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🏯 歴史

福山の城下町のなりたち|堀と町割りに残る江戸の設計

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福山の城下町のなりたち|堀と町割りに残る江戸の設計

広島県福山市の中心市街地を歩くと、駅前にそびえる福山城だけでなく、まっすぐに通る街路、ゆるやかに曲がる水路の名残、そして「吉津」「笠岡町」「神島町」「大黒町」といった町名のなかに、江戸時代のはじめにつくられた城下町の設計図が、いまも静かに息づいていることに気づきます。福山という街は、もともと田畑や湿地、そして遠浅の海が広がる土地でした。そこへ、わずか数年のうちに城・堀・町割り・上水道までを一体で築き上げたのが、備後福山藩初代藩主・水野勝成(みずの・かつなり)でした。城下町とは、できあがった街を眺めるだけでなく、その設計の意図を読み解くことで何倍も面白くなる対象です。なぜここに道が通り、なぜこの町がこの場所にあり、なぜ水がこのように流れるのか——その「なぜ」の一つひとつに、四百年前の人々の判断が刻まれています。

この記事では、福山の城下町がどのように生まれ、どのような考え方で町が区切られ、堀や水路がどう引かれたのかを、史実に沿ってたどります。とくに、城下に飲み水を供給するために整備された「福山旧水道(福山上水)」は、全国でも屈指の早さで敷設された城下町の上水道として知られ、福山の都市づくりを語るうえで欠かせません。あわせて、町名の由来や、現在の市街地に残る城下町の痕跡もご紹介します。福山の通史を一望したい方は、まず福山の歴史 完全ガイドとあわせてお読みいただくと、全体像がつかみやすくなります。

史跡図鑑|福山の城下町と関連史跡

本論に入る前に、福山の城下町づくりに関わる城・堀・水道・町並みといった史跡を一覧でご覧いただけます。下の図鑑では、福山城をはじめ、城下町の遺構や、城下とつながる港町・鞆の浦などの史跡を、一覧・比較・詳細の三つの形でまとめています。それぞれの位置関係や時代をたしかめながら、この記事の続きを読み進めてください。

福山城 伏見櫓 📖江戸時代(元和年間)📍 福山駅前(福山市街)福山城 📖近世(江戸)📍 丸之内福山城博物館 📖近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)📍 福山駅前(福山市街)草戸千軒町遺跡 📖中世📍 草戸町明王院 📖中世📍 草戸町鞆の津の町並み(重伝建) 📖江戸時代(中世〜近代の建造物群)📍 鞆町鞆の浦の常夜燈と港湾施設 📖江戸時代📍 鞆町福山市鞆の浦歴史民俗資料館 📖近代(昭和)📍 鞆町鞆の浦 📖中世〜近世📍 鞆町福禅寺 対潮楼 📖近世📍 鞆町太田家住宅 📖江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)📍 鞆町いろは丸展示館 📖近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)📍 鞆町仙酔島古代(地質)/近代(指定)📍 鞆町廉塾(菅茶山旧宅) 📖近世📍 神辺町神辺城跡 📖中世📍 神辺町福山八幡宮 📖近世📍 北吉津町沼名前神社 📖近世📍 鞆町阿伏兎観音(磐台寺観音堂)近世📍 沼隈町吉備津神社(備後一宮)江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる📍 新市町素盞嗚神社(備後一宮) 📖飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮📍 新市町
史跡時代概要📍 エリア詳細
福山城 伏見櫓江戸時代(元和年間)伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最…📍 福山駅前(福山市街)下へ ↓
福山城近世(江戸)備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御…📍 丸之内下へ ↓
福山城博物館近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩…📍 福山駅前(福山市街)下へ ↓
草戸千軒町遺跡中世芦田川の中州にあった中世の港町・集落遺跡。発…📍 草戸町下へ ↓
明王院中世本堂と五重塔がともに国宝。中世密教寺院で、五…📍 草戸町下へ ↓
鞆の津の町並み(重伝建)江戸時代(中世〜近代の建造物群)潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と…📍 鞆町下へ ↓
鞆の浦の常夜燈と港湾施設江戸時代江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯…📍 鞆町下へ ↓
福山市鞆の浦歴史民俗資料館近代(昭和)鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬…📍 鞆町下へ ↓
鞆の浦中世〜近世瀬戸内の「潮待ちの港」。常夜燈・雁木・波止場…📍 鞆町下へ ↓
福禅寺 対潮楼近世朝鮮通信使の使節が「日東第一形勝」と讃えた客…📍 鞆町下へ ↓
太田家住宅江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で…📍 鞆町下へ ↓
いろは丸展示館近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵…📍 鞆町下へ ↓
仙酔島古代(地質)/近代(指定)鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連…📍 鞆町下へ ↓
廉塾(菅茶山旧宅)近世儒学者・菅茶山が開いた私塾。当時の塾舎・住宅…📍 神辺町下へ ↓
神辺城跡中世備後南部の中世山城。福山城が築かれる以前、備…📍 神辺町下へ ↓
福山八幡宮近世福山城の北に鎮座し、東西二つの宮を備える。歴…📍 北吉津町下へ ↓
沼名前神社近世鞆の「祇園さん」。夏の大松明を担ぐ「お手火神…📍 鞆町下へ ↓
阿伏兎観音(磐台寺観音堂)近世断崖の上に建つ朱塗りの観音堂。国の重要文化財…📍 沼隈町下へ ↓
吉備津神社(備後一宮)江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で…📍 新市町下へ ↓
素盞嗚神社(備後一宮)飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏の…📍 新市町下へ ↓
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福山城 伏見櫓

江戸時代(元和年間) / 📍福山駅前(福山市街)

伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最古級の三層入母屋造の現存櫓。 福山城伏見櫓は、元和8年(1622年)の福山城築城に際し、城主水野勝成が将軍徳川秀忠から下賜を受け、京都の伏見城から移築させたと伝えられる櫓である。長らく伝承とされていたが、昭和29年(1954年)の解体修理の際、梁の陰刻に「松ノ丸ノ東やく(ら)」の文字が発見され、伏見城からの移築を裏付ける確かな遺構であることが明らかになった。構造は三層入母屋造で、初層と二層を同じ柱割とし、その上にやや小さい三層を望楼状に載せる。桁行八間・梁間三間、本瓦葺の規模をもつ。慶長期の城郭建築の様式を残す初期の典型として価値が高く、昭和8年(1933年)1月23日に国の重要文化財に指定された。福山城内に現存し、特別公開が行われることもある。

🕰 時代江戸時代(元和年間)
🏛 成立・築造元和8年(1622年)水野勝成の福山城築城時に伏見城から移築。国指定重要文化財(昭和8年=1933年1月23日指定)
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目(福山城内)
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福山城

近世(江戸) / 📍丸之内

備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御門は京都伏見城からの移築と伝わる。2022年に築城400年を迎えた。

🕰 時代近世(江戸)
🏛 成立・築造1622年(元和8)・水野勝成
👤 関連水野勝成・阿部正弘
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目8
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福山城博物館

近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期) / 📍福山駅前(福山市街)

水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩の歴史を体験型展示で伝える博物館 福山城博物館は、JR福山駅のすぐ北に建つ福山城天守内に置かれた市立の歴史資料館です。福山城は1622年(元和8年)、徳川譜代の大名・水野勝成が西国鎮衛の拠点として築いた近世城郭で、天守は1931年に国宝に指定されました。しかし1945年8月の福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリート造で外観が復興され、その内部が博物館として公開されました。2022年には築城400年に合わせて大規模リニューアルされ、北面の鉄板張り(黒い装い)の再現や、一番槍レース・火縄銃などの体験型コンテンツ、デジタル映像を用いた展示が整えられ、福山城と福山藩の歴史を学べる施設となっています。城内に現存する伏見櫓と筋鉄御門は、京都・伏見城からの移築と伝えられ、国の重要文化財に指定されています。常設展は有料、月曜休館とされます。

🕰 時代近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)
🏛 成立・築造福山城は1622年(元和8年)に初代福山藩主・水野勝成が築城。天守は1945年福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリートで外観復興、内部を博物館として開館。2022年に大規模リニューアル
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目8番
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鞆の津の町並み(重伝建)

江戸時代(中世〜近代の建造物群) / 📍鞆の浦

潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と町家が一体で残る重伝建地区 鞆の浦は瀬戸内海の中央に位置し、古来「潮待ちの港」として栄え、万葉集にも詠まれた歴史を持つとされる。江戸時代には北前船など廻船の寄港地として繁栄し、朝鮮通信使の寄港地ともなった。2017年(平成29年)11月28日、「福山市鞆町伝統的建造物群保存地区」として約8.6ヘクタールが国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。範囲は鞆字西町の全域を中心に、石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地の一部に及ぶ。中世から江戸期に整えられた地割の上に、江戸時代から昭和30年代までの町家や寺社、石垣などが一体的に残る近世港町の景観が評価された。常夜燈・雁木・波止・焚場・船番所の5つの港湾施設がほぼ完全に残る点は全国でも稀とされる。広島県内では3例目の選定で、2018年には日本遺産にも認定された。

🕰 時代江戸時代(中世〜近代の建造物群)
🏛 成立・築造2017年(平成29年)11月28日に国の重要伝統的建造物群保存地区へ選定。地割は中世〜江戸期、建造物は江戸時代〜昭和30年代まで。
📍 所在地広島県福山市鞆町(鞆字西町全域ほか、字石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地字古城跡・草谷の各一部)
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鞆の浦の常夜燈と港湾施設

江戸時代 / 📍鞆の浦

江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯一の近世港、鞆港。 鞆の浦の鞆港には、常夜燈・雁木・波止・焚場(たでば)・船番所という江戸時代の港湾施設5点がほぼ揃って現存し、これらが一体で残るのは全国でも鞆港のみとされる。シンボルの常夜燈は安政6年(1859)の刻銘をもつ石造灯台で、海中の基礎石から宝珠の頂までは約12.1mに及び、江戸期の石造常夜燈としては国内最大級とされる。雁木は潮の干満に応じて船を着けられる階段状の船着き場で、半円形の港内に連続して巡らされている。波止は花崗岩を積んだ全長約146mの防波堤で、江戸後期に築かれ明治期に修築された。鞆港を含む沿岸と沖の島々一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定され、鞆町西町を中心とする区域は2017年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。日本遺産「瀬戸の夕凪が包む 国内随一の近世港町」の構成要素でもある。

🕰 時代江戸時代
🏛 成立・築造常夜燈は安政6年(1859)造立とされる。雁木・波止・焚場・船番所は江戸後期築造、波止は明治期に修築。鞆港一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定。
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆
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福山市鞆の浦歴史民俗資料館

近代(昭和) / 📍鞆の浦

鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬戸内の歴史・民俗を伝える市立資料館 福山市鞆の浦歴史民俗資料館は、広島県福山市鞆町後地に建つ市立の博物館で、「潮待ちの館」の愛称で親しまれる。1977年(昭和52年)からの地元有志による調査・収集活動を背景に、福山市制70周年記念事業として1988年(昭和63年)に開館した。立地は、福島正則が築いたとされる鞆城跡(福山市指定史跡)の高台で、瀬戸内海を見渡せる。万葉の時代から潮待ち・風待ちの港として栄えた鞆の浦を中心に、古代から近世にいたる歴史資料を展示。鯛網漁のジオラマや錨を製造した鍛冶場、朝鮮通信使関連資料、保命酒に関する資料に加え、お手火神事・お弓神事といった地域の民俗文化財も常設展示する。鞆の歴史と暮らしを総合的に学べる拠点とされる。

🕰 時代近代(昭和)
🏛 成立・築造1988年(昭和63年)開館。福山市制70周年記念事業として建設。建つ鞆城跡は福島正則が築いたとされる(福山市指定史跡)
📍 所在地広島県福山市鞆町後地536-1
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太田家住宅

江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期) / 📍鞆の浦

鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で、国の重要文化財 鞆の浦を代表する歴史的建造物で、薬用酒「保命酒」の醸造で財を成した商家の旧宅。もとは大坂の漢方医を出自とする中村家の屋敷で、明暦元年(1655年)に鞆へ移り住み、まもなく十六味地黄保命酒の製造・販売を始めて大ヒットし、福山藩の御用名酒屋として販売独占権を得たとされる。明治期に廻船業を営んだ太田家が継承し、現在の名で呼ばれる。主屋を中心に保命酒蔵や各種土蔵など九棟が建ち並び、建築年代は18世紀中期から19世紀前期に及ぶ。瀬戸内の商家建築を伝える貴重な遺構として、1991年に国の重要文化財に指定された。幕末には三条実美ら尊王攘夷派の公卿が立ち寄ったと伝わり、別宅の朝宗亭とともに「鞆七卿落遺跡」として広島県の史跡(1940年指定)にもなっている。

🕰 時代江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)
🏛 成立・築造主屋は18世紀中期、ほか北保命酒蔵が天明8年(1788年)、西蔵が寛政元年(1789年)、東保命酒蔵が寛政7年(1795年)など18世紀中期〜19世紀前期。国の重要文化財指定は1991年(平成3年)5月31日。
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆842
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いろは丸展示館

近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期) / 📍鞆の浦

坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵を活かした資料館 鞆の浦のシンボル常夜灯(とうろどう)のすぐそばに建つ資料館。1867年(慶応3年)、坂本龍馬と海援隊が運航したいろは丸が紀州藩の明光丸と備後灘で衝突・沈没した「いろは丸事件」を伝える施設で、その談判が鞆の浦で行われた縁にちなむ。建物は江戸期に建てられた太い梁が印象的な土蔵で、地元では「大蔵」と呼ばれ、国の登録有形文化財とされる。館内には海底に沈むいろは丸を再現したジオラマ、引き揚げられた陶器や部品、調査風景の写真などを展示し、2階には龍馬が宿泊先で身を潜めたという「隠れ部屋」が再現され、龍馬の蝋人形も置かれている。1989年(平成元年)7月の開館。幕末史と鞆の港町文化を同時に味わえるスポットである。

🕰 時代近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)
🏛 成立・築造1989年(平成元年)7月開館。建物は江戸期築の土蔵「大蔵(浜蔵)」で、国の登録有形文化財とされる。展示題材のいろは丸事件は1867年(慶応3年)
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆843-1
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仙酔島

古代(地質)/近代(指定) / 📍鞆の浦

鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連なる瀬戸内海国立公園の名勝 仙酔島は鞆の浦の沖合に浮かぶ周囲約6キロの島で、住所は福山市鞆町後地。鞆港から市営渡船で約5分の距離にあり、観光客の往来はあるが定住者のいない無人島とされる。1925年(大正14年)に国の名勝「鞆公園」の一部として指定され、1934年(昭和9年)には日本で最初に指定された国立公園・瀬戸内海国立公園に含まれた。島は約9000万年前の大規模な火山活動による溶結凝灰岩を主体とし、南側海岸には青・赤・黄・白・黒の岩が200メートル以上連なる「五色岩」が見られ、地質的に貴重とされる。「仙人が酔うほど美しい島」が名の由来と言われる。江戸後期の学者・頼山陽が当地の景観を「山紫水明」と評したとも伝わる。

🕰 時代古代(地質)/近代(指定)
🏛 成立・築造1925年(大正14年)国名勝「鞆公園」に指定。1934年(昭和9年)日本初の国立公園・瀬戸内海国立公園に編入。島自体は約9000万年前の火山活動で形成されたとされる
📍 所在地広島県福山市鞆町後地
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吉備津神社(備後一宮)

江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる / 📍新市・北部

備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で「いっきゅうさん」と親しまれる古社 福山市新市町宮内に鎮座する備後国一宮で、地元では「一宮さん(いっきゅうさん)」と親しまれる。社伝では大同元年(806年)に吉備国の吉備津神社から勧請し創建されたと伝わるが、延喜式神名帳に記載がないことなどから実際の成立はより後とする説もある。主祭神は吉備国を治めたとされる大吉備津彦命。現在の本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が旧規模にならい造営したもので、桁行七間・梁間四間の入母屋造檜皮葺、国の重要文化財に指定されている。ほかにも木造狛犬や太刀などが重要文化財として伝えられ、複数の建造物が広島県・福山市指定文化財となっている。隣接する櫻山城跡なども史跡として知られ、備後の信仰と歴史を今に伝える。

🕰 時代江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる
🏛 成立・築造本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が造営、国の重要文化財。創建は大同元年(806年)と伝わるが諸説ある
📍 所在地広島県福山市新市町宮内400
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素盞嗚神社(備後一宮)

飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮 / 📍新市・北部

祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏のけんか神輿で名高い古社 福山市新市町戸手に鎮座する素盞嗚神社は、『延喜式神名帳』に載る式内社で備後国一宮を称し、旧社格は県社です。主祭神は素盞嗚尊で、稲田姫命・八王子を配祀します。社伝では天武天皇の治世、7世紀ごろ(679年か)の創建とされます。『釈日本紀』所収の「備後国風土記」逸文に伝わる蘇民将来説話の舞台「疫隈国社」と結びつけられ、茅の輪くぐりや祇園信仰・祇園祭発祥の地の一つとされています。神仏習合期には牛頭天王を祀り、遣唐使・吉備真備が734年に当社から播磨の広峯神社へ勧請したとも伝わります。毎年7月の例祭では、勇壮なけんか神輿(神輿合わせ)が行われることで知られます。

🕰 時代飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮
🏛 成立・築造社伝では天武天皇期の7世紀ごろ(679年か)創建とされる。『延喜式神名帳』記載の式内社で、旧県社
📍 所在地広島県福山市新市町大字戸手1-1

図鑑でおおまかな位置と時代をつかんだうえで、ここからは「なぜ福山に城下町がつくられたのか」という時代背景からていねいに見ていきましょう。城下町は、城という一つの建物の話ではなく、城を中心に町・堀・水路・寺社までを含んだ「都市そのもの」の物語です。その全体像を一つずつほどいていくことで、福山という街の成り立ちが見えてきます。

なお、この記事で扱う年代や経緯、地名の由来のなかには、史料や研究によって解釈が分かれるものも少なくありません。本文では、確かに伝えられている事項と、諸説あるとされる事項とをできるだけ書き分けるよう努めています。「〜と伝わる」「〜とされる」と記した部分は、断定を避けてご紹介している箇所だとお考えください。歴史を楽しむうえでは、「確かなこと」と「諸説あること」の境目を意識することも、大切な味わい方の一つです。

時代背景|なぜ福山に城下町がつくられたのか

福山駅前から望む福山城(石垣と伏見櫓)
福山駅前から望む福山城(石垣と伏見櫓)(画像:Wikimedia Commons / CC)

福山城下町の成立を理解するには、まず江戸時代のはじまりの政治状況を押さえる必要があります。関ヶ原の戦い(1600年)を経て徳川の世が固まっていくなかで、西国(中国・四国・九州方面)には外様の大大名がなお多く残っていました。江戸幕府にとって、西国の動きを監視し、必要があればこれを抑える拠点を山陽道沿いに置くことは、防衛上きわめて重要な課題だったとされています。

福島正則の改易と水野勝成の入封

備後・安芸を治めていた福島正則は、1619年(元和5年)、広島城の無断修築などを理由に改易(領地没収)となりました。これにより広大な領地が幕府の手に戻り、再配置が行われます。その一環として、1619年(元和5年)、水野勝成が備後10万石の領主としてこの地に入りました。水野勝成は徳川家康のいとこにあたる譜代の武将で、各地の戦で武功を重ねた人物として知られています。西国に対する押さえとして、家康に近い信頼の厚い武将を配したこと自体が、福山という街の性格を決定づけたといえるでしょう。

「神辺」ではなく海沿いの新地を選んだ理由

水野勝成が入封した当初、備後の政治の中心は内陸の神辺(かんなべ)にある神辺城(神篦城)でした。しかし勝成は、内陸の既存の城をそのまま使うのではなく、瀬戸内海に近い海沿いの新しい土地に城と城下町を一から築くことを選びます。海運の便がよく、山陽道ともつながるこの地は、物流と防衛の両面で大きな利点を持っていました。一方で、その土地の多くは田畑や湿地、そして遠浅の海に面した低地であり、都市をつくるには大規模な造成と治水、そして飲み水の確保が必要でした。福山の城下町づくりが「土木の街づくり」と呼べるほど大がかりになったのは、この立地条件に理由があります。

築城と城下町整備の進行

福山城は1619年(元和5年)の入封後ほどなく着工され、1622年(元和8年)に完成したと伝えられます。注目すべきは、城の建設と並行して城下町の町割り、堀の開削、そして上水道の整備までが一体で進められた点です。城ができてから町を整えるのではなく、はじめから「城・堀・町・水道」を一つの都市計画として描いていたところに、福山城下町の大きな特徴があります。次の章からは、その設計の中身を具体的に見ていきましょう。

こうした「一体での都市づくり」が可能だったのは、福山が既存の街を拡張したのではなく、ほとんど何もない土地に新しく街を起こしたからでもあります。古い街並みのしがらみがない分、為政者は理想とする都市像を地面に描くことができました。裏を返せば、城・堀・町割り・水道のすべてを短期間で同時に整えなければ、街として成り立たなかったということでもあります。福山城下町の整然とした設計には、こうした「ゼロからの都市づくり」という事情が色濃く反映されているのです。なお、築城年については1619年とする見方や1622年完成とする見方など、史料によって記述に幅があり、ここではおおまかな流れとしてご理解ください。

「福山」という地名の由来

そもそも「福山」という地名は、城下町ができたときに新しくつけられた名前です。城が築かれた丘は、もともと常興寺山(じょうこうじやま)と呼ばれていたと伝わります。また、この一帯は蝙蝠山(こうもりやま)とも呼ばれていたとされ、この「蝙蝠(こうもり)」が地名の鍵になったと説明されることが多くあります。

縁起のよい「蝠」から「福」へ

「蝙蝠」の「蝠」の字は、めでたさを表す「福」の字と音が通じることから、縁起のよい字に置き換えて「福山」と名づけられたとされています。コウモリは古くから中国の文化で吉祥(きっしょう=めでたいしるし)の動物とされ、そこに発音の縁も重なって、城下町にふさわしい縁起のよい名が選ばれた、という説明です。新しい城と町の繁栄を願ってつけられた名であろうことは、こうした由来からもうかがえます。なお、地名の由来には諸説あり、ここで紹介したのは広く知られている説の一つである点にご留意ください。

名づけに込められた都市の性格

地名一つにも、為政者がこの土地をどんな街にしたかったのかがにじみます。湿地と海を相手に、何もないところから理想の城下町をつくろうとした水野勝成にとって、「福」をいただく山の名は、これから栄えていく新しい都市への宣言だったとも読めます。実際に福山は、町人を呼び込む優遇策(後述)とあわせて、短い期間で大きく発展していきました。

城下町の町割り|身分で分けられた居住区

福山城
福山城(画像:Wikimedia Commons / CC)

江戸時代の城下町は、城を中心に、武士・町人・寺社といった身分や役割ごとに居住区域を分けてつくられるのが一般的でした。福山もその例にもれず、城を守るための「総構え(そうがまえ)」と呼ばれる外郭で街の大部分を囲み、その内側を計画的に区切っていました。

侍屋敷は南・西、町人町は東・南東

福山城下では、城の南側と西側に藩士の住む侍屋敷(武家屋敷)が広がり、東側から南東にかけて町屋(町人町)が集中していたとされます。武家地は面積で見ると町人町のおよそ3倍を占めていたと伝えられ、城下が基本的に武士の街として設計されていたことがわかります。武家地と町人町の境には木戸(きど)が設けられ、夜間などは通行が制限されていたといいます。身分による空間の分離は、治安の維持と防衛のための工夫でもありました。

道は「見通せない」ようにつくられた

城下町の街路は、たんに碁盤の目に整えるだけでなく、防衛を意識して設計されました。道をわざとくい違いに配置したり、丁字路で行き止まりに見せたりして、攻め込んだ敵がまっすぐ城へ向かえないように工夫するのは、各地の城下町に共通する考え方です。福山の市街地にいまも残る、すっと一直線かと思えば微妙に折れる街路の感覚には、こうした江戸時代の設計思想の名残を感じることができます。歩くときに「なぜここで道が曲がるのか」と意識してみると、城下町歩きはぐっと面白くなります。

寺町・足軽町という「もう一つの守り」

城下の入口や、北部の吉津川対岸といった要所には、寺社地や足軽(あしがる)の住む町が置かれました。寺院はふだんは信仰の場ですが、広い境内や塀を持つことから、いざ籠城戦となれば防備を補う役割を期待されていたとされます。足軽町も同様に、城下の外縁を固める配置でした。つまり福山の城下町は、武家地・町人町・寺町・足軽町を組み合わせ、街そのものを一つの城のように設計していたといえます。

堀と水路|吉津川がになった二つの役割

城下町にとって堀は、敵の侵入を防ぐ防衛線であると同時に、街に水をめぐらせる動脈でもありました。福山では、城の北を流れる吉津川(よしづがわ)が、この両方の役割をになっていたとされます。

総構えの堀としての吉津川

吉津川は、福山城の総構えの堀としての機能を持ち、堀の水の水源でもあったとされ、城の防衛にきわめて重要な役割をはたしていました。海に近い低地であるという立地は、見方を変えれば、堀や水路に水を引き込みやすいという利点でもありました。海・川・堀・水路を組み合わせて街全体を水でめぐらせる設計は、福山城下町の大きな特徴です。

築切(つきき)による水のコントロール

城下の水まわりは、はじめにつくって終わりではなく、その後も手が加えられていきました。初期には入川(海とつながる川)が外堀と通じていましたが、1641年(寛永18年)ごろまでに、堀の水深を保つために吉津川からの流入に切り替える「築切(つきき)」の工事が行われたと伝えられます。塩分を含む海水ではなく、川の清流を堀に導くことで、水質や水量を管理しようとしたのでしょう。こうした不断の改良の積み重ねが、干拓地につくられた城下町を維持していたのです。

福山旧水道|江戸初期につくられた上水道

芦田川の河口部
芦田川の河口部(画像:Wikimedia Commons / CC)

福山城下町づくりのなかでも、とりわけ先進的だったのが上水道の整備です。これは「福山旧水道」「福山上水」などと呼ばれ、城下の人々の飲み水をまかなうために引かれた水道でした。海を埋め立て、湿地を造成してつくった土地は、井戸を掘っても良質な飲み水を得にくいという弱点がありました。水野勝成が町割りと同時に飲み水の確保に心を配ったのは、この土地の事情によるものだったとされています。

1622年の整備と、全国でも早い敷設

福山旧水道は、1622年(元和8年)、初代藩主・水野勝成によって整備されたと伝えられます。家老の中山勝時(なかやま・かつとき)が惣奉行(そうぶぎょう)として工事を指揮したとされます。城下町の飲み水を主目的とする上水道としては、江戸の神田上水(1590年)、近江八幡の水道(1607年)、赤穂水道(1616年)、中津水道(1620年)に次いで、全国で五番目(1622年竣工)に敷設されたものと紹介されています。江戸の神田上水、播磨の赤穂上水とともに「日本三大上水道」に数えられることもあります。城ができたのとほぼ同じ時期に、これだけの規模の上水を整えたという事実は、福山の都市づくりの先進性を物語っています。

水源と配水のしくみ

福山旧水道の水源は、市域を流れる芦田川(あしだがわ)でした。上流側で取水し、導水路を通して城下へ水を運び、蓮池(はすいけ)と呼ばれる貯水池兼沈殿池を経て、城下町へ配水するしくみだったとされます。蓮池では水をいったんためて泥や砂を沈めることで、より清らかな水を町に送ることができました。導水と配水には、ポンプではなく土地のわずかな高低差を利用する自然流下方式が用いられ、幹線の総延長は約14km(約3里半)に及んだと伝えられます。動力に頼らず、地形を読み切って水を流す——これはまさに、土木技術と都市計画が一体となった仕事でした。

長く使われ続けた城下の水道

福山旧水道は、江戸時代を通じて城下の暮らしを支え続けました。近代に入ってからも一部が使われ、昭和の戦中ごろまで利用されていたとも伝えられ、戦後にも雑用水として活用された時期があったとされます。一つの上水システムが、城下町の誕生から数百年にわたって街の役に立ち続けたという事実は、当初の設計の確かさを示しています。現在は蓮池公園や、取水・分水にかかわる遺構などが、その歴史を今に伝えています。

町人を呼び込んだ「地子免除」のまちづくり

城と堀と水道がそろっても、街は人がいてはじめて栄えます。何もないところに新しくつくられた福山城下町にとって、いかにして商人や職人を呼び込むかは、死活的に重要な課題でした。

税を免除して移住者を募る

福山藩は、町人町に対して土地にかかる税(地子=じし)やその他の税を免除し、商人や職人が商売をしやすい環境を整えたとされます。地子を免除して積極的に移住者を募ったことで、遠方の国からも多くの人が集まり、町は次第にその範囲を広げていきました。築城初期には12町ほどだった町が、水野時代の末期までには30町に増えたといわれます。短期間でこれだけ町が増えたことは、優遇策が実を結んだ証といえるでしょう。

産業を呼び込む政策

福山藩は、ただ人を集めるだけでなく、特定の産業を城下に根づかせる政策もとりました。たとえば、1641年(寛永18年)には、火災ののちに神島(かしま)の町が城下南東へ移され、備後の畳表(たたみおもて)の独占的な売買権と引き換えに移住させられたと伝えられます。畳表は備後を代表する特産品であり、その流通の拠点を城下に置くことは、藩の経済にとっても、城下のにぎわいにとっても大きな意味を持ちました。城下町の発展は、こうした産業政策と一体だったのです。

城下の地名に残る江戸の記憶

福山の城下町の面白さは、町名のなかに当時の暮らしや由来が刻まれている点にあります。いくつかの代表的な町名と、その由来として伝わる話を見てみましょう。なお、地名の由来には諸説あるものも多く、ここでは伝えられている説をご紹介します。

街道や地縁にちなんだ町名

「笠岡町(かさおかちょう)」は、笠岡街道の入口にあたることにちなむと伝わります。「府中町(ふちゅうちょう)」は、府中から招かれた商人が住んだことに由来するとされます。街道や、人の移動・出身地が、そのまま町の名前になっているのです。城下町が、近隣の地域と人や物のやりとりをしながら成り立っていたことが、町名からも読み取れます。

縁起をかついだ町名

「大黒町(だいこくちょう)」は、商人が縁起をかついで名づけたと伝わります。商売繁盛を願う気持ちが、町の名にこめられているわけです。前述の「福山」という地名そのものが縁起から来ているように、城下の町名にも、人々が繁栄を願う心が表れています。

築城以前からの古い地名

一方で、「吉津(よしづ)」のように、福山城が築かれる以前から存在したと考えられる地名もあります。「吉津」の「津」は港を意味する字であり、中世にはこのあたりに港があったのではないかと推定されています。新しくつくられた城下町のなかにも、それ以前からの土地の記憶が地名として残っているのです。また、「上新町」がのちに「福徳町(ふくとくちょう)」と改称されたように、火災や時代の移り変わりのなかで町名が変わった例もあります。地名の重なりをたどることは、土地の歴史をたどることにほかなりません。

干拓と土木|海を埋めて街をつくる

福山城下町を語るときに見落とせないのが、街そのものをつくり出すための大規模な土木工事です。前述のとおり、福山の城下が築かれた一帯は、田畑や湿地、そして遠浅の海に面した低地でした。つまり、城と町を建てる前に、まず「都市が建てられる土地」をつくり出す必要があったのです。

なぜ土木が街づくりの前提だったのか

城下町づくりというと、城や武家屋敷、町屋を配置する「町割り」のイメージが先に立ちます。しかし福山の場合は、その前段として、低湿地の排水、海辺の造成、そして水を制御するための堀や水路の開削が不可欠でした。土地が低く水はけが悪ければ、いくら立派な町割りを描いても、街は浸水や排水の問題に苦しむことになります。水野勝成が町割りと同時に飲み水の確保や水路の整備に心を配ったと伝えられるのは、こうした土地の弱点を熟知していたからにほかなりません。福山城下町は、まさに「水との戦い」のなかから生まれた都市だったといえます。

水を「防ぐ」と「活かす」の両立

低湿地・海辺という条件は、街づくりにとっては弱点である一方、堀や水路に水を引き込みやすいという強みでもありました。福山の城下では、海・川・堀・水路を巧みに組み合わせ、ある場所では水を防ぎ、ある場所では水を活かすという、矛盾するようでいて高度な水のコントロールが行われていました。堀は防衛線であり物流路であり、上水道は命をつなぐ飲み水の供給路でした。一つの「水」を、防衛・物流・生活という複数の目的のために設計し分けていたところに、福山城下町の土木の巧みさが表れています。

数百年もつ街をつくるという発想

こうした土木工事は、一度つくれば終わりではありません。前章で触れた1641年(寛永18年)ごろの築切のように、その後も水の流れは調整され続けました。城下町づくりとは、完成形を一度に建てる仕事ではなく、土地の癖と向き合いながら、何代にもわたって手を入れ続ける営みでもあったのです。今日の福山市街地が、おおむね江戸時代の骨格を保ちながら都市として機能し続けているのは、こうした地道な維持の積み重ねの結果だといえるでしょう。

城下町の暮らし|身分と職業がつくる街

城・堀・水道という「ハード」を見てきましたが、城下町はそこで暮らす人々の営みによってはじめて街になります。江戸時代の城下町は、身分と職業がそのまま街の構造に反映された社会でした。福山の城下を歩いた人々が、どのような暮らしを営んでいたのかを想像してみましょう。

武家地に暮らした人々

城の南・西に広がった侍屋敷には、藩に仕える武士とその家族、奉公人らが暮らしていました。武家地は面積で町人町の約3倍を占めたとされ、屋敷地は身分や役職に応じて広さが定められていたと考えられます。武士の暮らしは藩の行政や軍事と結びついており、城下のもっとも重要な区域が武家地に割り当てられていたことは、城下町が第一に「武士の街」として設計されていたことを示しています。

町人町のにぎわい

一方、城の東から南東に集中した町人町には、商人や職人が軒を連ねていました。地子(土地の税)が免除されたこの区域には、遠方からも人が集まり、街道や港を通じて物が行き交いました。前述の上魚屋町・下魚屋町・本町・胡町(えびすちょう)といった町名が伝えるように、扱う品や商売の種類が町の性格を決めていたと考えられます。魚を扱う町、雑多な商いの集まる町——町名そのものが、当時のにぎわいの記録になっているのです。

寺社と足軽が固めた外縁

城下の外縁には、寺社地や足軽町が配されました。寺院は人々の信仰と暮らしの節目(葬送や法要など)を支える場であると同時に、いざというときには防備を補う役割も期待されていたとされます。足軽は身分としては下位の武士でしたが、城下の守りを固める要員として、外縁の要所に集められました。中心の城から、武家地、町人町、そして寺町・足軽町へと、街は同心円状に役割を重ねながら広がっていたのです。

木戸が区切った日常

武家地と町人町の境に設けられた木戸は、たんなる仕切りではなく、人々の日常を区切る装置でもありました。夜間には木戸が閉じられ、区域をまたぐ通行が制限されたといいます。身分や役割によって暮らす場所が決まり、その移動さえも管理される——現代の感覚からは窮屈にも思えますが、これが治安と防衛を両立させるための、江戸時代の城下町の知恵でした。木戸のあった場所を想像しながら歩くと、街のなかに見えない境界線が浮かび上がってきます。

城下町を読み解く三つの視点

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視点1|町割り=身分と防衛の地図

町割りは、たんに土地を区切る作業ではなく、「誰がどこに住むか」「敵をどう防ぐか」という思想を地面に描いた地図です。武家地を城の近くに、町人町をその外に、寺社・足軽町をさらに外縁に置く配置は、身分秩序と防衛機能を同時に満たすための答えでした。街路をくい違いにする工夫も、この地図の一部です。福山を歩くときは、まず「ここは武家地か、町人町か」を意識してみてください。

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視点2|水=防衛・物流・生活の動脈

水は、城下町のあらゆる場面に関わっていました。吉津川は堀として街を守り、その水は堀をめぐり、福山旧水道は芦田川の水を蓮池を経て町に届けました。海はまた、物流の道でもありました。防衛・物流・生活という三つの役割を、一つ一つの水路に割り当てて設計したのが福山の城下町です。水の流れる方向と土地の高低を意識すると、街の成り立ちが立体的に見えてきます。

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視点3|地名=時間の地層

地名は、土地に積み重なった時間の地層です。「吉津」のように築城以前の港の記憶を残す古い地名、「笠岡町」「府中町」のように街道や人の出身地に由来する地名、「大黒町」のように縁起をかついだ地名、そして「福徳町」のように後世に改称された地名——町名を読み解くことは、その土地の歴史を何層にもわたって読み解くことにほかなりません。城下町歩きの楽しみは、この「時間の地層」を一枚ずつめくっていくところにあります。

藩主の交代と城下町の歩み

水野勝成が築いた福山城下町は、その後も歴代の藩主のもとで受け継がれていきました。藩主の交代は、城下のあり方にも影響を与えています。

水野家から松平家、そして阿部家へ

水野家は初代勝成から続きましたが、1698年(元禄11年)、後継ぎがいなかったために無嗣(むし)断絶となりました。一時は幕府の直轄地(幕府領)となったのち、1700年(元禄13年)に出羽国山形藩から松平忠雅(まつだいら・ただまさ)が転封(てんぽう=国替え)となって福山に入ります。さらに1710年(宝永7年)、松平氏は伊勢国桑名藩へ移り、下野国宇都宮藩から阿部正邦(あべ・まさくに)が10万石で入封しました。以後、福山藩は廃藩置県(1871年)まで、阿部氏が治めることになります。

受け継がれた城下の骨格

藩主が水野・松平・阿部と移り変わっても、水野勝成が定めた城下町の骨格——城・堀・町割り・上水道という基本構造——は大きく変わることなく受け継がれました。城下町の設計とは、いわば数百年単位で都市の形を決める仕事です。福山の市街地が今もおおむね城を中心に広がっているのは、江戸時代のはじめに描かれた都市計画が、それだけ確かなものだったからだといえるでしょう。福山城そのものの歴史をくわしく知りたい方は、福山城ガイドもあわせてご覧ください。

蓮池と取水のしくみ|上水道をもっと深く

福山旧水道の特徴をもう一歩ふみこんで見ておきましょう。動力に頼らず、地形のわずかな高低差だけで約14kmもの距離に水を流すには、緻密な測量と設計が欠かせませんでした。ここに、江戸時代初期の土木技術の高さがうかがえます。

沈殿池としての蓮池

水源の芦田川から取り入れた水は、そのまま町に流せば泥や砂を含んでいます。そこで、蓮池と呼ばれる池にいったん水をためて、ゆっくり流すあいだに泥や砂を底に沈め、上澄みの清らかな水を城下へ送るしくみが用いられました。沈殿池は、現代の浄水場が持つ「沈澱池」の役割を、自然の池の形で先取りしたものといえます。ポンプもろ過装置もない時代に、池の構造と水の流れだけで水質を整えた工夫には、目を見張るものがあります。

自然流下という思想

福山旧水道は、自然流下方式、つまり水が高いところから低いところへ流れる性質だけを使って配水していました。これは、どこからどこへ、どれだけの傾斜で水路を引けばよいかを、街全体にわたって計算し尽くす必要があることを意味します。幹線の総延長が約14km(約3里半)に及んだと伝えられることを考えれば、城下町全体が一つの巨大な水のネットワークとして設計されていたことがわかります。城・堀・町割りと並んで、この水のネットワークもまた、福山城下町という都市システムの中核だったのです。

今に残る上水道の痕跡

福山旧水道にかかわる遺構は、現在も市内の一部に残されています。蓮池公園のように、かつての貯水池にちなむ場所をはじめ、取水や分水にかかわった痕跡をたどることができます。城下町づくりというと天守や石垣に目が向きがちですが、地面の下や水辺にこそ、当時の人々の暮らしを支えた工夫が眠っています。上水道の遺構を訪ねることは、城下町の「生活のインフラ」に触れる、貴重な歴史体験です。

城下町と現代の福山

江戸時代のはじめに描かれた城下町の設計は、四百年を経た今日の福山にも、さまざまな形で受け継がれています。最後に、城下町と現代の街とのつながりを見ておきましょう。

市街地の骨格としての城下町

福山の中心市街地は、今もおおむね福山城を中心に広がっています。駅、官公庁、商業地の配置には、城を核として街をつくった江戸時代の発想が、形を変えながら受け継がれているとみることができます。城下町の町割りが、その後の都市の発展の土台になっているのです。現代の地図と江戸時代の城下町の図を見比べると、街路や区画のなかに、当時の名残を見つけることができます。

地名として生き続ける歴史

「吉津」「笠岡町」「大黒町」といった町名が今も使われていることは、城下町の歴史が日常のなかに生き続けている何よりの証拠です。住所を書くたびに、人々は知らず知らずのうちに江戸時代の城下町の地図をなぞっているのです。地名を手がかりに歴史をたどれる街は、それだけで大きな魅力を持っています。福山は、まさにそうした「歴史が地面に書き込まれた街」だといえるでしょう。

街歩きで歴史を体感する

城下町の最大の魅力は、特別な施設に入らなくても、街を歩くだけで歴史を感じられるところにあります。街路の曲がり、町名の由来、水路の名残——そのどれもが、四百年前の都市計画者たちが残したメッセージです。この記事で得た知識を持って福山を歩けば、見慣れたはずの街が、まったく新しい表情を見せてくれるはずです。

城下町と海でつながる港町・鞆の浦

福山の歴史を語るうえで、城下町とあわせて欠かせないのが、瀬戸内海に面した港町・鞆の浦(とものうら)です。鞆の浦は、潮の流れの関係で「潮待ちの港」として古くから栄えた港であり、福山藩の時代にも重要な湊(みなと)でした。

城下と海をつなぐ拠点

城下町が陸の中心であったのに対し、鞆の浦は瀬戸内海の海運を結ぶ海の玄関口でした。福山城下と鞆の浦は街道で結ばれ、人や物が行き来していました。江戸の城下町を理解するには、こうした海とのつながりも視野に入れる必要があります。鞆の浦には、福禅寺の対潮楼のように、朝鮮通信使をもてなした客殿として知られる史跡や、海辺の景観を今に伝える鞆の浦の街並みが残っています。城下町の整然とした町割りとは対照的な、海と暮らしが密着した港町の風景は、福山のもう一つの顔です。

中世の記憶をとどめる草戸千軒

福山の歴史には、江戸の城下町よりさらに古い、中世の都市の記憶も重なっています。芦田川の中州にあったとされる中世の集落・草戸千軒町(くさどせんげんちょう)は、かつて港や市でにぎわった町だったと考えられており、近くの明王院とともに、福山の地が古くから人の営みの場であったことを物語っています。城下町が築かれる以前の福山については、草戸千軒・明王院エリアのガイドもあわせてどうぞ。江戸の城下町、中世の草戸千軒、そして港町の鞆の浦——時代の異なる都市の層が重なっているのが、福山という土地の奥行きです。

関連年表|福山城下町のあゆみ

ここまで見てきた城下町づくりの流れを、年表の形で整理します。年代・経緯には諸説ある事項も含まれますので、おおよその目安としてご覧ください。

年(和暦) できごと
1600年(慶長5年) 関ヶ原の戦い。徳川の世が固まっていく。
1619年(元和5年) 福島正則が改易。水野勝成が備後10万石で入封。福山城の築城が始まる。
1622年(元和8年) 福山城が完成。福山旧水道(福山上水)が整備される。城下町の町割りが進む。
1641年(寛永18年) 築切の工事で堀の水を吉津川からの流入に切り替えたと伝わる。神島の町が城下南東へ移転。
1698年(元禄11年) 水野家が無嗣断絶。一時、幕府領となる。
1700年(元禄13年) 松平忠雅が山形藩から転封し、福山藩に入る。
1710年(宝永7年) 阿部正邦が10万石で入封。以後、阿部氏が廃藩置県まで在封。
1871年(明治4年) 廃藩置県により福山藩が廃される。

城下町を歩く|モデルコースと楽しみ方

福山の城下町は、現在の市街地と重なっています。だからこそ、ふだんの街歩きのなかで江戸時代の設計を見つける楽しみがあります。ここでは、城下町の名残を感じながら歩くためのヒントを紹介します。

まずは福山城から

城下町歩きの起点は、やはり福山城です。城は城下町全体の中心であり、ここに立つと、どちらの方角に武家地が広がり、どちらに町人町があったのかをイメージしやすくなります。天守や石垣を見たあとに城下へ下りていくと、「ここから街がつくられていったのだ」という実感が得られます。城の見どころは福山城ガイドでくわしく紹介しています。

町名と街路を意識して歩く

城下を歩くときは、町名の表示や交差点の名前に注目してみてください。「吉津」「笠岡町」「大黒町」など、この記事で触れた町名に出会えれば、それぞれの由来を思い出しながら歩く楽しみが生まれます。また、道がまっすぐ続くようでいて微妙に折れる箇所では、防衛を意識した城下町の街路設計を感じることができます。スマートフォンの地図を眺めながら、街路の形そのものを「読む」のもおすすめです。

水のあとをたどる

福山旧水道や堀の名残を意識して歩くと、城下町の見え方が変わります。蓮池公園など、上水道にかかわる場所を訪ねれば、ポンプのない時代に地形だけで水を流した工夫に思いをはせることができます。水路や川の流れる方向と、土地のわずかな高低を感じ取ってみてください。

足をのばして鞆の浦へ

城下町の街歩きに余裕があれば、ぜひ海の玄関口・鞆の浦まで足をのばしてみてください。鞆の浦の街並みを歩き、いろは丸展示館太田家住宅といった史跡を訪ねれば、陸の城下町とは違う、海とともに生きた港町の歴史を体感できます。整然とした城下町と、入り組んだ港町。二つの街を一日でめぐると、福山の歴史の幅が一気に広がります。

よくある質問(FAQ)

Q福山城下町はいつつくられたのですか?
A

水野勝成が1619年(元和5年)に備後10万石で入封し、福山城を築くのと並行して城下町が整備されました。城は1622年(元和8年)に完成したと伝えられ、町割りや堀、上水道もこの時期に整えられていきました。

Q城下町をつくったのは誰ですか?
A

備後福山藩の初代藩主・水野勝成です。徳川家康のいとことされる譜代の武将で、西国に対する押さえとして福山に配されました。上水道の工事は家老の中山勝時が惣奉行として指揮したと伝えられます。

Q「福山」という地名の由来は?
A

城の築かれた地は常興寺山、また蝙蝠山(こうもりやま)とも呼ばれていたとされ、「蝙蝠」の「蝠」がめでたい「福」と音が通じることから、縁起のよい「福山」と名づけられたと伝わります。由来には諸説あります。

Q福山旧水道とは何ですか?
A

城下の人々の飲み水を供給するために整備された上水道です。1622年(元和8年)に水野勝成によって整えられ、芦田川を水源とし、蓮池を経て城下へ水を配りました。城下町の飲み水を目的とした上水としては全国でも早い時期の敷設で、五番目に数えられると紹介されています。

Q福山旧水道は全国で何番目に古い上水道ですか?
A

江戸の神田上水(1590年)、近江八幡の水道(1607年)、赤穂水道(1616年)、中津水道(1620年)に次いで、1622年竣工で全国五番目に敷設されたものと紹介されています。神田上水・赤穂上水とともに「日本三大上水道」に数えられることもあります。

Q福山旧水道はいつまで使われましたか?
A

江戸時代を通じて使われ、近代以降も一部が利用され、昭和の戦中ごろまで使われていたとも伝えられます。戦後にも雑用水として活用された時期があったとされます。長期間にわたり街を支え続けた水道でした。

Q城下町では武士と町人はどこに住んでいましたか?
A

城の南側と西側に侍屋敷(武家屋敷)が広がり、東側から南東にかけて町人町が集中していたとされます。武家地は町人町のおよそ3倍の面積を占めたと伝えられ、境には木戸が設けられていました。

Q城下町はなぜ税を免除したのですか?
A

何もない土地に新しくつくられた城下町に、商人や職人を呼び込むためです。町人町では土地にかかる税(地子)などを免除し、移住しやすくしました。これにより遠方からも人が集まり、築城初期に12町ほどだった町は水野末期までに30町に増えたといわれます。

Q吉津川はどんな役割をはたしていましたか?
A

吉津川は福山城の総構えの堀としての役割を持ち、堀の水の水源でもあったとされ、城の防衛にきわめて重要でした。1641年(寛永18年)ごろには、堀の水深を保つため吉津川からの流入に切り替える築切の工事が行われたと伝わります。

Q城下町の藩主はどう変わりましたか?
A

初代の水野家が1698年(元禄11年)に無嗣断絶となり、一時幕府領を経て、1700年(元禄13年)に松平忠雅が入りました。さらに1710年(宝永7年)に阿部正邦が入封し、以後、阿部氏が廃藩置県まで福山を治めました。

Q城下町の名残は今も見られますか?
A

はい。福山城を中心とした街の広がり、すっと通っては微妙に折れる街路、そして「吉津」「笠岡町」「大黒町」などの町名に、城下町の設計が残っています。蓮池公園など上水道にかかわる場所も訪ねることができます。

Q城下町とあわせて訪ねるとよい場所は?
A

海の玄関口・鞆の浦がおすすめです。鞆の浦の街並み福禅寺 対潮楼を訪ねると、陸の城下町とは異なる港町の歴史を体感できます。中世の都市を知りたい方は草戸千軒・明王院のエリアもどうぞ。

まとめ|設計図としての城下町

福山の城下町は、何もない湿地と海辺に、城・堀・町割り・上水道までを一体で築き上げた、壮大な都市計画の産物でした。1619年(元和5年)に入封した水野勝成は、わずか数年で福山城を完成させ(1622年)、同時に町を区切り、吉津川を堀と水源として活かし、芦田川を水源とする福山旧水道を整えました。地子免除によって町人を呼び込み、産業を城下に根づかせる政策とあわせて、街は短い期間で大きく発展しました。

藩主が水野・松平・阿部と移り変わっても、最初に描かれた城下町の骨格は受け継がれ、それは今日の福山市街地の形にもつながっています。街路の曲がり、町名の由来、水路の名残——そのどれもが、江戸時代のはじめに描かれた「設計図」の痕跡です。福山を歩くときは、ぜひこの記事で触れた町割りや水道のことを思い出してみてください。見慣れた街が、四百年前の都市計画者たちの工夫に満ちた場所として、まったく違って見えてくるはずです。福山の歴史をさらに深く知りたい方は、福山の歴史 完全ガイドへお進みください。

出典・ご利用にあたっての注意

本記事は、福山市の公開資料、福山旧水道や福山(城下町)に関する各種資料、福山城に関する公的・公開情報などをもとに構成しています。年代・経緯・地名の由来には諸説あるものを含み、史料や研究によって解釈が異なる場合があります。

※年代・経緯には諸説ある事項を含みます。詳細は各施設の公式情報や郷土資料でご確認ください。

最終更新: 2026年6月10日

史跡情報は福山NOTE 史跡図鑑(fn_history)より。