しくするには相応の投資が必要でした。小規模な軽便鉄道にとって、車両の更新や設備の維持は常に経営の重荷でもありました。観光と生活を支える需要に応えながら、限られた経営資源のなかで車両を近代化していく――鞆鉄道の歩みは、そうした地方私鉄の苦心の連続でもあったのです。鞆鉄道で使われた一部の気動車は、後年、ほかの地方鉄道へと譲渡されたとも伝えられ、軽便鉄道車両の流転の歴史の一端をうかがわせます。

社名の変遷――「鞆軽便鉄道」から「鞆鉄道」へ

鞆鉄道の正式な社名は、時代とともに変化しました。設立当初は、軽便鉄道法のもとで建設されたことから「鞆軽便鉄道株式会社」と称していました。「軽便」の二文字が、この鉄道の出自を端的に表しています。しかし、鉄道をめぐる法制度が整備されるなかで、社名や路線の法的位置づけにも変化が訪れます。

1926年(大正15年/昭和元年)12月19日、鞆鉄道は軽便鉄道法に基づく軽便鉄道線を、地方鉄道法に基づく地方鉄道路線へと変更しました。これにあわせて社名も「鞆軽便鉄道」から「鞆鉄道」へと改められたとされています。地方鉄道法は、軽便鉄道法に代わって地方の私鉄を規律する法律で、この移行は鞆鉄道がより本格的な地方鉄道として位置づけられたことを意味します。社名から「軽便」の文字が消えたことは、鞆鉄道の地位の安定と成熟を象徴する出来事だったといえるでしょう。

この「鞆鉄道株式会社」という社名は、鉄道事業が廃止された後も変わらず受け継がれていきます。鉄道からバスへと事業の主軸を移してもなお、会社は「鞆鉄道」の名を保ち続けました。現在の「トモテツバス」「トモテツグループ」という呼称も、この鞆鉄道株式会社に由来します。一世紀を超えて受け継がれてきた社名のなかに、福山と鞆の浦を結んだ軽便鉄道の記憶が、今なお息づいているのです。

乗合自動車の登場――鉄道とバスの並走

鞆鉄道の歴史を語るうえで見逃せないのが、バス(乗合自動車)事業への進出です。鞆鉄道は、鉄道事業に加えて、比較的早い時期から乗合自動車の営業を始めたとされています。記録によれば、1927年(昭和2年)頃に乗合自動車の営業を開始したと伝えられます。これは、ガソリンカー導入の時期ともほぼ重なっており、鞆鉄道が動力の近代化と並行して、新しい交通手段であるバスの可能性にも目を向けていたことを示しています。

当初、バスは鉄道を補完する存在でした。鉄道の通っていない地域への輸送や、鉄道を補う形での運行など、両者は役割を分担しながら共存していました。しかし、自動車技術の進歩と道路の整備が進むにつれて、バスは次第に独自の輸送力を発揮するようになります。柔軟にルートを設定でき、停留所も自由に置けるバスは、固定された線路を走る鉄道にはない機動性を備えていました。鉄道とバスの「並走」は、やがて両者の関係を大きく変えていくことになります。

福山〜鞆間においても、鉄道と並行するバス路線が運行されるようになりました。同じ区間を鉄道とバスの両方でカバーする状態が生まれたのです。利用者にとっては選択肢が増える一方で、鉄道とバスが乗客を分け合う構図にもなりました。この「並行バス路線」の存在が、後に鞆鉄道線の廃止を語るうえで決定的な意味を持つことになります。鞆鉄道は、自ら育てたバス事業によって、鉄道事業の役割を見直す段階へと進んでいったのです。

戦中・戦後の鞆鉄道――激動の時代を生きる

大正から昭和へと時代が移り、日本は戦争の時代へと突入していきます。鞆鉄道もまた、こうした激動の時代を生き抜きました。戦時下では、鉄道は軍事輸送や物資輸送の役割を担うことが多く、鞆鉄道も例外ではなかったと考えられます。沿線への軍関連の輸送を担ったとする記述もあり、鞆鉄道が地域の交通だけでなく、時代の要請にも応えていたことがうかがえます。燃料や資材が不足する戦時下にあって、小さな軽便鉄道を維持し続けることは、並大抵の苦労ではなかったでしょう。

福山は、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)8月、空襲によって市街地の大半を焼失する大きな被害を受けました。福山城の天守も、このときの空襲で焼け落ちています。市街地に起点を持つ鞆鉄道もまた、戦争の影響と無縁ではなかったはずです。終戦後の混乱と復興のなかで、鞆鉄道は地域の足を確保しながら、戦後の新しい時代に向き合っていくことになりました。物資不足や設備の老朽化といった困難を抱えながらも、鞆鉄道は運行を続けたのです。福山の戦災と復興の歴史については福山の歴史を通史でたどるガイドで詳しく解説しています。

戦後の日本では、復興とともにモータリゼーション(自動車の普及)の波が押し寄せてきました。道路網が整備され、バスやトラック、自家用車が急速に普及していくなかで、小型で速度の遅い軽便鉄道は、次第に時代に取り残されていきます。狭い軌間ゆえに輸送力に限界があり、線路の維持には費用がかかる軽便鉄道は、経営面でも厳しさを増していきました。鞆鉄道が育ててきたバス事業がいよいよ本格化し、鉄道よりも効率的に乗客を運べるようになっていったことも、この流れに拍車をかけました。

戦後の数年間、鞆鉄道は鉄道とバスの両方を運行しながら、その将来を模索しました。観光客や地域住民を運び続けた軽便鉄道は、しかし、時代の変化のなかで存在意義を問われるようになっていきます。鉄道を維持すべきか、それともバスに一本化すべきか――鞆鉄道は、大きな岐路に立たされていたのです。福山が空襲からの復興を遂げていく一方で、らっきょ汽車の時代は、静かに終わりへと近づいていました。

1954年、鉄道の廃止――バスへの転換

そして1954年(昭和29年)3月1日、鞆鉄道線は全線が廃止されました。1913年の開業から数えて、およそ40年あまりの歴史に幕が下りた瞬間でした。廃止の理由は、すでに多数運行されていた並行するバス路線に役割を代替させることにありました。鉄道とバスが同じ区間を走るなかで、より機動的で効率的なバスへと輸送を一本化する判断がなされたのです。福山と鞆の浦を結んだ「らっきょ汽車」「とんてつ」は、こうして線路上から姿を消しました。

鉄道の廃止は、地域にとって一つの時代の終わりを意味しました。長年にわたって沿線の人々の暮らしを支え、観光客を鞆の浦へと運んできた軽便鉄道。その小さな車両がもう走らなくなることに、寂しさを覚えた人も少なくなかったことでしょう。しかし同時に、廃止はバスという新しい時代の交通への移行でもありました。鞆鉄道は、鉄道事業を畳むと同時に、自社のバス事業へと経営資源を集中させ、地域の足としての使命を引き継いでいったのです。

注目すべきは、鉄道を廃止しても会社そのものは存続し、社名も「鞆鉄道株式会社」のまま変わらなかったことです。鉄道専業から、バスを中核とする交通事業者へ。事業の形は大きく変わっても、「鞆鉄道」という名前と、地域の交通を担うという使命は途切れることなく受け継がれました。1954年の鉄道廃止は、終わりであると同時に、トモテツグループとしての新たな歩みの始まりでもあったのです。

廃止後、線路の跡地は道路や住宅の敷地などへと転用されていきました。郷土の記録によれば、水呑のあたりでは軌道敷が道路になり、鞆町の手前では細長い土地に住宅が建ち並んで、いかにも鉄道跡らしい独特の景観が生まれたと伝えられます。芦田川に架かっていた鉄橋の橋脚も、しばらくのあいだ川のなかに残っていたとされ、廃止後もしばらくは「らっきょ汽車」の痕跡を各所にとどめていました。鉄道は消えても、その通り道は土地の形のなかに刻まれて残ったのです。

トモテツグループへ――現在に受け継がれるもの

鉄道事業を廃止した鞆鉄道株式会社は、その後バス事業を中核とする企業へと発展していきました。福山駅から鞆の浦へと向かう路線バスは、かつての鞆鉄道線を継承する形で運行され、今も地元の人々や観光客に広く利用されています。線路は消えても、福山と鞆の浦を結ぶという鞆鉄道の役割は、バスによって脈々と受け継がれているのです。「トモテツバス」の愛称で親しまれるこの路線バスは、福山南部の重要な公共交通として欠かせない存在となっています。

現在、鞆鉄道はトモテツグループの中核企業として、多角的な事業を展開しています。グループは、路線バス・高速バス・貸切バス・観光バスといった交通事業を中心に、情報通信(携帯電話ショップなど)、サービスエリアの運営、フードサービス、不動産、観光案内など、幅広い分野へと事業を広げてきました。一本の軽便鉄道から始まった鞆鉄道は、地域に根ざした総合的な企業グループへと成長を遂げたのです。

トモテツグループは、2010年(平成22年)にグループ創立百周年を迎えたとされます。これは、1910年(明治43年)の鞆軽便鉄道設立を起点とする計算で、一世紀を超えて地域とともに歩んできた歴史の重みを物語っています。明治末の軽便鉄道計画から始まり、大正の開業、昭和の鉄道廃止とバスへの転換を経て、平成・令和の総合交通事業者へ。鞆鉄道の歴史は、そのまま福山南部の交通の近代化の歴史でもあります。

鞆鉄道が運んだ人々が向かった先――鞆の浦は、今や日本を代表する観光地のひとつとなっています。歴史的な街並みが保存され、瀬戸内海の美しい景観とともに、国内外から多くの観光客を迎えています。福山駅からトモテツバスに乗って鞆の浦を訪れる旅は、かつてらっきょ汽車がたどった道をなぞる旅でもあるのです。鉄道は姿を消しても、福山と鞆の浦を結ぶ「動く回廊」の精神は、今も確かに生き続けています。福山が「鉄のまち」として発展した近代産業の歩みは鉄のまち福山の記事でも紹介しており、鞆鉄道と同じく福山の近代化を支えた産業の物語を知ることができます。

関連年表――鞆鉄道のあゆみ

ここまでたどってきた鞆鉄道の歩みを、年表の形で整理してみましょう。年代や経緯には資料によって細部の異なる点があり、諸説ある事項を含みます。あくまで概略としてご覧ください。

廃線跡をたどる楽しみ方――関連スポットと内部リンク

鞆鉄道は廃止からすでに70年以上が経ち、当時の線路や駅舎はほとんど残っていません。しかし、その通り道は道路や地形のなかに痕跡をとどめており、地図や郷土資料を手がかりに「廃線跡をたどる」という楽しみ方が可能です。福山駅から鞆の浦へと向かうルートを意識しながら歩いてみると、不自然に細長い土地や緩やかにカーブする道など、かつて鉄道が走っていたことをしのばせる風景に出会えるかもしれません。なお、廃線跡の多くは現在私有地や生活道路となっていますので、訪ねる際は地元の方々の生活に配慮し、マナーを守って楽しみましょう。

鞆鉄道の終点であった鞆の浦は、それ自体が一日かけて楽しめる観光地です。常夜燈や雁木(がんぎ)、いろは丸事件ゆかりの史跡、坂本龍馬ゆかりの地など、見どころが数多くあります。潮待ちの港として栄えた歴史的な街並みは、国の重要伝統的建造物群保存地区にも選定されており、瀬戸内海の景観とあわせて散策する楽しみは尽きません。鞆鉄道が運んだ往時の行楽客と同じように、福山駅からバスに揺られて鞆の浦を訪れる旅は、歴史を体感する旅でもあります。詳しくは鞆の浦の街並みガイドをご覧ください。

沿線の見どころとしては、芦田川のほとりに鎮座する草戸稲荷神社も挙げられます。鞆鉄道には「草戸稲荷駅」が置かれていたことからもわかるように、参拝の足としても利用されたと考えられます。色鮮やかな社殿と、芦田川の流れを望む景観は、福山を代表する初詣スポットとしても知られています。鞆鉄道の駅名に名を残す妙見や水呑薬師といった地域にも、それぞれの信仰や歴史が息づいています。

福山の歴史をより深く知りたい方には、福山城や福山の地場産業をめぐる旅もおすすめです。福山城は水野勝成が築いた城下町・福山の象徴であり、鞆鉄道が走った土地の歴史的背景を理解する手がかりになります。また、福山近郊の松永は下駄の産地として知られ、松永の下駄の歴史は、鞆鉄道と同じく福山の近代産業の一面を物語ります。鞆鉄道の旅をきっかけに、福山の多彩な歴史と産業に触れてみてはいかがでしょうか。

軽便鉄道がもたらしたもの――地域への影響を考える

観光地・鞆の浦の発展を後押し

鞆鉄道の開業は、鞆の浦が近代的な観光地へと発展していくうえで、大きな後押しとなったと考えられます。それまで福山方面から鞆の浦を訪れるには、船や徒歩・人力に頼るほかなく、決して気軽な旅ではありませんでした。しかし鉄道が通ったことで、福山の市街地から短時間で鞆の浦へアクセスできるようになり、行楽客の数は大きく増えたと推測されます。瀬戸内海の美しい景観と、潮待ちの港町の歴史的なたたずまいを目当てに、多くの人々が鞆鉄道に乗って鞆の浦を訪れました。鉄道は、鞆の浦の魅力をより多くの人に届ける「翼」のような役割を果たしたのです。

観光輸送という側面は、鞆鉄道のアイデンティティの中核でした。生活路線としての需要だけでなく、景勝地への観光という目的を明確に持っていた点が、鞆鉄道を特徴づけています。福山という都市の近郊に、鉄道で行ける景勝地があるという構図は、地域の魅力を高め、福山と鞆の浦の結びつきをいっそう強めることにつながりました。今日、鞆の浦が国内外から多くの観光客を迎える人気の観光地となっている背景には、こうした近代以降の交通整備の積み重ねがあったといえるでしょう。

沿線の暮らしを変えた鉄道

鞆鉄道は、沿線の人々の日常生活も大きく変えました。水呑や田尻村といった福山南部の集落の住民にとって、鉄道は福山の市街地と自分たちの暮らしを直接つなぐ存在でした。それまで時間をかけて歩くか船を使うしかなかった福山への往来が、鉄道によって格段に便利になったのです。通学する学生、商用で市街地へ向かう人、買い物や通院に出かける人々――さまざまな人々の暮らしのなかに、鞆鉄道は溶け込んでいきました。鉄道の存在は、沿線地域の生活圏を福山の市街地へと広げ、人々の行動範囲を大きく拡大させたのです。

こうした生活路線としての役割は、観光輸送とはまた異なる、地に足のついた価値を持っていました。毎日の暮らしを支える鉄道だったからこそ、鞆鉄道は地域の人々から深く愛され、「らっきょ汽車」「とんてつ」といった愛称で親しまれたのです。鉄道が廃止されてバスへと転換した後も、福山と鞆の浦を結ぶ路線が公共交通として大切に守られてきたのは、この地域密着の伝統が受け継がれてきたからにほかなりません。

福山の近代化の一翼として

鞆鉄道の歴史は、福山という地域の近代化の歩みと重なり合っています。明治末から大正にかけては、全国各地で鉄道網が広がり、地方都市が近代的な交通インフラを整えていった時代でした。福山においても、国鉄の山陽本線が通り、そこに接続する形で鞆鉄道のような地方私鉄が生まれていきました。城下町として栄えた福山が、近代都市へと変貌していく過程のなかで、鞆鉄道は重要な役割を担ったのです。鉄道は、人や物の流れを変え、地域経済を活性化させ、都市と周辺地域の結びつきを強める原動力となりました。

福山の近代産業を支えたのは、鉄道だけではありません。備後絣の織物業、松永の下駄づくり、そして後の時代には鉄鋼業など、さまざまな産業が福山の発展を支えてきました。鞆鉄道は、そうした地域産業の物資輸送の一翼を担いながら、福山の近代化という大きな流れのなかに位置づけられます。一本の軽便鉄道の歴史をたどることは、福山という地域がどのように近代を歩んできたのかを知ることでもあるのです。

よくある質問(FAQ)

Q鞆鉄道とはどんな鉄道だったのですか?
A

鞆鉄道は、広島県福山市の福山駅と、景勝地・鞆の浦の鞆駅を結んでいた鉄道です。軌間762ミリメートルのナローゲージ(狭軌)を用いた「軽便鉄道」で、総延長はおよそ12.5キロメートルでした。1913年(大正2年)に開業し、1954年(昭和29年)に廃止されました。地元では「らっきょ汽車」「とんてつ」などの愛称で親しまれました。

Qなぜ「らっきょ汽車」と呼ばれたのですか?
A

開業当初に使われていた蒸気機関車の煙突の形が、野菜の「らっきょう」の形に似ていたことに由来するとされています。ふっくらと膨らんだ煙突のシルエットが、市民に親しみを持って受け止められ、この愛称が生まれたと伝えられています。

Q「とんてつ」とは何のことですか?
A

「とんてつ」は「鞆鉄道」を縮めた略称で、地元で親しまれてきた呼び方です。現在の「トモテツバス」「トモテツグループ」という呼称にも、その語感が受け継がれています。鞆鉄道が地域に深く根づいた存在であったことを示す愛称といえます。

Q鞆鉄道はいつ開業したのですか?
A

1913年(大正2年)11月17日に、まず野上〜鞆間が開業しました。続いて翌1914年(大正3年)4月12日に福山町〜野上間が開通し、福山〜鞆間が全通しました。これにより、福山の市街地から鞆の浦まで一本の鉄道でつながりました。

Q鞆鉄道はいつ、なぜ廃止されたのですか?
A

1954年(昭和29年)3月1日に全線が廃止されました。理由は、すでに同じ区間で多数運行されていた並行のバス路線に役割を代替させるためでした。戦後のモータリゼーションの進展のなかで、より機動的なバスへと輸送を一本化する判断がなされたのです。

Q鞆鉄道にはどんな駅がありましたか?
A

記録によれば、福山駅・三ノ丸駅・野上駅・草戸稲荷駅・半坂駅・妙見駅・水呑薬師駅・水呑駅・葛城駅・田尻村駅・金崎駅・鞆駅といった駅があったとされます。総延長約12.5キロメートルの路線に多くの駅が並び、各集落にこまめに停車する地域密着型の鉄道でした。

Q鞆鉄道はどんな車両を使っていましたか?
A

開業当初は蒸気機関車が客車・貨車を牽いていました。昭和に入ると、ガソリンエンジンで自走する気動車(ガソリンカー)が導入され、運行の主力が蒸気機関車からガソリンカーへと移っていきました。1927年(昭和2年)頃からガソリンカーの導入が始まったとされています。

Q「軽便鉄道」とは何ですか?
A

軽便鉄道とは、明治末から大正・昭和初期にかけて全国で建設された、簡易な規格の小型鉄道の総称です。1910年(明治43年)公布の軽便鉄道法により建設が後押しされました。軌間が狭く(鞆鉄道は762ミリメートル)、建設費を抑えられる一方、車体は小ぶりで輸送力には限界がありました。鞆鉄道はその典型例です。

Q鞆鉄道と芦田川にはどんな関係がありますか?
A

鞆鉄道は福山から鞆へ向かう途中で芦田川を渡る必要があり、鉄橋を架けて川を越えていました。台風による橋梁の損傷の記録があるほか、芦田川の河川改修工事にともなって線路の付け替えが行われたとされます。廃止後も、芦田川の鉄橋の橋脚が昭和40年(1965年)頃まで川に残っていたと伝えられています。

Q鞆鉄道の社名はどう変わってきたのですか?
A

設立当初は「鞆軽便鉄道株式会社」でした。1926年(大正15年)12月19日に軽便鉄道線を地方鉄道へ変更したのにあわせて、社名を「鞆鉄道」に改めたとされます。鉄道廃止後もこの社名は変わらず受け継がれ、現在のトモテツグループの母体となっています。

Q鞆鉄道は今も残っているのですか?
A

鉄道路線そのものは1954年に廃止され、現在は残っていません。しかし会社は「鞆鉄道株式会社」として存続し、バス事業を中核とするトモテツグループとして現在も営業を続けています。福山駅から鞆の浦へ向かう路線バスは、かつての鞆鉄道線を継承する形で運行されています。

Q鞆鉄道の廃線跡を見ることはできますか?
A

当時の線路や駅舎はほとんど残っていませんが、線路跡は道路や住宅敷地などに転用され、地形のなかに痕跡をとどめています。水呑のあたりでは軌道敷が道路になり、鞆町手前では細長い土地に住宅が並ぶ独特の景観が生まれたと伝えられます。ただし多くは私有地や生活道路ですので、訪ねる際はマナーを守ってください。

Q鞆鉄道は何のために造られたのですか?
A

主な目的は、瀬戸内屈指の景勝地である鞆の浦への観光輸送と、沿線住民の生活の足の確保でした。加えて、沿線の物資輸送や軍関連の輸送も担ったとされます。観光・生活・産業という複数の需要に応える存在として、鞆鉄道は構想・建設されました。

Q鞆鉄道で鞆の浦を訪れるにはどうすればよいですか?
A

現在は鉄道はありませんが、JR福山駅前からトモテツバス(鞆鉄道のバス)で鞆の浦・鞆港方面へ向かうのが一般的です。かつてらっきょ汽車がたどった福山〜鞆のルートを、今はバスで気軽にたどることができます。鞆の浦の見どころとあわせて、歴史散策の旅をお楽しみください。

まとめ――小さな汽車が結んだ福山と鞆の浦

鞆鉄道は、1913年(大正2年)から1954年(昭和29年)まで、福山と鞆の浦を結んで走った軌間762ミリメートルの軽便鉄道でした。「らっきょ汽車」「とんてつ」の愛称で親しまれ、瀬戸内屈指の景勝地・鞆の浦への観光客、そして沿線の人々の暮らしと産業を、およそ40年あまりにわたって支え続けました。芦田川に橋を架け、台風や河川改修と向き合い、蒸気機関車からガソリンカーへと車両を近代化しながら、鞆鉄道は時代の変化に対応してきました。

戦後のモータリゼーションの波のなかで、小さな軽便鉄道は次第に役割を終え、1954年に鉄道は廃止されました。しかし、鞆鉄道株式会社という会社と、福山と鞆の浦を結ぶという使命は、バス事業へと受け継がれ、今日のトモテツグループへと発展しました。鉄道は姿を消しても、その精神は「トモテツバス」として今も福山の足を担い続けています。福山駅から鞆の浦へと向かう旅は、かつてらっきょ汽車がたどった道をなぞる、歴史を感じる旅でもあるのです。小さな汽車が結んだ福山と鞆の浦の物語は、福山の近代化の歩みそのものとして、これからも語り継がれていくことでしょう。

出典・注意

本記事は、鞆鉄道(トモテツグループ)公式サイト、ウィキペディアの「鞆鉄道」「鞆鉄道線」の各項目、および福山の郷土史に関する資料・記録などを参照し、複数の情報を照らし合わせて作成しました。年代・固有名詞・経緯については、できるかぎり信頼できる情報にもとづいて記述していますが、軽便鉄道時代の記録には資料によって細部の異なる部分があります。

※年代・経緯には諸説ある事項を含みます。詳細は各施設・公式情報や郷土資料でご確認ください。

最終更新: 2026年6月10日

史跡情報は福山NOTE 史跡図鑑(fn_history)より。