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🏯 歴史

葛原しげると童謡「夕日」|神辺が生んだ作詞家

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葛原しげると童謡「夕日」|神辺が生んだ作詞家

「ぎんぎんぎらぎら 夕日が沈む」——日本人なら一度は口ずさんだことのある、あの童謡「夕日」。夕暮れの空がまっ赤に染まる情景を、誰もが思い浮かべられるこの歌の作詞者が、広島県福山市神辺町(旧・安那郡八尋村)出身の童謡作詞家・教育者、葛原しげる(くずはら しげる、1886〜1961)であることは、地元でも意外と知られていません。葛原は生涯に二千数百編とも言われる童謡を生み出し、宮城道雄ら名だたる作曲家と組んで数多くの名曲を世に送り出しました。同時に「いつもニコニコ、いつもピンピン」を信条に子どもたちへ向き合い、「ニコピン先生」の愛称で親しまれた教育者でもありました。この記事では、神辺が生んだこの人物の生涯と、代表作「夕日」の誕生にまつわる逸話、そして今も神辺の地に残るゆかりの史跡を、確かな史料にもとづいてたどります。

史跡図鑑:福山・神辺の歴史スポットを探す

葛原しげるを育んだ神辺の地は、旧山陽道の宿場町・神辺宿として栄え、菅茶山の廉塾や葛原勾当ゆかりの史跡など、文化の薫り高い土地です。下記の「史跡図鑑」では、福山市内に点在する歴史スポットを一覧・比較・詳細の3つの形で確認できます。気になる場所を見つけて、葛原しげるゆかりの神辺と合わせて巡ってみてください。

福山城 伏見櫓 📖江戸時代(元和年間)📍 福山駅前(福山市街)福山城 📖近世(江戸)📍 丸之内福山城博物館 📖近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)📍 福山駅前(福山市街)草戸千軒町遺跡 📖中世📍 草戸町明王院 📖中世📍 草戸町鞆の津の町並み(重伝建) 📖江戸時代(中世〜近代の建造物群)📍 鞆町鞆の浦の常夜燈と港湾施設 📖江戸時代📍 鞆町福山市鞆の浦歴史民俗資料館 📖近代(昭和)📍 鞆町鞆の浦 📖中世〜近世📍 鞆町福禅寺 対潮楼 📖近世📍 鞆町太田家住宅 📖江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)📍 鞆町いろは丸展示館 📖近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)📍 鞆町仙酔島古代(地質)/近代(指定)📍 鞆町廉塾(菅茶山旧宅) 📖近世📍 神辺町神辺城跡 📖中世📍 神辺町福山八幡宮 📖近世📍 北吉津町沼名前神社 📖近世📍 鞆町阿伏兎観音(磐台寺観音堂)近世📍 沼隈町吉備津神社(備後一宮)江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる📍 新市町素盞嗚神社(備後一宮) 📖飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮📍 新市町
史跡時代概要📍 エリア詳細
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素盞嗚神社(備後一宮)飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏の…📍 新市町下へ ↓
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福山城 伏見櫓

江戸時代(元和年間) / 📍福山駅前(福山市街)

伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最古級の三層入母屋造の現存櫓。 福山城伏見櫓は、元和8年(1622年)の福山城築城に際し、城主水野勝成が将軍徳川秀忠から下賜を受け、京都の伏見城から移築させたと伝えられる櫓である。長らく伝承とされていたが、昭和29年(1954年)の解体修理の際、梁の陰刻に「松ノ丸ノ東やく(ら)」の文字が発見され、伏見城からの移築を裏付ける確かな遺構であることが明らかになった。構造は三層入母屋造で、初層と二層を同じ柱割とし、その上にやや小さい三層を望楼状に載せる。桁行八間・梁間三間、本瓦葺の規模をもつ。慶長期の城郭建築の様式を残す初期の典型として価値が高く、昭和8年(1933年)1月23日に国の重要文化財に指定された。福山城内に現存し、特別公開が行われることもある。

🕰 時代江戸時代(元和年間)
🏛 成立・築造元和8年(1622年)水野勝成の福山城築城時に伏見城から移築。国指定重要文化財(昭和8年=1933年1月23日指定)
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目(福山城内)
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福山城

近世(江戸) / 📍丸之内

備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御門は京都伏見城からの移築と伝わる。2022年に築城400年を迎えた。

🕰 時代近世(江戸)
🏛 成立・築造1622年(元和8)・水野勝成
👤 関連水野勝成・阿部正弘
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目8
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福山城博物館

近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期) / 📍福山駅前(福山市街)

水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩の歴史を体験型展示で伝える博物館 福山城博物館は、JR福山駅のすぐ北に建つ福山城天守内に置かれた市立の歴史資料館です。福山城は1622年(元和8年)、徳川譜代の大名・水野勝成が西国鎮衛の拠点として築いた近世城郭で、天守は1931年に国宝に指定されました。しかし1945年8月の福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリート造で外観が復興され、その内部が博物館として公開されました。2022年には築城400年に合わせて大規模リニューアルされ、北面の鉄板張り(黒い装い)の再現や、一番槍レース・火縄銃などの体験型コンテンツ、デジタル映像を用いた展示が整えられ、福山城と福山藩の歴史を学べる施設となっています。城内に現存する伏見櫓と筋鉄御門は、京都・伏見城からの移築と伝えられ、国の重要文化財に指定されています。常設展は有料、月曜休館とされます。

🕰 時代近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)
🏛 成立・築造福山城は1622年(元和8年)に初代福山藩主・水野勝成が築城。天守は1945年福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリートで外観復興、内部を博物館として開館。2022年に大規模リニューアル
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目8番
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鞆の津の町並み(重伝建)

江戸時代(中世〜近代の建造物群) / 📍鞆の浦

潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と町家が一体で残る重伝建地区 鞆の浦は瀬戸内海の中央に位置し、古来「潮待ちの港」として栄え、万葉集にも詠まれた歴史を持つとされる。江戸時代には北前船など廻船の寄港地として繁栄し、朝鮮通信使の寄港地ともなった。2017年(平成29年)11月28日、「福山市鞆町伝統的建造物群保存地区」として約8.6ヘクタールが国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。範囲は鞆字西町の全域を中心に、石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地の一部に及ぶ。中世から江戸期に整えられた地割の上に、江戸時代から昭和30年代までの町家や寺社、石垣などが一体的に残る近世港町の景観が評価された。常夜燈・雁木・波止・焚場・船番所の5つの港湾施設がほぼ完全に残る点は全国でも稀とされる。広島県内では3例目の選定で、2018年には日本遺産にも認定された。

🕰 時代江戸時代(中世〜近代の建造物群)
🏛 成立・築造2017年(平成29年)11月28日に国の重要伝統的建造物群保存地区へ選定。地割は中世〜江戸期、建造物は江戸時代〜昭和30年代まで。
📍 所在地広島県福山市鞆町(鞆字西町全域ほか、字石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地字古城跡・草谷の各一部)
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鞆の浦の常夜燈と港湾施設

江戸時代 / 📍鞆の浦

江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯一の近世港、鞆港。 鞆の浦の鞆港には、常夜燈・雁木・波止・焚場(たでば)・船番所という江戸時代の港湾施設5点がほぼ揃って現存し、これらが一体で残るのは全国でも鞆港のみとされる。シンボルの常夜燈は安政6年(1859)の刻銘をもつ石造灯台で、海中の基礎石から宝珠の頂までは約12.1mに及び、江戸期の石造常夜燈としては国内最大級とされる。雁木は潮の干満に応じて船を着けられる階段状の船着き場で、半円形の港内に連続して巡らされている。波止は花崗岩を積んだ全長約146mの防波堤で、江戸後期に築かれ明治期に修築された。鞆港を含む沿岸と沖の島々一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定され、鞆町西町を中心とする区域は2017年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。日本遺産「瀬戸の夕凪が包む 国内随一の近世港町」の構成要素でもある。

🕰 時代江戸時代
🏛 成立・築造常夜燈は安政6年(1859)造立とされる。雁木・波止・焚場・船番所は江戸後期築造、波止は明治期に修築。鞆港一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定。
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆
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福山市鞆の浦歴史民俗資料館

近代(昭和) / 📍鞆の浦

鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬戸内の歴史・民俗を伝える市立資料館 福山市鞆の浦歴史民俗資料館は、広島県福山市鞆町後地に建つ市立の博物館で、「潮待ちの館」の愛称で親しまれる。1977年(昭和52年)からの地元有志による調査・収集活動を背景に、福山市制70周年記念事業として1988年(昭和63年)に開館した。立地は、福島正則が築いたとされる鞆城跡(福山市指定史跡)の高台で、瀬戸内海を見渡せる。万葉の時代から潮待ち・風待ちの港として栄えた鞆の浦を中心に、古代から近世にいたる歴史資料を展示。鯛網漁のジオラマや錨を製造した鍛冶場、朝鮮通信使関連資料、保命酒に関する資料に加え、お手火神事・お弓神事といった地域の民俗文化財も常設展示する。鞆の歴史と暮らしを総合的に学べる拠点とされる。

🕰 時代近代(昭和)
🏛 成立・築造1988年(昭和63年)開館。福山市制70周年記念事業として建設。建つ鞆城跡は福島正則が築いたとされる(福山市指定史跡)
📍 所在地広島県福山市鞆町後地536-1
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太田家住宅

江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期) / 📍鞆の浦

鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で、国の重要文化財 鞆の浦を代表する歴史的建造物で、薬用酒「保命酒」の醸造で財を成した商家の旧宅。もとは大坂の漢方医を出自とする中村家の屋敷で、明暦元年(1655年)に鞆へ移り住み、まもなく十六味地黄保命酒の製造・販売を始めて大ヒットし、福山藩の御用名酒屋として販売独占権を得たとされる。明治期に廻船業を営んだ太田家が継承し、現在の名で呼ばれる。主屋を中心に保命酒蔵や各種土蔵など九棟が建ち並び、建築年代は18世紀中期から19世紀前期に及ぶ。瀬戸内の商家建築を伝える貴重な遺構として、1991年に国の重要文化財に指定された。幕末には三条実美ら尊王攘夷派の公卿が立ち寄ったと伝わり、別宅の朝宗亭とともに「鞆七卿落遺跡」として広島県の史跡(1940年指定)にもなっている。

🕰 時代江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)
🏛 成立・築造主屋は18世紀中期、ほか北保命酒蔵が天明8年(1788年)、西蔵が寛政元年(1789年)、東保命酒蔵が寛政7年(1795年)など18世紀中期〜19世紀前期。国の重要文化財指定は1991年(平成3年)5月31日。
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆842
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いろは丸展示館

近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期) / 📍鞆の浦

坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵を活かした資料館 鞆の浦のシンボル常夜灯(とうろどう)のすぐそばに建つ資料館。1867年(慶応3年)、坂本龍馬と海援隊が運航したいろは丸が紀州藩の明光丸と備後灘で衝突・沈没した「いろは丸事件」を伝える施設で、その談判が鞆の浦で行われた縁にちなむ。建物は江戸期に建てられた太い梁が印象的な土蔵で、地元では「大蔵」と呼ばれ、国の登録有形文化財とされる。館内には海底に沈むいろは丸を再現したジオラマ、引き揚げられた陶器や部品、調査風景の写真などを展示し、2階には龍馬が宿泊先で身を潜めたという「隠れ部屋」が再現され、龍馬の蝋人形も置かれている。1989年(平成元年)7月の開館。幕末史と鞆の港町文化を同時に味わえるスポットである。

🕰 時代近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)
🏛 成立・築造1989年(平成元年)7月開館。建物は江戸期築の土蔵「大蔵(浜蔵)」で、国の登録有形文化財とされる。展示題材のいろは丸事件は1867年(慶応3年)
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆843-1
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仙酔島

古代(地質)/近代(指定) / 📍鞆の浦

鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連なる瀬戸内海国立公園の名勝 仙酔島は鞆の浦の沖合に浮かぶ周囲約6キロの島で、住所は福山市鞆町後地。鞆港から市営渡船で約5分の距離にあり、観光客の往来はあるが定住者のいない無人島とされる。1925年(大正14年)に国の名勝「鞆公園」の一部として指定され、1934年(昭和9年)には日本で最初に指定された国立公園・瀬戸内海国立公園に含まれた。島は約9000万年前の大規模な火山活動による溶結凝灰岩を主体とし、南側海岸には青・赤・黄・白・黒の岩が200メートル以上連なる「五色岩」が見られ、地質的に貴重とされる。「仙人が酔うほど美しい島」が名の由来と言われる。江戸後期の学者・頼山陽が当地の景観を「山紫水明」と評したとも伝わる。

🕰 時代古代(地質)/近代(指定)
🏛 成立・築造1925年(大正14年)国名勝「鞆公園」に指定。1934年(昭和9年)日本初の国立公園・瀬戸内海国立公園に編入。島自体は約9000万年前の火山活動で形成されたとされる
📍 所在地広島県福山市鞆町後地
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吉備津神社(備後一宮)

江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる / 📍新市・北部

備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で「いっきゅうさん」と親しまれる古社 福山市新市町宮内に鎮座する備後国一宮で、地元では「一宮さん(いっきゅうさん)」と親しまれる。社伝では大同元年(806年)に吉備国の吉備津神社から勧請し創建されたと伝わるが、延喜式神名帳に記載がないことなどから実際の成立はより後とする説もある。主祭神は吉備国を治めたとされる大吉備津彦命。現在の本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が旧規模にならい造営したもので、桁行七間・梁間四間の入母屋造檜皮葺、国の重要文化財に指定されている。ほかにも木造狛犬や太刀などが重要文化財として伝えられ、複数の建造物が広島県・福山市指定文化財となっている。隣接する櫻山城跡なども史跡として知られ、備後の信仰と歴史を今に伝える。

🕰 時代江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる
🏛 成立・築造本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が造営、国の重要文化財。創建は大同元年(806年)と伝わるが諸説ある
📍 所在地広島県福山市新市町宮内400
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素盞嗚神社(備後一宮)

飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮 / 📍新市・北部

祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏のけんか神輿で名高い古社 福山市新市町戸手に鎮座する素盞嗚神社は、『延喜式神名帳』に載る式内社で備後国一宮を称し、旧社格は県社です。主祭神は素盞嗚尊で、稲田姫命・八王子を配祀します。社伝では天武天皇の治世、7世紀ごろ(679年か)の創建とされます。『釈日本紀』所収の「備後国風土記」逸文に伝わる蘇民将来説話の舞台「疫隈国社」と結びつけられ、茅の輪くぐりや祇園信仰・祇園祭発祥の地の一つとされています。神仏習合期には牛頭天王を祀り、遣唐使・吉備真備が734年に当社から播磨の広峯神社へ勧請したとも伝わります。毎年7月の例祭では、勇壮なけんか神輿(神輿合わせ)が行われることで知られます。

🕰 時代飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮
🏛 成立・築造社伝では天武天皇期の7世紀ごろ(679年か)創建とされる。『延喜式神名帳』記載の式内社で、旧県社
📍 所在地広島県福山市新市町大字戸手1-1

時代背景:童謡運動が花開いた大正期

廉塾(菅茶山が神辺に開いた私塾)
廉塾(菅茶山が神辺に開いた私塾)(画像:Wikimedia Commons / CC)

葛原しげるが童謡作詞家として活躍した大正から昭和前期は、日本の児童文化が大きく花開いた時代でした。明治期の唱歌は、文部省が編纂した教育目的の歌が中心で、文語調で道徳や知識を教え込む傾向が強いものでした。これに対し大正期に入ると、子どもの感性そのものを尊重し、芸術性の高い歌を子どもに与えようという「童謡運動」が起こります。

その象徴が、1918年(大正7年)に鈴木三重吉が創刊した児童雑誌『赤い鳥』でした。北原白秋、西条八十、野口雨情といった詩人たちが、子ども向けの新しい詩=童謡を次々と発表し、これに作曲家が曲を付けることで、芸術的な子どもの歌が数多く生まれました。「赤とんぼ」「七つの子」「砂山」など、現在も歌い継がれる名曲の多くがこの時代に生まれています。

葛原しげるも、こうした童謡運動の大きなうねりの中で活躍した一人です。ただし葛原の場合、芸術運動としての童謡だけでなく、教育現場で実際に子どもたちと向き合う教師でもあったという点が特徴的でした。彼の作る歌には、難しい言葉を避け、子どもが声に出して歌って楽しいリズムや音の響きを大切にする姿勢が貫かれています。「夕日」の「ぎんぎんぎらぎら」という擬態語の鮮烈さも、まさにその子ども目線から生まれたものでした。

唱歌から童謡へ──子ども観の転換

明治の唱歌と大正の童謡の違いは、単なる歌の様式の違いではなく、その背後にある「子ども観」の転換を反映しています。明治期は、子どもを「小さな大人」として早く一人前に育てることが重視され、歌もまた教育の道具という位置づけでした。一方、大正期の童謡運動は、子どもには子ども固有の感性や世界があり、それを尊重し育むべきだという考えに立っていました。

葛原しげるが掲げた「コドモ党」という言葉は、この子ども尊重の思想をよく表しています。彼は自らを「コドモ党」と称し、子どもの側に立って物事を考え、子どもと同じ目線で世界を見ることを生涯のモットーとしました。「いつもニコニコ、いつもピンピン」という言葉も、子どもに接する大人のあるべき姿として、彼が大切にした旗印だったのです。

生い立ち:神辺・八尋に生まれて

葛原しげるは、1886年(明治19年)6月25日、広島県安那郡八尋村(やひろむら、現在の福山市神辺町大字八尋)に、父・二郎、母・いつの次男として生まれました。本名の正しい表記は「𦱳(しげる)」で、「滋」の旧字体にあたるとされます。資料によっては「葛原慈」名義の表記も見られます。

葛原家は、この地に深い文化的な背景を持つ家系でした。しげるの祖父は、幕末から明治にかけて活躍した盲目の箏曲家・作曲家、葛原勾当(くずはら こうとう、1812〜1882)です。勾当は3歳のときに天然痘により失明したと伝えられますが、9歳から箏を学び、京都で生田流の箏曲を修めて名手となった人物です。さらに、目が見えないながらも木製の活字(木活字)を自ら考案して日記を綴ったことで知られ、その「葛原勾当日記」は貴重な郷土史料として今に伝わっています。文化と教養を尊ぶこの家系の血を、しげるは受け継いでいたといえるでしょう。

なお、葛原勾当としげるの続柄については「祖父」と紹介されることが一般的です。本記事でもこれに従いますが、家系の細部については郷土資料によって記述に幅がある点に留意してください。いずれにせよ、しげるが箏曲という音楽文化に縁の深い家に生まれ育ったことは、後年の童謡作詞家としての歩みと無縁ではなかったと考えられます。

神辺という土地の文化的厚み

葛原しげるが生まれた神辺は、江戸時代に旧山陽道の宿場町「神辺宿」として栄えた交通の要衝でした。ここには、江戸後期を代表する漢詩人・儒学者である菅茶山(かん さざん)が私塾「廉塾(れんじゅく)」を開き、全国から学問を志す若者が集まりました。廉塾と菅茶山旧宅は、現在も国の特別史跡に指定され、神辺の文化的な厚みを今に伝えています。

このように、学問や文芸が早くから根づいていた神辺の風土は、葛原しげるのような文化人を生み出す土壌として無縁ではなかったでしょう。盲目の箏曲家・葛原勾当を輩出した葛原家、漢詩文の殿堂・廉塾、そして童謡作詞家・葛原しげる——神辺という小さな町が、これだけの文化人を育んだことは特筆に値します。

学びの道:福山中学から東京高等師範へ

神辺城跡(本丸跡)
神辺城跡(本丸跡)(画像:Wikimedia Commons / CC)

葛原しげるは、1903年(明治36年)に広島県立福山中学校(現在の広島県立福山誠之館高等学校)を卒業しました。福山誠之館は、福山藩の藩校「誠之館」をルーツとする伝統校で、地域の俊英が学ぶ場でした。

続いて葛原は、1904年(明治37年)に東京高等師範学校(現在の筑波大学)英語科へ入学します。東京高等師範は、全国の中等学校教員を養成する国立の最高学府で、教育者を志す若者にとって最難関の進学先の一つでした。葛原はここで英語を専攻し、1908年(明治41年)に卒業しています。生まれ育った神辺の地を離れ、当時の最先端の教育を東京で受けたことが、彼の後の幅広い活動の基盤となりました。

東京高等師範で学んだ英語と教育学は、葛原に「子どもにわかりやすく伝える」という教育者としての視点を与えました。同時に、東京という文化の中心地で当時の文学・芸術の潮流に触れたことが、後年の童謡創作へとつながっていきます。学問と芸術、教育と創作——葛原しげるの生涯を貫く二つの軸は、この学生時代にすでに芽生えていたといえるでしょう。

教育者として:東京での教職と出版活動

東京高等師範を卒業した翌年、1909年(明治42年)、葛原しげるは東京・九段の精華学校初等科の訓導(教員)として教職のキャリアを始めました。以後、彼は教壇に立ちながら、同時に児童向け出版の世界でも活躍していきます。

葛原は、当時の有力な出版社であった博文館などに関わり、児童雑誌の編集に携わりました。明治末から大正にかけて、日本では子ども向けの雑誌や書籍が次々と刊行され、児童文化が大きく発展した時期にあたります。葛原は、教育現場の経験と編集者としての感覚を併せ持つことで、子どもが本当に楽しめる読み物や歌を生み出すことができたのです。

葛原はまた、女子音楽学校や跡見女学校、九段精華高等女学校など複数の学校でも教鞭をとったと伝えられます。英語科出身でありながら、彼の関心は音楽や文芸、児童教育へと広がっていきました。教育者・編集者・作詞家という複数の顔を持ちながら、その根底には一貫して「子どものために」という思いがあったのです。

「ニコピン先生」の由来

葛原しげるを語るうえで欠かせないのが、「ニコピン先生」という愛称です。これは彼が掲げた「いつもニコニコ、いつもピンピン」というモットーに由来します。葛原自身、この言葉について「これは、私が大きくなってコドモ党としてのみならず、人間としての唯一の旗じるしです」と語ったと伝えられています。

常に笑顔(ニコニコ)で、元気はつらつ(ピンピン)に子どもと接する——この姿勢は、葛原の教育者としての信条であると同時に、彼の童謡が持つ明るく前向きな空気そのものでもありました。難しい理屈ではなく、子どもと同じ目線に立って一緒に楽しむ。その温かな人柄が「ニコピン先生」という親しみやすい呼び名に込められているのです。

戦災と故郷への帰還

長く東京を拠点に活動した葛原しげるでしたが、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)、彼が関わっていた九段精華学校が戦火で焼失したとされます。これを機に葛原は、生まれ故郷である神辺町八尋へ疎開しました。半生を東京で過ごした葛原が、晩年に至って再び故郷の土を踏んだのです。

故郷に戻った葛原は、地元の女学校の校長を務めたと伝えられます。郷土資料によって学校名や就任年に幅があり、私立至誠高等女学校(後に県立へ移管)の校長を1946年(昭和21年)に就任し、1960年(昭和35年)に退いたとする記述が見られます。学校の沿革については複数の表記があるため、本記事では年号・校名を断定せず、「晩年、故郷の女学校で校長を務め、生徒たちから『ニコピン先生』と慕われた」という事実関係にとどめます。いずれにせよ、教育者としての情熱を最後まで失わなかったことは確かでしょう。

代表作「夕日」の誕生

福山ばら公園(「ばらのまち福山」の象徴)
福山ばら公園(「ばらのまち福山」の象徴)(画像:Wikimedia Commons / CC)

葛原しげるの数ある作品の中でも、最も広く知られているのが童謡「夕日」です。「ぎんぎんぎらぎら 夕日が沈む」で始まるこの歌は、夕暮れの空がまっ赤に燃える情景を、印象的な擬態語で描き出しています。作詞は葛原しげる、作曲は富山県高岡市出身の作曲家・室崎琴月(むろざき きんげつ)です。

「夕日」は、1921年(大正10年)に室崎琴月が曲を付け、同年11月の中央音楽会の演奏会で発表されたとされます。その後レコードが発売されて全国的に知られるようになり、今日まで歌い継がれる国民的な童謡となりました。シンプルながら忘れがたいメロディと、子どもにも口ずさみやすい言葉のリズムが、長く愛される理由でしょう。

「きんきんきらきら」から「ぎんぎんぎらぎら」へ

「夕日」の歌詞には、よく知られた誕生秘話があります。葛原が最初に書いた歌詞では、夕日の輝きを「きんきんきらきら」と表現していたといいます。ところが、当時小学2年生だった葛原の長女が、「『きんきんきらきら』は朝日でしょう。夕日は『ぎんぎんぎらぎら』じゃないの」と指摘したと伝えられます。

この娘の鋭い感性に葛原は心を動かされ、歌詞を「ぎんぎんぎらぎら」に改めたとされています。澄んだ朝の光を思わせる「きんきんきらきら」に対し、重く赤く沈む夕日には濁音の「ぎんぎんぎらぎら」がふさわしい——まさに子どもならではの直感です。「コドモ党」を自任する葛原にとって、子どもの言葉感覚を全面的に信頼してこそ生まれた、象徴的なエピソードといえるでしょう。なお、この逸話は広く語り継がれているものですが、細部については資料によって表現に差があることを付記しておきます。

作曲者・室崎琴月と高岡の夕日

「夕日」に曲を付けた室崎琴月は、富山県高岡市の生まれです。曲想を練るにあたり、室崎は生まれ育った高岡の高岡古城公園(高岡城跡)で眺めた夕日を思い描きながらメロディを構想したと伝えられています。つまり「夕日」という一曲は、広島県神辺出身の葛原しげるの言葉と、富山県高岡出身の室崎琴月の旋律が出会って生まれた作品なのです。

原型となった詩は、児童雑誌「白鳩」に掲載されていたものだとされ、室崎が偶然この詩に目を留めたことが、名曲誕生のきっかけになったとも伝えられます。作詞と作曲、東と西、それぞれの土地の夕日への思いが一つに溶け合って、世代を超えて愛される童謡が誕生しました。

「夕日」以外の代表作と多彩な創作

葛原しげるの創作は「夕日」一曲にとどまりません。彼は生涯にわたって膨大な数の童謡を作詞しました。資料によって数え方に幅がありますが、童謡だけで二千数百編、校歌・社歌・音頭などを含めると数百以上にのぼるとされ、その創作量は群を抜いています。

代表作として、「とんび」「白兎(しろうさぎ)」「村祭(むらまつり)」「キューピーさん」「羽衣」「たんぽぽ」などが知られています。いずれも、子どもの身近な自然や生活、遊びを題材にした、明るく親しみやすい歌です。難解な言葉を避け、声に出して歌うときの音の楽しさを大切にする点に、葛原作品の一貫した特徴があります。

宮城道雄との名コンビ

葛原しげるの創作活動を語るうえで欠かせないのが、近代邦楽の巨匠・宮城道雄との協働です。宮城道雄は「春の海」などで知られる箏曲家・作曲家で、新日本音楽運動の中心人物でした。葛原は宮城と童曲(子どものための邦楽歌曲)のコンビを組み、多くの作品を共作しました。資料によれば、宮城が作曲した童曲のうち、相当数が葛原の作詞によるものだと伝えられます。

盲目の箏曲家・葛原勾当を祖父に持つ葛原しげるが、同じく盲目の箏曲家であった宮城道雄と組んで多くの歌を生んだことには、不思議な縁を感じずにはいられません。箏の調べと子どものための言葉。葛原の作品世界には、こうした邦楽の伝統と児童文化が美しく結びついていたのです。

校歌作詞家としての一面

葛原しげるは、童謡だけでなく、全国の学校の校歌も数多く手がけました。資料によっては全国の数百校におよぶ校歌を作詞したとも伝えられます。校歌は、その学校に通う子どもたちが何年も歌い続け、卒業後も心に残る大切な歌です。葛原が多くの校歌を任されたのは、子どもの心に寄り添う言葉を作る名手として、広く信頼されていたことの証でしょう。

童謡、校歌、社歌、音頭——葛原の言葉は、さまざまな場面で人々の生活に寄り添いました。一人の作詞家がこれほど多彩で、かつ膨大な作品を残したことは、近代日本の児童文化史においても特筆すべき足跡といえます。

栄誉と晩年

長年にわたる教育と創作の功績により、葛原しげるは1959年(昭和34年)に藍綬褒章を受章したとされます。藍綬褒章は、教育や社会福祉など公共の利益に貢献した人物に贈られる栄誉で、葛原の生涯にわたる児童文化への貢献が認められたものです。

故郷・神辺との結びつきも深く、葛原は旧神辺町の名誉町民に選ばれ、市町村合併後は福山市の名誉市民として顕彰されています。神辺が生んだ偉人として、地域の誇りであり続けているのです。

葛原しげるは、1961年(昭和36年)12月7日、75歳で生涯を閉じました。資料には、東京教育大学(現在の筑波大学の前身の一つ)の構内で倒れたと伝えるものもあります。最後まで教育と縁の深い場所にあったことが、いかにも「ニコピン先生」らしい最期だったといえるかもしれません。生涯を子どもたちのために捧げた、その温かな人柄と数々の名曲は、今も多くの人々の記憶に生き続けています。

ゆかりの地・現在に残るもの

葛原しげるの足跡は、生まれ故郷である福山市神辺町に色濃く残っています。神辺を訪れれば、童謡「夕日」の世界や、葛原家ゆかりの史跡に触れることができます。

葛原勾当旧邸と童謡歌碑

神辺町には、葛原しげるの祖父・葛原勾当の旧邸が残されており、その敷地には葛原しげるの童謡歌碑も建てられています。盲目の箏曲家と童謡作詞家、二代にわたる葛原家の文化的足跡を、一つの場所で感じることができる貴重なスポットです。観光案内などでも「葛原勾当旧邸&葛原しげる童謡歌碑」として紹介されています。訪れる際は、開館日や見学条件が変わることがあるため、事前に福山市や神辺の観光情報で最新の状況を確認することをおすすめします。

葛原文化保存会の活動

地元には、葛原勾当・葛原しげる父祖二代の文化を顕彰し、後世に伝えるための「葛原文化保存会」があります。こうした地域の方々の地道な活動によって、葛原しげるの業績や「ニコピン先生」の人柄が今に語り継がれています。郷土の偉人を大切にする神辺の人々の思いが、史跡や資料の保存を支えているのです。

歌い継がれる「夕日」

葛原しげるの最大の「遺産」は、何といっても今も歌い継がれる童謡そのものです。「夕日」は、世代を超えて多くの人に親しまれ、さまざまな歌手によって歌われ続けています。神辺の地に立って西の空に沈む夕日を眺めれば、「ぎんぎんぎらぎら」の歌詞がいっそう心に響くことでしょう。形ある史跡だけでなく、人々の口ずさむ歌の中にこそ、葛原しげるは生き続けているのです。

関連年表:葛原しげるの生涯

※上記の年代・経緯は、確認できた範囲の史料にもとづくものです。校長就任年や受章年など、資料によって記述に幅がある事項については「とされる」「伝えられる」と注記しています。

モデルコース:葛原しげるゆかりの神辺を歩く

葛原しげるのゆかりの地を巡るなら、神辺の歴史散策と組み合わせるのがおすすめです。神辺は宿場町としての歴史や菅茶山ゆかりの史跡も豊富で、半日から一日かけてじっくり歩ける町です。

半日コース:神辺の文化人をたどる

午前は神辺の中心部から出発し、宿場町の面影を残す町並みを歩きます。菅茶山の廉塾・旧宅(国の特別史跡)で江戸後期の学問の薫りに触れたあと、葛原勾当旧邸と葛原しげる童謡歌碑を訪ねて、葛原家二代の文化的足跡に思いを馳せます。神辺の歴史と文化を凝縮して味わえる、満足度の高いコースです。

一日コース:福山の歴史と合わせて

午前に神辺で葛原しげるゆかりの地を巡ったあと、午後は福山市街地や鞆の浦へ足を延ばすのもおすすめです。福山の歴史全体を俯瞰したい方は、まず福山の歴史 完全ガイドで町の成り立ちを押さえておくと、各スポットの理解が深まります。福山藩の拠点だった福山城を見学すれば、神辺の文化が福山藩の歴史とどうつながっていたのかも見えてきます。

さらに時間があれば、潮待ちの港町・鞆の浦まで足を延ばしましょう。朝鮮通信使ゆかりの福禅寺 対潮楼や、坂本龍馬ゆかりのいろは丸展示館を巡れば、福山の多彩な歴史を一日で堪能できます。神辺で童謡に思いを馳せ、福山城で藩政の歴史に触れ、鞆の浦で海運の物語をたどる——盛りだくさんの福山歴史散歩になるはずです。

訪れる前のワンポイント

葛原勾当旧邸や童謡歌碑などは、見学条件や公開日が変わる場合があります。とくに個人ゆかりの史跡は常時公開でないこともあるため、出発前に福山市や神辺の観光案内で最新情報を確認しておくと安心です。夕方の時間帯に神辺を訪れ、西の空に沈む「ぎんぎんぎらぎら」の夕日を眺めながら散策を締めくくるのも、この町ならではの贅沢な楽しみ方です。

よくある質問(FAQ)

Q葛原しげるはどこの出身ですか?
A

広島県安那郡八尋村、現在の福山市神辺町八尋の出身です。1886年(明治19年)に生まれました。神辺が生んだ童謡作詞家・教育者として知られています。

Q「葛原しげる」の名前の読み方と表記は?
A

読み方は「くずはら しげる」です。本名の「しげる」は正しくは「𦱳」(滋の旧字体)と表記されるとされ、一般には平仮名で「葛原しげる」と書かれることが多くなっています。

Q童謡「夕日」はいつ作られたのですか?
A

葛原しげるの作詞、室崎琴月の作曲により、1921年(大正10年)に発表されたとされます。同年11月の中央音楽会の演奏会で発表され、その後レコード化されて全国的に知られるようになりました。

Q「ぎんぎんぎらぎら」はどうやって生まれたのですか?
A

当初の歌詞は「きんきんきらきら」だったとされますが、葛原の長女(当時小学2年生)が「『きんきんきらきら』は朝日で、夕日は『ぎんぎんぎらぎら』でしょう」と指摘し、これを受けて「ぎんぎんぎらぎら」に改めたと伝えられています。子どもの言葉感覚から生まれた逸話として知られています。

Q「夕日」の作曲者はどんな人ですか?
A

作曲者は室崎琴月(むろざき きんげつ)で、富山県高岡市の出身です。生まれ育った高岡の高岡古城公園(高岡城跡)で眺めた夕日を思い描きながら曲を構想したと伝えられています。

Q「夕日」以外の代表作は?
A

「とんび」「白兎」「村祭」「キューピーさん」「羽衣」「たんぽぽ」などが代表作として知られています。いずれも子どもの身近な自然や生活を題材にした、明るく親しみやすい歌です。

Q「ニコピン先生」とはどういう意味ですか?
A

葛原しげるが掲げた「いつもニコニコ、いつもピンピン」というモットーに由来する愛称です。常に笑顔で元気に子どもと接する彼の人柄をよく表しており、教え子や周囲の人々から親しみを込めてこう呼ばれました。

Q葛原しげるはどんな仕事をしていたのですか?
A

童謡作詞家であると同時に、教育者であり、児童雑誌の編集者でもありました。東京高等師範学校を卒業後、東京で教職に就きながら、出版社で児童雑誌の編集に携わり、数多くの童謡や校歌を作詞しました。複数の顔を持つ多才な文化人でした。

Q祖父の葛原勾当とはどんな人物ですか?
A

葛原勾当(1812〜1882)は、幕末から明治にかけて活躍した盲目の箏曲家・作曲家です。幼くして失明しながらも箏の名手となり、自ら木活字を考案して長年の日記を綴ったことで知られます。しげると同じく神辺町八尋の出身で、葛原家の文化的な伝統を象徴する人物です。

Q葛原しげるはどんな栄誉を受けましたか?
A

1959年(昭和34年)に藍綬褒章を受章したとされます。また、故郷では旧神辺町の名誉町民、合併後は福山市の名誉市民として顕彰されています。地域の偉人として今も大切にされています。

Q葛原しげるゆかりの地を訪ねるにはどこへ行けばよいですか?
A

福山市神辺町に、祖父・葛原勾当の旧邸と葛原しげるの童謡歌碑があります。葛原家二代の文化的足跡を一度に感じられる場所です。公開条件が変わる場合があるため、訪問前に福山市や神辺の観光情報で最新の状況を確認すると安心です。

Q葛原しげると宮城道雄の関係は?
A

葛原しげるは、「春の海」で知られる箏曲家・作曲家の宮城道雄と童曲のコンビを組み、多くの作品を共作したと伝えられます。盲目の箏曲家を祖父に持つ葛原が、同じく盲目の箏曲家・宮城と協働したことには、邦楽と児童文化を結ぶ縁が感じられます。

Q葛原しげるはいつ亡くなったのですか?
A

1961年(昭和36年)12月7日、75歳で亡くなりました。長く東京を拠点に活動し、晩年は故郷の神辺で過ごしたあと、生涯を閉じたとされています。

「夕日」が愛され続ける理由

童謡「夕日」が発表されてから、すでに百年以上が経ちました。それでもこの歌が世代を超えて歌い継がれているのには、いくつもの理由があります。ここでは、葛原しげるの言葉と室崎琴月の旋律が織りなす「夕日」の魅力を、もう少し掘り下げてみましょう。

擬態語のもつ力

「夕日」を語るうえで欠かせないのが、冒頭の「ぎんぎんぎらぎら」という擬態語です。理屈で夕日を説明するのではなく、音そのものでまっ赤に燃える太陽の輝きを表現したこの言葉は、子どもの心に直接届きます。難しい語彙を一切使わず、音の響きと繰り返しのリズムだけで情景を立ち上がらせる——これこそ、子どもの感性を知り尽くした葛原しげるならではの手法でした。声に出して歌えば歌うほど、夕日の鮮烈なイメージが心に焼きつくのです。

「きんきんきらきら」から「ぎんぎんぎらぎら」への変更が、長女のひと言から生まれたという逸話も、この歌の魅力を語るうえで象徴的です。大人の理屈ではなく子どもの直感を信じたからこそ、夕日にふさわしい濁音の重みが選ばれました。葛原が掲げた「コドモ党」の精神が、歌詞の細部にまで生きていることがわかります。

日常の情景を歌う温かさ

「夕日」が描くのは、特別な出来事ではなく、誰もが日々目にする夕暮れの空という、ありふれた日常の一場面です。けれども、まっ赤に染まる空とともに歌われる帰り道の情景は、見る人それぞれの記憶や郷愁を呼び覚まします。遠い日の夕暮れ、家路を急いだ子どもの頃の自分——そうした普遍的な情感に静かに触れてくるところに、この歌が長く愛される理由があるのでしょう。

身近な自然や生活を温かなまなざしで歌うのは、「夕日」だけでなく葛原作品全体に共通する特徴です。「とんび」が大空を舞う鳥を、「村祭」が郷里の祭りのにぎわいを描くように、葛原の童謡はいつも、子どもたちの暮らしのすぐそばにある世界を題材にしていました。その親しみやすさこそが、葛原童謡が時代を超えて受け継がれる力なのです。

大正期には数多くの童謡が生まれましたが、その多くが時とともに忘れられていったなかで、「夕日」は今も色あせることなく歌われ続けています。芸術性の高さを誇示するのではなく、子どもが自然に口ずさめる素朴さを徹底して追求したことが、結果としてこの歌に長い生命を与えたのでしょう。やさしさのなかに普遍を宿す——葛原童謡の真価は、まさにこの点にあるといえるでしょう。

歌い継がれてきた百年

「夕日」は発表以来、教科書や歌集に取り上げられ、数多くの歌手によって録音されてきました。家庭や学校、地域の歌声の場で歌い継がれ、親から子へ、子から孫へと世代をまたいで受け継がれています。作詞家や作曲家の名を知らない人でも、メロディと「ぎんぎんぎらぎら」の歌い出しは知っている——そんな国民的な存在に育ったことこそ、この歌の最大の達成だといえるでしょう。

葛原しげるの人物像と思想

葛原しげるは、単に多くの童謡を作った作詞家にとどまりません。彼の創作の根底には、子どもをどう見るかという確固たる思想がありました。ここでは「コドモ党」や「ニコピン」という言葉に込められた、葛原の人物像と思想に迫ります。

「コドモ党」という生き方

葛原しげるは、自らを「コドモ党」と称しました。これは、子どもの側に立ち、子どもと同じ目線で物事を見ようとする姿勢を表す言葉です。大人の都合や理屈で子どもを上から導くのではなく、子どもの感じ方や言葉づかいを尊重し、その世界に寄り添う——葛原の作る童謡が、子どもにとって本当に楽しく、歌いやすいものになっているのは、この「コドモ党」の精神が貫かれているからです。

大正期の童謡運動は、まさに「子どもには子ども固有の感性がある」という子ども観の転換から生まれました。葛原はその思潮の中で、教育現場の実感をもって「コドモ党」を実践した稀有な存在でした。詩人としてだけでなく、実際に子どもたちと日々向き合う教師であったからこそ、彼の言葉には机上の理屈を超えた生きた説得力があったのです。

「いつもニコニコ、いつもピンピン」

「ニコピン先生」の由来となった「いつもニコニコ、いつもピンピン」という言葉は、単なる愛称の語呂合わせではなく、葛原の人生哲学そのものでした。どんなときも笑顔を絶やさず(ニコニコ)、心身ともに元気はつらつとあること(ピンピン)。これを葛原は、子どもに接する大人の理想であると同時に、一人の人間としての生き方の旗印として大切にしていました。

明るく前向きなこの信条は、彼の童謡の作風にもそのまま表れています。葛原の歌に暗さや説教くささがなく、どこか朗らかで温かいのは、作者自身の生き方がにじみ出ているからでしょう。教え子たちが彼を「ニコピン先生」と慕い続けたのも、その人柄に触れた者だけが知る、葛原の魅力があったからにほかなりません。

教育と創作を貫いたもの

葛原しげるの生涯を振り返ると、教育者・編集者・作詞家という複数の顔がありながら、その根底には一貫して「子どものために」という一筋の思いが流れていたことがわかります。学校で子どもたちを教え、雑誌で子どもの読み物を編み、歌で子どもの心に寄り添う。手段は異なっても、向かう先はいつも子どもたちでした。

東京高等師範学校で英語を学んだ青年が、なぜ童謡という道に進んだのか。その答えは、おそらく彼の中にあった「子どもの世界を豊かにしたい」という変わらぬ願いにあったのでしょう。盲目の祖父・葛原勾当が、目が見えないなかでも音楽と文字の世界を切り拓いたように、しげるもまた、子どもの心に届く言葉と歌の世界を生涯かけて耕し続けたのです。

葛原家二代が神辺に残したもの

神辺の地が誇る文化的遺産として、葛原家二代——祖父・勾当と孫・しげる——の存在は特別です。盲目の箏曲家と童謡作詞家、ともに音楽と言葉の世界で大きな足跡を残した二人の歩みは、神辺という土地の文化的な厚みを象徴しています。

盲目の箏曲家・葛原勾当の偉業

葛原勾当(1812〜1882)は、3歳のときに天然痘で失明したと伝えられますが、9歳から箏を学び始め、京都で生田流の箏曲を修めて名手となりました。目が見えないという困難をものともせず、音楽の世界で確かな地位を築いた人物です。とりわけ知られるのが、自ら木製の活字を考案し、それを用いて長年にわたり日記を綴ったことです。その「葛原勾当日記」は、46年もの長きにわたって記録され続けたと伝えられ、貴重な郷土史料となっています。

福山市では、葛原勾当が用いた印刷用具や、琴・三味線の稽古、墨筆による記録などに関する資料が、文化財として大切に扱われています。困難を創意工夫で乗り越えた勾当の生き方は、孫であるしげるの「いつもニコニコ、いつもピンピン」という前向きな精神にも、どこか通じるものがあるように感じられます。

音楽と言葉の家系

箏の調べを生み出した祖父・勾当と、子どもの歌を紡いだ孫・しげる。葛原家は、二代にわたって音楽と言葉の世界に深く関わった、まれな文化人の家系でした。しげるが童謡作詞家として活躍し、しかも宮城道雄という盲目の箏曲家と組んで多くの歌を生んだことを思うと、この家系に流れる音楽の血脈の不思議さを感じずにはいられません。

神辺町に残る葛原勾当旧邸と葛原しげる童謡歌碑は、この家系の文化的足跡を今に伝える、かけがえのない場所です。一つの土地から二代続けてこれほどの文化人が生まれたことは、神辺の人々にとって大きな誇りであり、地域のアイデンティティの一部となっています。

郷土が育み、郷土が守る

葛原文化保存会をはじめとする地域の人々の地道な活動によって、葛原勾当・しげる父祖二代の業績は、今も大切に語り継がれています。偉人を生んだだけでなく、その記憶を守り伝えていく——神辺の人々のこうした営みこそが、文化を文化として後世へつなぐ力なのです。福山を訪れる人にとっても、葛原家二代の物語は、この土地の奥行きを知る格好の入り口となるでしょう。

福山の歴史のなかの神辺

葛原しげるを生んだ神辺の地を、より深く理解するためには、福山全体の歴史のなかに位置づけてみるとよいでしょう。神辺は、福山という町の成り立ちと密接に結びついた、歴史の宝庫です。

宿場町・神辺宿の歴史

神辺は、江戸時代に旧山陽道の宿場町「神辺宿」として栄えた、交通と物流の要衝でした。多くの人や物が行き交うこの地には、自然と情報や文化も集まり、学問や文芸が育まれる土壌が形成されていきました。菅茶山が私塾「廉塾」を開き、全国から学徒を集めたのも、こうした神辺の地の利と無縁ではありません。葛原家二代の文化人が生まれた背景にも、この宿場町ならではの文化的な厚みがあったと考えられます。

福山藩と神辺

近世の福山は、水野氏に始まる福山藩のもとで城下町として発展しました。神辺一帯もその歴史のなかに位置づけられ、藩政期から近代へと続く地域の歩みのなかで、独自の文化を育んできました。福山の歴史全体の流れを押さえたい方は、福山の歴史 完全ガイドを、藩政の中心であった城については福山城の記事を、それぞれあわせて読むと理解が深まります。

海の歴史・鞆の浦とのつながり

福山の歴史は、内陸の神辺だけでなく、瀬戸内海に面した港町・鞆の浦の存在によっても彩られています。潮待ちの港として古くから栄えた鞆の浦には、朝鮮通信使を迎えた福禅寺 対潮楼や、坂本龍馬といろは丸事件で知られるいろは丸展示館など、見どころが数多くあります。神辺で童謡の世界に触れたあと、鞆の浦で海の歴史をたどれば、福山という町が内と外の両面で豊かな歴史を持つことが実感できるはずです。

郷土の偉人を訪ねる旅の意味

有名な観光名所を巡るだけでなく、その土地が生んだ人物の足跡をたどる旅には、特別な味わいがあります。葛原しげるの場合、誰もが知る童謡「夕日」が、実は広島県福山市神辺という具体的な土地と人に結びついていると知ることで、見慣れた夕暮れの空が少し違って見えてくるはずです。歌の背後にある一人の人間の人生に思いを馳せるとき、その歌はより深く心に響くようになります。

神辺の地に立ち、葛原家二代の文化的足跡に触れ、西の空に沈む夕日を眺める——そうした体験は、ガイドブックの情報だけでは得られない、土地と人の物語を肌で感じる時間になるでしょう。福山を訪れる際には、ぜひ神辺まで足を延ばし、「ニコピン先生」が育った風土を味わってみてください。

Q14. 葛原しげるはどれくらいの数の作品を作りましたか?

資料によって数え方に幅がありますが、童謡だけで二千数百編、校歌・社歌・音頭などを含めると数百以上にのぼるとされ、その創作量は群を抜いています。具体的な総数は資料により異なるため、本記事では断定を避けています。

Q15. 神辺はどんな歴史を持つ町ですか?

神辺は、江戸時代に旧山陽道の宿場町「神辺宿」として栄えた交通の要衝です。漢詩人・菅茶山が私塾「廉塾」を開いた地としても知られ、廉塾と菅茶山旧宅は国の特別史跡に指定されています。葛原勾当・しげる父祖二代をはじめ、多くの文化人を生んだ文化的な土地です。

まとめ:神辺が生んだ「ニコピン先生」

「ぎんぎんぎらぎら 夕日が沈む」——誰もが口ずさめるこの童謡の作詞者が、広島県福山市神辺町出身の葛原しげる(1886〜1961)であったことは、地元・福山にとって大きな誇りです。盲目の箏曲家・葛原勾当を祖父に持つ文化的な家系に生まれ、東京高等師範学校で学び、教育者・編集者・作詞家として多彩に活躍した葛原は、「いつもニコニコ、いつもピンピン」の「ニコピン先生」として、生涯を子どもたちのために捧げました。

代表作「夕日」は、子どもの言葉感覚を信頼した「ぎんぎんぎらぎら」の逸話とともに、世代を超えて歌い継がれています。「夕日」のほかにも「とんび」「村祭」など数多くの童謡を残し、宮城道雄との協働や全国の校歌作詞など、その足跡は近代日本の児童文化史に深く刻まれています。神辺を訪れれば、葛原勾当旧邸や童謡歌碑など、葛原家二代の文化的足跡に今も触れることができます。福山の歴史散策の折には、ぜひ神辺に立ち寄り、夕暮れの空を眺めながら「夕日」を口ずさんでみてください。きっと、この町が生んだ偉大な「ニコピン先生」の温かなまなざしを感じられることでしょう。

出典・注意

本記事は、葛原しげるおよび童謡「夕日」に関する公的機関・百科・地域団体の情報(ウィキペディア「葛原しげる」「夕日(童謡)」「葛原勾当」、葛原文化保存会の紹介、福山市の文化財・郷土資料に関する情報など)を参照し、確認できた範囲で記述しています。年号・経緯・固有名詞については、できる限り正確を期しましたが、資料によって記述に幅がある事項(校長就任年・学校名の沿革・受章や顕彰の時期など)については「とされる」「伝えられる」と明記しています。

※年代・経緯には諸説ある事項を含みます。詳細は各施設の公式情報や郷土資料でご確認ください。

最終更新: 2026年6月10日

史跡情報は福山NOTE 史跡図鑑(fn_history)より。