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古代・中世の備後

福山の古墳と古代豪族|二子塚古墳など「備後のはじまり」

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福山の古墳と古代豪族|二子塚古墳など「備後のはじまり」

広島県福山市の北部、駅家町(えきやちょう)・神辺町(かんなべちょう)・加茂町(かもちょう)が接するあたりは、田園と低い丘陵が織りなす穏やかな景観が広がっています。一見するとどこにでもある里山風景ですが、この一帯は今からおよそ1400年前、古墳時代後期から終末期にかけて、備後(びんご)地方を治めた有力豪族たちが眠る「古墳の密集地帯」として知られています。その象徴ともいえるのが、駅家町に築かれた大型前方後円墳・二子塚古墳(ふたごづかこふん)です。

「備後のはじまり」を考えるとき、私たちはどうしても江戸時代の福山城や、中世の鞆の浦・草戸千軒(くさどせんげん)といった華やかな歴史に目を奪われがちです。しかし、福山という土地に人が暮らし、まとまった政治的勢力が形づくられていく原点は、文字記録の乏しい古墳時代までさかのぼります。巨大な墳丘を築き、立派な石室に遺骸を葬り、遠く海を越えた大刀(たち)や馬具を副葬する——その背後には、ヤマト王権(やまとおうけん)や吉備(きび)の勢力と関わりながら地域を束ねた、名もなき(あるいは記録に残らなかった)豪族の姿があります。

この記事では、二子塚古墳を中心に、大坊古墳(だいぼうこふん)・猪ノ子古墳(いのここふん)・山の神古墳(やまのかみこふん)といった福山市内の代表的な古墳や、西日本最大級ともいわれる御領遺跡(ごりょういせき)を手がかりに、「備後のはじまり」と古代豪族の世界をたどります。あわせて、これらの史跡を実際に歩いて楽しむための情報も紹介します。年代や経緯には諸説ある事項も含まれますので、断定できる範囲は史実として、不確かな部分は「〜とされる」「諸説ある」と区別しながら丁寧に見ていきましょう。なお、福山全体の歴史を通して把握したい方は、福山の歴史まるわかり通史ガイドもあわせてご覧ください。

史跡図鑑|福山の古墳・古代史跡をデータで見る

まずは、福山市内に点在する古墳・古代史跡を一覧で俯瞰してみましょう。下の史跡図鑑では、二子塚古墳をはじめとする市内の主要な古墳や遺跡を、規模・年代・形式などの基本データとともに確認できます。気になる史跡があれば、個別ページで詳しい解説もご覧いただけます。

古墳は「ただの土の盛り上がり」ではなく、その大きさや石室の構造、副葬品の内容から、葬られた人物のおおよその地位や時代背景を読み取ることができます。一覧・比較表・詳細の3つの切り口で見比べることで、「備後のはじまり」を担った勢力の広がりが立体的に見えてくるはずです。

福山城 伏見櫓 📖江戸時代(元和年間)📍 福山駅前(福山市街)福山城 📖近世(江戸)📍 丸之内福山城博物館 📖近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)📍 福山駅前(福山市街)草戸千軒町遺跡 📖中世📍 草戸町明王院 📖中世📍 草戸町鞆の津の町並み(重伝建) 📖江戸時代(中世〜近代の建造物群)📍 鞆町鞆の浦の常夜燈と港湾施設 📖江戸時代📍 鞆町福山市鞆の浦歴史民俗資料館 📖近代(昭和)📍 鞆町鞆の浦 📖中世〜近世📍 鞆町福禅寺 対潮楼 📖近世📍 鞆町太田家住宅 📖江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)📍 鞆町いろは丸展示館 📖近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)📍 鞆町仙酔島古代(地質)/近代(指定)📍 鞆町廉塾(菅茶山旧宅) 📖近世📍 神辺町神辺城跡 📖中世📍 神辺町福山八幡宮 📖近世📍 北吉津町沼名前神社 📖近世📍 鞆町阿伏兎観音(磐台寺観音堂)近世📍 沼隈町吉備津神社(備後一宮)江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる📍 新市町素盞嗚神社(備後一宮) 📖飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮📍 新市町
史跡時代概要📍 エリア詳細
福山城 伏見櫓江戸時代(元和年間)伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最…📍 福山駅前(福山市街)下へ ↓
福山城近世(江戸)備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御…📍 丸之内下へ ↓
福山城博物館近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩…📍 福山駅前(福山市街)下へ ↓
草戸千軒町遺跡中世芦田川の中州にあった中世の港町・集落遺跡。発…📍 草戸町下へ ↓
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鞆の浦の常夜燈と港湾施設江戸時代江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯…📍 鞆町下へ ↓
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鞆の浦中世〜近世瀬戸内の「潮待ちの港」。常夜燈・雁木・波止場…📍 鞆町下へ ↓
福禅寺 対潮楼近世朝鮮通信使の使節が「日東第一形勝」と讃えた客…📍 鞆町下へ ↓
太田家住宅江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で…📍 鞆町下へ ↓
いろは丸展示館近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵…📍 鞆町下へ ↓
仙酔島古代(地質)/近代(指定)鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連…📍 鞆町下へ ↓
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素盞嗚神社(備後一宮)飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏の…📍 新市町下へ ↓
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福山城 伏見櫓

江戸時代(元和年間) / 📍福山駅前(福山市街)

伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最古級の三層入母屋造の現存櫓。 福山城伏見櫓は、元和8年(1622年)の福山城築城に際し、城主水野勝成が将軍徳川秀忠から下賜を受け、京都の伏見城から移築させたと伝えられる櫓である。長らく伝承とされていたが、昭和29年(1954年)の解体修理の際、梁の陰刻に「松ノ丸ノ東やく(ら)」の文字が発見され、伏見城からの移築を裏付ける確かな遺構であることが明らかになった。構造は三層入母屋造で、初層と二層を同じ柱割とし、その上にやや小さい三層を望楼状に載せる。桁行八間・梁間三間、本瓦葺の規模をもつ。慶長期の城郭建築の様式を残す初期の典型として価値が高く、昭和8年(1933年)1月23日に国の重要文化財に指定された。福山城内に現存し、特別公開が行われることもある。

🕰 時代江戸時代(元和年間)
🏛 成立・築造元和8年(1622年)水野勝成の福山城築城時に伏見城から移築。国指定重要文化財(昭和8年=1933年1月23日指定)
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目(福山城内)
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福山城

近世(江戸) / 📍丸之内

備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御門は京都伏見城からの移築と伝わる。2022年に築城400年を迎えた。

🕰 時代近世(江戸)
🏛 成立・築造1622年(元和8)・水野勝成
👤 関連水野勝成・阿部正弘
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目8
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福山城博物館

近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期) / 📍福山駅前(福山市街)

水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩の歴史を体験型展示で伝える博物館 福山城博物館は、JR福山駅のすぐ北に建つ福山城天守内に置かれた市立の歴史資料館です。福山城は1622年(元和8年)、徳川譜代の大名・水野勝成が西国鎮衛の拠点として築いた近世城郭で、天守は1931年に国宝に指定されました。しかし1945年8月の福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリート造で外観が復興され、その内部が博物館として公開されました。2022年には築城400年に合わせて大規模リニューアルされ、北面の鉄板張り(黒い装い)の再現や、一番槍レース・火縄銃などの体験型コンテンツ、デジタル映像を用いた展示が整えられ、福山城と福山藩の歴史を学べる施設となっています。城内に現存する伏見櫓と筋鉄御門は、京都・伏見城からの移築と伝えられ、国の重要文化財に指定されています。常設展は有料、月曜休館とされます。

🕰 時代近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)
🏛 成立・築造福山城は1622年(元和8年)に初代福山藩主・水野勝成が築城。天守は1945年福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリートで外観復興、内部を博物館として開館。2022年に大規模リニューアル
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目8番
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鞆の津の町並み(重伝建)

江戸時代(中世〜近代の建造物群) / 📍鞆の浦

潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と町家が一体で残る重伝建地区 鞆の浦は瀬戸内海の中央に位置し、古来「潮待ちの港」として栄え、万葉集にも詠まれた歴史を持つとされる。江戸時代には北前船など廻船の寄港地として繁栄し、朝鮮通信使の寄港地ともなった。2017年(平成29年)11月28日、「福山市鞆町伝統的建造物群保存地区」として約8.6ヘクタールが国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。範囲は鞆字西町の全域を中心に、石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地の一部に及ぶ。中世から江戸期に整えられた地割の上に、江戸時代から昭和30年代までの町家や寺社、石垣などが一体的に残る近世港町の景観が評価された。常夜燈・雁木・波止・焚場・船番所の5つの港湾施設がほぼ完全に残る点は全国でも稀とされる。広島県内では3例目の選定で、2018年には日本遺産にも認定された。

🕰 時代江戸時代(中世〜近代の建造物群)
🏛 成立・築造2017年(平成29年)11月28日に国の重要伝統的建造物群保存地区へ選定。地割は中世〜江戸期、建造物は江戸時代〜昭和30年代まで。
📍 所在地広島県福山市鞆町(鞆字西町全域ほか、字石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地字古城跡・草谷の各一部)
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鞆の浦の常夜燈と港湾施設

江戸時代 / 📍鞆の浦

江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯一の近世港、鞆港。 鞆の浦の鞆港には、常夜燈・雁木・波止・焚場(たでば)・船番所という江戸時代の港湾施設5点がほぼ揃って現存し、これらが一体で残るのは全国でも鞆港のみとされる。シンボルの常夜燈は安政6年(1859)の刻銘をもつ石造灯台で、海中の基礎石から宝珠の頂までは約12.1mに及び、江戸期の石造常夜燈としては国内最大級とされる。雁木は潮の干満に応じて船を着けられる階段状の船着き場で、半円形の港内に連続して巡らされている。波止は花崗岩を積んだ全長約146mの防波堤で、江戸後期に築かれ明治期に修築された。鞆港を含む沿岸と沖の島々一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定され、鞆町西町を中心とする区域は2017年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。日本遺産「瀬戸の夕凪が包む 国内随一の近世港町」の構成要素でもある。

🕰 時代江戸時代
🏛 成立・築造常夜燈は安政6年(1859)造立とされる。雁木・波止・焚場・船番所は江戸後期築造、波止は明治期に修築。鞆港一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定。
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆
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福山市鞆の浦歴史民俗資料館

近代(昭和) / 📍鞆の浦

鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬戸内の歴史・民俗を伝える市立資料館 福山市鞆の浦歴史民俗資料館は、広島県福山市鞆町後地に建つ市立の博物館で、「潮待ちの館」の愛称で親しまれる。1977年(昭和52年)からの地元有志による調査・収集活動を背景に、福山市制70周年記念事業として1988年(昭和63年)に開館した。立地は、福島正則が築いたとされる鞆城跡(福山市指定史跡)の高台で、瀬戸内海を見渡せる。万葉の時代から潮待ち・風待ちの港として栄えた鞆の浦を中心に、古代から近世にいたる歴史資料を展示。鯛網漁のジオラマや錨を製造した鍛冶場、朝鮮通信使関連資料、保命酒に関する資料に加え、お手火神事・お弓神事といった地域の民俗文化財も常設展示する。鞆の歴史と暮らしを総合的に学べる拠点とされる。

🕰 時代近代(昭和)
🏛 成立・築造1988年(昭和63年)開館。福山市制70周年記念事業として建設。建つ鞆城跡は福島正則が築いたとされる(福山市指定史跡)
📍 所在地広島県福山市鞆町後地536-1
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太田家住宅

江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期) / 📍鞆の浦

鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で、国の重要文化財 鞆の浦を代表する歴史的建造物で、薬用酒「保命酒」の醸造で財を成した商家の旧宅。もとは大坂の漢方医を出自とする中村家の屋敷で、明暦元年(1655年)に鞆へ移り住み、まもなく十六味地黄保命酒の製造・販売を始めて大ヒットし、福山藩の御用名酒屋として販売独占権を得たとされる。明治期に廻船業を営んだ太田家が継承し、現在の名で呼ばれる。主屋を中心に保命酒蔵や各種土蔵など九棟が建ち並び、建築年代は18世紀中期から19世紀前期に及ぶ。瀬戸内の商家建築を伝える貴重な遺構として、1991年に国の重要文化財に指定された。幕末には三条実美ら尊王攘夷派の公卿が立ち寄ったと伝わり、別宅の朝宗亭とともに「鞆七卿落遺跡」として広島県の史跡(1940年指定)にもなっている。

🕰 時代江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)
🏛 成立・築造主屋は18世紀中期、ほか北保命酒蔵が天明8年(1788年)、西蔵が寛政元年(1789年)、東保命酒蔵が寛政7年(1795年)など18世紀中期〜19世紀前期。国の重要文化財指定は1991年(平成3年)5月31日。
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆842
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いろは丸展示館

近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期) / 📍鞆の浦

坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵を活かした資料館 鞆の浦のシンボル常夜灯(とうろどう)のすぐそばに建つ資料館。1867年(慶応3年)、坂本龍馬と海援隊が運航したいろは丸が紀州藩の明光丸と備後灘で衝突・沈没した「いろは丸事件」を伝える施設で、その談判が鞆の浦で行われた縁にちなむ。建物は江戸期に建てられた太い梁が印象的な土蔵で、地元では「大蔵」と呼ばれ、国の登録有形文化財とされる。館内には海底に沈むいろは丸を再現したジオラマ、引き揚げられた陶器や部品、調査風景の写真などを展示し、2階には龍馬が宿泊先で身を潜めたという「隠れ部屋」が再現され、龍馬の蝋人形も置かれている。1989年(平成元年)7月の開館。幕末史と鞆の港町文化を同時に味わえるスポットである。

🕰 時代近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)
🏛 成立・築造1989年(平成元年)7月開館。建物は江戸期築の土蔵「大蔵(浜蔵)」で、国の登録有形文化財とされる。展示題材のいろは丸事件は1867年(慶応3年)
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆843-1
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仙酔島

古代(地質)/近代(指定) / 📍鞆の浦

鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連なる瀬戸内海国立公園の名勝 仙酔島は鞆の浦の沖合に浮かぶ周囲約6キロの島で、住所は福山市鞆町後地。鞆港から市営渡船で約5分の距離にあり、観光客の往来はあるが定住者のいない無人島とされる。1925年(大正14年)に国の名勝「鞆公園」の一部として指定され、1934年(昭和9年)には日本で最初に指定された国立公園・瀬戸内海国立公園に含まれた。島は約9000万年前の大規模な火山活動による溶結凝灰岩を主体とし、南側海岸には青・赤・黄・白・黒の岩が200メートル以上連なる「五色岩」が見られ、地質的に貴重とされる。「仙人が酔うほど美しい島」が名の由来と言われる。江戸後期の学者・頼山陽が当地の景観を「山紫水明」と評したとも伝わる。

🕰 時代古代(地質)/近代(指定)
🏛 成立・築造1925年(大正14年)国名勝「鞆公園」に指定。1934年(昭和9年)日本初の国立公園・瀬戸内海国立公園に編入。島自体は約9000万年前の火山活動で形成されたとされる
📍 所在地広島県福山市鞆町後地
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吉備津神社(備後一宮)

江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる / 📍新市・北部

備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で「いっきゅうさん」と親しまれる古社 福山市新市町宮内に鎮座する備後国一宮で、地元では「一宮さん(いっきゅうさん)」と親しまれる。社伝では大同元年(806年)に吉備国の吉備津神社から勧請し創建されたと伝わるが、延喜式神名帳に記載がないことなどから実際の成立はより後とする説もある。主祭神は吉備国を治めたとされる大吉備津彦命。現在の本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が旧規模にならい造営したもので、桁行七間・梁間四間の入母屋造檜皮葺、国の重要文化財に指定されている。ほかにも木造狛犬や太刀などが重要文化財として伝えられ、複数の建造物が広島県・福山市指定文化財となっている。隣接する櫻山城跡なども史跡として知られ、備後の信仰と歴史を今に伝える。

🕰 時代江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる
🏛 成立・築造本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が造営、国の重要文化財。創建は大同元年(806年)と伝わるが諸説ある
📍 所在地広島県福山市新市町宮内400
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素盞嗚神社(備後一宮)

飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮 / 📍新市・北部

祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏のけんか神輿で名高い古社 福山市新市町戸手に鎮座する素盞嗚神社は、『延喜式神名帳』に載る式内社で備後国一宮を称し、旧社格は県社です。主祭神は素盞嗚尊で、稲田姫命・八王子を配祀します。社伝では天武天皇の治世、7世紀ごろ(679年か)の創建とされます。『釈日本紀』所収の「備後国風土記」逸文に伝わる蘇民将来説話の舞台「疫隈国社」と結びつけられ、茅の輪くぐりや祇園信仰・祇園祭発祥の地の一つとされています。神仏習合期には牛頭天王を祀り、遣唐使・吉備真備が734年に当社から播磨の広峯神社へ勧請したとも伝わります。毎年7月の例祭では、勇壮なけんか神輿(神輿合わせ)が行われることで知られます。

🕰 時代飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮
🏛 成立・築造社伝では天武天皇期の7世紀ごろ(679年か)創建とされる。『延喜式神名帳』記載の式内社で、旧県社
📍 所在地広島県福山市新市町大字戸手1-1

こうして並べてみると、福山北部の駅家・神辺・加茂エリアに古墳が集中していることがわかります。この地理的なかたよりこそ、「備後のはじまり」を解くひとつの鍵になります。以下では、その背景を時代に沿って読み解いていきましょう。

時代背景|古墳時代の備後とはどんな世界だったか

芦田川の河口部
芦田川の河口部(画像:Wikimedia Commons / CC)

古墳時代は、おおむね3世紀後半から7世紀ごろまでの約400年間を指します。前方後円墳に代表される巨大な墳墓が各地に築かれた時代であり、まだ「日本」という統一国家が完成する前の、各地の豪族(首長)たちが緩やかにヤマト王権のもとへ結びついていく過渡期にあたります。文字による同時代の記録がほとんど残らないため、この時代を知る最大の手がかりは、古墳そのものと、そこから出土する遺物です。

「吉備」の一部だった備後

古代において、現在の岡山県から広島県東部にかけての一帯は「吉備(きび)」と呼ばれる大きなまとまりを形づくっていました。吉備は、畿内のヤマト王権、出雲、筑紫などと並ぶ有力な地域勢力であり、巨大古墳を多数擁したことで知られます。岡山平野には全国有数の規模を誇る前方後円墳も築かれました。

のちに福山を含む地域が「備後国(びんごのくに)」として独立するのは、7世紀後半のこととされます。吉備国が備前(びぜん)・備中(びっちゅう)・備後(びんご)へと三分され(のちに備前から美作〈みまさか〉も分かれます)、律令(りつりょう)制のもとで「国」という行政単位が整えられていきました。藤原宮(ふじわらきゅう)跡から出土した木簡に「吉備後」と記されたものがあることから、「吉備の後(うしろ)の国」という成り立ちがうかがえます。つまり、二子塚古墳などが築かれた古墳時代後期は、まだ「備後国」という枠組みが正式に成立する前夜にあたり、この地が広い意味での「吉備」世界の西の縁(へり)に位置していた時代だといえます。

川と海がつくる「交通の要衝」

福山北部の古墳が駅家・神辺・加茂に集中する背景には、地形と交通の事情があります。この一帯は、高屋川(たかやがわ)などの河川が流れ込む神辺平野(かんなべへいや)にあたり、肥沃な沖積地(ちゅうせきち)が広がっていました。水陸の交通が交わる結節点であり、古くから人やモノが集まる土地だったのです。

実際、神辺町の御領遺跡では、縄文時代から人々が住み続けていたことが確認されており、稲作が本格化する弥生時代を経て、古墳時代にも大きな集落が営まれていたと考えられています。豊かな生産力と交通の利を背景に富を蓄えた首長層が、自らの権威を示すために墳丘を築いた——そう考えると、この地に古墳が集まる理由が見えてきます。

二子塚古墳|「備後のはじまり」を象徴する大型前方後円墳

福山の古代を語るうえで欠かせないのが、駅家町大字中島に所在する二子塚古墳です。2009年(平成21年)7月23日に国の史跡に指定された、備後地域を代表する大型前方後円墳です。福山市の説明によれば、今からおよそ1400年前、6世紀末から7世紀初めの古墳時代後期に築かれたものとされています。

規模——広島県内でも屈指の大きさ

二子塚古墳の墳丘長は68メートル。後円部の直径は約41メートル、高さは約6.5メートル、前方部の幅は約30メートルにおよびます。墳丘の周囲には幅1.6〜4メートル、深さ約1.8メートルの周溝(しゅうこう)がめぐり、これを含めた総長は73.4メートルに達します。この規模は広島県内では第4位とされ、古墳時代後期に築かれたものとしては県内最大級です。

古墳時代も後期になると、前方後円墳の築造は全国的に減少していきます。そうしたなかで、これほどの規模をもつ前方後円墳が築かれたという事実そのものが、この地に強大な勢力が存在したことを物語っています。二子塚古墳は、西日本で最後の段階に築かれた前方後円墳の一つとも評価されています。

2つの横穴式石室と竜山石の石棺

二子塚古墳の大きな特徴は、前方部と後円部の双方に横穴式石室(よこあなしきせきしつ)をもつことです。「二子塚」という名は、墳丘のかたちが二つ並んだように見えることに由来するともいわれますが、内部にも二つの埋葬施設が備わっている点で、まさに名にふさわしい古墳といえます。

後円部の石室は、玄室(げんしつ)の両側に羨道(せんどう)が取り付く「両袖式(りょうそでしき)」と呼ばれる形式で、玄室の長さは6メートル台、羨道や前面の通路を含めると全長は約14.9メートルにおよびます。この規模は吉備地域でも有数とされ、後円部の石室内では、奥壁に用いられた巨大な一枚岩を間近に見学することができます。石室内には兵庫県産の竜山石(たつやまいし)を用いた石棺(せっかん)が納められていました。地元産ではない石材がわざわざ運び込まれていることからも、被葬者の力と、広域的なつながりがうかがえます。

双龍環頭柄頭が語る「ヤマトとのつながり」

二子塚古墳からは、須恵器(すえき)や鉄製の武器、馬具(ばぐ)とともに、注目すべき副葬品が出土しています。それが「金銅製双龍環頭柄頭(こんどうせいそうりゅうかんとうつかがしら)」と呼ばれる、大刀(たち)の柄(つか)の先端を飾る装飾具です。柄頭が環(わ)のかたちをなし、そのなかに二匹の龍があしらわれた精巧な意匠で、国内でも珍しいものとされています。

福山市の解説では、こうした副葬品や石室の様相から、二子塚古墳が「吉備の強大な勢力を挟み撃ちで牽制(けんせい)するため、後方の備後とヤマト王権とが協力体制にあった」ことを示すと位置づけています。すなわち、畿内のヤマト王権から見れば、強大な吉備の背後(西側)にある備後の首長と手を結ぶことには、政治的・軍事的な意味があったと考えられるわけです。二子塚古墳は、7世紀前後のヤマト政権と吉備をめぐる政治状況を読み解くうえで、きわめて重要な古墳とされています。

もっとも、被葬者が具体的に誰であったのかは、文字記録がないため特定されていません。「備後を治めた有力首長」であったことはほぼ確実視されますが、その名や系譜については確たることは言えず、諸説あるのが実情です。固有の人名を軽々に当てはめないことこそ、史実に誠実な向き合い方といえるでしょう。

大坊古墳|磨かれた石が物語る終末期の技術

福山城
福山城(画像:Wikimedia Commons / CC)

二子塚古墳と並んで、福山北部の古代を語るうえで重要なのが、神辺町西中条(にしちゅうじょう)に所在する大坊古墳です。広島県の指定史跡で、二子塚古墳よりもやや新しい時代、古墳時代の終末期にかけて築かれたと考えられています。

小ぶりな墳丘に、立派な石室

大坊古墳の墳丘は、直径約14メートル・高さ約5メートルの、南北にやや長い円形とされます(15メートル×12メートルの長方形墳の可能性も指摘されています)。墳丘そのものは二子塚古墳ほど大きくありませんが、内部の横穴式石室は長さ約11.3メートル、幅・高さともに約2メートルと、規模・つくりともに立派なものです。

とりわけ注目されるのは、石室に用いられた石材です。花崗岩(かこうがん)の表面を磨いたように仕上げた切石(きりいし)が使われ、玄室と羨道がほぼ同じ規模で設計されています。こうした「磨いた切石を整然と積む」技術は、古墳時代も終末期に近づいた段階の特徴とされ、前の時代の素朴な石積みとは一線を画します。墳丘の大きさで権威を示す時代から、石室の精巧さや内部の格式へと、価値観が移り変わっていく過渡期の姿がうかがえます。

猪ノ子古墳|「横口式石槨」が示す飛鳥時代の到来

福山市内には、さらに新しい段階の古墳も残されています。県指定史跡の猪ノ子古墳は、埋葬施設に「横口式石槨(よこぐちしきせっかく)」をもつ円墳で、飛鳥(あすか)時代に築かれた終末期古墳とされています。

横口式石槨とは、切石を組み合わせて棺を納める小さな石室(石槨)をつくり、その横に入口(羨道)を設けた構造をいいます。猪ノ子古墳では、石槨部が長さ約2.82メートル、幅約1.09メートル、高さ0.89〜0.95メートル、羨道部が長さ3メートル台、幅1.46〜1.70メートルほどと記録されています。地方では数少ない、花崗岩の切石を精緻に組み合わせた構造で、近畿地方の終末期古墳に通じる新しい埋葬様式が、この備後の地にも及んでいたことを示しています。

巨大な前方後円墳を築いた二子塚古墳の時代から、小規模ながら格式高い終末期古墳へ——猪ノ子古墳は、「古墳をつくる時代」が静かに幕を下ろしていく、その最終局面を体現する史跡といえるでしょう。やがて時代は、巨大な墓ではなく寺院や役所を権威の象徴とする律令制の世へと移っていきます。

山の神古墳|馬具がきらめく後期古墳

神辺城跡(本丸跡)
神辺城跡(本丸跡)(画像:Wikimedia Commons / CC)

駅家町大字法成寺(ほうじょうじ)に所在する山の神古墳も、福山北部の古墳群を語るうえで欠かせない存在です。1948年(昭和23年)9月17日に広島県の史跡に指定された、古墳時代後期の古墳です。

墳丘は直径約12メートル・高さ約4メートルと推定され、内部には「片袖式(かたそでしき)」の横穴式石室が築かれています。玄室は長さ約4.1メートル、幅約2.9メートル、高さ約3.3メートルと、方形に近く天井が高いのが特徴で、側壁を四方から少しずつ内側にせり出させ(持ち送り)、2枚の天井石で覆う古い形態を示すとされます。横穴式石室としてはやや特異な形態をもつ点が、専門家から注目されてきました。

出土遺物には、金銅製の杏葉(ぎょうよう)や鉄地金張りの鏡板(かがみいた)、雲珠(うず)といった馬具類、金銅製の丸玉、須恵器、土師器(はじき)などが含まれます。馬具がきらびやかに飾られていたことは、被葬者が騎馬や軍事に関わる有力者であった可能性をうかがわせます。山の神古墳は、神辺・加茂・駅家の古墳密集地帯のなかに位置しており、この一帯に複数の有力首長が並び立っていたことを示す好例です。

横穴式石室とは何か|大陸から伝わった新しい葬法

二子塚古墳をはじめ、福山の後期・終末期の古墳には「横穴式石室(よこあなしきせきしつ)」が共通して用いられています。せっかく古墳をめぐるなら、この石室の構造を知っておくと、現地での見え方が大きく変わります。少し専門的になりますが、わかりやすく整理しておきましょう。

竪穴式から横穴式へ

古墳時代の前期から中期にかけては、墳丘の上から縦に穴を掘って棺を納め、その上を塞ぐ「竪穴式石室(たてあなしきせきしつ)」が主流でした。この方式では、いったん埋葬すると基本的に再び開けることはできず、一人を葬るための施設という性格が強いものでした。

ところが古墳時代後期、6世紀ごろになると、墳丘の横から通路を通して石室に出入りできる「横穴式石室」が広く用いられるようになります。横穴式石室は、もともと中国大陸で発達し、朝鮮半島を経て日本列島に伝わった大陸系の墓制とされています。日本では5世紀ごろから先駆的なものが現れ、6世紀中ごろには各地の大型古墳を中心に普及しました。福山の古墳に横穴式石室が採用されているのは、まさにこの大きな流れのなかにあります。

玄室・羨道・袖——石室を構成する部分

横穴式石室は、棺を安置する主室である「玄室(げんしつ)」と、そこへ通じる通路である「羨道(せんどう)」から成ります。玄室と羨道の境目で、壁が内側に張り出す部分を「袖(そで)」と呼び、その付き方によって石室は分類されます。両側に袖があるものを「両袖式(りょうそでしき)」、片側だけのものを「片袖式(かたそでしき)」、袖のないものを「無袖式(むそでしき)」といいます。

二子塚古墳の後円部の石室は両袖式、山の神古墳の石室は片袖式とされており、同じ横穴式石室でも形式に違いがあることがわかります。横から出入りできる構造は、追葬(ついそう)、すなわち同じ石室に複数の人物を時間をおいて葬ることを可能にしました。これは「個人の墓」から「家族・一族の墓」へという、人々の死生観や社会のあり方の変化を映し出しているとも考えられています。石室の奥に立ったとき、そこが一族の眠る神聖な空間として何度も開かれた場であったことを想像すると、味わいが一段と深まるでしょう。

副葬品が語る古代福山|須恵器・馬具・大刀

古墳の魅力は、墳丘や石室の構造だけではありません。石室の内部から見つかる副葬品(ふくそうひん)は、被葬者がどのような人物で、どんな世界とつながっていたのかを雄弁に語ってくれます。福山の古墳から出土した遺物を手がかりに、古代の福山が決して「辺境」ではなかったことを確かめてみましょう。

須恵器——渡来の技術が生んだ硬い焼き物

福山の古墳からは、二子塚古墳をはじめとして多くの須恵器(すえき)が出土しています。須恵器は、青灰色をした硬い焼き物で、その製作技術は朝鮮半島南部から渡来した工人によって伝えられたとされます。ろくろを用いて成形し、登り窯のような構造の窯で高温で焼き締めるこの技術は、それまでの素焼きの土器(土師器〈はじき〉)とはまったく異なる、当時の最先端技術でした。

須恵器の年代的な特徴(型式)は、古墳の築造時期を推定する重要な手がかりにもなります。二子塚古墳の築造年代が「7世紀の最初の四半期」と推定されているのも、出土した須恵器の型式分析にもとづくものです。最先端の技術で作られた器を死後の世界に携えていったことは、被葬者が新しい知識や交流の最前線にいた有力者であったことを物語っています。

馬具——騎馬の文化と権威の象徴

山の神古墳からは、金銅製(こんどうせい)の杏葉(ぎょうよう)や鉄地金張りの鏡板(かがみいた)、雲珠(うず)といった馬具が出土しています。杏葉は馬の胸や尻にかける装飾、鏡板は轡(くつわ)の一部、雲珠は手綱を束ねる飾り金具で、いずれも馬を着飾るための道具です。

古墳時代の馬は、単なる移動・運搬の手段ではなく、軍事力と高い身分の象徴でした。金銅(金メッキを施した銅)できらびやかに飾られた馬具を副葬できたことは、被葬者が馬を所有し、武力や政治力を背景にもつ有力者であったことを強く示しています。福山の地に、こうした馬具文化が及んでいたことは、この地域がヤマトや吉備の中枢と密接に結ばれていたことの一つの証(あかし)といえるでしょう。

大刀と双龍環頭柄頭——海を越えたつながり

二子塚古墳から出土した金銅製の双龍環頭柄頭は、副葬品のなかでもとりわけ象徴的な存在です。環状の柄頭に二匹の龍をあしらう意匠は、もともと大陸や朝鮮半島の装飾文化に源流をもつとされ、各地の有力古墳から類例が知られています。国内でも珍しいこうした品が福山の地から出土したという事実は、被葬者がヤマト王権を介して(あるいは独自のルートで)広域的な交流の輪のなかにあったことを示しています。鉄製の武器類とあわせて、軍事的・政治的な力をもった首長の姿が浮かび上がってきます。

御領遺跡|縄文から続く「西日本最大級」のムラ

古墳が「首長の墓」であるとすれば、その首長たちが生きた「ムラ」の姿を伝えてくれるのが集落遺跡です。福山市神辺町の御領遺跡は、縄文時代から近世にいたるまでの遺構・遺物が幾重にも重なる複合遺跡で、西日本でも最大級の集落遺跡の一つとされています。

遺跡の広がりは東西約1.9キロメートル、南北約1.1キロメートルにおよぶと推定され、福山市によるこれまでの発掘調査は数百次に達します。高屋川と、北東の丘陵から流れ出る小河川が合流して神辺平野を潤すこの地は、狩猟・採集・農耕に適した恵まれた環境であると同時に、水運と陸路が交わる交通の結節点でもありました。だからこそ、縄文の昔から現代にいたるまで、人々が住み続けてきたのです。

御領遺跡の存在は、二子塚古墳をはじめとする周辺の古墳群が「ぽつんと孤立して築かれた特別なもの」ではなく、豊かな生産力と人口を背景にした、地域社会の延長線上に生まれたものであることを教えてくれます。墓(古墳)とムラ(集落)の両方が確認できることは、この地域の古代史を考えるうえで大きな強みといえるでしょう。

数百次におよぶ発掘調査が続く

御領遺跡では、福山市によってこれまで数百次にわたる発掘調査が積み重ねられてきました。調査のたびに新たな発見が報告され、遺跡の重要性は年々高まっています。縄文時代から弥生・古墳時代を経て、中世・近世にいたるまでの遺構や遺物が幾重にも重なって見つかることは、この土地がいかに長く、途切れることなく人々の生活の舞台であり続けたかを物語っています。

稲作が本格化する弥生時代には、平野部に集落が営まれ、人々は協力して水田を開き、収穫物を蓄えました。こうした農耕社会のなかで生まれた富と人口の集積、そして首長を頂点とする社会の階層化が、やがて古墳時代の巨大な墳墓を生み出す土台となっていきます。御領遺跡という「生活の場」と、二子塚古墳をはじめとする「墓の場」を重ね合わせてこそ、「備後のはじまり」の全体像が立ち上がってくるのです。

水陸交通の結節点という個性

御領遺跡が長く栄えた最大の理由は、水運と陸路が交わる交通の結節点であったことだとされます。瀬戸内海から河川をさかのぼる水のルートと、のちに山陽道へとつながる陸のルートが交差するこの地は、人・モノ・情報が行き交う「開かれた土地」でした。須恵器の技術や横穴式石室の葬法、きらびやかな馬具といった新しい文化が比較的早くこの地に届いたのも、こうした交通の利があったからこそと考えられます。福山が古代から「閉ざされた辺境」ではなく、広い世界とつながる窓口であったことを、御領遺跡は静かに証言しています。

ヤマトと吉備のはざまで|備後首長の立ち位置

二子塚古墳を理解するうえで欠かせないのが、当時の大きな政治的構図です。古墳時代後期、列島の各地はゆるやかにヤマト王権のもとへ結びつきつつありましたが、その過程は一様ではなく、地域ごとに複雑な力関係がありました。とりわけ重要なのが、福山の東に広がる「吉備」の存在です。

強大だった吉備の勢力

吉備は、岡山平野を中心に巨大な前方後円墳を多数築いた、列島でも有数の地域勢力でした。畿内のヤマト王権にとって、吉備は協力すべき相手であると同時に、ときに警戒すべき強大な隣人でもあったと考えられています。古墳時代を通じて、ヤマト王権は各地の有力勢力を取り込みながら統合を進めましたが、吉備のような大勢力との関係は、緊張をはらむ微妙なものであったとされます。

「挟み撃ち」の地政学

こうした構図のなかで、吉備の西側(後方)に位置する備後は、地政学的に重要な意味をもちました。福山市の解説が、二子塚古墳の副葬品や石室の様相を「吉備の強大な勢力を挟み撃ちで牽制するため、後方の備後とヤマト王権とが協力体制にあった」ことを示すものと位置づけているのは、まさにこの点を指しています。ヤマト王権から見れば、強大な吉備を東西から挟む位置にある備後の首長と手を結ぶことには、戦略的な利点があったわけです。

二子塚古墳の被葬者は、そうしたヤマト王権との協力関係のなかで力を蓄え、県内最大級の前方後円墳と豪華な副葬品を手にした首長であった——そう考えると、丘の上に静かにたたずむこの古墳が、列島規模の政治のうねりと深く結びついていたことが見えてきます。ただし、これらはあくまで考古資料と地理的状況からの解釈であり、文献による裏づけがあるわけではない点は、あらためて申し添えておきます。歴史を語るうえで、確かなことと推測とを分けて考える姿勢は、古代史においてとりわけ大切です。

古墳から国府へ|「備後国」の成立

巨大な古墳を築いた時代は、やがて終わりを迎えます。7世紀後半、ヤマト王権が律令制という新しい統治の仕組みを整えるなかで、吉備国は備前・備中・備後に分けられ、福山を含む地域は「備後国」として新たに歩み始めました。

14の郡からなる備後国

古代の備後国は、14の郡(こおり)から構成されていたとされます。福山北部にあたる地域には安那郡(やすなぐん)があり、のちに養老5年(721年)には安那郡から深津郡(ふかつぐん)が分かれたと伝わります。ほかにも葦田郡(あしだぐん)・品治郡(ほんぢぐん)・沼隈郡(ぬまくまぐん)・神石郡(じんせきぐん)・三次郡(みよしぐん)・御調郡(みつぎぐん)などがあったとされ、これらの郡名のなかには、現在の地名や駅名にその名残をとどめるものもあります。

国府はどこにあったか

律令制のもとで、国を治める役所が置かれた場所を「国府(こくふ)」といいます。備後国の国府は、平安時代の辞書『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』の記載などから、葦田郡、すなわち現在の広島県府中市域にあったと考えられています。府中市では発掘調査によって大規模な掘立柱建物群などが確認され、国府跡として国の史跡に指定されています。「府中」という地名そのものが、かつてこの地に国府が置かれたことに由来します。

一方で、律令制の初期段階には、福山市の旧神辺町付近、すなわち国分寺(こくぶんじ)の遺構が知られる地域に国府があったとする有力な説もあります。古墳が密集する神辺・駅家一帯は、その後も備後の政治的中心の一翼を担い続けた可能性があるわけです。いずれにせよ、巨大古墳を築いた首長たちの世界が、国府を中心とする律令国家の世界へと移り変わっていったことは、福山の古代史の大きな転換点といえます。なお、こうした古代から中世・近世へと続く福山の歩みは、福山城ガイドで語られる近世福山の物語へとつながっていきます。

福山北部に古墳が集中した理由

ここまで見てきたように、二子塚古墳・大坊古墳・猪ノ子古墳・山の神古墳といった福山の代表的な古墳は、いずれも市北部の駅家・神辺・加茂エリアに集中しています。なぜこの一帯に、これほど多くの、しかも有力な古墳が築かれたのでしょうか。確かな史料がないため断定はできませんが、いくつかの要因が考えられます。

地形と生産力

第一に、神辺平野という肥沃な沖積平野の存在です。河川がもたらす豊かな水と土壌は、安定した稲作を支えました。豊かな生産力は人口と富を生み、その富を蓄えた首長層が、自らの権威を可視化するために墳丘を築いたと考えられます。御領遺跡に代表される大規模集落の存在も、この地域の生産力の高さを裏づけています。

交通の要衝という立地

第二に、水陸交通の結節点という立地です。山陽道(さんようどう)に通じる陸路と、河川・瀬戸内海を介した水運が交わるこの地は、人やモノ、そして情報が集まる場所でした。ヤマト王権や吉備の中心地と結ばれた交易・交流のなかで、最新の技術や貴重な品々(竜山石の石棺や金銅製の装飾品など)が持ち込まれ、首長たちの力を支えたと考えられます。

ヤマト・吉備をめぐる政治

第三に、前述したヤマト王権と吉備をめぐる政治的な力学です。強大な吉備の背後に位置する備後の首長と手を結ぶことは、ヤマト王権にとって戦略的な意味をもっていたと考えられます。二子塚古墳の規模や副葬品の格は、そうした政治的な後ろ盾を得た首長の力を反映しているのかもしれません。これらはあくまで考古資料からの推定であり、諸説あることを申し添えておきます。

福山古墳ロード|歩いて出会う「備後のはじまり」

これらの古墳は、書物のなかだけの存在ではありません。福山市北部には、代表的な古墳や史跡をめぐる散策路「福山古墳ロード」が整備されています。2006年(平成18年)ごろから地元の郷土史団体と福山市が協力して案内板の設置や環境整備が進められ、コースを歩きながら古代の福山を体感できるようになっています。

駅家・神辺・加茂のエリアには複数の古墳や遺跡が点在しており、二子塚古墳や山の神古墳など、見学できるよう整えられた史跡も少なくありません。とくに二子塚古墳では、後円部の石室内に入って、奥壁の巨大な一枚岩を間近に見ることができます(見学可能な範囲・時間は時期により異なる場合があります)。1400年前の人々が運び、積み上げた石と向き合う体験は、教科書では得られない迫力があります。

モデルコース|古墳と古代史をめぐる一日

はじめての方には、福山北部の古墳を中心に、神辺の歴史的な町並みもあわせて楽しむ一日コースがおすすめです。たとえば、午前中に二子塚古墳と山の神古墳をじっくり見学し、駅家・法成寺周辺の古墳密集地帯の地形を体感します。午後は神辺方面へ移動し、御領遺跡が広がる神辺平野の景観を眺めながら、大坊古墳・猪ノ子古墳といった終末期の古墳をめぐる——こうした流れなら、巨大前方後円墳から終末期古墳へという「古墳の移り変わり」を一日で追体験できます。

見学の際は、史跡が住宅地や農地のすぐそばにあることも多いため、私有地に立ち入らない、農作業の妨げにならないなど、地元への配慮を忘れないようにしましょう。動きやすい靴と服装、夏場は暑さ対策、足元の悪い場所もあるため雨天直後は注意が必要です。

古代から近世・幕末へ——福山の歴史を続けて歩く

古墳めぐりで「備後のはじまり」を体感したあとは、時代を下って福山の歴史を続けて味わうのもおすすめです。瀬戸内有数の景勝地・鞆の浦(とものうら)には、朝鮮通信使も賞賛した福禅寺 対潮楼や、坂本龍馬ゆかりのいろは丸展示館、江戸時代の商家建築を伝える太田家住宅など、見どころが集まっています。古代・中世・近世・幕末と、福山の重層的な歴史を一つの旅でつなげて感じてみてください。

見学の手引き|古墳めぐりを楽しむために

福山北部の古墳は、観光地として大々的に整備されているわけではなく、田園や住宅地のなかに静かに残されているものが多いのが特徴です。だからこそ、訪れる人それぞれが「発見」する楽しみがあります。ここでは、古墳めぐりをより充実させるためのポイントを整理しておきます。

事前に下調べをしておく

古墳のなかには、石室の内部に入れるもの、外観のみ見学できるもの、立ち入りに配慮が必要なものなどがあります。二子塚古墳のように石室見学が整備されている古墳もありますが、開放状況や見学可能時間は時期によって異なる場合があります。訪問前に、福山市や福山観光コンベンション協会の公式情報、現地の案内板などで最新の状況を確認しておくと安心です。古墳の規模や年代の予習をしておけば、現地での感動も一段と深まります。

服装・持ち物と季節の注意

古墳は丘陵や林のなかにあることが多く、足元が整っていない場所も少なくありません。歩きやすい靴と動きやすい服装を心がけましょう。夏場は日差しと暑さ、虫への対策を、冬場は防寒を。雨の直後はぬかるみや滑りやすい斜面に注意が必要です。石室内はひんやりと暗いため、見学が可能な場合は足元に気をつけ、無理のない範囲で楽しんでください。

地元への配慮を忘れずに

多くの古墳は、地域の人々の暮らしのすぐそばにあります。私有地や農地に立ち入らない、ゴミは必ず持ち帰る、農作業や日常生活の妨げにならないようにする——こうした基本的な配慮が、貴重な史跡を次の世代へ守り伝えることにつながります。古墳は、千年以上にわたって地域の人々が守ってきた大切な文化遺産です。敬意をもって接したいものです。

関連年表|福山・備後の古代史をたどる

ここで、本記事で取り上げた出来事や史跡を、おおまかな時間軸に沿って整理してみましょう。古墳時代は文字記録が乏しく、年代は考古学的な推定によるものが多いため、あくまで目安としてご覧ください。

時期(目安) おもな出来事・関連史跡
縄文時代〜 御領遺跡の一帯に人々が暮らし始める(以後、近世まで継続)
弥生時代 神辺平野で稲作が本格化し、大規模な集落が営まれる
古墳時代前・中期 各地の首長が古墳を築造。吉備が有力な地域勢力として台頭
6世紀末〜7世紀初め 二子塚古墳が築造される(古墳時代後期、県内最大級の前方後円墳)
古墳時代後期 山の神古墳など、馬具を副葬する後期古墳が築かれる
古墳時代終末期(飛鳥時代) 大坊古墳・猪ノ子古墳など、切石を用いた終末期古墳が築かれる
7世紀後半 吉備国が備前・備中・備後に三分され、「備後国」が成立(諸説あり)
養老5年(721年) 安那郡から深津郡が分かれたと伝わる
奈良〜平安時代 備後国府が葦田郡(現・府中市域)に置かれる(初期は神辺付近説も)
1948年(昭和23年) 山の神古墳が広島県史跡に指定される
2006年(平成18年)ごろ 「福山古墳ロード」の整備が進む
2009年(平成21年) 二子塚古墳が国の史跡に指定される

よくある質問(FAQ)

Q二子塚古墳はどこにありますか?
A

広島県福山市駅家町大字中島に所在します。福山市の北部、神辺平野を見おろす丘陵上に築かれた前方後円墳です。最新のアクセス情報や見学可能時間は、福山市や福山観光コンベンション協会の公式情報でご確認ください。

Q二子塚古墳はいつ築かれたのですか?
A

福山市の説明では、今からおよそ1400年前、6世紀末から7世紀初めの古墳時代後期に築かれたとされています。出土した須恵器の型式などから、7世紀の最初の四半期にあたると考えられています。

Q二子塚古墳の大きさはどのくらいですか?
A

墳丘長は68メートル、後円部の直径は約41メートル、高さは約6.5メートル、前方部の幅は約30メートルです。周溝を含めた総長は73.4メートルにおよび、広島県内では第4位の規模とされ、古墳時代後期の前方後円墳としては県内最大級です。

Q「前方後円墳」とはどんな形のお墓ですか?
A

円形の墳丘(後円部)と方形(台形)の墳丘(前方部)を組み合わせた、鍵穴のような形の古墳です。古墳時代を代表する形式で、有力な首長クラスの人物が葬られたと考えられています。二子塚古墳はその典型例の一つです。

Q二子塚古墳には誰が葬られていたのですか?
A

文字記録がないため、被葬者の名前や系譜は特定されていません。規模や副葬品から「備後を治めた有力な首長」であったと考えられていますが、具体的に誰かについては諸説あり、断定はできません。

Q「双龍環頭柄頭」とは何ですか?
A

大刀(たち)の柄(つか)の先端を飾る金銅製の装飾具で、環(わ)のなかに二匹の龍があしらわれた精巧な意匠をもちます。二子塚古墳から出土したものは国内でも珍しいとされ、被葬者の地位の高さや広域的なつながりを示す貴重な遺物です。

Q二子塚古墳の石室は見学できますか?
A

後円部の横穴式石室では、奥壁に用いられた巨大な一枚岩を間近に見学できるよう整備されています。ただし、見学可能な範囲や時間は時期・状況により変わる場合があるため、訪問前に最新情報をご確認ください。

Q大坊古墳と二子塚古墳は何が違うのですか?
A

二子塚古墳が墳丘長68メートルの大型前方後円墳であるのに対し、大坊古墳は直径14メートルほどの比較的小ぶりな円墳とされます。一方で大坊古墳は、磨いた花崗岩の切石を用いた精巧な横穴式石室をもち、より新しい終末期に近い段階の技術を示している点に特徴があります。

Qなぜ福山北部に古墳が集中しているのですか?
A

神辺平野という肥沃な土地の生産力、水陸交通の結節点という立地、そしてヤマト王権・吉備をめぐる政治的背景などが要因と考えられています。これらは考古資料からの推定であり、諸説あります。

Q「備後国」はいつできたのですか?
A

7世紀後半、吉備国が備前・備中・備後に三分された際に成立したとされます。藤原宮跡出土の木簡に「吉備後」と記されたものがあるなど、「吉備の後の国」という成り立ちが知られています。正確な成立時期には諸説あります。

Q備後国の国府はどこにあったのですか?
A

古代の備後国府は、葦田郡、すなわち現在の広島県府中市域にあったと考えられ、府中市では国府跡が国の史跡に指定されています。なお、律令制初期には福山市の旧神辺町付近にあったとする有力な説もあります。

Q古墳をめぐる際に気をつけることはありますか?
A

多くの古墳は住宅地や農地のすぐそばにあります。私有地に立ち入らない、農作業の妨げにならないなど、地元への配慮を心がけてください。動きやすい靴と服装で、夏場は暑さ対策、雨天直後は足元にご注意ください。見学可否や開放状況は事前に公式情報でご確認ください。

Q古墳めぐりとあわせて楽しめる福山の史跡はありますか?
A

古代の古墳めぐりのあとは、時代を下って鞆の浦の歴史的な町並みを歩くのもおすすめです。福山の歴史を縄文・古墳時代から近世・幕末まで通して味わうことができます。

まとめ|古墳が伝える「備後のはじまり」

福山市北部の駅家・神辺・加茂エリアに点在する古墳群は、文字記録の乏しい古墳時代の福山を知るための、何より雄弁な手がかりです。なかでも二子塚古墳は、墳丘長68メートルという県内最大級の規模と、2つの横穴式石室、竜山石の石棺、そして珍しい双龍環頭柄頭の副葬品によって、「備後のはじまり」を担った有力首長の存在と、ヤマト王権・吉備をめぐる政治状況をいきいきと伝えてくれます。

大坊古墳や猪ノ子古墳に見られる切石の技術、山の神古墳のきらびやかな馬具、そして御領遺跡が物語る縄文以来の集落の営み——これらを重ね合わせると、福山という土地が古くから豊かな生産力と交通の利に恵まれ、独自の地域社会を育んできたことが見えてきます。やがてこの地は、吉備から分かれた「備後国」として律令国家の一翼を担い、古墳の時代から国府の時代へと歩みを進めていきました。

巨大な墳丘や石室は、千年以上の時を越えて、いまも私たちの目の前にその姿をとどめています。福山古墳ロードを歩き、石室の奥壁に手を伸ばせば届きそうな距離で1400年前の人々の営みと向き合う——そんな体験こそが、「備後のはじまり」を最も実感できる方法かもしれません。なお、年代や被葬者については諸説ある事項も多く、本記事も確かな範囲と推定の範囲を区別して記しています。ぜひ現地を訪れ、ご自身の目で古代福山の世界を確かめてみてください。

出典・ご利用にあたっての注意

本記事は、福山市公式ホームページ(二子塚古墳・大坊古墳・猪ノ子古墳・山の神古墳・御領遺跡・福山古墳ロードの各解説)、文化遺産オンライン(文化庁)、広島県・府中市の公開情報、ならびに『日本歴史地名大系』『国史大辞典』など一般に流通する百科・辞典類の記述を参照して作成しました。考古学的な年代・規模・数値は、調査の進展や資料によって表記が異なる場合があります。

※年代・経緯には諸説ある事項を含みます。詳細は各施設の公式情報や郷土資料でご確認ください。

最終更新: 2026年6月10日

史跡情報は福山NOTE 史跡図鑑(fn_history)より。