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🏯 歴史

松永の下駄産業|「下駄日本一」のまちの盛衰

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松永の下駄産業|「下駄日本一」のまちの盛衰

広島県福山市の西部に位置する松永(まつなが)は、かつて「下駄日本一のまち」と呼ばれた歴史を持ちます。最盛期には年間五千万足を超える下駄を世に送り出し、その生産量は全国一を誇りました。なぜ松永で下駄産業が花開いたのか。そこには江戸時代の塩田開発から、明治の創業者の着想、そして北前船が結んだ物流網まで、いくつもの偶然と必然が折り重なっています。この記事では、松永の下駄産業の起こりから隆盛、そして衰退と現在に至るまでの歩みを、福山市や福山商工会議所など公的機関の資料をもとに、できるかぎり正確にたどります。あわせて、その記憶を今に伝える「松永はきもの資料館(あしあとスクエア)」の前身である「日本はきもの博物館」の歴史にも触れていきます。なお、年代や経緯には諸説ある事項を含むため、断定を避けるべきところは「〜とされる」「伝わる」と記しています。

松永の下駄産業をめぐる史跡図鑑

松永の下駄産業と、その土台となった塩業の記憶は、まちのあちこちに史跡や施設として残されています。まずは福山NOTEの史跡図鑑(fn_history)から、松永とその周辺、そして福山の歴史を物語る場所を一覧でご覧ください。下駄づくりの歴史を訪ねる前に、福山という土地全体の歩みを俯瞰しておくと、松永が果たした役割がより立体的に見えてきます。

福山城 伏見櫓 📖江戸時代(元和年間)📍 福山駅前(福山市街)福山城 📖近世(江戸)📍 丸之内福山城博物館 📖近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)📍 福山駅前(福山市街)草戸千軒町遺跡 📖中世📍 草戸町明王院 📖中世📍 草戸町鞆の津の町並み(重伝建) 📖江戸時代(中世〜近代の建造物群)📍 鞆町鞆の浦の常夜燈と港湾施設 📖江戸時代📍 鞆町福山市鞆の浦歴史民俗資料館 📖近代(昭和)📍 鞆町鞆の浦 📖中世〜近世📍 鞆町福禅寺 対潮楼 📖近世📍 鞆町太田家住宅 📖江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)📍 鞆町いろは丸展示館 📖近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)📍 鞆町仙酔島古代(地質)/近代(指定)📍 鞆町廉塾(菅茶山旧宅) 📖近世📍 神辺町神辺城跡 📖中世📍 神辺町福山八幡宮 📖近世📍 北吉津町沼名前神社 📖近世📍 鞆町阿伏兎観音(磐台寺観音堂)近世📍 沼隈町吉備津神社(備後一宮)江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる📍 新市町素盞嗚神社(備後一宮) 📖飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮📍 新市町

史跡時代概要📍 エリア詳細
福山城 伏見櫓江戸時代(元和年間)伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最…📍 福山駅前(福山市街)下へ ↓
福山城近世(江戸)備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御…📍 丸之内下へ ↓
福山城博物館近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩…📍 福山駅前(福山市街)下へ ↓
草戸千軒町遺跡中世芦田川の中州にあった中世の港町・集落遺跡。発…📍 草戸町下へ ↓
明王院中世本堂と五重塔がともに国宝。中世密教寺院で、五…📍 草戸町下へ ↓
鞆の津の町並み(重伝建)江戸時代(中世〜近代の建造物群)潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と…📍 鞆町下へ ↓
鞆の浦の常夜燈と港湾施設江戸時代江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯…📍 鞆町下へ ↓
福山市鞆の浦歴史民俗資料館近代(昭和)鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬…📍 鞆町下へ ↓
鞆の浦中世〜近世瀬戸内の「潮待ちの港」。常夜燈・雁木・波止場…📍 鞆町下へ ↓
福禅寺 対潮楼近世朝鮮通信使の使節が「日東第一形勝」と讃えた客…📍 鞆町下へ ↓
太田家住宅江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で…📍 鞆町下へ ↓
いろは丸展示館近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵…📍 鞆町下へ ↓
仙酔島古代(地質)/近代(指定)鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連…📍 鞆町下へ ↓
廉塾(菅茶山旧宅)近世儒学者・菅茶山が開いた私塾。当時の塾舎・住宅…📍 神辺町下へ ↓
神辺城跡中世備後南部の中世山城。福山城が築かれる以前、備…📍 神辺町下へ ↓
福山八幡宮近世福山城の北に鎮座し、東西二つの宮を備える。歴…📍 北吉津町下へ ↓
沼名前神社近世鞆の「祇園さん」。夏の大松明を担ぐ「お手火神…📍 鞆町下へ ↓
阿伏兎観音(磐台寺観音堂)近世断崖の上に建つ朱塗りの観音堂。国の重要文化財…📍 沼隈町下へ ↓
吉備津神社(備後一宮)江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で…📍 新市町下へ ↓
素盞嗚神社(備後一宮)飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏の…📍 新市町下へ ↓

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福山城 伏見櫓

江戸時代(元和年間) / 📍福山駅前(福山市街)

伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最古級の三層入母屋造の現存櫓。 福山城伏見櫓は、元和8年(1622年)の福山城築城に際し、城主水野勝成が将軍徳川秀忠から下賜を受け、京都の伏見城から移築させたと伝えられる櫓である。長らく伝承とされていたが、昭和29年(1954年)の解体修理の際、梁の陰刻に「松ノ丸ノ東やく(ら)」の文字が発見され、伏見城からの移築を裏付ける確かな遺構であることが明らかになった。構造は三層入母屋造で、初層と二層を同じ柱割とし、その上にやや小さい三層を望楼状に載せる。桁行八間・梁間三間、本瓦葺の規模をもつ。慶長期の城郭建築の様式を残す初期の典型として価値が高く、昭和8年(1933年)1月23日に国の重要文化財に指定された。福山城内に現存し、特別公開が行われることもある。

🕰 時代江戸時代(元和年間)
🏛 成立・築造元和8年(1622年)水野勝成の福山城築城時に伏見城から移築。国指定重要文化財(昭和8年=1933年1月23日指定)
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目(福山城内)
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福山城

近世(江戸) / 📍丸之内

備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御門は京都伏見城からの移築と伝わる。2022年に築城400年を迎えた。

🕰 時代近世(江戸)
🏛 成立・築造1622年(元和8)・水野勝成
👤 関連水野勝成・阿部正弘
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目8
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福山城博物館

近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期) / 📍福山駅前(福山市街)

水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩の歴史を体験型展示で伝える博物館 福山城博物館は、JR福山駅のすぐ北に建つ福山城天守内に置かれた市立の歴史資料館です。福山城は1622年(元和8年)、徳川譜代の大名・水野勝成が西国鎮衛の拠点として築いた近世城郭で、天守は1931年に国宝に指定されました。しかし1945年8月の福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリート造で外観が復興され、その内部が博物館として公開されました。2022年には築城400年に合わせて大規模リニューアルされ、北面の鉄板張り(黒い装い)の再現や、一番槍レース・火縄銃などの体験型コンテンツ、デジタル映像を用いた展示が整えられ、福山城と福山藩の歴史を学べる施設となっています。城内に現存する伏見櫓と筋鉄御門は、京都・伏見城からの移築と伝えられ、国の重要文化財に指定されています。常設展は有料、月曜休館とされます。

🕰 時代近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)
🏛 成立・築造福山城は1622年(元和8年)に初代福山藩主・水野勝成が築城。天守は1945年福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリートで外観復興、内部を博物館として開館。2022年に大規模リニューアル
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目8番
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鞆の津の町並み(重伝建)

江戸時代(中世〜近代の建造物群) / 📍鞆の浦

潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と町家が一体で残る重伝建地区 鞆の浦は瀬戸内海の中央に位置し、古来「潮待ちの港」として栄え、万葉集にも詠まれた歴史を持つとされる。江戸時代には北前船など廻船の寄港地として繁栄し、朝鮮通信使の寄港地ともなった。2017年(平成29年)11月28日、「福山市鞆町伝統的建造物群保存地区」として約8.6ヘクタールが国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。範囲は鞆字西町の全域を中心に、石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地の一部に及ぶ。中世から江戸期に整えられた地割の上に、江戸時代から昭和30年代までの町家や寺社、石垣などが一体的に残る近世港町の景観が評価された。常夜燈・雁木・波止・焚場・船番所の5つの港湾施設がほぼ完全に残る点は全国でも稀とされる。広島県内では3例目の選定で、2018年には日本遺産にも認定された。

🕰 時代江戸時代(中世〜近代の建造物群)
🏛 成立・築造2017年(平成29年)11月28日に国の重要伝統的建造物群保存地区へ選定。地割は中世〜江戸期、建造物は江戸時代〜昭和30年代まで。
📍 所在地広島県福山市鞆町(鞆字西町全域ほか、字石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地字古城跡・草谷の各一部)
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鞆の浦の常夜燈と港湾施設

江戸時代 / 📍鞆の浦

江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯一の近世港、鞆港。 鞆の浦の鞆港には、常夜燈・雁木・波止・焚場(たでば)・船番所という江戸時代の港湾施設5点がほぼ揃って現存し、これらが一体で残るのは全国でも鞆港のみとされる。シンボルの常夜燈は安政6年(1859)の刻銘をもつ石造灯台で、海中の基礎石から宝珠の頂までは約12.1mに及び、江戸期の石造常夜燈としては国内最大級とされる。雁木は潮の干満に応じて船を着けられる階段状の船着き場で、半円形の港内に連続して巡らされている。波止は花崗岩を積んだ全長約146mの防波堤で、江戸後期に築かれ明治期に修築された。鞆港を含む沿岸と沖の島々一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定され、鞆町西町を中心とする区域は2017年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。日本遺産「瀬戸の夕凪が包む 国内随一の近世港町」の構成要素でもある。

🕰 時代江戸時代
🏛 成立・築造常夜燈は安政6年(1859)造立とされる。雁木・波止・焚場・船番所は江戸後期築造、波止は明治期に修築。鞆港一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定。
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆
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福山市鞆の浦歴史民俗資料館

近代(昭和) / 📍鞆の浦

鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬戸内の歴史・民俗を伝える市立資料館 福山市鞆の浦歴史民俗資料館は、広島県福山市鞆町後地に建つ市立の博物館で、「潮待ちの館」の愛称で親しまれる。1977年(昭和52年)からの地元有志による調査・収集活動を背景に、福山市制70周年記念事業として1988年(昭和63年)に開館した。立地は、福島正則が築いたとされる鞆城跡(福山市指定史跡)の高台で、瀬戸内海を見渡せる。万葉の時代から潮待ち・風待ちの港として栄えた鞆の浦を中心に、古代から近世にいたる歴史資料を展示。鯛網漁のジオラマや錨を製造した鍛冶場、朝鮮通信使関連資料、保命酒に関する資料に加え、お手火神事・お弓神事といった地域の民俗文化財も常設展示する。鞆の歴史と暮らしを総合的に学べる拠点とされる。

🕰 時代近代(昭和)
🏛 成立・築造1988年(昭和63年)開館。福山市制70周年記念事業として建設。建つ鞆城跡は福島正則が築いたとされる(福山市指定史跡)
📍 所在地広島県福山市鞆町後地536-1
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太田家住宅

江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期) / 📍鞆の浦

鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で、国の重要文化財 鞆の浦を代表する歴史的建造物で、薬用酒「保命酒」の醸造で財を成した商家の旧宅。もとは大坂の漢方医を出自とする中村家の屋敷で、明暦元年(1655年)に鞆へ移り住み、まもなく十六味地黄保命酒の製造・販売を始めて大ヒットし、福山藩の御用名酒屋として販売独占権を得たとされる。明治期に廻船業を営んだ太田家が継承し、現在の名で呼ばれる。主屋を中心に保命酒蔵や各種土蔵など九棟が建ち並び、建築年代は18世紀中期から19世紀前期に及ぶ。瀬戸内の商家建築を伝える貴重な遺構として、1991年に国の重要文化財に指定された。幕末には三条実美ら尊王攘夷派の公卿が立ち寄ったと伝わり、別宅の朝宗亭とともに「鞆七卿落遺跡」として広島県の史跡(1940年指定)にもなっている。

🕰 時代江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)
🏛 成立・築造主屋は18世紀中期、ほか北保命酒蔵が天明8年(1788年)、西蔵が寛政元年(1789年)、東保命酒蔵が寛政7年(1795年)など18世紀中期〜19世紀前期。国の重要文化財指定は1991年(平成3年)5月31日。
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆842
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いろは丸展示館

近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期) / 📍鞆の浦

坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵を活かした資料館 鞆の浦のシンボル常夜灯(とうろどう)のすぐそばに建つ資料館。1867年(慶応3年)、坂本龍馬と海援隊が運航したいろは丸が紀州藩の明光丸と備後灘で衝突・沈没した「いろは丸事件」を伝える施設で、その談判が鞆の浦で行われた縁にちなむ。建物は江戸期に建てられた太い梁が印象的な土蔵で、地元では「大蔵」と呼ばれ、国の登録有形文化財とされる。館内には海底に沈むいろは丸を再現したジオラマ、引き揚げられた陶器や部品、調査風景の写真などを展示し、2階には龍馬が宿泊先で身を潜めたという「隠れ部屋」が再現され、龍馬の蝋人形も置かれている。1989年(平成元年)7月の開館。幕末史と鞆の港町文化を同時に味わえるスポットである。

🕰 時代近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)
🏛 成立・築造1989年(平成元年)7月開館。建物は江戸期築の土蔵「大蔵(浜蔵)」で、国の登録有形文化財とされる。展示題材のいろは丸事件は1867年(慶応3年)
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆843-1
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仙酔島

古代(地質)/近代(指定) / 📍鞆の浦

鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連なる瀬戸内海国立公園の名勝 仙酔島は鞆の浦の沖合に浮かぶ周囲約6キロの島で、住所は福山市鞆町後地。鞆港から市営渡船で約5分の距離にあり、観光客の往来はあるが定住者のいない無人島とされる。1925年(大正14年)に国の名勝「鞆公園」の一部として指定され、1934年(昭和9年)には日本で最初に指定された国立公園・瀬戸内海国立公園に含まれた。島は約9000万年前の大規模な火山活動による溶結凝灰岩を主体とし、南側海岸には青・赤・黄・白・黒の岩が200メートル以上連なる「五色岩」が見られ、地質的に貴重とされる。「仙人が酔うほど美しい島」が名の由来と言われる。江戸後期の学者・頼山陽が当地の景観を「山紫水明」と評したとも伝わる。

🕰 時代古代(地質)/近代(指定)
🏛 成立・築造1925年(大正14年)国名勝「鞆公園」に指定。1934年(昭和9年)日本初の国立公園・瀬戸内海国立公園に編入。島自体は約9000万年前の火山活動で形成されたとされる
📍 所在地広島県福山市鞆町後地
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吉備津神社(備後一宮)

江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる / 📍新市・北部

備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で「いっきゅうさん」と親しまれる古社 福山市新市町宮内に鎮座する備後国一宮で、地元では「一宮さん(いっきゅうさん)」と親しまれる。社伝では大同元年(806年)に吉備国の吉備津神社から勧請し創建されたと伝わるが、延喜式神名帳に記載がないことなどから実際の成立はより後とする説もある。主祭神は吉備国を治めたとされる大吉備津彦命。現在の本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が旧規模にならい造営したもので、桁行七間・梁間四間の入母屋造檜皮葺、国の重要文化財に指定されている。ほかにも木造狛犬や太刀などが重要文化財として伝えられ、複数の建造物が広島県・福山市指定文化財となっている。隣接する櫻山城跡なども史跡として知られ、備後の信仰と歴史を今に伝える。

🕰 時代江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる
🏛 成立・築造本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が造営、国の重要文化財。創建は大同元年(806年)と伝わるが諸説ある
📍 所在地広島県福山市新市町宮内400
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素盞嗚神社(備後一宮)

飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮 / 📍新市・北部

祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏のけんか神輿で名高い古社 福山市新市町戸手に鎮座する素盞嗚神社は、『延喜式神名帳』に載る式内社で備後国一宮を称し、旧社格は県社です。主祭神は素盞嗚尊で、稲田姫命・八王子を配祀します。社伝では天武天皇の治世、7世紀ごろ(679年か)の創建とされます。『釈日本紀』所収の「備後国風土記」逸文に伝わる蘇民将来説話の舞台「疫隈国社」と結びつけられ、茅の輪くぐりや祇園信仰・祇園祭発祥の地の一つとされています。神仏習合期には牛頭天王を祀り、遣唐使・吉備真備が734年に当社から播磨の広峯神社へ勧請したとも伝わります。毎年7月の例祭では、勇壮なけんか神輿(神輿合わせ)が行われることで知られます。

🕰 時代飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮
🏛 成立・築造社伝では天武天皇期の7世紀ごろ(679年か)創建とされる。『延喜式神名帳』記載の式内社で、旧県社
📍 所在地広島県福山市新市町大字戸手1-1

これらの史跡をめぐると、福山が城下町・港町・産業町という複数の顔を持って発展してきたことがわかります。松永の下駄産業は、その産業町としての一面を象徴する存在でした。福山の歴史全体を通して理解したい方は、まず福山の歴史 完全ガイドをあわせてご覧ください。城下町としての福山の中心を知りたい方は福山城ガイドも参考になります。

松永とはどんな土地か――塩田が拓いたまち

福山城
福山城(画像:Wikimedia Commons / CC)

松永の下駄産業を語るうえで、まず欠かせないのが「塩」の歴史です。下駄づくりは塩づくりの副産物として生まれた産業だからです。松永という地名そのものが、塩田開発とともに生まれました。福山市の資料によれば、松永湾は江戸時代以前には「袋の海(ふくろのうみ)」と呼ばれ、遠浅の海が深く入り込んだ地形をしていたとされます。この遠浅の地形こそが、のちの塩田開発に絶好の条件となったのです。

本荘重政と入浜式塩田の開発

松永の塩田を開いたのは、福山藩の家臣・本荘重政(ほんじょう しげまさ)とされます。福山市の「入封400年記念シリーズ」などの資料によれば、本荘重政は軍学修行の途上で赤穂藩を訪れた際に塩田造成の技術を学び、福山に戻ってから、第三代藩主・水野勝貞に松永湾の遠浅の海岸に塩田を築く構想を提案したと伝わります。事業は万治3年(1660年)に始まり、寛文7年(1667年)ごろまでに松永一帯に48の塩田が完成したとされます。重政が導入したのは、当時もっとも先進的だった「入浜式塩田(いりはましきえんでん)」でした。

「松永」という地名は、本荘重政が高須村からこの地の丘へ移り住み、永遠の繁栄を願う「松寿永年(しょうじゅえいねん)」という言葉にちなんで名づけたと伝わります。塩田によって生まれたまちが、そのまま「松永」と呼ばれるようになったわけです。塩業によって人とモノが集まり、まちは活気づいていきました。

北前船が結んだ松永の塩

松永の塩は、北前船(きたまえぶね)をはじめとする廻船によって全国へと運ばれました。福山市の資料によれば、海岸に「浜会所(はまかいしょ)」を設けて品質を管理し、粗悪な塩の流通を防いだことが、松永の塩の評判を全国的に高めたとされます。塩を積んだ船が各地へ向かい、その販路は広がっていきました。この「船が往来する」という条件が、のちに下駄産業を生む決定的な伏線となります。塩を運んだ船は、帰りには空荷になることが多かったからです。

松永の塩業は、その後およそ300年にわたって続いたとされます。しかし、国の塩業政策の転換により、昭和35年(1960年)ごろに松永の塩田は一斉に廃止されることになりました。塩田が姿を消したあとも、塩がもたらした物流網と、塩づくりに使われた「火」をめぐる工夫は、別のかたちで松永に根を下ろしていました。それが下駄産業です。

入浜式塩田とは、潮の干満を利用して海水を塩田に引き込み、砂の上で天日と風によって水分を蒸発させて塩分濃度を高め、最後に煮詰めて塩を取り出す製法です。この最後の「煮詰める」工程で、大量の燃料となる薪が必要でした。松永には塩を煮るための木材が各地から集められ、まちには木材を扱う商いと、それを運ぶ船の往来が根づいていきました。塩田そのものは姿を消しても、こうして培われた「木材が集まり、船が行き交う」という土地の性格は、下駄産業へと引き継がれていったのです。一つのまちの歴史のなかで、塩と下駄がこれほど深く結びついている例は、全国的にも珍しいといえるでしょう。

松永下駄のはじまり――丸山茂助の着想

松永で下駄づくりが始まったのは、明治11年(1878年)のこととされます。福山商工会議所や福山市の資料によれば、塩を焚くための薪に着目し、桐に似た雑木を使った下駄の製造が始まったと伝えられています。この産業の生みの親とされるのが、下駄商を営んでいた丸山茂助(まるやま もすけ)です。

塩を煮る薪から下駄へ

入浜式塩田では、海水を煮詰めて塩を結晶させるために大量の薪(燃料)が必要でした。松永には、塩を煮るための木材が全国各地から集められていたとされます。丸山茂助は、この塩づくりに使われる木材に着目しました。塩を運んだ船の帰り荷が空であることに目をつけ、山陰地方からアブラギリ(油桐)などの雑木を格安に仕入れ、入り江に筏(いかだ)を組んで貯木し、必要なときに下駄へと加工する仕組みをつくったと伝わります。

アブラギリは桐に似て軽く、加工しやすい木でした。本来、下駄の高級材といえば桐ですが、桐は高価です。丸山茂助は、桐に似ながらも安価で手に入るアブラギリなどの雑木を使うことで、「庶民の大衆下駄」を大量に、しかも安く供給する道を切り開いたとされます。塩田の物流網・遠浅の入り江という地理条件・安価な原木という三つの要素が、松永という土地で偶然にも重なり合ったのです。

なぜ松永だったのか

下駄づくりがほかの土地ではなく松永で根づいた理由は、いくつか挙げられます。第一に、塩田によって木材の集まる物流の拠点ができていたこと。第二に、塩を運んだ船の空荷を利用して、原木を安く運び込めたこと。第三に、塩田の入り江という地形が、貯木に適していたこと。そして第四に、塩業で培われた職人的な働き手と、産業を支える商家のネットワークがすでに存在していたことです。塩がもたらした「ヒト・モノ・カネ・物流」という基盤の上に、下駄産業が築かれていったといえます。

このように、松永の下駄は「塩から生まれた産業」でした。塩田が姿を消したあとも、塩がつくり出した条件を巧みに活かして下駄産業が育っていったことは、地域の産業史としてたいへん興味深い点です。一つの産業が衰えても、その遺産が次の産業を生む土壌となる――松永はその好例といえるでしょう。

機械化と大量生産――「下駄日本一」への道

鞆の浦の町並み(保命酒屋の通り)
鞆の浦の町並み(保命酒屋の通り)(画像:Wikimedia Commons / CC)

明治11年の創業から数十年をかけて、松永の下駄産業は手工業から機械工業へと姿を変えていきました。福山商工会議所などの資料によれば、明治40年(1907年)ごろには機械化に成功し、大量生産の基礎が築かれたとされます。これにより松永下駄は飛躍的に生産量を伸ばし、大正から昭和初期にかけて、全国一の下駄産地としての地位を確立していきました。

手作業から機械へ

下駄づくりは本来、台(だい)を削り、歯を立て、鼻緒(はなお)をすげるという、いくつもの手作業の工程からなります。木取り、荒削り、仕上げ、塗り、鼻緒すげと、それぞれに熟練を要しました。松永では、こうした工程の一部に機械を導入することで、生産の効率を大きく高めていったとされます。木を削る機械、歯を加工する機械などが工場に並び、職人の手わざと機械の力を組み合わせることで、安価な大衆下駄を大量に供給できる体制が整いました。

松永の下駄づくりは、単独の大工場が独占するというよりも、塩田の入り江周辺に下駄関連の工場や工房が数多く立ち並ぶ「産地」として発展していった点に特徴があります。木材を扱う業者、台を削る業者、塗りを担う業者、鼻緒を作る業者、それらをまとめて卸す商家――こうした分業のネットワークが松永のまちに張りめぐらされ、地域全体が一つの巨大な下駄工場のように機能していたといえます。

年間5,600万足――生産量のピーク

松永下駄の生産量がピークを迎えたのは、昭和30年(1955年)ごろとされます。福山市の資料によれば、この時期の年間生産量はおよそ5,600万足(5千6百万足)に達し、全国一の生産量を誇っていたとされます。当時の日本の人口がおよそ9千万人前後であったことを思えば、人口の半分以上に相当する数の下駄が、毎年この松永の地から生み出されていた計算になります。まさに「下駄日本一のまち」と呼ぶにふさわしい規模でした。

松永の下駄は、高級な桐下駄とは異なり、「安価な大衆の下駄」として全国に普及したとされます。独特の二枚歯が地面を打つたびに「カランコロン」と心地よい音を立てることも、松永下駄の魅力の一つでした。戦後の日本において、和装がまだ日常着であり、下駄が庶民の足元を支えていた時代――松永の下駄は、まさに日本中の人々の足元を支えていたのです。

なお、ここで挙げた生産量の数値や年代は福山市など公的資料に基づくものですが、統計の取り方や時期の捉え方によっては諸説あります。「最盛期に年間5千万足を超える生産があった」という大きな事実は確かなものとして受け止めつつ、細かな数字については幅をもって理解しておくのがよいでしょう。

松永下駄の特徴と種類

松永下駄が全国に広まった背景には、その実用性と多様さがあります。高級な桐下駄ではなく、丈夫で安く、日常に使いやすい下駄を量産したことが、松永の強みでした。ここでは松永下駄の特徴や種類について整理します。

大衆下駄としての強み

松永下駄の最大の特徴は、桐に似た雑木を用いることで、桐下駄に近い軽さや見た目を保ちながら価格を抑えた点にあります。庶民が普段履きとして気軽に買い替えられる価格帯の下駄を、大量に安定して供給できたことが、全国市場で圧倒的なシェアを獲得した理由とされます。下駄が消耗品であり、歯がすり減れば履き替える日用品であった時代において、「安くて丈夫」であることは何よりの強みでした。

時代に合わせた工夫

松永下駄は、時代の変化に合わせてさまざまな工夫を重ねてきました。福山市の資料によれば、近年ではスポンジゴム製の底を用いた下駄、幅広の鼻緒をすげた下駄、地元・備後の織物である備後絣(びんごがすり)を鼻緒に用いた下駄など、多様なバリエーションが展開されているとされます。歩きやすさや履き心地、デザイン性を高めることで、現代の生活に寄り添う下駄づくりが続けられているのです。

こうした工夫は、和装が日常着でなくなった現代において、下駄を「特別なときに履くもの」「足元のおしゃれを楽しむもの」として位置づけ直す試みでもあります。夏祭りや花火大会の浴衣に合わせる下駄、温泉地でくつろぐための下駄、あるいは室内履きとしての下駄など、用途に応じた多彩な製品が今も松永で作られています。

下駄づくりの工程

下駄は一見シンプルな履物ですが、その製作にはいくつもの工程があります。一般的には、(1)木材から下駄の台となる部分を切り出す「木取り」、(2)台の形を荒く削り出す「荒削り」、(3)表面や歯を整える「仕上げ」、(4)必要に応じて塗りや磨きを施す工程、(5)鼻緒の穴をあけ、鼻緒をすげる「鼻緒すげ」、といった流れをたどります。松永では、これらの工程を分業し、機械を活用することで、品質を保ちながら大量に生産する体制を築いていったとされます。職人の手わざと機械の効率が組み合わさったところに、松永下駄の量産力の秘密がありました。

下駄産業の衰退――暮らしの変化とともに

福山ばら公園(「ばらのまち福山」の象徴)
福山ばら公園(「ばらのまち福山」の象徴)(画像:Wikimedia Commons / CC)

昭和30年ごろに頂点を迎えた松永の下駄産業は、その後、緩やかに、しかし確実に縮小へと向かっていきました。その背景には、戦後日本の暮らしそのものの大きな変化があります。

洋装化と履物の変化

下駄産業の衰退の最大の要因は、生活様式の洋風化です。戦後の高度経済成長とともに、日本人の服装は和装から洋装へと急速に移り変わりました。着物に合わせる下駄に代わって、洋服に合う革靴やスニーカー、サンダルが日常の履物となっていきました。畳の暮らしからフローリングの暮らしへ、和服から洋服へ――こうした暮らし全体の変化のなかで、下駄が日常の足元から退いていったのです。日本はきもの博物館を運営した財団の資料でも、松永の下駄は「生活様式の変化により産業として衰退した」とされています。

塩田の廃止と産業構造の転換

くわえて、松永の産業を支えてきた塩田が昭和35年(1960年)ごろに廃止されたことも、地域の産業構造に大きな影響を与えました。塩業と下駄産業は、原木の物流という点で深く結びついていました。塩田の廃止後、松永のまちは新たな産業への転換を迫られることになります。下駄産業そのものも、原材料や物流の前提が変わるなかで、かつての規模を維持することは難しくなっていきました。

こうして、最盛期には年間5千万足を超える下駄を生み出した松永の産業は、時代の波のなかで規模を縮小していきました。しかし、下駄づくりの技術と伝統は完全に途絶えたわけではありません。今も松永には下駄を作り続ける工房があり、伝統を受け継ぐ取り組みが続けられています。

日本はきもの博物館の歴史

「下駄日本一のまち」松永の記憶を語り継ぐうえで欠かせないのが、かつてこの地にあった「日本はきもの博物館」です。これは、松永の下駄産業の歴史を記念し、世界の履物文化を保存・展示するために設立された、日本でも珍しい履物専門の博物館でした。

下駄製造100周年を記念して開館

日本はきもの博物館は、昭和53年(1978年)10月10日に開館したとされます。これは、松永で下駄製造が始まった明治11年(1878年)から数えて、ちょうど100周年にあたる年でした。下駄商として松永下駄の礎を築いた丸山茂助の流れをくむマルヤマ(丸山)の関係者が、下駄製造100周年を記念して開館したと伝えられ、運営は財団法人遺芳文化財団(いほうぶんかざいだん)が担いました。創業者一族が、自らの産業の節目に、その歴史を後世に伝える博物館を設けたという点に、松永の人々の下駄への誇りがうかがえます。

世界の履物約13,000点を収蔵

日本はきもの博物館は、日本で唯一の履物専門博物館として知られ、約13,000点にのぼる膨大な履物コレクションを収蔵していたとされます。その内容は松永の下駄にとどまらず、古代エジプトのサンダル、宇宙服の靴、著名なスポーツ選手が着用した靴など、世界中・あらゆる時代の履物に及んでいたと伝わります。日本各地の下駄や草履、わらじといった伝統的な履物から、世界の珍しい履物まで、まさに「履物の歴史を一望できる」博物館でした。

これらの収蔵品のうち、2,266点が国の「重要有形民俗文化財」に指定されているとされます。これは、松永の下駄産業が単なる地域の地場産業にとどまらず、日本の生活文化・民俗を物語る貴重な資料として、国家的にも価値を認められたことを意味します。一つの地域の産業が、これほど大規模な文化財コレクションへと結実した例は、全国的に見ても稀でしょう。

いったんの閉館、そして継承

しかし、来館者の減少や運営財団の財政難、さらに建物が耐震基準を満たさないことなどから、日本はきもの博物館は平成25年(2013年)11月24日に、いったん閉館することになりました。長年にわたって松永の誇りを伝えてきた博物館が幕を閉じることは、地域にとって大きな出来事でした。同じ敷地内にあった日本郷土玩具博物館も、あわせて運営されていました。

その後、平成27年(2015年)3月、財団の清算委員会から福山市が博物館とそのコレクションの寄贈を受け、貴重な文化財が散逸する事態は避けられました。そして同年7月4日、後継施設として「福山市松永はきもの資料館(愛称:あしあとスクエア)」が開館したとされます。日本はきもの博物館と日本郷土玩具博物館から受け継がれた貴重な資料、そして松永の下駄・い草・塩づくりといった地域産業に関する資料が、この施設に収められ、今も公開されています。松永の「下駄日本一」の記憶は、こうして次の世代へと受け継がれているのです。

あしあとスクエア(松永はきもの資料館)を訪ねる

現在、松永の下駄産業の歴史を最もまとまったかたちで知ることができるのが、福山市松永はきもの資料館「あしあとスクエア」です。日本はきもの博物館の精神とコレクションを受け継いだこの施設では、世界各地の履物や、松永の下駄づくりの歴史、そしてその土台となった塩業の歴史までを学ぶことができます。

展示の見どころ

あしあとスクエアでは、世界の珍しい履物コレクションを通して、人類が足元をどのように装い、守ってきたかを一望できます。古今東西の履物が並ぶ展示は、子どもから大人まで楽しめる内容です。あわせて、松永の下駄づくりに使われた道具や、塩田・い草といった地域産業の資料も展示され、松永というまちが「塩」から「下駄」へと産業を移り変えながら発展してきた歴史を、実物資料とともにたどることができます。下駄産業の盛衰を、単なる年表としてではなく、実際の品々を通して体感できる点が、この施設ならではの魅力です。

訪問の前に

あしあとスクエアは福山市が運営する公共施設です。開館時間や休館日、入館料、各種イベントの開催状況などは時期によって変わることがあるため、訪問の前には必ず福山市の公式情報を確認することをおすすめします。最新の展示内容や企画展については、施設の公式案内をご確認ください。松永駅周辺の散策とあわせて訪ねると、かつて下駄工場が立ち並んだまちの面影を感じながら、その歴史をより深く味わうことができるでしょう。

下駄づくりを支えた人々と暮らし

松永の下駄産業は、単に工場で機械が動いていただけのものではありません。そこには、原木を選ぶ目利き、台を削る職人、塗りを担う職人、鼻緒をすげる職人、そして製品を全国へ売りさばく商人と、数えきれないほどの人々の手と暮らしが関わっていました。最盛期の松永のまちでは、下駄に関わる仕事が地域経済の大きな柱となっており、多くの世帯が何らかのかたちで下駄づくりに携わっていたとされます。下駄産業は、松永の人々の生活そのものを支える基盤だったのです。

分業のネットワーク

松永の下駄づくりの強さは、地域全体に張りめぐらされた分業のネットワークにありました。木材を仕入れて貯木する業者、台を荒削りする業者、仕上げを担う業者、塗りや磨きの専門業者、鼻緒を織り・すげる業者、そしてそれらをとりまとめて全国へ卸す問屋――こうした多様な担い手が、それぞれの専門技術を磨きながら連携していました。一つの工程に特化することで技術が深まり、全体としては効率よく大量の下駄を生み出せる。こうした産地ならではの仕組みが、松永を「下駄日本一のまち」へと押し上げた原動力の一つだったといえます。

分業のネットワークは、まちの景観にも表れていました。塩田の入り江のまわりには、木材を浮かべて保管する貯木場が広がり、その周辺に下駄関連の工場や工房が立ち並んでいたとされます。木を削る音、機械の動く音、そして仕上がった下駄を運ぶ荷車の往来――最盛期の松永のまちは、下駄づくりの活気に満ちていたことでしょう。今はその面影も少なくなりましたが、まちを歩けば、かつての産業の記憶をところどころに見つけることができます。

原木をめぐる工夫

松永の下駄産業を語るうえで欠かせないのが、原木をいかに安く、安定して確保するかという工夫です。下駄商の丸山茂助が、塩を運んだ船の帰り荷の空きを利用して山陰からアブラギリを安く仕入れたという逸話は、まさにその象徴です。船が空荷で帰るのはもったいない――その発想が、安価な原木の確保という形で実を結びました。仕入れた原木は、塩田の入り江に筏を組んで貯木し、必要なときに引き上げて加工したと伝わります。水に浮かべて保管することで、木材の乾燥や割れを防ぐ効果もあったと考えられます。こうした地理と物流を活かした工夫の積み重ねが、松永下駄の価格競争力を支えていたのです。

下駄という履物の文化史

松永が日本一の産地となった「下駄」とは、そもそもどのような履物なのでしょうか。下駄の歴史を少したどることで、松永下駄が日本人の暮らしのなかで果たした役割が、より深く見えてきます。

日本人と下駄

下駄は、木の台に歯をつけ、鼻緒をすげた日本の伝統的な履物です。地面のぬかるみや雨から足を守り、湿気の多い日本の風土に適した履物として、古くから人々に親しまれてきました。下駄に関する記述は古い文献にも見られるとされ、長い歴史を持つ履物であることがうかがえます。和装が日常着であった時代、下駄は老若男女を問わず、誰もが日々履く生活必需品でした。だからこそ、安くて丈夫な大衆下駄を大量に供給した松永は、日本中の人々の足元を支える存在になり得たのです。

桐下駄と雑木下駄

下駄の材料として最も高級とされるのは桐です。桐は軽く、湿気に強く、見た目も美しいため、高級な桐下駄は古くから珍重されてきました。しかし桐は高価であり、誰もが気軽に買えるものではありませんでした。松永の下駄が広く普及したのは、桐に似た性質を持ちながら安価な雑木――アブラギリなど――を用いることで、桐下駄に近い使い心地を、庶民にも手の届く価格で実現したからです。「高級品を真似た手頃な品を、大量に作って安く売る」というこの戦略は、近代産業としての松永下駄の本質をよく表しています。

下駄の各部の名称

下駄は身近な履物ですが、その各部にはそれぞれ名前があります。足を乗せる板の部分を「台(だい)」、地面に接する突起を「歯(は)」、足を固定する紐の部分を「鼻緒(はなお)」と呼びます。台の前方に開けた穴を「前緒(まえお)」、後方の二つの穴を通して鼻緒をすげることで、足にしっかりと固定される仕組みです。歯の数や形にもいくつかの種類があり、二枚歯の下駄、底が平らな下駄など、用途や好みに応じてさまざまな形があります。松永では、こうした各部の加工をそれぞれの職人が分担し、機械を活用しながら大量に生産していました。一つの下駄が完成するまでには、いくつもの手と工程が関わっていたのです。下駄の構造を知ると、あしあとスクエアの展示もより興味深く見ることができるでしょう。

音と季節の風物詩として

下駄の魅力の一つは、歩くたびに響く「カランコロン」という独特の音です。松永下駄もこの心地よい音で親しまれてきました。現代では、和装が日常着でなくなった一方で、夏祭りや花火大会、温泉地などで浴衣に合わせて下駄を履く文化が残っています。涼やかな下駄の音は、日本の夏の風物詩でもあります。日常の履物から、季節やハレの日を彩る履物へ――下駄の役割は変わりつつも、その魅力は今も受け継がれています。松永で今も作られる下駄は、こうした現代の暮らしのなかで、新たな居場所を見いだしているのです。

塩から下駄へ――産業が受け継がれるということ

松永の歴史を俯瞰すると、「塩から下駄へ」という産業の継承が、いかに見事な連鎖であったかに気づかされます。一つの産業が築いた基盤が、まったく別の産業を生み出す土壌となる――これは地域の産業史を考えるうえで、とても示唆に富む事例です。

基盤の転用という知恵

松永の塩業は、遠浅の海という地形、入浜式塩田という技術、北前船による全国への販路、そして塩を煮るための木材の集積という、いくつもの要素を備えていました。下駄産業は、これらの要素をそのまま転用するかたちで生まれました。木材の集積は下駄の原料供給に、船の物流は原木の安価な仕入れと製品の出荷に、入り江の地形は貯木場に、それぞれ活かされたのです。塩田が築いた基盤を、新しい産業のために巧みに読み替えていく――そこには、地域の人々の柔軟な知恵が見てとれます。

い草産業とのつながり

松永とその周辺地域では、下駄や塩のほかに、い草(畳表の原料)の産業も営まれてきました。あしあとスクエアの展示にも、松永の下駄・い草・塩づくりといった地域産業に関する資料が含まれているとされます。塩田、下駄、い草――これらの産業は、それぞれが福山西部の風土と物流に根ざしながら、地域の暮らしを支えてきました。一つの産業が衰えても、地域は別の産業を育て、暮らしを紡いできたのです。松永の歴史は、こうした産業の移り変わりと、それを支えた人々のたくましさの物語でもあります。

伝統を未来へ

かつての「下駄日本一」の規模は失われましたが、松永の下駄づくりの技術と精神は、今も受け継がれています。現代の生活に合わせて、ゴム底や幅広鼻緒、地元の備後絣を用いた下駄など、新しい工夫を凝らした製品が生み出されています。和装が特別なものとなった時代だからこそ、丁寧に作られた下駄の価値は、むしろ見直されつつあるのかもしれません。あしあとスクエアでその歴史を学び、現役の工房で作られる下駄に触れることは、松永というまちが歩んできた長い道のりを実感する、またとない機会となるでしょう。

地域の誇りとしての下駄

「下駄といえば松永」「松永といえば下駄」――こうした言葉が長く語り継がれてきたこと自体が、下駄産業が松永の人々にとって、単なる生業を超えた地域の誇りであったことを物語っています。日本はきもの博物館が下駄製造100周年を記念して設けられ、世界中の履物を集めた大コレクションへと発展していった背景には、自分たちの産業の歴史を後世に残したいという、松永の人々の強い思いがあったといえるでしょう。塩田を開いた本荘重政も、下駄づくりを始めた丸山茂助も、それぞれの時代に新しい産業の種をまき、まちの未来を切り開いた先人でした。その精神は、形を変えながら今も松永に息づいています。下駄という小さな履物の歴史をたどることは、地域がいかにして産業を生み、育て、受け継いできたかという、より大きな物語に出会うことでもあるのです。

下駄が結ぶ福山の他の歴史

松永の下駄産業は、福山という土地の歴史のなかでも、近世から近代にかけての「産業のまち」としての側面を象徴する存在です。福山には、城下町・港町・産業町という複数の歴史的な顔があり、それぞれが互いに結びつきながら地域を形づくってきました。

城下町・福山との関係

松永の塩田を開いた本荘重政は、福山藩の家臣でした。つまり、松永の塩業も下駄産業も、福山藩という統治の枠組みのなかで育まれた産業だったといえます。福山藩の城下町としての歴史は福山城ガイドで詳しく紹介しています。藩政期の福山がどのように地域経済を支え、塩田開発のような大規模事業を後押ししたのかを知ると、松永の歩みもより深く理解できます。

中世の交易拠点・草戸千軒との対比

福山には、松永より古い時代に栄えた交易の拠点もありました。芦田川の中州にあったとされる中世の町・草戸千軒(くさどせんげん)です。中世の福山がどのような交易と暮らしの場であったかは草戸千軒・明王院ゆかりの地のガイドでたどることができます。中世の交易町、近世の塩田と城下町、近代の下駄産地――時代ごとに福山の各地が異なる産業で栄えてきたことが見えてきます。

港町・鞆の浦とのつながり

松永の塩や下駄が船で運ばれたように、福山の歴史は海と切り離せません。福山を代表する港町・鞆の浦(とものうら)は、古くから瀬戸内海の要衝として栄え、潮待ちの港として知られました。鞆の浦の歴史的な街並みは鞆の浦の街並みガイドで紹介しています。あわせて、朝鮮通信使ゆかりの福禅寺 対潮楼や、坂本龍馬ゆかりのいろは丸展示館を訪ねると、海運によって育まれた福山の歴史をより立体的に感じられるでしょう。

松永の下駄産業 関連年表

松永の塩業から下駄産業、そして博物館の歴史までを年表にまとめます。年代には諸説ある事項を含むため、おおよその目安としてご覧ください。

松永の歴史をめぐるモデルコース

松永の下駄と塩の歴史を一日でたどるなら、次のようなコースがおすすめです。徒歩と公共交通機関を組み合わせて、まちの面影を感じながら歩いてみましょう。

半日コース――あしあとスクエアを中心に

まずはJR松永駅を起点に、松永はきもの資料館「あしあとスクエア」を訪ね、世界の履物コレクションと松永の下駄づくりの歴史をじっくり見学します。下駄や塩業に関する展示を通して、まちの成り立ちを学んだあとは、松永の旧市街を散策し、かつて下駄工場や塩田が広がっていたエリアの面影を探してみましょう。半日あれば、松永の産業史の核心に触れることができます。訪問前には施設の開館情報を確認しておくと安心です。

一日コース――松永から鞆の浦へ

時間に余裕があれば、午前は松永であしあとスクエアと旧市街を巡り、午後は福山を代表する港町・鞆の浦へ足をのばすコースがおすすめです。松永の塩や下駄を全国へ運んだ海運の歴史を、鞆の浦の港町の風景のなかで実感できます。鞆の浦の街並みガイド福禅寺 対潮楼いろは丸展示館を参考に、海とともに歩んだ福山の歴史を一日でたどってみてください。

福山の歴史を深掘りするなら

松永の産業史をきっかけに、福山という土地の歴史全体に興味がわいた方は、城下町としての福山の中心である福山城や、中世の交易を物語る草戸千軒・明王院ゆかりの地もあわせて訪ねてみてください。福山の歴史を時代順に通して知りたい方は、福山の歴史 完全ガイドを最初に読んでおくと、それぞれの史跡のつながりがよく見えてきます。

松永の下駄産業 よくある質問(FAQ)

Q松永で下駄づくりが始まったのはいつですか?
A

明治11年(1878年)に始まったとされます。塩を焚くための薪に使われていた雑木に着目し、桐に似た雑木を使った下駄の製造が始まったと、福山市や福山商工会議所の資料に伝えられています。

Q松永下駄の生みの親は誰ですか?
A

下駄商を営んでいた丸山茂助(まるやま もすけ)とされます。塩を運んだ船の帰り荷が空であることに着目し、山陰地方からアブラギリなどの雑木を安く仕入れて下駄づくりに転用したと伝わります。

Qなぜ松永で下駄産業が発達したのですか?
A

もともと松永が塩田で栄えた土地で、塩を運ぶ船の物流網や、塩を煮るための木材が集まる環境があったためとされます。塩田の入り江は木材の貯木にも適しており、塩業が築いた基盤の上に下駄産業が育ったと考えられています。

Q松永下駄の生産量はどのくらいでしたか?
A

福山市の資料によれば、昭和30年(1955年)ごろのピーク時には年間およそ5,600万足の生産があり、全国一の生産量を誇ったとされます。なお、統計の取り方によって数値には幅があり得ます。

Q「下駄日本一のまち」とはどういう意味ですか?
A

松永が全国一の下駄生産地であったことを表す言葉です。最盛期には全国の下駄生産において最も高い占有率(シェア)を有していたとされ、「下駄といえば松永」と呼ばれるほどでした。

Q松永下駄にはどんな特徴がありますか?
A

高級な桐下駄に対し、桐に似た安価な雑木を用いた「大衆下駄」として広まった点が特徴です。二枚歯が地面を打つ「カランコロン」という音も松永下駄の魅力とされます。近年はゴム底や幅広鼻緒、備後絣を用いた製品など多様なバリエーションがあります。

Qなぜ下駄産業は衰退したのですか?
A

戦後の生活様式の洋風化が最大の要因とされます。和装が日常着でなくなり、革靴やスニーカーが普及したことで、下駄の需要が大きく減少しました。あわせて、産業の基盤だった塩田の廃止も地域の産業構造に影響を与えました。

Q日本はきもの博物館とは何ですか?
A

松永にあった、日本でも珍しい履物専門の博物館です。昭和53年(1978年)、下駄製造100周年を記念して開館し、財団法人遺芳文化財団が運営しました。約13,000点の履物コレクションを収蔵していたとされます。

Q日本はきもの博物館はいつ閉館したのですか?
A

平成25年(2013年)11月24日に、来館者の減少や財政難、建物の耐震基準の問題などから、いったん閉館したとされます。その後コレクションは福山市に寄贈され、後継施設へと受け継がれました。

Q今でも松永の下駄の歴史を学べる場所はありますか?
A

はい。福山市松永はきもの資料館「あしあとスクエア」で学べます。平成27年(2015年)7月4日に開館した施設で、日本はきもの博物館などから受け継いだ履物コレクションや、松永の下駄・塩業に関する資料を公開しています。

Q松永の塩田はいつ開発されたのですか?
A

福山藩の家臣・本荘重政の提案により、万治3年(1660年)ごろに開発が始まり、寛文7年(1667年)ごろまでに48の塩田が完成したと伝わります。「松永」という地名も、この塩田開発とともに生まれたとされます。

Q松永はきもの資料館の見学には予約が必要ですか?
A

個人での見学に予約は不要なことが一般的ですが、団体見学やイベント時の対応、開館時間・休館日は時期により異なります。確実な情報は、訪問前に福山市の公式案内で確認することをおすすめします。

Q今でも松永で下駄は作られていますか?
A

はい。かつての規模ではないものの、現在も松永には下駄を作り続ける工房があり、伝統的な下駄づくりの技術が受け継がれています。現代の暮らしに合わせた工夫を凝らした下駄も作られています。

まとめ――塩と下駄が語る松永の物語

松永の下駄産業の歴史は、一つの土地がいくつもの産業を移り変えながら歩んできた、福山ならではの物語です。江戸時代、本荘重政が遠浅の松永湾に入浜式塩田を開いたことで、まちは塩業で栄えました。やがて明治11年、丸山茂助が塩づくりの物流と木材に着目して下駄づくりを始め、塩から下駄へと産業のバトンが渡されました。機械化を経て、昭和30年ごろには年間5,600万足という全国一の生産量を誇り、松永は「下駄日本一のまち」となったのです。

その後、戦後の生活様式の変化のなかで下駄産業は縮小しましたが、その記憶は日本はきもの博物館、そして後継の「あしあとスクエア」によって、今も大切に守り継がれています。約13,000点の履物コレクションと、そのうち2,266点が国の重要有形民俗文化財に指定されているという事実は、松永の下駄産業が地域を超えた文化的価値を持つことを物語っています。松永を訪れる際は、ぜひこの「塩と下駄が結んだまちの物語」に思いをはせてみてください。福山の歴史全体を知りたい方は福山の歴史 完全ガイドもあわせてご覧ください。

出典・注意

本記事は、福山市ホームページ(松永下駄・松永はきもの資料館・松永塩田の開発に関する各ページ)、福山商工会議所「福山の誇る伝統産業(松永下駄)」、日本はきもの博物館に関する公開資料などをもとに作成しました。年代・数値・経緯には諸説ある事項を含みます。

※年代・経緯には諸説ある事項を含みます。詳細は各施設の公式情報や郷土資料でご確認ください。

最終更新: 2026年6月10日

史跡情報は福山NOTE 史跡図鑑(fn_history)より。