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🏯 歴史

藍(あい)の歴史|備後絣を染めた藍づくりと藍商の盛衰

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藍(あい)の歴史|備後絣を染めた藍づくりと藍商の盛衰

濃く沈んだ青――「ジャパン・ブルー」と呼ばれるその色は、明治期に日本を訪れた外国人が、町ゆく人々の着物や暖簾、藍染の作業着に染め抜かれた藍色を見て、日本の象徴的な色として書き残したことに由来するとされます。広島県福山市を中心とする備後地方でも、この藍色は深く暮らしに根づいてきました。福山藩が奨励した木綿の栽培と織物づくりは、やがて「備後絣(びんごがすり)」という日本三大絣のひとつを生み出します。その絣の井桁模様を、白く残した部分とともに鮮やかに浮かび上がらせていたのが、ほかならぬ藍の色でした。

藍は、ただ布を青く染めるだけの染料ではありませんでした。種をまき、葉を育て、刈り取り、発酵させて「すくも」をつくり、それを藍玉に固めて売りさばく藍商が動き、染屋が甕(かめ)の中で色を建てる――この一連の流れには、農業・発酵・流通・染色という複数の技術と、それを担う人々の暮らしが重なり合っています。本稿では、備後絣を支えた藍づくりと藍商の盛衰を軸に、藍という植物と色がたどってきた長い歴史を、福山・備後の風土とともにたどります。年代や経緯には諸説ある事項を含むため、確実なことは「とされる」「伝わる」と記しながら、できるだけ史実に即して整理していきます。

ゆかりの史跡・図鑑

藍づくりと藍染、そして備後絣にゆかりの深い史跡や、福山・備後の歴史を物語る場所を、福山NOTEの史跡図鑑から一覧・比較・詳細の三つの形で紹介します。藍そのものの史跡は限られますが、織物のまちとして発展した福山の歩みを知る手がかりとして、城下町や港町、産業の現場をあわせてご覧ください。

福山城 伏見櫓 📖江戸時代(元和年間)📍 福山駅前(福山市街)福山城 📖近世(江戸)📍 丸之内福山城博物館 📖近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)📍 福山駅前(福山市街)草戸千軒町遺跡 📖中世📍 草戸町明王院 📖中世📍 草戸町鞆の津の町並み(重伝建) 📖江戸時代(中世〜近代の建造物群)📍 鞆町鞆の浦の常夜燈と港湾施設 📖江戸時代📍 鞆町福山市鞆の浦歴史民俗資料館 📖近代(昭和)📍 鞆町鞆の浦 📖中世〜近世📍 鞆町福禅寺 対潮楼 📖近世📍 鞆町太田家住宅 📖江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)📍 鞆町いろは丸展示館 📖近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)📍 鞆町仙酔島古代(地質)/近代(指定)📍 鞆町廉塾(菅茶山旧宅) 📖近世📍 神辺町神辺城跡 📖中世📍 神辺町福山八幡宮 📖近世📍 北吉津町沼名前神社 📖近世📍 鞆町阿伏兎観音(磐台寺観音堂)近世📍 沼隈町吉備津神社(備後一宮)江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる📍 新市町素盞嗚神社(備後一宮) 📖飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮📍 新市町

史跡時代概要📍 エリア詳細
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鞆の浦中世〜近世瀬戸内の「潮待ちの港」。常夜燈・雁木・波止場…📍 鞆町下へ ↓
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素盞嗚神社(備後一宮)飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏の…📍 新市町下へ ↓

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福山城 伏見櫓

江戸時代(元和年間) / 📍福山駅前(福山市街)

伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最古級の三層入母屋造の現存櫓。 福山城伏見櫓は、元和8年(1622年)の福山城築城に際し、城主水野勝成が将軍徳川秀忠から下賜を受け、京都の伏見城から移築させたと伝えられる櫓である。長らく伝承とされていたが、昭和29年(1954年)の解体修理の際、梁の陰刻に「松ノ丸ノ東やく(ら)」の文字が発見され、伏見城からの移築を裏付ける確かな遺構であることが明らかになった。構造は三層入母屋造で、初層と二層を同じ柱割とし、その上にやや小さい三層を望楼状に載せる。桁行八間・梁間三間、本瓦葺の規模をもつ。慶長期の城郭建築の様式を残す初期の典型として価値が高く、昭和8年(1933年)1月23日に国の重要文化財に指定された。福山城内に現存し、特別公開が行われることもある。

🕰 時代江戸時代(元和年間)
🏛 成立・築造元和8年(1622年)水野勝成の福山城築城時に伏見城から移築。国指定重要文化財(昭和8年=1933年1月23日指定)
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目(福山城内)
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福山城

近世(江戸) / 📍丸之内

備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御門は京都伏見城からの移築と伝わる。2022年に築城400年を迎えた。

🕰 時代近世(江戸)
🏛 成立・築造1622年(元和8)・水野勝成
👤 関連水野勝成・阿部正弘
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目8
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福山城博物館

近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期) / 📍福山駅前(福山市街)

水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩の歴史を体験型展示で伝える博物館 福山城博物館は、JR福山駅のすぐ北に建つ福山城天守内に置かれた市立の歴史資料館です。福山城は1622年(元和8年)、徳川譜代の大名・水野勝成が西国鎮衛の拠点として築いた近世城郭で、天守は1931年に国宝に指定されました。しかし1945年8月の福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリート造で外観が復興され、その内部が博物館として公開されました。2022年には築城400年に合わせて大規模リニューアルされ、北面の鉄板張り(黒い装い)の再現や、一番槍レース・火縄銃などの体験型コンテンツ、デジタル映像を用いた展示が整えられ、福山城と福山藩の歴史を学べる施設となっています。城内に現存する伏見櫓と筋鉄御門は、京都・伏見城からの移築と伝えられ、国の重要文化財に指定されています。常設展は有料、月曜休館とされます。

🕰 時代近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)
🏛 成立・築造福山城は1622年(元和8年)に初代福山藩主・水野勝成が築城。天守は1945年福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリートで外観復興、内部を博物館として開館。2022年に大規模リニューアル
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目8番
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鞆の津の町並み(重伝建)

江戸時代(中世〜近代の建造物群) / 📍鞆の浦

潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と町家が一体で残る重伝建地区 鞆の浦は瀬戸内海の中央に位置し、古来「潮待ちの港」として栄え、万葉集にも詠まれた歴史を持つとされる。江戸時代には北前船など廻船の寄港地として繁栄し、朝鮮通信使の寄港地ともなった。2017年(平成29年)11月28日、「福山市鞆町伝統的建造物群保存地区」として約8.6ヘクタールが国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。範囲は鞆字西町の全域を中心に、石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地の一部に及ぶ。中世から江戸期に整えられた地割の上に、江戸時代から昭和30年代までの町家や寺社、石垣などが一体的に残る近世港町の景観が評価された。常夜燈・雁木・波止・焚場・船番所の5つの港湾施設がほぼ完全に残る点は全国でも稀とされる。広島県内では3例目の選定で、2018年には日本遺産にも認定された。

🕰 時代江戸時代(中世〜近代の建造物群)
🏛 成立・築造2017年(平成29年)11月28日に国の重要伝統的建造物群保存地区へ選定。地割は中世〜江戸期、建造物は江戸時代〜昭和30年代まで。
📍 所在地広島県福山市鞆町(鞆字西町全域ほか、字石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地字古城跡・草谷の各一部)
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鞆の浦の常夜燈と港湾施設

江戸時代 / 📍鞆の浦

江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯一の近世港、鞆港。 鞆の浦の鞆港には、常夜燈・雁木・波止・焚場(たでば)・船番所という江戸時代の港湾施設5点がほぼ揃って現存し、これらが一体で残るのは全国でも鞆港のみとされる。シンボルの常夜燈は安政6年(1859)の刻銘をもつ石造灯台で、海中の基礎石から宝珠の頂までは約12.1mに及び、江戸期の石造常夜燈としては国内最大級とされる。雁木は潮の干満に応じて船を着けられる階段状の船着き場で、半円形の港内に連続して巡らされている。波止は花崗岩を積んだ全長約146mの防波堤で、江戸後期に築かれ明治期に修築された。鞆港を含む沿岸と沖の島々一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定され、鞆町西町を中心とする区域は2017年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。日本遺産「瀬戸の夕凪が包む 国内随一の近世港町」の構成要素でもある。

🕰 時代江戸時代
🏛 成立・築造常夜燈は安政6年(1859)造立とされる。雁木・波止・焚場・船番所は江戸後期築造、波止は明治期に修築。鞆港一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定。
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆
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福山市鞆の浦歴史民俗資料館

近代(昭和) / 📍鞆の浦

鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬戸内の歴史・民俗を伝える市立資料館 福山市鞆の浦歴史民俗資料館は、広島県福山市鞆町後地に建つ市立の博物館で、「潮待ちの館」の愛称で親しまれる。1977年(昭和52年)からの地元有志による調査・収集活動を背景に、福山市制70周年記念事業として1988年(昭和63年)に開館した。立地は、福島正則が築いたとされる鞆城跡(福山市指定史跡)の高台で、瀬戸内海を見渡せる。万葉の時代から潮待ち・風待ちの港として栄えた鞆の浦を中心に、古代から近世にいたる歴史資料を展示。鯛網漁のジオラマや錨を製造した鍛冶場、朝鮮通信使関連資料、保命酒に関する資料に加え、お手火神事・お弓神事といった地域の民俗文化財も常設展示する。鞆の歴史と暮らしを総合的に学べる拠点とされる。

🕰 時代近代(昭和)
🏛 成立・築造1988年(昭和63年)開館。福山市制70周年記念事業として建設。建つ鞆城跡は福島正則が築いたとされる(福山市指定史跡)
📍 所在地広島県福山市鞆町後地536-1
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太田家住宅

江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期) / 📍鞆の浦

鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で、国の重要文化財 鞆の浦を代表する歴史的建造物で、薬用酒「保命酒」の醸造で財を成した商家の旧宅。もとは大坂の漢方医を出自とする中村家の屋敷で、明暦元年(1655年)に鞆へ移り住み、まもなく十六味地黄保命酒の製造・販売を始めて大ヒットし、福山藩の御用名酒屋として販売独占権を得たとされる。明治期に廻船業を営んだ太田家が継承し、現在の名で呼ばれる。主屋を中心に保命酒蔵や各種土蔵など九棟が建ち並び、建築年代は18世紀中期から19世紀前期に及ぶ。瀬戸内の商家建築を伝える貴重な遺構として、1991年に国の重要文化財に指定された。幕末には三条実美ら尊王攘夷派の公卿が立ち寄ったと伝わり、別宅の朝宗亭とともに「鞆七卿落遺跡」として広島県の史跡(1940年指定)にもなっている。

🕰 時代江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)
🏛 成立・築造主屋は18世紀中期、ほか北保命酒蔵が天明8年(1788年)、西蔵が寛政元年(1789年)、東保命酒蔵が寛政7年(1795年)など18世紀中期〜19世紀前期。国の重要文化財指定は1991年(平成3年)5月31日。
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆842
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いろは丸展示館

近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期) / 📍鞆の浦

坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵を活かした資料館 鞆の浦のシンボル常夜灯(とうろどう)のすぐそばに建つ資料館。1867年(慶応3年)、坂本龍馬と海援隊が運航したいろは丸が紀州藩の明光丸と備後灘で衝突・沈没した「いろは丸事件」を伝える施設で、その談判が鞆の浦で行われた縁にちなむ。建物は江戸期に建てられた太い梁が印象的な土蔵で、地元では「大蔵」と呼ばれ、国の登録有形文化財とされる。館内には海底に沈むいろは丸を再現したジオラマ、引き揚げられた陶器や部品、調査風景の写真などを展示し、2階には龍馬が宿泊先で身を潜めたという「隠れ部屋」が再現され、龍馬の蝋人形も置かれている。1989年(平成元年)7月の開館。幕末史と鞆の港町文化を同時に味わえるスポットである。

🕰 時代近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)
🏛 成立・築造1989年(平成元年)7月開館。建物は江戸期築の土蔵「大蔵(浜蔵)」で、国の登録有形文化財とされる。展示題材のいろは丸事件は1867年(慶応3年)
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆843-1
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仙酔島

古代(地質)/近代(指定) / 📍鞆の浦

鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連なる瀬戸内海国立公園の名勝 仙酔島は鞆の浦の沖合に浮かぶ周囲約6キロの島で、住所は福山市鞆町後地。鞆港から市営渡船で約5分の距離にあり、観光客の往来はあるが定住者のいない無人島とされる。1925年(大正14年)に国の名勝「鞆公園」の一部として指定され、1934年(昭和9年)には日本で最初に指定された国立公園・瀬戸内海国立公園に含まれた。島は約9000万年前の大規模な火山活動による溶結凝灰岩を主体とし、南側海岸には青・赤・黄・白・黒の岩が200メートル以上連なる「五色岩」が見られ、地質的に貴重とされる。「仙人が酔うほど美しい島」が名の由来と言われる。江戸後期の学者・頼山陽が当地の景観を「山紫水明」と評したとも伝わる。

🕰 時代古代(地質)/近代(指定)
🏛 成立・築造1925年(大正14年)国名勝「鞆公園」に指定。1934年(昭和9年)日本初の国立公園・瀬戸内海国立公園に編入。島自体は約9000万年前の火山活動で形成されたとされる
📍 所在地広島県福山市鞆町後地
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吉備津神社(備後一宮)

江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる / 📍新市・北部

備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で「いっきゅうさん」と親しまれる古社 福山市新市町宮内に鎮座する備後国一宮で、地元では「一宮さん(いっきゅうさん)」と親しまれる。社伝では大同元年(806年)に吉備国の吉備津神社から勧請し創建されたと伝わるが、延喜式神名帳に記載がないことなどから実際の成立はより後とする説もある。主祭神は吉備国を治めたとされる大吉備津彦命。現在の本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が旧規模にならい造営したもので、桁行七間・梁間四間の入母屋造檜皮葺、国の重要文化財に指定されている。ほかにも木造狛犬や太刀などが重要文化財として伝えられ、複数の建造物が広島県・福山市指定文化財となっている。隣接する櫻山城跡なども史跡として知られ、備後の信仰と歴史を今に伝える。

🕰 時代江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる
🏛 成立・築造本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が造営、国の重要文化財。創建は大同元年(806年)と伝わるが諸説ある
📍 所在地広島県福山市新市町宮内400
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素盞嗚神社(備後一宮)

飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮 / 📍新市・北部

祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏のけんか神輿で名高い古社 福山市新市町戸手に鎮座する素盞嗚神社は、『延喜式神名帳』に載る式内社で備後国一宮を称し、旧社格は県社です。主祭神は素盞嗚尊で、稲田姫命・八王子を配祀します。社伝では天武天皇の治世、7世紀ごろ(679年か)の創建とされます。『釈日本紀』所収の「備後国風土記」逸文に伝わる蘇民将来説話の舞台「疫隈国社」と結びつけられ、茅の輪くぐりや祇園信仰・祇園祭発祥の地の一つとされています。神仏習合期には牛頭天王を祀り、遣唐使・吉備真備が734年に当社から播磨の広峯神社へ勧請したとも伝わります。毎年7月の例祭では、勇壮なけんか神輿(神輿合わせ)が行われることで知られます。

🕰 時代飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮
🏛 成立・築造社伝では天武天皇期の7世紀ごろ(679年か)創建とされる。『延喜式神名帳』記載の式内社で、旧県社
📍 所在地広島県福山市新市町大字戸手1-1

藍とは何か――植物としての藍と「すくも」の正体

備後絣の織物
備後絣の織物(画像:Wikimedia Commons / CC)

まず、「藍」という言葉が指すものを整理しておきましょう。藍染に使われる「藍」とは、特定の一種類の植物の名前ではなく、青色の色素であるインジゴ(インディゴ)を多く含む植物の総称です。日本でもっとも広く使われてきたのは、タデ科の一年草「蓼藍(タデアイ)」で、阿波藍として知られる四国・徳島の藍はこのタデアイです。ほかにも、北海道などで知られる蝦夷大青(エゾタイセイ)、沖縄の琉球藍、海外ではインド藍(木藍)など、地域によってさまざまな藍の植物が利用されてきました。本稿で「藍」と呼ぶときは、原則としてこのタデアイを中心に考えます。

タデアイの原産地は、インドシナ半島南部やベトナム北部、中国の江南あたりとされますが、はっきりとは分かっていません。稲作や養蚕の技術とともに大陸から日本へ伝わったと考えられており、日本では弥生時代ごろにはすでに栽培され、染色に用いられていたとする見方があります。文献の上では、7世紀ごろ(飛鳥時代から奈良時代にかけて)に中国から蓼藍の栽培方法や染色方法が伝えられたとされ、以後、長い年月をかけて日本独自の藍染文化が形づくられていきました。

ここで重要なのは、藍の葉をそのまま布にこすりつけても、私たちが思い浮かべるあの濃い藍色には染まらないということです。タデアイの葉に含まれるのは、そのままでは無色に近い前段階の物質で、これを発酵させ、染色に使える形に変える工程が必要になります。その中心となるのが「すくも(蒅)」と呼ばれる染料のもとです。

「すくも」――百日かけてつくる発酵の染料

すくもとは、刈り取って乾燥させたタデアイの葉を、水を打ちながら積み重ね、長い時間をかけて発酵させてつくる染料のもとです。阿波藍の伝統的なつくり方では、葉藍に水を打ち、切り返し(積み直し)を繰り返しながら、およそ百日もの間、発酵を管理し続けるとされます。発酵が進むと、葉の中の成分が微生物の働きで変化し、インジゴをつくり出すもととなる物質が濃縮されていきます。この発酵を見極め、温度や水分を調整しながらすくもに仕立てる職人を「藍師(あいし)」と呼びます。

百日という長い手間をかけてできあがったすくもは、そのままでは運びにくいため、搗き固めて固形にしたものが「藍玉(あいだま)」です。藍玉は俵や箱に詰められ、藍商の手で各地の染屋へと運ばれていきました。なお、染料そのものの正しい名前はあくまで「すくも」であり、藍玉とは運搬や取引のためにすくもを固めた形態を指す、という整理がなされています。すくもをつくる藍師、それを売買する藍商、そして染める染屋――この三者の分業によって、藍染は産業として大きく発展していくことになります。

「灰汁発酵建(あくはっこうだて)」で色を建てる

染屋に届いたすくもは、藍甕(あいがめ)の中でさらにもう一段の発酵にかけられます。江戸時代から続く伝統的な藍染めの技法は「灰汁発酵建(あくはっこうだて)」と呼ばれ、すくもに、木灰からとった灰汁(あく)、ふすま(小麦の外皮)、石灰、酒などを加えて、甕の中で微生物の力によって発酵させます。この工程で藍の色素が水に溶ける形に変わり、布を染められる「藍の建った」状態になります。

藍甕の中の染液に布や糸を浸し、引き上げて空気にさらすと、空気中の酸素と反応してみるみる青色が発色します。一度では薄い水色にしかならず、浸しては酸化させる作業を何度も繰り返すことで、少しずつ色が深まり、最終的にあの濃い藍色になります。この「染め重ね」の回数が、藍染の濃淡を決める要となります。生きた微生物を相手にする発酵の染めであるため、季節や気温、甕の機嫌によって色の出方が変わり、染師の経験と勘が大きくものを言う、繊細な仕事でした。

藍が暮らしを染めた理由――丈夫さ・防虫・色の堅牢さ

なぜ藍は、これほどまでに日本人の暮らしに浸透したのでしょうか。その理由は、単に色が美しいというだけではありませんでした。藍で染めた布には、実用上の数々の利点があったとされ、それが庶民の衣料や作業着、のれん、手ぬぐいに至るまで、藍を選ばせる大きな動機になっていました。

第一に、藍染は色落ちしにくく、堅牢度が高いとされてきました。何度洗っても色が抜けにくいため、繰り返し使う日常着や作業着に向いていました。第二に、藍には防虫の効果があると古くから言い伝えられ、虫や蛇を寄せ付けにくいとされたことから、野良仕事の着物や蚊帳(かや)、布団地などにも好んで用いられました。第三に、藍で染めた木綿は繊維が引き締まって丈夫になるとされ、すり切れにくく長持ちする実用的な生地になったといわれます。

備後地方で生まれた備後絣も、まさにこうした実用性を備えた織物でした。藍染であるために虫や蛇を寄せ付けにくく、手紡ぎ糸の厚みのある綿生地は丈夫で保温性に優れていたと伝えられます。普段着として、農作業の着物として、あるいは布団地として、藍に染められた備後の木綿は、庶民の生活を地味に、しかし確かに支えていたのです。

「色」が身分や格を表した時代

江戸時代には、ぜいたくを戒める倹約令がたびたび出され、庶民が身につけられる色や素材が制限されることがありました。華やかな色や高価な絹が制限されるなかで、木綿に藍という組み合わせは、庶民が許された範囲のなかで楽しめる実用の装いでした。藍の濃淡は「縹(はなだ)」「浅葱(あさぎ)」「納戸(なんど)」「紺(こん)」など、濃さや色合いによって細かく呼び分けられ、人々はその微妙な藍の階調を愛でました。藍染は、制約のなかで育った庶民の美意識の結晶でもあったのです。

藍染と「藍建て」の難しさ

藍染が他の染色と大きく異なるのは、生きた微生物の発酵を相手にする点にあります。藍甕の中の染液は、放っておけば弱り、調子を崩します。染師は毎日、甕の表面に立つ泡(「藍の華」とも呼ばれます)の様子や、液の色つや、においなどを観察し、灰汁やふすま、石灰などを少しずつ加えながら、発酵の状態を整え続けなければなりませんでした。気温が下がる冬には甕を温め、発酵が進みすぎれば手を打つ――こうした世話を「藍の機嫌をうかがう」と表現することもあり、藍を建てて保つこと自体が、長年の経験に裏打ちされた高度な技でした。

染めの工程でも、ただ一度浸して終わりではありません。布や糸を染液に沈め、引き上げて空気にさらし、酸化によって発色させ、また沈める――この繰り返しによって、薄い水色から濃紺へと、段階的に色を深めていきます。求める濃さによっては、何十回と染め重ねることもあったといいます。同じ「藍色」と呼ばれる色のなかにも、淡い縹色から黒に近い紺まで幅広い階調があるのは、この染め重ねの妙によるものです。藍染の深い青は、手間を惜しまない反復の作業から生まれていました。

福山藩のはじまりと木綿づくりの奨励

芦田川の河口部
芦田川の河口部(画像:Wikimedia Commons / CC)

備後の藍と織物の歴史は、福山藩の成立と切り離せません。元和五年(1619年)、徳川家康の従兄弟にあたる水野勝成が、備後・備中のうち十万石を与えられて入封し、元和八年(1622年)に福山城を完成させたとされます。それまで葦の生い茂る低湿地であった土地に城と城下町を築き、勝成は新田開発や治水、産業の振興に力を注ぎました。福山という地名そのものも、勝成が城を築いた山の名にちなんで名づけられたと伝えられます。

勝成は領内の殖産興業のため、木綿の製織と販売を奨励したとされます。瀬戸内海をのぞむ沿岸一帯は、海を埋め立てた干拓地が多く、塩分を含む土壌でしたが、潮風や塩に強い「和綿(わめん)」の栽培にはむしろ適していました。こうして備後の沿岸部では和綿づくりが盛んになり、収穫した綿から糸を紡ぎ、布を織る家内工業が広がっていきました。木綿は江戸時代を通じて庶民の衣料として急速に普及した素材であり、その原料を生み出す綿作と織物業は、福山藩の経済を支える重要な産業に育っていきます。

福山藩での木綿づくりの奨励は、後の備後絣の発展の土台となりました。綿を育て、糸にし、布に織り、藍に染めるという一連の技術と人の手が、この地に長い時間をかけて蓄えられていったからこそ、やがて全国に知られる絣が生まれる素地が整ったのだと言えます。福山城を築いた水野勝成の産業政策は、藍と織物の歴史の出発点に位置づけられます。

綿作と「干鰯(ほしか)」――肥料が支えた木綿経済

木綿の原料となる綿の栽培が広がると、それを支える別の産業も発達しました。綿は肥料を多く必要とする作物で、とくに速効性のある肥料が求められたため、イワシなどの魚を干して固めた「干鰯(ほしか)」や、ニシンを原料とする魚肥(魚から作る肥料)の需要が大きく増えたとされます。これにともなって、魚肥を取り扱う「干鰯問屋」が各地で発達し、瀬戸内海の海運網を通じて肥料が流通しました。藍の栽培もまた肥料を多く要する農業であり、阿波藍の産地では、藍商が干鰯などの魚肥を仕入れ、藍をつくる農家に肥料を貸し付けるという仕組みも見られたと伝えられます。綿・藍・肥料・海運が結びついた経済の網の目が、備後を含む瀬戸内一帯に広がっていたのです。

藍と「もったいない」の精神

藍染の衣料は、丈夫で長持ちするうえに、繰り返し使うことを前提とした暮らしの道具でもありました。藍に染められた木綿は、すり切れたら継ぎを当て、傷んだら別の用途に仕立て直し、最後はぼろ布として雑巾や別布の補強に使うなど、徹底して使い切られました。古い藍木綿を縫い重ねて補強する「刺し子(さしこ)」や、布を再生してつなぎ合わせる手仕事は、まさにこの「もったいない」の精神から生まれたものです。藍の堅牢な色と丈夫な木綿は、ものを大切に使い切る庶民の暮らしの知恵と、分かちがたく結びついていました。備後の藍木綿もまた、こうした循環する暮らしのなかで、長く人々の生活を支えていたのです。

阿波藍――日本最大の藍産地と藍商の隆盛

備後の織物を青く染めた藍は、必ずしも備後の地で大量に生産されたわけではありません。江戸時代を通じて日本最大の藍の産地として知られたのは、四国・徳島の阿波(あわ)でした。阿波藍は品質の高さで全国に名を知られ、その良質な藍染料が藍商を通じて大坂・名古屋・江戸といった全国の市場へと供給されていきました。備後の染屋もまた、こうした全国流通の藍を仕入れて使っていたと考えられます。

徳島藩(阿波藩)は藍の生産を積極的に保護・奨励し、品質の管理や向上に努めたとされます。吉野川がたびたび氾濫する流域の土地は、稲作には不向きでも、氾濫がもたらす肥沃な土が藍の栽培には適していたといわれ、これが阿波で藍作が盛んになった一因とされます。藩の石高は表向き二十五万石でしたが、藍の生産がもたらす富を加えれば実質的にはその倍にも相当するという意味で、「阿波二十五万石、藍五十万石」とまで称されたと伝えられます。それほどまでに、藍は阿波の経済を潤す中心産業だったのです。

藍商――富を築いた流通の担い手

藍商は、すくもや藍葉を買い付け、藍玉に仕立てて全国へ売りさばく流通の担い手でした。徳島では、城下を流れる新町川沿いに藍蔵が立ち並び、藍商たちは小舟で藍を港へ運び、そこから瀬戸内海をゆく廻船(かいせん)によって各地へと積み出していったとされます。藍商のなかには莫大な富を築く者も現れ、その財力は藩の財政や地域の文化を支える存在にもなりました。藍によって築かれた商家の蔵屋敷や町並みは、今日でも徳島の各地に歴史的な景観として残されています。

こうした藍商の流通網があったからこそ、藍を産しない、あるいは生産量の限られた地域でも、安定して藍染料を手に入れることができました。備後の織物業が藍染を前提として成り立っていた背景には、阿波藍を頂点とする全国的な藍の流通システムが存在していたのです。藍商は、産地と消費地を結ぶ動脈として、日本の染織文化全体を下支えしていました。

瀬戸内海運と藍――鞆の浦や港町を経由した流通

藍の流通を支えたのは、瀬戸内海の海運網でした。古くから潮待ち・風待ちの港として栄えた鞆の浦をはじめ、瀬戸内の港町は、廻船によって運ばれる物資の中継地として重要な役割を果たしました。藍玉や木綿、肥料といった品々が、こうした港を経由して各地へと運ばれていったと考えられます。福山・備後の織物産業が藍染を前提に発展できたのも、瀬戸内という海の道に面し、物資の往来が活発な土地であったことと無縁ではありません。海運がもたらす流通の便が、藍と木綿の経済を陰で支えていたのです。

神辺縞・福山縞――備後絣の前史

福山城
福山城(画像:Wikimedia Commons / CC)

福山藩で育まれた綿作と織物業は、江戸時代後期に向けて少しずつ独自の織物を生み出していきました。その先駆けとなったのが、「神辺縞(かんなべじま)」あるいは「福山縞」と呼ばれる縞木綿です。神辺は福山の東に位置する地で、ここを中心に縞模様の綿織物が織られ、売買されるようになったとされます。一説には、元和八年(1622年)ごろから神辺地域で神辺縞・福山縞が織られ流通していたとも伝えられ、丈夫で安価、そして染めの堅牢な実用向きの織物として評判を得ました。

天保から弘化にかけての時期には、神辺で木綿問屋が現れ、神辺縞・福山縞として広く販売されるようになったとされます。とりわけ、第七代福山藩主・阿部正弘が弘化元年(1844年)に倹約令を出したことが、かえって質素な木綿織物の需要を高め、綿織物の生産を後押ししたという見方もあります。華美を慎む空気のなかで、丈夫で実直な藍染の木綿が、人々の暮らしにいっそう求められたというわけです。

こうした縞木綿の伝統と、藍に染める技術の蓄積、そして綿作・製織の盛んな土地柄――これらが重なり合ったところに、やがて「絣(かすり)」という、より高度な模様織りが生まれる素地が整っていきました。神辺縞・福山縞は、備後絣の直接の前身として位置づけられる織物です。

絣(かすり)とはどんな織物か

そもそも「絣(かすり)」とは、あらかじめ糸の一部を染め分けておき、その染め分けた糸を経(たて)糸や緯(よこ)糸に用いて織ることで、布の上に模様を浮かび上がらせる織物のことです。模様の輪郭がわずかにかすれたように見えることから「かすり」と呼ばれると言われます。プリントのように布の表面に色をのせるのではなく、糸そのものに模様の情報を仕込んでから織り上げるため、表も裏も同じ模様が現れ、色あせや摩耗にも強いのが特長です。

この絣を成り立たせるのが、糸を部分的に染め残す「くくり」の技術と、藍の堅牢な発色です。糸束を竹の皮や麻糸できつくくくり、その状態で藍甕に浸すと、くくった部分には染液が染み込まず白く残ります。くくりをほどいて織ると、白く残った部分が模様となって現れる――この緻密な計算と手仕事の積み重ねが、絣の模様を生み出します。井桁、十字、亀甲、絵絣(具象的な絵柄)など、さまざまな模様が織り出され、藍と白のコントラストが素朴な美しさを放ちました。

備後絣の誕生――富田久三郎と藍が描く井桁模様

備後絣の歴史は、一人の人物の工夫から始まったと伝えられます。江戸時代後期、福山の芦田町(あしだちょう)に住んでいた富田久三郎(とみた・きゅうざぶろう)が、「キシ縞」と呼ばれる浅葱(あさぎ)色の絹織物を目にしたことをきっかけに、糸の一部を染め残す技法を考え出したとされます。糸束を竹の皮や麻糸でくくり、染まらない部分と染まる部分をあらかじめつくっておいてから織ることで、織り上がった布に模様が浮かび上がる――これが絣の原理です。久三郎はこの方法で、井桁(いげた)の模様を表す絣を編み出したと伝えられ、これが備後絣の始まりとされています。

この考案の時期については、嘉永六年(1853年)ごろ、あるいは文久年間(1861〜1864年)とする説などがあり、史料によって幅があります。いずれにせよ、江戸時代後期、ペリー来航前後の動乱期に近い頃に、備後絣の原型が生まれたと考えてよいでしょう。年代の細部には諸説あるため、ここでは「江戸時代後期に富田久三郎が考案したと伝えられる」と整理しておきます。

絣を絣たらしめているのは、まさに藍の存在です。糸をくくって防染し、藍甕で染めると、くくった部分は白く染め残り、それ以外は濃い藍色に染まります。このくくり方と糸の配置を緻密に計算することで、織り上げたときに白と藍のコントラストによる模様が現れます。藍の濃く堅牢な発色があってこそ、絣の模様は布の上にくっきりと浮かび上がるのです。備後絣は、福山藩以来の綿作・製織の伝統と、藍染の技術、そして久三郎の工夫が結晶した織物でした。

日本三大絣のひとつへ

備後絣はその後、福山・備後一帯に広まり、伊予絣(愛媛)・久留米絣(福岡)とともに「日本三大絣」のひとつに数えられるまでに発展しました。藍に染められた木綿の絣は、丈夫で実用的なうえに、井桁や十字、亀甲などの幾何学的な模様が素朴で美しく、普段着から布団地まで幅広く使われました。明治以降は、手作業のくくりに加えて、より効率的に絣糸をつくる技術や織機も導入され、生産が拡大していきます。藍染の絣は、備後の地場産業として大きく羽ばたいていったのです。

藍の衰退――合成藍の登場と天然藍の危機

長く日本の染織を支えてきた天然藍でしたが、明治期に入ると大きな試練を迎えます。その最大の要因が、海外で開発された合成藍(合成インジゴ)の登場でした。まず江戸時代末期には、色素含有量の多いインド藍が輸入されるようになり、国産の天然藍は価格と濃さの両面で競争にさらされ始めました。そして明治期には、さらに決定的な打撃が訪れます。

ドイツの化学者アドルフ・フォン・バイヤーが、天然藍と同じ化学構造を持つ合成インジゴを1880年(明治13年)に合成することに成功し、その後、ドイツの染料メーカーであるBASF社が1897年(明治30年)に工業的な製造を実現したとされます。安定して大量に、しかも安価に供給される合成藍は、瞬く間に世界の染料市場を席巻しました。日本にも、明治三十六年(1903年)以降、ドイツから輸入された合成藍が本格的に流入し、国産天然藍はその市場を急速に奪われていきました。百日もの手間をかけてつくる天然のすくもは、工場で量産される合成藍とのコスト競争に抗しきれなかったのです。

こうして、阿波藍に代表される国産天然藍の生産量は明治後期から大正にかけて激減し、藍作で栄えた地域の経済は大きく傾きました。藍師や藍商の多くが廃業や転業を余儀なくされ、かつて「藍五十万石」と称された産業は、急速にその規模を縮小していきました。藍をめぐる長い盛時は、近代化学工業の波のなかで終わりを迎えていったのです。

戦争と藍作禁止――それでも種をつないだ人々

天然藍にとってさらに深刻だったのが、第二次世界大戦期の混乱でした。戦時下では食料となる作物の栽培が最優先とされ、染料である藍の栽培は禁止されたと言われています。生産の現場が断たれれば、長年受け継がれてきた藍師の技術も、品質の良い藍の種も、失われてしまいかねません。実際、この時期に多くの藍作が途絶え、天然藍は存続の瀬戸際に立たされました。

しかし、徳島の一部の藍師たちは、副業で生計を立てながらも、戦中・戦後を通じて藍の種を守り、わずかでも藍づくりを続けたと伝えられます。彼らの努力があったからこそ、戦後に藍の伝統が完全には絶えることなく、現代まで命脈を保つことができました。失われかけた技術を一筋でもつないだ人々の存在は、藍の歴史を語るうえで欠かせません。

民芸運動と藍の再評価

合成藍に押され、戦争で打撃を受けた天然藍でしたが、昭和四十年(1965年)ごろからは、再び見直しの動きが生まれます。戦後の経済成長によって生活様式が大きく変わるなかで、かえって手仕事の良さや日本の伝統的な色彩への関心が高まり、柳宗悦らが提唱した「民芸運動」の流れもあって、天然藍の素朴で深い色合いが再評価されていきました。次第に、本業として藍づくりに取り組む農家や工房も現れ、天然藍は工芸・染織の世界で確かな地位を取り戻していきます。合成藍が日常を覆う時代だからこそ、天然藍の青はいっそう特別な価値を帯びるようになったのです。

備後絣の最盛期と斜陽――藍色の織物がたどった道

藍染料そのものが合成藍へと移り変わっていく一方で、藍色の絣を織る備後絣の産業は、戦後にかけて最盛期を迎えました。手紡ぎから機械紡績へ、手織りから力織機へと生産が近代化されるなかで、備後絣は大量生産が可能となり、全国へと出荷されていきます。昭和三十年代、すなわち1960年(昭和35年)ごろには、備後絣の年間生産量はおよそ330万反に達し、国内の絣生産量のおよそ7割を占めたとされます。この時期、福山・備後は文字どおり日本一の絣の産地でした。

しかし、その繁栄は長くは続きませんでした。高度経済成長とともに人々の暮らしは急速に洋装化し、和服や絣の普段着、布団地としての木綿絣の需要は激減していきます。化学繊維の台頭や、安価な輸入品との競争も重なり、備後絣の生産は1960年代をピークに右肩下がりとなっていきました。藍色の井桁模様が日常着として町を彩った時代は、ライフスタイルの変化のなかで静かに過ぎ去っていったのです。

生産量は年を追うごとに縮小し、平成のころには、絣を織る織元はごく少数にまで減りました。一説には、平成二十二年(2010年)の段階で、全工程を自社で行う染め織屋はわずか二社、年間生産量も数千反程度にとどまっていたと伝えられます。さらに、備後絣の生産者をまとめてきた備後絣協同組合は、2023年度(令和五年度)限りで解散したとされ、現在は限られた数の織元が、伝統の技をかろうじて受け継いでいる状況です。藍色の絣がたどった盛衰は、近代以降の日本の地場産業が経験した栄枯盛衰の、ひとつの典型でもありました。

現在に受け継がれるもの――藍と備後絣の今

生産の規模こそ往時の面影はないものの、藍と備後絣の伝統は、形を変えながら今も受け継がれています。福山では、残された織元が、伝統的な絣の技術を守りつつ、現代の暮らしに合う新しい製品づくりにも取り組んでいます。かつて普段着や布団地として親しまれた備後絣の生地は、近年ではシャツやストール、バッグといった現代ファッションの素材として、また雑貨やインテリアの生地として、新たな用途を見いだしつつあります。藍色の井桁模様は、レトロでありながら現代的なデザインとして、若い世代にも静かな人気を集めています。

藍染そのものも、工芸や染織の世界で確かな価値を保ち続けています。天然藍の灰汁発酵建による染めは、手間がかかるぶん、合成藍では出せない深みと味わいのある青を生み出すとして、職人や愛好家に大切にされています。藍染体験ができる工房や、藍の歴史を伝える施設も各地にあり、ジャパン・ブルーの文化は、見る・着るだけでなく「染める」体験を通じても、次の世代へと手渡されています。

福山・備後にとって、藍と備後絣の歴史は、「ものづくりのまち」としての原点のひとつです。綿を育て、糸を紡ぎ、藍に染め、布を織るという営みのなかで培われた技術と精神は、後に松永の下駄づくりや、鉄のまちとしての近代工業へと連なる、この地のものづくりの底力を形づくっていったとも言えるでしょう。藍色の織物は、福山という土地が歩んできた産業の歴史を映す、ひとつの鏡なのです。

「ジャパン・ブルー」が伝える日本の色

藍の青は、今では「ジャパン・ブルー」として、日本を代表する色のひとつに数えられています。スポーツの日本代表のユニフォームに藍色が選ばれることがあるのも、この色が日本人の心に深く根づいた色だからにほかなりません。福山・備後の藍と備後絣の歴史は、その「日本の青」を地域の暮らしのなかで支えてきた、確かな一章です。普段は意識することの少ない一枚の布の色の向こうに、藍を育てた農家、すくもを発酵させた藍師、藍玉を運んだ藍商、甕で色を建てた染師、そして絣を織った職人たちの、長い歴史と無数の手仕事があることを、藍色は静かに物語っています。

藍がつないだ農・商・工の人々

一枚の藍染の布、一反の備後絣ができあがるまでには、実に多くの人の手が関わっていました。畑で綿や藍を育てる農家、刈り取った藍葉を発酵させてすくもをつくる藍師、すくもを藍玉に仕立てて流通させる藍商、廻船で物資を運ぶ船乗りや港町の問屋、糸を紡ぐ人、糸をくくって防染する人、甕で色を建てる染師、そして機にかけて布を織り上げる織職人――それぞれが専門の技を担い、互いに結びついて一つの織物を生み出していました。藍をめぐる歴史は、こうした農業・商業・手工業の人々が織りなした、地域の経済と暮らしそのものの歴史でもあります。

近代の合成藍の登場と洋装化は、この分業の連なりを一つずつほどいていきました。藍をつくる人が減れば藍師の技が、絣の需要が減れば織職人の仕事が、それぞれ失われていきます。逆に言えば、今なお藍と備後絣の伝統が細々とでも残っているのは、その連なりのどこかで、技をつなごうとした人々がいたからにほかなりません。藍色の歴史をたどることは、その一つひとつの手仕事に思いを馳せることでもあります。

福山のものづくりの系譜のなかで

藍と備後絣の歴史は、福山という土地の「ものづくり」の系譜のなかに位置づけると、いっそうその意味が見えてきます。水野勝成が奨励した綿作と製織から始まった繊維産業は、藍染と絣によって全国に名を知られる地場産業へと育ちました。同じ備後の地では、松永で塩づくりの副産物を生かした下駄づくりが発展し、近代に入ると造船や鉄鋼といった重工業も興っていきます。一つの織物の色から、藩政期の産業政策、瀬戸内の海運、近代化学工業との競合、そして現代の伝統工芸の継承まで――藍色の糸をたぐっていくと、福山の歴史の幅広い断面が見えてくるのです。

藍と備後絣をめぐる関連年表

藍と備後絣、そして福山藩にまつわる出来事を、年代を追って整理します。年代には諸説ある事項を含みますので、目安としてご覧ください。

藍と備後絣を楽しむ・関連スポット

藍と備後絣の歴史をより深く味わうために、あわせて知っておきたい福山・備後のテーマや関連記事を紹介します。藍色の織物が生まれた背景には、城下町の成り立ちや港町の繁栄、ものづくりの伝統といった、さまざまな歴史が折り重なっています。福山の歴史を全体として知りたい方は、まず通史ガイドからご覧になるのがおすすめです。

福山の歴史を時代の流れに沿って通して知りたい方は、福山の歴史完全ガイドをご覧ください。古代から近現代までの大きな流れのなかに、藍と織物の歴史を位置づけて理解することができます。

藍に染められた福山の代表的な織物については、備後絣の記事で、その技法や模様、現在の取り組みをより詳しく紹介しています。藍づくりの歴史とあわせて読むことで、一枚の絣の奥行きがいっそう感じられるはずです。

藍と木綿の産業を生み出す土台を築いた福山藩の歴史については、城そのものを知る福山城ガイドや、初代藩主の生涯をたどる水野勝成の記事もあわせてご覧ください。木綿づくりを奨励した産業政策の背景がよく分かります。

藍玉や木綿が瀬戸内海運を通じて流通した時代の港町の風情を感じたい方には、鞆の浦の街並みガイドがおすすめです。また、福山のものづくりの幅広さを知る手がかりとして、松永の下駄や、近代工業へと連なる鉄のまち福山の歴史もあわせてどうぞ。

よくある質問(FAQ)

Q「藍」とは一種類の植物の名前ですか?
A

いいえ。「藍」とは、青色の色素インジゴを多く含む植物の総称です。日本でもっとも広く使われたのはタデ科の蓼藍(タデアイ)で、阿波藍がこれにあたります。ほかにも蝦夷大青、琉球藍、インド藍など、地域によってさまざまな藍の植物が利用されてきました。

Q「すくも」とは何ですか?
A

すくも(蒅)とは、刈り取って乾燥させた藍の葉を、水を打ちながら積み重ね、長期間発酵させてつくる染料のもとです。阿波藍ではおよそ百日かけて発酵させるとされ、これをつくる職人を藍師と呼びます。すくもを搗き固めて運びやすくしたものが藍玉です。

Q藍玉とすくもは違うものですか?
A

染料そのものの正しい名前は「すくも」で、藍玉とは、運搬や取引のためにそのすくもを搗き固めた形態を指します。中身は同じすくもですが、流通の便のために固形にしたものが藍玉、と理解するとよいでしょう。

Q藍はなぜ庶民の衣料に広く使われたのですか?
A

藍染は色落ちしにくく堅牢度が高いこと、防虫の効果があるとされたこと、染めた木綿が丈夫になるとされたことなど、実用上の利点が多かったためです。繰り返し使う普段着や作業着、蚊帳、布団地などに適し、倹約令の時代にも庶民が楽しめる装いでした。

Q福山で木綿づくりが盛んになったきっかけは何ですか?
A

初代福山藩主・水野勝成が、元和八年(1622年)の福山城築城前後に、領内の殖産興業のため木綿の製織を奨励したことが大きなきっかけとされます。沿岸の干拓地は塩に強い和綿の栽培に適しており、綿作と織物業が地域に根づいていきました。

Q備後絣を考案したのは誰ですか?
A

福山の芦田町に住んでいた富田久三郎が、糸束を竹の皮や麻糸でくくって防染し、井桁模様の絣を考え出したのが備後絣の始まりとされます。考案の時期は嘉永六年(1853年)ごろ、あるいは文久年間など諸説があり、いずれにせよ江戸時代後期と考えられています。

Q備後絣の前身となった織物はありますか?
A

はい。神辺を中心に織られた「神辺縞・福山縞」と呼ばれる縞木綿が、備後絣の前身とされます。丈夫で安価、染めの堅牢な実用向きの織物として評判を得ており、その伝統と藍染の技術が、後の絣づくりの素地となりました。

Q「日本三大絣」とは何ですか?
A

一般に、備後絣(広島)・伊予絣(愛媛)・久留米絣(福岡)の三つを指して「日本三大絣」と呼びます。いずれも藍染の木綿絣で、地域を代表する伝統的な織物として知られています。

Qなぜ日本最大の藍産地は徳島(阿波)だったのですか?
A

吉野川流域は氾濫が多く稲作には不向きでしたが、氾濫がもたらす肥沃な土が藍の栽培に適していたとされます。徳島藩も藍の生産を保護・奨励したため、阿波は日本最大の藍産地となり、「阿波二十五万石、藍五十万石」と称されるほど藍が経済を潤しました。

Q藍商とはどのような人々ですか?
A

藍商は、すくもや藍葉を買い付け、藍玉に仕立てて全国へ売りさばいた流通の担い手です。徳島では新町川沿いに藍蔵が並び、藍商が瀬戸内海の廻船を使って各地へ藍を出荷しました。なかには莫大な富を築き、地域の経済や文化を支える存在となった者もいました。

Q天然藍が衰退した最大の原因は何ですか?
A

ドイツで開発された合成藍(合成インジゴ)の登場が最大の要因とされます。バイヤーが1880年に合成し、BASF社が1897年に工業化、日本にも1903年以降に本格流入しました。安価で大量に供給される合成藍に市場を奪われ、手間のかかる天然藍は急速に衰退しました。

Q備後絣の生産はどのように移り変わりましたか?
A

戦後の近代化で生産が拡大し、昭和35年(1960年)ごろには年間約330万反、国内絣の約7割を占めたとされます。しかし洋装化により需要が激減し、1960年代をピークに縮小。生産者をまとめた備後絣協同組合は2023年度限りで解散したとされ、現在は少数の織元が伝統を受け継いでいます。

Q天然藍はもう途絶えてしまったのですか?
A

いいえ。第二次世界大戦期には藍作が禁止されたと言われ、危機に瀕しましたが、徳島の藍師たちが種を守り、わずかでも藍づくりを続けたと伝えられます。昭和40年ごろからは民芸運動などを背景に天然藍が再評価され、現在も工芸・染織の世界でその伝統が受け継がれています。

Q「ジャパン・ブルー」という言葉の由来は何ですか?
A

明治期に日本を訪れた外国人が、町ゆく人々の着物やのれん、作業着などに用いられた藍色の多さに驚き、日本を象徴する色として書き残したことに由来するとされます。以来、藍色は「ジャパン・ブルー」と呼ばれ、日本を代表する色のひとつとされています。

Q藍染と合成インジゴ染めは何が違うのですか?
A

色素であるインジゴそのものは天然藍も合成藍も化学的には同じとされますが、天然藍は灰汁発酵建による微生物の発酵を経て染めるため、合成藍では出しにくい深みや味わいのある青になるといわれます。手間とコストの面では合成藍が圧倒的に有利で、これが天然藍衰退の背景にもなりました。

Q備後絣は現在でも作られていますか?
A

はい。生産量は最盛期に比べてごくわずかですが、福山では限られた数の織元が伝統の技を受け継ぎ、絣の生地づくりを続けています。近年は着物だけでなく、シャツやストール、雑貨などの現代的な製品にも活用され、新たな価値が見いだされています。最新の生産状況は各織元や福山市・商工会議所の公式情報でご確認ください。

まとめ

藍は、青色の色素を含む植物の総称であり、日本ではタデアイを百日かけて発酵させた「すくも」を染料として、灰汁発酵建という技法で布を染めてきました。色落ちしにくく、防虫の効果があるとされ、木綿を丈夫にするその実用性から、藍染は庶民の暮らしのすみずみまで浸透し、「ジャパン・ブルー」と呼ばれる日本の色を形づくっていきました。

福山・備後では、初代藩主・水野勝成が奨励した木綿づくりを土台に、神辺縞・福山縞を経て、富田久三郎が考案したと伝えられる備後絣が生まれ、藍に染められた井桁模様の絣は日本三大絣のひとつへと発展しました。その藍色を支えた染料は、阿波藍を頂点とする全国流通の藍であり、藍師・藍商・染師・織職人といった多くの人々の手が、一枚の布の色の向こうに重なっています。

明治以降、合成藍の登場や洋装化の波のなかで、天然藍も備後絣も大きく規模を縮小し、藍商の隆盛は過去のものとなりました。それでも、種を守り技をつないだ人々や、伝統を受け継ぐ織元の努力によって、藍と備後絣の文化は今も生き続けています。福山という「ものづくりのまち」の原点のひとつとして、藍色の織物がたどった盛衰の物語は、これからも語り継がれていくことでしょう。

出典・注意

本記事は、福山商工会議所・福山市・徳島県関連団体・百科事典・染織や藍に関する解説資料などの公開情報をもとに構成しています。藍の伝来時期、備後絣の考案年(嘉永・文久などの諸説)、神辺縞・福山縞の流通開始時期、生産量や年代などについては、史料によって記述に幅があります。

※年代・経緯には諸説ある事項を含みます。詳細は各施設・公式情報や郷土資料でご確認ください。

最終更新: 2026年6月10日

史跡情報は福山NOTE 史跡図鑑(fn_history)より。