広島県福山市の海は、いまでこそ穏やかな観光と暮らしの風景に包まれていますが、江戸時代から明治にかけては、日本中の物資と人と文化が行き交う「海の大動脈」の結節点でした。なかでも鞆の浦(とものうら)と松永(まつなが)は、北前船(きたまえぶね)をはじめとする廻船(かいせん)が出入りし、廻船問屋(かいせんどんや)が軒を連ねた瀬戸内海運の要衝として栄えました。鞆の浦は瀬戸内海のちょうど中央付近に位置し、潮の流れが東西で出会う「潮待ちの港」として、帆船時代の航海に欠かせない待避地となりました。松永湾沿岸には広大な塩田が築かれ、そこで生産された塩が北前船の西回り航路に乗って全国へと運ばれていきました。
この記事では、北前船と廻船問屋を軸に、鞆の浦と松永が担った瀬戸内海運の歴史を、年号や固有名詞をできるだけ正確に追いながら、起源から現在に受け継がれているものまで丁寧にたどっていきます。海運がもたらした富は、保命酒(ほうめいしゅ)や松永下駄といった福山ならではの産業を育て、いまも町並みや特産品のなかに息づいています。帆船が運んだ繁栄の記憶を、ゆっくりとひもといていきましょう。
ゆかりの史跡・図鑑
北前船と廻船問屋にまつわる福山市内の史跡を、一覧・比較・詳細の三つの切り口でまとめています。鞆の浦の常夜燈や雁木(がんぎ)、松永の塩田跡など、現地を訪ねる手がかりとしてご活用ください。各史跡の所在地や見どころは、図鑑の個別ページからも確認できます。
| 史跡 | 時代 | 概要 | 📍 エリア | 詳細 |
|---|---|---|---|---|
| 福山城 伏見櫓 | 江戸時代(元和年間) | 伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最… | 📍 福山駅前(福山市街) | 下へ ↓ |
| 福山城 | 近世(江戸) | 備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御… | 📍 丸之内 | 下へ ↓ |
| 福山城博物館 | 近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期) | 水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩… | 📍 福山駅前(福山市街) | 下へ ↓ |
| 草戸千軒町遺跡 | 中世 | 芦田川の中州にあった中世の港町・集落遺跡。発… | 📍 草戸町 | 下へ ↓ |
| 明王院 | 中世 | 本堂と五重塔がともに国宝。中世密教寺院で、五… | 📍 草戸町 | 下へ ↓ |
| 鞆の津の町並み(重伝建) | 江戸時代(中世〜近代の建造物群) | 潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 鞆の浦の常夜燈と港湾施設 | 江戸時代 | 江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 福山市鞆の浦歴史民俗資料館 | 近代(昭和) | 鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 鞆の浦 | 中世〜近世 | 瀬戸内の「潮待ちの港」。常夜燈・雁木・波止場… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 福禅寺 対潮楼 | 近世 | 朝鮮通信使の使節が「日東第一形勝」と讃えた客… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 太田家住宅 | 江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期) | 鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| いろは丸展示館 | 近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期) | 坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 仙酔島 | 古代(地質)/近代(指定) | 鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 廉塾(菅茶山旧宅) | 近世 | 儒学者・菅茶山が開いた私塾。当時の塾舎・住宅… | 📍 神辺町 | 下へ ↓ |
| 神辺城跡 | 中世 | 備後南部の中世山城。福山城が築かれる以前、備… | 📍 神辺町 | 下へ ↓ |
| 福山八幡宮 | 近世 | 福山城の北に鎮座し、東西二つの宮を備える。歴… | 📍 北吉津町 | 下へ ↓ |
| 沼名前神社 | 近世 | 鞆の「祇園さん」。夏の大松明を担ぐ「お手火神… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 阿伏兎観音(磐台寺観音堂) | 近世 | 断崖の上に建つ朱塗りの観音堂。国の重要文化財… | 📍 沼隈町 | 下へ ↓ |
| 吉備津神社(備後一宮) | 江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる | 備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で… | 📍 新市町 | 下へ ↓ |
| 素盞嗚神社(備後一宮) | 飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮 | 祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏の… | 📍 新市町 | 下へ ↓ |
福山城 伏見櫓
伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最古級の三層入母屋造の現存櫓。 福山城伏見櫓は、元和8年(1622年)の福山城築城に際し、城主水野勝成が将軍徳川秀忠から下賜を受け、京都の伏見城から移築させたと伝えられる櫓である。長らく伝承とされていたが、昭和29年(1954年)の解体修理の際、梁の陰刻に「松ノ丸ノ東やく(ら)」の文字が発見され、伏見城からの移築を裏付ける確かな遺構であることが明らかになった。構造は三層入母屋造で、初層と二層を同じ柱割とし、その上にやや小さい三層を望楼状に載せる。桁行八間・梁間三間、本瓦葺の規模をもつ。慶長期の城郭建築の様式を残す初期の典型として価値が高く、昭和8年(1933年)1月23日に国の重要文化財に指定された。福山城内に現存し、特別公開が行われることもある。
| 🕰 時代 | 江戸時代(元和年間) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 元和8年(1622年)水野勝成の福山城築城時に伏見城から移築。国指定重要文化財(昭和8年=1933年1月23日指定) |
| 📍 所在地 | 広島県福山市丸之内一丁目(福山城内) |
福山城
備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御門は京都伏見城からの移築と伝わる。2022年に築城400年を迎えた。
| 🕰 時代 | 近世(江戸) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 1622年(元和8)・水野勝成 |
| 👤 関連 | 水野勝成・阿部正弘 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市丸之内一丁目8 |
福山城博物館
水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩の歴史を体験型展示で伝える博物館 福山城博物館は、JR福山駅のすぐ北に建つ福山城天守内に置かれた市立の歴史資料館です。福山城は1622年(元和8年)、徳川譜代の大名・水野勝成が西国鎮衛の拠点として築いた近世城郭で、天守は1931年に国宝に指定されました。しかし1945年8月の福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリート造で外観が復興され、その内部が博物館として公開されました。2022年には築城400年に合わせて大規模リニューアルされ、北面の鉄板張り(黒い装い)の再現や、一番槍レース・火縄銃などの体験型コンテンツ、デジタル映像を用いた展示が整えられ、福山城と福山藩の歴史を学べる施設となっています。城内に現存する伏見櫓と筋鉄御門は、京都・伏見城からの移築と伝えられ、国の重要文化財に指定されています。常設展は有料、月曜休館とされます。
| 🕰 時代 | 近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 福山城は1622年(元和8年)に初代福山藩主・水野勝成が築城。天守は1945年福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリートで外観復興、内部を博物館として開館。2022年に大規模リニューアル |
| 📍 所在地 | 広島県福山市丸之内一丁目8番 |
草戸千軒町遺跡
芦田川の中州にあった中世の港町・集落遺跡。発掘成果は広島県立歴史博物館で町並みが原寸復元展示されている。
| 🕰 時代 | 中世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 鎌倉〜室町 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市草戸町 |
明王院
本堂と五重塔がともに国宝。中世密教寺院で、五重塔は全国でも有数の古塔。
| 🕰 時代 | 中世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 本堂1321年・五重塔1348年 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市草戸町1473 |
鞆の津の町並み(重伝建)
潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と町家が一体で残る重伝建地区 鞆の浦は瀬戸内海の中央に位置し、古来「潮待ちの港」として栄え、万葉集にも詠まれた歴史を持つとされる。江戸時代には北前船など廻船の寄港地として繁栄し、朝鮮通信使の寄港地ともなった。2017年(平成29年)11月28日、「福山市鞆町伝統的建造物群保存地区」として約8.6ヘクタールが国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。範囲は鞆字西町の全域を中心に、石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地の一部に及ぶ。中世から江戸期に整えられた地割の上に、江戸時代から昭和30年代までの町家や寺社、石垣などが一体的に残る近世港町の景観が評価された。常夜燈・雁木・波止・焚場・船番所の5つの港湾施設がほぼ完全に残る点は全国でも稀とされる。広島県内では3例目の選定で、2018年には日本遺産にも認定された。
| 🕰 時代 | 江戸時代(中世〜近代の建造物群) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 2017年(平成29年)11月28日に国の重要伝統的建造物群保存地区へ選定。地割は中世〜江戸期、建造物は江戸時代〜昭和30年代まで。 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町(鞆字西町全域ほか、字石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地字古城跡・草谷の各一部) |
鞆の浦の常夜燈と港湾施設
江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯一の近世港、鞆港。 鞆の浦の鞆港には、常夜燈・雁木・波止・焚場(たでば)・船番所という江戸時代の港湾施設5点がほぼ揃って現存し、これらが一体で残るのは全国でも鞆港のみとされる。シンボルの常夜燈は安政6年(1859)の刻銘をもつ石造灯台で、海中の基礎石から宝珠の頂までは約12.1mに及び、江戸期の石造常夜燈としては国内最大級とされる。雁木は潮の干満に応じて船を着けられる階段状の船着き場で、半円形の港内に連続して巡らされている。波止は花崗岩を積んだ全長約146mの防波堤で、江戸後期に築かれ明治期に修築された。鞆港を含む沿岸と沖の島々一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定され、鞆町西町を中心とする区域は2017年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。日本遺産「瀬戸の夕凪が包む 国内随一の近世港町」の構成要素でもある。
| 🕰 時代 | 江戸時代 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 常夜燈は安政6年(1859)造立とされる。雁木・波止・焚場・船番所は江戸後期築造、波止は明治期に修築。鞆港一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定。 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町鞆 |
福山市鞆の浦歴史民俗資料館
鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬戸内の歴史・民俗を伝える市立資料館 福山市鞆の浦歴史民俗資料館は、広島県福山市鞆町後地に建つ市立の博物館で、「潮待ちの館」の愛称で親しまれる。1977年(昭和52年)からの地元有志による調査・収集活動を背景に、福山市制70周年記念事業として1988年(昭和63年)に開館した。立地は、福島正則が築いたとされる鞆城跡(福山市指定史跡)の高台で、瀬戸内海を見渡せる。万葉の時代から潮待ち・風待ちの港として栄えた鞆の浦を中心に、古代から近世にいたる歴史資料を展示。鯛網漁のジオラマや錨を製造した鍛冶場、朝鮮通信使関連資料、保命酒に関する資料に加え、お手火神事・お弓神事といった地域の民俗文化財も常設展示する。鞆の歴史と暮らしを総合的に学べる拠点とされる。
| 🕰 時代 | 近代(昭和) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 1988年(昭和63年)開館。福山市制70周年記念事業として建設。建つ鞆城跡は福島正則が築いたとされる(福山市指定史跡) |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町後地536-1 |
鞆の浦
瀬戸内の「潮待ちの港」。常夜燈・雁木・波止場・焚場・船番所の港湾施設が一体で残る全国的にも貴重な町並み。
| 🕰 時代 | 中世〜近世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 古代〜 |
| 👤 関連 | 朝鮮通信使・足利義昭・坂本龍馬 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町 |
福禅寺 対潮楼
朝鮮通信使の使節が「日東第一形勝」と讃えた客殿からの眺め。仙酔島を望む座敷が名高い。
| 🕰 時代 | 近世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 客殿は元禄年間 |
| 👤 関連 | 朝鮮通信使 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町2 |
太田家住宅
鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で、国の重要文化財 鞆の浦を代表する歴史的建造物で、薬用酒「保命酒」の醸造で財を成した商家の旧宅。もとは大坂の漢方医を出自とする中村家の屋敷で、明暦元年(1655年)に鞆へ移り住み、まもなく十六味地黄保命酒の製造・販売を始めて大ヒットし、福山藩の御用名酒屋として販売独占権を得たとされる。明治期に廻船業を営んだ太田家が継承し、現在の名で呼ばれる。主屋を中心に保命酒蔵や各種土蔵など九棟が建ち並び、建築年代は18世紀中期から19世紀前期に及ぶ。瀬戸内の商家建築を伝える貴重な遺構として、1991年に国の重要文化財に指定された。幕末には三条実美ら尊王攘夷派の公卿が立ち寄ったと伝わり、別宅の朝宗亭とともに「鞆七卿落遺跡」として広島県の史跡(1940年指定)にもなっている。
| 🕰 時代 | 江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 主屋は18世紀中期、ほか北保命酒蔵が天明8年(1788年)、西蔵が寛政元年(1789年)、東保命酒蔵が寛政7年(1795年)など18世紀中期〜19世紀前期。国の重要文化財指定は1991年(平成3年)5月31日。 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町鞆842 |
いろは丸展示館
坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵を活かした資料館 鞆の浦のシンボル常夜灯(とうろどう)のすぐそばに建つ資料館。1867年(慶応3年)、坂本龍馬と海援隊が運航したいろは丸が紀州藩の明光丸と備後灘で衝突・沈没した「いろは丸事件」を伝える施設で、その談判が鞆の浦で行われた縁にちなむ。建物は江戸期に建てられた太い梁が印象的な土蔵で、地元では「大蔵」と呼ばれ、国の登録有形文化財とされる。館内には海底に沈むいろは丸を再現したジオラマ、引き揚げられた陶器や部品、調査風景の写真などを展示し、2階には龍馬が宿泊先で身を潜めたという「隠れ部屋」が再現され、龍馬の蝋人形も置かれている。1989年(平成元年)7月の開館。幕末史と鞆の港町文化を同時に味わえるスポットである。
| 🕰 時代 | 近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 1989年(平成元年)7月開館。建物は江戸期築の土蔵「大蔵(浜蔵)」で、国の登録有形文化財とされる。展示題材のいろは丸事件は1867年(慶応3年) |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町鞆843-1 |
仙酔島
鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連なる瀬戸内海国立公園の名勝 仙酔島は鞆の浦の沖合に浮かぶ周囲約6キロの島で、住所は福山市鞆町後地。鞆港から市営渡船で約5分の距離にあり、観光客の往来はあるが定住者のいない無人島とされる。1925年(大正14年)に国の名勝「鞆公園」の一部として指定され、1934年(昭和9年)には日本で最初に指定された国立公園・瀬戸内海国立公園に含まれた。島は約9000万年前の大規模な火山活動による溶結凝灰岩を主体とし、南側海岸には青・赤・黄・白・黒の岩が200メートル以上連なる「五色岩」が見られ、地質的に貴重とされる。「仙人が酔うほど美しい島」が名の由来と言われる。江戸後期の学者・頼山陽が当地の景観を「山紫水明」と評したとも伝わる。
| 🕰 時代 | 古代(地質)/近代(指定) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 1925年(大正14年)国名勝「鞆公園」に指定。1934年(昭和9年)日本初の国立公園・瀬戸内海国立公園に編入。島自体は約9000万年前の火山活動で形成されたとされる |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町後地 |
廉塾(菅茶山旧宅)
儒学者・菅茶山が開いた私塾。当時の塾舎・住宅が残り、国の特別史跡に指定されている。
| 🕰 時代 | 近世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 18世紀末 |
| 👤 関連 | 菅茶山 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市神辺町川北640 |
神辺城跡
備後南部の中世山城。福山城が築かれる以前、備後支配の拠点だった。
| 🕰 時代 | 中世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 南北朝期 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市神辺町 |
福山八幡宮
福山城の北に鎮座し、東西二つの宮を備える。歴代藩主の崇敬を集めた。
| 🕰 時代 | 近世 |
|---|---|
| 👤 関連 | 水野家 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市北吉津町1-2-16 |
沼名前神社
鞆の「祇園さん」。夏の大松明を担ぐ「お手火神事」で知られる古社。
| 🕰 時代 | 近世 |
|---|---|
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町後地 |
阿伏兎観音(磐台寺観音堂)
断崖の上に建つ朱塗りの観音堂。国の重要文化財。古来、海上安全と子授け・安産の祈願で知られる。
| 🕰 時代 | 近世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 16世紀末 |
| 👤 関連 | 毛利輝元 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市沼隈町能登原 |
吉備津神社(備後一宮)
備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で「いっきゅうさん」と親しまれる古社 福山市新市町宮内に鎮座する備後国一宮で、地元では「一宮さん(いっきゅうさん)」と親しまれる。社伝では大同元年(806年)に吉備国の吉備津神社から勧請し創建されたと伝わるが、延喜式神名帳に記載がないことなどから実際の成立はより後とする説もある。主祭神は吉備国を治めたとされる大吉備津彦命。現在の本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が旧規模にならい造営したもので、桁行七間・梁間四間の入母屋造檜皮葺、国の重要文化財に指定されている。ほかにも木造狛犬や太刀などが重要文化財として伝えられ、複数の建造物が広島県・福山市指定文化財となっている。隣接する櫻山城跡なども史跡として知られ、備後の信仰と歴史を今に伝える。
| 🕰 時代 | 江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が造営、国の重要文化財。創建は大同元年(806年)と伝わるが諸説ある |
| 📍 所在地 | 広島県福山市新市町宮内400 |
素盞嗚神社(備後一宮)
祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏のけんか神輿で名高い古社 福山市新市町戸手に鎮座する素盞嗚神社は、『延喜式神名帳』に載る式内社で備後国一宮を称し、旧社格は県社です。主祭神は素盞嗚尊で、稲田姫命・八王子を配祀します。社伝では天武天皇の治世、7世紀ごろ(679年か)の創建とされます。『釈日本紀』所収の「備後国風土記」逸文に伝わる蘇民将来説話の舞台「疫隈国社」と結びつけられ、茅の輪くぐりや祇園信仰・祇園祭発祥の地の一つとされています。神仏習合期には牛頭天王を祀り、遣唐使・吉備真備が734年に当社から播磨の広峯神社へ勧請したとも伝わります。毎年7月の例祭では、勇壮なけんか神輿(神輿合わせ)が行われることで知られます。
| 🕰 時代 | 飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 社伝では天武天皇期の7世紀ごろ(679年か)創建とされる。『延喜式神名帳』記載の式内社で、旧県社 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市新市町大字戸手1-1 |
北前船とは何か――海の大動脈の正体

北前船とは、江戸時代の中ごろ(おおむね18世紀中ごろ)から明治30年代にかけて、大坂(おおさか/現在の大阪)と北海道を、日本海回りの西回り航路で往復した商船群の総称とされています。単に荷物を預かって運ぶ運送業ではなく、寄港地ごとに自分の船に積んだ商品を売り、その港の特産品を買い入れて次の港で売る、という「買い積み」を繰り返したのが大きな特徴です。船そのものが移動する商店であり、船主は航海のたびに大きな利益を上げることができました。
北前船が往来した西回り航路は、東北や蝦夷地(えぞち/現在の北海道)で米や水産物を積み込み、瀬戸内海を経て大坂へ運ぶ一方、瀬戸内や西日本の特産物を北国へ運ぶという、双方向の交易を成り立たせていました。北からは身欠きにしんや昆布、数の子、にしん粕(かす)といった肥料・食料が、南からは塩や酒、木綿、瀬戸内の物産がやり取りされ、列島の南北をひとつの経済圏に結びつけていったのです。
北前船の最盛期は明治10年(1877年)ごろとされ、船主たちは「一航海で千両」とも語られるほどの富を築いたと伝わります。福山の鞆の浦や松永は、この大動脈の通り道であると同時に、瀬戸内側で塩などの商品を供給する側でもありました。北前船を理解することは、福山の海がなぜこれほど栄えたのかを理解する第一歩になります。
廻船問屋という存在
廻船問屋とは、港に拠点を構え、入港する船と荷主・買い手を仲立ちし、荷の保管や売買、宿の手配などを担った商人・商家を指します。北前船の寄港地には廻船問屋や商家、白壁の蔵などの大規模な建物が立ち並び、海運がもたらす巨万の富によって町全体が潤いました。鞆の浦にも、廻船問屋の面影を伝える商家や蔵がいまに残されており、当時のにぎわいをしのぶことができます。
廻船問屋は単なる仲介業者ではなく、その港の物流と金融を握る存在でもありました。荷の取引には信用と情報が欠かせず、相場の動きをいち早くつかんだ者が利益を得ました。北前船の商売が「情報の商売」でもあったといわれるのは、こうした事情によります。後年、電信や鉄道の発達によって情報や物資の独占が崩れていったことが、北前船と廻船問屋の衰退につながっていきます。
なぜ鞆の浦が「潮待ちの港」になったのか
鞆の浦が海運の要衝となった最大の理由は、瀬戸内海における地理的な位置にあります。瀬戸内海では、東の紀伊水道方面と西の豊予海峡(ほうよかいきょう)方面から潮が満ち引きのたびに流れ込み、ちょうど鞆の浦の沖あたりで東西の潮がぶつかり合うとされています。帆と潮の力で進む木造帆船は、潮の流れが反転するのを待って次の航路へ漕ぎ出す必要がありました。この「潮を待つ」ための港として、鞆の浦は古くから重要な役割を果たしてきたのです。
こうした「潮待ち」「風待ち」の機能は、エンジンを持たない時代の航海にとって決定的な意味を持ちました。船が安心して停泊でき、潮や風が整うまで休める港があってこそ、長距離の海運は成り立ちました。鞆の浦は瀬戸内海のほぼ中央に位置することから、東西どちらへ向かう船にとっても自然な待避地となり、多くの船が集まる港町へと発展していきました。
潮待ちの港としての鞆の浦には、北前船のような遠距離を行き来する廻船だけでなく、瀬戸内を行き交うさまざまな船が立ち寄りました。船が集まれば人が集まり、人が集まれば物と銭(ぜに)が動きます。港の周辺には宿や酒屋、廻船問屋が立ち並び、独特の港町文化が花開いていきました。
日本で唯一――五つの港湾施設がそろう町
鞆の浦は、江戸時代から明治期にかけての港湾施設が、ほぼ完全な形でまとまって残る国内随一の港町として知られます。具体的には、夜の航行を導く「常夜燈(じょうやとう)」、潮の干満に応じて荷の上げ下ろしをする石段「雁木(がんぎ)」、波を防ぐ「波止(はと/波止場)」、船底を焼いて手入れする「焚場(たでば)」、船の出入りを監視する「船番所(ふなばんしょ)」という五つの港湾施設を指します。これら五つがそろって現存する港は、全国でも鞆の浦だけとされています。
これらの施設は、帆船時代の海運がどのように運営されていたかを今に伝える、いわば「生きた港湾博物館」です。観光地として有名な鞆の浦の景観は、単に美しいだけでなく、近世の物流を支えた技術と工夫の結晶でもあります。次の章では、五つの施設を一つずつ詳しく見ていきましょう。
鞆の浦に残る江戸の港湾施設をたどる

鞆の浦の港湾施設は、それぞれが帆船時代の海運に欠かせない役割を担っていました。ここでは、現存する代表的な施設を順に紹介します。建造年や寸法には資料によって幅がある場合があるため、現地の説明板や公式情報もあわせてご確認ください。
常夜燈――鞆のシンボル
港のシンボルとして親しまれている常夜燈は、安政6年(1859年)に建てられたと伝わる石造の灯台です。海中の基礎部分を含めると高さは10メートル前後にもなり、江戸時代の常夜燈としては国内最大級とされています。竿(さお)の正面には航海安全の神である「金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)」の文字が刻まれており、夜の海を行く船に灯りを示すと同時に、人々の信仰の対象でもありました。今日でも夕暮れの常夜燈は鞆の浦を代表する風景として、多くの人に愛されています。
雁木――潮の干満に応える石段
雁木とは、海に向かって階段状に積まれた石段のことで、瀬戸内海特有の大きな干満差に対応するための工夫です。瀬戸内海では潮の満ち引きによって海面が数メートル単位で上下するため、どの潮位でも船を着けて荷の上げ下ろしができるよう、石段を幾段にも重ねて造られました。鞆の浦の雁木は、扇状に広がる形で総延長およそ150メートルにわたって続いていたとされ、港のにぎわいを支えた重要な施設です。荷役にあたる人々が潮を見ながら石段を上り下りする光景は、近世の港の日常そのものでした。
波止――港を守る防波堤
波止(波止場)は、外海からの波をさえぎって港内を静穏に保つための防波堤です。鞆の浦の波止は寛政3年(1791年)ごろに築かれ、その後たびたび延長や修築が重ねられて、明治期にかけて整備が続けられたと伝わります。石を積み上げて造られた波止は、停泊する船を波から守るとともに、港全体の輪郭をかたちづくる景観要素にもなりました。長い年月をかけて少しずつ延ばされていった波止のあり方は、港町が時代とともに発展していった歩みそのものを映しています。
焚場――木造船を手入れする場所
焚場(たでば)は、木造船の船底に付着したフジツボや海藻などを焼き払い、船を手入れするための施設です。木造帆船は長く航海を続けると船底に生物が付着し、速度が落ちたり傷んだりするため、定期的に船底を焼いて掃除する必要がありました。鞆の浦の焚場は、広い海底にわたって石を敷き詰めて造られていたとされます。船の修繕・整備ができる港であったことは、後述するいろは丸事件で鞆の浦が選ばれた理由のひとつともいわれています。
船番所――港を見張る目
船番所は、港に出入りする船を監視し、海難の発見などにあたった施設です。江戸時代、藩は港の出入りを管理する必要があり、見晴らしのよい高台などに番所が置かれました。鞆の浦の船番所は、海を一望できる位置にあり、行き交う船の動きを見守る「港の目」として機能しました。建物そのものは後世に建て替えられているとされますが、往時の石垣などが残り、港湾管理の歴史を伝えています。
朝鮮通信使と対潮楼――海運がもたらした国際交流
鞆の浦は、国内の海運の要衝であっただけでなく、国際的な交流の舞台にもなりました。江戸時代、朝鮮王朝から日本へ派遣された外交使節「朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)」は、瀬戸内海を通って江戸へ向かう途中、鞆の浦に立ち寄りました。彼らをもてなす施設として知られるのが、福禅寺(ふくぜんじ)の客殿「対潮楼(たいちょうろう)」です。
対潮楼は元禄年間、おおむね1690年ごろに福禅寺の客殿として建てられたとされ、朝鮮通信使の応接の場として用いられました。座敷からは瀬戸内海の島々が額縁のように見渡せ、その絶景は使節たちを深く感動させたと伝わります。正徳元年(1711年)に来日した通信使の李邦彦(イ・バンオン)は、対潮楼からの眺めを「日東第一形勝(にっとうだいいちけいしょう)」、すなわち日本一の景勝地と讃えたと伝えられています。
海運の要衝であったからこそ、鞆の浦には外交使節も立ち寄り、文化のやり取りが生まれました。対潮楼に残る扁額(へんがく)や交流の記録は、海の道がつないだ国際交流の証として、いまも大切に守られています。港町の歴史は、物資の流通だけでなく、人と人、文化と文化の出会いの歴史でもあったのです。
坂本龍馬といろは丸事件――港町が見た幕末

鞆の浦の海運史を語るうえで欠かせないのが、幕末に起きた「いろは丸事件」です。慶応3年(1867年)、坂本龍馬(さかもとりょうま)率いる海援隊(かいえんたい)が大洲藩(おおずはん)から借り受けた蒸気船「いろは丸」は、長崎から大坂へ向かう途中、笠岡諸島の六島(むしま)付近で紀州藩(きしゅうはん)の軍艦「明光丸(めいこうまる)」と衝突しました。いろは丸は大破し、修理施設のある鞆の浦へ曳航される途中で沈没したと伝わります。
衝突後、龍馬や海援隊の隊士たちは明光丸に乗り移って鞆の浦に上陸し、廻船問屋の桝屋清右衛門(ますやせいえもん)宅や対潮楼に滞在しながら、紀州藩との賠償交渉にあたったとされます。龍馬は当時の国際的なルールである「万国公法(ばんこくこうほう)」を持ち出して紀州藩の責任を追及し、事故から約一か月後、紀州藩が多額の賠償金を支払うことで決着したと伝えられています。賠償額については資料により数字が示されていますが、いずれにせよ当時としては破格の金額でした。
いろは丸事件は、近代的な海運や国際法の考え方が日本に入りはじめた幕末の世相を象徴する出来事として知られています。そして、修理施設を備えた海運の港であった鞆の浦だからこそ、この歴史的事件の舞台となったともいえます。海運の町としての鞆の浦の機能が、幕末史の一場面と深く結びついているのです。
保命酒――海運の港が生んだ銘酒
鞆の浦を代表する特産品といえば、薬味酒「保命酒(ほうめいしゅ)」です。保命酒は万治2年(1659年)、大坂の漢方医・薬種商の家に生まれた中村吉兵衛(なかむらきちべえ)が、地元のみりんのような甘い酒に十数種の生薬(しょうやく)を漬け込んで造ったのが始まりと伝わります。もち米やうるち米、米麹、焼酎などに、十三種ほどの漢方薬種を組み合わせた、いわば養命を願う薬用酒でした。
保命酒が鞆の浦で生まれ、広く知られるようになった背景には、海運の港であったことが大きく関わっています。多くの船が出入りし、人と物が行き交う港町であったからこそ、薬種を取り寄せ、できあがった酒を各地へ送り出すことができました。船で運ばれた保命酒は、やがて諸国に知られる鞆の名産となっていきました。海運がもたらしたつながりが、ひとつの銘酒を全国区へと押し上げたのです。
保命酒は現在も鞆の浦で造り続けられており、町を歩けば老舗の酒屋が軒を連ねています。江戸時代から続く製法を受け継ぐ蔵では、いまも昔ながらの薬味酒の風味を味わうことができます。港町の歴史と暮らしのなかから生まれた保命酒は、鞆の浦を訪れる楽しみのひとつとなっています。
松永塩田の開発――もう一つの海運拠点
福山の海運を語るうえで、鞆の浦と並んで欠かせないのが松永です。松永湾は、かつて「袋の海(ふくろのうみ)」と呼ばれた遠浅の海が深く入り込む地形で、塩田の開発に適していました。江戸時代に入り、この地形に目をつけた福山藩によって、湾の沿岸に大規模な塩田が築かれていきました。松永が瀬戸内海運の一翼を担うことになる、その出発点が塩田の開発でした。
松永塩田の開発は、福山藩3代藩主・水野勝貞(みずのかつさだ)の時代に進められました。製塩の先進地であった赤穂(あこう)で塩田の技術を学んだとされる本荘重政(ほんじょうしげまさ)が中心となり、万治3年(1660年)に藩の事業として築造に着手したと伝わります。塩田づくりには、当時の先進地であった竹原(たけはら)の出身者が多く従事し、重政のもとで塩田を完成へ導いた笠井小四郎宗清(かさいこしろうむねきよ)もその一人でした。そして寛文7年(1667年)ごろには、48にのぼる塩田が松永に完成したといわれています。
福山藩は塩の品質管理にも力を入れ、浜役所(はまやくしょ)を設けて粗製乱造を防ぎました。品質が安定したことで「松永塩」の評価は高まり、北前船の西回り航路の整備とあいまって、その販路は全国へと広がっていきました。松永の塩は瀬戸内海運に乗って各地へ運ばれ、松永は塩の積み出し港として繁栄したのです。塩田は1960年(昭和35年)の国策による一斉廃止まで、およそ300年にわたって松永の基幹産業として続いたとされています。
塩が結んだ南北の交易
塩は、人の暮らしに欠かせない必需品であると同時に、保存性が高く運搬に向いた優れた交易品でもありました。松永で生産された塩は、北前船をはじめとする廻船によって瀬戸内から各地へと運ばれ、北国では身欠きにしんや昆布といった産物と交換されていきました。塩を介した交易は、福山の海と遠い北国の海とを、一本の航路で結びつけていたのです。
松永が単なる製塩地にとどまらず「海運拠点」と呼べる存在になったのは、こうした塩の流通があったからです。塩をつくり、船に積み、各地へ送り出す――その一連の流れのなかで、松永にも廻船にまつわる商いと人の往来が生まれました。鞆の浦が潮待ちの中継港として栄えたのに対し、松永は商品を供給する生産・積み出しの拠点として、瀬戸内海運の一角を担っていたといえます。
塩から下駄へ――松永が生んだ意外な転身
松永の歴史でとりわけ興味深いのが、製塩業から下駄づくりへの転身です。明治11年(1878年)ごろ、下駄の小売商であった丸山茂助(まるやましげすけ)が、塩田で塩を焚くための燃料として大量に運び込まれる「アブラギリ(油桐)」の性質が、下駄の材料である桐に似ていることに着目し、下駄の製造を始めたのが松永下駄の起こりと伝わります。塩づくりの燃料から、新たな産業が芽生えたのです。
丸山茂助の工夫は、海運と密接に結びついていました。塩を運ぶ船の帰り荷が空になることに目をつけ、山陰地方の雑木であるアブラギリを安く仕入れて松永へ運び、入り江に筏(いかだ)を組んで貯木し、必要な分だけ製材して桐下駄に仕立てたといわれます。船の往来を巧みに利用して原料を確保した発想は、まさに海運の町ならではのものでした。塩田と廻船という土台があったからこそ、下駄産業が成り立ったともいえます。
松永下駄は、その後の福山を代表する地場産業へと成長していきました。生産は昭和期に大きく伸び、昭和30年(1955年)ごろのピーク時には年間およそ5,600万足を生産し、全国一の下駄産地となったと伝わります。海運がもたらした塩づくりが、燃料を通じて下駄づくりを生み、それが全国一の産地を築いた――松永の歴史は、海と産業のつながりの妙を物語っています。
北前船の衰退――海運の時代の終わり
列島の南北を結び、福山の海を潤した北前船も、明治期に入ると次第にその役割を終えていきます。北前船が栄えた理由のひとつは、各地の相場の違いを利用して利益を上げる「買い積み」にありました。しかし明治20年代ごろ、電信(電報)や郵便といった通信手段が発達すると、価格の情報をいち早くつかむことが北前船商人だけの特権ではなくなっていきます。相場が平準化し、地域ごとの価格差が縮まると、買い積みで稼ぐ仕組みそのものが成り立ちにくくなりました。
さらに、青森と東京を結ぶ鉄道の開通や、大量の貨物を安全に運べる蒸気船の普及によって、帆船である北前船は輸送手段としての優位を失っていきました。加えて、北海道でのにしんの不漁や人造肥料の発達によって、北前船の主要な積み荷であったにしん粕などの需要が大きく減ったことも、衰退に拍車をかけたとされます。これらの要因が重なり、北前船は明治30年代までにその歴史に幕を下ろしていきました。
北前船の時代が終わると、潮待ちの港としての鞆の浦の役割も、かつてのような繁栄からは変わっていきました。しかし、エンジンを持たない帆船の時代に栄えたからこそ、鞆の浦には埋め立てや近代化の波を免れた港湾施設や町並みが残ることになりました。皮肉にも、海運の時代の終わりが、近世の港の姿を今に伝える結果につながったともいえるのです。
廻船問屋が支えた港町の暮らし
北前船や廻船が出入りした鞆の浦・松永の港町では、海運を中心にした独特の暮らしが営まれていました。船が入港すれば、廻船問屋を中心に荷役の人足が集まり、雁木の石段を荷を担いで上り下りする活気にあふれました。荷の積み下ろしだけでなく、船員の宿や食事、酒、船の修繕、水や薪の補給といった、船にまつわるあらゆる需要が港町には生まれます。こうした需要を満たすために、宿屋や酒屋、船具を扱う店、職人の工房などが立ち並び、港の周囲はにぎやかな町を形づくっていきました。
港町の経済は、入港する船の数と荷の量に大きく左右されました。豊漁の年や相場のよい年には町全体がうるおい、逆に海が荒れて船の往来が滞れば、商いも静まりました。海とともに生きる港町の暮らしは、自然の力と切り離せないものだったのです。それでも、潮待ち・風待ちの港として確実に船が立ち寄る鞆の浦は、比較的安定したにぎわいを保つことができたと考えられます。
信仰と海運――金毘羅信仰
海運に生きる人々にとって、航海の安全はなによりの願いでした。エンジンを持たない木造帆船での航海は、つねに海難と隣り合わせであり、人々は神仏に祈ることで心の支えとしました。鞆の浦の常夜燈の竿に「金毘羅大権現」の文字が刻まれているのは、その象徴です。金毘羅(こんぴら)は海上交通の守り神として広く信仰され、船乗りや廻船問屋は航海の無事を祈って金毘羅に参詣しました。
常夜燈は実用的な灯台であると同時に、こうした航海安全の祈りを込めた信仰のよりどころでもありました。夜の海に灯る明かりは、帰りを待つ家族の思いと、無事を願う祈りの両方を映していたといえるでしょう。港町に残る寺社や石灯籠、奉納物の数々は、海とともに生きた人々の信仰の厚さを今に伝えています。
町並みに刻まれた繁栄の跡
鞆の浦の町を歩くと、白壁となまこ壁の蔵、格子戸の商家、細く入り組んだ路地など、近世の港町の姿が色濃く残っていることに気づきます。これらは、廻船問屋や商家が富を蓄えた時代に建てられたものが多く、海運がもたらした繁栄の跡そのものです。狭い路地が入り組んでいるのは、限られた港の周囲に町がぎっしりと密集して発達したためであり、それだけ多くの人と商いが集まっていたことを物語っています。
近代以降、多くの港町が埋め立てや再開発によって往時の姿を失っていくなかで、鞆の浦が江戸期の町並みと港湾施設をこれほどまとまった形で残せたことは、きわめて貴重です。歩くだけで歴史を体感できる町並みは、福山が誇るかけがえのない文化遺産といえるでしょう。
瀬戸内海運における鞆と松永の役割の違い
同じ福山の海でも、鞆の浦と松永が果たした役割には違いがありました。鞆の浦は、瀬戸内海の中央に位置する地の利を生かした「中継・待避の港」でした。潮待ち・風待ちのために多くの船が立ち寄り、その船を相手に廻船問屋や宿、酒屋がにぎわう――いわば、行き交う船の流れそのものから利益を生み出す港だったといえます。船の往来が多ければ多いほど、町は栄えました。
一方の松永は、塩という具体的な商品を生み出し、それを各地へ送り出す「生産・積み出しの港」でした。広大な塩田で塩を生産し、北前船の航路に乗せて販路を全国へ広げる――その流れの起点が松永でした。鞆の浦が「通り道」の利を生かしたのに対し、松永は「特産品」の力で海運の一角を担ったといえます。この二つの異なる役割が、福山の海運を豊かなものにしていました。
興味深いのは、どちらの港も、海運という共通の基盤の上で独自の産業を育てたことです。鞆の浦では薬味酒の保命酒が、松永では塩から下駄が生まれました。船の往来があったからこそ原料が手に入り、製品を各地へ送り出すことができたのです。海運は、単に物を運ぶだけでなく、地域に新しい産業を芽吹かせる土壌でもありました。福山の海の歴史をたどると、海運と地場産業が密接に結びついて発展してきたことがよく分かります。
塩づくりの技術と松永の風土
松永の塩田で行われていたのは、「入浜式塩田(いりはましきえんでん)」と呼ばれる製塩法だと考えられています。これは、潮の干満を利用して海水を塩田に引き込み、砂の上で太陽と風の力によって水分を蒸発させて濃い塩水(かん水)をつくり、それを釜で煮詰めて塩を取り出す方法です。遠浅で干満差の大きい瀬戸内海の地形は、この入浜式塩田にきわめて適していました。松永湾が「袋の海」と呼ばれた遠浅の地形であったことが、塩田開発の決め手になったのです。
塩を煮詰める工程では、大量の燃料が必要でした。釜で長時間かん水を煮続けるため、薪などの燃料が休みなく運び込まれます。この燃料需要こそが、後に松永下駄を生むきっかけとなりました。塩づくりという基幹産業があったからこそ、その副産物として下駄づくりが芽生えたという流れは、地域の産業がいかに連鎖して発展していくかを示す好例です。
製塩には、自然の力を読み、潮や天候に合わせて作業を進める高度な経験と技術が求められました。塩田の先進地であった竹原や赤穂から技術がもたらされたことで、松永の塩づくりは確かなものとなり、浜役所による品質管理ともあいまって、全国に通用する「松永塩」のブランドを築き上げました。海と土地と人の技が結びついて、松永の製塩は約300年にわたる長い歴史を刻んだのです。
海運が育てた福山の地場産業
瀬戸内海運がもたらした恩恵は、保命酒や松永下駄にとどまりません。福山の地には、海の道を通じて原料や技術、情報が運び込まれ、さまざまな地場産業が育っていきました。船で各地とつながっていたことが、福山にものづくりの素地を与えたといえます。塩、酒、はきものといった産品は、いずれも海運の流れのなかで育まれ、各地へと送り出されていきました。
福山を代表する伝統産業のひとつである備後絣(びんごがすり)も、こうした地域経済の厚みのなかで発展した織物として知られています。海運によって人と物が行き交い、商いが盛んだった福山には、ものづくりを支える経済的な土台と販路がありました。地場産業の発展を、海運という視点から見直してみると、福山の産業史がひとつの大きな流れとしてつながって見えてきます。
近代に入り、福山は鉄のまちとしても大きく発展していきますが、その下地には、古くから海とともに栄えてきた港町・産業都市としての歴史があります。海運の時代に培われた「外とつながり、ものをつくり、送り出す」という土壌が、形を変えながら近代以降の産業へと受け継がれていったと考えることもできるでしょう。福山の海の歴史は、過去の物語であると同時に、現在の福山を理解する手がかりでもあるのです。
現在に受け継がれるもの
北前船と廻船問屋が担った瀬戸内海運の記憶は、いまも福山のさまざまな場所に息づいています。鞆の浦では、常夜燈や雁木、波止といった江戸時代の港湾施設が現役の景観として残り、五つの施設がそろう国内随一の近世港町として高く評価されています。白壁の商家や蔵が立ち並ぶ町並みは、廻船問屋でにぎわった時代の面影をとどめ、多くの観光客を迎えています。
特産品の保命酒は、海運の港が生んだ銘酒として今も鞆の浦で造り続けられ、町歩きの楽しみのひとつとなっています。松永では、塩田はその役目を終えましたが、塩づくりから生まれた下駄産業が地場産業として受け継がれ、はきものの歴史や文化を伝える施設も整えられています。海がもたらした繁栄は、形を変えながら今日の福山の暮らしと産業のなかに生き続けているのです。
こうした史跡や産業は、単なる過去の遺物ではなく、福山がどのように海とともに歩んできたかを物語る、かけがえのない財産です。次の世代へとこの記憶を引き継いでいくために、史跡を訪ね、その背景にある歴史を知ることには大きな意味があります。海運の町・福山の物語は、いまを生きる私たちにも多くのことを教えてくれます。
瀬戸内海運の歩み・関連年表
北前船と廻船問屋を軸に、鞆の浦・松永の海運にまつわるおもなできごとを年表にまとめます。年代や経緯には諸説ある事項を含むため、目安としてご覧ください。
楽しみ方・関連スポットと内部リンク
北前船と廻船問屋の歴史をたどる旅は、鞆の浦の港町を歩くことから始めるのがおすすめです。常夜燈の前に立ち、雁木の石段を眺め、白壁の商家や蔵が連なる細い路地を歩けば、廻船問屋でにぎわった往時の空気を感じることができます。福禅寺・対潮楼に上がって瀬戸内海の眺めを楽しめば、朝鮮通信使がなぜこの景色を讃えたのか、その理由を実感できるはずです。
あわせて、保命酒の老舗をのぞき、いろは丸事件にまつわる資料に触れれば、海運の港・鞆の浦の歴史を立体的に味わえます。松永方面へ足を延ばせば、塩づくりと下駄づくりの歴史を伝える施設があり、海がもたらした産業の歩みを知ることができます。海運の歴史を軸に、鞆と松永を結んで巡る旅は、福山ならではの奥深い体験になるでしょう。
福山の歴史をより広い視点で知りたい方は、福山の歴史 完全ガイド(通史)をあわせてご覧ください。鞆の浦の町歩きを深めたい方には鞆の浦の街並みガイドが役立ちます。福山藩の成り立ちについては水野勝成と福山城ガイドを、松永の下駄産業については松永の下駄の記事もご参照ください。
瀬戸内海運がつないだ広い世界
北前船が行き交った瀬戸内海運は、福山という一地域の枠を大きく超えて、日本列島全体を結ぶネットワークの一部でした。鞆の浦や松永に立ち寄った船は、遠く蝦夷地から運ばれた昆布やにしんを積み、また西日本の塩や酒を北国へと運んでいきました。福山の港は、その壮大な物流の鎖をつなぐ大切な環(わ)のひとつだったのです。一杯の汁物に使われる昆布や、各地の郷土料理に欠かせない塩が、こうした海の道を通じて全国に広まっていったと考えると、海運が日本の食文化や生活文化に与えた影響の大きさがうかがえます。
北前船は物資だけでなく、文化や情報も運びました。寄港地どうしで言葉や歌、技術、流行が伝わり、各地の文化が互いに影響を与え合いました。鞆の浦に朝鮮通信使が立ち寄ったように、港は異なる文化が出会う場でもありました。海運の歴史を学ぶことは、福山が決して閉じた地域ではなく、海を通じて広い世界とつながってきたことを知ることでもあります。潮の流れに乗って運ばれたのは、物だけでなく、人の営みそのものだったのです。
歴史をたどるうえで大切にしたいこと
北前船や廻船問屋の歴史には、長い年月のなかで伝承や言い伝えが重なり、年代や経緯について諸説ある事項も少なくありません。本記事では、福山市や公的機関の公開情報、信頼できる資料をもとに、できるだけ正確な事実に基づいて記述するよう努めましたが、細部については現地の説明や郷土資料によって異なる場合があります。歴史を楽しむうえでは、断定しすぎず、「諸説あるなかのひとつ」として受けとめる姿勢が大切です。
そのうえで、実際に鞆の浦や松永を訪ね、自分の目で常夜燈や雁木、塩田跡を見て、その背景にある歴史を思い描くことは、何にも代えがたい体験になります。資料で読んだ知識が、現地の空気や景色と結びついたとき、歴史はぐっと身近なものになります。福山の海がたどってきた長い物語を、ぜひご自身の足で確かめてみてください。海の道が運んできた繁栄と文化の記憶は、いまも町のあちこちで私たちの訪れを待っています。常夜燈の灯りや潮の香り、塩田の跡に立つときに感じる風のなかには、何百年も前に同じ海を見つめた人々の思いが、たしかに溶け込んでいるはずです。
よくある質問(FAQ)
Q北前船とはどのような船ですか?
北前船とは、江戸時代の中ごろから明治30年代にかけて、大坂と北海道を日本海回りの西回り航路で往復した商船群の総称とされています。寄港地ごとに商品を売り買いする「買い積み」を行い、船そのものが移動する商店のような役割を果たした点が大きな特徴です。
Q廻船問屋とは何をする商人ですか?
廻船問屋は、港に拠点を構え、入港する船と荷主・買い手を仲立ちし、荷の保管や売買、宿の手配などを担った商人・商家です。港の物流と金融を握る重要な存在で、鞆の浦にもその面影を伝える商家や蔵が残されています。
Qなぜ鞆の浦は栄えたのですか?
鞆の浦が瀬戸内海のほぼ中央に位置し、東西の潮がぶつかり合う「潮待ちの港」だったことが大きな理由とされています。帆と潮で進む木造帆船は潮の反転を待つ必要があり、安心して停泊できる鞆の浦に多くの船が集まりました。
Q鞆の浦に残る五つの港湾施設とは何ですか?
常夜燈・雁木・波止・焚場・船番所の五つを指します。これら江戸時代から明治期の港湾施設がそろって現存する港は全国でも鞆の浦だけとされ、国内随一の近世港町として知られています。
Q常夜燈はいつ建てられたのですか?
鞆の浦の常夜燈は安政6年(1859年)に建てられたと伝わります。海中の基礎を含めると高さは10メートル前後で、江戸時代の常夜燈としては国内最大級とされ、竿の正面には「金毘羅大権現」の文字が刻まれています。
Q雁木はなぜ必要だったのですか?
瀬戸内海では潮の干満で海面が数メートル単位で上下するため、どの潮位でも船を着けて荷の上げ下ろしができるよう、階段状の石段である雁木が造られました。鞆の浦の雁木は総延長およそ150メートルに及んでいたとされます。
Q朝鮮通信使は鞆の浦に立ち寄ったのですか?
はい。江戸時代、朝鮮王朝の外交使節である朝鮮通信使は瀬戸内海を通って江戸へ向かう途中、鞆の浦に立ち寄り、福禅寺の客殿「対潮楼」で応接を受けました。正徳元年(1711年)には李邦彦が眺めを「日東第一形勝」と讃えたと伝わります。
Qいろは丸事件とはどんな出来事ですか?
慶応3年(1867年)、坂本龍馬率いる海援隊が運航していた蒸気船「いろは丸」が、紀州藩の軍艦「明光丸」と衝突し沈没した事件です。龍馬らは鞆の浦に滞在して賠償交渉を行い、万国公法を持ち出して紀州藩の責任を追及したと伝えられています。
Q保命酒とはどんなお酒ですか?
保命酒は、万治2年(1659年)に中村吉兵衛が鞆の浦で造り始めたと伝わる薬味酒です。みりんのような甘い酒に十数種の生薬を漬け込んだもので、海運の港であった鞆の浦から各地へ運ばれ、諸国に知られる名産となりました。
Q松永の塩田はいつ造られたのですか?
福山藩3代藩主・水野勝貞の時代、本荘重政らが中心となり、万治3年(1660年)に松永湾沿岸の塩田築造に着手したとされます。寛文7年(1667年)ごろには48の塩田が完成し、北前船の航路整備とともに販路を全国へ広げました。
Q松永下駄はどのように始まったのですか?
明治11年(1878年)ごろ、下駄商の丸山茂助が、塩田の燃料として運び込まれるアブラギリの性質が桐に似ていることに着目し、下駄の製造を始めたのが起こりと伝わります。塩を運ぶ船の帰り荷を利用して原料を仕入れる工夫がありました。
Q北前船はなぜ衰退したのですか?
電信や郵便の発達で相場情報の独占が崩れ、買い積みで稼ぐ仕組みが成り立たなくなったことに加え、鉄道や蒸気船の普及、北海道のにしん不漁などが重なったためとされます。北前船は明治30年代までにその歴史に幕を下ろしました。
Qいま鞆の浦で海運の歴史を感じるには?
常夜燈や雁木、波止などの港湾施設を巡り、白壁の商家や蔵の町並みを歩くのがおすすめです。福禅寺・対潮楼からの眺めや、保命酒の老舗、いろは丸事件にまつわる資料に触れれば、海運の港としての歴史をより深く味わえます。
まとめ
江戸時代、鞆の浦と松永は、北前船をはじめとする廻船が行き交う瀬戸内海運の要衝として栄えました。鞆の浦は瀬戸内海の中央に位置する「潮待ちの港」として多くの船を迎え、常夜燈・雁木・波止・焚場・船番所という五つの港湾施設がそろう、国内随一の近世港町となりました。松永は、福山藩が築いた塩田で生産された塩を北前船の航路に乗せて全国へ送り出し、もう一つの海運拠点として発展しました。
海運がもたらしたつながりは、保命酒という銘酒を生み、塩づくりの燃料から松永下駄という地場産業を育てました。朝鮮通信使を迎えた対潮楼や、坂本龍馬が滞在したいろは丸事件の舞台など、海の道は国際交流や幕末史の一場面とも結びついています。北前船の時代は明治期に幕を閉じましたが、その記憶は鞆の浦の町並みや特産品、松永の産業のなかに、いまも確かに受け継がれています。福山の海の歴史をたどることは、町が歩んできた道のりそのものを知ることにほかなりません。
出典・注意
本記事は、福山市公式情報、文化庁・日本遺産ポータルサイト、北前船関連の公的資料、各百科事典、関連企業・施設の公開情報などを参照し、史実の確認に努めて作成しました。主な参照先として、福山市ホームページ(松永塩田の開発、常夜燈、福禅寺対潮楼、坂本龍馬と鞆、松永下駄ほか)、文化庁 日本遺産ポータルサイト、北前船 KITAMAE 公式サイト、福山商工会議所などがあります。
※年代・経緯には諸説ある事項を含みます。詳細は各施設・公式情報や郷土資料でご確認ください。
最終更新: 2026年6月10日
史跡情報は福山NOTE 史跡図鑑(fn_history)より。