広島県福山市の西部に位置する松永(まつなが)は、今でこそ「はきものの町」「下駄の町」として知られていますが、その町の成り立ちをさかのぼると、瀬戸内海の遠浅の海をひらいてつくられた一面の塩田にたどり着きます。江戸時代前期、松永湾の浅瀬に「入浜(いりはま)塩田」が築かれ、白い結晶を生み出す広大な塩浜が広がりました。塩を煮つめるための大量の燃料、塩を運ぶ船、海を干拓して生まれた土地――その一つひとつが、のちの松永の産業と暮らしの土台になっていきます。この記事では、松永の塩田がどのように生まれ、どのように栄え、そしてどのように姿を消していったのか、そしてその塩づくりがなぜ下駄産業へとつながっていったのかを、確認できる史実に沿ってじっくりたどっていきます。地名「松永」の由来から、開発を主導した本荘重政(ほんじょう しげまさ)という人物、入浜塩田の仕組み、塩業の近代化と廃止、そして塩田跡地に受け継がれたものまで、瀬戸内・備後の塩づくりの歴史を一望できる読み物としてまとめました。
松永の歴史は、単に「塩がとれた」という産業史にとどまりません。海をひらく土木の技術、藩をあげた事業としての性格、移り住んだ人々がつくった新しい村、塩から下駄へと姿を変えていく産業の連鎖――そこには、瀬戸内という海とともに生きてきた備後の人々の知恵と工夫が凝縮されています。福山という町を理解するうえで、福山城下の城づくりや干拓と並んで、松永の塩田は欠かせない要素の一つです。それでは、瀬戸内の潮が育てた塩のまち・松永の歴史を、順を追って見ていきましょう。
ゆかりの史跡・図鑑
松永の塩田や、その開発を支えた人々にゆかりのある史跡・神社・資料館を、福山NOTEの史跡図鑑から一覧でご紹介します。塩田の守護神として祀られた神社、開発者を祀る神社、塩から下駄へと続く産業を伝える資料館など、現地を歩くときの手がかりとしてご活用ください。それぞれの所在地や特徴を、一覧表・比較・詳細の3つの形でまとめています。
| 史跡 | 時代 | 概要 | 📍 エリア | 詳細 |
|---|---|---|---|---|
| 福山城 伏見櫓 | 江戸時代(元和年間) | 伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最… | 📍 福山駅前(福山市街) | 下へ ↓ |
| 福山城 | 近世(江戸) | 備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御… | 📍 丸之内 | 下へ ↓ |
| 福山城博物館 | 近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期) | 水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩… | 📍 福山駅前(福山市街) | 下へ ↓ |
| 草戸千軒町遺跡 | 中世 | 芦田川の中州にあった中世の港町・集落遺跡。発… | 📍 草戸町 | 下へ ↓ |
| 明王院 | 中世 | 本堂と五重塔がともに国宝。中世密教寺院で、五… | 📍 草戸町 | 下へ ↓ |
| 鞆の津の町並み(重伝建) | 江戸時代(中世〜近代の建造物群) | 潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 鞆の浦の常夜燈と港湾施設 | 江戸時代 | 江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 福山市鞆の浦歴史民俗資料館 | 近代(昭和) | 鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 鞆の浦 | 中世〜近世 | 瀬戸内の「潮待ちの港」。常夜燈・雁木・波止場… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 福禅寺 対潮楼 | 近世 | 朝鮮通信使の使節が「日東第一形勝」と讃えた客… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 太田家住宅 | 江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期) | 鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| いろは丸展示館 | 近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期) | 坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 仙酔島 | 古代(地質)/近代(指定) | 鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 廉塾(菅茶山旧宅) | 近世 | 儒学者・菅茶山が開いた私塾。当時の塾舎・住宅… | 📍 神辺町 | 下へ ↓ |
| 神辺城跡 | 中世 | 備後南部の中世山城。福山城が築かれる以前、備… | 📍 神辺町 | 下へ ↓ |
| 福山八幡宮 | 近世 | 福山城の北に鎮座し、東西二つの宮を備える。歴… | 📍 北吉津町 | 下へ ↓ |
| 沼名前神社 | 近世 | 鞆の「祇園さん」。夏の大松明を担ぐ「お手火神… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 阿伏兎観音(磐台寺観音堂) | 近世 | 断崖の上に建つ朱塗りの観音堂。国の重要文化財… | 📍 沼隈町 | 下へ ↓ |
| 吉備津神社(備後一宮) | 江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる | 備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で… | 📍 新市町 | 下へ ↓ |
| 素盞嗚神社(備後一宮) | 飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮 | 祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏の… | 📍 新市町 | 下へ ↓ |
福山城 伏見櫓
伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最古級の三層入母屋造の現存櫓。 福山城伏見櫓は、元和8年(1622年)の福山城築城に際し、城主水野勝成が将軍徳川秀忠から下賜を受け、京都の伏見城から移築させたと伝えられる櫓である。長らく伝承とされていたが、昭和29年(1954年)の解体修理の際、梁の陰刻に「松ノ丸ノ東やく(ら)」の文字が発見され、伏見城からの移築を裏付ける確かな遺構であることが明らかになった。構造は三層入母屋造で、初層と二層を同じ柱割とし、その上にやや小さい三層を望楼状に載せる。桁行八間・梁間三間、本瓦葺の規模をもつ。慶長期の城郭建築の様式を残す初期の典型として価値が高く、昭和8年(1933年)1月23日に国の重要文化財に指定された。福山城内に現存し、特別公開が行われることもある。
| 🕰 時代 | 江戸時代(元和年間) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 元和8年(1622年)水野勝成の福山城築城時に伏見城から移築。国指定重要文化財(昭和8年=1933年1月23日指定) |
| 📍 所在地 | 広島県福山市丸之内一丁目(福山城内) |
福山城
備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御門は京都伏見城からの移築と伝わる。2022年に築城400年を迎えた。
| 🕰 時代 | 近世(江戸) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 1622年(元和8)・水野勝成 |
| 👤 関連 | 水野勝成・阿部正弘 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市丸之内一丁目8 |
福山城博物館
水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩の歴史を体験型展示で伝える博物館 福山城博物館は、JR福山駅のすぐ北に建つ福山城天守内に置かれた市立の歴史資料館です。福山城は1622年(元和8年)、徳川譜代の大名・水野勝成が西国鎮衛の拠点として築いた近世城郭で、天守は1931年に国宝に指定されました。しかし1945年8月の福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリート造で外観が復興され、その内部が博物館として公開されました。2022年には築城400年に合わせて大規模リニューアルされ、北面の鉄板張り(黒い装い)の再現や、一番槍レース・火縄銃などの体験型コンテンツ、デジタル映像を用いた展示が整えられ、福山城と福山藩の歴史を学べる施設となっています。城内に現存する伏見櫓と筋鉄御門は、京都・伏見城からの移築と伝えられ、国の重要文化財に指定されています。常設展は有料、月曜休館とされます。
| 🕰 時代 | 近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 福山城は1622年(元和8年)に初代福山藩主・水野勝成が築城。天守は1945年福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリートで外観復興、内部を博物館として開館。2022年に大規模リニューアル |
| 📍 所在地 | 広島県福山市丸之内一丁目8番 |
草戸千軒町遺跡
芦田川の中州にあった中世の港町・集落遺跡。発掘成果は広島県立歴史博物館で町並みが原寸復元展示されている。
| 🕰 時代 | 中世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 鎌倉〜室町 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市草戸町 |
明王院
本堂と五重塔がともに国宝。中世密教寺院で、五重塔は全国でも有数の古塔。
| 🕰 時代 | 中世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 本堂1321年・五重塔1348年 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市草戸町1473 |
鞆の津の町並み(重伝建)
潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と町家が一体で残る重伝建地区 鞆の浦は瀬戸内海の中央に位置し、古来「潮待ちの港」として栄え、万葉集にも詠まれた歴史を持つとされる。江戸時代には北前船など廻船の寄港地として繁栄し、朝鮮通信使の寄港地ともなった。2017年(平成29年)11月28日、「福山市鞆町伝統的建造物群保存地区」として約8.6ヘクタールが国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。範囲は鞆字西町の全域を中心に、石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地の一部に及ぶ。中世から江戸期に整えられた地割の上に、江戸時代から昭和30年代までの町家や寺社、石垣などが一体的に残る近世港町の景観が評価された。常夜燈・雁木・波止・焚場・船番所の5つの港湾施設がほぼ完全に残る点は全国でも稀とされる。広島県内では3例目の選定で、2018年には日本遺産にも認定された。
| 🕰 時代 | 江戸時代(中世〜近代の建造物群) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 2017年(平成29年)11月28日に国の重要伝統的建造物群保存地区へ選定。地割は中世〜江戸期、建造物は江戸時代〜昭和30年代まで。 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町(鞆字西町全域ほか、字石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地字古城跡・草谷の各一部) |
鞆の浦の常夜燈と港湾施設
江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯一の近世港、鞆港。 鞆の浦の鞆港には、常夜燈・雁木・波止・焚場(たでば)・船番所という江戸時代の港湾施設5点がほぼ揃って現存し、これらが一体で残るのは全国でも鞆港のみとされる。シンボルの常夜燈は安政6年(1859)の刻銘をもつ石造灯台で、海中の基礎石から宝珠の頂までは約12.1mに及び、江戸期の石造常夜燈としては国内最大級とされる。雁木は潮の干満に応じて船を着けられる階段状の船着き場で、半円形の港内に連続して巡らされている。波止は花崗岩を積んだ全長約146mの防波堤で、江戸後期に築かれ明治期に修築された。鞆港を含む沿岸と沖の島々一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定され、鞆町西町を中心とする区域は2017年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。日本遺産「瀬戸の夕凪が包む 国内随一の近世港町」の構成要素でもある。
| 🕰 時代 | 江戸時代 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 常夜燈は安政6年(1859)造立とされる。雁木・波止・焚場・船番所は江戸後期築造、波止は明治期に修築。鞆港一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定。 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町鞆 |
福山市鞆の浦歴史民俗資料館
鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬戸内の歴史・民俗を伝える市立資料館 福山市鞆の浦歴史民俗資料館は、広島県福山市鞆町後地に建つ市立の博物館で、「潮待ちの館」の愛称で親しまれる。1977年(昭和52年)からの地元有志による調査・収集活動を背景に、福山市制70周年記念事業として1988年(昭和63年)に開館した。立地は、福島正則が築いたとされる鞆城跡(福山市指定史跡)の高台で、瀬戸内海を見渡せる。万葉の時代から潮待ち・風待ちの港として栄えた鞆の浦を中心に、古代から近世にいたる歴史資料を展示。鯛網漁のジオラマや錨を製造した鍛冶場、朝鮮通信使関連資料、保命酒に関する資料に加え、お手火神事・お弓神事といった地域の民俗文化財も常設展示する。鞆の歴史と暮らしを総合的に学べる拠点とされる。
| 🕰 時代 | 近代(昭和) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 1988年(昭和63年)開館。福山市制70周年記念事業として建設。建つ鞆城跡は福島正則が築いたとされる(福山市指定史跡) |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町後地536-1 |
鞆の浦
瀬戸内の「潮待ちの港」。常夜燈・雁木・波止場・焚場・船番所の港湾施設が一体で残る全国的にも貴重な町並み。
| 🕰 時代 | 中世〜近世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 古代〜 |
| 👤 関連 | 朝鮮通信使・足利義昭・坂本龍馬 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町 |
福禅寺 対潮楼
朝鮮通信使の使節が「日東第一形勝」と讃えた客殿からの眺め。仙酔島を望む座敷が名高い。
| 🕰 時代 | 近世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 客殿は元禄年間 |
| 👤 関連 | 朝鮮通信使 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町2 |
太田家住宅
鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で、国の重要文化財 鞆の浦を代表する歴史的建造物で、薬用酒「保命酒」の醸造で財を成した商家の旧宅。もとは大坂の漢方医を出自とする中村家の屋敷で、明暦元年(1655年)に鞆へ移り住み、まもなく十六味地黄保命酒の製造・販売を始めて大ヒットし、福山藩の御用名酒屋として販売独占権を得たとされる。明治期に廻船業を営んだ太田家が継承し、現在の名で呼ばれる。主屋を中心に保命酒蔵や各種土蔵など九棟が建ち並び、建築年代は18世紀中期から19世紀前期に及ぶ。瀬戸内の商家建築を伝える貴重な遺構として、1991年に国の重要文化財に指定された。幕末には三条実美ら尊王攘夷派の公卿が立ち寄ったと伝わり、別宅の朝宗亭とともに「鞆七卿落遺跡」として広島県の史跡(1940年指定)にもなっている。
| 🕰 時代 | 江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 主屋は18世紀中期、ほか北保命酒蔵が天明8年(1788年)、西蔵が寛政元年(1789年)、東保命酒蔵が寛政7年(1795年)など18世紀中期〜19世紀前期。国の重要文化財指定は1991年(平成3年)5月31日。 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町鞆842 |
いろは丸展示館
坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵を活かした資料館 鞆の浦のシンボル常夜灯(とうろどう)のすぐそばに建つ資料館。1867年(慶応3年)、坂本龍馬と海援隊が運航したいろは丸が紀州藩の明光丸と備後灘で衝突・沈没した「いろは丸事件」を伝える施設で、その談判が鞆の浦で行われた縁にちなむ。建物は江戸期に建てられた太い梁が印象的な土蔵で、地元では「大蔵」と呼ばれ、国の登録有形文化財とされる。館内には海底に沈むいろは丸を再現したジオラマ、引き揚げられた陶器や部品、調査風景の写真などを展示し、2階には龍馬が宿泊先で身を潜めたという「隠れ部屋」が再現され、龍馬の蝋人形も置かれている。1989年(平成元年)7月の開館。幕末史と鞆の港町文化を同時に味わえるスポットである。
| 🕰 時代 | 近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 1989年(平成元年)7月開館。建物は江戸期築の土蔵「大蔵(浜蔵)」で、国の登録有形文化財とされる。展示題材のいろは丸事件は1867年(慶応3年) |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町鞆843-1 |
仙酔島
鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連なる瀬戸内海国立公園の名勝 仙酔島は鞆の浦の沖合に浮かぶ周囲約6キロの島で、住所は福山市鞆町後地。鞆港から市営渡船で約5分の距離にあり、観光客の往来はあるが定住者のいない無人島とされる。1925年(大正14年)に国の名勝「鞆公園」の一部として指定され、1934年(昭和9年)には日本で最初に指定された国立公園・瀬戸内海国立公園に含まれた。島は約9000万年前の大規模な火山活動による溶結凝灰岩を主体とし、南側海岸には青・赤・黄・白・黒の岩が200メートル以上連なる「五色岩」が見られ、地質的に貴重とされる。「仙人が酔うほど美しい島」が名の由来と言われる。江戸後期の学者・頼山陽が当地の景観を「山紫水明」と評したとも伝わる。
| 🕰 時代 | 古代(地質)/近代(指定) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 1925年(大正14年)国名勝「鞆公園」に指定。1934年(昭和9年)日本初の国立公園・瀬戸内海国立公園に編入。島自体は約9000万年前の火山活動で形成されたとされる |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町後地 |
廉塾(菅茶山旧宅)
儒学者・菅茶山が開いた私塾。当時の塾舎・住宅が残り、国の特別史跡に指定されている。
| 🕰 時代 | 近世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 18世紀末 |
| 👤 関連 | 菅茶山 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市神辺町川北640 |
神辺城跡
備後南部の中世山城。福山城が築かれる以前、備後支配の拠点だった。
| 🕰 時代 | 中世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 南北朝期 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市神辺町 |
福山八幡宮
福山城の北に鎮座し、東西二つの宮を備える。歴代藩主の崇敬を集めた。
| 🕰 時代 | 近世 |
|---|---|
| 👤 関連 | 水野家 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市北吉津町1-2-16 |
沼名前神社
鞆の「祇園さん」。夏の大松明を担ぐ「お手火神事」で知られる古社。
| 🕰 時代 | 近世 |
|---|---|
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町後地 |
阿伏兎観音(磐台寺観音堂)
断崖の上に建つ朱塗りの観音堂。国の重要文化財。古来、海上安全と子授け・安産の祈願で知られる。
| 🕰 時代 | 近世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 16世紀末 |
| 👤 関連 | 毛利輝元 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市沼隈町能登原 |
吉備津神社(備後一宮)
備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で「いっきゅうさん」と親しまれる古社 福山市新市町宮内に鎮座する備後国一宮で、地元では「一宮さん(いっきゅうさん)」と親しまれる。社伝では大同元年(806年)に吉備国の吉備津神社から勧請し創建されたと伝わるが、延喜式神名帳に記載がないことなどから実際の成立はより後とする説もある。主祭神は吉備国を治めたとされる大吉備津彦命。現在の本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が旧規模にならい造営したもので、桁行七間・梁間四間の入母屋造檜皮葺、国の重要文化財に指定されている。ほかにも木造狛犬や太刀などが重要文化財として伝えられ、複数の建造物が広島県・福山市指定文化財となっている。隣接する櫻山城跡なども史跡として知られ、備後の信仰と歴史を今に伝える。
| 🕰 時代 | 江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が造営、国の重要文化財。創建は大同元年(806年)と伝わるが諸説ある |
| 📍 所在地 | 広島県福山市新市町宮内400 |
素盞嗚神社(備後一宮)
祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏のけんか神輿で名高い古社 福山市新市町戸手に鎮座する素盞嗚神社は、『延喜式神名帳』に載る式内社で備後国一宮を称し、旧社格は県社です。主祭神は素盞嗚尊で、稲田姫命・八王子を配祀します。社伝では天武天皇の治世、7世紀ごろ(679年か)の創建とされます。『釈日本紀』所収の「備後国風土記」逸文に伝わる蘇民将来説話の舞台「疫隈国社」と結びつけられ、茅の輪くぐりや祇園信仰・祇園祭発祥の地の一つとされています。神仏習合期には牛頭天王を祀り、遣唐使・吉備真備が734年に当社から播磨の広峯神社へ勧請したとも伝わります。毎年7月の例祭では、勇壮なけんか神輿(神輿合わせ)が行われることで知られます。
| 🕰 時代 | 飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 社伝では天武天皇期の7世紀ごろ(679年か)創建とされる。『延喜式神名帳』記載の式内社で、旧県社 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市新市町大字戸手1-1 |
図鑑に掲載した史跡は、いずれも松永の塩田の歴史や、そこから派生した産業・信仰を今に伝えるものです。現地を訪れる際は、各施設・神社の公式情報や現地の案内板もあわせてご確認ください。次の章からは、そもそも松永の塩田がどのように生まれたのか、その背景からたどっていきます。
瀬戸内の塩づくり――松永が塩のまちになった背景
松永の塩田を語る前に、まずなぜ瀬戸内海沿岸が日本有数の塩の産地となったのか、その背景を押さえておきましょう。日本は海に囲まれた国ですが、岩塩がほとんど採れないため、古くから海水を煮つめて塩をつくる「製塩」が塩の主な調達手段でした。海水から塩をつくるには、まず海水を濃い「かん水(鹹水)」に濃縮し、それを釜で煮つめて結晶化させます。この「濃縮」と「煮つめ」の二段階のうち、いかに効率よく海水を濃縮するかが、塩づくりの生産性を左右する鍵でした。
瀬戸内海沿岸が製塩に適していたのには、いくつかの理由があるとされます。第一に、瀬戸内地方は年間を通じて降水量が比較的少なく、晴れの日が多い「瀬戸内式気候」に属し、太陽と風の力で海水を蒸発させる塩づくりに向いていたこと。第二に、遠浅で干満の差を利用しやすい海岸地形が各地に広がっていたこと。第三に、塩を煮つめる燃料となる薪を、周囲の山々から、あるいは船で各地から調達しやすかったことです。こうした自然条件のもと、瀬戸内海沿岸の各地――播磨の赤穂、備前、讃岐、安芸、そして備後――には、近世を通じて大規模な塩田が築かれ、瀬戸内は「十州塩田」とも呼ばれる全国屈指の塩の供給地帯となっていきました。
塩づくりの方法の移り変わり
海水を濃縮する方法は、時代とともに進歩してきました。古代には、海藻に海水をかけて乾かし、それを焼いて灰にして海水に溶かす「藻塩焼き」が行われていたと伝わります。やがて、砂浜に海水をまいて天日で乾かし、塩の結晶がついた砂を集めてふたたび海水で洗う「揚浜(あげはま)式」が広まりました。揚浜式は、人力で海水を砂浜にまく重労働をともないましたが、海面より高い場所でも塩田を営める利点がありました。
そして近世に入って瀬戸内を中心に普及したのが、「入浜(いりはま)式塩田」です。入浜式は、干満の差を利用して、満潮時に海水を塩田の地下へ自然に引き込み、毛細管現象で砂の表面まで海水を上らせて天日で乾かす方式です。人力で海水をまく必要がなくなったため、揚浜式に比べて労力が大幅に軽減され、生産性が飛躍的に高まりました。この入浜式塩田こそが、松永の塩田で採用された技術であり、江戸時代前期から昭和の半ばまで、瀬戸内の塩づくりの主役となった方式です。松永の塩田は、まさにこの瀬戸内の塩づくりの大きな流れの中に位置づけられるものでした。
福山藩と松永湾――干拓と新田開発の時代
松永の塩田が生まれた江戸時代前期は、全国的に新田開発が盛んに進められた時代でした。戦乱の世が終わり、各地の大名は領内の生産力を高めるため、川の付け替えや干拓によって新しい耕地を生み出すことに力を注ぎました。備後福山藩も例外ではありません。福山藩は、元和5年(1619年)に水野勝成が入封して福山城を築き、城下町を整備したことに始まる藩です。水野氏は、芦田川河口の低湿地を干拓し、用水路を整え、城下と周辺の農地を広げていきました。
松永湾は、福山城下から西へ離れた、遠浅の入り江でした。干満の差が大きく、潮が引けば広大な干潟があらわれるこの湾は、稲作のための新田開発には必ずしも向いていませんでしたが、入浜式塩田を築くには絶好の条件を備えていました。遠浅で、干満の差を利用して海水を引き込みやすい――まさに入浜塩田に求められる地形が、松永湾には広がっていたのです。この地形の特性に目をつけ、塩田開発という形で松永湾をひらいたのが、本荘重政という人物でした。
三代藩主・水野勝貞の時代
松永塩田の開発は、福山藩の三代藩主・水野勝貞(みずの かつさだ)の時代に、藩の事業として進められたとされます。福山藩の水野家は、初代・勝成、二代・勝俊(勝重)、三代・勝貞と続きました。新田開発や干拓は藩の財政を支える重要な施策であり、塩田開発もまた、藩に塩の利益(塩は専売的に扱われ、藩の収入源になりえた重要物資でした)をもたらす事業として位置づけられました。松永の塩田が、一個人の私的な事業ではなく「藩の事業」として始められたという点は、その規模の大きさと重要性を物語っています。
本荘重政と松永塩田の開発

松永の塩田開発を主導した中心人物が、本荘重政(ほんじょう しげまさ/本庄重政とも表記される)です。福山市の公式資料によれば、重政は軍学修行のために諸国を遍歴するなかで、播磨の赤穂藩において塩田築造の技術を学んだとされます。赤穂は、近世を通じて入浜塩田による塩づくりで全国に名をはせた一大産地であり、その先進的な塩田技術を学んだ重政が、福山藩に帰藩したのち、その知識を松永の地で生かしたのです。
重政は、遠浅の松永湾の海岸に塩田を築くことを三代藩主・水野勝貞に提案し、藩の事業として塩田築造に着手しました。福山市の入封400年記念の資料によると、その着工は万治3年(1660年)のことと伝えられます。そこから数年をかけて工事が進められ、寛文7年(1667年)頃には、48もの塩田が松永に完成したといわれています。遠浅の海を堤防で囲み、潮の出入りを制御し、塩田の地盤を整える――それは、当時の土木技術を結集した大規模な事業でした。
赤穂で学んだ技術を松永へ
本荘重政が赤穂で学んだとされる入浜塩田の技術は、当時の最先端のものでした。赤穂藩の塩田は、入浜式塩田の整備が早くから進み、塩の品質・生産量ともに高い評価を受けていました。重政は、その技術を松永湾の地形に合わせて応用したと考えられます。遠浅の湾を堤防で囲い込み、潮の満ち引きを利用して海水を塩田に取り込む仕組みを整えることで、松永湾はそれまでの干潟から、塩を生み出す広大な塩浜へと姿を変えていきました。
こうした塩田開発は、単に技術を移植すれば済むものではありませんでした。堤防の築造、塩田の区画整理、水路の整備、そして実際に塩田を運営する人々の確保――そのすべてを統括する必要がありました。重政は、塩づくりの先進地であった安芸の竹原などから、塩田運営に通じた人々を招き、松永の塩田経営にあたらせたと伝えられます。新しい技術と、それを担う人材を各地から集めて結集させたことが、松永塩田の成功を支えたといえるでしょう。
笠井小四郎宗清と塩田経営
松永塩田の開発に携わった人物として、福山市の資料には笠井小四郎宗清(かさい こしろう そうせい)の名が記されています。宗清は、当時の塩づくりの先進地であった竹原(現在の広島県竹原市)の出身で、本荘重政のもとで松永の塩田を完成させた一人と伝えられます。塩づくりの先進地から経験豊かな人材を招いたことは、松永塩田が技術的にも高い水準でスタートしたことを示しています。
重政は、宗清の功績に報いるため、塩田の守護神として稲荷神社を創建したと伝わります。塩田という、自然条件に大きく左右され、また多くの人手を要する事業を営むうえで、その安全と繁栄を神に祈る信仰は欠かせないものでした。塩田にゆかりのある神社が松永の地に複数残されているのは、塩づくりが人々の暮らしと信仰に深く結びついていたことの証といえるでしょう。
地名「松永」の由来
「松永」という地名そのものが、この塩田開発に由来すると伝えられています。福山市の公式資料によれば、本荘重政は、開発した塩田の村が末永く栄えるようにとの願いを込めて、「松寿永年(しょうじゅえいねん)」という言葉にちなみ、この地を「松永」と名付けたとされます。「松寿永年」は、長寿と永続的な繁栄を意味する言葉で、塩田に集まり、塩づくりで生きていく人々の村への祈りが、そのまま地名となったのです。
地名の由来が、その土地の歴史をこれほど端的に物語る例はそう多くありません。「松永」という二文字には、遠浅の海をひらいて塩田を築いた人々の労苦と、この村が末永く栄えてほしいという願いが込められています。塩田の開発者・本荘重政が高須村から移り住んだ丘には、のちに重政を祀る本荘神社が建てられたと伝わります。塩のまち・松永の出発点が、地名と神社という形で今に残されているのです。
本荘神社・潮崎神社・承天寺
松永には、塩田開発にまつわる宗教施設がいくつか残されています。本荘重政が住まいを移したとされる丘には、重政を祀る本荘神社が鎮座します。また、塩崎の地にゆかりのある潮崎神社(しおざきじんじゃ)も、塩田の信仰と結びついた神社として知られます。さらに、本荘家の菩提寺とされる承天寺(じょうてんじ)も松永の地に伝わります。これらの神社・寺院は、塩田開発という大事業を成し遂げた人々の足跡を、現代に伝える貴重な史跡です。
こうした史跡を訪ねながら歩くと、かつてこの一帯に広がっていた塩田の風景が、おぼろげに浮かび上がってきます。今は市街地や住宅地、工業地となっている松永の土地の多くが、もとは海であり、そして塩田であった――その事実を、神社の由緒や地名が静かに語りかけてくれるのです。
入浜塩田の仕組み――白い結晶ができるまで

松永の塩田で採用された入浜式塩田とは、具体的にどのような仕組みで塩をつくったのでしょうか。入浜塩田の核心は、「干満の差を利用して、人力をかけずに海水を塩田に取り込む」点にあります。塩田の地盤は、満潮時の海面より少し低く、干潮時の海面より高い位置に整えられます。そして塩田の周囲には溝(みお)がめぐらされ、満潮になると海水が自然に溝へと流れ込みます。
溝に入った海水は、塩田の地下にしみ込み、毛細管現象によって、敷きつめられた塩田の砂の表面へと上がってきます。そこに太陽の光と風が当たることで、海水の水分が蒸発し、砂の表面に塩の結晶が析出します。塩分を含んだこの砂を「沼井(ぬい)」と呼ばれる装置に集め、上から海水を注ぐと、砂についた塩が海水に溶け出し、ふつうの海水よりはるかに濃い「かん水」が得られます。
かん水を煮つめる「塩焚き」
こうして得られた濃いかん水を、最後に大きな釜で煮つめることで、ようやく塩の結晶が得られます。この「煮つめ」の工程を「塩焚(しおた)き」と呼びます。塩焚きには、釜を熱し続けるための大量の燃料――薪が必要でした。この「大量の燃料を必要とする」という塩田の特性こそが、のちに松永が下駄のまちへと変貌していく、決定的な伏線になります。塩を煮つめるための薪を各地から船で運び込み、その木材を加工する技術と流通が、松永の地に根づいていったのです。
入浜塩田での塩づくりは、天候に大きく左右される仕事でした。晴れて風のある日が続けば塩田の砂はよく乾き、濃いかん水が得られますが、雨が続けば作業は止まります。塩田で働く人々――「浜子(はまこ)」と呼ばれた労働者たちは、夏の炎天下、砂をならし、運び、海水をかけ、釜を焚く重労働に従事しました。瀬戸内の強い日差しのもと、汗を流して塩をつくる人々の姿が、近世から近代にかけての松永の日常の風景だったのです。
塩田を支えた道具と暮らし
入浜塩田の作業には、独特の道具と知恵が用いられました。塩分を含んだ砂を集めて海水を注ぎ、濃いかん水を取り出す「沼井(ぬい)」、砂をならすための「えぶり」、砂を運ぶ道具など、塩田での仕事は、長年の経験に裏打ちされた手作業の積み重ねでした。塩田の砂は、毎日のように天日干しと洗いを繰り返すため、砂の状態を見極める目利きの技術が欠かせませんでした。塩づくりは、自然の力を最大限に利用しつつ、人の手間と勘によって支えられる、まさに「技」の仕事だったのです。
塩田で働く人々の暮らしは、塩の生産サイクルとともにありました。塩がよく取れる夏は繁忙期であり、長い日照りの日々は、塩づくりにとっての書き入れ時でした。塩田の周囲には、塩を焚くための釜屋(かまや)が建ち、煙が立ちのぼり、白い塩が積み上げられていく――そうした塩田の風景は、松永の人々にとって、何世代にもわたって見慣れた日常の光景でした。塩は、町に暮らす多くの人々の生計を支える、まさに「町の柱」だったのです。塩田を中心に形づくられた松永の暮らしのリズムは、塩田が姿を消したあとも、町の記憶の底に静かに残り続けています。
塩のまちとしての繁栄と藩の財政
江戸時代を通じて、松永の塩田は備後における塩の一大産地として栄えました。生産された塩は、瀬戸内海の海運を通じて各地へ運ばれ、塩は生活必需品であると同時に、味噌・醤油・漬物といった保存食づくりに欠かせない重要物資でした。塩がもたらす利益は、福山藩の財政にとっても無視できないものであり、塩田は藩の重要な産業基盤の一つとなっていきました。
松永湾には、塩を積み出す船、そして塩焚きの燃料となる薪を運び込む船が、ひっきりなしに行き交いました。塩のまち・松永は、瀬戸内海運の結節点としても発展し、人とモノが集まる活気ある町へと成長していきます。江戸時代後期には、福山藩領のなかでも松永は塩業を中心とした特色ある町として、その存在感を高めていきました。
瀬戸内・十州塩田の一角として
松永の塩田は、瀬戸内海沿岸に広がる塩田群――しばしば「十州塩田」と総称される一帯の一角を占めていました。播磨の赤穂、備前の児島・味野、讃岐の坂出・宇多津、安芸の竹原、周防の三田尻など、瀬戸内各地には大規模な塩田が築かれ、それらが日本の塩の大部分を供給していました。松永もまた、その瀬戸内塩業の網の目のなかにしっかりと組み込まれ、備後を代表する塩の産地として、全国の塩の流通を支える役割を担っていたのです。
瀬戸内の塩田同士は、技術の交流や人の行き来を通じてつながっていました。本荘重政が赤穂で技術を学び、竹原から人材を招いたように、松永の塩田もまた、瀬戸内の塩づくりのネットワークのなかで育まれたものでした。一つの塩田の歴史は、瀬戸内全体の塩業史と切り離せない関係にあるのです。
明治以降の塩業と専売制度
明治時代に入り、近代国家へと歩みを進めるなかで、日本の塩業も大きな転換期を迎えます。明治38年(1905年)、日露戦争の戦費調達などを背景に、塩は国の専売品とされ、塩専売制度が始まりました。これにより、塩の生産・流通・販売は国の管理下に置かれ、全国の塩田は国の塩業政策のなかに組み込まれていきます。松永の塩田もまた、この専売制度のもとで操業を続けることになりました。
専売制度は、塩の生産量や価格を国が調整する仕組みであり、生産過剰や乱立を防ぎ、安定的な塩の供給をはかる目的がありました。一方で、塩田の整理・統合が国の政策として進められる場面もあり、各地の塩田は、近代を通じてその数を変動させながら操業を続けていきました。松永の塩田も、こうした近代塩業の大きな流れのなかで、その姿を少しずつ変えていったのです。
入浜式から流下式へ
昭和に入ると、塩づくりの方法そのものが大きく変わります。それまで瀬戸内の塩田の主役だった入浜式塩田に代わって、昭和20年代後半から30年代前半(おおむね1952年〜1959年頃)にかけて、「流下式(りゅうかしき)塩田」への転換が進みました。流下式塩田は、ゆるやかに傾斜させた塩田の上に海水を流し、さらに枝条架(しじょうか)と呼ばれる、竹の枝などを組んだ装置の上から海水を滴下させて、風と太陽で一気に濃縮する方式です。
流下式は、入浜式に比べて必要な労力が大幅に減り、生産性も飛躍的に向上したとされます。砂をならして運ぶ重労働から解放され、より少ない人手で、より多くの塩を生産できるようになったのです。この技術革新は、長く続いた入浜塩田の時代の終わりを告げるものでした。瀬戸内各地の塩田が流下式へと姿を変えていくなかで、松永の塩田もまた、近代化の波のなかでその姿を変えていきました。
塩田の終わり――イオン交換膜法と塩田の廃止
入浜式から流下式へと進化を遂げた瀬戸内の塩田でしたが、その歴史にはやがて終わりが訪れます。昭和40年代に入ると、海水から直接かん水を取り出す「イオン交換膜法」という、まったく新しい製塩技術が実用化されました。イオン交換膜法は、天候に左右されず、広大な土地も必要とせず、工場のなかで効率よく塩を生産できる画期的な方法でした。この技術の登場により、長い歴史をもつ塩田による塩づくりは、その役割を終えることになります。
昭和46年(1971年)、「塩業の整備及び近代化の促進に関する臨時措置法(塩業近代化臨時措置法)」が施行され、これにより全国の塩田は整理・廃止され、製塩はイオン交換膜法へと全面的に移行しました。江戸時代前期に本荘重政がひらいてから三百年あまり、松永の地で続いてきた塩田による塩づくりも、この近代化の大きな流れのなかで、その長い歴史に幕を下ろすことになったのです。
塩田跡地のその後
塩田が廃止されたあと、広大な塩田跡地は、宅地や工業用地などへと転用されていきました。かつて白い塩田が広がっていた松永湾の一帯は、時代とともにその姿を大きく変え、現代の松永の市街地・産業地帯へとつながっていきます。今、松永の町を歩いても、塩田そのものの姿を目にすることはほとんどできません。しかし、地名や神社、そして資料館に残された記録のなかに、塩のまちであった松永の記憶は、確かに受け継がれているのです。
塩田は消えても、塩田がこの土地にもたらしたものは、形を変えて残りました。その最たるものが、塩焚きの燃料を起点に発展した、下駄産業です。塩から下駄へ――この一見すると意外な産業のつながりこそ、松永の歴史の最大の特色といえるでしょう。次の章では、塩田と下駄産業の関係をたどっていきます。
塩から下駄へ――松永が「はきものの町」になった理由
松永が「下駄の町」「はきものの町」として全国に知られるようになった背景には、塩田の存在が深く関わっています。前述のとおり、入浜塩田での塩づくりには、かん水を煮つめる「塩焚き」のために大量の薪が必要でした。その燃料となる木材を求めて、松永の塩田には各地から船で大量の薪が運び込まれていました。木材を海上で保管する「いかだ」や、木材を扱う技術・人材が、塩のまち・松永には自然と蓄積されていったのです。
福山市の資料によれば、松永の下駄産業の生みの親とされるのが、地元の実業家・丸山茂助(まるやま もすけ)です。丸山は、明治11年(1878年)頃から、原木を加工して下駄をつくり、販売する事業を始めたと伝えられます。丸山が着目したのは、塩を運んできた船が、帰りには荷を積まずに空船で戻っていくという事実でした。その空船を利用して、山陰地方などから安価な雑木を仕入れ、松永の入り江に木材を浮かべて貯木し、加工することを思いついたのです。
丸山茂助と下駄産業の興り
当時、下駄の材料としては桐などの高価な木材が一般的でしたが、丸山は安価な雑木を用いることで、より手ごろな価格の下駄を生産することに道をひらいたとされます。塩のまちとして培われた木材の調達・流通の基盤、海運の便、そして木材加工の技術――それらがそろっていた松永は、下駄づくりの産地となる素地を、すでに備えていたのです。丸山茂助という人物の着眼と行動力が、その素地を一気に開花させ、松永を下駄の一大産地へと押し上げていきました。
松永の下駄産業は、明治から大正、昭和へと発展を続けました。福山市の資料によれば、最盛期とされる昭和30年(1955年)頃には、年間およそ5,600万足もの下駄が生産され、松永は全国一の下駄の産地となったといわれています。塩田で栄えた町が、塩焚きの燃料という縁から下駄の町へと変貌を遂げ、全国にその名を知られる産地となった――この産業の連鎖こそ、松永の歴史のもっとも興味深い部分です。
塩・い草・下駄――松永の産業の重なり
松永の産業史を語るとき、塩と下駄のほかに、い草(畳表の原料)の存在も見逃せません。塩田跡地や周辺の低湿地では、い草の栽培も行われ、畳表づくりも松永の地場産業の一つとなっていきました。塩・い草・下駄――これらの産業は、いずれも松永湾の地形と、塩田開発を起点とした土地利用・流通の歴史のうえに成り立っています。松永の地に残る「松永はきもの資料館」では、下駄やはきものの資料とあわせて、い草や塩など、地域の産業を支えてきた品々も展示・記録されています。
一つの土地で、塩田開発を起点に、塩、い草、下駄と産業が連なって発展していった例は、全国的に見ても松永の大きな特色です。海をひらいて塩をつくり、塩焚きの燃料から下駄づくりが生まれ、塩田跡地でい草が育つ――松永の産業の重なりは、まさに「塩田が育てた町」というべき歴史を描いています。
日本はきもの博物館とあしあとスクエア
下駄の町・松永には、はきものの歴史を伝える施設が長く存在してきました。かつて松永町には「日本はきもの博物館」があり、世界各地のはきものや、松永の下駄産業に関する資料を収蔵・展示する登録博物館として知られていました。同館は2013年(平成25年)に閉館しましたが、その所蔵資料や、松永の産業を伝える展示は、現在の「松永はきもの資料館(あしあとスクエア)」へと受け継がれています。
松永はきもの資料館(あしあとスクエア)では、下駄をはじめとするはきものの製造に関する資料や、い草、塩など、松永の地域産業を支えてきた品々の展示を見ることができます。塩田から始まり、下駄へと続いた松永の産業史を学ぶうえで、ぜひ訪ねたい施設です。塩のまちとしての歴史と、下駄のまちとしての歴史が、ここで一つにつながって理解できるのです。
現代の松永と下駄づくり
かつて全国一の生産量を誇った松永の下駄産業も、生活様式の洋風化にともなって、その規模は大きく縮小しました。しかし、松永の地では今もなお、下駄づくりの技術が受け継がれ、伝統的な下駄や、現代の暮らしに合わせた新しいはきものづくりに取り組む工房が活動を続けています。塩田に始まり、下駄へと姿を変えて受け継がれてきた松永のものづくりの伝統は、形を変えながら今も生き続けているのです。
松永を訪れるなら、はきもの資料館で歴史を学んだあと、現役の下駄工房をめぐったり、松永の町並みのなかに残る塩田や下駄産業の名残を探したりするのも一興です。塩と下駄、二つの産業が織りなしてきた松永の歴史を、現地で体感してみてください。
松永塩田と備後の他産業のつながり
松永の塩田は、福山・備後地域のさまざまな産業や歴史と、目に見えない糸でつながっています。福山藩を築いた水野勝成による干拓・新田開発の延長線上に、松永湾の塩田開発が位置づけられること。瀬戸内海運を通じて、塩・木材・各地の物産が行き交ったこと。そして、福山が近代以降に綿織物(備後絣)や、戦後の鉄鋼業(製鉄のまち)へと産業を発展させていく過程と、塩・下駄・い草の地場産業が並行して地域経済を支えてきたこと――松永の塩田は、こうした備後の産業史の一つの起点として位置づけることができます。
福山という地域の歴史を理解するには、福山城下の城づくりや、鞆の浦のような港町の歴史とあわせて、松永のような塩田・産業の町の歩みを知ることが欠かせません。海をひらき、塩をつくり、燃料の流通から下駄を生み出し、跡地でい草を育てる――松永の歴史は、瀬戸内という海と向き合いながら、たくましく産業を生み出してきた備後の人々の姿を、鮮やかに映し出しています。
城下町・港町・塩田の町
福山という地域は、福山城を中心とした城下町、鞆の浦をはじめとする港町、そして松永のような塩田・産業の町という、性格の異なる町々が集まって成り立っています。それぞれの町が、それぞれの自然条件と歴史的経緯のなかで、独自の産業と文化を育んできました。松永は、その中で「海をひらいて塩をつくった町」「塩から下駄が生まれた町」という、ほかにはない個性をもっています。
福山の歴史全体を見渡すと、松永の塩田開発は、近世の新田開発・干拓の時代精神を体現する事業であり、また地域の産業を多層的に発展させる起点でもありました。城・港・塩田――この三つの視点から福山を眺めると、地域の歴史がより立体的に見えてきます。
松永塩田・関連年表
ここで、松永の塩田と関連する出来事を、年表の形で整理しておきます。年代・経緯には諸説ある事項を含みますので、目安としてご覧ください。
この年表からも、松永の歴史が「塩田の開発」を起点に、下駄産業や塩業の近代化と密接に絡み合いながら展開してきたことがよくわかります。一つの土地の三百年あまりの歩みが、ここに凝縮されています。
松永をめぐる楽しみ方・関連スポット
松永の塩田と下駄の歴史を実際に訪ねてみたい方のために、松永エリアや福山市内のめぐり方をご紹介します。まずは松永はきもの資料館(あしあとスクエア)で、塩・い草・下駄と続いた松永の産業史を学ぶのがおすすめです。そのうえで、本荘神社や潮崎神社など、塩田にゆかりのある史跡を歩けば、かつての塩のまちの面影を感じることができます。JR松永駅を起点に、徒歩や自転車でめぐるのも良いでしょう。
松永の歴史を、福山全体の歴史のなかに位置づけて理解するために、あわせて読みたい関連記事をご紹介します。福山・備後の通史をたどりたい方は、以下の通史ガイドからご覧ください。
福山・備後地域の歴史全体を一望したい方は、福山の歴史完全ガイドをご覧ください。塩田開発の時代背景となった福山藩の成り立ちについては、福山城を築いた水野勝成の記事や、福山城ガイドもあわせてどうぞ。塩田から生まれた松永のもう一つの主役である松永の下駄の歴史も、ぜひご一読ください。
あわせて知りたい備後の産業と歴史
松永の塩・下駄と並んで、備後地域を代表する伝統産業に綿織物があります。藍染めの絣(かすり)として知られる備後絣は、福山・備後の暮らしと産業を語るうえで欠かせない存在です。塩田の燃料・木材の流通や、瀬戸内海運の風景を感じたい方は、港町としての歴史を色濃く残す鞆の浦の街並みもおすすめです。塩・下駄・絣といった近世以来の地場産業と、近代以降の鉄のまち福山の歩みを重ねて見ると、備後の産業史の奥行きがより深く理解できるでしょう。
松永を起点に、福山・備後の各地をめぐることで、瀬戸内という海とともに生きてきた地域の歴史が、より立体的に見えてきます。塩田の白い結晶から、下駄の木のぬくもり、絣の藍色、そして製鉄の炎まで――備後の産業の多彩な広がりを、ぜひ現地で感じてみてください。
よくある質問(FAQ)
Q松永の塩田はいつ頃つくられたのですか?
福山市の資料によれば、本荘重政が三代藩主・水野勝貞に提案し、藩の事業として万治3年(1660年)に塩田築造に着手したと伝わります。そして寛文7年(1667年)頃には、48もの塩田が松永に完成したといわれています。江戸時代前期に、松永湾の遠浅の海をひらいて築かれたのが、松永塩田の始まりです。
Q松永塩田を開発した本荘重政とはどんな人物ですか?
本荘重政(本庄重政とも表記)は、福山藩で塩田開発を主導した人物です。福山市の資料によれば、軍学修行で諸国を遍歴するなかで、塩田の先進地・赤穂藩で塩田築造の技術を学び、福山藩に帰藩したのち、その技術を松永湾の塩田開発に生かしたとされます。松永には、重政を祀る本荘神社が伝わっています。
Q「松永」という地名の由来は何ですか?
福山市の資料によれば、本荘重政が、塩田の村が末永く栄えるようにとの願いを込めて、「松寿永年(しょうじゅえいねん)」という言葉にちなみ、この地を「松永」と名付けたと伝えられます。地名そのものが、塩田開発の歴史に由来しているのです。
Q入浜塩田とはどのような塩づくりの方法ですか?
入浜式塩田は、干満の差を利用して、人力をかけずに海水を塩田に引き込む方式です。満潮時に海水が溝から塩田の地下にしみ込み、毛細管現象で砂の表面に上がってきて、太陽と風で水分が蒸発して塩の結晶ができます。その砂を集めて海水で洗い、濃いかん水を得て、最後に釜で煮つめて塩をつくります。近世の瀬戸内塩業の主役となった方法です。
Qなぜ松永は下駄の町になったのですか?
入浜塩田での塩づくりには、かん水を煮つめる「塩焚き」のために大量の薪が必要でした。その燃料となる木材が各地から松永に運び込まれ、木材の調達・流通・加工の基盤が町に蓄積されました。明治11年(1878年)頃、丸山茂助が、塩を運んだ船が空船で帰る点に着目して安価な雑木を仕入れ、下駄づくりを始めたことが、松永が下駄の町になる契機になったとされます。
Q松永の下駄産業の生みの親は誰ですか?
福山市の資料によれば、松永の下駄産業の生みの親とされるのは、地元の実業家・丸山茂助です。明治11年(1878年)頃から、原木を加工して下駄をつくり、販売する事業を始めたと伝えられます。安価な雑木を用いることで、手ごろな価格の下駄づくりに道をひらいたとされます。
Q松永の下駄はどのくらいつくられていたのですか?
福山市の資料によれば、最盛期とされる昭和30年(1955年)頃には、年間およそ5,600万足もの下駄が生産され、松永は全国一の下駄の産地となったといわれています。塩のまちが下駄のまちへと変貌し、全国にその名を知られる産地となりました。
Q松永の塩田はいつ廃止されたのですか?
瀬戸内の塩田は、昭和20年代後半〜30年代前半に入浜式から流下式へと転換し、その後、昭和46年(1971年)の塩業近代化臨時措置法により、全国の塩田が整理・廃止され、製塩はイオン交換膜法へと全面移行しました。江戸時代前期に始まった松永の塩田も、この近代化の流れのなかでその歴史を終えました。
Q入浜式と流下式はどう違うのですか?
入浜式は、干満の差を利用して海水を塩田に引き込み、砂の表面で天日蒸発させる方法で、近世の主流でした。流下式は、傾斜した塩田に海水を流し、枝条架という装置の上から海水を滴下させて風と太陽で一気に濃縮する方法です。流下式は入浜式に比べて必要な労力が大幅に減り、生産性も大きく向上したとされ、昭和20年代後半から30年代前半にかけて転換が進みました。
Q松永の歴史を学べる施設はありますか?
松永には「松永はきもの資料館(あしあとスクエア)」があり、下駄をはじめとするはきものの資料や、い草・塩など地域の産業を支えてきた品々を展示・記録しています。かつては「日本はきもの博物館」もありましたが、2013年(平成25年)に閉館し、その資料は現在の資料館へ受け継がれています。塩から下駄へと続いた松永の産業史を学ぶのに適した施設です。
Q松永塩田は誰が運営していたのですか?
松永塩田は、福山藩の事業として開発されたのち、塩づくりの先進地から招かれた人々や、塩田で働く「浜子」と呼ばれた労働者たちによって運営されました。福山市の資料には、竹原出身で本荘重政のもとで塩田を完成させた笠井小四郎宗清の名が記されています。重政は宗清の功績に報いるため、塩田の守護神として稲荷神社を創建したと伝わります。
Q松永と瀬戸内のほかの塩田との関係は?
松永は、瀬戸内海沿岸に広がる塩田群――しばしば「十州塩田」と総称される一帯の一角を占めていました。本荘重政が技術を学んだ播磨の赤穂、塩田に人材を送った安芸の竹原など、瀬戸内各地の塩田と技術や人の交流を通じてつながっていました。松永の塩田史は、瀬戸内全体の塩業史の一部として理解することができます。
Q塩田跡地は今どうなっていますか?
塩田が廃止されたあと、広大な塩田跡地は、宅地や工業用地などへと転用されていきました。かつて塩田が広がっていた松永湾の一帯は、現代の松永の市街地・産業地帯へと姿を変えています。塩田そのものの姿を目にすることは難しくなりましたが、地名や神社、資料館の記録のなかに、塩のまちであった記憶が受け継がれています。
まとめ――塩田が育てた町・松永
福山市松永は、江戸時代前期に本荘重政が松永湾の遠浅の海をひらいて入浜塩田を築いたことに始まる、塩のまちでした。万治3年(1660年)に藩の事業として着手され、寛文7年(1667年)頃には48もの塩田が完成したと伝わります。「末永く栄えるように」との願いを込めた「松寿永年」にちなんで名付けられた「松永」という地名は、塩田開発の歴史そのものを今に伝えています。
そして、塩焚きの燃料という縁から、明治11年(1878年)頃に丸山茂助が下駄づくりを始め、松永は昭和30年(1955年)頃には年間約5,600万足を生産する全国一の下駄の産地へと発展しました。塩田は昭和46年(1971年)の塩業近代化の流れのなかで姿を消しましたが、塩・い草・下駄と続いた産業の記憶は、地名や神社、そして松永はきもの資料館(あしあとスクエア)のなかに、確かに受け継がれています。
海をひらいて塩をつくり、その縁から下駄を生み出した松永の歴史は、瀬戸内という海とともに生きてきた備後の人々の知恵と工夫を、鮮やかに物語っています。福山を訪れる際は、城下町や港町とあわせて、塩田が育てた町・松永の歩みにも、ぜひ目を向けてみてください。
出典・注意
本記事は、福山市公式ホームページ(入封400年記念シリーズ「松永塩田の開発」、「松永下駄」「松永はきもの資料館」等の各ページ)、塩事業センター「塩百科」などの塩業に関する資料、郷土史資料などの情報をもとに作成しています。年号・人物名・地名・数値は、これらの資料に基づいて記述していますが、地域史には諸説ある事項も含まれます。
※年代・経緯には諸説ある事項を含みます。詳細は各施設・公式情報や郷土資料でご確認ください。
最終更新: 2026年6月10日
史跡情報は福山NOTE 史跡図鑑(fn_history)より。