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🏯 歴史

神辺のぶどうと備後の果樹の歴史|盆地が育てた果物づくり

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神辺のぶどうと備後の果樹の歴史|盆地が育てた果物づくり

夏の福山を歩くと、直売所の店先に大粒のぶどうが山と積まれ、甘い香りが立ちのぼる。福山市は、じつは広島県を代表する果物の産地のひとつである。なかでもぶどうは、瀬戸内の温暖で雨の少ない気候と、昼夜の寒暖差が生む高い糖度を武器に、全国へ名を知られてきた。本記事のタイトルに掲げた「神辺(かんなべ)」は、福山市北部の内陸にひろがる神辺平野――地形学でいえば備後盆地の一角――を象徴する地名であり、芦田川とその支流・高屋川が育てた田園と果樹のまちでもある。そして福山のぶどうづくりの中心は、市の南部にあたる沼隈(ぬまくま)・山南(さんな)地区にある。本記事では、この備後盆地と瀬戸内沿岸が一体となって育んできた福山・備後の果樹の歴史を、確かな記録にもとづいて時代を追ってたどっていく。

ひとつ、はじめにお断りしておきたい。「神辺のぶどう」という言い方は、神辺を含む備後盆地一帯の果樹文化を象徴する表現として用いている。福山のぶどう生産そのものが本格化し、ブランド「沼隈ぶどう」として全国に名をはせたのは、市の南部にあたる沼隈町・山南地区である。年代や品種、栽培技術の歩みについては、この沼隈・山南の記録が最も詳しく残されており、本記事もそれを軸に据えた。盆地と海辺、内陸と沿岸――地形は異なっても、瀬戸内の光と備後の人びとの工夫が果物を育てたという点で、両者は地続きの物語である。なお、年代や経緯には諸説をふくむ事項があり、断定を避けた箇所には「とされる」「伝わる」と明記している。

ゆかりの史跡・図鑑

果樹づくりの歴史は、田畑や果樹園そのものだけでなく、用水路や干拓地、街道筋の集落、城下の市場など、まちの随所に痕跡を残している。下の図鑑では、福山・備後の歴史を彩る史跡を一覧・比較・詳細の三つの形で見ることができる。果物の物語を入口に、備後盆地のなりたちそのものへと関心を広げてみてほしい。

福山城 伏見櫓 📖江戸時代(元和年間)📍 福山駅前(福山市街)福山城 📖近世(江戸)📍 丸之内福山城博物館 📖近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)📍 福山駅前(福山市街)草戸千軒町遺跡 📖中世📍 草戸町明王院 📖中世📍 草戸町鞆の津の町並み(重伝建) 📖江戸時代(中世〜近代の建造物群)📍 鞆町鞆の浦の常夜燈と港湾施設 📖江戸時代📍 鞆町福山市鞆の浦歴史民俗資料館 📖近代(昭和)📍 鞆町鞆の浦 📖中世〜近世📍 鞆町福禅寺 対潮楼 📖近世📍 鞆町太田家住宅 📖江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)📍 鞆町いろは丸展示館 📖近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)📍 鞆町仙酔島古代(地質)/近代(指定)📍 鞆町廉塾(菅茶山旧宅) 📖近世📍 神辺町神辺城跡 📖中世📍 神辺町福山八幡宮 📖近世📍 北吉津町沼名前神社 📖近世📍 鞆町阿伏兎観音(磐台寺観音堂)近世📍 沼隈町吉備津神社(備後一宮)江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる📍 新市町素盞嗚神社(備後一宮) 📖飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮📍 新市町

史跡時代概要📍 エリア詳細
福山城 伏見櫓江戸時代(元和年間)伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最…📍 福山駅前(福山市街)下へ ↓
福山城近世(江戸)備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御…📍 丸之内下へ ↓
福山城博物館近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩…📍 福山駅前(福山市街)下へ ↓
草戸千軒町遺跡中世芦田川の中州にあった中世の港町・集落遺跡。発…📍 草戸町下へ ↓
明王院中世本堂と五重塔がともに国宝。中世密教寺院で、五…📍 草戸町下へ ↓
鞆の津の町並み(重伝建)江戸時代(中世〜近代の建造物群)潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と…📍 鞆町下へ ↓
鞆の浦の常夜燈と港湾施設江戸時代江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯…📍 鞆町下へ ↓
福山市鞆の浦歴史民俗資料館近代(昭和)鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬…📍 鞆町下へ ↓
鞆の浦中世〜近世瀬戸内の「潮待ちの港」。常夜燈・雁木・波止場…📍 鞆町下へ ↓
福禅寺 対潮楼近世朝鮮通信使の使節が「日東第一形勝」と讃えた客…📍 鞆町下へ ↓
太田家住宅江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で…📍 鞆町下へ ↓
いろは丸展示館近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵…📍 鞆町下へ ↓
仙酔島古代(地質)/近代(指定)鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連…📍 鞆町下へ ↓
廉塾(菅茶山旧宅)近世儒学者・菅茶山が開いた私塾。当時の塾舎・住宅…📍 神辺町下へ ↓
神辺城跡中世備後南部の中世山城。福山城が築かれる以前、備…📍 神辺町下へ ↓
福山八幡宮近世福山城の北に鎮座し、東西二つの宮を備える。歴…📍 北吉津町下へ ↓
沼名前神社近世鞆の「祇園さん」。夏の大松明を担ぐ「お手火神…📍 鞆町下へ ↓
阿伏兎観音(磐台寺観音堂)近世断崖の上に建つ朱塗りの観音堂。国の重要文化財…📍 沼隈町下へ ↓
吉備津神社(備後一宮)江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で…📍 新市町下へ ↓
素盞嗚神社(備後一宮)飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏の…📍 新市町下へ ↓

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福山城 伏見櫓

江戸時代(元和年間) / 📍福山駅前(福山市街)

伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最古級の三層入母屋造の現存櫓。 福山城伏見櫓は、元和8年(1622年)の福山城築城に際し、城主水野勝成が将軍徳川秀忠から下賜を受け、京都の伏見城から移築させたと伝えられる櫓である。長らく伝承とされていたが、昭和29年(1954年)の解体修理の際、梁の陰刻に「松ノ丸ノ東やく(ら)」の文字が発見され、伏見城からの移築を裏付ける確かな遺構であることが明らかになった。構造は三層入母屋造で、初層と二層を同じ柱割とし、その上にやや小さい三層を望楼状に載せる。桁行八間・梁間三間、本瓦葺の規模をもつ。慶長期の城郭建築の様式を残す初期の典型として価値が高く、昭和8年(1933年)1月23日に国の重要文化財に指定された。福山城内に現存し、特別公開が行われることもある。

🕰 時代江戸時代(元和年間)
🏛 成立・築造元和8年(1622年)水野勝成の福山城築城時に伏見城から移築。国指定重要文化財(昭和8年=1933年1月23日指定)
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目(福山城内)
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福山城

近世(江戸) / 📍丸之内

備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御門は京都伏見城からの移築と伝わる。2022年に築城400年を迎えた。

🕰 時代近世(江戸)
🏛 成立・築造1622年(元和8)・水野勝成
👤 関連水野勝成・阿部正弘
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目8
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福山城博物館

近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期) / 📍福山駅前(福山市街)

水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩の歴史を体験型展示で伝える博物館 福山城博物館は、JR福山駅のすぐ北に建つ福山城天守内に置かれた市立の歴史資料館です。福山城は1622年(元和8年)、徳川譜代の大名・水野勝成が西国鎮衛の拠点として築いた近世城郭で、天守は1931年に国宝に指定されました。しかし1945年8月の福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリート造で外観が復興され、その内部が博物館として公開されました。2022年には築城400年に合わせて大規模リニューアルされ、北面の鉄板張り(黒い装い)の再現や、一番槍レース・火縄銃などの体験型コンテンツ、デジタル映像を用いた展示が整えられ、福山城と福山藩の歴史を学べる施設となっています。城内に現存する伏見櫓と筋鉄御門は、京都・伏見城からの移築と伝えられ、国の重要文化財に指定されています。常設展は有料、月曜休館とされます。

🕰 時代近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)
🏛 成立・築造福山城は1622年(元和8年)に初代福山藩主・水野勝成が築城。天守は1945年福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリートで外観復興、内部を博物館として開館。2022年に大規模リニューアル
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目8番
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鞆の津の町並み(重伝建)

江戸時代(中世〜近代の建造物群) / 📍鞆の浦

潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と町家が一体で残る重伝建地区 鞆の浦は瀬戸内海の中央に位置し、古来「潮待ちの港」として栄え、万葉集にも詠まれた歴史を持つとされる。江戸時代には北前船など廻船の寄港地として繁栄し、朝鮮通信使の寄港地ともなった。2017年(平成29年)11月28日、「福山市鞆町伝統的建造物群保存地区」として約8.6ヘクタールが国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。範囲は鞆字西町の全域を中心に、石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地の一部に及ぶ。中世から江戸期に整えられた地割の上に、江戸時代から昭和30年代までの町家や寺社、石垣などが一体的に残る近世港町の景観が評価された。常夜燈・雁木・波止・焚場・船番所の5つの港湾施設がほぼ完全に残る点は全国でも稀とされる。広島県内では3例目の選定で、2018年には日本遺産にも認定された。

🕰 時代江戸時代(中世〜近代の建造物群)
🏛 成立・築造2017年(平成29年)11月28日に国の重要伝統的建造物群保存地区へ選定。地割は中世〜江戸期、建造物は江戸時代〜昭和30年代まで。
📍 所在地広島県福山市鞆町(鞆字西町全域ほか、字石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地字古城跡・草谷の各一部)
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鞆の浦の常夜燈と港湾施設

江戸時代 / 📍鞆の浦

江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯一の近世港、鞆港。 鞆の浦の鞆港には、常夜燈・雁木・波止・焚場(たでば)・船番所という江戸時代の港湾施設5点がほぼ揃って現存し、これらが一体で残るのは全国でも鞆港のみとされる。シンボルの常夜燈は安政6年(1859)の刻銘をもつ石造灯台で、海中の基礎石から宝珠の頂までは約12.1mに及び、江戸期の石造常夜燈としては国内最大級とされる。雁木は潮の干満に応じて船を着けられる階段状の船着き場で、半円形の港内に連続して巡らされている。波止は花崗岩を積んだ全長約146mの防波堤で、江戸後期に築かれ明治期に修築された。鞆港を含む沿岸と沖の島々一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定され、鞆町西町を中心とする区域は2017年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。日本遺産「瀬戸の夕凪が包む 国内随一の近世港町」の構成要素でもある。

🕰 時代江戸時代
🏛 成立・築造常夜燈は安政6年(1859)造立とされる。雁木・波止・焚場・船番所は江戸後期築造、波止は明治期に修築。鞆港一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定。
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆
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福山市鞆の浦歴史民俗資料館

近代(昭和) / 📍鞆の浦

鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬戸内の歴史・民俗を伝える市立資料館 福山市鞆の浦歴史民俗資料館は、広島県福山市鞆町後地に建つ市立の博物館で、「潮待ちの館」の愛称で親しまれる。1977年(昭和52年)からの地元有志による調査・収集活動を背景に、福山市制70周年記念事業として1988年(昭和63年)に開館した。立地は、福島正則が築いたとされる鞆城跡(福山市指定史跡)の高台で、瀬戸内海を見渡せる。万葉の時代から潮待ち・風待ちの港として栄えた鞆の浦を中心に、古代から近世にいたる歴史資料を展示。鯛網漁のジオラマや錨を製造した鍛冶場、朝鮮通信使関連資料、保命酒に関する資料に加え、お手火神事・お弓神事といった地域の民俗文化財も常設展示する。鞆の歴史と暮らしを総合的に学べる拠点とされる。

🕰 時代近代(昭和)
🏛 成立・築造1988年(昭和63年)開館。福山市制70周年記念事業として建設。建つ鞆城跡は福島正則が築いたとされる(福山市指定史跡)
📍 所在地広島県福山市鞆町後地536-1
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太田家住宅

江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期) / 📍鞆の浦

鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で、国の重要文化財 鞆の浦を代表する歴史的建造物で、薬用酒「保命酒」の醸造で財を成した商家の旧宅。もとは大坂の漢方医を出自とする中村家の屋敷で、明暦元年(1655年)に鞆へ移り住み、まもなく十六味地黄保命酒の製造・販売を始めて大ヒットし、福山藩の御用名酒屋として販売独占権を得たとされる。明治期に廻船業を営んだ太田家が継承し、現在の名で呼ばれる。主屋を中心に保命酒蔵や各種土蔵など九棟が建ち並び、建築年代は18世紀中期から19世紀前期に及ぶ。瀬戸内の商家建築を伝える貴重な遺構として、1991年に国の重要文化財に指定された。幕末には三条実美ら尊王攘夷派の公卿が立ち寄ったと伝わり、別宅の朝宗亭とともに「鞆七卿落遺跡」として広島県の史跡(1940年指定)にもなっている。

🕰 時代江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)
🏛 成立・築造主屋は18世紀中期、ほか北保命酒蔵が天明8年(1788年)、西蔵が寛政元年(1789年)、東保命酒蔵が寛政7年(1795年)など18世紀中期〜19世紀前期。国の重要文化財指定は1991年(平成3年)5月31日。
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆842
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いろは丸展示館

近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期) / 📍鞆の浦

坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵を活かした資料館 鞆の浦のシンボル常夜灯(とうろどう)のすぐそばに建つ資料館。1867年(慶応3年)、坂本龍馬と海援隊が運航したいろは丸が紀州藩の明光丸と備後灘で衝突・沈没した「いろは丸事件」を伝える施設で、その談判が鞆の浦で行われた縁にちなむ。建物は江戸期に建てられた太い梁が印象的な土蔵で、地元では「大蔵」と呼ばれ、国の登録有形文化財とされる。館内には海底に沈むいろは丸を再現したジオラマ、引き揚げられた陶器や部品、調査風景の写真などを展示し、2階には龍馬が宿泊先で身を潜めたという「隠れ部屋」が再現され、龍馬の蝋人形も置かれている。1989年(平成元年)7月の開館。幕末史と鞆の港町文化を同時に味わえるスポットである。

🕰 時代近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)
🏛 成立・築造1989年(平成元年)7月開館。建物は江戸期築の土蔵「大蔵(浜蔵)」で、国の登録有形文化財とされる。展示題材のいろは丸事件は1867年(慶応3年)
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆843-1
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仙酔島

古代(地質)/近代(指定) / 📍鞆の浦

鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連なる瀬戸内海国立公園の名勝 仙酔島は鞆の浦の沖合に浮かぶ周囲約6キロの島で、住所は福山市鞆町後地。鞆港から市営渡船で約5分の距離にあり、観光客の往来はあるが定住者のいない無人島とされる。1925年(大正14年)に国の名勝「鞆公園」の一部として指定され、1934年(昭和9年)には日本で最初に指定された国立公園・瀬戸内海国立公園に含まれた。島は約9000万年前の大規模な火山活動による溶結凝灰岩を主体とし、南側海岸には青・赤・黄・白・黒の岩が200メートル以上連なる「五色岩」が見られ、地質的に貴重とされる。「仙人が酔うほど美しい島」が名の由来と言われる。江戸後期の学者・頼山陽が当地の景観を「山紫水明」と評したとも伝わる。

🕰 時代古代(地質)/近代(指定)
🏛 成立・築造1925年(大正14年)国名勝「鞆公園」に指定。1934年(昭和9年)日本初の国立公園・瀬戸内海国立公園に編入。島自体は約9000万年前の火山活動で形成されたとされる
📍 所在地広島県福山市鞆町後地
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吉備津神社(備後一宮)

江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる / 📍新市・北部

備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で「いっきゅうさん」と親しまれる古社 福山市新市町宮内に鎮座する備後国一宮で、地元では「一宮さん(いっきゅうさん)」と親しまれる。社伝では大同元年(806年)に吉備国の吉備津神社から勧請し創建されたと伝わるが、延喜式神名帳に記載がないことなどから実際の成立はより後とする説もある。主祭神は吉備国を治めたとされる大吉備津彦命。現在の本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が旧規模にならい造営したもので、桁行七間・梁間四間の入母屋造檜皮葺、国の重要文化財に指定されている。ほかにも木造狛犬や太刀などが重要文化財として伝えられ、複数の建造物が広島県・福山市指定文化財となっている。隣接する櫻山城跡なども史跡として知られ、備後の信仰と歴史を今に伝える。

🕰 時代江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる
🏛 成立・築造本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が造営、国の重要文化財。創建は大同元年(806年)と伝わるが諸説ある
📍 所在地広島県福山市新市町宮内400
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素盞嗚神社(備後一宮)

飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮 / 📍新市・北部

祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏のけんか神輿で名高い古社 福山市新市町戸手に鎮座する素盞嗚神社は、『延喜式神名帳』に載る式内社で備後国一宮を称し、旧社格は県社です。主祭神は素盞嗚尊で、稲田姫命・八王子を配祀します。社伝では天武天皇の治世、7世紀ごろ(679年か)の創建とされます。『釈日本紀』所収の「備後国風土記」逸文に伝わる蘇民将来説話の舞台「疫隈国社」と結びつけられ、茅の輪くぐりや祇園信仰・祇園祭発祥の地の一つとされています。神仏習合期には牛頭天王を祀り、遣唐使・吉備真備が734年に当社から播磨の広峯神社へ勧請したとも伝わります。毎年7月の例祭では、勇壮なけんか神輿(神輿合わせ)が行われることで知られます。

🕰 時代飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮
🏛 成立・築造社伝では天武天皇期の7世紀ごろ(679年か)創建とされる。『延喜式神名帳』記載の式内社で、旧県社
📍 所在地広島県福山市新市町大字戸手1-1

備後盆地という舞台――果物が育つ土地のなりたち

神辺城跡(本丸跡)
神辺城跡(本丸跡)(画像:Wikimedia Commons / CC)

福山・備後の果樹の歴史を語るには、まずこの土地の地形を知らねばならない。広島県東部、芦田川がつくった福山平野は、上流側の中流部を「神辺平野」と呼び、下流部を「福山平野」と呼ぶ。神辺平野は地形学的には盆地であり、これが本記事でいう「備後盆地」にあたる。芦田川の支流である高屋川は、福山市神辺町三谷に源を発し、神辺平野のほぼ全域を流れて福山市北本庄で本流の芦田川に合流する平地河川である。盆地の底をうるおすこの水系こそ、稲作と果樹を支える命の脈であった。

芦田川は流路延長およそ86キロメートル、流域面積はおよそ860平方キロメートルにおよぶ。上流の三次・世羅方面から東城・府中を経て福山へと下り、最後は瀬戸内海に注ぐ。この川が長い年月をかけて運んだ土砂が盆地と平野を形づくり、人びとはその沖積地を田に拓き、周囲の丘陵を畑や果樹園に変えていった。盆地という地形は、まわりを山に囲まれているため日中によく晴れて気温が上がり、夜は冷気がたまって冷えこむ。この昼夜の寒暖差こそ、果実に糖分をたっぷりと蓄えさせる自然の妙であった。

瀬戸内海式気候という恵み

福山一帯の気候は、典型的な瀬戸内海式気候である。中国山地と四国山地に二重にはさまれているため、季節風が山で雨を落としたあとの乾いた空気が吹きおろし、年間を通じて降水量が少なく、日照時間が長い。雨が少なければ病害が出にくく、日照が多ければ光合成が進んで実が甘くなる。果樹にとって、これほど好都合な条件はそうない。瀬戸内沿岸でみかんやレモンの栽培がさかんなのも、同じ気候の恩恵である。

少雨という性質は、裏を返せば水の確保が常に課題であることも意味する。だからこそ福山では、近世以来、ため池や用水路の整備が大きな意味をもってきた。江戸時代の新田開発に際しては、芦田川の水を干拓地へ送るために網目状の用水路がひろく整備されたと伝わる。乾いた瀬戸内の空の下で、水をいかに引き、いかに貯めるか――その営みの積み重ねが、のちの果樹園にスプリンクラーの灌水を引く下地となっていく。

盆地と沿岸、二つの顔をもつ福山の農

福山の農業は、内陸の盆地と瀬戸内の沿岸という二つの顔をあわせもつ。内陸の神辺平野では、肥沃な沖積地を生かした稲作が古くからの基幹であり、城下に近い低湿地では水生作物のくわいが特産となった。一方、海に近い丘陵地――沼隈半島や山南地区――では、傾斜地ならではの水はけのよさと日当たりを生かして果樹が育てられた。平野で米を、丘で果実を。地形の多様さがそのまま農産物の多様さとなり、備後の食卓を豊かにしてきたのである。

こうした土地の性格を頭に入れておくと、なぜ福山でぶどうが根づいたのかが見えてくる。盆地と沿岸に共通する「日照の多さ」「少雨」「寒暖差」という三つの条件が、糖度の高いぶどうづくりにそのまま結びついたのだ。次章からは、その果樹づくりがどのように始まり、どんな苦労と工夫を重ねて全国ブランドへと育っていったのかを、年代を追って見ていこう。

米と藍と煙草――果樹以前の備後の農

備後の丘陵地が、はじめから果樹園だったわけではない。福山のぶどう産地として知られる山南地区でも、ぶどう栽培が始まる前は麦やタバコなどを栽培していたと記録されている。少雨で日照の多い瀬戸内の畑作地帯では、米だけでなく、麦・タバコ・い草といった商品作物が組み合わされ、農家の暮らしを支えていた。これらはいずれも、乾いた土地と長い日照を好む作物である。

備後といえば、藍染めの木綿織物「備後絣(びんごがすり)」が全国に知られた。絣の原料となる綿花や藍もまた、この地の畑でつくられた商品作物であった。木綿を織り、藍に染めるという産業の裏には、それを育てる農地と農家の存在があった。果樹が広がる以前の備後の畑は、こうした繊維と嗜好品の作物がいろどっていたのである。備後絣の歴史については、別記事で詳しくたどっている。

城下町が生んだ市場と物流

1622年(元和8年)、初代福山藩主・水野勝成が福山城を築き、城下町を整えたことは、備後の農と商に大きな転機をもたらした。城下に市が立ち、街道が結ばれ、瀬戸内の港から船が出る。農家がつくった米・綿・藍・煙草は、城下の市場を経て各地へと運ばれた。生産だけでなく、それを売りさばく流通の仕組みが整ったことが、後世の果樹産業――収穫した果実を新鮮なうちに大都市へ送り届けるという商売――の土台になっていく。

水野勝成は新田開発にも力を入れた。干拓によって耕地を広げ、用水路を巡らせて水を引く。この近世の土木と開発の精神は、のちに山林を切り拓いてぶどう団地を造成する昭和の農民たちにも、形を変えて受け継がれていったといえる。水野勝成の事績については、別記事にまとめている。

海辺のまちと果樹の素地

福山の海辺には、古くからの港町・鞆の浦がある。潮待ちの港として栄えた鞆は、瀬戸内を行き交う船と人と物の結節点であった。海運が発達した土地柄は、収穫した果実をいたみやすいまま遠くへ運ぶうえでも有利に働いた。沼隈半島はこの鞆にもほど近く、海と丘がせめぎあう地形のなかに、のちのぶどう団地が拓かれていく。鞆の浦の街並みの歴史は、別記事で紹介している。

このように、果樹が登場する以前の備後には、米と商品作物を育てる農、それを売る市場と物流、そして海運という素地がすでに整っていた。あとは、この土地に合った高収益の作物が見いだされるのを待つばかりであった。その作物こそ、戦後にあらわれた「ぶどう」だったのである。

戦後の出発――山林を拓いてぶどう団地を築く

芦田川の河口部
芦田川の河口部(画像:Wikimedia Commons / CC)

福山におけるぶどう栽培の本格的な歩みは、戦後の昭和20年代にさかのぼる。記録によれば、山南地区でぶどう栽培が始まったのは1952年(昭和27年)とされる。それまで麦やタバコを育てていた畑に、新たな換金作物としてぶどうが導入されたのである。戦後復興のなか、農家がより高い収入を得られる作物を求めていた時代であった。

栽培はやがて、平地の畑だけにとどまらず、丘陵の山林へと広がっていった。沼隈地区では、共有林であった山を切りひらき、ブルドーザーで斜面を階段状に造成して、約30ヘクタールにおよぶぶどう団地が築かれたと伝わる。重機を使って山ごと果樹園に変えるという大がかりな開拓は、近世の新田開発を思わせるほどの労力であった。植えられた主要品種は「マスカット・ベリーA(マスカットベリーA)」――黒みがかった大粒で、生食にもワインにも向くぶどうである。

なぜ丘陵地がぶどうに向いたのか

ぶどうは、過湿を嫌い、水はけのよい土地を好む果樹である。沼隈・山南の丘陵地は、傾斜があるために雨水がたまりにくく、根が呼吸しやすい。加えて、瀬戸内特有の少雨と長い日照、そして昼夜の寒暖差が、実に糖分を蓄えさせる。米づくりには向かない斜面の荒れ地が、ぶどうにとっては最良の適地だったのである。土地の弱点を作物選びによって強みに変える――そこに農家の知恵があった。

もっとも、山を拓いた当初の苦労は並大抵ではなかった。木を伐り、根を掘り、斜面を整え、苗を植え、棚を組む。果樹は植えてすぐに実るものではなく、収穫が安定するまでに数年を要する。その間も病害虫や台風と向きあいながら、農家は手探りで栽培技術を磨いていった。戦後の福山のぶどうづくりは、こうした地道な開拓と試行錯誤の積み重ねから始まったのである。

団地化と共同出荷のはじまり

個々の農家がばらばらに栽培するだけでは、品質も価格も安定しない。そこで重要になったのが「団地化」と「共同出荷」である。一定の地域にぶどう園を集め、栽培技術や規格をそろえ、選別・出荷をまとめて行う。こうした産地組織のしくみが整うことで、福山のぶどうは個人の畑の産物から「産地のブランド」へと脱皮していく。のちに「沼隈ぶどう」というブランド名のもとに出荷されるようになるのも、この共同の体制があってこそであった。

産地としての福山のぶどうづくりは、こうして昭和20年代から30年代にかけて土台を固めた。だが、福山のぶどうが全国に名を知られる決定的な転機は、この先――「種なし」という技術革新によって訪れることになる。

種なしへの挑戦――ジベレリンが変えたぶどう

ぶどうの歴史を語るうえで欠かせないのが、「ジベレリン処理」という技術である。ジベレリンは植物ホルモンの一種で、これを花房に処理すると、受粉しなくても実が肥大し、種のないぶどうが得られる。福山では、1963年(昭和38年)に「デラウェア」をジベレリン処理し、種なしぶどうをつくれるようになったと記録されている。種をいちいち出さずに食べられる手軽さは、消費者に大いに歓迎された。

デラウェアでの成功は、農家に大きな問いを投げかけた。主力品種であるマスカット・ベリーAでも、同じように種なしにできないだろうか――。デラウェアは小粒のぶどうだが、ベリーAは大粒で食べごたえがある。その大粒ぶどうを種なしにできれば、食べやすさと満足感を兼ねそなえた、まったく新しい商品が生まれる。福山のぶどう農家と関係者は、この難題に挑んでいった。

ジベレリン処理という手間

ジベレリン処理は、決して魔法のように簡単な技術ではない。花が咲く前後の限られた時期に、一房ずつ薬剤の液に浸す作業を、適切なタイミングで二度にわたって行う必要がある。処理が早すぎても遅すぎても、実の付きや大きさにむらが出る。広大な果樹園の房をひとつひとつ手作業で処理していくのは、たいへんな労力と熟練を要した。種なしぶどうの一粒一粒には、こうした農家の細やかな手間が込められている。

品種ごとに最適な処理の濃度や時期は異なり、新しい品種でそれを確立するには、何年もの試験と観察の積み重ねが欠かせなかった。失敗すれば一年分の収穫を棒に振ることにもなる。それでも農家が挑戦を続けたのは、「大粒の種なしぶどう」が実現すれば、産地の未来を大きく切りひらけると信じたからであった。

「ニューベリーA」の誕生――日本初の快挙

福山ばら公園(「ばらのまち福山」の象徴)
福山ばら公園(「ばらのまち福山」の象徴)(画像:Wikimedia Commons / CC)

そして1970年(昭和45年)、福山のぶどう史にとって記念すべき成果が生まれた。マスカット・ベリーA(ベリーA)を種なし化することに成功し、日本ではじめての大粒の種なしぶどう「ニューベリーA」が誕生したのである。福山青果の解説によれば、ニューベリーAは「ベリー」と「マスカット・ハンブルク」を交配した「ベリーA」を種なし処理したもので、ベリーAのおいしさと風味を受け継ぎながら、種を出す手間なく食べやすくしたぶどうだという。この品種の発祥地は、まさに福山市の沼隈町である。

ニューベリーAは、粒の大きさがおよそ5〜7グラムほどで、甘みが強く、ほどよい酸味もあって食味がよい。日持ちがよいのも特長で、生食用としてもワインの原料としても使える両用のぶどうである。黒みがかった上品な色あいと、口に含んだときのジューシーな甘さは、種なしであることの手軽さとあいまって、多くの人を魅了した。福山の丘陵が生んだこの新品種は、産地の誇りそのものとなった。

「沼隈ぶどう」ブランドの確立

ニューベリーAの開発成功からほどなく、1972年(昭和47年)から、福山のぶどうは「沼隈ぶどう」の名で出荷されるようになった。発祥地である沼隈の地名を冠したこのブランドは、産地一丸となった栽培と選別、共同出荷の体制に支えられ、瀬戸内を代表するぶどうとして市場に定着していく。「沼隈ぶどう」という言葉は、いまも夏になると福山の直売所や市場をにぎわせる、なじみ深い夏の風物詩である。

ニューベリーAの入荷期間はおおむね7月から9月にかけてで、出荷は2キログラム箱(おおよそ4〜6房)などの規格でまとめられる。出荷にあたっては糖度や房の姿で等級分けがなされ、選果場で厳しく選別される。盆地と沿岸の寒暖差が生んだ高い糖度を、産地ぐるみの品質管理が裏打ちする。こうして「日本初の大粒種なしぶどう発祥の地」という看板は、福山のぶどうづくりの確固たる誇りとなったのである。

種なしの輪を広げる

ニューベリーAで確立した種なし化の技術は、ほかの品種にも応用されていった。1978年(昭和53年)には、大粒で人気の高い「ピオーネ」も種なしで栽培できるようになったと記録されている。沼隈の「種なしピオーネ」は、その大きな粒と濃厚な甘さで評判を呼び、ニューベリーAと並ぶ産地の主力へと育っていく。一つの成功が次の挑戦を呼び、品種の幅と産地の厚みが増していった。

種なし化は、単に「食べやすさ」を提供しただけではない。種を取りのぞく手間が消費者から消えたことで、ぶどうはより手軽な果物となり、贈答や行楽の場でいっそう親しまれるようになった。技術革新が市場を広げ、市場の広がりが産地をさらに育てる――福山のぶどうは、その好循環の只中にあった。

栽培技術の進化――垣根仕立てと機械化

品種だけでなく、栽培の方法そのものも年とともに進化してきた。山南地区の記録には、良質なぶどうを安定して生産するための技術として、いくつもの工夫が挙げられている。まず仕立て方では「垣根仕立て」が用いられる。これは枝を垣根のように一定の面に整えて配置する整枝法で、日光を均一に当て、風通しをよくして病害を防ぎ、作業もしやすくする利点がある。

防除には「スピードスプレヤー」と呼ばれる機械が活躍する。これは農薬を霧状にして広範囲に効率よく散布できる動力噴霧機で、広い果樹園の手入れを省力化した。少雨とはいえ夏の蒸し暑さは病害虫を呼ぶため、適切な時期の防除は良果を得るうえで欠かせない。人手だけでは限界のあった作業を、機械化が大きく後押ししたのである。

水を引く――スプリンクラー灌水

少雨の瀬戸内では、水の確保が果樹づくりの生命線である。山南のぶどう園では、灌水のために「スプリンクラー」が導入された。畑の上から人工の雨のように水をまくことで、乾燥する時期にも安定して水分を供給できる。盆地の寒暖差や日照という自然の恵みを最大限に生かすには、足りない水を人の手で補う必要があった。近世以来の用水整備の精神が、ここでも形を変えて生きている。

水をやりすぎてもぶどうは味が薄くなり、やらなすぎても実が育たない。スプリンクラーは単なる便利な道具ではなく、土の乾き具合や生育の段階を見きわめながら使いこなす、繊細な技術の一部であった。機械を入れたからといって農家の目利きが不要になるわけではなく、むしろ機械を生かすための観察と判断が、いっそう重みを増したのである。

房作りと選別――一房に込める手間

美しく食味のよいぶどうをつくるには、「房作り」と呼ばれる作業が欠かせない。一房のなかの粒を間引き、房の形を整え、大きさをそろえる。粒が密になりすぎれば日が当たらず色づきが悪くなり、まばらすぎれば見栄えが落ちる。理想の房に仕立てるために、農家は一房ずつ手をかけて余分な実を落としていく。店先に並ぶ整った房の裏には、こうした地道な選別の手間がある。

収穫されたぶどうは、出荷の際にさらに等級分けされる。糖度、房の姿、粒のそろい――いくつもの基準で選り分けられ、品質ごとに規格化されて市場へと送り出される。産地としての信用は、こうした一貫した品質管理によって守られてきた。技術の進化とは、目新しい機械を入れることだけでなく、人の手による細やかな仕事を絶やさずに磨きつづけることでもあったのだ。

ぶどうだけではない――備後盆地の多彩な果実と水生作物

福山・備後が育てる果物は、ぶどうばかりではない。瀬戸内の温暖な気候のもと、レモンやいちじく、杏(あんず)など、さまざまな果実がこの地で実りをむかえる。盆地と沿岸、平野と丘陵という多様な地形が、それぞれに適した作物を受け入れてきた結果である。果樹のまちとしての福山の厚みは、品目の豊かさにも表れている。

たとえば杏は、備後の地で300年以上の歴史をもつと伝えられる果実である。初夏に黄金色の実を結ぶ杏は、生食のほかジャムや干し杏などに加工され、古くから人びとの暮らしに寄りそってきた。いちじくは8月中旬ごろから収穫期をむかえ、やわらかな甘さで夏の終わりを告げる。レモンもまた、瀬戸内沿岸を代表する果実として福山周辺で育てられている。

日本一の「福山のくわい」

果物からは少し外れるが、備後盆地の農を語るうえで欠かせないのが「くわい(慈姑)」である。福山市はくわいの生産量が日本一で、全国シェアはおよそ7割にのぼるとされる。芽が勢いよく伸びる姿から「めでたい」「芽が出る」縁起物として、おせち料理に欠かせない食材である。盆地の低湿地という、米でも果樹でもない土地を生かして、福山はこの水生野菜の一大産地となった。

福山でのくわい栽培は、1902年(明治35年)ごろ、千田町の沼地に自生していたものを福山城周辺の堀に持ちこんで栽培が始まったと伝えられる。城の堀という意外な場所が、日本一の産地の出発点だったというのは興味深い。その後、1967年(昭和42年)に福山くわい出荷組合が設立され、産地としての体制が整えられた。そして1995年(平成7年)からは、福山が生産量で全国一位の座についたとされる。

くわいは11月中旬から年末にかけて出荷され、主におせち料理向けに生産される。2020年時点では、出荷組合に属する農家はおよそ64戸、栽培面積は約17ヘクタールと記録されている。ぶどうが夏の盆地を彩るなら、くわいは年の瀬の食卓を彩る。果樹と水生作物、夏と冬――福山の農は、季節をまたいで多彩な恵みをもたらしてきたのである。

大粒ぶどうの多彩なラインナップ

ぶどうに話を戻すと、福山では今日、ニューベリーAやピオーネのほかにも、多彩な大粒品種が育てられている。香り高く皮ごと食べられる「シャインマスカット」、黒く大きな粒の「ピオーネ」、赤系の「悟紅玉(ごこうぎょく)」など、甘くて食べごたえのあるぶどうがそろう。時代の好みに合わせて品種を更新し、産地としての魅力を保ちつづけているのである。

品種が増えれば、出荷の期間も長くなる。早い品種から遅い品種へと収穫がリレーされることで、夏のはじめから秋口まで、長く新鮮なぶどうを楽しめるようになった。消費者にとっては選ぶ楽しみが増え、農家にとっては出荷の波をならして経営を安定させられる。多品種化は、味と経営の両面で産地を支える戦略でもあった。

ぶどう園の一年――季節とともに巡る農の暮らし

夏の店先に並ぶ一房のぶどうは、じつは一年がかりの仕事の結晶である。果樹園の作業は冬から始まる。葉を落として休眠したぶどうの木に対し、農家は剪定(せんてい)を行う。不要な枝を切り、翌年に実をならせる枝を選び、樹の形を整える。剪定の良し悪しがその年の収量と品質を大きく左右するため、長年の経験と勘がものをいう、いわば「冬の勝負どころ」である。

春になり気温が上がると、芽が動き出し、若葉が芽吹く。やがて花穂(かすい)があらわれ、開花の季節をむかえる。この時期に、種なしぶどうではジベレリン処理が行われる。花の咲く前後の限られたタイミングを逃さず、房を薬剤の液に浸していく。広い園のなかを、農家は時期を見はからって一房ずつ処理してまわる。気温や生育の進み具合を読みながらの、神経を使う作業である。

夏――摘粒・袋かけ・収穫の繁忙期

初夏から夏にかけては、果樹園が最も忙しくなる時期である。実が小さいうちに余分な粒を間引く「摘粒(てきりゅう)」、房の形を整える房作り、そして実を病害や日焼けから守るための袋かけ。どれも一房ずつ手をかける細やかな作業で、暑さのなか黙々と続けられる。粒のそろった美しい房は、こうした地道な手仕事の積み重ねによってはじめて生まれる。

そして収穫である。ぶどうは追熟しにくい果物のため、樹の上で十分に甘くなったものを見きわめて摘み取る。糖度や色づきを確かめながら、食べごろのものから順に収穫していく。早朝の涼しいうちに摘んで鮮度を保ち、その日のうちに選果場や直売所へ運ぶ。一年の労が報われる、最も喜びの大きい季節である。

秋・冬――翌年への備え

収穫を終えても、農家の仕事は終わらない。落葉のあとは土づくりや施肥を行い、来季にそなえて樹の体力を養う。病害虫の温床となる古い枝や落ち葉を片づけ、園を清潔に保つ。そして再び冬の剪定へと、季節は一巡する。果樹づくりとは、こうした一年の循環を、何十年にもわたって絶やさず続ける営みなのである。一本の木が実をつけつづける背後には、世代を超えた手入れの積み重ねがある。

この一年の巡りは、盆地の気候とぴたりと寄りそっている。冬の冷えこみが樹を休ませ、春の日ざしが芽吹きをうながし、夏の強い日照と寒暖差が実を甘くする。自然のリズムに人の手が呼応してはじめて、よいぶどうが実る。福山のぶどうづくりは、土地と気候と人とが奏でる、一年がかりの合奏のようなものである。

産業のまち福山と、農の歩み

福山の歴史は、農業だけでなく、ものづくりの産業とともにあった。城下町に始まった備後絣の織物業、松永の下駄づくり、そして近代以降は鉄のまちとしての歩み。これらの産業の発展は、農村から都市への人の移動や、地域経済の構造そのものを変えていった。果樹産業もまた、こうした地域全体の変化のなかで、その立ち位置を模索してきた。

戦後の高度経済成長期、福山には製鉄をはじめとする重工業が立地し、まちは大きく姿を変えた。働き口が工場へと移り、農家の担い手が減るなかで、ぶどうのような高付加価値の作物に活路を見いだすことは、農村が生き残るための切実な選択でもあった。山を拓いてぶどう団地を築いた昭和の農民たちの努力は、産業化の波のなかで農を守ろうとする意志の表れでもあったのだ。松永の下駄や鉄のまち福山の歩みについては、それぞれ別記事でたどっている。

城下町の市場が支えた流通

果物は、つくるだけでは商売にならない。いたみやすい果実を、新鮮なうちに消費者のもとへ届けてはじめて価値が生まれる。その点で、城下町以来の市場と物流の蓄積は、福山の果樹産業にとって大きな財産であった。鉄道や道路が整い、青果市場が機能することで、福山のぶどうは広島・岡山はもとより、遠く大都市の市場へも送り出されるようになった。

近年は、直売所や産地直送、ふるさと納税の返礼品など、生産者と消費者を直接つなぐ新しい流通も広がっている。産地の名を冠したぶどうが、つくり手の顔とともに届けられる。城下町の市場から始まった福山の流通は、時代とともに形を変えながら、果樹産業を支えつづけているのである。

現在に受け継がれるもの――発祥の地という誇り

「日本初の大粒種なしぶどう・ニューベリーA発祥の地」――この称号は、福山のぶどう産地にとって、何ものにも代えがたい誇りである。種なしという技術革新を、ほかでもない自分たちの丘で成しとげたという自負は、世代を超えて受け継がれ、産地のアイデンティティとなっている。夏になれば「沼隈ぶどう」の名が市場に立ち、直売所には行列ができる。その光景は、半世紀をこえて積み重ねられてきた努力の結晶である。

受け継がれているのは、品種や栽培技術だけではない。山を拓き、種なしに挑み、品質を守りぬいてきた農家の精神そのものが、若い世代へと引き継がれている。近年は青年部の活動なども盛んで、伝統の品種を守りながら、新しい品種や販路にも積極的に挑む姿が見られる。守ることと挑むことの両輪が、産地を未来へとつないでいる。

盆地の恵みを未来へ

備後盆地と瀬戸内沿岸が育んだ果樹文化は、いまも福山の食と観光の大切な柱である。ぶどう狩りに訪れる人びと、直売所で旬の味を求める人びと、贈り物に産地のぶどうを選ぶ人びと――果物を通じて、まちの内と外がつながっていく。一粒のぶどうの甘さの背後には、土地の地形があり、気候があり、近世以来の農の営みがあり、戦後の開拓と技術革新の物語がある。

気候変動や担い手の減少など、これからの果樹産業には課題も多い。それでも、盆地の寒暖差と瀬戸内の日照という変わらぬ恵みがあるかぎり、福山の果物づくりは形を変えながら続いていくだろう。先人が山を拓いて未来に託したように、いまの世代もまた、次の世代へと産地の誇りを手渡していく。福山・備後の果樹の歴史は、いまも書き継がれている途上にあるのである。

福山・備後の果樹の歴史 関連年表

ここまでたどってきた歩みを、年表の形で整理しておく。なお、年代には諸説をふくむ事項があり、地域や資料によって記述が異なる場合がある点にご留意いただきたい。

味わい方・楽しみ方と、めぐりたいスポット

福山のぶどうを存分に楽しむなら、やはり旬の夏がいちばんである。ニューベリーAはおおむね7月から9月にかけて出回り、シャインマスカットやピオーネなど他品種も合わせれば、夏のはじめから秋口まで長く味わえる。直売所では、選果場で等級分けされたぶどうがその日のうちに並ぶこともあり、産地ならではの鮮度を堪能できる。贈答用には房の姿が美しい上級品を、家庭用には手ごろな規格を、と用途で選べるのも産地の楽しみだ。

ぶどうそのものを味わうだけでなく、その背景にある備後の歴史をめぐる旅もおすすめしたい。福山城では城下町のなりたちを学び、鞆の浦では瀬戸内海運が果たした役割を肌で感じられる。果物が「つくられ、運ばれ、売られる」までの物語を、まち歩きとあわせて体感すると、一粒のぶどうの味わいもまた深まるはずである。

ぶどう狩りと食べくらべの楽しみ

産地ならではの楽しみのひとつが、品種の食べくらべである。同じぶどうでも、ニューベリーAは甘みと酸味のバランスがよく、ピオーネは濃厚で食べごたえがあり、シャインマスカットは皮ごと食べられる上品な香りが魅力だ。それぞれの個性を一度に味わえるのは、多彩な品種がそろう産地ならでは。家族や仲間と感想を言いあいながら食べくらべれば、ぶどうの世界の奥深さに気づかされるはずである。

ぶどう狩りができる観光農園では、自分の手で房を摘み取る体験も味わえる。樹の上で完熟したぶどうを、その場でほおばる贅沢は格別だ。子どもにとっては、果物が「畑でどう実るのか」を知る食育の機会にもなる。スーパーの棚に並ぶ前の、土と日ざしのなかで育つぶどうの姿を見ることは、食べものへの感謝を新たにしてくれる。訪れる際は、各農園の開園時期や予約の要否を事前に確認しておきたい。

贈り物としてのぶどう

大粒で見栄えのする福山のぶどうは、夏の贈答品としても重宝されてきた。等級分けされた上級品は、房の姿が美しく、贈り物にふさわしい。お中元や帰省の手みやげに、産地の名を冠したぶどうを選ぶ人は多い。つくり手の顔が見える産地直送や、ふるさと納税の返礼品としても人気が高い。一房のぶどうが、産地と贈る人と贈られる人をつなぐ、夏の贈り物の主役となっている。

こうして見ると、福山のぶどうは単なる食べものを超えて、季節の楽しみであり、人と人をつなぐ贈り物であり、まちの誇りでもあることがわかる。半世紀をこえて磨かれてきた味と品質が、その信頼を支えている。旬の時期に福山を訪れる機会があれば、ぜひ産地のぶどうを味わってみてほしい。

あわせて読みたい福山の歴史

福山・備後の歴史の全体像をつかみたい方は、まず福山の歴史 通史ガイドをご覧いただきたい。古代から近現代までの流れのなかに、本記事の果樹の物語を位置づけることができる。城下町のなりたちは福山城と、その築城者である水野勝成の記事で詳しくたどれる。

備後を支えたものづくりの歴史に関心があれば、藍染めの備後絣、海運で栄えた鞆の浦の街並みの記事もあわせてどうぞ。農と産業がどのように絡みあって備後の暮らしを形づくってきたのか、立体的に見えてくるはずである。

よくある質問(FAQ)

Q福山のぶどうの中心産地はどこですか。
A

福山市南部の沼隈町・山南地区が、福山を代表するぶどうの産地です。記事タイトルの「神辺」は備後盆地一帯の果樹文化を象徴する地名として用いており、ぶどう生産が本格化し全国ブランド「沼隈ぶどう」として知られるようになったのは沼隈・山南地区です。

Q福山でぶどう栽培が始まったのはいつですか。
A

山南地区の記録では、1952年(昭和27年)に始まったとされています。それ以前は麦やタバコなどが栽培されていました。その後、山林を切りひらいて約30ヘクタールのぶどう団地が造成されました。

Q「ニューベリーA」とはどんなぶどうですか。
A

「ベリー」と「マスカット・ハンブルク」を交配した「ベリーA(マスカット・ベリーA)」を種なし処理した品種です。1970年(昭和45年)に福山市の沼隈町で開発に成功した、日本ではじめての大粒の種なしぶどうとされます。粒は5〜7グラムほどで、甘みが強くほどよい酸味があり、生食にもワイン原料にも使えます。

Q「沼隈ぶどう」というブランドはいつから使われていますか。
A

記録によれば、1972年(昭和47年)から「沼隈ぶどう」の名で出荷されるようになりました。発祥地である沼隈の地名を冠したブランド名です。

Qジベレリン処理とは何ですか。
A

植物ホルモンの一種であるジベレリンを花房に処理することで、受粉なしに実を肥大させ、種のないぶどうを得る技術です。福山では1963年(昭和38年)にデラウェアで種なし化に成功したと記録されています。花の咲く前後の限られた時期に、房ごとに二度処理する手間のかかる作業です。

QニューベリーAのほかにどんな品種がありますか。
A

シャインマスカット、ピオーネ、悟紅玉(ごこうぎょく)など、大粒で甘い品種が育てられています。1978年(昭和53年)には種なしのピオーネも栽培できるようになり、「種なしピオーネ」は評判を呼びました。

Qぶどうの旬・出荷時期はいつごろですか。
A

ニューベリーAの入荷期間はおおむね7月から9月にかけてです。シャインマスカットやピオーネなど他品種も合わせると、夏のはじめから秋口まで楽しめます。出荷は2キログラム箱(おおよそ4〜6房)などの規格でまとめられ、等級分けがなされます。

Qなぜ福山のぶどうは甘いのですか。
A

瀬戸内海式気候による少雨・長い日照に加え、盆地特有の昼夜の寒暖差が、実に糖分を蓄えさせるためとされます。傾斜地の水はけのよさもぶどう栽培に適しています。これらの自然条件を、垣根仕立てや灌水などの栽培技術が裏打ちしています。

Q神辺平野は盆地なのですか。
A

はい。芦田川がつくった福山平野のうち、上流側の中流部が神辺平野と呼ばれ、地形学的には盆地にあたります。本記事ではこれを「備後盆地」と表現しています。神辺平野には芦田川の支流・高屋川が流れています。

Q福山はぶどう以外にどんな農産物が有名ですか。
A

福山市はくわい(慈姑)の生産量が日本一で、全国シェアはおよそ7割とされます。そのほか、レモン、いちじく、杏(あんず)などの果実も育てられています。くわいは年末のおせち料理向けに出荷されます。

Q福山のくわい栽培はいつ始まりましたか。
A

1902年(明治35年)ごろ、千田町の沼地に自生していたくわいを福山城周辺の堀に移して栽培が始まったと伝えられます。1967年(昭和42年)に福山くわい出荷組合が設立され、1995年(平成7年)からは生産量が全国一位になったとされます。

Q産地で果物を買うにはどうすればよいですか。
A

夏のぶどうシーズンには、産地の直売所や即売所、ぶどう狩りができる観光農園などがにぎわいます。近年はふるさと納税の返礼品や産地直送でも入手できます。訪れる前に、各施設の最新の営業情報や出荷状況を公式に確認することをおすすめします。

QニューベリーAとマスカット・ベリーAはどう違いますか。
A

マスカット・ベリーA(ベリーA)は種のあるぶどうで、これに種なし処理を施したものがニューベリーAです。ベリーAのおいしさと風味を受け継ぎつつ、種を出す手間なく食べられるように改良されたものとされます。

まとめ

福山・備後の果樹の歴史は、土地の地形と気候、そして人びとの工夫が織りなす物語であった。芦田川がつくった神辺平野――備後盆地と、瀬戸内沿岸の丘陵。少雨で日照が多く、昼夜の寒暖差に富むこの土地は、果実を甘く育てる絶好の舞台であった。城下町以来の市場と流通がその土台を支え、戦後の農家が山を拓いてぶどう団地を築いた。

1952年(昭和27年)に山南で始まったぶどうづくりは、ジベレリン処理という技術革新を経て、1970年(昭和45年)、日本初の大粒種なしぶどう「ニューベリーA」を生んだ。1972年(昭和47年)からは「沼隈ぶどう」として全国に名を知られ、いまもシャインマスカットやピオーネなど多彩な品種が産地を彩る。くわいの日本一の生産をはじめ、果物だけにとどまらない農の厚みも、この地の誇りである。

一粒のぶどうの甘さの奥には、半世紀をこえる開拓と挑戦の歴史がある。先人が未来に託した産地の誇りは、いまの世代に受け継がれ、次の世代へと手渡されていく。福山を訪れたなら、ぜひ旬のぶどうを味わいながら、この土地が育んだ果樹の物語に思いをはせてほしい。

出典・注意

本記事は、福山市立小学校(山南小学校)の地域学習教材「ぶどう作りがさかんな山南」、福山青果株式会社の品種解説、福山市農業協同組合・福山市・広島県の公開情報、ぬまくま夢工房など産地の解説、および芦田川・高屋川・福山平野に関する公開資料を参照して構成した。年代・数値・経緯には、資料や地域によって記述の異なる事項、諸説のある事項がふくまれる。

※年代・経緯には諸説ある事項を含みます。詳細は各施設・公式情報や郷土資料でご確認ください。

最終更新: 2026年6月10日

史跡情報は福山NOTE 史跡図鑑(fn_history)より。