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🏯 歴史

保命酒の歴史|江戸から続く鞆の浦の薬味酒づくり

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保命酒の歴史|江戸から続く鞆の浦の薬味酒づくり

潮待ちの港・鞆の浦の町を歩くと、白壁の商家の軒先に大きな杉玉が下がり、独特の甘く芳しい香りが漂ってくる場所があります。江戸時代初期、万治二年(一六五九年)に鞆で創製されたと伝わる薬味酒「保命酒(ほうめいしゅ)」の蔵です。十三種類の生薬を、もち米・米麹・焼酎を用いて造った原酒(みりんに近いもの)に長期間漬け込んで仕込む保命酒は、正式には「十六味地黄保命酒(じゅうろくみじおうほうめいしゅ)」と呼ばれ、三六〇年以上にわたって鞆の浦の名産として受け継がれてきました。

保命酒は単なる土産物ではありません。福山藩の庇護と専売制度のもとで全国にその名をとどろかせ、幕末にはペリー提督一行の接待にも供されたと伝わり、慶応三年(一八六七年)のパリ万国博覧会にも出品されたとされる、鞆の歴史そのものを映す存在です。本記事では、自治体・文化庁・百科事典など信頼できる情報をもとに、保命酒がどのように生まれ、どう発展し、明治の動乱をくぐり抜けて現在の四軒の蔵元へと受け継がれてきたのか、その歴史を丁寧にたどります。なお、創製の経緯や逸話には諸説ある事項を含むため、その都度「〜とされる」「伝わる」と明記して進めます。鞆の浦や福山の通史については福山の歴史を一気に学ぶ通史ガイドもあわせてご覧ください。

史跡図鑑:鞆の浦・福山の歴史スポット

保命酒の歴史を物語る建物や、鞆の浦・福山市内の歴史史跡は、福山NOTEの史跡図鑑(fn_history)にまとめています。下記の一覧・比較表・詳細から、保命酒蔵や太田家住宅をはじめとする史跡情報を確認できます。実際に町を歩く前の下調べにも、訪問後の振り返りにもお役立てください。

福山城 伏見櫓 📖江戸時代(元和年間)📍 福山駅前(福山市街)福山城 📖近世(江戸)📍 丸之内福山城博物館 📖近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)📍 福山駅前(福山市街)草戸千軒町遺跡 📖中世📍 草戸町明王院 📖中世📍 草戸町鞆の津の町並み(重伝建) 📖江戸時代(中世〜近代の建造物群)📍 鞆町鞆の浦の常夜燈と港湾施設 📖江戸時代📍 鞆町福山市鞆の浦歴史民俗資料館 📖近代(昭和)📍 鞆町鞆の浦 📖中世〜近世📍 鞆町福禅寺 対潮楼 📖近世📍 鞆町太田家住宅 📖江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)📍 鞆町いろは丸展示館 📖近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)📍 鞆町仙酔島古代(地質)/近代(指定)📍 鞆町廉塾(菅茶山旧宅) 📖近世📍 神辺町神辺城跡 📖中世📍 神辺町福山八幡宮 📖近世📍 北吉津町沼名前神社 📖近世📍 鞆町阿伏兎観音(磐台寺観音堂)近世📍 沼隈町吉備津神社(備後一宮)江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる📍 新市町素盞嗚神社(備後一宮) 📖飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮📍 新市町
史跡時代概要📍 エリア詳細
福山城 伏見櫓江戸時代(元和年間)伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最…📍 福山駅前(福山市街)下へ ↓
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鞆の浦中世〜近世瀬戸内の「潮待ちの港」。常夜燈・雁木・波止場…📍 鞆町下へ ↓
福禅寺 対潮楼近世朝鮮通信使の使節が「日東第一形勝」と讃えた客…📍 鞆町下へ ↓
太田家住宅江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で…📍 鞆町下へ ↓
いろは丸展示館近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵…📍 鞆町下へ ↓
仙酔島古代(地質)/近代(指定)鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連…📍 鞆町下へ ↓
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素盞嗚神社(備後一宮)飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏の…📍 新市町下へ ↓
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福山城 伏見櫓

江戸時代(元和年間) / 📍福山駅前(福山市街)

伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最古級の三層入母屋造の現存櫓。 福山城伏見櫓は、元和8年(1622年)の福山城築城に際し、城主水野勝成が将軍徳川秀忠から下賜を受け、京都の伏見城から移築させたと伝えられる櫓である。長らく伝承とされていたが、昭和29年(1954年)の解体修理の際、梁の陰刻に「松ノ丸ノ東やく(ら)」の文字が発見され、伏見城からの移築を裏付ける確かな遺構であることが明らかになった。構造は三層入母屋造で、初層と二層を同じ柱割とし、その上にやや小さい三層を望楼状に載せる。桁行八間・梁間三間、本瓦葺の規模をもつ。慶長期の城郭建築の様式を残す初期の典型として価値が高く、昭和8年(1933年)1月23日に国の重要文化財に指定された。福山城内に現存し、特別公開が行われることもある。

🕰 時代江戸時代(元和年間)
🏛 成立・築造元和8年(1622年)水野勝成の福山城築城時に伏見城から移築。国指定重要文化財(昭和8年=1933年1月23日指定)
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目(福山城内)
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福山城

近世(江戸) / 📍丸之内

備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御門は京都伏見城からの移築と伝わる。2022年に築城400年を迎えた。

🕰 時代近世(江戸)
🏛 成立・築造1622年(元和8)・水野勝成
👤 関連水野勝成・阿部正弘
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目8
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福山城博物館

近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期) / 📍福山駅前(福山市街)

水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩の歴史を体験型展示で伝える博物館 福山城博物館は、JR福山駅のすぐ北に建つ福山城天守内に置かれた市立の歴史資料館です。福山城は1622年(元和8年)、徳川譜代の大名・水野勝成が西国鎮衛の拠点として築いた近世城郭で、天守は1931年に国宝に指定されました。しかし1945年8月の福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリート造で外観が復興され、その内部が博物館として公開されました。2022年には築城400年に合わせて大規模リニューアルされ、北面の鉄板張り(黒い装い)の再現や、一番槍レース・火縄銃などの体験型コンテンツ、デジタル映像を用いた展示が整えられ、福山城と福山藩の歴史を学べる施設となっています。城内に現存する伏見櫓と筋鉄御門は、京都・伏見城からの移築と伝えられ、国の重要文化財に指定されています。常設展は有料、月曜休館とされます。

🕰 時代近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)
🏛 成立・築造福山城は1622年(元和8年)に初代福山藩主・水野勝成が築城。天守は1945年福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリートで外観復興、内部を博物館として開館。2022年に大規模リニューアル
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目8番
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鞆の津の町並み(重伝建)

江戸時代(中世〜近代の建造物群) / 📍鞆の浦

潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と町家が一体で残る重伝建地区 鞆の浦は瀬戸内海の中央に位置し、古来「潮待ちの港」として栄え、万葉集にも詠まれた歴史を持つとされる。江戸時代には北前船など廻船の寄港地として繁栄し、朝鮮通信使の寄港地ともなった。2017年(平成29年)11月28日、「福山市鞆町伝統的建造物群保存地区」として約8.6ヘクタールが国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。範囲は鞆字西町の全域を中心に、石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地の一部に及ぶ。中世から江戸期に整えられた地割の上に、江戸時代から昭和30年代までの町家や寺社、石垣などが一体的に残る近世港町の景観が評価された。常夜燈・雁木・波止・焚場・船番所の5つの港湾施設がほぼ完全に残る点は全国でも稀とされる。広島県内では3例目の選定で、2018年には日本遺産にも認定された。

🕰 時代江戸時代(中世〜近代の建造物群)
🏛 成立・築造2017年(平成29年)11月28日に国の重要伝統的建造物群保存地区へ選定。地割は中世〜江戸期、建造物は江戸時代〜昭和30年代まで。
📍 所在地広島県福山市鞆町(鞆字西町全域ほか、字石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地字古城跡・草谷の各一部)
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鞆の浦の常夜燈と港湾施設

江戸時代 / 📍鞆の浦

江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯一の近世港、鞆港。 鞆の浦の鞆港には、常夜燈・雁木・波止・焚場(たでば)・船番所という江戸時代の港湾施設5点がほぼ揃って現存し、これらが一体で残るのは全国でも鞆港のみとされる。シンボルの常夜燈は安政6年(1859)の刻銘をもつ石造灯台で、海中の基礎石から宝珠の頂までは約12.1mに及び、江戸期の石造常夜燈としては国内最大級とされる。雁木は潮の干満に応じて船を着けられる階段状の船着き場で、半円形の港内に連続して巡らされている。波止は花崗岩を積んだ全長約146mの防波堤で、江戸後期に築かれ明治期に修築された。鞆港を含む沿岸と沖の島々一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定され、鞆町西町を中心とする区域は2017年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。日本遺産「瀬戸の夕凪が包む 国内随一の近世港町」の構成要素でもある。

🕰 時代江戸時代
🏛 成立・築造常夜燈は安政6年(1859)造立とされる。雁木・波止・焚場・船番所は江戸後期築造、波止は明治期に修築。鞆港一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定。
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆
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福山市鞆の浦歴史民俗資料館

近代(昭和) / 📍鞆の浦

鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬戸内の歴史・民俗を伝える市立資料館 福山市鞆の浦歴史民俗資料館は、広島県福山市鞆町後地に建つ市立の博物館で、「潮待ちの館」の愛称で親しまれる。1977年(昭和52年)からの地元有志による調査・収集活動を背景に、福山市制70周年記念事業として1988年(昭和63年)に開館した。立地は、福島正則が築いたとされる鞆城跡(福山市指定史跡)の高台で、瀬戸内海を見渡せる。万葉の時代から潮待ち・風待ちの港として栄えた鞆の浦を中心に、古代から近世にいたる歴史資料を展示。鯛網漁のジオラマや錨を製造した鍛冶場、朝鮮通信使関連資料、保命酒に関する資料に加え、お手火神事・お弓神事といった地域の民俗文化財も常設展示する。鞆の歴史と暮らしを総合的に学べる拠点とされる。

🕰 時代近代(昭和)
🏛 成立・築造1988年(昭和63年)開館。福山市制70周年記念事業として建設。建つ鞆城跡は福島正則が築いたとされる(福山市指定史跡)
📍 所在地広島県福山市鞆町後地536-1
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太田家住宅

江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期) / 📍鞆の浦

鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で、国の重要文化財 鞆の浦を代表する歴史的建造物で、薬用酒「保命酒」の醸造で財を成した商家の旧宅。もとは大坂の漢方医を出自とする中村家の屋敷で、明暦元年(1655年)に鞆へ移り住み、まもなく十六味地黄保命酒の製造・販売を始めて大ヒットし、福山藩の御用名酒屋として販売独占権を得たとされる。明治期に廻船業を営んだ太田家が継承し、現在の名で呼ばれる。主屋を中心に保命酒蔵や各種土蔵など九棟が建ち並び、建築年代は18世紀中期から19世紀前期に及ぶ。瀬戸内の商家建築を伝える貴重な遺構として、1991年に国の重要文化財に指定された。幕末には三条実美ら尊王攘夷派の公卿が立ち寄ったと伝わり、別宅の朝宗亭とともに「鞆七卿落遺跡」として広島県の史跡(1940年指定)にもなっている。

🕰 時代江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)
🏛 成立・築造主屋は18世紀中期、ほか北保命酒蔵が天明8年(1788年)、西蔵が寛政元年(1789年)、東保命酒蔵が寛政7年(1795年)など18世紀中期〜19世紀前期。国の重要文化財指定は1991年(平成3年)5月31日。
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆842
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いろは丸展示館

近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期) / 📍鞆の浦

坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵を活かした資料館 鞆の浦のシンボル常夜灯(とうろどう)のすぐそばに建つ資料館。1867年(慶応3年)、坂本龍馬と海援隊が運航したいろは丸が紀州藩の明光丸と備後灘で衝突・沈没した「いろは丸事件」を伝える施設で、その談判が鞆の浦で行われた縁にちなむ。建物は江戸期に建てられた太い梁が印象的な土蔵で、地元では「大蔵」と呼ばれ、国の登録有形文化財とされる。館内には海底に沈むいろは丸を再現したジオラマ、引き揚げられた陶器や部品、調査風景の写真などを展示し、2階には龍馬が宿泊先で身を潜めたという「隠れ部屋」が再現され、龍馬の蝋人形も置かれている。1989年(平成元年)7月の開館。幕末史と鞆の港町文化を同時に味わえるスポットである。

🕰 時代近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)
🏛 成立・築造1989年(平成元年)7月開館。建物は江戸期築の土蔵「大蔵(浜蔵)」で、国の登録有形文化財とされる。展示題材のいろは丸事件は1867年(慶応3年)
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆843-1
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仙酔島

古代(地質)/近代(指定) / 📍鞆の浦

鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連なる瀬戸内海国立公園の名勝 仙酔島は鞆の浦の沖合に浮かぶ周囲約6キロの島で、住所は福山市鞆町後地。鞆港から市営渡船で約5分の距離にあり、観光客の往来はあるが定住者のいない無人島とされる。1925年(大正14年)に国の名勝「鞆公園」の一部として指定され、1934年(昭和9年)には日本で最初に指定された国立公園・瀬戸内海国立公園に含まれた。島は約9000万年前の大規模な火山活動による溶結凝灰岩を主体とし、南側海岸には青・赤・黄・白・黒の岩が200メートル以上連なる「五色岩」が見られ、地質的に貴重とされる。「仙人が酔うほど美しい島」が名の由来と言われる。江戸後期の学者・頼山陽が当地の景観を「山紫水明」と評したとも伝わる。

🕰 時代古代(地質)/近代(指定)
🏛 成立・築造1925年(大正14年)国名勝「鞆公園」に指定。1934年(昭和9年)日本初の国立公園・瀬戸内海国立公園に編入。島自体は約9000万年前の火山活動で形成されたとされる
📍 所在地広島県福山市鞆町後地
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吉備津神社(備後一宮)

江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる / 📍新市・北部

備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で「いっきゅうさん」と親しまれる古社 福山市新市町宮内に鎮座する備後国一宮で、地元では「一宮さん(いっきゅうさん)」と親しまれる。社伝では大同元年(806年)に吉備国の吉備津神社から勧請し創建されたと伝わるが、延喜式神名帳に記載がないことなどから実際の成立はより後とする説もある。主祭神は吉備国を治めたとされる大吉備津彦命。現在の本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が旧規模にならい造営したもので、桁行七間・梁間四間の入母屋造檜皮葺、国の重要文化財に指定されている。ほかにも木造狛犬や太刀などが重要文化財として伝えられ、複数の建造物が広島県・福山市指定文化財となっている。隣接する櫻山城跡なども史跡として知られ、備後の信仰と歴史を今に伝える。

🕰 時代江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる
🏛 成立・築造本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が造営、国の重要文化財。創建は大同元年(806年)と伝わるが諸説ある
📍 所在地広島県福山市新市町宮内400
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素盞嗚神社(備後一宮)

飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮 / 📍新市・北部

祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏のけんか神輿で名高い古社 福山市新市町戸手に鎮座する素盞嗚神社は、『延喜式神名帳』に載る式内社で備後国一宮を称し、旧社格は県社です。主祭神は素盞嗚尊で、稲田姫命・八王子を配祀します。社伝では天武天皇の治世、7世紀ごろ(679年か)の創建とされます。『釈日本紀』所収の「備後国風土記」逸文に伝わる蘇民将来説話の舞台「疫隈国社」と結びつけられ、茅の輪くぐりや祇園信仰・祇園祭発祥の地の一つとされています。神仏習合期には牛頭天王を祀り、遣唐使・吉備真備が734年に当社から播磨の広峯神社へ勧請したとも伝わります。毎年7月の例祭では、勇壮なけんか神輿(神輿合わせ)が行われることで知られます。

🕰 時代飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮
🏛 成立・築造社伝では天武天皇期の7世紀ごろ(679年か)創建とされる。『延喜式神名帳』記載の式内社で、旧県社
📍 所在地広島県福山市新市町大字戸手1-1

とりわけ保命酒にゆかりの深い「太田家住宅(旧中村家住宅)」は、江戸時代の保命酒醸造の中心地であり、瀬戸内の商家建築を代表する建造物として国の重要文化財に指定されています。図鑑で位置や見どころを確認したうえで、後述する「ゆかりの地」の章とあわせて訪ねると、保命酒の歴史をより立体的に味わえます。

鞆の浦は、保命酒のほかにも、福禅寺・対潮楼、いろは丸事件、朝鮮通信使、常夜燈に代表される港湾施設など、歴史的な見どころが凝縮された町です。保命酒はそうした鞆の歴史の一本の太い軸であり、この薬味酒の物語をたどることは、鞆の浦という町そのものの歩みを理解することにつながります。次章以降では、保命酒の「正体」から説き起こし、創製の人・中村吉兵衛、時代背景、藩の専売、幕末の逸話、明治の没落、そして現在の蔵元へと、時代を追って詳しく見ていきます。

保命酒とは何か——「十六味地黄保命酒」の正体

鞆の浦の町並み(保命酒屋の通り)
鞆の浦の町並み(保命酒屋の通り)(画像:Wikimedia Commons / CC)

保命酒とは、鞆の浦(広島県福山市鞆町)で江戸時代初期から造られてきた薬味酒です。正式な名称は「十六味地黄保命酒」。この長い名前には、保命酒がどのような飲み物であるかが凝縮されています。

「地黄(じおう)」は、保命酒に用いられる代表的な生薬の名です。ゴマノハグサ科の植物の根を乾燥させた漢方薬で、滋養強壮の目的で古くから用いられてきました。地黄が名称に冠されていることからも、保命酒が嗜好品であると同時に、健康に資することを期した薬用の酒として位置づけられていたことがうかがえます。「保命」という言葉自体、命を保つ、すなわち養生のための酒であることを示しています。

「十六味」とは何を指すのか

かつては保命酒に十六種類の生薬が使われていると説明されることもありましたが、平成十八年(二〇〇六年)に発見された古文書の研究により、本来用いられていた生薬は十三種類であったことが明らかになったとされています。では「十六味」とは何を意味するのか。これは、十三種類の生薬に、酒のベースとなる焼酎・もち米・米麹(こうじ)を加えた合計を「十六の味(材料)」と数えたものと解釈されています。つまり「十六味」は生薬の数ではなく、保命酒を構成する素材の総数を表していると考えられているのです。

用いられる生薬としては、地黄のほか、当帰(とうき)、人参(にんじん)、桂皮(けいひ)、甘草(かんぞう)、菊花(きくか)、山薬(さんやく)、枸杞(くこ)など、漢方で滋養や血のめぐりに関わるとされる薬種が伝わっています。ただし、各蔵元の配合や正確な処方は門外不出として守られてきた歴史があり、具体的な種類・分量については諸説ある点に留意が必要です。本記事でも、確認できた範囲の生薬名のみを挙げています。

これらの生薬は、いずれも漢方の世界で長く用いられてきたものです。地黄は滋養に、当帰は血のめぐりに、人参は元気を補う目的で、桂皮は体を温める働きで、甘草は他の薬の調和をとる役割で知られてきました。枸杞や菊花も養生の素材として親しまれています。こうした多種の生薬を一つの酒に溶け込ませた保命酒は、いわば「飲む漢方」とも呼べる存在であり、医療が今ほど発達していなかった時代において、人々の健康を支える身近な養生の手段として重宝されたと考えられます。「保命」すなわち命を保つという名は、まさにこうした人々の願いを映したものでした。

もっとも、保命酒はあくまで嗜好品としての酒であり、現代において特定の効能を保証する医薬品ではありません。歴史的に養生の酒として親しまれてきたという文脈で語られるべきものであり、健康効果を断定するような表現は避ける必要があります。本記事でも、保命酒が「滋養を期した養生の酒として親しまれてきた」という歴史的事実を述べるにとどめ、効能の効果を断定することはしていません。

みりんに近い原酒に生薬を漬け込む製法

保命酒の製法の核心は、もち米・米麹・焼酎を原料として造る、みりんに近い甘い原酒にあります。この原酒に生薬を長期間浸し、薬効成分と香味をゆっくりと引き出していきます。砂糖や人工甘味料を加えず、もち米由来の自然な甘みを生かすのが伝統的な造り方とされ、現在の蔵元でもこの方針が受け継がれています。

琥珀色に輝く保命酒は、とろりとした甘さと生薬由来の複雑な香りをあわせ持ち、和製リキュールとも呼ばれます。食前酒として少量を味わうのが古くからのたしなみであり、後述するペリー提督接待の逸話でも、保命酒は食前酒として供されたと伝わっています。

原料となる原酒づくりからして、すでに手間のかかる工程です。蒸したもち米に米麹と焼酎を加えて仕込み、糖化させることで、米由来の自然な甘みを持つみりんに近い原酒が生まれます。この原酒の質が、最終的な保命酒の味わいを大きく左右するとされます。砂糖や人工甘味料に頼らず、米の力だけで甘みを引き出すこの製法は、効率を優先する近代の量産とは対極にあるものであり、それゆえに保命酒は手間と時間のかかる希少な酒として珍重されてきました。

原酒が仕上がると、そこへ生薬を漬け込み、薬効成分と香味をじっくりと抽出していきます。短時間で済ませることはできず、ゆっくりと時間をかけて成分を引き出すことで、角の取れたまろやかな味わいと、生薬の複雑な芳香が生まれます。仕込みから商品になるまでに長い熟成期間を要するこの造り方は、江戸の昔から大きくは変わっておらず、現在の蔵元も基本的な工程を踏襲しているとされます。一杯の保命酒の背後には、米づくり・酒づくり・薬種の知識という、複数の技と知恵の積み重ねがあるのです。

創製の人・中村吉兵衛——大坂の漢方医が鞆へ来た理由

保命酒を創製したのは、大坂(現在の大阪)の漢方医であったと伝わる中村吉兵衛(なかむら きちべえ)という人物です。彼がなぜ大坂を離れ、瀬戸内の港町・鞆へやって来たのか。その背景には、自然災害という思いがけない転機があったとされています。

洪水での被災から鞆への移住へ

伝えられるところによれば、中村吉兵衛は承応二年(一六五三年)に起きた洪水によって家財を失ったとされます。その窮地にあった彼に、備後国・鞆の杜氏(とうじ)であった「万古屋(まんこや)」が声をかけ、鞆へ来るよう誘ったと伝わります。この縁により、吉兵衛は明暦元年(一六五五年)に鞆へ移り住んだとされています。

当時の鞆は、瀬戸内海の潮の流れが変わる「潮待ちの港」として栄え、全国の廻船が行き交う商業の要衝でした。各地の物資・情報・人が集まる鞆は、新しい商いを起こす土壌として十分に肥沃だったといえます。漢方医としての知識を持つ吉兵衛にとって、酒造の技を持つ鞆の地は、自らの家伝の薬方を生かす絶好の場所だったのかもしれません。

「吉備のうま酒」との出会い

鞆に移った吉兵衛が出会ったのが、当時この地で造られていた「吉備(きび)のうま酒」と呼ばれる酒でした。これは現在のみりん酒に近い、甘い醸造酒であったとされます。吉兵衛は、この甘い原酒に、大坂の中村家に伝わる家伝の薬方——すなわち地黄をはじめとする生薬——を漬け込むことを思い立ちました。漢方医の知識と、鞆の酒造技術。この二つが出会ったところに、保命酒は誕生したのです。

一説には、中村家は鎖国下で唯一海外に開かれていた長崎・出島へ薬草の買い付けに通っており、その道中で鞆に立ち寄り「吉備のうま酒」と出会った、とも伝えられます。いずれの伝承も、保命酒が大陸由来の生薬と地元の銘酒との結びつきから生まれたことを物語っています。これらの逸話は伝承の域を出ない部分も多く、確証のない事項については断定を避けますが、共通して語られるのは「漢方の知識」と「鞆の酒」という二つの要素の出会いです。

漢方医の家に生まれた吉兵衛は、どの生薬をどのように配合すれば人の体に良いかという薬学の知見を持っていました。一方の鞆には、甘く滋味豊かな原酒を造る確かな醸造技術がありました。生薬は苦く飲みにくいものが多いなか、甘い原酒に溶け込ませることで、薬を「おいしく飲める養生の酒」へと昇華させた——保命酒の独創性は、まさにこの発想の転換にあったといえるでしょう。薬であって薬くさくない、酒であって悪酔いしにくい。そうした絶妙な均衡を生み出したことが、保命酒が単なる地酒を超えて全国的な名産へと育つ素地になったと考えられます。

万治二年、鞆奉行の許可を得て製造開始

そして万治二年(一六五九年)、中村吉兵衛は福山藩の鞆奉行から製造販売の許可を得て、家伝の薬方を用いた薬味酒「十六味地黄保命酒」の醸造を正式に開始したと伝わります。この一六五九年が、保命酒誕生の年として広く知られています。鞆の浦という土地が育んだ酒造文化と、大坂の漢方医がもたらした薬学の知恵。その融合の成果が、藩公認の特産品として歩み始めた瞬間でした。

時代背景——江戸初期の鞆の浦と福山藩

鞆の浦の港と町並み
鞆の浦の港と町並み(画像:Wikimedia Commons / CC)

保命酒が生まれた万治年間(一六五八〜一六六一年)は、江戸幕府が開かれてから半世紀あまりが過ぎ、世の中が安定へと向かいつつあった時期にあたります。この時代の鞆と福山がどのような状況にあったかを押さえておくと、保命酒がなぜ鞆で生まれ、なぜ大きく発展できたのかがよく見えてきます。

潮待ちの港・鞆の浦の繁栄

鞆の浦は古来、瀬戸内海の航路の要として知られてきました。瀬戸内海では満潮時に東西から潮が満ち、干潮時に東西へ引いていくため、その潮の境目にあたる鞆は、潮の流れが変わるのを待つ「潮待ち」の港として多くの船でにぎわいました。動力を持たない帆船の時代、潮と風を読みながら航海する船乗りたちにとって、鞆は必ず立ち寄る要衝だったのです。

港にはさまざまな物資が集まり、商家が建ち並び、各地の文化や情報が交わりました。こうした交流と繁栄の地であったからこそ、生薬という大陸由来の素材を扱う商いが成り立ち、保命酒のような高付加価値の特産品が全国へ広まる素地があったといえます。鞆の町並みの歴史的背景については鞆の浦の街並みガイドもご参照ください。

鞆の浦には、江戸時代の港町の機能を今に伝える「鞆の津の五要素」と呼ばれる港湾施設が残っています。船をつなぐ常夜燈、潮の干満に合わせて荷を揚げ降ろしする雁木(がんぎ)、船の修理を行う焚場(たでば)、荷を保管する船番所、そして波を防ぐ波止(はと)です。これらが一体的に残る港は全国的にも珍しく、潮待ちの港としての鞆の繁栄ぶりを物語っています。保命酒もまた、こうした港の機能を通じて全国へと積み出されていきました。鞆の繁栄は保命酒の発展と表裏一体であり、港の活況なくして保命酒の全国的な名声はあり得なかったといえるでしょう。

また、鞆は朝鮮通信使の寄港地でもありました。朝鮮から江戸へ向かう外交使節がこの地に立ち寄り、福禅寺・対潮楼からの眺望を「日東第一形勝(朝鮮より東で最も美しい景勝)」と讃えたと伝わります。国際的な往来の舞台でもあった鞆は、異国の文物や情報に触れる機会に恵まれた土地でした。大陸由来の生薬を用いる保命酒が、こうした国際色豊かな港町で生まれ育ったことは、決して偶然ではないのかもしれません。

水野氏による福山藩の成立

福山藩は、元和五年(一六一九年)に水野勝成が初代藩主として入封し、福山城を築いたことに始まります。鞆の浦はこの福山藩の領内に含まれ、藩は鞆に奉行所を置いて港町を統治しました。保命酒の製造許可を中村吉兵衛に与えたのも、この鞆奉行でした。福山城や福山藩の成り立ちについては福山城ガイドに詳しくまとめています。

藩にとって、領内で生まれた特産品は財政や名声に資する貴重な資源です。福山藩は備後表(びんごおもて=畳表)などの特産品を保護してきましたが、保命酒もまた藩の重要な産物として位置づけられ、手厚い庇護を受けることになります。江戸初期の安定と、港町・鞆の繁栄、そして藩の保護政策。この三つの条件が重なったことが、保命酒を一地方の薬酒から全国的な名産へと押し上げる原動力となったのです。

福山藩の専売制と中村家の繁栄

保命酒の歴史を語るうえで欠かせないのが、福山藩による専売制度と、それを背景に豪商へと成長した中村家の存在です。藩公認の独占というしくみが、保命酒の品質と名声を守り、同時に中村家に巨万の富をもたらしました。

門外不出の秘方と製造独占

中村家は、保命酒の製造販売について藩から独占的な許可を得ていたとされ、その処方は門外不出の秘伝として厳重に守られました。一子相伝に近いかたちで配合や製法が受け継がれ、他者が容易に模倣できないようにされていたのです。専売制によって類似品の販売が抑えられたことで、保命酒の品質とブランドが保たれ、その希少性と信頼が全国的な評価につながりました。

こうした独占的な地位を背景に、中村家は保命酒の製造販売で大きな利益を上げ、鞆を代表する豪商へと成長していきます。その繁栄ぶりは、現在も鞆の浦に残る壮大な屋敷の規模からうかがい知ることができます。

全国に広まる「鞆の保命酒」

福山藩の特産品として保護された保命酒は、参勤交代や廻船を通じて全国へと運ばれ、その名を広めていきました。滋養強壮を期した養生の酒として、また珍重される土産物として、保命酒は各地の人々に知られる存在となります。江戸の昔から、鞆といえば保命酒、保命酒といえば鞆、と結びつけて語られるようになったのです。

保命酒が単なる地酒にとどまらず、藩のブランドを背負った「献上にも値する特産品」として扱われていたことは、後述する幕末の歴史的場面にも表れています。

幕末の保命酒——ペリー提督接待とパリ万博

鞆の浦の渡船「平成いろは丸」(いろは丸を模した船)
鞆の浦の渡船「平成いろは丸」(いろは丸を模した船)(画像:Wikimedia Commons / CC)

江戸時代後期から幕末にかけて、保命酒はその名声ゆえに、日本の歴史が大きく動く場面にしばしば顔を出します。鞆の小さな港町で生まれた薬味酒が、国家的な外交や国際的な博覧会の舞台に登場したことは、保命酒の格の高さを物語っています。

ペリー提督一行への食前酒として

嘉永六年(一八五三年)から翌年にかけて、アメリカのペリー提督が黒船を率いて来航し、日米和親条約の締結へと至ったことはよく知られています。この一連の交渉や接待の場で、保命酒がペリー提督一行に食前酒として供されたと伝えられています。鎖国を解こうとする外交の最前線で、日本側がもてなしの酒として保命酒を選んだとされる逸話は、当時の保命酒がいかに高い評価を得ていたかを示すものといえるでしょう。なお、この接待にまつわる詳細には諸説あり、確証のない部分は断定を避けて「伝わる」と記しています。

慶応三年のパリ万国博覧会へ出品

さらに保命酒は、慶応三年(一八六七年)にフランスで開かれたパリ万国博覧会に出品されたとされています。幕末の日本が国際社会に向けて自国の産物を紹介した、この記念碑的な博覧会に保命酒が名を連ねたとすれば、それは鞆の名産が国境を越えて知られる契機となったことを意味します。地方の薬味酒が世界の舞台に立ったという事実は、保命酒の歴史のなかでも特筆すべき出来事です。

幕末の鞆の浦は、保命酒だけでなく、坂本龍馬といろは丸事件の舞台としても歴史に名を刻みました。鞆港で起きたいろは丸沈没事件とその後の談判についてはいろは丸展示館ガイドに詳しく、激動の時代の鞆を知る手がかりになります。

幕末という時代に保命酒がたびたび歴史の表舞台に登場した背景には、保命酒が単なる嗜好品ではなく、「もてなしにふさわしい格を持つ酒」として認識されていたことがあります。藩の専売品として全国に名が通り、滋養を期した養生の酒という付加価値を備えていた保命酒は、要人の接待や贈答に用いるにふさわしい品とみなされていました。外交や儀礼の場で日本側が保命酒を選んだとされる逸話は、その評価の高さを裏づけるものといえるでしょう。鞆という港町が、海を通じて世界とつながる結節点であったことも、保命酒が国際的な場面に顔を出すことになった一因と考えられます。

なお、こうした幕末の逸話の一つひとつには、史料の裏づけが十分でないものや、後世に脚色された可能性のあるものも含まれます。本記事では、確証のある事実と伝承とを区別し、伝承については「伝わる」「とされる」と明記するよう努めています。読者の皆さんも、保命酒にまつわる物語を楽しみつつ、史実としての確かさについては各施設の公式情報や郷土資料で確かめていただくことをおすすめします。

明治維新と中村家の没落

江戸時代を通じて藩の庇護のもとで繁栄を極めた保命酒と中村家でしたが、明治維新による社会の大変革は、その栄華に大きな影を落とすことになります。専売という特権を失ったことが、創製の家・中村家にとって決定的な転機となりました。

廃藩置県で失われた藩の保護

明治四年(一八七一年)の廃藩置県によって福山藩は消滅し、保命酒を支えてきた藩の専売制度と庇護のしくみは失われました。これまで他者の参入を防いでいた独占の壁が取り払われたことで、中村家は厳しい競争環境にさらされることになります。藩というパトロンを失ったことは、中村家にとって経営の根幹を揺るがす出来事でした。

百姓一揆による被害と廃業

追い打ちをかけたのが、明治四年(一八七一年)に起きた百姓一揆(農民一揆)による被害でした。この騒擾のなかで中村家は襲撃を受け、大きな損害を被ったと伝えられています。藩の保護を失った直後に受けたこの打撃は、名家の屋台骨を大きく傾けました。

こうした逆境が重なり、保命酒を生み出した中村家は次第に経営が立ちゆかなくなり、ついに明治三十六年(一九〇三年)に完全に廃業したとされています。万治二年の創製以来、二四〇年あまりにわたって保命酒の本家として君臨した中村家の歴史は、ここで幕を閉じました。

中村家の没落は、特定の家の不運というだけでなく、明治維新がもたらした社会構造の大転換を象徴する出来事でもありました。江戸時代の特産品の多くは、藩という後ろ盾と、専売や株仲間といった保護のしくみのうえに成り立っていました。明治の世になってそれらの枠組みが解体されると、変化に対応できなかった旧来の名家が次々と姿を消していきます。保命酒の本家・中村家も、まさにその時代の波に呑み込まれた一つの事例だったといえるでしょう。栄華を極めた豪商が一代で表舞台から退いていく姿は、近代という時代の厳しさを今に伝えています。

それでも、中村家が残したものは決して小さくありません。三六〇年以上にわたって受け継がれる保命酒という文化、そして瀬戸内の商家建築を代表する太田家住宅の建造物群は、いずれも中村家の事業がなければ生まれ得なかったものです。家としては絶えても、その営みが生み出した遺産は、町の財産として、また日本の文化財として、今も大切に守られ続けているのです。

屋敷を継いだ太田家——重要文化財へ

中村家が築いた壮大な屋敷と保命酒蔵は、その後、廻船業を営んでいた太田家へと引き継がれました。江戸時代中期から後期にかけて中村家が拡張・増築していったこの建造物群は、明治以降は太田家の住宅として守られ、今日に至っています。主屋や炊事場、複数棟の保命酒蔵などからなるこの屋敷は、瀬戸内海の商家建築を代表する遺構として、平成三年(一九九一年)に国の重要文化財に指定されました。現在は「太田家住宅」として知られ、保命酒醸造の歴史を伝える貴重な史跡となっています。中村家・太田家の屋敷については太田家住宅ガイドもあわせてご覧ください。

受け継がれた保命酒——現在の四つの蔵元

1

入江豊三郎本店

入江豊三郎本店は、明治十九年(一八八六年)の創業と伝わる老舗です。初代・入江豊三郎は香川県の出身で、屋号を「廣島屋」としたとされます。専売制廃止後に保命酒づくりに加わった蔵元のひとつであり、現在も伝統的な製法で保命酒を醸造しています。保命酒を使った関連商品の開発にも取り組み、鞆の名産を多彩なかたちで発信しています。

2

岡本亀太郎本店

岡本亀太郎本店は、岡本家が酒造業を営んできた歴史を持つ蔵元です。専売制廃止後に保命酒の製造を手がけるようになったと伝わり、現在も鞆の浦で保命酒を造り続けています。福山城の長屋門を移築したと伝わる建物でも知られ、町並みの景観の一部としても親しまれています。

3

鞆酒造

鞆酒造株式会社は、鞆の浦で保命酒を製造する蔵元のひとつです。地域の観光情報の発信にも携わるなど、保命酒を核とした鞆の文化の継承に努めています。

4

八田保命酒舗

八田保命酒舗(はったほうめいしゅほ)もまた、鞆の浦で保命酒を伝える蔵元のひとつです。四軒それぞれが、門外不出とされてきた秘伝を受け継ぎつつ、独自の味わいを守り続けています。各蔵元によって生薬の配合や甘み、香りに個性があり、飲み比べを楽しめるのも鞆ならではの魅力です。

このように、創製の家こそ失われたものの、保命酒づくりの技と心は複数の蔵元へと分かち継がれ、三六〇年を超えて今なお生きた伝統として息づいているのです。

5

専売廃止が保命酒を救った——という逆説

保命酒の歴史を振り返るとき、ひとつの逆説に気づかされます。江戸時代に保命酒を守り育てたのは中村家の専売制でしたが、その専売制が廃止されたからこそ、保命酒は中村家の廃業後も生き残ることができた、ということです。もし専売制が続いていれば、本家・中村家の廃業とともに保命酒づくりそのものが途絶えてしまった可能性も否定できません。専売の壁が取り払われ、複数の家が製造に参入できるようになったことが、結果として保命酒の伝統を後世へつなぐ受け皿となったのです。

時代の変化は中村家にとっては没落の引き金となりましたが、保命酒という文化全体にとっては、より広い担い手を得る転機となりました。一軒の豪商が独占する希少な特産品から、複数の蔵元が支える地域の名産へ。保命酒のあり方は明治を境に大きく変わりましたが、その味と精神は失われることなく現代に受け継がれています。歴史の皮肉と幸運が交差したところに、今日の保命酒があるといえるでしょう。

6

蔵元それぞれの個性と現代の取り組み

四軒の蔵元は、いずれも秘伝とされる製法を守りつつ、それぞれに工夫を重ねています。生薬の配合の違いや原酒の甘みの加減によって、口当たりや香りには蔵元ごとの個性が生まれます。すっきりとした飲み口のものから、生薬の香りが豊かに立つものまで、飲み比べると違いがよくわかると言われます。鞆を訪れた際に複数の蔵元の保命酒を味わい比べるのは、この町ならではの贅沢な楽しみ方です。

近年では、伝統の保命酒をそのまま味わうだけでなく、保命酒を使った菓子やゼリー、調味料、あるいは保命酒の原酒であるみりんを単体で販売するなど、保命酒の魅力を多角的に発信する取り組みも見られます。料理に使うことで生薬の風味とコクを生かす活用法も提案されており、薬味酒という枠を超えて、保命酒は現代の食卓にも新しいかたちで届けられています。古い伝統を守りながら、それを今の暮らしに橋渡しする努力こそが、保命酒を三六〇年以上にわたって生き続けさせてきた原動力なのかもしれません。

保命酒が映す鞆の文化と暮らし

保命酒は、単なる一つの商品の歴史にとどまらず、鞆の浦という町の文化や暮らしと深く結びついてきました。最後の本論として、保命酒が鞆の人々にとってどのような存在であったかを考えてみましょう。

町の経済を支えた基幹産業として

江戸時代の鞆において、保命酒づくりは町の経済を支える重要な産業のひとつでした。原料となるもち米や米麹、焼酎の調達、生薬の仕入れ、原酒の醸造、生薬の漬け込みと熟成、そして全国への出荷まで、保命酒の製造販売には多くの人手と取引が関わります。中村家という豪商を中心に、保命酒をめぐる経済活動が町に雇用と富をもたらしたと考えられます。畳表(備後表)と並ぶ備後の名産として、保命酒は地域経済を潤す柱のひとつだったのです。

港を通じて全国とつながる鞆にとって、保命酒は「鞆の名」を各地に届ける看板でもありました。鞆を訪れた船乗りや商人が保命酒を買い求め、土産として持ち帰ることで、鞆の知名度は高まっていきました。特産品が町のブランドを形づくるという関係は、現代の地域振興にも通じるものがあります。

建築や町並みに刻まれた保命酒の歴史

保命酒の歴史は、鞆の建築や町並みにもはっきりと刻まれています。その最たるものが、保命酒醸造の中心地であった太田家住宅(旧中村家住宅)です。複数棟の保命酒蔵を含む壮大な建造物群は、保命酒がいかに大きな産業であったかを今に伝えています。また、現在の蔵元の店構えや、軒先に下がる杉玉も、保命酒づくりの伝統を視覚的に示す町の風景です。

鞆の浦は、こうした歴史的建造物と港湾施設が一体的に残ることが高く評価され、保命酒を含む町の歴史文化は地域の大きな魅力となっています。保命酒の物語を知ったうえで町を歩けば、白壁の蔵や石畳の路地の一つひとつが、より深い意味を帯びて見えてくるはずです。歴史は、書物のなかだけでなく、こうして町の風景のなかに生きているのです。

保命酒にまつわる関連年表

ここまでたどってきた保命酒の歴史を、年表のかたちで整理します。年代や経緯には諸説ある事項を含むため、目安としてご覧ください。

年(和暦/西暦) できごと
元和五年(一六一九年) 水野勝成が福山藩に入封、福山城を築く。鞆の浦は福山藩領となる
承応二年(一六五三年) 中村吉兵衛が洪水で家財を失ったと伝わる
明暦元年(一六五五年) 中村吉兵衛、鞆の杜氏・万古屋の誘いで鞆へ移住したと伝わる
万治二年(一六五九年) 鞆奉行の許可を得て、十六味地黄保命酒の製造を開始(保命酒の創製)
江戸時代を通じて 福山藩の専売・庇護のもと、中村家が豪商へ成長。保命酒が全国へ広まる
嘉永六〜七年(一八五三〜五四年)頃 ペリー提督一行に食前酒として供されたと伝わる
慶応三年(一八六七年) パリ万国博覧会に出品されたとされる
明治四年(一八七一年) 廃藩置県で藩の保護を失う。百姓一揆で中村家が襲撃され被害を受ける
明治十九年(一八八六年) 入江豊三郎本店が創業したと伝わる
明治三十六年(一九〇三年) 創製の家・中村家が廃業
平成三年(一九九一年) 太田家住宅(旧中村家住宅)が国の重要文化財に指定される
平成十八年(二〇〇六年) 古文書の発見により、生薬は本来十三種類であったことが明らかになったとされる

ゆかりの地と現在に残るもの

保命酒の歴史は、鞆の浦の町並みのなかに今も生きています。実際に足を運べば、江戸の昔から続く薬味酒づくりの空気を肌で感じることができます。ここでは、保命酒にゆかりの深い場所と、現在に残るものを紹介します。

太田家住宅(旧中村家住宅)

保命酒ゆかりの地として最も重要なのが、太田家住宅です。ここは保命酒を創製した中村家の屋敷であり、江戸時代の保命酒醸造の中心地でした。南北に長い敷地には、二階建ての主屋、炊事場、そして複数棟の保命酒蔵が現存し、かつての造り酒屋の構えをそのままに伝えています。瀬戸内の商家建築を代表する遺構として国の重要文化財に指定されており、保命酒の歴史を体感できる第一級の史跡です。

杉玉の下がる蔵元の店先

鞆の町を歩けば、現在も保命酒を造る蔵元の店先に出会えます。軒先に大きな杉玉が下がり、店内には琥珀色の保命酒が並ぶ光景は、鞆ならではのものです。試飲を行っている蔵元もあり、四軒それぞれの味わいの違いを確かめることができます。生薬の香り立つ甘い一杯は、江戸の人々が味わったであろう養生の酒の名残を今に伝えています。

福禅寺 対潮楼から望む鞆の海

保命酒の港・鞆の浦を象徴する景観のひとつが、福禅寺の客殿「対潮楼(たいちょうろう)」から望む海の眺めです。江戸時代には朝鮮通信使がこの地に立ち寄り、対潮楼からの眺望を「日東第一形勝」と讃えたと伝わります。保命酒が全国へ運ばれていった往時の鞆の繁栄を思い描きながら、当時の人々が見たであろう海景を味わってみてください。対潮楼の歴史については福禅寺 対潮楼ガイドをご覧ください。

保命酒で巡る鞆の浦モデルコース

保命酒の歴史をテーマに鞆の浦を歩くなら、史跡と蔵元を組み合わせた半日コースがおすすめです。あくまで一例として、楽しみ方のヒントを紹介します。

午前——歴史史跡をめぐる

まずは太田家住宅(旧中村家住宅)を訪ね、保命酒醸造の歴史と豪商・中村家の繁栄の名残を見学します。続いて福禅寺・対潮楼に立ち寄り、鞆の海と港町の景観を堪能しましょう。常夜燈や雁木(がんぎ)といった江戸時代の港湾施設が残る鞆港の周辺も、潮待ちの港の風情を感じられる見どころです。

昼——蔵元で保命酒を味わう

町歩きの途中で、保命酒を造る蔵元に立ち寄ります。入江豊三郎本店、岡本亀太郎本店、鞆酒造、八田保命酒舗の四軒は、それぞれに個性ある保命酒を扱っています。試飲ができる店では、生薬の香りと自然な甘みをじっくり味わい、好みの一本を見つけてみてください。土産には保命酒を使った菓子なども選べます。

午後——幕末の鞆を歩く

午後は、いろは丸事件と坂本龍馬ゆかりの地をめぐるのもよいでしょう。いろは丸展示館では、鞆港沖で起きた海難事件とその後の談判の歴史を学べます。保命酒がペリー一行に供されたと伝わる幕末という時代の鞆を、史跡をたどりながら感じてみてください。歩き疲れたら、再び蔵元で保命酒の一杯を。養生の酒で旅を締めくくるのも、鞆ならではの楽しみ方です。

よくある質問(FAQ)

Q保命酒はいつ、誰が造り始めたのですか。
A

万治二年(一六五九年)に、大坂の漢方医であったと伝わる中村吉兵衛が鞆の浦で創製したとされています。鞆奉行の許可を得て、家伝の薬方を用いた薬味酒の製造を始めたと伝わります。

Q「十六味地黄保命酒」とはどういう意味ですか。
A

「地黄」は保命酒に用いられる代表的な生薬の名で、「十六味」は構成材料の数を表すとされます。古文書の研究により、生薬は本来十三種類で、これに焼酎・もち米・米麹を加えて「十六味」と数えたと考えられています。

Q保命酒にはどんな生薬が使われていますか。
A

地黄、当帰、人参、桂皮、甘草、菊花、山薬、枸杞などが伝わります。ただし配合や正確な処方は門外不出とされてきた歴史があり、具体的な種類・分量には諸説あります。

Q保命酒はお酒ですか、薬ですか。
A

みりんに近い甘い原酒に生薬を漬け込んだ薬味酒で、和製リキュールとも呼ばれます。嗜好品であると同時に、滋養を期した養生の酒として古くから親しまれてきました。少量を食前酒として味わうのが伝統的なたしなみです。

Qなぜ鞆の浦で保命酒が生まれたのですか。
A

鞆が潮待ちの港として栄え、酒造(みりんに近い「吉備のうま酒」)の技術があったこと、各地の物資や情報が集まる交流の地であったことが背景にあります。そこへ漢方医・中村吉兵衛の薬学の知識が加わって誕生したとされます。

Q福山藩は保命酒とどう関わったのですか。
A

福山藩は保命酒を特産品として保護し、中村家に製造販売の独占(専売)を認めたとされます。藩の庇護のもとで品質とブランドが守られ、保命酒は全国へ広まりました。

Qペリー提督に保命酒が出されたというのは本当ですか。
A

ペリー提督一行の接待で保命酒が食前酒として供されたと伝えられています。ただし、この逸話の詳細には諸説あるため、断定はできません。本記事では「伝わる」事項として紹介しています。

Q保命酒を創製した中村家は今もあるのですか。
A

中村家は廃藩置県による藩の保護喪失や明治四年の百姓一揆の被害などが重なり、明治三十六年(一九〇三年)に廃業したとされています。その後、専売制廃止により他の蔵元が保命酒づくりを受け継ぎました。

Q現在、保命酒はどこで造られていますか。
A

鞆の浦の四軒の蔵元、入江豊三郎本店、岡本亀太郎本店、鞆酒造、八田保命酒舗で製造販売されています。蔵元ごとに味わいや香りに個性があります。

Q太田家住宅と保命酒の関係は何ですか。
A

太田家住宅は、保命酒を創製した中村家の屋敷であり、江戸時代の保命酒醸造の中心地でした。明治以降、廻船業の太田家に引き継がれ、平成三年(一九九一年)に国の重要文化財に指定されました。

Q保命酒は世界に紹介されたことがありますか。
A

慶応三年(一八六七年)のパリ万国博覧会に出品されたとされています。地方の薬味酒が国際的な博覧会の舞台に立ったとされる、保命酒の歴史において特筆すべき出来事です。

Q鞆の浦で保命酒の歴史を体感するにはどこを訪ねればよいですか。
A

まずは太田家住宅で醸造の歴史を学び、各蔵元の店先で試飲を楽しむのがおすすめです。福禅寺・対潮楼やいろは丸展示館などの史跡とあわせて巡ると、保命酒を育んだ港町・鞆の浦の歴史をより深く味わえます。

まとめ——鞆が育てた三六〇年の薬味酒

保命酒は、万治二年(一六五九年)に大坂の漢方医・中村吉兵衛が鞆の浦で創製したと伝わる薬味酒です。洪水での被災という思いがけない転機から鞆へ移り住んだ吉兵衛が、地元の甘い原酒「吉備のうま酒」に家伝の生薬を漬け込んだことが、その始まりとされています。鞆奉行の許可を得て製造を開始した「十六味地黄保命酒」は、福山藩の専売と庇護のもとで全国に名を広め、中村家を豪商へと押し上げました。

幕末にはペリー提督接待やパリ万博への出品といった歴史的場面に登場したと伝わる一方、明治維新の動乱で藩の保護を失い、一揆の被害も重なって、創製の家・中村家は明治三十六年に廃業します。しかし保命酒づくりの技と心は途絶えることなく、入江豊三郎本店・岡本亀太郎本店・鞆酒造・八田保命酒舗の四軒へと受け継がれ、三六〇年を超える今もなお、鞆の浦の生きた伝統として息づいています。

潮待ちの港が育んだ琥珀色の一杯には、瀬戸内の交流の歴史と、藩の盛衰、そして人々の養生への願いが溶け込んでいます。鞆の浦を訪れた際には、ぜひ太田家住宅や蔵元を巡り、江戸の昔から続く保命酒の物語を味わってみてください。鞆や福山の歴史全体については福山の歴史通史ガイドもあわせてご活用いただければ幸いです。

一杯の保命酒の背後には、洪水での被災から鞆へ渡った一人の漢方医の決断があり、潮待ちの港の繁栄があり、藩の庇護と専売があり、幕末の動乱があり、明治の没落と再生がありました。三六〇年を超える時の流れが、この甘く芳しい琥珀色の酒には凝縮されています。歴史を知って味わう保命酒は、ただおいしいだけでなく、鞆の浦という町が歩んできた長い物語を、舌の上でそっと語りかけてくれることでしょう。それこそが、史跡や文化財とはまた違った、生きた伝統としての保命酒の最大の魅力なのです。

出典・注意

本記事は、福山市公式情報、文化庁(日本遺産ポータルサイト・文化遺産オンライン)、ウィキペディア「保命酒」「太田家住宅」、および鞆の浦・保命酒蔵元各社の公開情報などをもとに作成しています。

※年代・経緯には諸説ある事項を含みます。詳細は各施設の公式情報や郷土資料でご確認ください。

最終更新: 2026年6月10日

史跡情報は福山NOTE 史跡図鑑(fn_history)より。