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古代・中世の備後

備後国府はどこにあった?|古代備後の中心を探る

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備後国府はどこにあった?|古代備後の中心を探る

「府中市」という地名を、何気なく口にしている人は多いでしょう。けれども、この「府中」という二文字こそ、古代日本の国家統治のかたちを今に伝える、いわば生きた化石のような言葉です。府中とは「国府の中(なか)」、すなわち律令国家が地方を治めるために置いた役所「国府(こくふ)」が所在した土地を意味します。広島県東部の現在の府中市には、かつて備後国(びんごのくに)を統べる行政の中枢——備後国府が置かれていたとされ、その遺跡は2016年(平成28年)に国の史跡に指定されました。

では、その備後国府は、具体的にどこにあったのか。なぜ府中の地が選ばれたのか。そして、いつ栄え、いつ姿を消したのか。地中から掘り出された印章や瓦、礎石は、古代備後の中心地の姿をどこまで明らかにしてきたのか。この記事では、自治体・公的機関・百科の記述に基づき、史実として確認できる範囲を丁寧に押さえながら、「備後国府はどこにあったのか」という問いを、できるだけ深く掘り下げていきます。あわせて、福山・府中エリアに残る古代の痕跡を訪ね歩くための手がかりも紹介します。なお、古代の事象には文献の少なさゆえに諸説ある事項も多く、本記事ではその点を都度明示しながら進めます。

福山・備後地域の歴史全体の流れを先に俯瞰したい方は、福山の歴史まるわかり通史ガイドもあわせてご覧ください。近世以降の福山城下町の成り立ちから、古代・中世の備後の姿までを一望できます。

史跡図鑑|備後ゆかりの史跡を探す

本論に入る前に、福山NOTEの史跡図鑑で、備後国府をはじめとする備後地域の主要史跡を一覧・比較・詳細の3つの切り口から確認できます。気になる史跡から訪ねる計画を立ててみてください。

福山城 伏見櫓 📖江戸時代(元和年間)📍 福山駅前(福山市街)福山城 📖近世(江戸)📍 丸之内福山城博物館 📖近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)📍 福山駅前(福山市街)草戸千軒町遺跡 📖中世📍 草戸町明王院 📖中世📍 草戸町鞆の津の町並み(重伝建) 📖江戸時代(中世〜近代の建造物群)📍 鞆町鞆の浦の常夜燈と港湾施設 📖江戸時代📍 鞆町福山市鞆の浦歴史民俗資料館 📖近代(昭和)📍 鞆町鞆の浦 📖中世〜近世📍 鞆町福禅寺 対潮楼 📖近世📍 鞆町太田家住宅 📖江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)📍 鞆町いろは丸展示館 📖近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)📍 鞆町仙酔島古代(地質)/近代(指定)📍 鞆町廉塾(菅茶山旧宅) 📖近世📍 神辺町神辺城跡 📖中世📍 神辺町福山八幡宮 📖近世📍 北吉津町沼名前神社 📖近世📍 鞆町阿伏兎観音(磐台寺観音堂)近世📍 沼隈町吉備津神社(備後一宮)江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる📍 新市町素盞嗚神社(備後一宮) 📖飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮📍 新市町
史跡時代概要📍 エリア詳細
福山城 伏見櫓江戸時代(元和年間)伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最…📍 福山駅前(福山市街)下へ ↓
福山城近世(江戸)備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御…📍 丸之内下へ ↓
福山城博物館近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩…📍 福山駅前(福山市街)下へ ↓
草戸千軒町遺跡中世芦田川の中州にあった中世の港町・集落遺跡。発…📍 草戸町下へ ↓
明王院中世本堂と五重塔がともに国宝。中世密教寺院で、五…📍 草戸町下へ ↓
鞆の津の町並み(重伝建)江戸時代(中世〜近代の建造物群)潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と…📍 鞆町下へ ↓
鞆の浦の常夜燈と港湾施設江戸時代江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯…📍 鞆町下へ ↓
福山市鞆の浦歴史民俗資料館近代(昭和)鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬…📍 鞆町下へ ↓
鞆の浦中世〜近世瀬戸内の「潮待ちの港」。常夜燈・雁木・波止場…📍 鞆町下へ ↓
福禅寺 対潮楼近世朝鮮通信使の使節が「日東第一形勝」と讃えた客…📍 鞆町下へ ↓
太田家住宅江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で…📍 鞆町下へ ↓
いろは丸展示館近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵…📍 鞆町下へ ↓
仙酔島古代(地質)/近代(指定)鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連…📍 鞆町下へ ↓
廉塾(菅茶山旧宅)近世儒学者・菅茶山が開いた私塾。当時の塾舎・住宅…📍 神辺町下へ ↓
神辺城跡中世備後南部の中世山城。福山城が築かれる以前、備…📍 神辺町下へ ↓
福山八幡宮近世福山城の北に鎮座し、東西二つの宮を備える。歴…📍 北吉津町下へ ↓
沼名前神社近世鞆の「祇園さん」。夏の大松明を担ぐ「お手火神…📍 鞆町下へ ↓
阿伏兎観音(磐台寺観音堂)近世断崖の上に建つ朱塗りの観音堂。国の重要文化財…📍 沼隈町下へ ↓
吉備津神社(備後一宮)江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で…📍 新市町下へ ↓
素盞嗚神社(備後一宮)飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏の…📍 新市町下へ ↓
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福山城 伏見櫓

江戸時代(元和年間) / 📍福山駅前(福山市街)

伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最古級の三層入母屋造の現存櫓。 福山城伏見櫓は、元和8年(1622年)の福山城築城に際し、城主水野勝成が将軍徳川秀忠から下賜を受け、京都の伏見城から移築させたと伝えられる櫓である。長らく伝承とされていたが、昭和29年(1954年)の解体修理の際、梁の陰刻に「松ノ丸ノ東やく(ら)」の文字が発見され、伏見城からの移築を裏付ける確かな遺構であることが明らかになった。構造は三層入母屋造で、初層と二層を同じ柱割とし、その上にやや小さい三層を望楼状に載せる。桁行八間・梁間三間、本瓦葺の規模をもつ。慶長期の城郭建築の様式を残す初期の典型として価値が高く、昭和8年(1933年)1月23日に国の重要文化財に指定された。福山城内に現存し、特別公開が行われることもある。

🕰 時代江戸時代(元和年間)
🏛 成立・築造元和8年(1622年)水野勝成の福山城築城時に伏見城から移築。国指定重要文化財(昭和8年=1933年1月23日指定)
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目(福山城内)
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福山城

近世(江戸) / 📍丸之内

備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御門は京都伏見城からの移築と伝わる。2022年に築城400年を迎えた。

🕰 時代近世(江戸)
🏛 成立・築造1622年(元和8)・水野勝成
👤 関連水野勝成・阿部正弘
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目8
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福山城博物館

近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期) / 📍福山駅前(福山市街)

水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩の歴史を体験型展示で伝える博物館 福山城博物館は、JR福山駅のすぐ北に建つ福山城天守内に置かれた市立の歴史資料館です。福山城は1622年(元和8年)、徳川譜代の大名・水野勝成が西国鎮衛の拠点として築いた近世城郭で、天守は1931年に国宝に指定されました。しかし1945年8月の福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリート造で外観が復興され、その内部が博物館として公開されました。2022年には築城400年に合わせて大規模リニューアルされ、北面の鉄板張り(黒い装い)の再現や、一番槍レース・火縄銃などの体験型コンテンツ、デジタル映像を用いた展示が整えられ、福山城と福山藩の歴史を学べる施設となっています。城内に現存する伏見櫓と筋鉄御門は、京都・伏見城からの移築と伝えられ、国の重要文化財に指定されています。常設展は有料、月曜休館とされます。

🕰 時代近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)
🏛 成立・築造福山城は1622年(元和8年)に初代福山藩主・水野勝成が築城。天守は1945年福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリートで外観復興、内部を博物館として開館。2022年に大規模リニューアル
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目8番
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鞆の津の町並み(重伝建)

江戸時代(中世〜近代の建造物群) / 📍鞆の浦

潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と町家が一体で残る重伝建地区 鞆の浦は瀬戸内海の中央に位置し、古来「潮待ちの港」として栄え、万葉集にも詠まれた歴史を持つとされる。江戸時代には北前船など廻船の寄港地として繁栄し、朝鮮通信使の寄港地ともなった。2017年(平成29年)11月28日、「福山市鞆町伝統的建造物群保存地区」として約8.6ヘクタールが国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。範囲は鞆字西町の全域を中心に、石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地の一部に及ぶ。中世から江戸期に整えられた地割の上に、江戸時代から昭和30年代までの町家や寺社、石垣などが一体的に残る近世港町の景観が評価された。常夜燈・雁木・波止・焚場・船番所の5つの港湾施設がほぼ完全に残る点は全国でも稀とされる。広島県内では3例目の選定で、2018年には日本遺産にも認定された。

🕰 時代江戸時代(中世〜近代の建造物群)
🏛 成立・築造2017年(平成29年)11月28日に国の重要伝統的建造物群保存地区へ選定。地割は中世〜江戸期、建造物は江戸時代〜昭和30年代まで。
📍 所在地広島県福山市鞆町(鞆字西町全域ほか、字石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地字古城跡・草谷の各一部)
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鞆の浦の常夜燈と港湾施設

江戸時代 / 📍鞆の浦

江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯一の近世港、鞆港。 鞆の浦の鞆港には、常夜燈・雁木・波止・焚場(たでば)・船番所という江戸時代の港湾施設5点がほぼ揃って現存し、これらが一体で残るのは全国でも鞆港のみとされる。シンボルの常夜燈は安政6年(1859)の刻銘をもつ石造灯台で、海中の基礎石から宝珠の頂までは約12.1mに及び、江戸期の石造常夜燈としては国内最大級とされる。雁木は潮の干満に応じて船を着けられる階段状の船着き場で、半円形の港内に連続して巡らされている。波止は花崗岩を積んだ全長約146mの防波堤で、江戸後期に築かれ明治期に修築された。鞆港を含む沿岸と沖の島々一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定され、鞆町西町を中心とする区域は2017年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。日本遺産「瀬戸の夕凪が包む 国内随一の近世港町」の構成要素でもある。

🕰 時代江戸時代
🏛 成立・築造常夜燈は安政6年(1859)造立とされる。雁木・波止・焚場・船番所は江戸後期築造、波止は明治期に修築。鞆港一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定。
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆
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福山市鞆の浦歴史民俗資料館

近代(昭和) / 📍鞆の浦

鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬戸内の歴史・民俗を伝える市立資料館 福山市鞆の浦歴史民俗資料館は、広島県福山市鞆町後地に建つ市立の博物館で、「潮待ちの館」の愛称で親しまれる。1977年(昭和52年)からの地元有志による調査・収集活動を背景に、福山市制70周年記念事業として1988年(昭和63年)に開館した。立地は、福島正則が築いたとされる鞆城跡(福山市指定史跡)の高台で、瀬戸内海を見渡せる。万葉の時代から潮待ち・風待ちの港として栄えた鞆の浦を中心に、古代から近世にいたる歴史資料を展示。鯛網漁のジオラマや錨を製造した鍛冶場、朝鮮通信使関連資料、保命酒に関する資料に加え、お手火神事・お弓神事といった地域の民俗文化財も常設展示する。鞆の歴史と暮らしを総合的に学べる拠点とされる。

🕰 時代近代(昭和)
🏛 成立・築造1988年(昭和63年)開館。福山市制70周年記念事業として建設。建つ鞆城跡は福島正則が築いたとされる(福山市指定史跡)
📍 所在地広島県福山市鞆町後地536-1
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太田家住宅

江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期) / 📍鞆の浦

鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で、国の重要文化財 鞆の浦を代表する歴史的建造物で、薬用酒「保命酒」の醸造で財を成した商家の旧宅。もとは大坂の漢方医を出自とする中村家の屋敷で、明暦元年(1655年)に鞆へ移り住み、まもなく十六味地黄保命酒の製造・販売を始めて大ヒットし、福山藩の御用名酒屋として販売独占権を得たとされる。明治期に廻船業を営んだ太田家が継承し、現在の名で呼ばれる。主屋を中心に保命酒蔵や各種土蔵など九棟が建ち並び、建築年代は18世紀中期から19世紀前期に及ぶ。瀬戸内の商家建築を伝える貴重な遺構として、1991年に国の重要文化財に指定された。幕末には三条実美ら尊王攘夷派の公卿が立ち寄ったと伝わり、別宅の朝宗亭とともに「鞆七卿落遺跡」として広島県の史跡(1940年指定)にもなっている。

🕰 時代江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)
🏛 成立・築造主屋は18世紀中期、ほか北保命酒蔵が天明8年(1788年)、西蔵が寛政元年(1789年)、東保命酒蔵が寛政7年(1795年)など18世紀中期〜19世紀前期。国の重要文化財指定は1991年(平成3年)5月31日。
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆842
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いろは丸展示館

近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期) / 📍鞆の浦

坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵を活かした資料館 鞆の浦のシンボル常夜灯(とうろどう)のすぐそばに建つ資料館。1867年(慶応3年)、坂本龍馬と海援隊が運航したいろは丸が紀州藩の明光丸と備後灘で衝突・沈没した「いろは丸事件」を伝える施設で、その談判が鞆の浦で行われた縁にちなむ。建物は江戸期に建てられた太い梁が印象的な土蔵で、地元では「大蔵」と呼ばれ、国の登録有形文化財とされる。館内には海底に沈むいろは丸を再現したジオラマ、引き揚げられた陶器や部品、調査風景の写真などを展示し、2階には龍馬が宿泊先で身を潜めたという「隠れ部屋」が再現され、龍馬の蝋人形も置かれている。1989年(平成元年)7月の開館。幕末史と鞆の港町文化を同時に味わえるスポットである。

🕰 時代近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)
🏛 成立・築造1989年(平成元年)7月開館。建物は江戸期築の土蔵「大蔵(浜蔵)」で、国の登録有形文化財とされる。展示題材のいろは丸事件は1867年(慶応3年)
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆843-1
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仙酔島

古代(地質)/近代(指定) / 📍鞆の浦

鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連なる瀬戸内海国立公園の名勝 仙酔島は鞆の浦の沖合に浮かぶ周囲約6キロの島で、住所は福山市鞆町後地。鞆港から市営渡船で約5分の距離にあり、観光客の往来はあるが定住者のいない無人島とされる。1925年(大正14年)に国の名勝「鞆公園」の一部として指定され、1934年(昭和9年)には日本で最初に指定された国立公園・瀬戸内海国立公園に含まれた。島は約9000万年前の大規模な火山活動による溶結凝灰岩を主体とし、南側海岸には青・赤・黄・白・黒の岩が200メートル以上連なる「五色岩」が見られ、地質的に貴重とされる。「仙人が酔うほど美しい島」が名の由来と言われる。江戸後期の学者・頼山陽が当地の景観を「山紫水明」と評したとも伝わる。

🕰 時代古代(地質)/近代(指定)
🏛 成立・築造1925年(大正14年)国名勝「鞆公園」に指定。1934年(昭和9年)日本初の国立公園・瀬戸内海国立公園に編入。島自体は約9000万年前の火山活動で形成されたとされる
📍 所在地広島県福山市鞆町後地
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吉備津神社(備後一宮)

江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる / 📍新市・北部

備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で「いっきゅうさん」と親しまれる古社 福山市新市町宮内に鎮座する備後国一宮で、地元では「一宮さん(いっきゅうさん)」と親しまれる。社伝では大同元年(806年)に吉備国の吉備津神社から勧請し創建されたと伝わるが、延喜式神名帳に記載がないことなどから実際の成立はより後とする説もある。主祭神は吉備国を治めたとされる大吉備津彦命。現在の本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が旧規模にならい造営したもので、桁行七間・梁間四間の入母屋造檜皮葺、国の重要文化財に指定されている。ほかにも木造狛犬や太刀などが重要文化財として伝えられ、複数の建造物が広島県・福山市指定文化財となっている。隣接する櫻山城跡なども史跡として知られ、備後の信仰と歴史を今に伝える。

🕰 時代江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる
🏛 成立・築造本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が造営、国の重要文化財。創建は大同元年(806年)と伝わるが諸説ある
📍 所在地広島県福山市新市町宮内400
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素盞嗚神社(備後一宮)

飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮 / 📍新市・北部

祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏のけんか神輿で名高い古社 福山市新市町戸手に鎮座する素盞嗚神社は、『延喜式神名帳』に載る式内社で備後国一宮を称し、旧社格は県社です。主祭神は素盞嗚尊で、稲田姫命・八王子を配祀します。社伝では天武天皇の治世、7世紀ごろ(679年か)の創建とされます。『釈日本紀』所収の「備後国風土記」逸文に伝わる蘇民将来説話の舞台「疫隈国社」と結びつけられ、茅の輪くぐりや祇園信仰・祇園祭発祥の地の一つとされています。神仏習合期には牛頭天王を祀り、遣唐使・吉備真備が734年に当社から播磨の広峯神社へ勧請したとも伝わります。毎年7月の例祭では、勇壮なけんか神輿(神輿合わせ)が行われることで知られます。

🕰 時代飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮
🏛 成立・築造社伝では天武天皇期の7世紀ごろ(679年か)創建とされる。『延喜式神名帳』記載の式内社で、旧県社
📍 所在地広島県福山市新市町大字戸手1-1

図鑑は一覧で全体像をつかみ、比較表で年代や所在地を見比べ、詳細で個別の解説を読む、という三段階で使うと理解が深まります。気になる史跡をいくつかピックアップしてから、現地を巡るとよいでしょう。

そもそも「国府」とは何か——律令国家の地方統治のかなめ

芦田川の河口部
芦田川の河口部(画像:Wikimedia Commons / CC)

備後国府の話に入る前に、「国府」という言葉そのものを整理しておきましょう。これを押さえておくと、府中という地名の意味も、遺跡から何が読み取れるのかも、ぐっと分かりやすくなります。

7世紀後半から8世紀にかけて、日本は中国の制度にならった「律令(りつりょう)」と呼ばれる法体系のもとで、中央集権的な国家のしくみを整えていきました。701年の大宝律令によって体制がほぼ完成したとされ、全国は「令制国(りょうせいこく)」と呼ばれる行政単位に区分されます。備前・備中・備後・安芸・周防といった国名は、この令制国に由来するものです。

それぞれの令制国には、中央政府から「国司(こくし)」と呼ばれる役人が派遣されました。国司は任地に赴き、徴税・戸籍の管理・裁判・治安維持・軍事など、地方統治のほぼ全般を担いました。その国司が政務を執った官庁の中心施設を「国庁(こくちょう)」、国庁とその周囲に集まる役所群を「国衙(こくが)」と呼びます。そして、国庁・国衙を核として計画的に整備された都市域全体を総称して「国府」と呼びました。

国庁・国衙・国府——紛らわしい三つの言葉

「国庁」「国衙」「国府」は、しばしば混同されますが、厳密には指す範囲が異なります。最も狭いのが、政務の中枢施設である国庁。それを取り巻く役所群まで含めたのが国衙。さらに官人の住まいや関連施設まで含めた都市域全体が国府、という入れ子の関係です。一般的な公的解説では、国庁を含む役所域を国衙とし、その所在地として設定された都市を国府と呼ぶ、と整理されています。

国庁の構造には全国的な共通性があったことが、各地の発掘調査から分かっています。公的資料によれば、国庁の敷地はおおむね一町(約109メートル)四方の方形をなし、その中央やや北寄りに正殿を置き、前殿や後殿を伴い、東西に脇殿を対称形に配置するのが典型とされます。中央の都の宮殿配置を地方に縮小して写したような、整然とした左右対称の空間でした。地方に下った人々の目に、この整った官衙はさぞ威厳をもって映ったことでしょう。

「府中」「国府(こう)」という地名の正体

こうした国府が置かれた土地は、後の時代まで地名として記憶されました。古代の国府の所在地は、現代でも「国府」と書いて「こう」と読む地名として各地に残っています。一方「府中」は、中世から近世にかけて広く定着した地名で、当時の国府あるいは守護所の所在地に由来するとされます。つまり「府中」という地名は、その土地がかつて国府であった——あるいはそれに準ずる政治の中心であった——ことの動かぬ証言なのです。

備後国の場合、現在の広島県府中市が、まさにこの「府中=国府の地」にあたります。地名が、千年以上の時を越えて、古代の行政中心地を指し示し続けているわけです。これは備後に限った話ではなく、東京都の府中市(武蔵国府)など、全国各地に同じ由来をもつ「府中」が存在します。

備後国の成り立ち——吉備国の分割から

備後国府を理解するには、そもそも「備後国」がいつ、どのように生まれたのかを知る必要があります。備後は最初から独立した国だったわけではありません。

古代、現在の岡山県から広島県東部にかけての一帯には、「吉備国(きびのくに)」と呼ばれる大きなまとまりが存在しました。畿内の大和政権に拮抗しうる勢力を誇ったとも語られる、有力な地域です。律令制への移行が進むなかで、この大きな吉備国は分割されていきます。一般的な説明では、7世紀後半、持統天皇3年(689年)の飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)の施行にともなって、吉備国が備前・備中・備後の三国に分けられたとされます。さらに約20年後の和銅6年(713年)に、備前国の内陸部が美作国(みまさかのくに)として分立しました。

「備前・備中・備後」という名は、都(畿内)に近い側から順に「前(さき)・中(なか)・後(しり)」を付したものと説明されます。すなわち備後とは「吉備のうち、都から最も遠い側」を意味する国名です。こうして成立した備後国の行政中枢として置かれたのが、備後国府でした。

備後国の範囲と位置づけ

備後国は、おおむね現在の広島県東部にあたります。福山市・府中市・尾道市・三原市の一部・神石高原町・世羅町などを含む範囲で、瀬戸内海に面した港湾部から、芦田川(あしだがわ)流域の盆地、さらに内陸の山間部までを抱える、地形的にも変化に富んだ国でした。

瀬戸内海の海上交通の要衝を抱え、また山陽道という古代の幹線道路が東西に貫いていたことから、備後は交通・物流の面でも重要な位置を占めていました。国府の立地を考えるうえでも、この交通の便は無視できない要素だったと考えられます。

令制国は、その規模や重要度に応じて、大国・上国・中国・下国という等級に区分されていました。備後国はこの区分のなかで上位に位置づけられる国の一つとされ、相応の人口と生産力をもつ国だったと考えられています。等級は、配置される官人の数や、国司に求められる職務の重さにも関わるもので、備後が瀬戸内地域のなかで一定の比重を占める国であったことを物語ります。広い平野と港、幹線道路を抱えるこの国の中枢として、府中の国府は機能していたのです。

国分寺と国府——セットで整備された古代の拠点

律令国家は、各国に行政の中枢である国府を置くとともに、聖武天皇の詔(741年)によって、国ごとに国分寺(こくぶんじ)・国分尼寺を建立させました。仏教の力で国家を鎮護しようとする政策で、これも全国共通のしくみです。

備後国にも国分寺が建立されました。その後継とされるのが、現在の福山市神辺町下御領にある真言宗大覚寺派の備後国分寺で、境内の南側に古代の国分寺跡が所在するとされます。奈良時代創建と伝わる備後国分寺は、戦国期に衰退し、天文7年(1538年)の神辺の合戦で堂宇を焼失、天文19年(1550年)に薬師如来を本尊として再建されたと伝えられます。国府と国分寺は、古代備後の「政治の中心」と「宗教の中心」を担う両輪であり、両者の位置関係を考えることは、古代備後の空間構造を読み解く手がかりになります。

備後国府はどこにあったのか——文献が語る所在地

福山城
福山城(画像:Wikimedia Commons / CC)

いよいよ本題です。備後国府は、いったいどこにあったのでしょうか。これを考えるとき、手がかりは大きく二つあります。一つは古代・中世の「文献」、もう一つは現代の「発掘調査」です。まずは文献から見ていきましょう。

『和名類聚抄』が記す「国府在葦田郡」

備後国府の所在地を伝える代表的な文献が、平安時代中頃(10世紀)に編纂された百科辞書『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』です。源順(みなもとのしたごう)が編んだとされるこの書物には、諸国の郡郷名とともに国府の所在郡が記されており、備後国の項には「国府在葦田郡(こくふは あしだぐんに あり)」と記録されているとされます。「葦田郡」は「芦田郡」とも表記され、現在の府中市から福山市北部にかけての一帯にあたると考えられています。

この一行が重要なのは、文献史料として備後国府の大まかな所在地を裏付けているからです。芦田郡——すなわち芦田川中流域——に国府があった、という古代の証言が、後世の発掘成果と整合するかどうかが、長く研究の焦点となってきました。

推定地は府中市元町周辺

府中市教育委員会など公的機関の解説によれば、備後国府は現在の府中市街地の北半、なかでも元町(もとまち)を中心とする一帯に所在したと推定されています。国庁そのものは元町付近にあったと考えられており、この推定は、後述する継続的な発掘調査の成果によって裏付けられてきました。

芦田川の中流域に位置するこの一帯は、山陽道とも近く、内陸の交通の結節点でもありました。瀬戸内の港湾部から芦田川をさかのぼった先にあたるこの地が、備後一国を治める拠点として選ばれた——その背景には、水運・陸運の双方を見据えた立地の合理性があったと考えられます。なお、国府の正確な範囲や中枢施設の位置については、なお検討が続けられている部分もあり、断定を避けるべき点が残されていることも申し添えます。

発掘が明かした備後国府——昭和42年からの調査

文献が「芦田郡」「府中市街地北半」という大まかな位置を示すのに対し、その姿を具体的に描き出してきたのが、半世紀以上にわたる発掘調査です。

1967年(昭和42年)以降の継続調査

備後国府跡の発掘調査は、昭和42年(1967年)以降、府中市街地で継続的に行われてきました。その積み重ねによって、元町を中心とする一帯に、整然と配置された大型建物跡や、行政の中枢を物語る遺物が集中して見つかり、ここに古代備後の政治拠点が存在したことが、考古学的にも強く裏付けられるようになりました。

調査の結果、遺構は8世紀から12世紀に及ぶ長い期間にわたって変遷を重ねていたことが判明しています。建物の建て替えや構造の変化が時期ごとに追えることで、備後国府がどのように成立し、最盛期を迎え、やがて衰えていったのか——その移り変わりが具体的に見えてきたのです。

史跡指定された三つの地区

長年の調査成果を踏まえ、備後国府跡は複数の地区にまたがって国の史跡に指定されています。公的資料で言及される主な地区は、「ツジ地区(辻地区)」「金龍寺東(きんりゅうじひがし)地区」「伝吉田寺(でんきちでんじ)地区」です。

ツジ地区では、8世紀の段階で、ほぼ方形の区画溝に囲まれた大型の掘立柱(ほったてばしら)建物が確認されました。掘立柱建物とは、礎石を用いず、地面に掘った穴に直接柱を立てる建築様式です。その後、9世紀以降には礎石を据えた礎石建物へと建て替えられ、10世紀後半頃まで存続したことが分かっています。地面に柱を直接立てる簡素な建築から、礎石を用いた格式ある建築へ——この変化は、国府という施設が時代とともに整備・格上げされていった過程を示すものと解釈されています。

これらの地区が「国の史跡 備後国府跡」として面的に指定されたことは、単発の遺構ではなく、一定の広がりをもった官衙(かんが)空間がここに存在したことを物語ります。

出土した遺物——印章・帯金具・国府瓦

備後国府跡からは、ここが役所であったことを裏付ける、性格のはっきりした遺物が数多く出土しています。

とりわけ象徴的なのが、銅製の印章です。府中市の公的資料では、出土した銅印として「賀友私印(かゆうしいん)」が挙げられています。私印とは、官人個人などが用いた印で、文書行政が行われていたこと、すなわち文字を扱う役所がここにあったことを示す重要な物証です。印章の存在は、口頭の伝達ではなく、書類に印を押して処理する律令的な行政が、この地で実際に機能していたことを物語ります。

あわせて、国司ら官人が身につけたとみられる腰帯具(ようたいぐ)も出土しています。これは官位・身分に応じて着用が定められた帯の金具で、ここに官人が常駐していたことを裏づける遺物です。さらに、内部に鉛ガラス製のビーズ数十個を納めた奈良三彩(ならさんさい)の小壺も発見されたとされ、当時の高い工芸水準と、中央とのつながりをうかがわせます。

建築部材では、「備後国府瓦」とも称される文様をもつ瓦が知られ、緑釉(りょくゆう)陶器や輸入された陶磁器、陶硯(とうけん=焼き物の硯)、祭祀(さいし)に用いられた土器、そして「権介(ごんのすけ)」など官職名を記した墨書(ぼくしょ)土器なども出土しています。「権介」は国司の次官級の官職を指す語で、こうした文字資料は、ここで暮らし働いた人々の役職や日常を、断片的ながら直接に語りかけてくれます。

遺物が語る「役所」の実像

印章、官人の帯金具、硯、官職名を記した墨書土器——これらはいずれも、ここが単なる集落ではなく、文書を作成し、官位をもつ役人が常駐し、税や行政を処理した「役所」であったことを、別々の角度から裏づける物証です。一つひとつは小さな遺物ですが、組み合わせて読むと、千年以上前にこの地で営まれた行政の現場が、にわかに立ち上がってくるのです。

緑釉陶器や輸入陶磁器、奈良三彩といった「格の高い」器が出土することは、ここが中央とつながる地方の拠点であり、相応の格式をもった場であったことを示します。地方の一役所とはいえ、都の文化が確かにここまで届いていたことが、遺物を通して見えてきます。

いつ栄え、いつ消えたのか——備後国府の盛衰

発掘調査が明らかにした最大の成果の一つが、備後国府の「時間軸」です。遺構の変遷から、その盛衰の過程を追うことができます。

8世紀の成立から最盛期へ

遺構の年代観によれば、備後国府は8世紀(奈良時代)の段階で、すでに方形区画に囲まれた大型建物を備えた官衙として成立していたとみられます。律令制の確立と歩調を合わせるように、地方統治の拠点が整えられていったのです。9世紀以降には掘立柱建物から礎石建物への建て替えが進み、施設としての整備が一段と進んだことがうかがえます。

10〜12世紀の変質、そして衰退

遺構は12世紀(平安時代後期)まで続いていたことが確認されていますが、律令制そのものが10世紀以降に変質していくのにともない、国府の役割やかたちも次第に変化していったと考えられます。中央集権的な律令体制が緩み、地方の実権が在地勢力へと移っていく流れのなかで、整然とした官衙としての国府は、その姿を保ちにくくなっていきました。

そして、公的資料の整理によれば、備後国府は13世紀(鎌倉時代)に入る頃には急速に衰退したとされます。武士の時代の到来とともに、古代以来の国府という統治拠点は、歴史的な役割を終えていったのです。約1300年前に成立し、おおよそ500年にわたって機能したと説明されるこの拠点は、地中に整然と残された建物跡と遺物を残して、静かに地表から姿を消しました。

なぜ「府中」だけが残ったのか

国府そのものは失われても、「府中」という地名は生き延びました。建物が朽ち、官人が去っても、その土地が「国の府(役所)のあった場所」であるという記憶は、地名というかたちで人々のあいだに受け継がれていったのです。府中市という現代の自治体名は、いわば古代備後の行政中枢が現在まで残した最大のモニュメントだといえるでしょう。地図の上に、千年の歴史が刻まれているのです。

国府で人々はどう働き、暮らしたのか

遺構や遺物から、備後国府で実際に営まれていた仕事や暮らしの姿を、できるだけ具体的に思い描いてみましょう。古代の役所は、現代の私たちが想像する以上に多様な機能を抱えた、いわば総合官庁でした。

国司——中央から派遣された官人たち

国府で政務の頂点に立ったのが国司です。国司は中央政府から任期を定めて派遣される官人で、守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)という四等官(しとうかん)の序列をもっていました。備後国府跡から「権介(ごんのすけ)」と記された墨書土器が出土しているのは、まさにこの国司クラスの官職名が、この地で日常的に使われていたことを示す物証です。「権介」は介に準ずる次官級の官職を指し、文字資料としてその存在が確認できる意義は小さくありません。

国司は単身あるいは家族・従者を伴って任地に下り、任期のあいだ国府に常駐しました。彼らが身につけた腰帯具が出土していることは、こうした官人がここで実際に職務にあたっていたことの裏づけです。都から遠く離れた備後の地で、中央の官制をそのまま持ち込んだ統治が行われていた——遺物は、そのことを静かに証言しています。

徴税と文書行政——印章と硯が語るもの

国府の最も重要な仕事の一つが、税の徴収と管理でした。律令制下では、人々は租(そ=米)・庸(よう=労役または布)・調(ちょう=特産物)などの負担を課され、戸籍や計帳に基づいて徴収が行われました。こうした事務は膨大な文書のやりとりを必要とし、文字を書く道具——硯(すずり)や墨が欠かせません。備後国府跡から陶硯(とうけん)が出土していることは、ここで日々文書が作成されていたことを物語ります。

そして、作成された文書には印章が押されました。出土した銅印「賀友私印」は、文書行政が口頭ではなく書面と押印によって厳密に進められていたことを示す、象徴的な遺物です。印を押すという行為は、その文書に公的・私的な責任と効力を与えるもので、律令的な行政の根幹をなしていました。小さな銅印一つに、古代の役所の「決裁」の現場が凝縮されているのです。

祭祀と日常——役所を超えた空間として

国府は、政治・行政の場であると同時に、祭祀(さいし)の場でもありました。備後国府跡から祭祀に用いられたとみられる土器が出土していることは、ここで国の安寧や豊作を祈る儀礼が営まれていたことをうかがわせます。また、緑釉陶器や輸入陶磁器、奈良三彩といった格の高い器の存在は、国府が単なる事務所ではなく、相応の格式と文化を備えた空間であったことを示しています。

こうして見ると、備後国府は、徴税・裁判・治安・軍事といった統治の実務から、祭祀という精神的な営みまでを一手に担う、古代備後の総合的な中枢だったことが分かります。地中に残された遺物の一つひとつが、その多面的な役割を、現代の私たちに語りかけてくれるのです。

国の史跡「備後国府跡」——指定とその意義

長年の調査の積み重ねは、文化財としての公的な評価へと結実しました。

2016年の史跡指定と2019年の追加指定

備後国府跡は、平成28年(2016年)10月3日に国の史跡に指定されました。これは、府中市街地で半世紀にわたり積み重ねられてきた発掘調査の成果が、国家的な価値をもつものとして認められたことを意味します。さらに令和元年(2019年)6月21日には、伝吉田寺地区が追加で指定され、史跡の範囲が広げられました。

国の史跡指定は、その遺跡が日本の歴史を理解するうえで欠かせない価値をもつことを公的に認めるものです。備後国府跡が指定されたことは、古代の地方統治の実態を具体的に物語る稀少な遺跡として、全国的にも重要であると評価されたことを示しています。

保存と活用——これからの備後国府跡

史跡に指定された遺跡は、開発から守られ、後世へと引き継がれていきます。同時に、その価値を地域の人々や訪れる人に分かりやすく伝えるための整備・活用も進められます。府中市では、備後国府跡に関する発掘調査報告書の刊行や情報発信が行われており、市の歴史的アイデンティティの核として位置づけられています。なお、現地は市街地のなかにあり、見学にあたっては最新の公開状況を各施設・自治体の公式情報で確認することをおすすめします。

なぜ府中の地が選ばれたのか——立地を読み解く

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交通の結節点としての優位

第一に挙げられるのが、交通の便です。古代には、都と地方を結ぶ官道として山陽道が東西に整備され、瀬戸内沿岸の各国を貫いていました。府中の地は、この陸上交通の幹線に近く、かつ芦田川の水運も利用できる位置にありました。陸と水の両方の交通路を押さえられることは、税として集めた物資の輸送や、中央との連絡を考えるうえで大きな利点だったといえます。国府には、各地から税が運び込まれ、また都へと送り出される物流の拠点という役割もあったからです。

2

平野と後背地——統治に適した地勢

第二に、農業生産の基盤となる平野部を後背地に抱えていたことが挙げられます。芦田川流域には耕作に適した低地が広がり、人口を支える農地が確保できました。律令制の根幹は人と土地の把握にあり、戸籍に基づく徴税を行う以上、ある程度の人口と生産力をもつ地域に中枢を置くのは合理的です。芦田川中流域は、まさにそうした条件を満たす地でした。

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瀬戸内海とのつながり

第三に、瀬戸内海の海上交通とのつながりも見逃せません。芦田川をくだれば瀬戸内海に至り、海路で都(畿内)や他国とつながることができました。出土した輸入陶磁器や奈良三彩などの「外から来た品」は、こうした交通網を通じて中央や大陸の文物がこの地に届いていたことを示します。内陸でありながら海ともつながるという立地が、備後国府を地方の一拠点にとどまらない、開かれた中枢たらしめていたと考えられます。ただし、国府立地の選定理由を直接に記した古代史料は乏しく、ここで述べた点はあくまで地勢と交通からの解釈であることを申し添えます。

ゆかりの地・現在に残るもの——古代備後を歩く

備後国府跡そのものは市街地に重なって残るため、礎石が地表に整然と並ぶような分かりやすい遺構を一望できるわけではありません。けれども、古代備後の面影を感じられる場所は、府中・福山一帯に点在しています。

府中市元町周辺——国府の中心地

備後国府の中枢が推定される府中市元町周辺は、いわば古代備後の「霞が関」にあたる場所でした。今は市街地となっていますが、足もとの地中に千年以上前の役所が眠っていると思って歩くと、見慣れた町並みも違って見えてきます。発掘調査の成果や解説は、市の刊行物・公式情報で確認できます。

備後国分寺(福山市神辺町)——国府の宗教的パートナー

国府が政治の中心なら、その宗教面を担ったのが国分寺です。福山市神辺町下御領の備後国分寺は、古代の備後国分寺の法燈を継ぐとされる寺院で、境内の南には古代国分寺跡が所在するとされます。国府と国分寺をあわせて訪ねることで、古代備後を「政治」と「宗教」の両面から立体的にとらえることができます。

芦田川と神辺平野——古代備後の舞台

備後国府が置かれた芦田川中流域から、その下流に広がる神辺平野・福山平野一帯は、古代備後の人々が暮らし、耕し、行き交った舞台です。芦田川の流れに沿って広がるこの低地と、それを囲む丘陵地形を意識しながら巡ると、なぜこの地に国府が置かれたのか——水運と農地、交通の要という立地条件が、実感をもって理解できます。

中世・近世へと続く備後の歩み

古代の国府が衰退したのち、備後の歴史は中世・近世へと舞台を移していきます。芦田川河口部に栄えた中世の港町・草戸千軒(くさどせんげん)と明王院は、国府が衰えたあとの中世備後の経済的な賑わいを今に伝えます。そして近世には、福山藩の城下町として福山城が築かれ、政治の中心は再び移り変わっていきました。古代の府中(国府)から、中世の草戸千軒、近世の福山城下町へ——備後の中心地がどのように移ろってきたかを追うと、地域史の大きな流れが見えてきます。

古代から近世まで——備後の中心地はどう移ったか

備後国府を理解するうえで興味深いのは、それが「備後の中心地」の歴史のなかで、どの位置に立つのかという点です。中心地は、時代とともに移動してきました。

古代=府中(国府)の時代

奈良〜平安時代、備後の政治的中心は、芦田川中流域の府中(国府)にありました。律令国家の地方統治の拠点として、ここに国司が常駐し、徴税・裁判・軍事を司ったのです。内陸の交通の結節点であり、芦田川の水運も利用できるこの地は、古代の統治拠点として理にかなった選択でした。

中世=港町と山城の時代

律令制の衰退とともに国府が役割を終えると、中世の備後では、経済の拠点と軍事の拠点が分かれていきます。芦田川河口の草戸千軒は、瀬戸内海交易で栄えた港町として知られ、いっぽう神辺など内陸の要地には城が築かれ、在地勢力が割拠しました。古代のような「一国を一カ所で統べる」整然とした体制から、より分散的で流動的な時代へと移っていったのです。

近世=福山城下の時代

江戸時代に入ると、瀬戸内海に面した地に福山城が築かれ、城下町が整備されて、備後南部の政治・経済の中心はこの新しい都市へと集約されていきます。古代の府中(国府)から数百年を経て、備後の中心はふたたび大きく姿を変えました。こうして俯瞰すると、備後国府は「最初の中心地」として、その後の地域史のすべての出発点に位置づけられることが分かります。

備後国府 関連年表

ここまで見てきた流れを、年表のかたちで整理します。古代の事象には文献の制約から推定を含むものがあり、年代に幅や諸説がある点はご了承ください。

時期 できごと
7世紀後半(689年・飛鳥浄御原令施行頃) 吉備国が備前・備中・備後の三国に分割されたとされる
701年 大宝律令の完成。律令制による地方統治の体制がほぼ整う
713年(和銅6年) 備前国の内陸部が美作国として分立
8世紀(奈良時代) 備後国府が方形区画の大型建物を備えた官衙として成立(発掘成果より)
741年 聖武天皇の詔により諸国に国分寺・国分尼寺の建立が命じられる(備後国分寺もこの流れ)
9世紀以降 掘立柱建物から礎石建物への建て替えが進む
10世紀(平安中期) 『和名類聚抄』に「国府在葦田郡」と記される
12世紀(平安後期) 遺構はこの頃まで存続が確認される
13世紀(鎌倉時代)頃 備後国府は急速に衰退したとされる
1967年(昭和42年)以降 府中市街地で継続的な発掘調査が始まる
2016年(平成28年)10月3日 「備後国府跡」が国の史跡に指定される
2019年(令和元年)6月21日 伝吉田寺地区が追加指定される

モデルコース——古代備後をたどる一日

備後国府跡を中心に、古代から近世までの備後の歩みを体感する巡り方を提案します。市街地に重なる遺跡が多いため、「足もとの歴史を想像しながら歩く」のがこのコースの楽しみ方です。実際に訪れる際は、各施設の公開時間・休館日などを公式情報で必ず確認してください。

午前|府中市元町——国府の中心へ

まずは備後国府の中枢が推定される府中市元町周辺へ。古代の役所がこの地下に眠っていたことを念頭に、町並みを歩いてみましょう。府中市が刊行する発掘調査の資料や解説に目を通しておくと、見えない遺跡が頭のなかで立ち上がってきます。「ここが備後一国を治めた場所だったのか」と思いながら歩くと、ただの市街地が古代史の現場へと変わります。

昼〜午後|備後国分寺(福山市神辺町)へ

午後は福山市神辺町の備後国分寺へ移動します。国府(政治)と国分寺(宗教)という、古代備後を支えた二つの中枢を一日で巡ることで、律令国家が地方をどう統治しようとしたのかが、空間として理解できます。神辺平野の地形や芦田川の流れにも目を向けてみてください。

夕方|中世・近世の備後へ足を延ばす

時間と体力に余裕があれば、古代の次の時代へと足を延ばすのもおすすめです。中世の港町の賑わいを伝える草戸千軒・明王院や、近世福山藩の象徴福山城を訪ねれば、「備後の中心地が古代→中世→近世へとどう移り変わったか」を一日のうちに体感できます。さらに足を延ばすなら、瀬戸内の港町・鞆の浦も魅力的です。鞆の浦の街並み福禅寺 対潮楼は、古代以来の瀬戸内海上交通の重要性を、今に伝えてくれます。

巡り方のコツ

このコースは「遺構を見る」よりも「歴史を想像する」旅です。事前に府中市の公式情報や郷土資料に目を通し、地形図で芦田川の流れと平野の広がりを頭に入れておくと、現地での理解が格段に深まります。古代史好きの方は、出土遺物の展示状況を事前に確認し、博物館・資料館の見学を組み込むとよいでしょう。

また、季節や時間帯を意識すると、巡る楽しみが増します。芦田川沿いの地形は、川の流れと平野、それを縁取る丘陵の関係が見渡せる見晴らしのよい場所から眺めると、古代の人々がなぜこの地を選んだのかが体感的に分かります。古代史は文献も遺構も限られるぶん、現地に立って地形を読み、想像力を働かせることが、何よりの「学び」になります。歩きながら、千年前にここを行き交った国司や人々の姿を思い描いてみてください。なお、史跡や寺社はそれぞれ管理者や公開条件が異なりますので、見学マナーを守り、私有地への立ち入りなどには十分ご注意ください。

よくある質問(FAQ)

Q備後国府はどこにあったのですか?
A

現在の広島県府中市に置かれたとされます。公的機関の解説では、府中市街地の北半、とくに元町を中心とする一帯が推定地とされ、国庁も元町付近にあったと考えられています。平安中期の『和名類聚抄』にも「国府在葦田郡(芦田郡)」と記されており、芦田川中流域に国府があったことが文献からも裏づけられます。

Q「国府」とは何ですか?
A

律令国家が各令制国に置いた地方行政の中枢都市域のことです。中央から派遣された国司が政務を執った中心施設を「国庁」、その周囲の役所群を含めて「国衙」、それらを核とする都市域全体を「国府」と呼びます。徴税・裁判・治安・軍事など、地方統治の全般を担う拠点でした。

Qなぜ府中市は「府中」というのですか?
A

「府中」は、かつて国府(あるいは守護所)が置かれた土地に由来する地名とされます。備後国府がこの地にあったことから、その記憶が「府中」という地名として受け継がれてきました。同じ由来をもつ「府中」は全国各地に存在します。

Q備後国はいつ成立したのですか?
A

7世紀後半、持統天皇3年(689年)の飛鳥浄御原令の施行にともない、大きな吉備国が備前・備中・備後の三国に分割されて成立したとされます。さらに713年(和銅6年)に、備前国から美作国が分立しました。

Q備後国府はいつ頃まであったのですか?
A

発掘調査では、遺構が8世紀から12世紀に及ぶことが確認されています。13世紀(鎌倉時代)に入る頃には急速に衰退したとされ、約1300年前に成立し、およそ500年にわたって機能したと説明されています。

Q備後国府跡からはどんな遺物が出土していますか?
A

府中市の公的資料では、銅印「賀友私印」、官人が身につけた腰帯具、鉛ガラスのビーズを納めた奈良三彩の小壺などが挙げられています。ほかにも「備後国府瓦」と称される瓦、緑釉陶器、輸入陶磁器、陶硯、「権介」など官職名を記した墨書土器なども見つかっており、ここが役所であったことを裏づけています。

Q「賀友私印」とは何ですか?
A

備後国府跡から出土したとされる銅製の印章です。私印は官人個人などが用いた印で、その存在は、ここで文書に印を押して処理する行政が実際に行われていたことを示す重要な物証とされています。

Q備後国府跡は国の史跡ですか?
A

はい。「備後国府跡」は2016年(平成28年)10月3日に国の史跡に指定され、2019年(令和元年)6月21日に伝吉田寺地区が追加指定されました。ツジ地区・金龍寺東地区・伝吉田寺地区などが指定対象に含まれます。

Q発掘調査はいつから行われているのですか?
A

府中市街地での備後国府跡の発掘調査は、昭和42年(1967年)以降、継続的に行われてきました。その積み重ねにより、8世紀から12世紀に及ぶ遺構の変遷が明らかになっています。

Q備後国分寺との関係は?
A

国府が政治の中枢なら、国分寺は聖武天皇の詔(741年)で各国に建てられた仏教の中枢です。福山市神辺町下御領の備後国分寺は、古代備後国分寺の法燈を継ぐとされ、境内南に古代国分寺跡が所在するとされます。国府と国分寺をあわせて巡ると、古代備後を政治と宗教の両面から理解できます。

Q現地では何が見られますか?
A

備後国府跡は市街地と重なって残るため、礎石が一面に並ぶような遺構を一望できるわけではありません。古代備後の面影をたどるには、府中市元町周辺、福山市神辺町の備後国分寺、芦田川中流域の地形などを、市の刊行物や郷土資料を手がかりに巡るのがおすすめです。見学の際は公開状況を公式情報でご確認ください。

Q備後の中心地は時代とともにどう変わりましたか?
A

古代は芦田川中流域の府中(国府)が政治の中心でした。中世には芦田川河口の港町・草戸千軒が経済的に栄え、近世には瀬戸内に福山城が築かれて城下町が中心となります。古代の府中→中世の草戸千軒→近世の福山城下、という移り変わりが、備後地域史の大きな流れです。

Q福山・備後の歴史をまとめて知るには?
A

古代から近世までの福山・備後の歴史の流れは、福山の歴史まるわかり通史ガイドで一望できます。本記事で扱った備後国府を、地域史全体のなかに位置づけて理解するのに役立ちます。

まとめ——「府中」という地名が語り続けるもの

備後国府はどこにあったのか——その答えは、現在の広島県府中市、なかでも府中市街地北半の元町を中心とする一帯にあったとされる、というものでした。平安中期の『和名類聚抄』が記す「国府在葦田郡」という一行と、昭和42年以降に積み重ねられた発掘調査の成果が、その所在を文献と考古の両面から裏づけています。

地中から掘り出された銅印「賀友私印」、官人の腰帯具、官職名を記した墨書土器、そして格式高い緑釉陶器や奈良三彩——これらの遺物は、ここが単なる集落ではなく、文書を作り、官位をもつ役人が常駐し、税や行政を司った「役所」であったことを、別々の角度から物語っています。8世紀に成立し、12世紀まで続き、13世紀には急速に衰えたとされる備後国府は、古代備後の出発点であり、その後の中世・近世へと続く地域史のすべての起点に立つ存在でした。

そして何より象徴的なのは、建物も官人も失われたあとに、「府中」という地名だけが千年以上を生き延びたという事実です。私たちが何気なく呼ぶ「府中市」という名は、古代備後の行政中枢が現在まで残した、最大のモニュメントなのです。次に府中の町を歩くとき、足もとの地下に眠る古代の役所と、地名に刻まれた千年の記憶に、ほんの少しでも思いを馳せていただければ幸いです。

出典・ご注意

本記事は、府中市(府中市教育委員会)の公式情報、広島県の公的資料、文化遺産オンライン、および百科事典等で確認できる範囲の情報をもとに構成しています。古代の事象は文献史料が限られ、年代・経緯・施設の位置などに諸説や推定を含む事項が少なくありません。固有名詞・年代・出土遺物の名称等は公的資料の表記に拠るよう努めましたが、表記や解釈には異同がある場合があります。古代史は新たな発掘や研究によって理解が更新されていく分野であり、本記事の内容も今後の調査成果によって補訂される可能性があります。所在地の推定・出土遺物の名称・史跡指定の年月日・遺構の年代観などは府中市の公的解説に依拠しましたが、最新の情報は府中市や関係機関が公開する一次情報をあわせてご確認ください。

※年代・経緯には諸説ある事項を含みます。詳細は各施設の公式情報や郷土資料でご確認ください。

なお、本記事内の年代表記は西暦・和暦を併記し、できるだけ公的資料の表記に合わせました。

最終更新: 2026年6月10日

史跡情報は福山NOTE 史跡図鑑(fn_history)より。