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🏯 歴史

海苔養殖の歴史|松永湾・芦田川河口で育った備後の海苔

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海苔養殖の歴史|松永湾・芦田川河口で育った備後の海苔

広島県福山市の西部、松永湾(まつながわん)と芦田川(あしだがわ)の河口に広がる遠浅の海は、塩や下駄の産地として知られる一方で、冬になると海苔(のり)養殖の風景が広がる土地でもありました。瀬戸内海は古くから日本有数の海苔の産地であり、なかでも広島県は江戸時代以来の長い養殖の歴史をもつ「海苔どころ」として知られています。その伝統は、今日では福山市内海町(うつみちょう)の田島(たしま)を中心とする県東部に受け継がれ、「田島のり」の名で全国に届けられています。

この記事では、松永湾や芦田川河口で育まれてきた海苔養殖の歴史を、広島県全体の海苔産業の流れと重ね合わせながら丁寧にたどります。塩田開発で姿を変えた「袋の海」がどのように漁業の舞台となり、戦後の埋め立てや河口堰の建設を経て、海苔の産地がどう移り変わってきたのか。冬の海に並ぶヒビ(海苔網を支える設備)の風景の背後にある、人びとの暮らしと工夫の積み重ねを、確かな史実に基づいて読み解いていきます。なお、松永湾そのものの海苔養殖については史料が限られるため、本文では広島県全体の歴史と地域の産業史を手がかりに、慎重に記述していきます。

ゆかりの史跡・図鑑

海苔養殖をはじめ、松永湾の塩田や芦田川流域の歴史にゆかりのある福山の史跡を、図鑑形式でまとめています。一覧・比較・詳細の三つの切り口から、気になる場所を探してみてください。それぞれの土地を訪ねることで、海と人の関わりの長い歴史を、より立体的に感じることができるはずです。

福山城 伏見櫓 📖江戸時代(元和年間)📍 福山駅前(福山市街)福山城 📖近世(江戸)📍 丸之内福山城博物館 📖近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)📍 福山駅前(福山市街)草戸千軒町遺跡 📖中世📍 草戸町明王院 📖中世📍 草戸町鞆の津の町並み(重伝建) 📖江戸時代(中世〜近代の建造物群)📍 鞆町鞆の浦の常夜燈と港湾施設 📖江戸時代📍 鞆町福山市鞆の浦歴史民俗資料館 📖近代(昭和)📍 鞆町鞆の浦 📖中世〜近世📍 鞆町福禅寺 対潮楼 📖近世📍 鞆町太田家住宅 📖江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)📍 鞆町いろは丸展示館 📖近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)📍 鞆町仙酔島古代(地質)/近代(指定)📍 鞆町廉塾(菅茶山旧宅) 📖近世📍 神辺町神辺城跡 📖中世📍 神辺町福山八幡宮 📖近世📍 北吉津町沼名前神社 📖近世📍 鞆町阿伏兎観音(磐台寺観音堂)近世📍 沼隈町吉備津神社(備後一宮)江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる📍 新市町素盞嗚神社(備後一宮) 📖飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮📍 新市町

史跡時代概要📍 エリア詳細
福山城 伏見櫓江戸時代(元和年間)伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最…📍 福山駅前(福山市街)下へ ↓
福山城近世(江戸)備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御…📍 丸之内下へ ↓
福山城博物館近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩…📍 福山駅前(福山市街)下へ ↓
草戸千軒町遺跡中世芦田川の中州にあった中世の港町・集落遺跡。発…📍 草戸町下へ ↓
明王院中世本堂と五重塔がともに国宝。中世密教寺院で、五…📍 草戸町下へ ↓
鞆の津の町並み(重伝建)江戸時代(中世〜近代の建造物群)潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と…📍 鞆町下へ ↓
鞆の浦の常夜燈と港湾施設江戸時代江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯…📍 鞆町下へ ↓
福山市鞆の浦歴史民俗資料館近代(昭和)鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬…📍 鞆町下へ ↓
鞆の浦中世〜近世瀬戸内の「潮待ちの港」。常夜燈・雁木・波止場…📍 鞆町下へ ↓
福禅寺 対潮楼近世朝鮮通信使の使節が「日東第一形勝」と讃えた客…📍 鞆町下へ ↓
太田家住宅江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で…📍 鞆町下へ ↓
いろは丸展示館近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵…📍 鞆町下へ ↓
仙酔島古代(地質)/近代(指定)鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連…📍 鞆町下へ ↓
廉塾(菅茶山旧宅)近世儒学者・菅茶山が開いた私塾。当時の塾舎・住宅…📍 神辺町下へ ↓
神辺城跡中世備後南部の中世山城。福山城が築かれる以前、備…📍 神辺町下へ ↓
福山八幡宮近世福山城の北に鎮座し、東西二つの宮を備える。歴…📍 北吉津町下へ ↓
沼名前神社近世鞆の「祇園さん」。夏の大松明を担ぐ「お手火神…📍 鞆町下へ ↓
阿伏兎観音(磐台寺観音堂)近世断崖の上に建つ朱塗りの観音堂。国の重要文化財…📍 沼隈町下へ ↓
吉備津神社(備後一宮)江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で…📍 新市町下へ ↓
素盞嗚神社(備後一宮)飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏の…📍 新市町下へ ↓

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福山城 伏見櫓

江戸時代(元和年間) / 📍福山駅前(福山市街)

伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最古級の三層入母屋造の現存櫓。 福山城伏見櫓は、元和8年(1622年)の福山城築城に際し、城主水野勝成が将軍徳川秀忠から下賜を受け、京都の伏見城から移築させたと伝えられる櫓である。長らく伝承とされていたが、昭和29年(1954年)の解体修理の際、梁の陰刻に「松ノ丸ノ東やく(ら)」の文字が発見され、伏見城からの移築を裏付ける確かな遺構であることが明らかになった。構造は三層入母屋造で、初層と二層を同じ柱割とし、その上にやや小さい三層を望楼状に載せる。桁行八間・梁間三間、本瓦葺の規模をもつ。慶長期の城郭建築の様式を残す初期の典型として価値が高く、昭和8年(1933年)1月23日に国の重要文化財に指定された。福山城内に現存し、特別公開が行われることもある。

🕰 時代江戸時代(元和年間)
🏛 成立・築造元和8年(1622年)水野勝成の福山城築城時に伏見城から移築。国指定重要文化財(昭和8年=1933年1月23日指定)
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目(福山城内)
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福山城

近世(江戸) / 📍丸之内

備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御門は京都伏見城からの移築と伝わる。2022年に築城400年を迎えた。

🕰 時代近世(江戸)
🏛 成立・築造1622年(元和8)・水野勝成
👤 関連水野勝成・阿部正弘
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目8
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福山城博物館

近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期) / 📍福山駅前(福山市街)

水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩の歴史を体験型展示で伝える博物館 福山城博物館は、JR福山駅のすぐ北に建つ福山城天守内に置かれた市立の歴史資料館です。福山城は1622年(元和8年)、徳川譜代の大名・水野勝成が西国鎮衛の拠点として築いた近世城郭で、天守は1931年に国宝に指定されました。しかし1945年8月の福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリート造で外観が復興され、その内部が博物館として公開されました。2022年には築城400年に合わせて大規模リニューアルされ、北面の鉄板張り(黒い装い)の再現や、一番槍レース・火縄銃などの体験型コンテンツ、デジタル映像を用いた展示が整えられ、福山城と福山藩の歴史を学べる施設となっています。城内に現存する伏見櫓と筋鉄御門は、京都・伏見城からの移築と伝えられ、国の重要文化財に指定されています。常設展は有料、月曜休館とされます。

🕰 時代近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)
🏛 成立・築造福山城は1622年(元和8年)に初代福山藩主・水野勝成が築城。天守は1945年福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリートで外観復興、内部を博物館として開館。2022年に大規模リニューアル
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目8番
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鞆の津の町並み(重伝建)

江戸時代(中世〜近代の建造物群) / 📍鞆の浦

潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と町家が一体で残る重伝建地区 鞆の浦は瀬戸内海の中央に位置し、古来「潮待ちの港」として栄え、万葉集にも詠まれた歴史を持つとされる。江戸時代には北前船など廻船の寄港地として繁栄し、朝鮮通信使の寄港地ともなった。2017年(平成29年)11月28日、「福山市鞆町伝統的建造物群保存地区」として約8.6ヘクタールが国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。範囲は鞆字西町の全域を中心に、石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地の一部に及ぶ。中世から江戸期に整えられた地割の上に、江戸時代から昭和30年代までの町家や寺社、石垣などが一体的に残る近世港町の景観が評価された。常夜燈・雁木・波止・焚場・船番所の5つの港湾施設がほぼ完全に残る点は全国でも稀とされる。広島県内では3例目の選定で、2018年には日本遺産にも認定された。

🕰 時代江戸時代(中世〜近代の建造物群)
🏛 成立・築造2017年(平成29年)11月28日に国の重要伝統的建造物群保存地区へ選定。地割は中世〜江戸期、建造物は江戸時代〜昭和30年代まで。
📍 所在地広島県福山市鞆町(鞆字西町全域ほか、字石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地字古城跡・草谷の各一部)
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鞆の浦の常夜燈と港湾施設

江戸時代 / 📍鞆の浦

江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯一の近世港、鞆港。 鞆の浦の鞆港には、常夜燈・雁木・波止・焚場(たでば)・船番所という江戸時代の港湾施設5点がほぼ揃って現存し、これらが一体で残るのは全国でも鞆港のみとされる。シンボルの常夜燈は安政6年(1859)の刻銘をもつ石造灯台で、海中の基礎石から宝珠の頂までは約12.1mに及び、江戸期の石造常夜燈としては国内最大級とされる。雁木は潮の干満に応じて船を着けられる階段状の船着き場で、半円形の港内に連続して巡らされている。波止は花崗岩を積んだ全長約146mの防波堤で、江戸後期に築かれ明治期に修築された。鞆港を含む沿岸と沖の島々一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定され、鞆町西町を中心とする区域は2017年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。日本遺産「瀬戸の夕凪が包む 国内随一の近世港町」の構成要素でもある。

🕰 時代江戸時代
🏛 成立・築造常夜燈は安政6年(1859)造立とされる。雁木・波止・焚場・船番所は江戸後期築造、波止は明治期に修築。鞆港一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定。
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆
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福山市鞆の浦歴史民俗資料館

近代(昭和) / 📍鞆の浦

鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬戸内の歴史・民俗を伝える市立資料館 福山市鞆の浦歴史民俗資料館は、広島県福山市鞆町後地に建つ市立の博物館で、「潮待ちの館」の愛称で親しまれる。1977年(昭和52年)からの地元有志による調査・収集活動を背景に、福山市制70周年記念事業として1988年(昭和63年)に開館した。立地は、福島正則が築いたとされる鞆城跡(福山市指定史跡)の高台で、瀬戸内海を見渡せる。万葉の時代から潮待ち・風待ちの港として栄えた鞆の浦を中心に、古代から近世にいたる歴史資料を展示。鯛網漁のジオラマや錨を製造した鍛冶場、朝鮮通信使関連資料、保命酒に関する資料に加え、お手火神事・お弓神事といった地域の民俗文化財も常設展示する。鞆の歴史と暮らしを総合的に学べる拠点とされる。

🕰 時代近代(昭和)
🏛 成立・築造1988年(昭和63年)開館。福山市制70周年記念事業として建設。建つ鞆城跡は福島正則が築いたとされる(福山市指定史跡)
📍 所在地広島県福山市鞆町後地536-1
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太田家住宅

江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期) / 📍鞆の浦

鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で、国の重要文化財 鞆の浦を代表する歴史的建造物で、薬用酒「保命酒」の醸造で財を成した商家の旧宅。もとは大坂の漢方医を出自とする中村家の屋敷で、明暦元年(1655年)に鞆へ移り住み、まもなく十六味地黄保命酒の製造・販売を始めて大ヒットし、福山藩の御用名酒屋として販売独占権を得たとされる。明治期に廻船業を営んだ太田家が継承し、現在の名で呼ばれる。主屋を中心に保命酒蔵や各種土蔵など九棟が建ち並び、建築年代は18世紀中期から19世紀前期に及ぶ。瀬戸内の商家建築を伝える貴重な遺構として、1991年に国の重要文化財に指定された。幕末には三条実美ら尊王攘夷派の公卿が立ち寄ったと伝わり、別宅の朝宗亭とともに「鞆七卿落遺跡」として広島県の史跡(1940年指定)にもなっている。

🕰 時代江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)
🏛 成立・築造主屋は18世紀中期、ほか北保命酒蔵が天明8年(1788年)、西蔵が寛政元年(1789年)、東保命酒蔵が寛政7年(1795年)など18世紀中期〜19世紀前期。国の重要文化財指定は1991年(平成3年)5月31日。
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆842
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いろは丸展示館

近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期) / 📍鞆の浦

坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵を活かした資料館 鞆の浦のシンボル常夜灯(とうろどう)のすぐそばに建つ資料館。1867年(慶応3年)、坂本龍馬と海援隊が運航したいろは丸が紀州藩の明光丸と備後灘で衝突・沈没した「いろは丸事件」を伝える施設で、その談判が鞆の浦で行われた縁にちなむ。建物は江戸期に建てられた太い梁が印象的な土蔵で、地元では「大蔵」と呼ばれ、国の登録有形文化財とされる。館内には海底に沈むいろは丸を再現したジオラマ、引き揚げられた陶器や部品、調査風景の写真などを展示し、2階には龍馬が宿泊先で身を潜めたという「隠れ部屋」が再現され、龍馬の蝋人形も置かれている。1989年(平成元年)7月の開館。幕末史と鞆の港町文化を同時に味わえるスポットである。

🕰 時代近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)
🏛 成立・築造1989年(平成元年)7月開館。建物は江戸期築の土蔵「大蔵(浜蔵)」で、国の登録有形文化財とされる。展示題材のいろは丸事件は1867年(慶応3年)
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆843-1
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仙酔島

古代(地質)/近代(指定) / 📍鞆の浦

鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連なる瀬戸内海国立公園の名勝 仙酔島は鞆の浦の沖合に浮かぶ周囲約6キロの島で、住所は福山市鞆町後地。鞆港から市営渡船で約5分の距離にあり、観光客の往来はあるが定住者のいない無人島とされる。1925年(大正14年)に国の名勝「鞆公園」の一部として指定され、1934年(昭和9年)には日本で最初に指定された国立公園・瀬戸内海国立公園に含まれた。島は約9000万年前の大規模な火山活動による溶結凝灰岩を主体とし、南側海岸には青・赤・黄・白・黒の岩が200メートル以上連なる「五色岩」が見られ、地質的に貴重とされる。「仙人が酔うほど美しい島」が名の由来と言われる。江戸後期の学者・頼山陽が当地の景観を「山紫水明」と評したとも伝わる。

🕰 時代古代(地質)/近代(指定)
🏛 成立・築造1925年(大正14年)国名勝「鞆公園」に指定。1934年(昭和9年)日本初の国立公園・瀬戸内海国立公園に編入。島自体は約9000万年前の火山活動で形成されたとされる
📍 所在地広島県福山市鞆町後地
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吉備津神社(備後一宮)

江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる / 📍新市・北部

備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で「いっきゅうさん」と親しまれる古社 福山市新市町宮内に鎮座する備後国一宮で、地元では「一宮さん(いっきゅうさん)」と親しまれる。社伝では大同元年(806年)に吉備国の吉備津神社から勧請し創建されたと伝わるが、延喜式神名帳に記載がないことなどから実際の成立はより後とする説もある。主祭神は吉備国を治めたとされる大吉備津彦命。現在の本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が旧規模にならい造営したもので、桁行七間・梁間四間の入母屋造檜皮葺、国の重要文化財に指定されている。ほかにも木造狛犬や太刀などが重要文化財として伝えられ、複数の建造物が広島県・福山市指定文化財となっている。隣接する櫻山城跡なども史跡として知られ、備後の信仰と歴史を今に伝える。

🕰 時代江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる
🏛 成立・築造本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が造営、国の重要文化財。創建は大同元年(806年)と伝わるが諸説ある
📍 所在地広島県福山市新市町宮内400
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素盞嗚神社(備後一宮)

飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮 / 📍新市・北部

祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏のけんか神輿で名高い古社 福山市新市町戸手に鎮座する素盞嗚神社は、『延喜式神名帳』に載る式内社で備後国一宮を称し、旧社格は県社です。主祭神は素盞嗚尊で、稲田姫命・八王子を配祀します。社伝では天武天皇の治世、7世紀ごろ(679年か)の創建とされます。『釈日本紀』所収の「備後国風土記」逸文に伝わる蘇民将来説話の舞台「疫隈国社」と結びつけられ、茅の輪くぐりや祇園信仰・祇園祭発祥の地の一つとされています。神仏習合期には牛頭天王を祀り、遣唐使・吉備真備が734年に当社から播磨の広峯神社へ勧請したとも伝わります。毎年7月の例祭では、勇壮なけんか神輿(神輿合わせ)が行われることで知られます。

🕰 時代飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮
🏛 成立・築造社伝では天武天皇期の7世紀ごろ(679年か)創建とされる。『延喜式神名帳』記載の式内社で、旧県社
📍 所在地広島県福山市新市町大字戸手1-1

海苔とは何か――瀬戸内に根づいた海の恵み

芦田川の河口部
芦田川の河口部(画像:Wikimedia Commons / CC)

海苔は、海に生える藻類のなかでも紅藻類(こうそうるい)に属するアマノリ類を原料とした食品の総称です。冬の浅い海で葉のように薄く広がって育ち、それを漉(す)いて乾かしたものが、私たちがよく知る四角い「板海苔」になります。おにぎりや巻き寿司、味付海苔として食卓に欠かせないこの食材は、長い歴史のなかで日本人が工夫を重ねてつくりあげてきた、海と人の協働の産物です。

海苔の養殖には、海中の養分や日光、適度な水温、そして潮の満ち引きが大きく関わります。とくに重要なのが、川から栄養分が流れ込む河口近くの遠浅の海です。淡水と海水が混じり合う汽水(きすい)の環境は、海苔の生育に適しているとされ、古くから大きな川の河口域が海苔の産地となってきました。広島湾に注ぐ太田川(おおたがわ)の河口がその代表であり、福山においては芦田川の河口や、遠浅の松永湾が、海苔をはじめとする漁業の舞台となってきたのです。

かつて海苔養殖に用いられてきた品種は「アサクサノリ」が中心でしたが、現在では病気に強く生育の良い「スサビノリ」が大部分を占めるようになっています。品種や養殖技術は時代とともに移り変わってきましたが、冬の冷たい海に向き合い、限られた季節のなかで海の恵みを収穫するという営みの本質は、今も昔も変わりません。

広島県の海苔養殖のはじまり――江戸時代の二大産地

広島県の海苔養殖は、瀬戸内海のなかでも最も古い歴史をもつとされています。その起源は江戸時代にさかのぼり、現在の広島市を流れる太田川の河口域を中心に発展しました。広島の海苔養殖は、牡蠣(かき)とならんで広島を代表する特産品として古くから知られ、その名は広く知られるところとなっていきました。

伝えられるところによれば、広島での海苔づくりは万治元年(1658年)ごろ、現在の広島市仁保(にほ)のあたりで、薄く伸ばして乾燥させた海苔がつくられたことに始まるとされます。その後、藩主であった浅野家に海苔が献上されるなど、海苔は地域の特産として育っていきました。寛文3年(1663年)に編まれた地誌「芸備国郡志(げいびこくぐんし)」には、海苔が食用、あるいは乾燥させたものとして地方へ送られていたことを示す記述があるとされ、この時期にはすでに海苔が産物として流通していたことがうかがえます。

江戸時代において、海苔の生産が許されていたのは江戸と広島の二か所だけであったとも伝えられています。これは、海苔が単なる地方の食材にとどまらず、藩の産業として重視されていたことを物語っています。文化年間(1810年ごろ)には、現在の広島市向洋(むかいなだ)近辺の淵崎(ふちざき)で、今日一般的な「漉き海苔(すきのり)」が考案されたとされ、これは西日本で初めての試みであったと伝わります。漉き海苔の技術により、広島の海苔は薄く均一な板海苔として品質を高め、大きな発展を見せることになりました。

このように、広島県の海苔養殖は江戸時代中期から後期にかけて確かな基盤を築いていきました。福山地域もまた、広島藩とは別の福山藩の領域でありながら、瀬戸内の遠浅の海を共有する土地として、こうした海苔文化の広がりのなかにあったと考えられます。松永湾や芦田川河口での海苔養殖も、こうした瀬戸内全体の海苔づくりの流れと無縁ではなかったといえるでしょう。

松永湾――「袋の海」と呼ばれた遠浅の湾

鞆の浦の港と町並み
鞆の浦の港と町並み(画像:Wikimedia Commons / CC)

福山市西部に広がる松永湾は、江戸時代以前には「袋の海(ふくろのうみ)」と呼ばれていたと伝えられています。これは、湾が遠浅で深く入り込み、まるで袋のような地形をしていたことに由来するとされます。穏やかで遠浅なこの海は、潮の満ち引きによって広大な干潟(ひがた)が現れる場所であり、漁業や塩づくり、そして後の海苔養殖にとって、きわめて重要な舞台となっていきました。

遠浅の海は、海苔養殖にとって理想的な条件を備えています。海苔網を支えるヒビを立てるには、水深が浅く、潮が引いたときに海苔が適度に空気にさらされる「干出(かんしゅつ)」が必要だからです。干出によって海苔は病気にかかりにくくなり、引き締まった良質なものに育つとされます。松永湾のような遠浅の湾は、まさにこうした条件を満たす場所であり、塩田や干拓によって姿を変える以前から、海の恵みを得る場であったと考えられます。

この「袋の海」という独特の地形に目をつけたのが、福山藩でした。遠浅であるがゆえに塩田の築造に適していたこの湾は、江戸時代に入って大規模な開発の対象となります。海苔養殖の歴史を語るうえで、まずはこの松永湾がどのように開かれ、塩の産地として発展していったのかを見ておく必要があります。海と人の関わりは、塩づくりという形でこの地に深く刻まれていったのです。

塩田開発がつくった松永の海――本荘重政の事業

松永湾の歴史を大きく変えたのが、江戸時代前期に行われた塩田開発です。福山藩3代藩主・水野勝貞(みずの かつさだ)の時代、家臣の本荘重政(ほんじょう しげまさ)がこの事業の中心人物となりました。重政は軍学修行のために諸国を遍歴するなかで、播磨(はりま)の赤穂藩(あこうはん)で塩田築造の技術を学んだ人物であったと伝えられています。当時の赤穂は、日本でも先進的な入浜式塩田(いりはましきえんでん)の技術をもつ塩の名産地でした。

帰藩した重政は、遠浅の松永湾沿岸に塩田を築造することを藩主・勝貞に献策します。そして万治3年(1660年)、藩の事業として塩田の築造に着手しました。竹原(たけはら)出身の笠井小四郎宗清(かさい こしろう むねきよ)らの協力もあって工事は進められ、48ものの塩田が松永に完成したのは寛文7年(1667年)ごろのことであったといわれています。袋の海と呼ばれた遠浅の湾は、こうして広大な塩田地帯へと姿を変えていきました。

「松永」という地名そのものも、この塩田開発に由来するとされています。重政が「末永く栄えるように」という願いを込め、「松寿永年(しょうじゅえいねん)」という言葉にちなんでこの地を「松永」と名づけたと伝えられているのです。塩田開発に関わる守護神として稲荷神社(いなりじんじゃ)が創建され、潮崎神社(しおざきじんじゃ)が移されるなど、地域には塩づくりにまつわる信仰や史跡が今も残されています。本荘家の菩提寺である承天寺(じょうてんじ)や、重政を祀る本荘神社も、この歴史を今に伝える場所です。

塩田の開発によって、松永の海は人の手が深く入り込んだ「働く海」となりました。塩田の周囲には羽原川(はばらがわ)の下流域などに労働者の村が形成され、塩づくりを軸とした暮らしが営まれていきます。海苔養殖もまた、こうした塩田とともにある海の営みの一つとして、塩田の合間の浅瀬や、塩田開発を逃れた干潟で行われていったものと考えられます。塩と海苔は、いずれも遠浅の海がもたらす恵みであり、松永の人びとはその両方を巧みに利用してきたのです。

塩から下駄へ――松永の産業の移り変わり

福山城
福山城(画像:Wikimedia Commons / CC)

松永の産業を語るうえで欠かせないのが、塩から下駄への転換です。明治時代初期、松永では製塩業が盛んに行われていましたが、塩を煮詰める際に使う薪(まき)の燃え残りや端材を活用して下駄をつくったのが、松永下駄(まつながげた)の始まりであるといわれています。塩づくりという既存の産業から、まったく新しい木工産業が芽生えたのです。

松永下駄はその後大きく発展し、機械化による大量生産が進んだ昭和30年(1955年)ごろのピーク時には、年間5,600万足という全国一の生産量を誇るまでになりました。塩・下駄・海苔という三つの産物は、いずれも松永湾とその周辺の遠浅の海と、それを舞台にした人びとの暮らしから生まれたものです。塩田の海、薪を焚く煙、そして冬の海に並ぶ海苔網――これらは、松永という土地が海とともに歩んできた歴史を象徴する風景でした。

松永が塩・下駄に加えて海苔の産地でもあったという事実は、この土地が単一の産業に依存するのではなく、海がもたらす多様な恵みを柔軟に活かしてきたことを示しています。塩田の縁辺や芦田川河口の浅瀬では、冬になると海苔が育てられ、塩や下駄づくりとともに地域の暮らしを支える生業(なりわい)の一つとなっていったとされます。海と向き合う知恵が、この地に幾重もの産業を生み出してきたのです。

海苔養殖のしくみ――ヒビ・採苗・摘採

海苔養殖の一年は、晩夏から秋にかけての準備から始まります。本格的な作業は9月ごろに始まり、まず「採苗(さいびょう)」と呼ばれる種付け作業が行われます。海苔の胞子を網に付着させるこの工程は、養殖の成否を左右する重要な作業です。秋になり海水温が20度ほどに下がると、河口近くの海に海苔網を支える「ヒビ」が設置されていきます。本格的に網を海に張る「本張り(ほんばり)」は、11月下旬ごろから行われるのが一般的です。

ヒビには、時代とともにさまざまな素材や方式が用いられてきました。明治から昭和初期にかけては、木でつくった「木ヒビ」や竹を使った「竹ヒビ」が中心でしたが、その後はシュロ縄などを使った「網ヒビ」が広く使われるようになっていきます。海苔網に付着した胞子は発芽・成長し、葉のように広がって海苔となります。こうして育った海苔を、冬の寒い時期に収穫するのです。

養殖の方式には、大きく分けて二種類があります。一つは、海底に杭を打ち込んで網を固定する「支柱式(しちゅうしき)」で、遠浅の海に適した古くからの方法です。潮の満ち引きによって海苔が干出することで、引き締まった良質な海苔が育つとされます。もう一つは、昭和30年代に宮城県の漁業協同組合によって開発されたとされる「浮き流し式(うきながししき)」で、沖合の深い海でも養殖ができるようになりました。松永湾や芦田川河口のような遠浅の海では、伝統的に支柱式が中心であったと考えられます。

収穫された海苔は、細かく刻んで水と混ぜ、簀(す)の上に薄く漉いて乾燥させることで、四角い板海苔に仕上げられます。この「漉く」という工程こそ、文化年間に広島で考案されたとされる漉き海苔の技術であり、海苔を均一で扱いやすい食品へと変えた画期的な工夫でした。冬の海での収穫から、漉いて乾かす加工まで――海苔づくりは、寒さのなかで休む間もなく続く、手間のかかる仕事だったのです。

芦田川河口の干潟と漁業――海苔を育んだ環境

福山市の中心部を貫いて瀬戸内海に注ぐ芦田川は、三原市大和町(だいわちょう)付近を源流とし、世羅(せら)などを経て福山平野を流れる一級河川です。その河口域には、かつて広大な干潟が広がっていました。川が運ぶ栄養分が海に注ぎ込むこの汽水域は、海苔をはじめとする多くの生き物を育む豊かな環境であり、漁業の重要な舞台でもありました。

河口の干潟は、海苔養殖にとって理想的な条件を備えた場所でした。淡水と海水が混じり合い、適度な栄養と日光、そして潮汐による干出が得られるこの環境は、まさに海苔が育つのに適した「ゆりかご」だったといえます。松永湾と芦田川河口という、福山の海を代表する二つの遠浅の海域が、冬になると海苔の産地として活気づいたことは、想像にかたくありません。

しかし、こうした河口の環境は、近代以降の開発によって大きく変化していきます。高度経済成長期に入ると、福山では臨海部の埋め立てによる工業地帯の造成が進められ、鉄鋼業をはじめとする重工業が発展していきました。芦田川の河口でも、治水と利水を目的とした大規模な事業が計画され、海と川の境界が人工的に管理されるようになっていったのです。海苔を育んできた自然の干潟は、こうした変化のなかで姿を変えていくことになりました。

芦田川河口堰の建設と海苔産地の変化

芦田川河口の風景を決定的に変えたのが、芦田川河口堰(あしだがわかこうぜき)の建設です。これは芦田川の河口に設けられた可動式の堰で、洪水を防ぐ治水と、工業用水などを確保する利水を目的として建設されました。事業は昭和44年(1969年)に建設省(当時)によって始められ、昭和48年(1973年)には工業用水道施設の建設が始まりました。そして昭和56年(1981年)に芦田川河口堰が完成しています。

河口堰の建設は、福山の工業発展を支える重要なインフラ整備であった一方で、河口の自然環境には大きな影響を及ぼしました。堰によって川と海の境界が区切られ、淡水と海水が混じり合う汽水域の様子は大きく変わっていきます。これにより、海苔養殖に適した遠浅の干潟という環境は、芦田川河口においては失われていくことになりました。海苔を育んできた自然の条件が、近代化のなかで姿を消していったのです。

同様の変化は、広島県全体の海苔産地でも起こっていました。広島市周辺では、明治期に始まった臨海部の埋め立てが戦後の湾岸開発として加速し、海苔養殖に適した浅い干潟が次々と消滅していきました。かつて広島湾に広く展開していた海苔養殖は、こうした埋め立てや開発によって縮小を余儀なくされ、広島市域での海苔づくりは昭和55年(1980年)ごろにほぼ終焉を迎えたとされています。福山の芦田川河口での海苔養殖もまた、河口堰の完成という大きな環境変化のなかで、その姿を変えていったと考えられます。

広島県の海苔生産の盛衰――全国一から県東部へ

広島県の海苔生産は、明治期に大きな隆盛を迎えました。明治12年(1879年)には、広島の海苔の水揚げ収量が全国一になっていたと伝えられています。江戸時代に培われた漉き海苔の技術と、広島湾や瀬戸内の遠浅の海という恵まれた環境が、広島を日本有数の海苔産地へと押し上げたのです。海苔は牡蠣とともに、広島の海を代表する産物として全国に知られるようになりました。

海苔の加工技術においても、広島は先進的な役割を果たしました。東京以外の地で味付海苔(あじつけのり)の量産化に成功したのが広島であり、大正10年(1921年)ごろには広島の大河(おおこう)地区の海苔養殖業者が、味付の製法を独自に考案したと伝えられています。昭和10年(1935年)には加工組合が形成されるほどに加工業者が増え、広島の味付海苔は地域の名産として広まっていきました。海苔の養殖から加工までを一貫して担う産業として、広島の海苔は発展していったのです。

戦後、海苔養殖はいったん回復を見せ、昭和44年(1969年)には広島県の海苔生産が全国の約25パーセントを占めるまでになったとされています。しかし、その後は前述のとおり、埋め立てや湾岸開発によって海苔養殖に適した干潟が失われ、生産は次第に縮小していきました。かつて広島湾に広がっていた海苔養殖は姿を消し、現在では県東部にその産地が残るのみとなっています。広島の海苔の中心は、こうして県西部から県東部へと移り変わっていったのです。

受け継がれる伝統――福山市内海町・田島のり

広島県西部の海苔養殖が縮小していくなかで、その伝統を今日まで力強く受け継いでいるのが、福山市内海町の田島です。福山市の南部に浮かぶ島である内海町は、古くから漁業のまちとして栄えてきました。なかでも海苔の生産量は広島県内で最も多く、県内で生産されている海苔の約7割、見方によっては8割ほどがこの内海町で養殖されているとされます。田島は、まさに広島県を代表する海苔の産地なのです。

ここで育てられる海苔は「田島のり」のブランド名で知られ、つやが良く風味が豊かなことで全国的にも高い評価を得ています。瀬戸内の穏やかな海で、海苔師(のりし)と呼ばれる熟練の生産者たちが、丹精込めて海苔を育てています。なかでも、その年に一番最初に摘み取られる「一番摘み(一番海苔)」は最高級品とされ、海苔師自らが熟練の目と舌で選び抜いた良質な海苔が、焼き海苔や味付海苔へと加工されていきます。

田島の海苔養殖は、江戸時代から続く広島の海苔養殖の伝統を引き継ぐ、貴重な産地です。広島湾の海苔が姿を消し、松永湾や芦田川河口の養殖環境が変化していくなかでも、瀬戸内の島々の海では、今なお冬の海苔づくりが続けられています。福山が「海苔の産地」であり続けていることは、この田島の海苔師たちの努力によるところが大きいといえるでしょう。塩や下駄とならんで、海苔もまた福山の海が育んだ大切な恵みなのです。

冬の海苔づくりの風景――海苔師たちの一年

海苔養殖は、一年のうちでもっとも寒い季節に最盛期を迎える、過酷な仕事です。秋に採苗を終え、本張りを行った海苔網には、やがて海苔の芽が伸びてきます。冬の早朝、まだ暗いうちから海苔師たちは船を出し、漁場の網の下に船を通して、伸びた海苔の芽を刈り取っていきます。この「摘採(てきさい)」と呼ばれる作業は、海苔がもっとも柔らかく風味の良い状態のうちに行わなければならず、まさに時間との勝負です。

摘み取られた海苔は、すぐに加工場へと運ばれ、洗浄・細断されたのち、簀の上に薄く漉いて乾燥させられます。かつては一枚一枚を手作業で漉いていましたが、現在では機械化が進み、効率よく良質な板海苔がつくられるようになっています。それでも、いつ、どのように摘むか、どの海苔を一番摘みとして選ぶかといった判断には、海苔師の長年の経験と勘が欠かせません。海苔づくりは、技術と自然への深い理解が結びついた、職人の仕事なのです。

冬の瀬戸内の海に、整然と並ぶ海苔網の風景は、この地域の冬の風物詩でもあります。寒風のなかで船を操り、黒くつややかな海苔を収穫する海苔師たちの姿には、江戸時代以来この地に受け継がれてきた海苔づくりの伝統が、今も生き続けています。松永湾や芦田川河口でかつて見られたであろう海苔養殖の風景は、形を変えながらも、田島の海へとその精神を受け継いでいるのです。

塩・下駄・海苔が語る松永の海の物語

松永湾とその周辺の歴史をふり返ると、塩・下駄・海苔という三つの産物が、いずれも遠浅の海と深く結びついていることに気づかされます。江戸時代には袋の海を干拓して塩田が築かれ、明治期にはその塩づくりの副産物から下駄産業が芽生え、そして冬になれば海苔が育てられる――この土地の人びとは、海がもたらす多様な恵みを、時代に応じて巧みに活かしてきました。

こうした産業の重なりは、松永湾という海域がいかに豊かであったかを物語っています。塩田開発によって海の形は人の手で変えられましたが、それでも海苔をはじめとする漁業の営みは続けられ、海と人の関わりは途切れることなく受け継がれてきました。一つの産業が衰えれば、別の恵みに目を向ける。そうした柔軟さこそが、この地域の暮らしを支えてきた知恵だったといえるでしょう。

現代において、松永湾や芦田川河口での海苔養殖は、河口堰の建設や臨海部の開発によって大きく姿を変えました。けれども、福山の海苔の伝統は失われたわけではありません。それは内海町の田島へと受け継がれ、今も全国に「田島のり」を届け続けています。松永の海が語る塩・下駄・海苔の物語は、福山という土地が海とともに歩んできた長い歴史そのものなのです。

海苔と福山の食文化

海苔は、日本の食卓に欠かせない食材として、私たちの暮らしに深く根づいています。おにぎりや巻き寿司を包む板海苔、ごはんに添える味付海苔、そして汁物や和え物に散らすきざみ海苔――その用途は実に多彩です。福山で育てられた田島のりもまた、地元の食卓はもちろん、全国の家庭で愛され続けています。

とくに広島は、東京以外で味付海苔の量産化に成功した土地として知られ、味付海苔は地域を代表する加工品となっています。甘辛い味つけがほどよくしみた味付海苔は、ごはんのお供として親しまれ、贈答品としても人気があります。海苔の養殖から加工、そして食卓へ――福山の海苔は、生産者の手から消費者の暮らしへと、長い道のりを経て届けられているのです。

海苔を味わうことは、その背後にある海と人の歴史を味わうことでもあります。冬の冷たい海で海苔師が丹精込めて育て、選び抜いた一番摘みの海苔には、江戸時代以来この地で受け継がれてきた技術と伝統が凝縮されています。福山を訪れた際には、ぜひ地元の田島のりを味わい、海苔養殖の長い歴史に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

瀬戸内海と海苔養殖――気候風土が育んだ恵み

福山の海苔養殖を理解するうえで欠かせないのが、瀬戸内海という海そのものの特性です。瀬戸内海は、本州・四国・九州に囲まれた内海であり、外洋に比べて波が穏やかで、潮の流れや満ち引きが複雑に入り組んでいます。多くの島々が点在し、入り組んだ海岸線と遠浅の浅瀬が広がるこの海は、古くから漁業や海運の舞台として栄えてきました。海苔養殖にとっても、この穏やかな海と豊かな干潟は、まさに理想的な環境だったのです。

瀬戸内海に注ぐ大小の河川は、山々から豊かな栄養分を海へと運びます。芦田川もその一つであり、流域の森や田畑から流れ込む養分が、河口域のプランクトンや藻類を育て、ひいては海苔の生育を支えてきました。海苔は海中の窒素やリンといった栄養分を吸収して育つため、河口域の栄養豊かな環境は欠かせません。瀬戸内の海苔が風味豊かであるとされる背景には、こうした川と海のつながりがあるのです。

また、瀬戸内地方は比較的雨が少なく、冬でも晴れの日が多い温暖な気候に恵まれています。海苔の収穫期である冬に晴天が続くことは、収穫した海苔を漉いて天日で乾燥させるうえでも好都合でした。穏やかな海、栄養豊かな河口、そして乾燥に適した冬の気候――これらの条件がそろった瀬戸内の福山は、海苔づくりに適した土地であったといえます。塩づくりにも晴天と遠浅の海が必要であったことを思えば、塩と海苔が同じ海から生まれたのも、決して偶然ではないのです。

干拓と海の変化――遠浅の海が果たしてきた役割

福山の海岸線は、長い歴史のなかで人の手によって大きく姿を変えてきました。福山藩の成立以降、芦田川下流の低湿地や遠浅の海は、たびたび干拓(かんたく)の対象となり、新田(しんでん)や塩田へと姿を変えていきました。松永湾の塩田開発もその一環であり、遠浅であるがゆえに開発が進めやすかった福山の海は、農地や産業用地として次々と利用されていったのです。

こうした干拓は、福山の発展を支える重要な事業であった一方で、海苔養殖をはじめとする漁業の場でもある干潟を、少しずつ減らしていくことにもなりました。海苔は遠浅の干潟があってこそ育つものであり、干拓によって海が陸地へと変わることは、海苔養殖の場が失われることを意味します。福山の海苔養殖の歴史は、干拓によって変化していく海と、その変化のなかで漁業の場を守ろうとする人びとの営みとが、せめぎ合ってきた歴史でもあったといえるでしょう。

とはいえ、すべての干潟が失われたわけではありません。塩田や新田の開発を逃れた浅瀬や、島々の周囲の遠浅の海では、海苔養殖をはじめとする漁業が続けられてきました。とくに内海町のような島嶼(とうしょ)部では、まとまった干拓の対象とならず、海苔養殖に適した環境が残されてきたことが、今日の田島のりへとつながっています。福山の海苔の伝統が島の海へと受け継がれていった背景には、こうした地形と開発の歴史があったのです。

海苔養殖と漁業協同組合――地域を支える担い手

海苔養殖は、個々の漁業者だけでなく、漁業協同組合(漁協)という組織によって支えられてきました。漁協は、漁場の管理や養殖技術の共有、生産物の加工・販売などを通じて、地域の海苔産業を支える重要な役割を担っています。福山市内海町の田島においても、漁業協同組合が海苔の生産から加工、出荷までを支え、「田島のり」というブランドを守り育ててきました。

海苔養殖は、採苗から本張り、摘採、加工に至るまで、多くの工程と協力を必要とする産業です。漁場をどう分け合い、いつ網を張り、どのように収穫するかといった取り決めは、漁業者どうしの協力なくしては成り立ちません。漁協は、こうした調整の要として機能し、限られた海の恵みを公平に分かち合いながら、持続的な海苔づくりを可能にしてきました。海苔養殖が長く続いてきた背景には、こうした地域の組織的な支えがあったのです。

また、漁協は海苔の品質管理にも大きな役割を果たしています。摘み取られた海苔のなかから良質なものを選び、ブランド品として出荷する仕組みは、漁協が中心となって整えてきたものです。一番摘みの海苔を厳選し、焼き海苔や味付海苔へと加工して全国に届ける――こうした流れの一つひとつに、地域の生産者と漁協の連携が息づいています。海苔養殖は、海と人、そして人と人とのつながりによって支えられてきた産業なのです。

海苔養殖がもつ環境とのかかわり

海苔養殖は、海の環境と密接に結びついた産業です。海苔は海中の栄養分を吸収して育つため、海がきれいすぎても、逆に汚れすぎても、良い海苔は育ちません。適度な栄養と清浄さのバランスが保たれた海でこそ、つやが良く風味豊かな海苔が育つのです。海苔養殖が続けられていることは、その海が一定の豊かさと清らかさを保っている証でもあるといえます。

近代以降、福山をはじめとする瀬戸内沿岸では、工業化や都市化にともなって海の環境が大きく変化しました。埋め立てによる干潟の消失や、河口堰による汽水域の変化は、海苔養殖に適した環境を狭めていきました。芦田川河口でも、河口堰の完成によって川と海のつながりが変わり、海苔を育んできた自然の条件は失われていったとされます。海苔養殖の盛衰は、こうした海の環境の変化を映す鏡でもあるのです。

一方で、海苔養殖が続けられている海では、海苔が海中の栄養分を吸収することで、水質の浄化に一定の役割を果たしているとも考えられています。海の恵みを得ながら、海の環境を保つことにもつながる――海苔養殖は、人と自然が共生する営みの一つの形といえるかもしれません。内海町の田島で今も続く海苔づくりは、瀬戸内の豊かな海を未来へと受け継いでいくための、大切な営みでもあるのです。

関連年表――松永・芦田川河口と海苔養殖のあゆみ

松永湾の塩田開発から芦田川河口堰の完成まで、海苔養殖に関わる福山と広島県の主なできごとを年表にまとめました。年代や経緯には諸説ある事項を含みますので、おおまかな流れをつかむための目安としてご覧ください。

海苔めぐりの楽しみ方・関連スポット

海苔養殖の歴史をたどる旅は、福山の海と産業の歴史を知る旅でもあります。松永湾の塩田開発や下駄産業、芦田川河口の自然、そして内海町の海苔養殖など、関連するスポットをめぐることで、海と人の関わりをより深く感じることができます。ここでは、海苔の歴史とあわせて訪ねたい福山の見どころを紹介します。

松永の地を訪れるなら、塩田開発から生まれた下駄産業の歴史にもぜひ触れてみてください。松永は全国一の下駄産地として栄えた土地であり、その歩みは海苔の歴史と同じく、松永湾という遠浅の海から始まっています。塩・下駄・海苔という三つの産物が一つの海から生まれたという、この土地ならではの物語を感じることができるはずです。詳しくは松永の下駄の記事もあわせてご覧ください。

福山の歴史全体を知りたい方には、福山藩の成立から近代までの流れをまとめた福山の歴史 完全ガイドがおすすめです。松永の塩田開発を進めた福山藩がどのように成立したのか、その背景を知ることで、海苔をはじめとする地域産業の歴史がより立体的に見えてきます。あわせて、福山藩初代藩主の事績をまとめた水野勝成の記事も、福山の海と土地の開発の歴史を理解する助けになるでしょう。

また、瀬戸内の海と深く関わってきた福山の歴史を感じるなら、潮待ちの港町として栄えた鞆の浦の街並みもぜひ訪ねたいスポットです。海運や漁業を通じて海とともに生きてきた福山の人びとの暮らしを、古い町並みのなかに感じることができます。福山という土地が、いかに海と密接に結びついて発展してきたかを実感できるはずです。

よくある質問(FAQ)

Q松永湾や芦田川河口では本当に海苔養殖が行われていたのですか。
A

松永は塩や下駄に加えて海苔の産地でもあったとされ、松永湾や芦田川河口の遠浅の海・干潟は、海苔養殖に適した環境であったと考えられます。ただし、松永湾そのものの海苔養殖の詳細な記録は限られており、本記事では広島県全体の海苔養殖の歴史や地域の産業史を手がかりに記述しています。詳細は郷土資料などでご確認ください。

Q広島県の海苔養殖はいつ始まったのですか。
A

広島県の海苔養殖は江戸時代に始まったとされ、瀬戸内海のなかでも最も古い歴史をもつといわれています。万治元年(1658年)ごろに広島・仁保のあたりで海苔がつくられ始めたと伝えられ、寛文3年(1663年)の「芸備国郡志」にも海苔の記述があるとされています。

Q「漉き海苔」とは何ですか。
A

漉き海苔とは、収穫した海苔を細かく刻んで水と混ぜ、簀の上に薄く漉いて乾燥させた、現在一般的な四角い板海苔のことです。文化年間(1810年ごろ)に広島の淵崎で考案されたとされ、西日本で初めての試みであったと伝わります。この技術により、広島の海苔は大きく発展しました。

Q江戸時代に海苔の生産が許されていたのはどこですか。
A

江戸時代において、海苔の生産が許されていたのは江戸と広島の二か所だけであったと伝えられています。これは、海苔が藩の産業として重視され、広島の特産品として知られていたことを示すものとされます。

Q松永湾の塩田は誰が開発したのですか。
A

松永湾の塩田は、福山藩3代藩主・水野勝貞の時代に、家臣の本荘重政が中心となって開発しました。重政は赤穂藩で塩田築造の技術を学んだ後、遠浅の松永湾沿岸への塩田築造を献策し、万治3年(1660年)に着手しました。竹原出身の笠井小四郎宗清らの協力もあり、寛文7年(1667年)ごろに48もの塩田が完成したといわれています。

Q「松永」という地名の由来は何ですか。
A

松永という地名は、塩田開発を進めた本荘重政が「末永く栄えるように」という願いを込め、「松寿永年」という言葉にちなんでこの地を「松永」と名づけたことに由来すると伝えられています。

Q海苔養殖の方式にはどのような種類がありますか。
A

大きく分けて、海底に杭を打って網を固定する「支柱式」と、沖合で網を浮かべる「浮き流し式」の二種類があります。支柱式は遠浅の海に適した古くからの方法で、潮の干満による干出で良質な海苔が育つとされます。浮き流し式は昭和30年代に宮城県の漁業協同組合によって開発されたとされ、深い海でも養殖が可能になりました。

Q海苔養殖の一年はどのように進むのですか。
A

本格的な作業は9月ごろから始まり、まず「採苗」と呼ばれる種付けが行われます。海水温が20度ほどに下がる秋に海苔網を支えるヒビを設置し、11月下旬ごろから本格的に網を張る「本張り」を行います。海苔が育つと冬に「摘採」(収穫)を行い、漉いて乾燥させて板海苔に仕上げます。

Q芦田川河口堰はいつ完成しましたか。
A

芦田川河口堰は、昭和56年(1981年)に完成しました。治水と利水を目的とした可動式の堰で、事業は昭和44年(1969年)に始められ、昭和48年(1973年)には工業用水道施設の建設が始まっています。この河口堰の完成は、河口の自然環境に大きな影響を与えたとされます。

Q広島県の海苔養殖はなぜ縮小したのですか。
A

明治期に始まった臨海部の埋め立てが、戦後の湾岸開発として加速し、海苔養殖に適した浅い干潟が次々と消滅していったためとされています。これにより、かつて広島湾に広がっていた海苔養殖は縮小し、広島市域での海苔づくりは昭和55年(1980年)ごろにほぼ終焉を迎えたと伝えられています。

Q現在、広島県の海苔の主な産地はどこですか。
A

現在、広島県の海苔養殖は県東部に残るのみとなっており、なかでも福山市内海町の田島が県内最大の海苔産地となっています。県内で生産される海苔の約7割、見方によっては8割ほどがこの内海町で養殖されているとされます。

Q「田島のり」とはどのような海苔ですか。
A

田島のりは、福山市内海町の田島で養殖される海苔のブランド名です。つやが良く風味が豊かなことで全国的に知られ、その年に一番最初に摘み取られる「一番摘み」は最高級品とされています。海苔師自らが熟練の目と舌で選んだ良質な海苔が、焼き海苔や味付海苔へと加工されています。

Q松永はなぜ塩・下駄・海苔という複数の産業をもつのですか。
A

これらの産業はいずれも、松永湾という遠浅の海と深く結びついています。江戸時代に袋の海を干拓して塩田が築かれ、明治期にはその塩づくりで使う薪の端材から下駄産業が芽生え、冬には海苔が育てられました。海がもたらす多様な恵みを、時代に応じて柔軟に活かしてきたことが、松永の多彩な産業を生んだといえます。

Q味付海苔はどこで生まれたのですか。
A

東京以外の地で味付海苔の量産化に成功したのが広島であるとされ、大正10年(1921年)ごろに広島の大河地区の海苔養殖業者が味付の製法を独自に考案したと伝えられています。昭和10年(1935年)には加工組合が形成されるほど加工業者が増え、味付海苔は広島を代表する加工品となりました。

まとめ――海と人が育んだ福山の海苔の歴史

松永湾や芦田川河口で育まれてきた海苔養殖の歴史は、福山という土地が海とともに歩んできた長い物語の一章です。江戸時代に袋の海を干拓して塩田が築かれ、明治期には下駄産業が芽生え、冬には海苔が育てられる――松永の海は、塩・下駄・海苔という三つの産物を生み出した、豊かな恵みの海でした。

広島県は江戸時代以来、瀬戸内でも最も古い海苔養殖の歴史をもつ「海苔どころ」として発展してきました。漉き海苔や味付海苔といった技術を生み出し、明治期には全国一の海苔産地となりましたが、戦後の埋め立てや河口堰の建設によって、海苔養殖に適した干潟は次第に失われていきました。福山の芦田川河口でも、昭和56年(1981年)の河口堰完成を一つの節目として、海苔をめぐる環境は大きく変化しました。

それでも、福山の海苔の伝統は途絶えることなく、内海町の田島へと受け継がれています。県内産海苔の約7割を占めるこの島では、今も海苔師たちが冬の海で丹精込めて「田島のり」を育てています。塩や下駄とともに、海苔もまた福山の海が育んだ大切な恵みであり、その歴史は海と人が協力して築き上げてきた、かけがえのない地域の宝なのです。福山を訪れた際には、ぜひこの海苔の歴史に思いを馳せ、田島のりの味わいを通じて、海と人の長い物語に触れてみてください。

出典・注意

本記事は、福山市公式情報、広島県内の海苔関連事業者・漁業協同組合の公開情報、各種百科・地誌などの信頼できる情報をもとに作成しています。松永湾そのものの海苔養殖については一次史料が限られるため、広島県全体の海苔養殖史や地域の産業史を手がかりに、確証のない事項は推定であることを明示して記述しています。

※年代・経緯には諸説ある事項を含みます。詳細は各施設・公式情報や郷土資料でご確認ください。

最終更新: 2026年6月10日

史跡情報は福山NOTE 史跡図鑑(fn_history)より。