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古代・中世の備後

草戸千軒に生きた人々|中世の港町の暮らしと出土品

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草戸千軒に生きた人々|中世の港町の暮らしと出土品

広島県福山市の市街地西部を流れる芦田川。その川底の中州に、かつて「草戸千軒(くさどせんげん)」と呼ばれる中世の港町が眠っていました。鎌倉時代から室町時代にかけて、およそ三百年間にわたって栄えたこの町は、長らく伝説のなかにのみ存在する「幻の町」とされてきました。江戸時代の地誌『備陽六郡志』には、寛文十三年(一六七三)の洪水によって千軒もの町屋が押し流されて滅びた、と記されています。その町が本当に存在したのか、長く確かめるすべはありませんでした。

ところが昭和三十六年(一九六一)から始まった発掘調査によって、芦田川の川底から中世の町並みがそっくり姿を現します。縦横にめぐる水路、石敷きの道路、井戸、建物の柱穴、そして数十万点に及ぶ出土品。中州という地下水の豊富な環境のおかげで、ふつうの遺跡では腐って残らない木の道具や漆器までもが、当時の姿をとどめて出土しました。文字資料だけでは決して分からなかった、中世に生きた名もなき人々の暮らしが、土のなかからよみがえったのです。

この記事では、草戸千軒町遺跡から見えてくる「中世の港町に生きた人々」の暮らしを、出土品を手がかりにたどっていきます。商人、職人、僧侶、漁師、そして子どもたち。彼らがどんな食事をとり、どんな道具を使い、どんな遊びに興じていたのか。史実として確認できる範囲を丁寧に押さえながら、芦田川のほとりに広がっていた中世都市の姿を描き出していきましょう。福山の歴史をひととおり知りたい方は、あわせて福山の歴史まるわかり通史ガイドもご覧ください。

福山・草戸千軒ゆかりの史跡図鑑

本論に入る前に、草戸千軒町遺跡と関わりの深い福山市内の史跡・歴史スポットを一覧でご紹介します。遺跡そのものは現在芦田川の流路となっているため地上に町並みは残っていませんが、出土品を展示する博物館や、町とともに栄えた明王院など、ゆかりの地は今も訪ねることができます。下記の図鑑から、それぞれの場所の概要・比較・詳細をご確認ください。

福山城 伏見櫓 📖江戸時代(元和年間)📍 福山駅前(福山市街)福山城 📖近世(江戸)📍 丸之内福山城博物館 📖近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)📍 福山駅前(福山市街)草戸千軒町遺跡 📖中世📍 草戸町明王院 📖中世📍 草戸町鞆の津の町並み(重伝建) 📖江戸時代(中世〜近代の建造物群)📍 鞆町鞆の浦の常夜燈と港湾施設 📖江戸時代📍 鞆町福山市鞆の浦歴史民俗資料館 📖近代(昭和)📍 鞆町鞆の浦 📖中世〜近世📍 鞆町福禅寺 対潮楼 📖近世📍 鞆町太田家住宅 📖江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)📍 鞆町いろは丸展示館 📖近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)📍 鞆町仙酔島古代(地質)/近代(指定)📍 鞆町廉塾(菅茶山旧宅) 📖近世📍 神辺町神辺城跡 📖中世📍 神辺町福山八幡宮 📖近世📍 北吉津町沼名前神社 📖近世📍 鞆町阿伏兎観音(磐台寺観音堂)近世📍 沼隈町吉備津神社(備後一宮)江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる📍 新市町素盞嗚神社(備後一宮) 📖飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮📍 新市町
史跡時代概要📍 エリア詳細
福山城 伏見櫓江戸時代(元和年間)伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最…📍 福山駅前(福山市街)下へ ↓
福山城近世(江戸)備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御…📍 丸之内下へ ↓
福山城博物館近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩…📍 福山駅前(福山市街)下へ ↓
草戸千軒町遺跡中世芦田川の中州にあった中世の港町・集落遺跡。発…📍 草戸町下へ ↓
明王院中世本堂と五重塔がともに国宝。中世密教寺院で、五…📍 草戸町下へ ↓
鞆の津の町並み(重伝建)江戸時代(中世〜近代の建造物群)潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と…📍 鞆町下へ ↓
鞆の浦の常夜燈と港湾施設江戸時代江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯…📍 鞆町下へ ↓
福山市鞆の浦歴史民俗資料館近代(昭和)鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬…📍 鞆町下へ ↓
鞆の浦中世〜近世瀬戸内の「潮待ちの港」。常夜燈・雁木・波止場…📍 鞆町下へ ↓
福禅寺 対潮楼近世朝鮮通信使の使節が「日東第一形勝」と讃えた客…📍 鞆町下へ ↓
太田家住宅江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で…📍 鞆町下へ ↓
いろは丸展示館近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵…📍 鞆町下へ ↓
仙酔島古代(地質)/近代(指定)鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連…📍 鞆町下へ ↓
廉塾(菅茶山旧宅)近世儒学者・菅茶山が開いた私塾。当時の塾舎・住宅…📍 神辺町下へ ↓
神辺城跡中世備後南部の中世山城。福山城が築かれる以前、備…📍 神辺町下へ ↓
福山八幡宮近世福山城の北に鎮座し、東西二つの宮を備える。歴…📍 北吉津町下へ ↓
沼名前神社近世鞆の「祇園さん」。夏の大松明を担ぐ「お手火神…📍 鞆町下へ ↓
阿伏兎観音(磐台寺観音堂)近世断崖の上に建つ朱塗りの観音堂。国の重要文化財…📍 沼隈町下へ ↓
吉備津神社(備後一宮)江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で…📍 新市町下へ ↓
素盞嗚神社(備後一宮)飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏の…📍 新市町下へ ↓
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福山城 伏見櫓

江戸時代(元和年間) / 📍福山駅前(福山市街)

伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最古級の三層入母屋造の現存櫓。 福山城伏見櫓は、元和8年(1622年)の福山城築城に際し、城主水野勝成が将軍徳川秀忠から下賜を受け、京都の伏見城から移築させたと伝えられる櫓である。長らく伝承とされていたが、昭和29年(1954年)の解体修理の際、梁の陰刻に「松ノ丸ノ東やく(ら)」の文字が発見され、伏見城からの移築を裏付ける確かな遺構であることが明らかになった。構造は三層入母屋造で、初層と二層を同じ柱割とし、その上にやや小さい三層を望楼状に載せる。桁行八間・梁間三間、本瓦葺の規模をもつ。慶長期の城郭建築の様式を残す初期の典型として価値が高く、昭和8年(1933年)1月23日に国の重要文化財に指定された。福山城内に現存し、特別公開が行われることもある。

🕰 時代江戸時代(元和年間)
🏛 成立・築造元和8年(1622年)水野勝成の福山城築城時に伏見城から移築。国指定重要文化財(昭和8年=1933年1月23日指定)
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目(福山城内)
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福山城

近世(江戸) / 📍丸之内

備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御門は京都伏見城からの移築と伝わる。2022年に築城400年を迎えた。

🕰 時代近世(江戸)
🏛 成立・築造1622年(元和8)・水野勝成
👤 関連水野勝成・阿部正弘
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目8
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福山城博物館

近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期) / 📍福山駅前(福山市街)

水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩の歴史を体験型展示で伝える博物館 福山城博物館は、JR福山駅のすぐ北に建つ福山城天守内に置かれた市立の歴史資料館です。福山城は1622年(元和8年)、徳川譜代の大名・水野勝成が西国鎮衛の拠点として築いた近世城郭で、天守は1931年に国宝に指定されました。しかし1945年8月の福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリート造で外観が復興され、その内部が博物館として公開されました。2022年には築城400年に合わせて大規模リニューアルされ、北面の鉄板張り(黒い装い)の再現や、一番槍レース・火縄銃などの体験型コンテンツ、デジタル映像を用いた展示が整えられ、福山城と福山藩の歴史を学べる施設となっています。城内に現存する伏見櫓と筋鉄御門は、京都・伏見城からの移築と伝えられ、国の重要文化財に指定されています。常設展は有料、月曜休館とされます。

🕰 時代近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)
🏛 成立・築造福山城は1622年(元和8年)に初代福山藩主・水野勝成が築城。天守は1945年福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリートで外観復興、内部を博物館として開館。2022年に大規模リニューアル
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目8番
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鞆の津の町並み(重伝建)

江戸時代(中世〜近代の建造物群) / 📍鞆の浦

潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と町家が一体で残る重伝建地区 鞆の浦は瀬戸内海の中央に位置し、古来「潮待ちの港」として栄え、万葉集にも詠まれた歴史を持つとされる。江戸時代には北前船など廻船の寄港地として繁栄し、朝鮮通信使の寄港地ともなった。2017年(平成29年)11月28日、「福山市鞆町伝統的建造物群保存地区」として約8.6ヘクタールが国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。範囲は鞆字西町の全域を中心に、石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地の一部に及ぶ。中世から江戸期に整えられた地割の上に、江戸時代から昭和30年代までの町家や寺社、石垣などが一体的に残る近世港町の景観が評価された。常夜燈・雁木・波止・焚場・船番所の5つの港湾施設がほぼ完全に残る点は全国でも稀とされる。広島県内では3例目の選定で、2018年には日本遺産にも認定された。

🕰 時代江戸時代(中世〜近代の建造物群)
🏛 成立・築造2017年(平成29年)11月28日に国の重要伝統的建造物群保存地区へ選定。地割は中世〜江戸期、建造物は江戸時代〜昭和30年代まで。
📍 所在地広島県福山市鞆町(鞆字西町全域ほか、字石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地字古城跡・草谷の各一部)
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鞆の浦の常夜燈と港湾施設

江戸時代 / 📍鞆の浦

江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯一の近世港、鞆港。 鞆の浦の鞆港には、常夜燈・雁木・波止・焚場(たでば)・船番所という江戸時代の港湾施設5点がほぼ揃って現存し、これらが一体で残るのは全国でも鞆港のみとされる。シンボルの常夜燈は安政6年(1859)の刻銘をもつ石造灯台で、海中の基礎石から宝珠の頂までは約12.1mに及び、江戸期の石造常夜燈としては国内最大級とされる。雁木は潮の干満に応じて船を着けられる階段状の船着き場で、半円形の港内に連続して巡らされている。波止は花崗岩を積んだ全長約146mの防波堤で、江戸後期に築かれ明治期に修築された。鞆港を含む沿岸と沖の島々一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定され、鞆町西町を中心とする区域は2017年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。日本遺産「瀬戸の夕凪が包む 国内随一の近世港町」の構成要素でもある。

🕰 時代江戸時代
🏛 成立・築造常夜燈は安政6年(1859)造立とされる。雁木・波止・焚場・船番所は江戸後期築造、波止は明治期に修築。鞆港一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定。
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆
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福山市鞆の浦歴史民俗資料館

近代(昭和) / 📍鞆の浦

鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬戸内の歴史・民俗を伝える市立資料館 福山市鞆の浦歴史民俗資料館は、広島県福山市鞆町後地に建つ市立の博物館で、「潮待ちの館」の愛称で親しまれる。1977年(昭和52年)からの地元有志による調査・収集活動を背景に、福山市制70周年記念事業として1988年(昭和63年)に開館した。立地は、福島正則が築いたとされる鞆城跡(福山市指定史跡)の高台で、瀬戸内海を見渡せる。万葉の時代から潮待ち・風待ちの港として栄えた鞆の浦を中心に、古代から近世にいたる歴史資料を展示。鯛網漁のジオラマや錨を製造した鍛冶場、朝鮮通信使関連資料、保命酒に関する資料に加え、お手火神事・お弓神事といった地域の民俗文化財も常設展示する。鞆の歴史と暮らしを総合的に学べる拠点とされる。

🕰 時代近代(昭和)
🏛 成立・築造1988年(昭和63年)開館。福山市制70周年記念事業として建設。建つ鞆城跡は福島正則が築いたとされる(福山市指定史跡)
📍 所在地広島県福山市鞆町後地536-1
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太田家住宅

江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期) / 📍鞆の浦

鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で、国の重要文化財 鞆の浦を代表する歴史的建造物で、薬用酒「保命酒」の醸造で財を成した商家の旧宅。もとは大坂の漢方医を出自とする中村家の屋敷で、明暦元年(1655年)に鞆へ移り住み、まもなく十六味地黄保命酒の製造・販売を始めて大ヒットし、福山藩の御用名酒屋として販売独占権を得たとされる。明治期に廻船業を営んだ太田家が継承し、現在の名で呼ばれる。主屋を中心に保命酒蔵や各種土蔵など九棟が建ち並び、建築年代は18世紀中期から19世紀前期に及ぶ。瀬戸内の商家建築を伝える貴重な遺構として、1991年に国の重要文化財に指定された。幕末には三条実美ら尊王攘夷派の公卿が立ち寄ったと伝わり、別宅の朝宗亭とともに「鞆七卿落遺跡」として広島県の史跡(1940年指定)にもなっている。

🕰 時代江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)
🏛 成立・築造主屋は18世紀中期、ほか北保命酒蔵が天明8年(1788年)、西蔵が寛政元年(1789年)、東保命酒蔵が寛政7年(1795年)など18世紀中期〜19世紀前期。国の重要文化財指定は1991年(平成3年)5月31日。
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆842
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いろは丸展示館

近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期) / 📍鞆の浦

坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵を活かした資料館 鞆の浦のシンボル常夜灯(とうろどう)のすぐそばに建つ資料館。1867年(慶応3年)、坂本龍馬と海援隊が運航したいろは丸が紀州藩の明光丸と備後灘で衝突・沈没した「いろは丸事件」を伝える施設で、その談判が鞆の浦で行われた縁にちなむ。建物は江戸期に建てられた太い梁が印象的な土蔵で、地元では「大蔵」と呼ばれ、国の登録有形文化財とされる。館内には海底に沈むいろは丸を再現したジオラマ、引き揚げられた陶器や部品、調査風景の写真などを展示し、2階には龍馬が宿泊先で身を潜めたという「隠れ部屋」が再現され、龍馬の蝋人形も置かれている。1989年(平成元年)7月の開館。幕末史と鞆の港町文化を同時に味わえるスポットである。

🕰 時代近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)
🏛 成立・築造1989年(平成元年)7月開館。建物は江戸期築の土蔵「大蔵(浜蔵)」で、国の登録有形文化財とされる。展示題材のいろは丸事件は1867年(慶応3年)
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆843-1
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仙酔島

古代(地質)/近代(指定) / 📍鞆の浦

鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連なる瀬戸内海国立公園の名勝 仙酔島は鞆の浦の沖合に浮かぶ周囲約6キロの島で、住所は福山市鞆町後地。鞆港から市営渡船で約5分の距離にあり、観光客の往来はあるが定住者のいない無人島とされる。1925年(大正14年)に国の名勝「鞆公園」の一部として指定され、1934年(昭和9年)には日本で最初に指定された国立公園・瀬戸内海国立公園に含まれた。島は約9000万年前の大規模な火山活動による溶結凝灰岩を主体とし、南側海岸には青・赤・黄・白・黒の岩が200メートル以上連なる「五色岩」が見られ、地質的に貴重とされる。「仙人が酔うほど美しい島」が名の由来と言われる。江戸後期の学者・頼山陽が当地の景観を「山紫水明」と評したとも伝わる。

🕰 時代古代(地質)/近代(指定)
🏛 成立・築造1925年(大正14年)国名勝「鞆公園」に指定。1934年(昭和9年)日本初の国立公園・瀬戸内海国立公園に編入。島自体は約9000万年前の火山活動で形成されたとされる
📍 所在地広島県福山市鞆町後地
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吉備津神社(備後一宮)

江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる / 📍新市・北部

備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で「いっきゅうさん」と親しまれる古社 福山市新市町宮内に鎮座する備後国一宮で、地元では「一宮さん(いっきゅうさん)」と親しまれる。社伝では大同元年(806年)に吉備国の吉備津神社から勧請し創建されたと伝わるが、延喜式神名帳に記載がないことなどから実際の成立はより後とする説もある。主祭神は吉備国を治めたとされる大吉備津彦命。現在の本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が旧規模にならい造営したもので、桁行七間・梁間四間の入母屋造檜皮葺、国の重要文化財に指定されている。ほかにも木造狛犬や太刀などが重要文化財として伝えられ、複数の建造物が広島県・福山市指定文化財となっている。隣接する櫻山城跡なども史跡として知られ、備後の信仰と歴史を今に伝える。

🕰 時代江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる
🏛 成立・築造本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が造営、国の重要文化財。創建は大同元年(806年)と伝わるが諸説ある
📍 所在地広島県福山市新市町宮内400
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素盞嗚神社(備後一宮)

飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮 / 📍新市・北部

祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏のけんか神輿で名高い古社 福山市新市町戸手に鎮座する素盞嗚神社は、『延喜式神名帳』に載る式内社で備後国一宮を称し、旧社格は県社です。主祭神は素盞嗚尊で、稲田姫命・八王子を配祀します。社伝では天武天皇の治世、7世紀ごろ(679年か)の創建とされます。『釈日本紀』所収の「備後国風土記」逸文に伝わる蘇民将来説話の舞台「疫隈国社」と結びつけられ、茅の輪くぐりや祇園信仰・祇園祭発祥の地の一つとされています。神仏習合期には牛頭天王を祀り、遣唐使・吉備真備が734年に当社から播磨の広峯神社へ勧請したとも伝わります。毎年7月の例祭では、勇壮なけんか神輿(神輿合わせ)が行われることで知られます。

🕰 時代飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮
🏛 成立・築造社伝では天武天皇期の7世紀ごろ(679年か)創建とされる。『延喜式神名帳』記載の式内社で、旧県社
📍 所在地広島県福山市新市町大字戸手1-1

史跡をめぐる前に、それぞれの場所がどの時代に位置づけられ、草戸千軒とどう関わるのかを知っておくと、現地での理解がぐっと深まります。次の章からは、まず草戸千軒が栄えた時代背景を押さえていきましょう。

草戸千軒が栄えた時代背景

芦田川の河口部
芦田川の河口部(画像:Wikimedia Commons / CC)

草戸千軒町が成立し、繁栄したのは鎌倉時代から室町時代にかけてのことです。この時期の瀬戸内海は、京都・奈良の中央と西国・九州、さらには大陸とを結ぶ大動脈でした。沿岸の各地には港町や市場町が生まれ、年貢米や塩、陶磁器、木材といった物資が船で行き交っていました。草戸千軒は、こうした瀬戸内海交易のネットワークのなかに位置する港町・市場町のひとつだったと考えられています。

瀬戸内海交易のなかの芦田川河口

芦田川は、福山平野を貫いて瀬戸内海へと注ぐ備後地方の主要な河川です。その河口部は、海の船と川を遡上する船とが荷を積み替える結節点となりやすく、物流の拠点として恰好の立地でした。草戸千軒はこの河口の中州に営まれ、海運と内陸との接点として機能していたとみられます。出土品のなかに各地・各国の産物が含まれていることは、この町が広域の流通に組み込まれていたことを物語っています。

当時の瀬戸内海では、備後だけでなく、瀬戸・美濃(現在の愛知・岐阜)、唐津(現在の佐賀)といった国内の窯場から焼き物が運ばれ、さらに中国や朝鮮半島で焼かれた青磁・白磁といった輸入陶磁器も流通していました。草戸千軒からはこれらが数多く出土しており、海を越えた交易の広がりがうかがえます。一地方の港町でありながら、国際色を帯びた品々が日常的に使われていたのです。

中世という時代の人々の暮らし

中世の日本は、武士が政治の実権を握る一方で、各地に商業や手工業に従事する人々の集まりが生まれ、貨幣経済が浸透していった時代でもあります。市が定期的に開かれ、銭が流通し、専門の職人が育っていきました。草戸千軒のような町は、農村とは異なる「都市的な場」として、商人や職人、宗教者など多様な人々を引き寄せていったと考えられます。

こうした中世都市の実態は、文献史料だけではなかなか見えてきません。記録に名を残すのは武士や貴族、有力寺社が中心で、町に暮らした庶民の生活はほとんど書き残されなかったからです。だからこそ、生活の道具や食べ残しまでもが土のなかに保存された草戸千軒町遺跡は、中世史を知るうえで極めて貴重な存在なのです。

また、中世は気候や災害が人々の暮らしに大きな影響を及ぼした時代でもありました。川のそばに営まれた草戸千軒のような町にとって、洪水は常につきまとう脅威でした。便利な水運の恵みを受ける一方で、増水のたびに大きな被害を受ける危うさと隣り合わせだったのです。豊かさと危うさの両面を抱えながら、人々はこの土地で粘り強く暮らしを営んでいました。中世という時代の厳しさと、それでも前を向いて生きた人々のたくましさが、草戸千軒の歴史には刻まれています。

「幻の町」草戸千軒の伝説と発見

草戸千軒町遺跡が広く知られるようになった背景には、「洪水で滅びた幻の町」という劇的な物語があります。この章では、伝説がどのように語り継がれ、そしてどのように発掘によって裏づけられていったのかをたどります。

『備陽六郡志』に記された洪水伝承

江戸時代中期に編まれた備後地方の地誌『備陽六郡志』には、寛文十三年(一六七三)の大洪水によって、芦田川のほとりにあった千軒もの町屋が一夜にして押し流され、町が滅んだという趣旨の記述が伝えられています。「千軒」という名は、千軒もの家が建ち並ぶほど繁栄した町であったことに由来するとされ、この伝承が「草戸千軒」という名とともに語り継がれてきました。

ただし、町が実際に寛文十三年の洪水という単一の出来事で一気に滅亡したのかどうかについては、慎重な見方もあります。発掘調査の成果からは、町の盛衰には長い時間幅があったと考えられており、洪水伝承はあくまで江戸期の地誌に記された伝承として受けとめる必要があります。年代や滅亡の経緯には諸説あることに留意してください。

昭和初期の出土と本格調査の始まり

幻とされてきた町の存在が具体的に意識されはじめたのは、昭和初期のことでした。芦田川の川底から墓石や陶磁器、古銭などが見つかり、かつてそこに人々の暮らしがあったことが次第に明らかになっていきます。そして昭和三十六年(一九六一)、最初の本格的な発掘調査が行われ、遺跡の存在が確認されました。

その後、昭和四十年(一九六五)の調査では、中世の町並みが地下にそっくり埋もれていることが判明します。これを契機に調査は継続され、以後およそ三十年以上にわたって断続的に発掘が進められました。芦田川の河川改修事業とも関わりながら進められたこの長期調査によって、町の全体像が少しずつ明らかになっていったのです。

これほど長い年月をかけて一つの遺跡が調査され続けたことは、草戸千軒町遺跡の規模の大きさと、その学術的価値の高さを物語っています。調査が進むたびに新たな遺構や遺物が見つかり、中世の港町の姿は回を重ねるごとに具体的になっていきました。「幻の町」が「実在の中世都市」として歴史のなかに確かな位置を占めるようになるまでには、多くの研究者の地道な努力の積み重ねがあったのです。発掘の歴史そのものが、草戸千軒という町をめぐる現代の物語だといえるでしょう。

なぜ多くの遺物が残ったのか

草戸千軒町遺跡が「中世のタイムカプセル」とも称されるのは、出土遺物の保存状態の良さによります。遺跡が立地する芦田川の中州は地下水位が高く、土のなかが常に水に浸かった状態でした。空気に触れにくい環境では、本来であれば腐ってしまう木や漆、植物の種子といった有機質の遺物が分解されずに残ります。

その結果、木簡や下駄、曲物(まげもの)、漆器、農作物の種子など、ふつうの遺跡では失われてしまう生活の痕跡が数多く出土しました。これらは中世の人々の暮らしを具体的に物語る一次資料であり、文献だけでは描けない庶民の生活像を復元する手がかりとなっています。

出土品が語る人々の暮らし

鞆の浦の港と町並み
鞆の浦の港と町並み(画像:Wikimedia Commons / CC)

草戸千軒町遺跡からは、数十万点に及ぶ膨大な出土品が見つかっています。それらは食器や調理具、生産道具、信仰の品、子どもの遊び道具まで多岐にわたり、中世の港町に生きた人々の日常を生き生きと伝えてくれます。この章では、出土品の種類ごとに、人々の暮らしぶりをたどっていきましょう。

食卓と台所の道具

食生活を物語る出土品としては、各地の窯で焼かれた陶磁器が代表的です。日常の煮炊きに使われた土師器(はじき)や須恵器(すえき)に加え、瀬戸・美濃・唐津といった国内産の陶器、そして中国・朝鮮産の青磁・白磁などの輸入陶磁器が出土しています。普段使いの碗から、やや上等な輸入品まで幅広い器が見られることは、町の経済的な豊かさと、海を越えた流通とのつながりを示しています。

また、地下水に守られて残った木製の食器や漆器も出土しています。漆を塗った椀や皿は、当時としては手間のかかる品であり、町の人々の暮らしぶりの一端を伝えます。さらに、すり鉢や鍋といった調理具も見つかっており、中世の台所でどのように食事が準備されていたのかを想像する手がかりとなります。

仕事と生産にまつわる道具

草戸千軒は単に物が行き交うだけの場ではなく、さまざまな職人が働く生産の場でもありました。出土品のなかには、鍛冶や鋳物といった金属加工、木工、漆塗りなどに関わる道具や、製品の未成品とみられるものが含まれています。こうした遺物は、町のなかで原料を加工し、製品をつくり出す手工業が営まれていたことを示唆しています。

商いの痕跡としては、各地から運ばれてきた陶磁器のほか、計量や取引に関わる道具なども注目されます。瀬戸内海交易のなかで、物資の集散地・市場町として機能していた草戸千軒では、商人たちが日々売り買いを行い、銭が飛び交っていたと考えられます。職人と商人、そして彼らを支える人々が肩を寄せ合って暮らす、活気ある町の姿が浮かび上がってきます。

文字を記した木簡

草戸千軒町遺跡の出土品のなかでも特に学術的価値が高いのが、室町期を中心とする大量の木簡(もっかん)です。木簡とは、木の札に墨で文字を記したもので、荷札や覚え書き、習字の練習などに使われました。文字資料に乏しい中世の地方都市にあって、当時の人々が実際に書き記した文字がそのまま残っていることは、きわめて貴重です。

木簡には、物の名前や数量、人名とみられる文字などが記され、商取引や日々の暮らしのなかで文字が使われていたことを物語ります。読み書きが一部の特権層だけのものではなく、港町の生活のなかに根づいていたことをうかがわせる出土品です。なお、個々の木簡の具体的な記載内容の解釈には研究上の議論もあり、断定的に語れない部分も含まれます。

信仰と祈りの品々

中世の人々にとって、信仰は暮らしと切り離せないものでした。草戸千軒からは、仏や神への祈りに関わるとみられる遺物も出土しています。後述する明王院との関わりも深く、町の人々が日々の安寧や商売の繁盛、そして洪水のような災害からの守りを祈っていたことがしのばれます。

港町という土地柄、海と川の安全を願う信仰は人々の暮らしに深く根づいていたと考えられます。出土した宗教関連の遺物は、商業の活気の裏側にあった、人々の素朴な祈りの心を今に伝えています。

中世の人々の信仰は、寺社へのお参りだけにとどまるものではありませんでした。暮らしのなかのさまざまな場面に、祈りや願いが結びついていたのです。商売がうまくいくように、家族が健やかであるように、そして川や海が荒れないように——草戸千軒に生きた人々もまた、日々の暮らしのなかで折に触れて手を合わせていたことでしょう。出土品が伝えるのは、そうした目に見えない心のありようの痕跡でもあります。

子どもたちと遊び・娯楽の痕跡

草戸千軒町遺跡の出土品が私たちの心を打つのは、そこに大人たちの仕事だけでなく、子どもたちの遊びや人々の娯楽の痕跡までもが残っているからです。中世というと武士の戦いや厳しい暮らしばかりが思い浮かびがちですが、遺跡からはもっと身近で人間味あふれる暮らしが見えてきます。

遊びの道具に見る庶民の日常

出土品のなかには、人々が娯楽に用いたとみられる道具も含まれています。盤上遊戯に関わる遺物などは、仕事の合間や夕餉のあとに、人々が遊びに興じていたことをうかがわせます。木製品が良好に残るという遺跡の特性ゆえに、こうした失われやすい生活の一面までもが土のなかに保存されていたのです。

大人だけでなく、子どもの存在を感じさせる小さな品々も出土しています。人形のような形をした品や、子どもの手遊びに使われたとみられるものは、町に家族が暮らし、世代を超えて生活が営まれていたことを物語ります。港町の賑わいのなかに、子どもたちの笑い声が響いていた情景が想像されます。

「生活の場」としての草戸千軒

こうした遊びや娯楽の痕跡は、草戸千軒が単なる物流拠点ではなく、人々が生まれ、育ち、老いていく「生活の場」であったことを教えてくれます。商人や職人が働き、子どもが遊び、僧侶が祈り、漁師が船を出す——多様な人々の営みが折り重なった、ひとつの完結した中世都市の姿が、出土品の一つひとつから立ち上がってくるのです。

名もなき人々の暮らしを、これほど具体的に復元できる遺跡は全国的にも稀です。だからこそ草戸千軒町遺跡は「わが国を代表する中世の集落跡」と評価され、後述するように多数の出土品が国の重要文化財に指定されています。

私たちは歴史を学ぶとき、つい大きな出来事や有名な人物に目を向けがちです。しかし、歴史を本当につくってきたのは、記録に名を残さなかった無数の人々の日々の営みでした。草戸千軒町遺跡は、そうした「ふつうの人々の歴史」に光を当ててくれます。土のなかから出てきた一つひとつの品は、かつてそこで生き、働き、笑い、祈った人々がいたことの、確かな証なのです。中世の港町に生きた人々の暮らしを知ることは、現代を生きる私たち自身の足もとを見つめ直すことにもつながるでしょう。

町とともに栄えた明王院

福山城
福山城(画像:Wikimedia Commons / CC)

草戸千軒町を語るうえで欠かせないのが、町のすぐそばに位置する明王院(みょうおういん)です。芦田川の中州に広がった町と、その近くにそびえる古刹とは、密接な関わりをもって栄えました。草戸千軒・明王院エリアのガイドもあわせて参照すると、両者の位置関係がよく分かります。

国宝の本堂と五重塔

明王院は、現在の福山市草戸町にある真言宗の寺院です。寺伝によれば大同二年(八〇七)に空海によって開かれたと伝わりますが、これはあくまで寺伝であり、史実として確定しているわけではありません。確かなのは、現在国宝に指定されている本堂と五重塔という二棟の優れた中世建築が、この寺に伝えられていることです。

本堂は元応三年(一三二一)の建立、五重塔は貞和四年(一三四八)の建立と伝えられています。本堂は昭和三十九年(一九六四)に、五重塔は昭和二十八年(一九五三)に、それぞれ国宝に指定されました。鎌倉時代末から南北朝時代にかけて建てられたこれらの建築が、同じ境内に揃って残っていることは全国的にも貴重で、明王院は福山を代表する歴史的名刹となっています。

五重塔と「一文勧進」

明王院の五重塔は、貞和四年(一三四八)に、多くの人々が一文ずつの浄財を出し合う「一文勧進」によって建立されたと伝えられています。一文という小さな銭を多くの人が積み重ねて塔を建てたという伝承は、この地に経済力と信仰心をもった人々が数多く暮らしていたことを示唆しています。

港町・市場町として栄えた草戸千軒の繁栄と、こうした大規模な造営とは無関係ではないと考えられています。町の経済的な活力が、近隣の寺院の造営を支える背景となった可能性が指摘されており、町と寺とが互いに支え合いながら栄えた様子がうかがえます。

門前町としての側面

草戸千軒町は、海運の港町・物資の市場町であると同時に、明王院などの寺社の門前町としての性格も併せもっていたと考えられています。参詣に訪れる人々の往来は、町の賑わいをいっそう高めたことでしょう。信仰の中心と商業の中心とが隣り合って存在した点に、草戸千軒という町の複合的な魅力があります。

現在、草戸千軒の町並みそのものは芦田川の流路の下に眠っていますが、明王院は今も訪ねることができ、当時の文化の高さを国宝建築を通じて体感できます。町は失われても、町とともにあった寺は生き続けているのです。

広島県立歴史博物館でよみがえる町

地上から姿を消した草戸千軒の町を、今もっとも具体的に体感できる場所が、福山城公園の文化ゾーンに建つ広島県立歴史博物館(ふくやま草戸千軒ミュージアム)です。この博物館は、草戸千軒町遺跡の出土品を核として、瀬戸内地方の歴史と文化を紹介しています。

実物大の復元展示

広島県立歴史博物館は、平成元年(一九八九)十一月三日に開館しました。最大の見どころは、発掘調査の成果にもとづいて草戸千軒の町の一角を実物大で復元した展示室です。水路や道、建ち並ぶ家々のなかを実際に歩くことで、来館者は中世の港町の空気を体感できます。出土品をガラス越しに眺めるだけでなく、町そのものの空間に身を置けるのが、この博物館ならではの魅力です。

復元展示は、これまでの長い発掘調査と研究の蓄積があってはじめて可能になったものです。家の構造、道の幅、水路の配置といった細部にいたるまで、出土した遺構や遺物に裏づけられた復元がなされており、単なるイメージ模型ではない確かさがあります。

展示室に足を踏み入れると、来館者はまるで中世の港町にタイムスリップしたかのような感覚を味わえます。狭い路地を抜け、軒を連ねる家々をのぞき込み、水路のほとりに立つ——そうして町のなかを歩くことで、文字や写真だけでは伝わらない「町の空気」が体で感じられます。中世の人々がどんな空間で暮らしていたのかを、五感を通じて理解できる点に、復元展示の大きな意義があります。出土品を見る前にこの空間を体験しておくと、一つひとつの道具がどんな場所で使われていたのかが具体的に想像できるようになります。

重要文化財に指定された出土品

草戸千軒町遺跡から出土した数十万点の遺物のうち、二千九百三十点(二九三〇点)が、平成十六年(二〇〇四)に国の重要文化財に指定されました。陶磁器、木製品、漆器、木簡、金属製品など、中世の暮らしを多面的に物語る品々がまとまって指定されたもので、遺跡の学術的価値の高さを示しています。

これらの重要文化財をはじめとする出土品の数々は、広島県立歴史博物館で見ることができます。木簡に記された文字、すり減った下駄、欠けた茶碗——一つひとつの品が、かつてそれを使った誰かの暮らしの記憶をとどめています。展示室をめぐることは、中世に生きた人々と静かに対話する時間でもあります。

芦田川と草戸千軒——川がつくり、川が消した町

草戸千軒という町を理解するうえで、芦田川という川の存在は決定的に重要です。この町は芦田川によって生まれ、芦田川とともに栄え、そして芦田川によって地中に封じ込められました。川との関わりを抜きにして、草戸千軒の物語を語ることはできません。

中州という立地が意味するもの

草戸千軒町は、芦田川河口部の中州に営まれていました。中州とは川の流れのなかにできた砂や土の堆積地のことです。一見すると不安定な土地に思えますが、河口の中州は海運と内陸水運の接点として物流上きわめて有利でした。海を渡ってきた大きな船と、川を遡上する小さな船とのあいだで荷を積み替える場所として、こうした立地は理にかなっていたのです。

同時に、この立地は遺跡の保存という思わぬ恩恵をもたらしました。地下水位が高い中州の土壌は、出土品を空気から遮断し、有機質の遺物を腐敗から守りました。皮肉なことに、町を消し去った川の水が、町の記憶を後世に伝える保存液の役割を果たしたのです。便利さと危うさが背中合わせの立地こそ、草戸千軒という町の運命を象徴しています。

河川改修と発掘調査

草戸千軒町遺跡の発掘調査は、芦田川の河川改修事業と深く関わりながら進められました。河川の付け替えや護岸の整備にともなって調査の機会が生まれ、長い年月をかけて町の全容が少しずつ明らかになっていきました。昭和三十六年(一九六一)の最初の調査から、その後三十年以上にわたって断続的に発掘が続けられたのは、こうした事情も背景にありました。

つまり、近代の治水事業という現代的な営みが、はからずも中世の町を地中からよみがえらせるきっかけとなったのです。川を治めようとする人間の営みのなかで、かつて川とともに生きた人々の痕跡が再発見された——草戸千軒の発見そのものが、川と人との長い関わりの物語の一部だといえるでしょう。

中世都市・草戸千軒の学術的意義

草戸千軒町遺跡は、単に「珍しい遺跡」というだけでなく、日本の中世史研究に大きな転換をもたらした遺跡として知られています。この章では、なぜこの遺跡がそれほど重要視されるのか、その学術的な意義を整理しておきましょう。

文献史学を補う考古学の力

従来、中世の歴史は主に文献史料、すなわち古文書や記録をもとに研究されてきました。しかし、文献に記されるのは政治の動きや有力者の事績が中心で、庶民の暮らしの細部はほとんど分かりませんでした。草戸千軒町遺跡は、この空白を考古学の手法で埋める格好の対象となりました。土のなかから出てきた道具や食べ残しは、文献には決して書かれなかった「生活の事実」を直接語ってくれるからです。

たとえば、どんな器で食事をしたのか、どこから運ばれた焼き物を使っていたのか、どんな仕事道具があったのか——こうした問いに対して、出土品は具体的な答えを与えてくれます。草戸千軒の調査成果は、文献史学と考古学を結びつけ、中世の地方都市像を立体的に描き出す研究の進展に大きく寄与しました。

「都市的な場」としての評価

草戸千軒は、農村でも純然たる城下町でもない、商業と手工業、信仰が複合した「都市的な場」として注目されています。中世の日本には、こうした港町・市場町・門前町が各地に生まれていましたが、その実態が遺跡として良好に残り、かつ大規模に調査された例は多くありません。草戸千軒は、中世における地方都市の成立と発展を考えるうえでの代表的な事例とされています。

多様な出自・職業の人々が一か所に集まり、物と銭と情報が行き交う——そうした中世都市のダイナミズムを、草戸千軒は出土品を通じて私たちに見せてくれます。この遺跡が「わが国を代表する中世の集落跡」と評されるのは、そうした学術的な意義の大きさゆえなのです。

草戸千軒町遺跡の調査と研究は、今なお続けられています。膨大な出土品の整理・分析が進むにつれて、中世の暮らしについて新たに分かることもあります。一つの遺跡から、これほど多くのことを学び続けられるのは、それだけこの町が豊かな情報を地中に残してくれたからにほかなりません。福山という土地が、日本の中世史研究にとってかけがえのない財産を抱えていることを、草戸千軒町遺跡は教えてくれます。そしてその財産は、博物館を訪れる一人ひとりに、中世という時代を身近に感じさせてくれるのです。

出土品をもっと深く知る——暮らしのディテール

ここまで概観してきた出土品の世界を、もう少し細かく見ていきましょう。中世の港町に生きた人々の暮らしは、小さな品々のなかにこそ生き生きと刻まれています。

足もとの履物——下駄が語ること

草戸千軒からは、木製の下駄が良好な状態で出土しています。下駄は本来、土に還りやすく遺跡には残りにくい品ですが、地下水に守られた草戸千軒では当時の形のまま見つかっています。すり減った歯や使い込まれた跡は、この履物が実際に人々の足もとで毎日使われていたことを物語ります。中世の港町の道を、下駄を鳴らして行き交う人々の姿が目に浮かぶようです。

履物という日用品が残ることの意味は小さくありません。それは、この町が確かに人々の生活の場であったこと、そして木の文化に支えられた中世の暮らしのあり方を、もっとも身近なかたちで伝えてくれるからです。

曲物と木の器——木工技術の高さ

草戸千軒の出土品のなかには、薄い木の板を曲げて作った曲物(まげもの)の容器も含まれています。曲物は、軽くて丈夫な容器として中世の暮らしに欠かせないものでした。これらが残っていることは、当時の高い木工技術を伝えるとともに、木の素材を巧みに活かした生活文化のありようを示しています。

木の器や曲物、漆器といった木製の生活用品が数多く出土している点は、草戸千軒町遺跡の大きな特徴です。陶磁器のような焼き物だけでなく、木と漆を中心とした「やわらかな素材」の道具まで揃って残ることで、中世の暮らしの全体像がより豊かに復元できるのです。

銭と交易——経済活動の痕跡

港町・市場町であった草戸千軒では、貨幣を用いた経済活動が活発に行われていたと考えられます。中世の日本では中国から輸入された銭が広く流通しており、市場での売買や寺院への寄進などに使われていました。明王院五重塔の「一文勧進」の伝承も、こうした貨幣経済の浸透を背景にしています。

遠隔地からもたらされた陶磁器の数々もまた、交易によって富がこの町に集まっていたことの証です。瀬戸内海という海の道を通じて、人と物と銭が草戸千軒に集まり、そして散っていきました。出土品の一つひとつが、中世の経済ネットワークのなかでこの町が果たした役割を、静かに物語っているのです。

このように、草戸千軒の出土品は、食・仕事・信仰・遊び・経済というあらゆる側面から、中世の港町に生きた人々の暮らしを浮かび上がらせます。それぞれの品は単独では小さな断片にすぎませんが、数十万点が集まることで、ひとつの町の生活史という大きな絵が描き出されるのです。土のなかに眠っていた無数の声が、博物館という場を通じて、今を生きる私たちに語りかけてきます。

草戸千軒・福山史 関連年表

草戸千軒町とその周辺の歴史を、おもな出来事とともに年表で整理します。年代や経緯には諸説ある事項を含むため、おおまかな流れをつかむための目安としてご覧ください。

年代(西暦) おもな出来事
大同2年(807) 寺伝で明王院(常福寺)が空海により開かれたと伝わる(伝承)
鎌倉〜室町時代 芦田川河口の中州に草戸千軒町が成立し、港町・市場町として繁栄
元応3年(1321) 明王院本堂が建立されたと伝わる(のちに国宝)
貞和4年(1348) 明王院五重塔が一文勧進によって建立されたと伝わる(のちに国宝)
寛文13年(1673) 『備陽六郡志』が伝える大洪水。草戸千軒の町屋が押し流されたとされる(伝承)
昭和初期 芦田川の川底から墓石・陶磁器・古銭などが見つかり、町の存在が意識される
昭和36年(1961) 最初の本格的な発掘調査が行われ、遺跡の存在が確認される
昭和40年(1965) 調査で中世の町並みが地下に埋もれていることが判明
昭和28年(1953) 明王院五重塔が国宝に指定される
昭和39年(1964) 明王院本堂が国宝に指定される
平成元年(1989) 広島県立歴史博物館(ふくやま草戸千軒ミュージアム)が開館
平成16年(2004) 草戸千軒町遺跡の出土品2,930点が国の重要文化財に指定される

年表からも分かるように、町が栄えた中世から、その存在が「発見」された昭和、そして博物館で復元された現代へと、草戸千軒をめぐる物語は長い時間をかけて紡がれてきました。次の章では、この歴史を実際にたどる楽しみ方をご紹介します。

瀬戸内海の港町ネットワークと草戸千軒

草戸千軒を一つの町としてだけ見るのではなく、瀬戸内海という大きな舞台のなかに置いてみると、その姿はいっそう鮮明になります。中世の瀬戸内海は、無数の港町が結びついた巨大な物流ネットワークの海でした。草戸千軒は、そのネットワークを構成する結節点のひとつだったのです。

海の道がつないだ町々

瀬戸内海は、波が比較的おだやかで、古くから西日本の交通の大動脈として機能してきました。沿岸や島々には潮の流れを待つための港が点在し、船はそれらを伝いながら東西を行き来しました。年貢として集められた米や塩、各地の特産品、そして大陸からの輸入品が、こうした港町を経由して流通していったのです。

草戸千軒は、芦田川河口という備後地方の玄関口に位置することで、内陸から集まる物資を海運に乗せ、また海から運ばれた品を内陸へと送り出す役割を担っていたと考えられます。出土した各地・各国の陶磁器は、この町が広域の海の道に確かにつながっていたことの動かぬ証拠です。一地方の町でありながら、草戸千軒は瀬戸内海全体の流通システムのなかで息づいていました。

鞆の浦との対比から見えるもの

同じ福山市内の瀬戸内海沿岸には、潮待ちの港として栄えた鞆の浦があります。鞆の浦は近世以降も港町として発展を続け、今も歴史的な街並みを残しています。一方の草戸千軒は中世のうちに姿を消し、地中に眠ることとなりました。栄えた時代も、たどった運命も異なる二つの港町を比べることで、瀬戸内海の港町文化が時代とともにどう移り変わっていったのかが見えてきます。

鞆の浦には福禅寺 対潮楼太田家住宅いろは丸展示館といった近世以降の歴史を伝えるスポットが点在しています。中世の草戸千軒と近世の鞆の浦をあわせて訪ねれば、瀬戸内海の港町が歩んだ長い歴史を、二つの異なる角度から体感できるでしょう。

草戸千軒の歴史をたどるモデルコース

草戸千軒町そのものは芦田川の流路の下に眠っていますが、ゆかりの地をめぐることで、中世の港町の物語を立体的に体感できます。ここでは、福山駅周辺を起点とした半日〜一日のモデルコースをご紹介します。

午前:博物館で町をよみがえらせる

まずは福山城公園の文化ゾーンにある広島県立歴史博物館(ふくやま草戸千軒ミュージアム)を訪ねましょう。実物大の復元展示で中世の町を歩き、重要文化財の出土品をじっくり鑑賞すれば、このあと訪ねる現地の風景の見え方が大きく変わります。出土品が語る人々の暮らしを頭に入れてから外へ出るのがおすすめです。同じ福山城公園には福山城もあり、近世福山の歴史とあわせて楽しめます。

午後:明王院と芦田川のほとりへ

午後は、草戸千軒町とともに栄えた明王院へ。国宝の本堂と五重塔を仰ぎながら、町の人々が祈りを捧げた時代に思いを馳せてみてください。芦田川のほとりに立てば、かつてこの川底に千軒の町が広がっていたという事実が、いっそう実感をもって迫ってきます。地上には町並みこそ残っていませんが、川と寺と空気のなかに、確かに中世の記憶が息づいています。

足を延ばして鞆の浦へ

時間に余裕があれば、瀬戸内海交易のもうひとつの舞台である鞆の浦まで足を延ばすのもよいでしょう。草戸千軒と同じく瀬戸内海の海運で栄えた港町で、今も歴史的な街並みが残っています。鞆の浦の街並みガイドを参考に、潮待ちの港の風情を味わってみてください。瀬戸内の港町文化を、草戸千軒と鞆の浦という二つの視点から比べてみると、中世から近世への港町の変遷が見えてきます。

よくある質問(FAQ)

Q草戸千軒町遺跡はどこにありますか?
A

広島県福山市の市街地西部を流れる芦田川の河口付近、その川底の中州にあたる場所にあります。遺跡そのものは現在芦田川の流路の下に眠っており、地上で町並みを見ることはできません。出土品は広島県立歴史博物館(ふくやま草戸千軒ミュージアム)で見学できます。

Q草戸千軒はいつ頃栄えた町ですか?
A

鎌倉時代から室町時代にかけて、およそ三百年間にわたって栄えたと考えられています。瀬戸内海の芦田川河口に位置する港町・市場町でした。

Qなぜ「千軒」と呼ばれるのですか?
A

千軒もの家が建ち並ぶほど繁栄した町であったことに由来するとされます。江戸時代の地誌『備陽六郡志』に「草戸千軒」の名で記されています。実際の家数を厳密に示すものではなく、繁栄ぶりを表す呼称と考えられます。

Q草戸千軒は本当に洪水で滅びたのですか?
A

『備陽六郡志』には、寛文十三年(一六七三)の洪水で町が押し流されたと伝えられています。ただし、町の盛衰には長い時間幅があったと考えられており、単一の洪水で一気に滅亡したかどうかには諸説あります。あくまで伝承として受けとめるのが適切です。

Q遺跡はいつ発見されたのですか?
A

昭和初期に川底から墓石や陶磁器、古銭などが見つかったことで存在が意識され、昭和三十六年(一九六一)の発掘調査で本格的に確認されました。昭和四十年(一九六五)の調査で、地下に中世の町並みが埋もれていることが判明しています。

Qなぜ木製品など腐りやすいものが残っていたのですか?
A

遺跡が芦田川の中州という地下水の豊富な場所に立地していたためです。土のなかが水に浸かり空気に触れにくい環境だったため、ふつうは腐ってしまう木簡や下駄、漆器などの有機質の遺物が良好に残りました。

Qどんな出土品がありますか?
A

土師器・須恵器などの土器、瀬戸・美濃・唐津などの国産陶器、中国・朝鮮産の青磁・白磁などの輸入陶磁器、木簡、下駄、曲物、漆器、金属製品など、数十万点に及ぶ多彩な遺物が出土しています。

Q木簡からは何が分かりますか?
A

室町期を中心とする大量の木簡には、物の名前や数量、人名とみられる文字などが墨で記されています。文字資料に乏しい中世の地方都市にあって、人々が実際に書き記した文字を知ることができる貴重な資料です。なお個々の記載内容の解釈には研究上の議論もあります。

Q草戸千軒と明王院はどんな関係ですか?
A

明王院は草戸千軒町のすぐそばにある古刹で、町とともに栄えたと考えられています。国宝の本堂(元応三年=一三二一建立と伝わる)と五重塔(貞和四年=一三四八建立と伝わる)が残り、草戸千軒は門前町としての性格も併せもっていたとみられます。

Q出土品は重要文化財に指定されていますか?
A

はい。出土品のうち二千九百三十点(二九三〇点)が、平成十六年(二〇〇四)に国の重要文化財に指定されています。

Q復元された町並みはどこで見られますか?
A

広島県立歴史博物館(ふくやま草戸千軒ミュージアム)の展示室で、草戸千軒の町の一角が実物大で復元されています。水路や道、家々のなかを実際に歩いて、中世の港町を体感できます。同館は平成元年(一九八九)に開館しました。

Q草戸千軒とあわせて訪ねるとよい場所はありますか?
A

同じ福山城公園にある福山城や、瀬戸内海交易で栄えたもうひとつの港町である鞆の浦がおすすめです。中世から近世への港町文化の移り変わりを感じられます。

まとめ:土のなかからよみがえる中世の暮らし

草戸千軒町遺跡は、芦田川の川底に眠っていた中世の港町です。鎌倉時代から室町時代にかけておよそ三百年間にわたって栄え、『備陽六郡志』が伝える洪水伝承とともに「幻の町」として語り継がれてきました。昭和三十六年(一九六一)に始まる発掘調査によってその姿がよみがえり、数十万点の出土品が、文献には残らなかった名もなき人々の暮らしを今に伝えています。

陶磁器や木簡、漆器、下駄、遊びの道具——出土品の一つひとつは、商人や職人、僧侶、子どもたちが芦田川のほとりで確かに生きていたことの証です。町とともに栄えた明王院の国宝建築が今も残り、広島県立歴史博物館では実物大に復元された町並みのなかを歩くことができます。地上から消えた町は、博物館のなかで、そして出土品のなかで、今もよみがえり続けているのです。

芦田川の流れは今も変わらず瀬戸内海へと注いでいます。その川底に、かつて千軒の町があったことを知って川辺に立てば、見慣れた風景もまったく違って見えてくるはずです。歴史を学ぶ醍醐味は、まさにこうした「見えないものが見えてくる」瞬間にあります。草戸千軒という幻の町は、私たちの想像力のなかで、何度でもよみがえるのです。

福山を訪れる際は、ぜひ広島県立歴史博物館と明王院を訪ね、中世の港町に生きた人々の息づかいを感じてみてください。福山の歴史全体の流れを知りたい方は、福山の歴史まるわかり通史ガイドもあわせてご覧ください。

出典・ご注意

本記事は、広島県立歴史博物館(ふくやま草戸千軒ミュージアム)・広島県教育委員会の公開情報、福山市の公開情報、ならびに百科事典等の公的・信頼できる情報源を参照して作成しています。年号・人物・出来事はこれらの資料で確認できた範囲で記述しました。

※年代・経緯には諸説ある事項を含みます。詳細は各施設の公式情報や郷土資料でご確認ください。

最終更新: 2026年6月10日

史跡情報は福山NOTE 史跡図鑑(fn_history)より。