福山市を語るうえで欠かせないキーワードのひとつが「ものづくり」です。なかでも、世界中のジーンズに使われるデニム生地の分野で、福山発の企業が国内トップクラスのシェアを握っていることは、地元でも意外と知られていません。その企業がカイハラ株式会社です。本社は福山市新市町常に置かれ、リーバイスやユニクロ、エドウインといった国内外のブランドへデニム生地を供給しています。
しかし、カイハラは最初からデニムをつくっていたわけではありません。その源流をたどると、福山・備後地方が江戸時代末期から育ててきた伝統織物「備後絣(びんごがすり)」にゆきあたります。藍で糸を染め、絣(かすり)模様を織り出す技術。この藍染と織りの技が、やがて世界基準のデニム生地へと姿を変えていきました。本記事では、備後絣の誕生からカイハラのデニム転換、そして現在へと続く「福山デニム」の歩みを、確認できる史実に沿ってたどります。なお、年代や経緯には諸説ある事項を含みますので、断定を避けつつ丁寧に整理していきます。
デニムという言葉からはアメリカ西部やゴールドラッシュを連想する人も多いでしょう。実際、ジーンズの起源は19世紀のアメリカにあります。しかし、その生地を支える技術が、海を越えた日本の地方都市・福山で独自に磨かれ、いまや世界の名だたるブランドに採用されているという事実は、地域の産業史としても、また日本のものづくりの一断面としても、たいへん興味深いものです。なぜ福山だったのか。なぜ絣からデニムへと事業を転換できたのか。その背景には、藍染という共通項と、時代の波に呑まれそうになりながらも挑戦を続けた人々の存在がありました。
ゆかりの史跡・図鑑
備後絣やデニム産業にまつわる福山市内の史跡・ゆかりの地を、史跡図鑑から一覧・比較・詳細の3つの形でご紹介します。富田久三郎ゆかりの新市・芦田町周辺、織物の守り神として知られた素盞嗚神社(すさのおじんじゃ)など、産業の歩みを今に伝える場所を確認しながら読み進めてみてください。
| 史跡 | 時代 | 概要 | 📍 エリア | 詳細 |
|---|---|---|---|---|
| 福山城 伏見櫓 | 江戸時代(元和年間) | 伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最… | 📍 福山駅前(福山市街) | 下へ ↓ |
| 福山城 | 近世(江戸) | 備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御… | 📍 丸之内 | 下へ ↓ |
| 福山城博物館 | 近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期) | 水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩… | 📍 福山駅前(福山市街) | 下へ ↓ |
| 草戸千軒町遺跡 | 中世 | 芦田川の中州にあった中世の港町・集落遺跡。発… | 📍 草戸町 | 下へ ↓ |
| 明王院 | 中世 | 本堂と五重塔がともに国宝。中世密教寺院で、五… | 📍 草戸町 | 下へ ↓ |
| 鞆の津の町並み(重伝建) | 江戸時代(中世〜近代の建造物群) | 潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 鞆の浦の常夜燈と港湾施設 | 江戸時代 | 江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 福山市鞆の浦歴史民俗資料館 | 近代(昭和) | 鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 鞆の浦 | 中世〜近世 | 瀬戸内の「潮待ちの港」。常夜燈・雁木・波止場… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 福禅寺 対潮楼 | 近世 | 朝鮮通信使の使節が「日東第一形勝」と讃えた客… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 太田家住宅 | 江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期) | 鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| いろは丸展示館 | 近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期) | 坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 仙酔島 | 古代(地質)/近代(指定) | 鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 廉塾(菅茶山旧宅) | 近世 | 儒学者・菅茶山が開いた私塾。当時の塾舎・住宅… | 📍 神辺町 | 下へ ↓ |
| 神辺城跡 | 中世 | 備後南部の中世山城。福山城が築かれる以前、備… | 📍 神辺町 | 下へ ↓ |
| 福山八幡宮 | 近世 | 福山城の北に鎮座し、東西二つの宮を備える。歴… | 📍 北吉津町 | 下へ ↓ |
| 沼名前神社 | 近世 | 鞆の「祇園さん」。夏の大松明を担ぐ「お手火神… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 阿伏兎観音(磐台寺観音堂) | 近世 | 断崖の上に建つ朱塗りの観音堂。国の重要文化財… | 📍 沼隈町 | 下へ ↓ |
| 吉備津神社(備後一宮) | 江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる | 備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で… | 📍 新市町 | 下へ ↓ |
| 素盞嗚神社(備後一宮) | 飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮 | 祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏の… | 📍 新市町 | 下へ ↓ |
福山城 伏見櫓
伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最古級の三層入母屋造の現存櫓。 福山城伏見櫓は、元和8年(1622年)の福山城築城に際し、城主水野勝成が将軍徳川秀忠から下賜を受け、京都の伏見城から移築させたと伝えられる櫓である。長らく伝承とされていたが、昭和29年(1954年)の解体修理の際、梁の陰刻に「松ノ丸ノ東やく(ら)」の文字が発見され、伏見城からの移築を裏付ける確かな遺構であることが明らかになった。構造は三層入母屋造で、初層と二層を同じ柱割とし、その上にやや小さい三層を望楼状に載せる。桁行八間・梁間三間、本瓦葺の規模をもつ。慶長期の城郭建築の様式を残す初期の典型として価値が高く、昭和8年(1933年)1月23日に国の重要文化財に指定された。福山城内に現存し、特別公開が行われることもある。
| 🕰 時代 | 江戸時代(元和年間) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 元和8年(1622年)水野勝成の福山城築城時に伏見城から移築。国指定重要文化財(昭和8年=1933年1月23日指定) |
| 📍 所在地 | 広島県福山市丸之内一丁目(福山城内) |
福山城
備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御門は京都伏見城からの移築と伝わる。2022年に築城400年を迎えた。
| 🕰 時代 | 近世(江戸) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 1622年(元和8)・水野勝成 |
| 👤 関連 | 水野勝成・阿部正弘 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市丸之内一丁目8 |
福山城博物館
水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩の歴史を体験型展示で伝える博物館 福山城博物館は、JR福山駅のすぐ北に建つ福山城天守内に置かれた市立の歴史資料館です。福山城は1622年(元和8年)、徳川譜代の大名・水野勝成が西国鎮衛の拠点として築いた近世城郭で、天守は1931年に国宝に指定されました。しかし1945年8月の福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリート造で外観が復興され、その内部が博物館として公開されました。2022年には築城400年に合わせて大規模リニューアルされ、北面の鉄板張り(黒い装い)の再現や、一番槍レース・火縄銃などの体験型コンテンツ、デジタル映像を用いた展示が整えられ、福山城と福山藩の歴史を学べる施設となっています。城内に現存する伏見櫓と筋鉄御門は、京都・伏見城からの移築と伝えられ、国の重要文化財に指定されています。常設展は有料、月曜休館とされます。
| 🕰 時代 | 近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 福山城は1622年(元和8年)に初代福山藩主・水野勝成が築城。天守は1945年福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリートで外観復興、内部を博物館として開館。2022年に大規模リニューアル |
| 📍 所在地 | 広島県福山市丸之内一丁目8番 |
草戸千軒町遺跡
芦田川の中州にあった中世の港町・集落遺跡。発掘成果は広島県立歴史博物館で町並みが原寸復元展示されている。
| 🕰 時代 | 中世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 鎌倉〜室町 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市草戸町 |
明王院
本堂と五重塔がともに国宝。中世密教寺院で、五重塔は全国でも有数の古塔。
| 🕰 時代 | 中世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 本堂1321年・五重塔1348年 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市草戸町1473 |
鞆の津の町並み(重伝建)
潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と町家が一体で残る重伝建地区 鞆の浦は瀬戸内海の中央に位置し、古来「潮待ちの港」として栄え、万葉集にも詠まれた歴史を持つとされる。江戸時代には北前船など廻船の寄港地として繁栄し、朝鮮通信使の寄港地ともなった。2017年(平成29年)11月28日、「福山市鞆町伝統的建造物群保存地区」として約8.6ヘクタールが国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。範囲は鞆字西町の全域を中心に、石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地の一部に及ぶ。中世から江戸期に整えられた地割の上に、江戸時代から昭和30年代までの町家や寺社、石垣などが一体的に残る近世港町の景観が評価された。常夜燈・雁木・波止・焚場・船番所の5つの港湾施設がほぼ完全に残る点は全国でも稀とされる。広島県内では3例目の選定で、2018年には日本遺産にも認定された。
| 🕰 時代 | 江戸時代(中世〜近代の建造物群) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 2017年(平成29年)11月28日に国の重要伝統的建造物群保存地区へ選定。地割は中世〜江戸期、建造物は江戸時代〜昭和30年代まで。 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町(鞆字西町全域ほか、字石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地字古城跡・草谷の各一部) |
鞆の浦の常夜燈と港湾施設
江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯一の近世港、鞆港。 鞆の浦の鞆港には、常夜燈・雁木・波止・焚場(たでば)・船番所という江戸時代の港湾施設5点がほぼ揃って現存し、これらが一体で残るのは全国でも鞆港のみとされる。シンボルの常夜燈は安政6年(1859)の刻銘をもつ石造灯台で、海中の基礎石から宝珠の頂までは約12.1mに及び、江戸期の石造常夜燈としては国内最大級とされる。雁木は潮の干満に応じて船を着けられる階段状の船着き場で、半円形の港内に連続して巡らされている。波止は花崗岩を積んだ全長約146mの防波堤で、江戸後期に築かれ明治期に修築された。鞆港を含む沿岸と沖の島々一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定され、鞆町西町を中心とする区域は2017年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。日本遺産「瀬戸の夕凪が包む 国内随一の近世港町」の構成要素でもある。
| 🕰 時代 | 江戸時代 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 常夜燈は安政6年(1859)造立とされる。雁木・波止・焚場・船番所は江戸後期築造、波止は明治期に修築。鞆港一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定。 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町鞆 |
福山市鞆の浦歴史民俗資料館
鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬戸内の歴史・民俗を伝える市立資料館 福山市鞆の浦歴史民俗資料館は、広島県福山市鞆町後地に建つ市立の博物館で、「潮待ちの館」の愛称で親しまれる。1977年(昭和52年)からの地元有志による調査・収集活動を背景に、福山市制70周年記念事業として1988年(昭和63年)に開館した。立地は、福島正則が築いたとされる鞆城跡(福山市指定史跡)の高台で、瀬戸内海を見渡せる。万葉の時代から潮待ち・風待ちの港として栄えた鞆の浦を中心に、古代から近世にいたる歴史資料を展示。鯛網漁のジオラマや錨を製造した鍛冶場、朝鮮通信使関連資料、保命酒に関する資料に加え、お手火神事・お弓神事といった地域の民俗文化財も常設展示する。鞆の歴史と暮らしを総合的に学べる拠点とされる。
| 🕰 時代 | 近代(昭和) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 1988年(昭和63年)開館。福山市制70周年記念事業として建設。建つ鞆城跡は福島正則が築いたとされる(福山市指定史跡) |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町後地536-1 |
鞆の浦
瀬戸内の「潮待ちの港」。常夜燈・雁木・波止場・焚場・船番所の港湾施設が一体で残る全国的にも貴重な町並み。
| 🕰 時代 | 中世〜近世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 古代〜 |
| 👤 関連 | 朝鮮通信使・足利義昭・坂本龍馬 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町 |
福禅寺 対潮楼
朝鮮通信使の使節が「日東第一形勝」と讃えた客殿からの眺め。仙酔島を望む座敷が名高い。
| 🕰 時代 | 近世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 客殿は元禄年間 |
| 👤 関連 | 朝鮮通信使 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町2 |
太田家住宅
鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で、国の重要文化財 鞆の浦を代表する歴史的建造物で、薬用酒「保命酒」の醸造で財を成した商家の旧宅。もとは大坂の漢方医を出自とする中村家の屋敷で、明暦元年(1655年)に鞆へ移り住み、まもなく十六味地黄保命酒の製造・販売を始めて大ヒットし、福山藩の御用名酒屋として販売独占権を得たとされる。明治期に廻船業を営んだ太田家が継承し、現在の名で呼ばれる。主屋を中心に保命酒蔵や各種土蔵など九棟が建ち並び、建築年代は18世紀中期から19世紀前期に及ぶ。瀬戸内の商家建築を伝える貴重な遺構として、1991年に国の重要文化財に指定された。幕末には三条実美ら尊王攘夷派の公卿が立ち寄ったと伝わり、別宅の朝宗亭とともに「鞆七卿落遺跡」として広島県の史跡(1940年指定)にもなっている。
| 🕰 時代 | 江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 主屋は18世紀中期、ほか北保命酒蔵が天明8年(1788年)、西蔵が寛政元年(1789年)、東保命酒蔵が寛政7年(1795年)など18世紀中期〜19世紀前期。国の重要文化財指定は1991年(平成3年)5月31日。 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町鞆842 |
いろは丸展示館
坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵を活かした資料館 鞆の浦のシンボル常夜灯(とうろどう)のすぐそばに建つ資料館。1867年(慶応3年)、坂本龍馬と海援隊が運航したいろは丸が紀州藩の明光丸と備後灘で衝突・沈没した「いろは丸事件」を伝える施設で、その談判が鞆の浦で行われた縁にちなむ。建物は江戸期に建てられた太い梁が印象的な土蔵で、地元では「大蔵」と呼ばれ、国の登録有形文化財とされる。館内には海底に沈むいろは丸を再現したジオラマ、引き揚げられた陶器や部品、調査風景の写真などを展示し、2階には龍馬が宿泊先で身を潜めたという「隠れ部屋」が再現され、龍馬の蝋人形も置かれている。1989年(平成元年)7月の開館。幕末史と鞆の港町文化を同時に味わえるスポットである。
| 🕰 時代 | 近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 1989年(平成元年)7月開館。建物は江戸期築の土蔵「大蔵(浜蔵)」で、国の登録有形文化財とされる。展示題材のいろは丸事件は1867年(慶応3年) |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町鞆843-1 |
仙酔島
鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連なる瀬戸内海国立公園の名勝 仙酔島は鞆の浦の沖合に浮かぶ周囲約6キロの島で、住所は福山市鞆町後地。鞆港から市営渡船で約5分の距離にあり、観光客の往来はあるが定住者のいない無人島とされる。1925年(大正14年)に国の名勝「鞆公園」の一部として指定され、1934年(昭和9年)には日本で最初に指定された国立公園・瀬戸内海国立公園に含まれた。島は約9000万年前の大規模な火山活動による溶結凝灰岩を主体とし、南側海岸には青・赤・黄・白・黒の岩が200メートル以上連なる「五色岩」が見られ、地質的に貴重とされる。「仙人が酔うほど美しい島」が名の由来と言われる。江戸後期の学者・頼山陽が当地の景観を「山紫水明」と評したとも伝わる。
| 🕰 時代 | 古代(地質)/近代(指定) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 1925年(大正14年)国名勝「鞆公園」に指定。1934年(昭和9年)日本初の国立公園・瀬戸内海国立公園に編入。島自体は約9000万年前の火山活動で形成されたとされる |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町後地 |
廉塾(菅茶山旧宅)
儒学者・菅茶山が開いた私塾。当時の塾舎・住宅が残り、国の特別史跡に指定されている。
| 🕰 時代 | 近世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 18世紀末 |
| 👤 関連 | 菅茶山 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市神辺町川北640 |
神辺城跡
備後南部の中世山城。福山城が築かれる以前、備後支配の拠点だった。
| 🕰 時代 | 中世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 南北朝期 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市神辺町 |
福山八幡宮
福山城の北に鎮座し、東西二つの宮を備える。歴代藩主の崇敬を集めた。
| 🕰 時代 | 近世 |
|---|---|
| 👤 関連 | 水野家 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市北吉津町1-2-16 |
沼名前神社
鞆の「祇園さん」。夏の大松明を担ぐ「お手火神事」で知られる古社。
| 🕰 時代 | 近世 |
|---|---|
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町後地 |
阿伏兎観音(磐台寺観音堂)
断崖の上に建つ朱塗りの観音堂。国の重要文化財。古来、海上安全と子授け・安産の祈願で知られる。
| 🕰 時代 | 近世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 16世紀末 |
| 👤 関連 | 毛利輝元 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市沼隈町能登原 |
吉備津神社(備後一宮)
備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で「いっきゅうさん」と親しまれる古社 福山市新市町宮内に鎮座する備後国一宮で、地元では「一宮さん(いっきゅうさん)」と親しまれる。社伝では大同元年(806年)に吉備国の吉備津神社から勧請し創建されたと伝わるが、延喜式神名帳に記載がないことなどから実際の成立はより後とする説もある。主祭神は吉備国を治めたとされる大吉備津彦命。現在の本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が旧規模にならい造営したもので、桁行七間・梁間四間の入母屋造檜皮葺、国の重要文化財に指定されている。ほかにも木造狛犬や太刀などが重要文化財として伝えられ、複数の建造物が広島県・福山市指定文化財となっている。隣接する櫻山城跡なども史跡として知られ、備後の信仰と歴史を今に伝える。
| 🕰 時代 | 江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が造営、国の重要文化財。創建は大同元年(806年)と伝わるが諸説ある |
| 📍 所在地 | 広島県福山市新市町宮内400 |
素盞嗚神社(備後一宮)
祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏のけんか神輿で名高い古社 福山市新市町戸手に鎮座する素盞嗚神社は、『延喜式神名帳』に載る式内社で備後国一宮を称し、旧社格は県社です。主祭神は素盞嗚尊で、稲田姫命・八王子を配祀します。社伝では天武天皇の治世、7世紀ごろ(679年か)の創建とされます。『釈日本紀』所収の「備後国風土記」逸文に伝わる蘇民将来説話の舞台「疫隈国社」と結びつけられ、茅の輪くぐりや祇園信仰・祇園祭発祥の地の一つとされています。神仏習合期には牛頭天王を祀り、遣唐使・吉備真備が734年に当社から播磨の広峯神社へ勧請したとも伝わります。毎年7月の例祭では、勇壮なけんか神輿(神輿合わせ)が行われることで知られます。
| 🕰 時代 | 飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 社伝では天武天皇期の7世紀ごろ(679年か)創建とされる。『延喜式神名帳』記載の式内社で、旧県社 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市新市町大字戸手1-1 |
そもそもデニムとは何か――福山との接点

デニム(denim)とは、太い綿糸を使い、たて糸とよこ糸を綾織り(あやおり、ツイル)にした厚手の綿布のことを指します。一般的には、たて糸を藍(インディゴ)で染め、よこ糸を染めない白糸とすることで、表は青く、裏は白っぽく見えるのが特徴です。このたて糸だけを染めるという構造が、ジーンズ特有の経年変化(色落ち)を生み出します。穿き込むほどに色が抜け、自分だけの風合いに育っていく――この魅力こそ、デニムが世界中で愛され続ける理由のひとつです。
ここで福山との接点が見えてきます。デニムの核心は「藍で糸を染める」「綿糸を織る」という二つの技術にあります。そして備後地方は、まさにこの藍染と綿織物の伝統を江戸末期から築いてきた土地でした。藍染の糸を扱い、絣模様という高度な染め分けを織り出す備後絣の技術は、たて糸だけを染め分けるデニムの製造と、根っこの部分で深くつながっていたのです。素材も製法も異なるとはいえ、「藍と綿と織り」という三つの要素を地域として蓄積していたことが、後のデニム産地化を支える土壌となりました。
もっとも、絣とデニムは見た目も用途もまったく違う製品です。絣は和装、デニムは洋装。絣は模様を織りで表現し、デニムは無地の生地を縫製後に加工して表情を出します。両者を単純に「同じ技術」とまとめるのは正確ではありません。しかし、藍を扱う染色の経験、綿糸を均一に紡ぎ織る技術、そして品質に対するこだわりといった「ものづくりの基礎体力」が、絣からデニムへと受け継がれたことは確かでしょう。技術そのものというより、技術を生み出し磨く風土が連続していた、と理解するのが実態に近いと考えられます。
備後絣の誕生――富田久三郎と井桁絣
福山デニムの源流である備後絣は、江戸時代末期に生まれたとされます。その創始者として伝えられているのが、芦品郡(あしなぐん、現在の福山市域)出身の富田久三郎(とみた きゅうざぶろう)です。文久年間(1861〜1864年頃)に、富田が絣の技法を考案したと伝えられています。当初は「文久絣(ぶんきゅうがすり)」とも呼ばれたといわれ、これが備後絣の始まりとされています。
その考案の経緯については、富田が「キシ縞」と呼ばれる浅黄(あさぎ)色の絣の絹織物を目にし、これにヒントを得たと伝わります。手で紡いだ糸を使い、模様にしたい部分を竹の皮でくくって防染し、それを藍で染めてから織ることで、井桁(いげた)模様の絣を生み出したとされます。糸の一部だけを染め残し、その染め分けた糸を計算しながら織り上げることで、布の上に模様が浮かび上がる――これが絣の基本的な仕組みです。きわめて手間のかかる、熟練を要する技術でした。
こうして生まれた備後絣は、四国の伊予絣(愛媛県)、九州の久留米絣(福岡県)とともに「日本三大絣」のひとつに数えられるようになります。いずれも木綿の絣織物で、庶民の日常着として広く用いられました。三大絣はそれぞれ独自の発展を遂げましたが、備後絣は福山・新市・芦田町を中心とする備後地方で生産が根づき、後に全国有数の絣産地へと成長していきます。なお、創始の年代や経緯には資料によって細部の違いがあり、諸説あることを申し添えておきます。
絣(かすり)という技術の難しさ
絣の魅力は、輪郭がわずかにかすれたように見える独特の模様にあります。この「かすれ」は欠陥ではなく、染め分けた糸を織り合わせる際に生じる必然的な味わいです。デザインを布の上に直接描くのではなく、織る前の糸の段階で模様を計算して染め分けるため、どの糸をどれだけ防染するか、織るときにどう合わせるかを緻密に設計しなければなりません。経糸と緯糸の絣をぴたりと合わせる作業は、長年の経験と勘を要する高度な技でした。
富田久三郎が用いたとされる竹の皮による括りは、糸を染める際に染料が入らないよう防染するための工夫でした。後年には括り方や染色の手法も改良され、より精緻で美しい模様が織られるようになったと伝わります。手紡ぎの綿糸を藍で染め、一本一本の糸に込められた計算が布全体の模様として結実する。この緻密さこそ、備後地方の織物技術の高さを示すものであり、のちのデニム製造における品質志向にも通じる精神だったといえるでしょう。
藍染という共通の基盤
備後絣の青は、天然の藍(あい)による染色から生まれます。藍染は、藍の葉を発酵させた染料に糸や布を繰り返し浸して染める伝統的な技法で、深く沈んだ青が特徴です。藍で染めた布には防虫や抗菌の効果があるとも伝えられ、日常着として実用的でもありました。「藍は虫や蛇を寄せ付けない」といった言い伝えも各地に残っています。
この藍という素材は、デニムにとっても核心的な存在です。ジーンズの青はインディゴ(藍)によるもので、伝統的な藍染とインディゴ染色は、化学的にも近い性質を持っています。備後地方が藍染の経験を長く積み重ねてきたことは、後にこの地がデニム産地として発展する素地となりました。色の素材としての藍を扱い慣れていたこと――これが、絣とデニムをつなぐ最もわかりやすい共通項といえるでしょう。福山の備後絣の歴史については、別記事でもくわしく解説しています。
明治から昭和へ――備後絣の隆盛

幕末に生まれた備後絣は、明治期に入ると技術改良と販路拡大によって全国へと広がっていきました。手括りの工程が次第に効率化され、生産量が増大。庶民の普段着、とりわけ農作業着や「もんぺ」の素材として、丈夫で実用的な備後絣は全国の家庭に浸透していきます。藍の青を基調とした素朴で温かみのある絣模様は、長く日本人の暮らしに寄り添いました。
備後絣の生産が産業として大きく花開いたのは、福山・新市・芦田町を中心とする備後地方の地の利も大きく作用しました。原料となる綿の確保、藍染に適した環境、そして織物に従事する人々の集積。これらが重なり、地域全体が一大絣産地として機能するようになります。多くの織元(織物業者)が軒を連ね、地域の主要な生業のひとつとなっていきました。
最盛期の備後絣
備後絣の生産は戦後にひとつのピークを迎えます。資料によれば、昭和35年(1960年)頃には年間およそ330万反が生産され、国内の絣生産のうち約7割を備後絣が占めたと伝えられています。当時、産地には200社あまりの業者がひしめき、活況を呈していました。この時期、備後絣はまさに日本一の絣産地としての地位を確立していたといえます。
地域の団結を象徴するものとして、昭和27年頃には「備後絣音頭」がつくられ、新市の素盞嗚神社(すさのおじんじゃ)の祭礼などで踊られたと伝わります。産地が一丸となって絣を盛り上げようとする機運があったことがうかがえます。藍の青に彩られた絣の布が、地域の誇りであり、暮らしを支える糧であった時代です。福山の織物文化がもっとも輝いていた時期のひとつといえるでしょう。
もんぺ需要と備後絣
備後絣の隆盛を支えた大きな要因のひとつが「もんぺ」の需要でした。もんぺは農作業や家事に用いられる動きやすい和装のズボンで、丈夫で実用的な絣の生地はこれに最適でした。農業人口が多かった時代、もんぺは全国の家庭に欠かせない衣料であり、その素材として備後絣は安定した需要を得ていたのです。日常着としての絣が、産地の繁栄を下支えしていました。
しかし、この「もんぺ需要に支えられた繁栄」という構造は、裏を返せば、もんぺが衰退すれば産地も打撃を受けることを意味していました。日本の社会が大きく変わり、人々の暮らしが洋装中心へと移り変わるなかで、備後絣はやがて厳しい時代を迎えることになります。隆盛のただ中にあって、すでに次の時代への転換が静かに迫っていたのです。
カイハラの創業――藍染絣からの出発
福山デニムの主役となるカイハラ株式会社の歴史は、明治期にさかのぼります。1893年(明治26年)、貝原助治郎(かいはら すけじろう)が、当時の広島県芦品郡常金丸村(つねかねまるむら、現在の福山市新市町常)で、手織りの正藍染(しょうあいぞめ)による備後絣織物業を創業したのが始まりとされています。創業時の商標は「㋜(マルス)」でした。すなわちカイハラは、もともと備後絣を織る一織元として出発した会社だったのです。
創業地である新市町常は、備後絣産地の中心地のひとつでした。藍で糸を染め、絣を織るという地域の伝統のなかで、カイハラもまた職人技を磨いていきます。手織りから機械織りへ、家内工業から企業へと、時代とともに歩みを進めながら、絣づくりに取り組んでいました。1951年(昭和26年)には貝原織布株式会社が設立され、企業としての体制を整えていきます。長らく、カイハラは備後絣の織元としてその名を知られていました。
つまり、現在のデニムメーカー・カイハラの背骨には、創業以来およそ80年近くにわたって積み重ねた備後絣の藍染・織物の経験が通っているのです。世界のデニムを支える企業のルーツが、福山の伝統的な絣織物にあるという事実は、地域の産業史を語るうえで象徴的な出来事といえるでしょう。福山のものづくりの源流として、新市の地に根づいた一軒の絣織元の存在を、まず押さえておきたいところです。
創業の地・新市町常
カイハラの本社は、現在も福山市新市町常に置かれています。新市町は福山市の北西部に位置し、古くから織物業が盛んな土地でした。素盞嗚神社をはじめとする歴史ある社寺が点在し、備後絣の産地としての記憶が今も地域に刻まれています。藍と綿と織りの文化が根づいたこの地で、カイハラは一世紀以上にわたって織物づくりを続けてきました。
地域に根ざした織元として出発したことは、カイハラのものづくりの姿勢にも影を落としています。地元の人々を雇い、地元の技術を受け継ぎ、地域とともに歩む。この地に足をつけた経営は、後の大きな事業転換の際にも、技術と人材という形で会社を支えることになりました。福山という土地と切り離せない企業として、カイハラは今日まで歩んできたのです。
絣からデニムへ――事業転換の決断
備後絣の繁栄は、しかし長くは続きませんでした。戦後の高度経済成長とともに、日本人の暮らしは急速に洋装化していきます。1960年代になると、化学繊維(合成繊維)の普及やプリント技術の発達によって、手間のかかる絣織物の需要は急激に落ち込みました。農業人口の減少にともない、絣の主要用途だった「もんぺ」の需要も縮小。高価な手仕事の絣は、安価な既製服に押されて市場を失っていきました。
カイハラもまた、この大きな時代の波に直面します。絣の需要が細るなか、経営は厳しさを増していきました。一説には、円高や不況のあおりも受けて経営危機に陥ったとも伝えられています。長年磨いてきた絣の技術だけにしがみついていては、会社の存続が危うい――そうした危機感のなかで、カイハラは大きな決断を下します。それが、デニム生地の製造への思い切った事業転換でした。
当時、日本でもジーンズが若者を中心に普及し始めていました。学生運動やアメリカ文化の流入を背景に、デニムは新しい時代の象徴として広がりつつあったのです。和装の絣が衰退する一方で、洋装のデニムには大きな可能性がある。藍で糸を染め、綿を織るという自社の技術は、デニム製造にも生かせるはずだ――こうした見通しのもと、カイハラは絣からデニムへと舵を切りました。それは、伝統に固執せず、培った技術を新しい時代の製品へと応用するという、攻めの選択でした。
藍染の技術がデニムを支えた
事業転換にあたって最大の武器となったのが、創業以来培ってきた藍染の技術でした。前述のとおり、デニムの核心は「たて糸をインディゴ(藍)で染める」ことにあります。備後絣で藍染を扱い続けてきたカイハラにとって、糸を青く染めるという作業は、まさに自社の得意分野でした。絣で培った染色の知見が、そのままデニム生地の品質を支える土台となったのです。
もちろん、絣の藍染とデニムのインディゴ染色は、工程も規模も異なります。単純に同じ技術を流用したわけではなく、新たな設備や手法の開発が必要でした。それでも、「藍で糸を均一に、かつ深く染める」というものづくりの根幹において、絣の経験が決定的に役立ったことは想像に難くありません。福山が長く育ててきた藍染文化が、世界のデニムへとつながる橋渡しをしたといえるでしょう。
ロープ染色の開発
カイハラのデニム事業を語るうえで欠かせないのが「ロープ染色」という技術です。1970年(昭和45年)、カイハラはロープ染色によるデニムを日本で初めて市場に供給したとされています。ロープ染色とは、多数の糸をロープ状にまとめてインディゴ染料に繰り返し浸し、糸の表面を青く染めつつ芯の部分を白く残す染色方法です。この「芯白(しんじろ)」の構造が、ジーンズ特有の美しい色落ちを生み出します。
糸の芯を白く残したまま表面だけを染めるという技術は、当時の日本では画期的なものでした。穿き込むうちに表面の藍が少しずつ削れ、白い芯が現れることで、独特の経年変化が生まれます。この色落ちの美しさこそ、デニム愛好家を魅了する核心であり、ロープ染色を国内でいち早く確立したことが、カイハラのデニムの品質を決定づけました。藍染を知り尽くした企業だからこそ到達できた境地だったといえるでしょう。
備後絣製造の幕引き
デニムへの転換が軌道に乗るなかで、カイハラは創業以来の備後絣の製造を終える決断をします。資料によれば、デニム製造を始めてから数年後の1974年(昭和49年)頃、カイハラは備後絣の製造を中止し、デニム染色の専業へと移行したとされています。創業から80年あまり続いた絣づくりに区切りをつけ、デニムに会社の未来を賭けたのです。
これは、伝統の終わりであると同時に、新しい伝統の始まりでもありました。絣の技術そのものは表舞台から退きましたが、藍染と織りの精神、そして品質へのこだわりは、デニムという新しい形で受け継がれていきます。一つの伝統工芸が役割を終えるなかで、その技術的遺産を未来へつないだ点に、カイハラの事業転換の意義があったといえるでしょう。福山の通史ガイドのなかでも、この絣からデニムへの転換は、地域産業の力強い変容を示す象徴的な出来事として位置づけられます。
世界へ――リーバイスとの出会いと飛躍
デニム専業へと舵を切ったカイハラの転機となったのが、アメリカの老舗ジーンズブランド、リーバイス(Levi’s/リーバイ・ストラウス社)との取引でした。一説によれば、1973年頃、デニム生地の供給が不足していたリーバイスがカイハラに取引を持ちかけたと伝えられています。福山の一企業が、世界的なジーンズブランドから生地の供給を求められた――これは、カイハラのデニムの品質が国際水準に達していたことを示す出来事でした。
名の知られていなかった地方企業が、リーバイスという世界ブランドの信頼を得たことのインパクトは絶大でした。これを契機に、カイハラの取引先は国内外で一気に広がっていきます。世界基準のブランドに認められたという事実が、カイハラのデニムに対する評価を決定づけ、その後の飛躍の足がかりとなりました。福山発のデニムが、世界の市場へと羽ばたく第一歩だったといえるでしょう。
「カイハラ」ブランドとしての輸出
1978年(昭和53年)頃には、スルザー式織機の導入によってデニムの染色だけでなく織布も自社で手がけられるようになり、この時期から「カイハラ」のブランド名での輸出が本格化したとされます。染色から織りまでを一貫して担うことで、品質を自社でコントロールできる体制が整っていきました。海外への輸出が広がるなかで、カイハラの名は世界のデニム業界に知られるようになっていきます。
地方の絣織元から出発した企業が、自社ブランドで世界に生地を輸出するまでに成長した。この歩みは、技術への投資と品質へのこだわりを地道に積み重ねた結果でした。福山という地に根ざしながら、その視線は早くから世界市場へと向けられていたのです。藍染という伝統を礎に、グローバルな舞台で勝負する企業へと、カイハラは着実に脱皮していきました。
一貫生産ラインの完成
カイハラの技術力を象徴するのが、デニム生地の「一貫生産」体制です。1991年(平成3年)には、紡績(綿から糸をつくる工程)を含む工場を整備し、紡績・染色・織布・整理加工というデニム製造の全工程を一社で手がける一貫生産ラインを完成させたとされています。糸づくりから仕上げまでを自社で完結できる体制は、世界的にも珍しいものでした。
一貫生産の利点は、品質を全工程で管理できることにあります。糸の太さや撚り、染めの深さ、織りの密度、仕上げの風合い――それぞれの工程を自社で調整できるため、ブランドの細かな要望にも柔軟に応えられます。この一貫体制こそが、カイハラのデニムが世界のトップブランドに選ばれ続ける理由のひとつとなりました。福山の地で培われた総合的なものづくり力の結晶といえるでしょう。
現在に受け継がれるもの――福山デニムの今
現在、カイハラ株式会社は、デニム生地の国内シェアでおよそ50%を占めるとされる国内トップクラスのメーカーへと成長しています。その生地は世界の多くの国々へ輸出され、リーバイス、ユニクロ、エドウインといった国内外の有力ブランドに採用されています。福山市新市町常に本社を置きながら、その製品は世界中のジーンズとなって人々に穿かれているのです。
絣の衰退という地域産業の危機を、デニムへの転換という形で乗り越えたカイハラの歩みは、福山のものづくりの底力を示すものといえます。伝統に安住せず、培った技術を新しい時代の製品へと応用する。その柔軟さと粘り強さが、福山発のデニムを世界基準へと押し上げました。藍と綿と織りの文化が、形を変えながら脈々と受け継がれている――福山デニムの物語は、地域の伝統が未来へとつながる好例といえるでしょう。
備後絣のその後
一方、源流となった備後絣そのものは、戦後の最盛期を境に大きく生産を減らしました。化学繊維の普及や生活様式の洋装化のなかで、手のかかる絣織物の需要は細り続けます。かつて200社あまりが軒を連ねた産地も、業者数を大きく減らしました。資料によれば、平成期にはわずか数社が少量を生産するのみとなり、2023年(令和5年)度には備後絣の協同組合が70年あまりの活動を終えて解散したと伝えられています。
とはいえ、備後絣は完全に消えたわけではありません。現在も少数ながら生産を続ける作り手がおり、その伝統的な美しさは工芸品として高く評価されています。藍の青に彩られた素朴な絣模様は、福山の文化遺産として大切に受け継がれています。そして何より、その藍染と織りの技術的精神は、カイハラのデニムという形で世界へと広がりました。備後絣は姿を変えながら、今も福山のものづくりの中に生き続けているのです。
福山が「ものづくりのまち」である理由
備後絣からデニムへの転換は、福山という土地が持つ「ものづくりのまち」としての性格を象徴する出来事です。福山は古くから織物、そして近代以降は鉄鋼など、多様な産業を育ててきました。製鉄を担う鉄のまち福山の歩みと並んで、繊維産業もまた、この地のものづくりを支える大きな柱でした。素材や製品は違えど、品質に妥協せず技術を磨き続ける気質は、福山の各産業に共通しています。
こうした「ものづくりのまち」としての福山の土壌があったからこそ、絣の危機をデニムという新産業で乗り越えることができたのでしょう。一つの伝統が衰えても、その技術と精神を別の形に転じて未来へつなぐ。福山デニムの成功は、地域が持つものづくりの底力と、時代に応じて柔軟に変化する力の賜物だといえます。福山を訪れる際には、こうした産業の歴史にも目を向けてみると、まちの見え方が一段と深まるはずです。
福山デニム・備後絣の歩み――関連年表
備後絣の誕生からカイハラのデニム転換、そして現在に至るまでの主な出来事を年表に整理します。年代や経緯には諸説ある事項を含むため、おおよその流れとしてご覧ください。
福山デニムの楽しみ方・関連スポット
福山を訪れた際には、デニムや備後絣にまつわる地域の魅力を、ぜひ実際に感じてみてください。新市町を中心とする備後絣の産地は、いまも織物のまちの面影を残しています。藍染の伝統や絣の美しさに触れられる施設、地域のイベントなどを通じて、福山のものづくりの奥行きを体感できます。
福山のデニムは「ジャパンデニム」の代表格として、近年あらためて注目を集めています。地元のショップや催事では、福山産のデニム生地を使ったジーンズや雑貨に出会えることもあります。世界のブランドが認めた生地を、その産地で手に取ってみる――これは福山ならではの贅沢な体験です。藍の青に込められた職人の技を、ぜひ間近で味わってみてください。
あわせて訪れたい福山の歴史スポット
福山のものづくりや歴史をより深く知るなら、市内の歴史スポットもあわせて巡るのがおすすめです。福山藩の礎を築いた初代藩主・水野勝成と、その築いた福山城は、まちの歴史の出発点です。城下町として発展した福山が、やがて多彩な産業を育む土壌となっていったことが見えてきます。
また、北前船の寄港地として栄えた鞆の浦の街並みや、地場産業として知られる松永の下駄の歴史も、福山のものづくり文化を語るうえで欠かせません。デニム・絣の繊維産業とあわせてこれらを知ることで、福山という土地が積み重ねてきた多彩な産業の層が立体的に見えてくるでしょう。それぞれの記事も、ぜひ参考にしてみてください。
よくある質問(FAQ)
Qカイハラ株式会社はどこにある会社ですか?
カイハラ株式会社は、広島県福山市新市町常に本社を置くデニム生地メーカーです。1893年(明治26年)に備後絣の織物業として創業し、後にデニム製造へと事業を転換しました。現在はデニム生地の国内シェアで上位を占める企業として知られています。
Qカイハラはもともと何をつくっていた会社ですか?
もともとは備後絣を織る会社でした。1893年(明治26年)に貝原助治郎が手織りの正藍染による備後絣織物業を創業したのが始まりとされます。長らく絣の織元として知られていましたが、戦後に絣の需要が落ち込むなか、デニム製造へと転換しました。
Q備後絣とは何ですか?
備後絣は、福山・備後地方で生産されてきた木綿の絣織物です。藍で染めた糸を使い、絣(かすり)模様を織り出すのが特徴で、伊予絣・久留米絣とともに「日本三大絣」のひとつに数えられます。江戸時代末期に富田久三郎が考案したと伝えられています。
Q備後絣を考案したのは誰ですか?
芦品郡(現・福山市域)出身の富田久三郎が、文久年間(1861〜1864年頃)に絣を考案したと伝えられています。手紡ぎの糸を竹の皮でくくって防染し、藍で染めてから織ることで井桁模様の絣を生み出したとされます。なお、創始の年代や経緯には諸説あります。
Qなぜ絣からデニムへ転換できたのですか?
大きな理由は、藍染という共通の技術があったためと考えられます。デニムはたて糸を藍(インディゴ)で染める生地であり、長年藍染を扱ってきた備後絣の技術や経験が、デニム製造に応用できたとされます。藍と綿と織りの蓄積が、転換を支えたといえるでしょう。
Qカイラがデニム製造を始めたのはいつですか?
カイハラは1970年(昭和45年)に、ロープ染色によるデニムを日本で初めて市場に供給したとされています。その後、1974年(昭和49年)頃には備後絣の製造を中止し、デニム専業へと移行しました。デニムへの転換は、会社の存続をかけた大きな決断でした。
Qロープ染色とは何ですか?
ロープ染色は、多数の糸をロープ状にまとめてインディゴ染料に繰り返し浸し、糸の表面を青く染めつつ芯を白く残す染色方法です。この「芯白」の構造によって、ジーンズ特有の美しい色落ち(経年変化)が生まれます。カイハラはこの技術を国内でいち早く確立しました。
Qカイハラのデニムはどんなブランドに使われていますか?
リーバイス、ユニクロ、エドウインなど、国内外の有力ブランドにデニム生地を供給しているとされています。世界的なジーンズブランドにも採用されており、福山発のデニムが世界中のジーンズとなって人々に穿かれています。具体的な取引内容は時期により変動します。
Qリーバイスとの取引はいつ始まったのですか?
一説には1973年頃、生地が不足していたリーバイス側からカイハラに取引を持ちかけたと伝えられています。世界的ブランドに品質を認められたことが、カイハラの飛躍の大きな足がかりとなりました。ただし、取引開始の詳細な経緯には諸説あります。
Q備後絣の生産が最も盛んだったのはいつですか?
資料によれば、昭和35年(1960年)頃が最盛期とされ、年間およそ330万反が生産され、国内の絣生産の約7割を占めたと伝えられています。当時は産地に200社あまりの業者がひしめき、活況を呈していました。その後、合繊化の波などで需要が減少しました。
Q備後絣は今もつくられていますか?
最盛期に比べると生産は大きく減少しましたが、現在も少数の作り手によって伝統が受け継がれています。2023年度には協同組合が解散したと伝えられるなど産地の縮小は続いていますが、その藍染と織りの美しさは工芸品として今も評価されています。
Q「日本三大絣」とは何ですか?
備後絣(広島県)、伊予絣(愛媛県)、久留米絣(福岡県)の三つを指して「日本三大絣」と呼びます。いずれも藍染の木綿絣織物で、庶民の日常着として広く用いられました。それぞれ独自の発展を遂げ、日本を代表する絣の産地として知られています。
Q福山でデニムや絣に触れるにはどうすればよいですか?
新市町を中心とする備後絣の産地や、地元のショップ・催事などで、福山のデニムや絣に触れることができます。詳しい場所や開催情報は、各施設や福山市の公式情報、観光案内などでご確認ください。世界が認めた生地を産地で手に取れるのは、福山ならではの体験です。
まとめ――藍が紡いだ福山デニムの物語
江戸時代末期、富田久三郎によって生み出されたとされる備後絣は、福山・備後地方の伝統産業として大きく花開きました。藍で染めた糸に込められた職人の技は、日本三大絣のひとつとして全国に知られ、最盛期には日本一の絣産地として栄えました。その繁栄を支えたカイハラ株式会社もまた、1893年の創業以来、備後絣の織元として歩んできた一企業でした。
しかし時代は移り、絣の需要が衰えるなかで、カイハラは大きな決断を下します。それが、藍染の技術を生かしたデニムへの事業転換でした。ロープ染色の確立、リーバイスとの取引、一貫生産体制の完成――数々の挑戦を経て、福山発のデニムは世界基準へと駆け上がりました。絣という伝統が衰えても、その藍染と織りの精神は、デニムという新しい形で受け継がれたのです。
福山デニムの物語は、地域の伝統が時代に応じて姿を変えながら未来へとつながっていく、力強い変容の物語です。世界中のジーンズの青に、福山の藍染文化が息づいている――そう思うと、何気なく穿いているデニムも、少し違って見えてくるかもしれません。福山を訪れる際には、ぜひこのものづくりの歴史にも思いを馳せてみてください。藍が紡いだ福山の誇りが、きっとそこに見えてくるはずです。
出典・注意
本記事は、カイハラ株式会社および備後絣に関する公開情報(企業公式情報、自治体・商工会議所等の解説、百科事典等)をもとに、確認できた範囲の史実に基づいて作成しています。年代・数値・経緯については資料によって細部が異なる場合があり、諸説ある事項を含みます。
※年代・経緯には諸説ある事項を含みます。詳細は各施設・公式情報や郷土資料でご確認ください。
最終更新: 2026年6月10日
史跡情報は福山NOTE 史跡図鑑(fn_history)より。