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🏯 歴史

うずみの歴史|藩政の倹約令が生んだ福山の郷土料理

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うずみの歴史|藩政の倹約令が生んだ福山の郷土料理

福山の食文化を語るとき、見た目はただの白いごはん、しかしひと口すくうと驚くほど豪華な具が下から現れる――そんな不思議な郷土料理があります。その名を「うずみ」といいます。漢字をあてれば「埋み」。文字どおり、煮含めた具材をお椀の底に「埋(うず)めて」、その上からごはんをかぶせて食べる料理です。一見すると質素なお茶漬けやだしごはんのようでありながら、ごはんの下には鯛や鶏肉、えび、季節の野菜やきのこがたっぷりと隠されている。この「隠す」という所作そのものに、福山という土地が歩んできた歴史と、庶民の知恵やつつましさが折り込まれています。

うずみは、農林水産省が各地の食文化を記録する「うちの郷土料理」にも広島県の料理として掲載されている、れっきとした郷土の味です。福山市を中心とした備後地方で、おもに秋の収穫を祝うごちそうとして食べ継がれてきました。本記事では、この「うずみ」という料理が、いつ、どのような背景のもとで生まれたのか、なぜ具を埋めて食べるようになったのか、そして昭和の一時期に廃れかけながらも、平成以降にどのように復活し、いまへと受け継がれてきたのかを、確認できる史実に沿って丁寧にたどっていきます。年代や由来には諸説ある事項も多いため、断定を避けつつ、伝承と記録の両面から整理していきます。

料理の名前だけを聞くと地味な印象を受けるかもしれません。しかし、うずみには「藩の倹約政治」「秋の収穫祝い」「神社の例祭」といった、福山の歴史を語るうえで欠かせない要素が凝縮されています。なぜ庶民はわざわざごちそうを隠して食べたのか。その背景を知ると、一杯のうずみがまったく違った味わいに感じられるはずです。それでは、福山が誇る「埋める料理」の世界へとご案内します。

ゆかりの史跡・図鑑

うずみという料理が育まれた背景には、福山藩の城下町や、神辺(かんなべ)の天別豊姫神社(あまわけとよひめじんじゃ)といった、福山の歴史を今に伝える数々の場所が関わっています。ここでは、うずみや福山藩、備後地方の食文化にゆかりのある市内の史跡・スポットを、史跡図鑑から一覧・比較・詳細の3つの形でご紹介します。料理の歩みを思い浮かべながら、ゆかりの地を確認してみてください。

福山城 伏見櫓 📖江戸時代(元和年間)📍 福山駅前(福山市街)福山城 📖近世(江戸)📍 丸之内福山城博物館 📖近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)📍 福山駅前(福山市街)草戸千軒町遺跡 📖中世📍 草戸町明王院 📖中世📍 草戸町鞆の津の町並み(重伝建) 📖江戸時代(中世〜近代の建造物群)📍 鞆町鞆の浦の常夜燈と港湾施設 📖江戸時代📍 鞆町福山市鞆の浦歴史民俗資料館 📖近代(昭和)📍 鞆町鞆の浦 📖中世〜近世📍 鞆町福禅寺 対潮楼 📖近世📍 鞆町太田家住宅 📖江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)📍 鞆町いろは丸展示館 📖近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)📍 鞆町仙酔島古代(地質)/近代(指定)📍 鞆町廉塾(菅茶山旧宅) 📖近世📍 神辺町神辺城跡 📖中世📍 神辺町福山八幡宮 📖近世📍 北吉津町沼名前神社 📖近世📍 鞆町阿伏兎観音(磐台寺観音堂)近世📍 沼隈町吉備津神社(備後一宮)江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる📍 新市町素盞嗚神社(備後一宮) 📖飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮📍 新市町

史跡時代概要📍 エリア詳細
福山城 伏見櫓江戸時代(元和年間)伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最…📍 福山駅前(福山市街)下へ ↓
福山城近世(江戸)備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御…📍 丸之内下へ ↓
福山城博物館近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩…📍 福山駅前(福山市街)下へ ↓
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鞆の浦の常夜燈と港湾施設江戸時代江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯…📍 鞆町下へ ↓
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鞆の浦中世〜近世瀬戸内の「潮待ちの港」。常夜燈・雁木・波止場…📍 鞆町下へ ↓
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太田家住宅江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で…📍 鞆町下へ ↓
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仙酔島古代(地質)/近代(指定)鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連…📍 鞆町下へ ↓
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素盞嗚神社(備後一宮)飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏の…📍 新市町下へ ↓

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福山城 伏見櫓

江戸時代(元和年間) / 📍福山駅前(福山市街)

伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最古級の三層入母屋造の現存櫓。 福山城伏見櫓は、元和8年(1622年)の福山城築城に際し、城主水野勝成が将軍徳川秀忠から下賜を受け、京都の伏見城から移築させたと伝えられる櫓である。長らく伝承とされていたが、昭和29年(1954年)の解体修理の際、梁の陰刻に「松ノ丸ノ東やく(ら)」の文字が発見され、伏見城からの移築を裏付ける確かな遺構であることが明らかになった。構造は三層入母屋造で、初層と二層を同じ柱割とし、その上にやや小さい三層を望楼状に載せる。桁行八間・梁間三間、本瓦葺の規模をもつ。慶長期の城郭建築の様式を残す初期の典型として価値が高く、昭和8年(1933年)1月23日に国の重要文化財に指定された。福山城内に現存し、特別公開が行われることもある。

🕰 時代江戸時代(元和年間)
🏛 成立・築造元和8年(1622年)水野勝成の福山城築城時に伏見城から移築。国指定重要文化財(昭和8年=1933年1月23日指定)
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目(福山城内)
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福山城

近世(江戸) / 📍丸之内

備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御門は京都伏見城からの移築と伝わる。2022年に築城400年を迎えた。

🕰 時代近世(江戸)
🏛 成立・築造1622年(元和8)・水野勝成
👤 関連水野勝成・阿部正弘
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目8
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福山城博物館

近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期) / 📍福山駅前(福山市街)

水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩の歴史を体験型展示で伝える博物館 福山城博物館は、JR福山駅のすぐ北に建つ福山城天守内に置かれた市立の歴史資料館です。福山城は1622年(元和8年)、徳川譜代の大名・水野勝成が西国鎮衛の拠点として築いた近世城郭で、天守は1931年に国宝に指定されました。しかし1945年8月の福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリート造で外観が復興され、その内部が博物館として公開されました。2022年には築城400年に合わせて大規模リニューアルされ、北面の鉄板張り(黒い装い)の再現や、一番槍レース・火縄銃などの体験型コンテンツ、デジタル映像を用いた展示が整えられ、福山城と福山藩の歴史を学べる施設となっています。城内に現存する伏見櫓と筋鉄御門は、京都・伏見城からの移築と伝えられ、国の重要文化財に指定されています。常設展は有料、月曜休館とされます。

🕰 時代近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)
🏛 成立・築造福山城は1622年(元和8年)に初代福山藩主・水野勝成が築城。天守は1945年福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリートで外観復興、内部を博物館として開館。2022年に大規模リニューアル
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目8番
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鞆の津の町並み(重伝建)

江戸時代(中世〜近代の建造物群) / 📍鞆の浦

潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と町家が一体で残る重伝建地区 鞆の浦は瀬戸内海の中央に位置し、古来「潮待ちの港」として栄え、万葉集にも詠まれた歴史を持つとされる。江戸時代には北前船など廻船の寄港地として繁栄し、朝鮮通信使の寄港地ともなった。2017年(平成29年)11月28日、「福山市鞆町伝統的建造物群保存地区」として約8.6ヘクタールが国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。範囲は鞆字西町の全域を中心に、石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地の一部に及ぶ。中世から江戸期に整えられた地割の上に、江戸時代から昭和30年代までの町家や寺社、石垣などが一体的に残る近世港町の景観が評価された。常夜燈・雁木・波止・焚場・船番所の5つの港湾施設がほぼ完全に残る点は全国でも稀とされる。広島県内では3例目の選定で、2018年には日本遺産にも認定された。

🕰 時代江戸時代(中世〜近代の建造物群)
🏛 成立・築造2017年(平成29年)11月28日に国の重要伝統的建造物群保存地区へ選定。地割は中世〜江戸期、建造物は江戸時代〜昭和30年代まで。
📍 所在地広島県福山市鞆町(鞆字西町全域ほか、字石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地字古城跡・草谷の各一部)
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鞆の浦の常夜燈と港湾施設

江戸時代 / 📍鞆の浦

江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯一の近世港、鞆港。 鞆の浦の鞆港には、常夜燈・雁木・波止・焚場(たでば)・船番所という江戸時代の港湾施設5点がほぼ揃って現存し、これらが一体で残るのは全国でも鞆港のみとされる。シンボルの常夜燈は安政6年(1859)の刻銘をもつ石造灯台で、海中の基礎石から宝珠の頂までは約12.1mに及び、江戸期の石造常夜燈としては国内最大級とされる。雁木は潮の干満に応じて船を着けられる階段状の船着き場で、半円形の港内に連続して巡らされている。波止は花崗岩を積んだ全長約146mの防波堤で、江戸後期に築かれ明治期に修築された。鞆港を含む沿岸と沖の島々一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定され、鞆町西町を中心とする区域は2017年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。日本遺産「瀬戸の夕凪が包む 国内随一の近世港町」の構成要素でもある。

🕰 時代江戸時代
🏛 成立・築造常夜燈は安政6年(1859)造立とされる。雁木・波止・焚場・船番所は江戸後期築造、波止は明治期に修築。鞆港一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定。
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆
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福山市鞆の浦歴史民俗資料館

近代(昭和) / 📍鞆の浦

鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬戸内の歴史・民俗を伝える市立資料館 福山市鞆の浦歴史民俗資料館は、広島県福山市鞆町後地に建つ市立の博物館で、「潮待ちの館」の愛称で親しまれる。1977年(昭和52年)からの地元有志による調査・収集活動を背景に、福山市制70周年記念事業として1988年(昭和63年)に開館した。立地は、福島正則が築いたとされる鞆城跡(福山市指定史跡)の高台で、瀬戸内海を見渡せる。万葉の時代から潮待ち・風待ちの港として栄えた鞆の浦を中心に、古代から近世にいたる歴史資料を展示。鯛網漁のジオラマや錨を製造した鍛冶場、朝鮮通信使関連資料、保命酒に関する資料に加え、お手火神事・お弓神事といった地域の民俗文化財も常設展示する。鞆の歴史と暮らしを総合的に学べる拠点とされる。

🕰 時代近代(昭和)
🏛 成立・築造1988年(昭和63年)開館。福山市制70周年記念事業として建設。建つ鞆城跡は福島正則が築いたとされる(福山市指定史跡)
📍 所在地広島県福山市鞆町後地536-1
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太田家住宅

江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期) / 📍鞆の浦

鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で、国の重要文化財 鞆の浦を代表する歴史的建造物で、薬用酒「保命酒」の醸造で財を成した商家の旧宅。もとは大坂の漢方医を出自とする中村家の屋敷で、明暦元年(1655年)に鞆へ移り住み、まもなく十六味地黄保命酒の製造・販売を始めて大ヒットし、福山藩の御用名酒屋として販売独占権を得たとされる。明治期に廻船業を営んだ太田家が継承し、現在の名で呼ばれる。主屋を中心に保命酒蔵や各種土蔵など九棟が建ち並び、建築年代は18世紀中期から19世紀前期に及ぶ。瀬戸内の商家建築を伝える貴重な遺構として、1991年に国の重要文化財に指定された。幕末には三条実美ら尊王攘夷派の公卿が立ち寄ったと伝わり、別宅の朝宗亭とともに「鞆七卿落遺跡」として広島県の史跡(1940年指定)にもなっている。

🕰 時代江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)
🏛 成立・築造主屋は18世紀中期、ほか北保命酒蔵が天明8年(1788年)、西蔵が寛政元年(1789年)、東保命酒蔵が寛政7年(1795年)など18世紀中期〜19世紀前期。国の重要文化財指定は1991年(平成3年)5月31日。
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆842
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いろは丸展示館

近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期) / 📍鞆の浦

坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵を活かした資料館 鞆の浦のシンボル常夜灯(とうろどう)のすぐそばに建つ資料館。1867年(慶応3年)、坂本龍馬と海援隊が運航したいろは丸が紀州藩の明光丸と備後灘で衝突・沈没した「いろは丸事件」を伝える施設で、その談判が鞆の浦で行われた縁にちなむ。建物は江戸期に建てられた太い梁が印象的な土蔵で、地元では「大蔵」と呼ばれ、国の登録有形文化財とされる。館内には海底に沈むいろは丸を再現したジオラマ、引き揚げられた陶器や部品、調査風景の写真などを展示し、2階には龍馬が宿泊先で身を潜めたという「隠れ部屋」が再現され、龍馬の蝋人形も置かれている。1989年(平成元年)7月の開館。幕末史と鞆の港町文化を同時に味わえるスポットである。

🕰 時代近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)
🏛 成立・築造1989年(平成元年)7月開館。建物は江戸期築の土蔵「大蔵(浜蔵)」で、国の登録有形文化財とされる。展示題材のいろは丸事件は1867年(慶応3年)
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆843-1
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仙酔島

古代(地質)/近代(指定) / 📍鞆の浦

鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連なる瀬戸内海国立公園の名勝 仙酔島は鞆の浦の沖合に浮かぶ周囲約6キロの島で、住所は福山市鞆町後地。鞆港から市営渡船で約5分の距離にあり、観光客の往来はあるが定住者のいない無人島とされる。1925年(大正14年)に国の名勝「鞆公園」の一部として指定され、1934年(昭和9年)には日本で最初に指定された国立公園・瀬戸内海国立公園に含まれた。島は約9000万年前の大規模な火山活動による溶結凝灰岩を主体とし、南側海岸には青・赤・黄・白・黒の岩が200メートル以上連なる「五色岩」が見られ、地質的に貴重とされる。「仙人が酔うほど美しい島」が名の由来と言われる。江戸後期の学者・頼山陽が当地の景観を「山紫水明」と評したとも伝わる。

🕰 時代古代(地質)/近代(指定)
🏛 成立・築造1925年(大正14年)国名勝「鞆公園」に指定。1934年(昭和9年)日本初の国立公園・瀬戸内海国立公園に編入。島自体は約9000万年前の火山活動で形成されたとされる
📍 所在地広島県福山市鞆町後地
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吉備津神社(備後一宮)

江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる / 📍新市・北部

備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で「いっきゅうさん」と親しまれる古社 福山市新市町宮内に鎮座する備後国一宮で、地元では「一宮さん(いっきゅうさん)」と親しまれる。社伝では大同元年(806年)に吉備国の吉備津神社から勧請し創建されたと伝わるが、延喜式神名帳に記載がないことなどから実際の成立はより後とする説もある。主祭神は吉備国を治めたとされる大吉備津彦命。現在の本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が旧規模にならい造営したもので、桁行七間・梁間四間の入母屋造檜皮葺、国の重要文化財に指定されている。ほかにも木造狛犬や太刀などが重要文化財として伝えられ、複数の建造物が広島県・福山市指定文化財となっている。隣接する櫻山城跡なども史跡として知られ、備後の信仰と歴史を今に伝える。

🕰 時代江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる
🏛 成立・築造本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が造営、国の重要文化財。創建は大同元年(806年)と伝わるが諸説ある
📍 所在地広島県福山市新市町宮内400
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素盞嗚神社(備後一宮)

飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮 / 📍新市・北部

祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏のけんか神輿で名高い古社 福山市新市町戸手に鎮座する素盞嗚神社は、『延喜式神名帳』に載る式内社で備後国一宮を称し、旧社格は県社です。主祭神は素盞嗚尊で、稲田姫命・八王子を配祀します。社伝では天武天皇の治世、7世紀ごろ(679年か)の創建とされます。『釈日本紀』所収の「備後国風土記」逸文に伝わる蘇民将来説話の舞台「疫隈国社」と結びつけられ、茅の輪くぐりや祇園信仰・祇園祭発祥の地の一つとされています。神仏習合期には牛頭天王を祀り、遣唐使・吉備真備が734年に当社から播磨の広峯神社へ勧請したとも伝わります。毎年7月の例祭では、勇壮なけんか神輿(神輿合わせ)が行われることで知られます。

🕰 時代飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮
🏛 成立・築造社伝では天武天皇期の7世紀ごろ(679年か)創建とされる。『延喜式神名帳』記載の式内社で、旧県社
📍 所在地広島県福山市新市町大字戸手1-1

うずみとはどんな料理か

福山城
福山城(画像:Wikimedia Commons / CC)

うずみは、お椀の底に下ごしらえした具材を盛り、その上にごはんをかぶせ、さらにだし汁をかけて食べる、汁かけごはんに近い形式の料理です。最大の特徴は、なんといっても「具を見せない」という点にあります。テーブルに運ばれてきたときには、お椀の表面には白いごはんしか見えません。ところが箸やスプーンでごはんをかき分けると、その下から鯛や鶏肉、えび、ごぼう、里芋、にんじん、大根、しいたけ、松茸、豆腐といった具材が次々と顔を出します。質素に見せかけて、実は中身は豪華――この意外性こそが、うずみという料理の核心です。

名前の由来も、この食べ方に直結しています。「具を埋める」ことから「うずみ」と呼ばれるようになったとされ、漢字では「埋み」と書きます。地域によっては「うずみ飯」「うずめ」などと呼ばれることもあります。中国地方には、ほかにも具をごはんや何かで「埋める」「隠す」といった発想の食文化が点在しており、うずみもそうした流れのなかに位置づけられる料理だと考えられています。

使われる具材は、基本的にその土地で手に入る旬の食材です。農林水産省の「うちの郷土料理」によれば、ごぼう、里芋、にんじん、大根、しいたけ、松茸、豆腐、小えび、鶏肉、鯛などを食べやすい大きさに切り、あらかじめ煮たりゆでたりして下ごしらえをし、お椀に盛るとされています。これらの具材は秋に旬を迎えるものが多く、うずみが「秋の収穫を祝う料理」として食べられてきたことと深く結びついています。瀬戸内海に面した福山ならではの鯛や小えびといった海の幸と、里山でとれる根菜やきのこといった山の幸が、一杯のお椀のなかで出会うのです。

だし汁にも地域差があるとされます。海沿いの地域ではいりこ(煮干し)でだしをとり、山あいの地域では干ししいたけのうま味を生かすなど、その土地の風土に応じた工夫が見られます。だしを別にとっておき、具材の上にごはんを盛ってから熱いだしをかけて食べる――この手順によって、ごはんの下に隠れた具材があたためられ、だしの香りとともに豊かな味わいが立ちのぼります。シンプルでありながら、海と山の恵みを一度に味わえる、滋味深い一杯です。

うずみは、家庭で手間ひまをかけてつくるごちそうであると同時に、現在では学校給食や飲食店でも提供されるなど、地域に根づいた料理として親しまれています。福山に暮らす人にとっては「秋になると食べたくなる味」であり、福山を訪れる人にとっては「ここでしか出会えない郷土の味」として、その存在感を増しています。

なぜ具を「埋めて」食べるのか――起源の伝承

うずみのもっとも興味深い点は、なぜ具を隠して食べるようになったのか、という起源にあります。これについては複数の伝承が語り継がれており、確たる一説に定めることは難しいものの、もっとも広く知られているのが「藩の倹約政治に由来する」という説です。

江戸時代、福山藩では倹約が奨励された時期がありました。倹約政治のもとでは、鶏肉やえびといった食材は贅沢品とされ、庶民が堂々と口にすることがはばかられたと伝わります。そこで人々は、秋の収穫の喜びを祝いたい、せめてこの日くらいはごちそうを食べたい、という思いから、贅沢な具材をごはんの下に「埋めて」見えなくし、表向きは質素な食事を装いながら、ひそかにお祝いをした――これがうずみの始まりだとされる伝承です。表面はつましく、しかし中身は豊か。倹約と祝祭という相反する事情のあいだで生まれた、庶民の知恵の結晶ともいえる料理なのです。

ただし、この「藩の倹約政治」が具体的にどの藩主・どの時代を指すのかについては、伝え方が一様ではありません。福山藩の初代藩主である水野勝成(みずのかつなり)の倹約政治に結びつける説がある一方で、後年に福山を治めた阿部家(あべけ)の時代の倹約政治に由来するとする説もあります。料理の起源を一人の人物や一つの政策にきっぱりと帰することは難しく、これらはあくまで伝承として受け止めるのが適切でしょう。いずれにせよ、福山藩政のもとでの「倹約」という時代背景が、うずみという料理の発想に影を落としていることは、多くの記録や紹介で共通して語られています。

倹約政治説のほかにも、うずみの成り立ちを説明する伝承があります。そのひとつが「農作業説」です。これは、農繁期で食事の時間もろくに取れないほど忙しいなか、汁にごはんと具を入れてかき込み、手早く栄養を取れるようにした――という、実用本位の発想に起源を求めるものです。一杯で主食もおかずも汁物もまかなえるうずみは、たしかに忙しい働き手にとって理にかなった食事といえます。さらに、福山市神辺町にある天別豊姫神社の例祭で食べる風習があったとする伝えもあり、起源には祭礼・信仰の要素も絡んでいます。

このように、うずみの起源には倹約政治説・農作業説・祭礼説など複数の伝承が併存しています。どれか一つが正しく他が誤りというよりも、こうしたさまざまな事情や暮らしの知恵が幾重にも積み重なって、いまのうずみの形が育まれてきたと考えるのが自然でしょう。料理の由来に諸説あること自体が、それだけ長く、広く、人々の生活に寄り添ってきた証でもあるのです。

福山藩の成り立ちと「倹約」の時代背景

福山駅前から望む福山城(石垣と伏見櫓)
福山駅前から望む福山城(石垣と伏見櫓)(画像:Wikimedia Commons / CC)

うずみの起源として語られる「藩の倹約政治」を理解するために、まずは福山藩そのものの歩みを押さえておきましょう。福山藩は、元和(げんな)年間に水野勝成が入封したことに始まります。勝成は徳川家康のいとこにあたる武将で、西国の要としてこの地を任され、芦田川河口の干潟を埋め立てて城と城下町を一から築き上げました。これが今日の福山市の原型です。海に近い低湿地を開発して新しい都市をつくるという大事業は、堤防の構築や干拓、用水の整備など、地道で根気のいる営みの積み重ねでした。

新しい城下町を運営し、領内の産業を育てていくうえで、藩政では質実剛健・倹約が重んじられる場面が少なくありませんでした。武家社会において倹約は、財政を健全に保ち、領民に範を示すための重要な徳目とされていました。華美を戒め、つつましさを尊ぶ気風は、武士のみならず庶民の暮らしぶりにも影響を与えたと考えられます。うずみの起源に「倹約」が語られる背景には、こうした藩政の基調があったのです。

水野家の治世ののち、福山藩は支配する大名家がいくつか替わり、やがて阿部家の時代を迎えます。阿部家は、宝永7年(1710年)に備後福山へ転封となり、阿部正邦(あべまさくに)が入封したことで、この地に長く根を下ろすことになりました。正邦は翌正徳元年(1711年)に福山へ入り、領内の村々から書き上げ(指出帳)を提出させて、領地の実情を把握することから藩政を始めたと伝わります。以後、阿部家は幕末・明治に至るまで福山藩主を務め、その在封はおよそ百六十年余りに及びました。福山の城下では、水野家の時代に築かれた基盤の上に、阿部家のもとでさらに町や文化が成熟していったのです。

うずみの起源を阿部家の倹約政治に求める伝承があるのも、この長い阿部家の治世のなかで、藩政の質素倹約の方針と庶民の祝祭の知恵とが交差したと考えられるからでしょう。水野家の創業期の気風と、阿部家の長い統治期の文化――そのどちらをうずみの起源と結びつけるかで伝承が分かれるのも、福山藩の歴史そのものが重層的であることの反映といえます。

阿部家と幕末の福山――名君・阿部正弘の時代

福山藩阿部家のなかでも、とりわけ名を知られるのが第7代藩主・阿部正弘(あべまさひろ)です。正弘は文政2年(1819年)に生まれ、天保7年(1836年)に兄である第6代藩主・正寧(まさやす)の養嗣子となって、若くして福山十万石の藩を継ぎました。やがて幕府の中枢に登用され、25歳の若さで老中に抜擢、その後ほどなくして老中首座(複数いる老中の筆頭)に就いたと伝わります。

正弘の名が日本史に深く刻まれているのは、嘉永6年(1853年)のペリー来航への対応によってです。アメリカのペリー艦隊が浦賀に来航し、開国を求める大統領の親書がもたらされたとき、老中首座として幕政を主導していたのが阿部正弘でした。正弘は大名や諸士に広く意見を求めるという、それまでにない開かれた姿勢で難局に臨み、翌年には日米和親条約の締結へと至りました。日本の開国という、近代史の大きな転換点に深く関わった人物が、ほかならぬ福山藩主だったのです。

また正弘は、教育にも力を注ぎました。嘉永6年(1853年)には、福山と江戸に藩校「誠之館(せいしかん)」を設け、身分にかかわらず人材を育てる方針を打ち出したと伝わります。誠之館からは幕末・明治にかけて多くの人物が輩出され、福山が学問・教育を重んじる土地柄として知られるようになる礎を築きました。福山市内には、こうした阿部正弘の功績を顕彰する像や、藩校の伝統を受け継ぐ場所が今も残されています。

うずみそのものと正弘を直接結びつける確たる記録があるわけではありませんが、うずみの起源を「阿部家の倹約政治」に求める伝承は、こうした阿部家治世のなかで語られてきたものです。幕末の激動を福山から支えた阿部家の歴史を知ることは、うずみという料理が生まれ育った時代の空気を感じるうえで、欠かせない手がかりとなります。料理と歴史が地続きであることを、うずみは静かに教えてくれます。なお、福山城や福山藩の歩み全体については、福山の歴史を通史でたどるガイド記事もあわせてご覧ください。

天別豊姫神社と例祭の風習

芦田川の河口部
芦田川の河口部(画像:Wikimedia Commons / CC)

うずみの歴史をたどるうえで、もうひとつ忘れてはならない場所があります。福山市神辺町川北に鎮座する天別豊姫神社(あまわけとよひめじんじゃ)です。この神社は古い格式をもつ式内社で、旧社格は県社にあたります。江戸時代には福山藩主の水野氏・阿部氏からも崇敬を受けたと伝わる、地域の歴史を物語る古社です。

この天別豊姫神社には、うずみの作り方に関する文献が残されているとされ、古くから神社の例祭でうずみを食べる風習があったと伝えられています。例祭は10月20日に営まれると伝わり、これはまさに秋の収穫の時季にあたります。神に実りを感謝し、人々が集って祝う祭礼の場で、うずみが供され、振る舞われていた――そう考えると、うずみが単なる日常食ではなく、祝祭や信仰と結びついた「ハレの料理」であったことがよく分かります。

秋の収穫祭とうずみの結びつきは、料理に使われる具材からも裏づけられます。里芋、ごぼう、にんじん、大根といった根菜、しいたけや松茸といったきのこは、いずれも秋に旬を迎える食材です。これらをふんだんに使ったうずみは、その年の実りそのものをお椀のなかに表現した、収穫感謝の象徴のような料理だったといえるでしょう。神社の例祭という公の祝祭の場で食べられていたことは、うずみが地域共同体にとって特別な意味をもつ料理だったことを示しています。

「倹約のために具を隠した」という伝承と、「収穫祭で神に感謝して食べた」という伝承は、一見すると正反対のようにも思えます。つつましさと豪華さ、隠すことと祝うこと。しかし、この二つは矛盾するものではありません。表向きはつましく装いながら、その内には豊かな実りへの感謝と喜びを込める――うずみという料理は、まさにその両義性のなかにこそ本質があるのかもしれません。質素と祝祭が同居する、福山ならではの食の知恵が、ここに凝縮されています。神辺は古くから山陽道の宿場町として栄えた地でもあり、人と物が行き交うなかで食文化が育まれた土地柄でした。

秋の収穫を祝うごちそうとして

近代から昭和にかけて、うずみは福山周辺の家庭で、秋の収穫を祝うごちそうとして食べ継がれてきました。農林水産省の記録によれば、昭和40年代頃までは、秋になるとうずみを作って食べる習慣が地域に根づいていたとされています。稲刈りを終え、畑の作物を収穫し終えたあと、その年の実りに感謝して家族や近隣の人々が囲む――うずみは、そうした季節の節目を彩る料理でした。

当時の暮らしを思い描いてみると、うずみが愛された理由がよく分かります。秋は一年でもっとも食材が豊かに揃う季節です。田畑からは米や根菜が、里山からはきのこが、そして瀬戸内の海からは鯛や小えびがもたらされます。これらをすべて一つのお椀に盛り込めるうずみは、その年の恵みを丸ごと味わえる、ぜいたくでありながら無駄のない料理でした。下ごしらえに手間はかかりますが、具材を煮含めておけば、あとはごはんとだしで仕上げられるため、大人数で囲む祝いの席にも向いていたと考えられます。

うずみは家ごとに少しずつ作り方や具材が異なり、いわゆる「おふくろの味」として各家庭に受け継がれてきました。だしの取り方ひとつをとっても、いりこを使う家、干ししいたけを使う家とさまざまで、入れる具材も手に入る食材に応じて変わりました。こうした家庭ごとの多様性こそが、郷土料理ならではの豊かさです。決まったレシピがあるというよりも、その土地・その家の暮らしのなかで自然に形づくられてきた料理――それがうずみなのです。

同じ福山の伝統には、藍で糸を染めて織り上げる備後絣や、瀬戸内の港町に花開いた鞆の浦の街並みなど、暮らしの知恵と美意識が結晶した文化が数多くあります。うずみもまた、福山の人々が季節とともに生きてきた営みのなかから生まれた、生活文化の一部だといえるでしょう。料理・工芸・町並み――その根底には、つましさのなかに豊かさを見いだす、共通した感性が流れているように感じられます。

昭和の衰退――食習慣が薄れた時代

長く秋の祝い料理として親しまれてきたうずみですが、昭和40年代を過ぎたあたりから、その食習慣はしだいに薄れていきました。高度経済成長を経て、人々の暮らしや食生活が大きく変化したことが、その背景にあります。手間ひまをかけて具材を下ごしらえし、家族総出で囲むような料理は、忙しくなった現代の生活のなかで、少しずつ作られる機会を失っていきました。

食の多様化も、うずみの衰退に拍車をかけました。外食産業の発展や食品流通の近代化によって、家庭の食卓に並ぶ料理の選択肢は飛躍的に増えました。手のかかる郷土料理よりも、手軽に用意できる料理が選ばれるようになるのは、ある意味で時代の必然でした。秋の収穫を一家で祝うという生活様式そのものが薄れていくなかで、うずみが食べられる場面も減っていったのです。

この時期、うずみは「知っている人は知っているが、若い世代にはほとんど知られていない料理」へと、静かに後退していきました。郷土料理が世代を超えて受け継がれていくためには、家庭でくり返し作られ、食べられることが欠かせません。その連鎖が細くなれば、料理は記憶の片隅へと追いやられていきます。うずみもまた、そうした多くの郷土料理がたどった道を、いったんは歩みかけたのです。

しかし、福山の人々は、この土地ならではのごちそうを失われたままにはしませんでした。やがて平成の時代に入ると、うずみを地域の宝として見直し、もう一度光をあてようとする動きが起こります。次章では、衰退しかけたうずみが、どのようにして「福山の顔」と呼べる料理へと復活を遂げていったのかを見ていきましょう。

平成以降の復活――学校給食と地域の取り組み

いったんは食べられる機会が減ったうずみですが、平成に入ると、地域ぐるみでその価値を再発見し、復活させようとする取り組みが広がっていきました。その大きな柱のひとつが、学校給食です。地元の郷土料理として、うずみを給食の献立に取り入れ、子どもたちに福山の食文化を伝える試みが行われるようになりました。秋の時季に給食でうずみが出されることで、若い世代が「うずみとはこういう料理だ」と知り、味わう機会が生まれたのです。

学校給食を通じた継承には、大きな意義があります。家庭で作られなくなった料理も、給食という場で子どもたちが体験することで、「自分たちの郷土にはこんな料理がある」という記憶が次の世代に植えつけられます。食育という観点からも、地域の歴史や食材への理解を深めるうずみは、格好の教材となりました。給食で食べたうずみが、やがて家庭の食卓へ、そして大人になってからの郷土の記憶へとつながっていく――そうした循環が、復活の土台を支えています。

飲食店での提供も、うずみ復活の重要な動きでした。地元の料理店や食堂がうずみをメニューに加えることで、家庭で作る機会が減っても、人々が外でうずみを味わえる場が生まれました。さらに、市民講座や料理教室などで、うずみの作り方を学び、伝えていく取り組みも行われるようになりました。家庭・学校・飲食店・地域活動という複数の場が連動することで、うずみは少しずつ「身近な料理」へと戻っていったのです。

こうした地道な取り組みの積み重ねによって、うずみは単なる「昔あった料理」ではなく、「いま福山で食べられる生きた郷土料理」として再び存在感を取り戻しました。一度は廃れかけた料理がここまで息を吹き返したのは、福山の人々が自分たちの食文化に誇りをもち、それを次の世代へ手渡そうと努力してきたからにほかなりません。郷土料理の復活は、そのまま地域のアイデンティティの再確認でもあったのです。

「ふくやまうずみごはん」とご当地グルメ化

平成以降のうずみ復活を語るうえで欠かせないのが、ご当地グルメとしてのブランド化の動きです。福山では、地域の食でまちを盛り上げようとする取り組みのなかで、うずみが新たな脚光を浴びるようになりました。とりわけ、福山特産の鯛を具に用いた創作うずみは、地元の海の幸を生かしたご当地グルメとして注目を集めました。瀬戸内海でとれる鯛は福山を代表する食材のひとつであり、それを伝統のうずみと組み合わせることで、地域色豊かな一皿が生まれたのです。

こうした取り組みのなかで「ふくやまうずみごはん」というブランド名のもとに、市内の飲食店が思い思いの創作うずみを提供する動きが広がりました。和食の枠にとどまらず、パスタやスイーツ、和菓子などにうずみの「埋める」発想を応用した創作も登場し、提供する店舗の数も増えていきました。伝統料理を守るだけでなく、現代の感性で自由にアレンジし、新しい食の楽しみへと発展させていく――そうした柔軟な発想が、うずみのご当地グルメ化を後押ししました。

ご当地グルメとしてのうずみは、まちおこしの文脈とも結びつきました。地域のグルメイベントやコンテストの場でうずみが取り上げられることで、市内外への発信力が高まり、「福山といえばうずみ」というイメージが少しずつ定着していきました。観光で福山を訪れた人にとっても、うずみはこの土地ならではの食体験として、旅の記憶に残る一皿となります。伝統と新しさ、郷土愛と発信力――そのバランスのなかで、うずみは現代的なご当地グルメへと姿を広げていったのです。

食でまちを彩る取り組みは、福山が古くから「ものづくり」と「商い」のまちであったこととも無縁ではありません。松永の下駄鉄のまち福山に象徴されるように、福山は時代に応じて産業を生み出し、磨いてきた土地です。うずみのご当地グルメ化も、そうした「地域の資源を生かして価値を生む」福山らしい営みの、食の分野における一例だといえるでしょう。

うずみのマスコットと地域ブランド

うずみが地域ブランドとして親しまれる過程では、料理そのものだけでなく、それを象徴するキャラクターも生まれました。「うずみちゃん」と呼ばれるマスコットは、平成23年(2011年)10月に、福山市の市制95周年を記念し、「ふくやまうずみごはん」という食ブランドを広く知ってもらうために誕生したとされています。料理にキャラクターという親しみやすい顔が加わることで、子どもから大人まで幅広い世代がうずみに関心をもつきっかけとなりました。

マスコットキャラクターの存在は、郷土料理を現代に広めるうえで意外なほど大きな役割を果たします。イベントでのPR活動やグッズ、ポスターなどを通じて、うずみという料理名と、その「具を埋める」という特徴が、楽しいイメージとともに人々の記憶に刻まれていきます。とりわけ子どもたちにとっては、キャラクターを入り口にして郷土料理に親しむことができるため、食文化を次の世代へ伝えるうえでの強い味方となります。

市制の節目に合わせてマスコットが作られたことは、うずみが福山という都市のアイデンティティと結びついた料理であることをよく示しています。まちの記念すべき年に、地域の食を象徴する存在として選ばれたのがうずみだった――その事実は、この料理が福山の人々にとっていかに大切なものであるかを物語っています。料理が地域の誇りとして位置づけられ、まちのブランドの一翼を担うようになったのです。

こうした地域ブランド化の取り組みは、単なる宣伝にとどまりません。地元の人々がうずみを「自分たちの料理」として再認識し、誇りをもつことそのものが、食文化を未来へつなぐ原動力になります。マスコットやブランド名は、その誇りを目に見える形にし、共有するための装置だといえるでしょう。うずみは、伝統の味であると同時に、現代の福山が自らの文化を発信するためのシンボルへと育っていったのです。

現代に広がる多彩なうずみ

現代のうずみは、伝統的な秋の祝い料理という枠を超えて、実に多彩な形へと広がっています。「うずめる(埋める)」という発想を生かした創作料理が次々と生まれ、和食だけでなく洋食・中華、さらにはデザートにまで応用されているのです。福山の食の現場では、うずみは「決まった一品」ではなく、「埋めるという発想を共有する料理のジャンル」として、自由に展開されています。

たとえば、かき氷の氷の下にフルーツを埋めた「うずみ氷」、麺の下に具材を埋めた「うずみラーメン」、ソフトクリームに地元産の具材を忍ばせた「うずみソフトクリーム」など、伝統のうずみの発想をユニークに発展させたメニューが生まれています。いずれも、「ひと口すくうと下から思いがけない具が現れる」という、うずみ本来の驚きと楽しさを受け継いだ創作です。見た目はシンプル、しかし中身は豊か――その精神は、料理のジャンルが変わっても変わりません。

こうした自由な広がりは、うずみという料理がもつ懐の深さを物語っています。伝統を厳格に守ることも大切ですが、その本質である「埋める」という発想を、新しい食材や調理法と組み合わせて発展させていくことで、うずみは時代に合わせて生き続けています。若い料理人やお店が、それぞれの創意工夫でうずみを再解釈することは、料理を未来へつなぐもっとも力強い方法のひとつだといえるでしょう。

もちろん、伝統的なうずみも大切に受け継がれています。鯛や鶏肉、季節の野菜やきのこをだしで仕上げる本来のうずみは、いまも家庭や飲食店、学校給食などで味わうことができます。伝統の味を守る人々と、新しいうずみを創り出す人々――その両方が共存していることこそ、現代のうずみの豊かさです。守ることと変えること、その健やかな緊張関係のなかで、うずみは福山の食文化として確かな歩みを続けています。

うずみに込められた福山の精神

一杯のうずみを味わうとき、私たちはそこに福山という土地の精神を感じ取ることができます。表向きはつましく、しかし内には豊かさを秘める――この「うずみの美学」は、倹約を重んじた藩政の気風と、それでも実りを祝いたいという庶民の願いとが交わって生まれたものです。質素さと豊かさ、隠すことと祝うこと。相反する価値が一つのお椀のなかで調和している点に、うずみの奥深さがあります。

この精神は、決して過去のものではありません。見栄を張らず、しかし芯には豊かさと誇りを持つ――そうした生き方は、現代を生きる私たちにとっても示唆に富んでいます。派手さを競うのではなく、内実を大切にする。うずみという料理は、そうした価値観を、食べるという日常の行為を通して静かに伝えてくれます。ごはんの下から具が現れるたびに、私たちは「中身の豊かさ」というものに思いをめぐらせるのです。

また、うずみは「もてなしの心」をも体現しています。手間ひまをかけて具材を下ごしらえし、わざわざ隠すという一手間を加えてまで、相手を喜ばせ、驚かせようとする。その心配りは、福山の人々が大切にしてきたもてなしの伝統と通じ合っています。質素を装いながらも、いざ食べてみれば驚くほど豪華――そうしたサプライズの演出は、客人への深い思いやりの表れでもあるのです。

うずみが一度は衰退しながらも、地域の手で見事に復活を遂げたのは、この料理に込められた福山らしい精神が、人々の心に響き続けていたからではないでしょうか。料理は単なる栄養補給の手段ではなく、その土地の歴史・価値観・暮らしの知恵を映す鏡です。うずみを知ることは、福山という土地そのものを知ることにつながっています。福山藩を築いた水野勝成の時代から続く、つましくも豊かな福山の精神を、うずみは今日も静かに語り継いでいるのです。

うずみをめぐる年表

うずみと、その背景にある福山藩の歴史を、確認できる範囲で年表として整理します。料理そのものの起源年代は史料で確定しているわけではなく、伝承に基づくものが多いため、断定を避けつつ大きな流れを示します。

この年表からも分かるように、うずみは福山藩の歴史と分かちがたく結びついています。とりわけ江戸時代の起源については、年号を特定できる確たる史料があるわけではなく、あくまで伝承として語り継がれてきたものです。年表はあくまで大きな流れを把握するための目安として捉え、細部は各施設や郷土資料でご確認ください。

うずみの楽しみ方と関連スポット

福山を訪れたら、ぜひうずみを味わってみてください。秋の時季には、地元の飲食店で旬の具材を使ったうずみに出会える機会が増えます。鯛や小えびといった瀬戸内の海の幸と、里芋・ごぼう・きのこといった山の幸が一杯に集まる、福山ならではの味わいを堪能できます。ごはんを箸でかき分け、下から現れる具材を一つひとつ味わう――その体験自体が、うずみという料理の醍醐味です。だしの香りとともに、福山の歴史と暮らしの知恵を、舌で感じてみてください。

うずみを味わったあとは、その背景にある福山の歴史をめぐる旅もおすすめです。福山藩の歩みを知るなら、まずは福山城を訪れてみましょう。水野勝成が築き、阿部家が長く治めた城は、うずみが生まれた時代の空気を感じられる場所です。城内や周辺には、福山の歴史を学べる展示や史跡が数多くあります。

うずみの祭礼との結びつきをたどるなら、神辺町の天別豊姫神社へ足を運ぶのもよいでしょう。古くからこの地に鎮座し、うずみの例祭の風習が伝わるこの神社は、料理と信仰のつながりを感じさせてくれる場所です。神辺は山陽道の宿場町として栄えた歴史をもち、周辺には古い町並みや史跡も残されています。

さらに、潮待ちの港として知られる鞆の浦の街並みを歩けば、瀬戸内海の恵みとともに発展した福山の食文化の背景に触れることができます。海と山に囲まれた福山だからこそ、うずみのように海の幸と山の幸が出会う料理が育まれました。料理を入り口に、福山という土地の風土や歴史へと旅を広げていく――そんな楽しみ方こそ、郷土料理の醍醐味だといえるでしょう。

福山の歴史や文化をより深く知りたい方は、福山の歴史を通史でたどるガイド記事もあわせてご覧ください。城下町の成り立ちから産業の発展まで、福山の歩みを一望できます。うずみという一杯のお椀の向こうに広がる、奥深い福山の世界を、ぜひ味わってみてください。

よくある質問(FAQ)

Qうずみとはどんな料理ですか?
A

うずみは、福山市を中心とした広島県東部・備後地方の郷土料理です。お椀の底に煮含めた具材を盛り、その上からごはんをかぶせ、だし汁をかけて食べます。具をごはんの下に「埋める」ことが名前の由来で、表面は白いごはんだけに見えますが、下から鯛や鶏肉、えび、季節の野菜やきのこが現れるのが特徴です。農林水産省の「うちの郷土料理」にも掲載されています。

Qなぜ具を隠して食べるのですか?
A

もっとも広く知られているのは、江戸時代の福山藩の倹約政治に由来するという伝承です。鶏肉やえびなどの贅沢品を堂々と食べられなかった庶民が、秋の収穫の喜びを祝うために、具をごはんで隠して食べたのが始まりとされます。ただし、農作業の合間に手早く食べるための工夫だったとする説や、神社の例祭で食べられたとする伝えもあり、起源には諸説あります。

Qうずみという名前の由来は何ですか?
A

具材をごはんの下に「埋(うず)める」ことから「うずみ」と呼ばれるようになったとされています。漢字では「埋み」と書きます。中国地方には具を埋める・隠す発想の食文化が点在しており、うずみもその流れのなかにある料理と考えられています。

Qどんな具材が使われますか?
A

ごぼう、里芋、にんじん、大根、しいたけ、松茸、豆腐、小えび、鶏肉、鯛などが使われます。秋に旬を迎える食材が中心で、瀬戸内の海の幸と里山の山の幸が一杯のお椀に集まるのが特徴です。だしは、海沿いではいりこ(煮干し)、山あいでは干ししいたけを使うなど、地域差があるとされます。家庭ごとに具材や作り方が少しずつ異なります。

Qいつ食べる料理だったのですか?
A

主に秋の収穫を祝うごちそうとして食べられてきました。昭和40年代頃までは、稲刈りや畑の収穫を終えたあと、その年の実りに感謝して家庭で作られる習慣が地域に根づいていたとされています。秋に旬を迎える具材が多く使われることも、収穫祝いの料理であったことと結びついています。

Q倹約令を出したのはどの藩主ですか?
A

伝承では、福山藩初代藩主の水野勝成の倹約政治に結びつける説と、後に福山を治めた阿部家の時代の倹約政治に由来するとする説があり、一様ではありません。料理の起源を特定の人物や政策にきっぱり帰することは難しく、いずれも伝承として受け止めるのが適切です。共通しているのは、福山藩政の「倹約」という時代背景がうずみの発想に影響しているという点です。

Q天別豊姫神社とうずみの関係は?
A

福山市神辺町川北にある天別豊姫神社には、うずみの作り方に関する文献が残されているとされ、古くから例祭でうずみを食べる風習があったと伝えられています。例祭は10月20日に営まれると伝わり、秋の収穫の時季にあたります。うずみが祝祭や信仰と結びついた「ハレの料理」であったことを示すエピソードです。

Qうずみはなぜ一度すたれたのですか?
A

昭和40年代を過ぎたあたりから、高度経済成長による暮らしや食生活の変化、食の多様化などにより、手間のかかるうずみを家庭で作る機会が減っていきました。秋の収穫を一家で祝う生活様式そのものが薄れたことも、衰退の背景にあります。一時は若い世代にあまり知られない料理となりましたが、平成以降に復活の動きが進みました。

Qどのように復活したのですか?
A

平成以降、学校給食にうずみを取り入れて子どもたちに福山の食文化を伝える取り組みや、飲食店での提供、市民講座などの地域活動を通じて、うずみは見直され復活していきました。家庭・学校・飲食店・地域活動が連動することで、うずみは再び身近な料理として親しまれるようになりました。

Q「ふくやまうずみごはん」とは何ですか?
A

うずみを福山のご当地グルメとして発信するためのブランド的な呼び名です。福山特産の鯛を具に用いた創作うずみをはじめ、市内の飲食店が思い思いのうずみを提供しています。平成23年(2011年)には、市制95周年を機にマスコット「うずみちゃん」が誕生したとされ、地域ブランドとしての広がりを後押ししました。

Q伝統のうずみ以外にどんな種類がありますか?
A

「埋める」という発想を生かした創作うずみが数多く生まれています。かき氷にフルーツを埋めた「うずみ氷」、麺の下に具材を埋めた「うずみラーメン」、ソフトクリームに具材を忍ばせた「うずみソフトクリーム」など、和食の枠を超えた多彩なメニューがあります。いずれも、ひと口すくうと下から具が現れるという、うずみ本来の驚きと楽しさを受け継いでいます。

Q福山のどこでうずみを食べられますか?
A

秋の時季を中心に、福山市内の飲食店や食堂でうずみを味わえる機会があります。提供時期や内容は店舗によって異なるため、訪れる前に各店の最新情報を確認するのがおすすめです。また、学校給食で郷土料理として提供されることもあります。最新の提供状況や催し情報は、福山市の公式情報や各店舗の案内でご確認ください。

Qうずみは家庭でも作れますか?
A

はい、家庭でも作れる料理です。ごぼうや里芋、にんじん、大根、しいたけ、鶏肉、えびなどを食べやすく切ってあらかじめ煮ておき、お椀に盛ってからごはんをかぶせ、いりこなどでとっただし汁をかければ完成します。家庭ごとに具材や味つけが異なるのも、うずみの魅力のひとつです。農林水産省の「うちの郷土料理」などにも作り方が紹介されています。

Qうずみは他の地域にもありますか?
A

具を埋める・隠すという発想の料理は中国地方の各地に点在するとされますが、福山を中心とした備後地方の「うずみ」は、農林水産省の郷土料理にも広島県の料理として掲載される代表的な存在です。地域によって呼び名や具材、だしの取り方には違いがあり、その土地ごとの個性が反映されています。

まとめ

うずみは、見た目は質素な白いごはん、しかしその下には鯛や鶏肉、季節の恵みがたっぷりと隠された、福山が誇る郷土料理です。「具を埋める」という独特の食べ方には、江戸時代の福山藩の倹約政治のもとで、それでも秋の実りを祝いたいと願った庶民の知恵と心意気が込められていると伝わります。倹約と祝祭、つましさと豊かさ――相反する価値が一つのお椀のなかで調和している点に、うずみの奥深い魅力があります。

その起源には、水野勝成や阿部家の倹約政治に由来するという説、農作業の合間の工夫だったという説、神辺・天別豊姫神社の例祭で食べられたという説など、複数の伝承が併存しています。年代を特定できる確たる史料があるわけではありませんが、福山藩政の歴史と分かちがたく結びついた料理であることは、多くの記録に共通して語られています。昭和の一時期に衰退しかけたうずみが、平成以降に学校給食や飲食店、地域活動を通じて見事に復活を遂げたことも、福山の人々がこの味を誇りに思い、次の世代へ手渡そうとしてきた証です。

いまでは、伝統のうずみに加えて、うずみ氷やうずみラーメンといった創作うずみも生まれ、マスコット「うずみちゃん」とともに福山のご当地グルメとして親しまれています。福山を訪れた際には、ぜひ一杯のうずみを味わい、ごはんの下から現れる具材とともに、この土地が歩んできた歴史と、つましくも豊かな福山の精神を感じてみてください。一杯のお椀の向こうには、城下町の成り立ちから秋の収穫祭まで、福山の長い物語が広がっています。

出典・注意

本記事は、農林水産省「うちの郷土料理」(広島県・うずみ)、福山市の公式情報、各種百科事典・郷土資料・報道などの公開情報をもとに作成しました。うずみの起源や年代については、史料で確定しているものよりも伝承に基づくものが多く、本文中では「とされる」「諸説ある」「伝わる」といった表現を用いて、断定を避けるよう努めています。

※年代・経緯には諸説ある事項を含みます。詳細は各施設・公式情報や郷土資料でご確認ください。

最終更新: 2026年6月10日

史跡情報は福山NOTE 史跡図鑑(fn_history)より。