メインコンテンツへスキップ
🏯 歴史

福山の蒲鉾・練り物の歴史|瀬戸内の魚が生んだ加工食

この記事をシェア
福山の蒲鉾・練り物の歴史|瀬戸内の魚が生んだ加工食

広島県福山市の食卓を語るとき、瀬戸内海の魚をすり身にして焼き上げ、あるいは蒸し上げた「練り物」を抜きにすることはできません。鞆の浦に響く樽太鼓の音とともに鯛網がにぎわい、浜にはちくわを焼く香ばしい煙が立ちのぼる——そんな光景は、瀬戸内の豊かな漁場と、そこに暮らす人びとの知恵が長い時間をかけて結びついた結果でした。本記事では、福山・鞆の浦を中心とした蒲鉾・ちくわなどの練り物加工の歴史を、蒲鉾そのものの起源にまでさかのぼり、瀬戸内の魚食文化と地場産業の歩みとして丁寧にたどります。年代や経緯には諸説ある事項を含みますので、確かなところと「とされる」ところを区別しながら読み進めていただければ幸いです。

練り物は、一見すると素朴な加工食品です。しかしその背後には、新鮮な魚をいかに無駄なく、いかにおいしく、いかに長く保たせるかという、海辺の町ならではの切実な工夫が積み重なっています。福山の練り物文化は、瀬戸内という日本でも有数の好漁場と、古くから海上交通の要衝として栄えた鞆の浦の歴史的背景があってこそ育まれたものでした。本記事を通じて、一本のちくわ、一枚の蒲鉾の向こうに広がる瀬戸内の物語を感じ取っていただければと思います。

ゆかりの史跡・図鑑

福山・鞆の浦の練り物文化を育んだ港町や漁場、加工の現場にゆかりのある史跡や名所を、福山NOTEの史跡図鑑からご紹介します。一覧・比較・詳細の三つの切り口でお楽しみください。

福山城 伏見櫓 📖江戸時代(元和年間)📍 福山駅前(福山市街)福山城 📖近世(江戸)📍 丸之内福山城博物館 📖近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)📍 福山駅前(福山市街)草戸千軒町遺跡 📖中世📍 草戸町明王院 📖中世📍 草戸町鞆の津の町並み(重伝建) 📖江戸時代(中世〜近代の建造物群)📍 鞆町鞆の浦の常夜燈と港湾施設 📖江戸時代📍 鞆町福山市鞆の浦歴史民俗資料館 📖近代(昭和)📍 鞆町鞆の浦 📖中世〜近世📍 鞆町福禅寺 対潮楼 📖近世📍 鞆町太田家住宅 📖江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)📍 鞆町いろは丸展示館 📖近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)📍 鞆町仙酔島古代(地質)/近代(指定)📍 鞆町廉塾(菅茶山旧宅) 📖近世📍 神辺町神辺城跡 📖中世📍 神辺町福山八幡宮 📖近世📍 北吉津町沼名前神社 📖近世📍 鞆町阿伏兎観音(磐台寺観音堂)近世📍 沼隈町吉備津神社(備後一宮)江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる📍 新市町素盞嗚神社(備後一宮) 📖飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮📍 新市町
史跡時代概要📍 エリア詳細
福山城 伏見櫓江戸時代(元和年間)伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最…📍 福山駅前(福山市街)下へ ↓
福山城近世(江戸)備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御…📍 丸之内下へ ↓
福山城博物館近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩…📍 福山駅前(福山市街)下へ ↓
草戸千軒町遺跡中世芦田川の中州にあった中世の港町・集落遺跡。発…📍 草戸町下へ ↓
明王院中世本堂と五重塔がともに国宝。中世密教寺院で、五…📍 草戸町下へ ↓
鞆の津の町並み(重伝建)江戸時代(中世〜近代の建造物群)潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と…📍 鞆町下へ ↓
鞆の浦の常夜燈と港湾施設江戸時代江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯…📍 鞆町下へ ↓
福山市鞆の浦歴史民俗資料館近代(昭和)鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬…📍 鞆町下へ ↓
鞆の浦中世〜近世瀬戸内の「潮待ちの港」。常夜燈・雁木・波止場…📍 鞆町下へ ↓
福禅寺 対潮楼近世朝鮮通信使の使節が「日東第一形勝」と讃えた客…📍 鞆町下へ ↓
太田家住宅江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で…📍 鞆町下へ ↓
いろは丸展示館近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵…📍 鞆町下へ ↓
仙酔島古代(地質)/近代(指定)鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連…📍 鞆町下へ ↓
廉塾(菅茶山旧宅)近世儒学者・菅茶山が開いた私塾。当時の塾舎・住宅…📍 神辺町下へ ↓
神辺城跡中世備後南部の中世山城。福山城が築かれる以前、備…📍 神辺町下へ ↓
福山八幡宮近世福山城の北に鎮座し、東西二つの宮を備える。歴…📍 北吉津町下へ ↓
沼名前神社近世鞆の「祇園さん」。夏の大松明を担ぐ「お手火神…📍 鞆町下へ ↓
阿伏兎観音(磐台寺観音堂)近世断崖の上に建つ朱塗りの観音堂。国の重要文化財…📍 沼隈町下へ ↓
吉備津神社(備後一宮)江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で…📍 新市町下へ ↓
素盞嗚神社(備後一宮)飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏の…📍 新市町下へ ↓
🏯

福山城 伏見櫓

江戸時代(元和年間) / 📍福山駅前(福山市街)

伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最古級の三層入母屋造の現存櫓。 福山城伏見櫓は、元和8年(1622年)の福山城築城に際し、城主水野勝成が将軍徳川秀忠から下賜を受け、京都の伏見城から移築させたと伝えられる櫓である。長らく伝承とされていたが、昭和29年(1954年)の解体修理の際、梁の陰刻に「松ノ丸ノ東やく(ら)」の文字が発見され、伏見城からの移築を裏付ける確かな遺構であることが明らかになった。構造は三層入母屋造で、初層と二層を同じ柱割とし、その上にやや小さい三層を望楼状に載せる。桁行八間・梁間三間、本瓦葺の規模をもつ。慶長期の城郭建築の様式を残す初期の典型として価値が高く、昭和8年(1933年)1月23日に国の重要文化財に指定された。福山城内に現存し、特別公開が行われることもある。

🕰 時代江戸時代(元和年間)
🏛 成立・築造元和8年(1622年)水野勝成の福山城築城時に伏見城から移築。国指定重要文化財(昭和8年=1933年1月23日指定)
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目(福山城内)
🏯

福山城

近世(江戸) / 📍丸之内

備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御門は京都伏見城からの移築と伝わる。2022年に築城400年を迎えた。

🕰 時代近世(江戸)
🏛 成立・築造1622年(元和8)・水野勝成
👤 関連水野勝成・阿部正弘
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目8
🏯

福山城博物館

近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期) / 📍福山駅前(福山市街)

水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩の歴史を体験型展示で伝える博物館 福山城博物館は、JR福山駅のすぐ北に建つ福山城天守内に置かれた市立の歴史資料館です。福山城は1622年(元和8年)、徳川譜代の大名・水野勝成が西国鎮衛の拠点として築いた近世城郭で、天守は1931年に国宝に指定されました。しかし1945年8月の福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリート造で外観が復興され、その内部が博物館として公開されました。2022年には築城400年に合わせて大規模リニューアルされ、北面の鉄板張り(黒い装い)の再現や、一番槍レース・火縄銃などの体験型コンテンツ、デジタル映像を用いた展示が整えられ、福山城と福山藩の歴史を学べる施設となっています。城内に現存する伏見櫓と筋鉄御門は、京都・伏見城からの移築と伝えられ、国の重要文化財に指定されています。常設展は有料、月曜休館とされます。

🕰 時代近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)
🏛 成立・築造福山城は1622年(元和8年)に初代福山藩主・水野勝成が築城。天守は1945年福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリートで外観復興、内部を博物館として開館。2022年に大規模リニューアル
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目8番
🏯

鞆の津の町並み(重伝建)

江戸時代(中世〜近代の建造物群) / 📍鞆の浦

潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と町家が一体で残る重伝建地区 鞆の浦は瀬戸内海の中央に位置し、古来「潮待ちの港」として栄え、万葉集にも詠まれた歴史を持つとされる。江戸時代には北前船など廻船の寄港地として繁栄し、朝鮮通信使の寄港地ともなった。2017年(平成29年)11月28日、「福山市鞆町伝統的建造物群保存地区」として約8.6ヘクタールが国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。範囲は鞆字西町の全域を中心に、石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地の一部に及ぶ。中世から江戸期に整えられた地割の上に、江戸時代から昭和30年代までの町家や寺社、石垣などが一体的に残る近世港町の景観が評価された。常夜燈・雁木・波止・焚場・船番所の5つの港湾施設がほぼ完全に残る点は全国でも稀とされる。広島県内では3例目の選定で、2018年には日本遺産にも認定された。

🕰 時代江戸時代(中世〜近代の建造物群)
🏛 成立・築造2017年(平成29年)11月28日に国の重要伝統的建造物群保存地区へ選定。地割は中世〜江戸期、建造物は江戸時代〜昭和30年代まで。
📍 所在地広島県福山市鞆町(鞆字西町全域ほか、字石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地字古城跡・草谷の各一部)
🏯

鞆の浦の常夜燈と港湾施設

江戸時代 / 📍鞆の浦

江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯一の近世港、鞆港。 鞆の浦の鞆港には、常夜燈・雁木・波止・焚場(たでば)・船番所という江戸時代の港湾施設5点がほぼ揃って現存し、これらが一体で残るのは全国でも鞆港のみとされる。シンボルの常夜燈は安政6年(1859)の刻銘をもつ石造灯台で、海中の基礎石から宝珠の頂までは約12.1mに及び、江戸期の石造常夜燈としては国内最大級とされる。雁木は潮の干満に応じて船を着けられる階段状の船着き場で、半円形の港内に連続して巡らされている。波止は花崗岩を積んだ全長約146mの防波堤で、江戸後期に築かれ明治期に修築された。鞆港を含む沿岸と沖の島々一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定され、鞆町西町を中心とする区域は2017年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。日本遺産「瀬戸の夕凪が包む 国内随一の近世港町」の構成要素でもある。

🕰 時代江戸時代
🏛 成立・築造常夜燈は安政6年(1859)造立とされる。雁木・波止・焚場・船番所は江戸後期築造、波止は明治期に修築。鞆港一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定。
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆
🏯

福山市鞆の浦歴史民俗資料館

近代(昭和) / 📍鞆の浦

鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬戸内の歴史・民俗を伝える市立資料館 福山市鞆の浦歴史民俗資料館は、広島県福山市鞆町後地に建つ市立の博物館で、「潮待ちの館」の愛称で親しまれる。1977年(昭和52年)からの地元有志による調査・収集活動を背景に、福山市制70周年記念事業として1988年(昭和63年)に開館した。立地は、福島正則が築いたとされる鞆城跡(福山市指定史跡)の高台で、瀬戸内海を見渡せる。万葉の時代から潮待ち・風待ちの港として栄えた鞆の浦を中心に、古代から近世にいたる歴史資料を展示。鯛網漁のジオラマや錨を製造した鍛冶場、朝鮮通信使関連資料、保命酒に関する資料に加え、お手火神事・お弓神事といった地域の民俗文化財も常設展示する。鞆の歴史と暮らしを総合的に学べる拠点とされる。

🕰 時代近代(昭和)
🏛 成立・築造1988年(昭和63年)開館。福山市制70周年記念事業として建設。建つ鞆城跡は福島正則が築いたとされる(福山市指定史跡)
📍 所在地広島県福山市鞆町後地536-1
🏯

太田家住宅

江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期) / 📍鞆の浦

鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で、国の重要文化財 鞆の浦を代表する歴史的建造物で、薬用酒「保命酒」の醸造で財を成した商家の旧宅。もとは大坂の漢方医を出自とする中村家の屋敷で、明暦元年(1655年)に鞆へ移り住み、まもなく十六味地黄保命酒の製造・販売を始めて大ヒットし、福山藩の御用名酒屋として販売独占権を得たとされる。明治期に廻船業を営んだ太田家が継承し、現在の名で呼ばれる。主屋を中心に保命酒蔵や各種土蔵など九棟が建ち並び、建築年代は18世紀中期から19世紀前期に及ぶ。瀬戸内の商家建築を伝える貴重な遺構として、1991年に国の重要文化財に指定された。幕末には三条実美ら尊王攘夷派の公卿が立ち寄ったと伝わり、別宅の朝宗亭とともに「鞆七卿落遺跡」として広島県の史跡(1940年指定)にもなっている。

🕰 時代江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)
🏛 成立・築造主屋は18世紀中期、ほか北保命酒蔵が天明8年(1788年)、西蔵が寛政元年(1789年)、東保命酒蔵が寛政7年(1795年)など18世紀中期〜19世紀前期。国の重要文化財指定は1991年(平成3年)5月31日。
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆842
🏯

いろは丸展示館

近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期) / 📍鞆の浦

坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵を活かした資料館 鞆の浦のシンボル常夜灯(とうろどう)のすぐそばに建つ資料館。1867年(慶応3年)、坂本龍馬と海援隊が運航したいろは丸が紀州藩の明光丸と備後灘で衝突・沈没した「いろは丸事件」を伝える施設で、その談判が鞆の浦で行われた縁にちなむ。建物は江戸期に建てられた太い梁が印象的な土蔵で、地元では「大蔵」と呼ばれ、国の登録有形文化財とされる。館内には海底に沈むいろは丸を再現したジオラマ、引き揚げられた陶器や部品、調査風景の写真などを展示し、2階には龍馬が宿泊先で身を潜めたという「隠れ部屋」が再現され、龍馬の蝋人形も置かれている。1989年(平成元年)7月の開館。幕末史と鞆の港町文化を同時に味わえるスポットである。

🕰 時代近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)
🏛 成立・築造1989年(平成元年)7月開館。建物は江戸期築の土蔵「大蔵(浜蔵)」で、国の登録有形文化財とされる。展示題材のいろは丸事件は1867年(慶応3年)
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆843-1
🏯

仙酔島

古代(地質)/近代(指定) / 📍鞆の浦

鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連なる瀬戸内海国立公園の名勝 仙酔島は鞆の浦の沖合に浮かぶ周囲約6キロの島で、住所は福山市鞆町後地。鞆港から市営渡船で約5分の距離にあり、観光客の往来はあるが定住者のいない無人島とされる。1925年(大正14年)に国の名勝「鞆公園」の一部として指定され、1934年(昭和9年)には日本で最初に指定された国立公園・瀬戸内海国立公園に含まれた。島は約9000万年前の大規模な火山活動による溶結凝灰岩を主体とし、南側海岸には青・赤・黄・白・黒の岩が200メートル以上連なる「五色岩」が見られ、地質的に貴重とされる。「仙人が酔うほど美しい島」が名の由来と言われる。江戸後期の学者・頼山陽が当地の景観を「山紫水明」と評したとも伝わる。

🕰 時代古代(地質)/近代(指定)
🏛 成立・築造1925年(大正14年)国名勝「鞆公園」に指定。1934年(昭和9年)日本初の国立公園・瀬戸内海国立公園に編入。島自体は約9000万年前の火山活動で形成されたとされる
📍 所在地広島県福山市鞆町後地
🏯

吉備津神社(備後一宮)

江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる / 📍新市・北部

備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で「いっきゅうさん」と親しまれる古社 福山市新市町宮内に鎮座する備後国一宮で、地元では「一宮さん(いっきゅうさん)」と親しまれる。社伝では大同元年(806年)に吉備国の吉備津神社から勧請し創建されたと伝わるが、延喜式神名帳に記載がないことなどから実際の成立はより後とする説もある。主祭神は吉備国を治めたとされる大吉備津彦命。現在の本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が旧規模にならい造営したもので、桁行七間・梁間四間の入母屋造檜皮葺、国の重要文化財に指定されている。ほかにも木造狛犬や太刀などが重要文化財として伝えられ、複数の建造物が広島県・福山市指定文化財となっている。隣接する櫻山城跡なども史跡として知られ、備後の信仰と歴史を今に伝える。

🕰 時代江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる
🏛 成立・築造本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が造営、国の重要文化財。創建は大同元年(806年)と伝わるが諸説ある
📍 所在地広島県福山市新市町宮内400
🏯

素盞嗚神社(備後一宮)

飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮 / 📍新市・北部

祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏のけんか神輿で名高い古社 福山市新市町戸手に鎮座する素盞嗚神社は、『延喜式神名帳』に載る式内社で備後国一宮を称し、旧社格は県社です。主祭神は素盞嗚尊で、稲田姫命・八王子を配祀します。社伝では天武天皇の治世、7世紀ごろ(679年か)の創建とされます。『釈日本紀』所収の「備後国風土記」逸文に伝わる蘇民将来説話の舞台「疫隈国社」と結びつけられ、茅の輪くぐりや祇園信仰・祇園祭発祥の地の一つとされています。神仏習合期には牛頭天王を祀り、遣唐使・吉備真備が734年に当社から播磨の広峯神社へ勧請したとも伝わります。毎年7月の例祭では、勇壮なけんか神輿(神輿合わせ)が行われることで知られます。

🕰 時代飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮
🏛 成立・築造社伝では天武天皇期の7世紀ごろ(679年か)創建とされる。『延喜式神名帳』記載の式内社で、旧県社
📍 所在地広島県福山市新市町大字戸手1-1

蒲鉾・練り物とは何か——その定義と種類

鞆の浦の港と町並み
鞆の浦の港と町並み(画像:Wikimedia Commons / CC)

はじめに、本記事で扱う「練り物」とは何かを整理しておきましょう。練り物とは、魚肉をすりつぶし、塩などを加えて練り合わせ、加熱して固めた食品の総称です。代表的なものに、板の上に成形して蒸したり焼いたりする蒲鉾(かまぼこ)、竹や金属の棒に巻きつけて焼いたちくわ、油で揚げたさつま揚げ(天ぷら・じゃこ天の類)、加熱方法や形によって名を変える数多くの製品があります。福山・鞆の浦では、これらのうち焼きちくわや揚げ物(天)が特に親しまれてきました。

練り物が成り立つ原理は、魚肉に含まれるたんぱく質の性質にあります。新鮮な魚肉に塩を加えてすりつぶすと、筋肉のたんぱく質がほぐれて粘りのある状態になり、これを加熱すると弾力のある固まりになります。この弾力——いわゆる「足(あし)」と呼ばれる歯ごたえ——こそが練り物の命であり、職人が最も気を配るところです。良い足を出すには、鮮度の高い魚と、適切な水洗い(水晒し)、そして塩加減やすりつぶしの技術が欠かせません。瀬戸内のように鮮魚が豊富に手に入る土地が練り物の産地として発展したのは、こうした理由によるところが大きいと考えられます。

練り物は、保存と運搬の面でも理にかなった食品でした。生の魚は傷みやすく、内陸へ運ぶのは難しいものですが、すり身にして加熱すれば日持ちがよくなり、形も整って扱いやすくなります。漁港でとれた魚を価値あるかたちに変え、より広い範囲へ届ける——練り物加工は、海辺の町にとって漁業と並ぶ大切な営みだったのです。福山の練り物の歴史は、まさにこの「魚を生かす知恵」の歴史でもあります。

蒲鉾・ちくわ・天——呼び名の違い

練り物の呼び名は地域や時代によって移り変わってきました。今日では、板の上に成形したものを「蒲鉾」、棒に巻いて焼いて棒を抜き、中が空洞になったものを「ちくわ」、油で揚げたものを「天ぷら」や「さつま揚げ」「じゃこ天」などと呼ぶのが一般的です。福山・鞆の浦では揚げ物を「天」と呼ぶ習慣が根強く、後述する「ねぶと天」のように地元の魚名を冠した呼び方も親しまれています。

もっとも、これらの呼び分けは古くから定まっていたわけではありません。後述するように、歴史をさかのぼると「蒲鉾」と「ちくわ」はもともと同じものを指していた時代があり、形状や製法の変化にともなって呼び名が分かれていったとされています。呼び名の変遷そのものが、練り物という食品が長い時間をかけて多様化してきたことを物語っています。

蒲鉾の起源——平安の宴に登場した最古の記録

福山の練り物を語る前に、蒲鉾という食品そのものの起源を確認しておきましょう。文献に残る蒲鉾の最も古い記録は、平安時代に関わるものとされています。故実書『類聚雑要抄(るいじゅうぞうようしょう)』には、関白・藤原忠実(ふじわらのただざね)が永久三年(1115年)に屋敷を移した際の祝宴の献立のひとつとして「蒲鉾」の語が見え、これが文献上最古の蒲鉾の記録と一般に言われています。なお、この年にちなんで、後世に十一月十五日が「かまぼこの日」とされたと伝えられます。

興味深いのは、この時代の「蒲鉾」が、現在私たちが思い浮かべる板に乗った半円形のものとは異なっていたとされる点です。古くは、すりつぶした魚肉を竹の棒に筒状に巻きつけて焼いたもので、その形が水辺に生える蒲(がま)の穂に似ていたことから「蒲鉾」と名づけられたと伝えられます。つまり、最初の蒲鉾は、形のうえでは今日のちくわに近いものだったということになります。蒲の穂を矛(ほこ)に見立てた名づけには、当時の人びとの自然への眼差しがうかがえます。

蒲鉾の語がさらにはっきりと文献に登場するのは室町時代になってからとされます。享禄元年(1528年)に著されたとされる『宗五大草紙(そうごおおぞうし)』には、蒲鉾に関する記述が見え、当時すでに武家の饗応の場などで珍重されていたことがうかがえます。なお原料の魚については、古くはナマズなどが用いられたとする記述も伝わりますが、地域や時代によって魚種は一様ではなかったと考えられます。いずれにせよ、蒲鉾は早い時期から「ハレの日のごちそう」として位置づけられていた食品だったのです。

板蒲鉾の登場と「ちくわ」の分化

棒に巻いた形から、板の上に成形する「板蒲鉾」へと変化していったのは、安土桃山時代から江戸時代にかけてのことと考えられています。板に乗せて蒸す、あるいは焼くことで、形が安定し、運搬や陳列もしやすくなりました。この板蒲鉾の登場によって、従来の棒に巻いたタイプと区別する必要が生じます。

このとき、棒に巻いて中が空洞になったものは、その切り口が竹の輪に似ていることから「竹輪(ちくわ)」と呼ばれるようになったと伝えられます。一説には、もともと両者を「竹輪蒲鉾」「板蒲鉾」と呼び分けていたものが、やがて前者は「蒲鉾」が略されて単に「ちくわ」となり、後者は「板」が略されて「蒲鉾」と呼ばれるようになった、とされます。古い時代に「蒲鉾」と呼ばれていたものが、現在の「ちくわ」にあたるという逆転が起きていたわけで、呼び名の歴史は意外に込み入っています。

福山・鞆の浦で焼きちくわが盛んに作られてきたことを思うと、この「棒に巻いて焼く」という最も古い形の系譜が、瀬戸内の地に色濃く受け継がれてきたとも言えるでしょう。もちろん、それぞれの土地で独自に発展した面も大きく、単純な一本道の歴史ではありませんが、ちくわという食品の古さと、それを焼き上げる技術の伝統は、福山の練り物文化を考えるうえで見逃せない背景です。

瀬戸内海という舞台——福山・鞆の浦の魚食文化

芦田川の河口部
芦田川の河口部(画像:Wikimedia Commons / CC)

福山の練り物が育った最大の背景は、なんといっても瀬戸内海という豊かな漁場です。瀬戸内海は、本州・四国・九州に囲まれた内海で、潮の干満による激しい潮流、複雑に入り組んだ海岸線と無数の島々、そして適度な水温が、多種多様な魚介類を育んできました。鯛をはじめ、小魚から底もの、回遊魚まで、季節ごとにさまざまな魚が水揚げされ、海辺の町の食卓を彩ってきたのです。

その瀬戸内のなかでも、鞆の浦は古くから特別な位置を占めてきました。鞆の浦は、潮の流れが東西から出会い、また分かれていく地点に当たり、帆船の時代には「潮待ちの港」として栄えました。瀬戸内を行き交う船は、ここで潮の流れが変わるのを待ち、その間に町には人と物資が集まりました。万葉の時代から知られた港であり、近世には朝鮮通信使の寄港地ともなった鞆の浦は、瀬戸内有数の海の要衝だったのです。こうした港町には、魚を扱い、加工し、商う技と文化が自然と蓄積されていきました。

港町にとって、とれた魚をどう生かすかは死活問題でもありました。鮮魚としてそのまま食べるのはもちろんですが、大量にとれたとき、あるいは小ぶりで売りにくい魚を無駄なく価値あるものに変えるには、加工の知恵が必要でした。すり身にして焼く、蒸す、揚げるといった練り物加工は、まさにそうした要請に応える技術であり、海辺の暮らしと密接に結びついていたと考えられます。鞆の浦に練り物の老舗が育ったのは、こうした港町の歴史的土壌があってこそでした。

鞆の浦の鯛網——約380年続く伝統漁法

瀬戸内の魚食文化を象徴する存在として、鞆の浦の「鯛網(たいあみ)」があります。これは産卵期に瀬戸内へ集まってくる鯛の群れを、複数の船で大きな網を操って一気に捕らえる「鯛しばり網漁法」と呼ばれる伝統漁法で、鞆の浦には約380年にわたって伝わるとされています。江戸時代初頭に考案されたと伝えられ、初夏の風物詩として今日まで受け継がれてきました。

鯛網漁は、複数の船が連携して長大な網を広げ、距離を縮めながら互いの網をしぼり上げて魚群を追い込む、迫力ある漁法です。樽太鼓が打ち鳴らされ、大漁節が浜に響くなか、古式にのっとって網がしぼられていく様子は、単なる漁業を超えた地域の祭礼的な意味合いをも帯びてきました。第二次世界大戦の影響で一時中断されましたが、昭和二十四年(1949年)に復活したと伝えられ、現在は「観光鯛網」として観覧船から見学できる催しになっています。二〇一五年(平成二十七年)には「鯛しばり網漁法」が福山市の無形民俗文化財に指定されました。

こうした鯛漁の伝統は、練り物文化とも深くつながっています。鯛は瀬戸内を代表する魚であり、その鯛を用いた「鯛ちくわ」などの練り物が鞆の浦の名物として育ったのは、豊かな鯛漁の歴史があってこそでした。海でとれた魚が、漁の文化と加工の文化の両面から地域に根づいてきたことが、鞆の浦の魚食文化の厚みを物語っています。

瀬戸内の小魚「ねぶと」と練り物——備後フィッシュの世界

福山・鞆の浦の練り物を語るうえで欠かせないのが、「ねぶと」と呼ばれる小魚です。ねぶとは標準和名をテンジクダイといい、瀬戸内海でとれる体長三〜五センチほどの白身の小魚です。頭が硬いことから「いしもち」「いしかべり」などとも呼ばれ、五月から九月ごろが旬とされます。小ぶりながら身の味がよく、古くから地元で親しまれてきた魚です。

このねぶとは、備後地域(広島県の三原市・尾道市・福山市、岡山県の笠岡市など)の漁師が地元を代表する魚として選んだ「備後フィッシュ」のひとつにも数えられています。地元でとれる身近な魚を、地域の食文化として大切にしていこうという取り組みのなかで、ねぶとはあらためて注目を集めるようになりました。福山の食を象徴する魚のひとつと言ってよいでしょう。

ねぶとの食べ方として広く知られるのが「ねぶとの唐揚げ」です。これは片栗粉をまぶして油で揚げたもので、香ばしくスナック感覚で食べられることから、子どものおやつや酒の肴として親しまれてきました。農林水産省が紹介する広島県の郷土料理にも数えられており、地域に根づいた一品です。なお、小魚とはいえ頭に発達した耳石(じせき)があり、食感を損ねるため頭を取り除いて調理するのがよいとされています。

ねぶと天——小魚をすり身に変える知恵

唐揚げと並んでねぶとを生かす方法が、すり身にして揚げた「ねぶと天」です。瀬戸内でとれるねぶとを練りつぶし、揚げ上げたこの練り物は、鞆の浦の伝統の逸品として作り続けられてきました。小ぶりで一尾ずつ調理するには手間のかかる魚を、すり身という形にまとめることで、無駄なく、しかもおいしく食べられるようにする——これはまさに練り物加工の知恵が生きた一例です。

ねぶと天は、地元の魚をその名のまま冠している点に、福山・鞆の浦らしさがあらわれています。全国に流通する大量生産の練り物が一般化した現代にあって、地元でとれた身近な魚を用いた製品が今も作られ続けていることは、地域の食文化の層の厚さを示しています。ねぶとという瀬戸内ならではの魚と、それを生かす練り物の技術が結びついたところに、福山の魚食文化の真骨頂があると言えるでしょう。

こうした地魚を生かした練り物は、ねぶと天にとどまりません。瀬戸内でとれるさまざまな魚を素材として、土地ごとに工夫を凝らした練り物が作られてきました。福山・鞆の浦の練り物文化は、決して画一的なものではなく、その時々の漁とともに変化し、地元の魚を起点に多彩に広がってきたのです。

鞆の浦の練り物の歩み——明治の創業から続く老舗たち

福山城
福山城(画像:Wikimedia Commons / CC)

福山・鞆の浦の練り物が、家庭の手仕事から地域の産業へと育っていく過程には、地元の作り手たちの長い歩みがありました。記録から確かめられる範囲でも、鞆の浦には明治期に創業した練り物の作り手が存在します。たとえば、にぎりちくわなどを手がける作り手のなかには、明治二十年(1887年)の創業を伝えるところがあり、瀬戸内海に浮かぶ鞆の浦で極上のすり身を選び、職人が一つひとつ手をかけて焼き上げる伝統の味を守ってきたとされています。

明治期は、日本全体で食品産業が近代化に向けて動き出した時代でもありました。各地で漁業や水産加工が組織化され、地域の特産品として練り物が位置づけられていきます。鞆の浦のように古くから港町として栄え、魚を扱う文化が蓄積されていた土地では、こうした産業化の流れに乗って練り物づくりが家業として根づき、世代を超えて受け継がれていったと考えられます。手仕事の技と、地元の魚という素材が結びついて、鞆の浦の練り物は地域を代表する味へと育っていったのです。

明治から大正、昭和へと時代が進むなかで、練り物づくりは少しずつ規模を広げ、地元での消費にとどまらず、土産物や贈答品としても扱われるようになっていきました。鞆の浦を訪れる人びとが、港町の味として練り物を買い求める——そうした観光と結びついた需要も、老舗の歩みを支える要素のひとつとなっていきました。

昭和の創業——戦後復興と練り物

鞆の浦の練り物の歩みのなかで、戦後の昭和期に創業した作り手の存在も見逃せません。海産加工品を中心に瀬戸内・福山の味を作り続ける老舗のなかには、昭和二十四年(1949年)の創業を伝えるところがあります。所在地は福山市の鞆町であり、鞆の浦の地に深く根ざした作り手です。終戦からほどない時期の創業は、戦後の混乱と復興のなかで、地域の食と暮らしを支えようとした人びとの営みを物語っています。

この時期は、奇しくも前述の鞆の浦の鯛網が戦中の中断から復活したとされる年とも重なります。漁の伝統と練り物づくりが、ともに戦後の再出発を遂げていったことは、鞆の浦という町が海とともに立ち直っていった姿を象徴しているように思われます。とれた魚を生かす漁の文化と加工の文化が、車の両輪のように地域を支えてきたのです。

こうした昭和創業の作り手の代表的な製品が、鞆の浦の名物として知られる「鯛ちくわ」です。通常のちくわより大きく、直径は約六センチほどもある丸みを帯びたちくわで、中心までじっくりと火を通すために焼き時間は三十分以上にも及ぶとされます。手間を惜しまず焼き上げるこの製品は、瀬戸内の鯛と、練り物を焼く職人の技が出会った、鞆の浦らしい一品と言えるでしょう。先に述べた「ねぶと天」も、こうした作り手が伝統の逸品として作り続けてきたものです。

手にぎりちくわの技——職人がつくる瀬戸内の味

鞆の浦の練り物を特徴づけるもののひとつが、「手にぎり」と呼ばれる製法です。これは、機械でなく職人の手ですり身を棒に巻きつけて成形し、一本ずつ焼き上げる伝統的なちくわづくりの方法を指します。瀬戸内でとれた新鮮な魚を主原料に、職人が丹精込めてじっくりと焼き上げた「手にぎり竹輪」は、鞆の浦の名物として知られています。

手にぎりの魅力は、なんといってもその食感と香ばしさにあります。すり身を手で握って棒に巻きつけることで、一本ごとに微妙な厚みや形の違いが生まれ、火の通り方にも表情が出ます。焼き上げる際には、表面を香ばしく焦がしながら、中心までしっかりと火を通していきます。じっくりと時間をかけて焼くことで、外は香ばしく、中はふっくらとした、機械では出しにくい奥行きのある味わいが生まれるとされます。

良い練り物をつくるには、素材の鮮度が決定的に重要です。すり身にする魚が新鮮であるほど、たんぱく質の粘りがよく出て、弾力のある「足」が生まれます。瀬戸内のように港のすぐそばで魚が水揚げされる土地は、この点で大きな利点を持っていました。とれたての魚をすぐにすり身に加工できる環境こそが、鞆の浦の練り物の質を支えてきたのです。地の利と職人の技、その両方がそろってはじめて、土地の味は成り立ちます。

焼き・蒸し・揚げ——加熱方法がつくる地域性

練り物は、加熱方法によって性格が大きく変わります。歴史的に見ると、江戸では蒸した蒲鉾が好まれ、上方(関西)では焼く伝統が保たれた、というように、東西で加熱方法に違いがあったと伝えられます。「江戸では焼いて売るものはなく、蒸したものばかりが売られる」といった趣旨の記述も残されており、地域ごとの嗜好の違いが製品の性格を分けていたことがうかがえます。

福山・鞆の浦を含む瀬戸内地方では、焼きちくわや揚げ物(天)が親しまれてきました。香ばしく焼き上げる文化、油で揚げてうま味を閉じ込める文化が、瀬戸内の食卓に根づいています。これは、上方の焼く伝統の系譜にも連なるものと考えられますが、同時にそれぞれの土地でとれる魚や、土地の人びとの好みに合わせて独自に発展してきた面も大きいでしょう。加熱方法の地域差は、練り物が全国一律の食品ではなく、各地の風土に合わせて多様に育ってきたことを示しています。

こうした多様性は、練り物という食品の豊かさそのものです。同じ「すり身を加熱した食品」でありながら、焼くか蒸すか揚げるか、どんな魚を使うか、どう成形するかによって、まったく異なる味わいが生まれます。福山・鞆の浦の焼きちくわやねぶと天は、その多様性のなかで瀬戸内という土地が育んだ一つの個性であり、地域の食文化を象徴する存在なのです。

近代化の波——冷凍すり身が変えた練り物産業

練り物産業は、二十世紀の後半に大きな技術革新を経験しました。その中心にあったのが「冷凍すり身」の登場です。冷凍すり身の生産は昭和三十五年(1960年)ごろから始まったとされ、スケトウダラを原料として開発されました。それまで、すり身は新鮮な魚から都度つくるしかなく、原料の鮮度や入手のしやすさに大きく左右されていました。冷凍すり身の技術は、この前提を根本から変えるものでした。

冷凍すり身には、いくつもの利点がありました。品質を長期間保てること、広い範囲へ流通させられること、原料の魚からすり身をつくるまでの処理工程を省けることなどです。とくに昭和四十年(1965年)以降には、漁船の上で加工される高品質の冷凍すり身(洋上すり身)が生産されるようになり、安定した品質の原料が広く供給されるようになりました。これによって、練り物の計画的な生産が可能となり、製造の機械化・自動化が一気に進み、大規模な工場も登場していきます。

この技術革新は、練り物を全国どこでも安定して作れる、身近な食品へと押し上げました。一方で、地元でとれた魚を使い、職人が手で焼き上げるという伝統的な作り方は、相対的に手間とコストのかかるものになっていきます。大量生産の波のなかで、鞆の浦のような産地が、地魚を生かした手づくりの製品を守り続けてきたことは、それ自体が文化の継承として大きな意味を持つと言えるでしょう。

大量生産時代における地場の練り物の意味

冷凍すり身による近代化は、練り物を安価で安定した食品にした反面、画一化という課題も生みました。全国どこでも同じような製品が手に入るようになるなかで、地域ごとの個性をどう保つかが問われるようになります。福山・鞆の浦の練り物は、この問いに対して、地元の魚を使うこと、手仕事の技を守ること、そして港町の歴史と結びついた物語を伝えることで応えてきたと言えるでしょう。

地魚を冠したねぶと天や、鞆の浦の鯛を用いた鯛ちくわ、職人が手で握る手にぎりちくわ——これらはいずれも、大量生産では代えがたい地域性を備えた製品です。観光で鞆の浦を訪れた人が、その土地ならではの味として練り物を買い求める。地元の人が日々の食卓で慣れ親しんだ味を楽しむ。そうした需要に支えられて、鞆の浦の練り物は、近代化の波のなかでもその個性を保ち続けてきたのです。

近年では、練り物づくりの現場を見学したり、ちくわ焼きなどを体験したりできる施設も設けられ、瀬戸内の食文化を伝える取り組みが行われています。作って売るだけでなく、その背景にある文化を伝えていく——これもまた、地場産業が現代を生き抜くための一つのかたちと言えるでしょう。練り物は、福山・鞆の浦という土地の歴史と魅力を伝えるメディアとしての役割も担い始めているのです。

福山の食卓に根づく練り物——日常とハレの日

練り物は、福山の人びとの暮らしのなかで、日常とハレの日の両面に深く根づいてきました。日々の食卓では、ちくわをそのままかじったり、煮物や炒め物の具にしたり、天ぷら(揚げ物の練り物)を温めて食べたりと、手軽なたんぱく源として重宝されてきました。ねぶとの唐揚げのように、酒の肴や子どものおやつとして親しまれるものもあります。練り物は、特別な日のごちそうであると同時に、日常を支える身近な食でもあったのです。

一方で、蒲鉾は古くから「ハレの日のごちそう」としての側面も持ってきました。前述のように、文献に残る最古の蒲鉾は祝宴の献立に登場するものでした。正月や祝い事の席に紅白の蒲鉾が並ぶ習慣は今日でも広く見られ、めでたさを象徴する食品としての位置づけが受け継がれています。福山においても、贈答や祝いの場で練り物が用いられ、土地の味として人と人とのつながりを取り持ってきました。

こうした日常とハレの両面にわたる広がりは、練り物が単なる加工食品を超えて、地域の生活文化の一部となってきたことを示しています。瀬戸内の魚を起点に、家庭の食卓から祝いの席まで、さまざまな場面で人びとの暮らしに寄り添ってきた——それが福山・鞆の浦の練り物の姿なのです。

瀬戸内の他の地場産業とのつながり

福山・鞆の浦の練り物文化は、瀬戸内の他の地場産業とも響き合っています。鞆の浦は古くから海上交通の要衝として、さまざまな物資と技が行き交う場でした。港町の繁栄が練り物づくりを支えたように、地域の産業は互いに関わり合いながら発展してきました。福山の歴史を広く見渡すと、農産物の加工、織物、木工、金属加工など、さまざまな分野で土地ならではの産業が育ってきたことがわかります。

練り物が「瀬戸内の魚を生かす知恵」であるとすれば、それは福山に根づいた「ものづくりの精神」の一つの表れでもあります。素材を見極め、手間を惜しまず、土地の特性を生かして価値あるものに変えていく——こうした姿勢は、練り物に限らず、福山のさまざまな地場産業に共通して流れているものと言えるでしょう。一本のちくわの背後には、瀬戸内に暮らす人びとの普遍的なものづくりの心が息づいているのです。

現在に受け継がれるもの——伝統と未来

今日、福山・鞆の浦の練り物は、伝統を守りつつ新しい時代に対応しながら受け継がれています。明治期や昭和期に創業した老舗が、地魚を生かした手づくりの製品を作り続ける一方で、現代の流通や観光の需要に応じた商品展開も進められています。鯛ちくわやねぶと天といった伝統の逸品は、鞆の浦を訪れる人びとの土産として、また地元の食卓を彩る味として、今も生き続けています。

近年は、練り物づくりを体験できる施設や、瀬戸内の食文化を発信する取り組みも広がっています。職人がちくわを焼く様子を見学したり、自分で焼く体験をしたりすることで、練り物が単なる商品ではなく、土地の歴史と技に支えられた文化であることを実感できます。こうした取り組みは、若い世代や観光客に練り物の魅力を伝え、伝統を未来へつなぐ役割を果たしています。

福山・鞆の浦の練り物の歴史は、瀬戸内という豊かな海と、そこに暮らす人びとの知恵と技が長い時間をかけて織りなしてきた物語です。蒲鉾の起源にさかのぼる古い伝統を背景に、地元の魚を生かし、職人の手で焼き上げてきた練り物は、これからも瀬戸内の食文化を象徴する存在であり続けるでしょう。一本のちくわ、一枚の蒲鉾を味わうとき、その向こうに広がる海と港町の歴史を思い起こしていただければ、練り物はいっそう味わい深いものになるはずです。

福山の練り物・魚食をめぐる関連年表

蒲鉾・練り物そのものの歴史と、福山・鞆の浦に関わる出来事を時代順に整理します。年代や経緯には諸説ある事項を含みますので、おおまかな流れをつかむ手がかりとしてご覧ください。

味わい方・楽しみ方と関連スポット

福山・鞆の浦を訪れたなら、ぜひ現地で練り物を味わってみてください。焼きたての手にぎりちくわは、香ばしさと弾力が格別です。鞆の浦の鯛を用いた鯛ちくわや、瀬戸内の小魚ねぶとを生かしたねぶと天は、その土地でしか味わえない名物として親しまれています。ねぶとの唐揚げは、酒の肴やおやつにぴったりの一品で、福山の食文化を気軽に楽しめます。

練り物の背景にある瀬戸内の海と港町の歴史を知れば、味わいはいっそう深まります。鞆の浦の古い街並みを歩き、潮待ちの港として栄えた往時に思いをはせながら練り物を味わうのは、福山ならではの旅の楽しみ方です。初夏には鞆の浦の観光鯛網を見学し、瀬戸内の漁の伝統に触れるのもよいでしょう。海でとれた魚が、漁と加工の両面から地域に根づいてきたことを、現地で実感できるはずです。

福山の歴史や文化をより深く知りたい方は、以下の関連記事もあわせてご覧ください。福山の地場産業や港町の歴史を知ることで、練り物文化の背景がいっそう立体的に見えてきます。

よくある質問(FAQ)

Q福山・鞆の浦の練り物の特徴は何ですか。
A

瀬戸内海でとれた新鮮な魚を主原料に、職人が手をかけて作る点が特徴です。とくに手にぎりちくわや、鞆の浦の鯛を用いた鯛ちくわ、瀬戸内の小魚ねぶとを生かしたねぶと天などが知られています。古くから港町として栄えた鞆の浦の歴史を背景に、地魚を生かす知恵と技が受け継がれてきました。

Q蒲鉾の最も古い記録はいつのものですか。
A

文献に残る最古の記録は、故実書『類聚雑要抄』に見える、永久三年(1115年)の藤原忠実の祝宴の献立とされています。ただし、この時代の蒲鉾は竹に巻いて焼く、現在のちくわに近い形だったと伝えられます。年代や内容には諸説あります。

Q「蒲鉾」という名前の由来は何ですか。
A

すりつぶした魚肉を竹の棒に筒状に巻いて作った形が、水辺に生える蒲(がま)の穂に似ていたことから「蒲鉾」と名づけられたと伝えられます。蒲の穂を矛(ほこ)に見立てた呼び名とされています。

Q蒲鉾とちくわはどう違うのですか。
A

現在では、板に成形したものを蒲鉾、棒に巻いて焼き中が空洞になったものをちくわと呼び分けます。歴史的には、もともと棒巻きタイプを「蒲鉾」と呼んでいたものが、板に成形する「板蒲鉾」の登場で区別が必要になり、棒巻きタイプが「ちくわ(竹輪)」と呼ばれるようになったと伝えられます。

Q「ねぶと」とはどんな魚ですか。
A

ねぶとは標準和名をテンジクダイといい、瀬戸内海でとれる体長三〜五センチほどの白身の小魚です。頭が硬いことから「いしもち」などとも呼ばれます。五月から九月ごろが旬とされ、備後地域を代表する「備後フィッシュ」のひとつに数えられています。

Qねぶと天とねぶとの唐揚げの違いは何ですか。
A

ねぶと天は、ねぶとをすり身にして揚げた練り物です。一方、ねぶとの唐揚げは、ねぶとに片栗粉をまぶしてそのまま揚げた料理で、農林水産省が紹介する広島県の郷土料理にも数えられています。どちらも瀬戸内の小魚ねぶとを生かした福山の味です。

Q鞆の浦の鯛ちくわとはどんなものですか。
A

瀬戸内の鯛を用いた、鞆の浦の名物のちくわです。通常のちくわより大きく、直径は約六センチほどもあり、中心までじっくり火を通すため焼き時間は三十分以上に及ぶとされます。手間を惜しまず焼き上げる、鞆の浦らしい一品です。

Qなぜ鞆の浦で練り物づくりが発展したのですか。
A

鞆の浦は古くから「潮待ちの港」として栄えた海上交通の要衝であり、魚を扱い加工し商う技と文化が蓄積されていました。豊かな瀬戸内の漁場が近く、新鮮な魚をすぐにすり身に加工できる環境だったことも、練り物づくりが根づいた大きな理由と考えられます。

Q鞆の浦の鯛網とはどんな漁ですか。
A

産卵期に瀬戸内へ集まる鯛の群れを、複数の船で大きな網を操って捕らえる「鯛しばり網漁法」です。鞆の浦には約380年続く伝統漁法とされ、二〇一五年に福山市の無形民俗文化財に指定されました。現在は初夏に「観光鯛網」として見学できます。

Q焼き・蒸し・揚げで練り物はどう変わりますか。
A

加熱方法によって食感や風味が大きく変わります。歴史的には、江戸では蒸し蒲鉾、上方では焼き蒲鉾が好まれるなど、東西で違いがありました。福山・鞆の浦を含む瀬戸内地方では、香ばしい焼きちくわや揚げ物(天)が親しまれてきました。

Q冷凍すり身とは何ですか。練り物にどんな影響を与えましたか。
A

冷凍すり身は、魚肉のすり身を冷凍保存できるようにしたもので、昭和三十五年(1960年)ごろからスケトウダラを原料に生産が始まりました。品質を長く保て、広く流通できるため、練り物の機械化・大規模生産が一気に進みました。一方で、地魚を使った手づくりの製品の価値もあらためて見直されています。

Q福山の練り物はどこで買えますか。体験はできますか。
A

鞆の浦の店舗や福山市内の土産物店などで購入できます。近年は、練り物づくりを見学したり、ちくわ焼きなどを体験できる施設も設けられています。最新の営業時間や体験の内容は、各施設の公式情報でご確認ください。

Q蒲鉾が祝いの席に使われるのはなぜですか。
A

蒲鉾は古くから「ハレの日のごちそう」とされ、文献に残る最古の記録も祝宴の献立でした。正月や祝い事の席に紅白の蒲鉾が並ぶ習慣は今日でも広く見られ、めでたさを象徴する食品として受け継がれています。

まとめ

福山・鞆の浦の蒲鉾・練り物の歴史は、瀬戸内海という豊かな漁場と、海上交通の要衝として栄えた港町の歴史が結びついて育まれたものでした。蒲鉾そのものの起源は平安時代の文献にまでさかのぼり、竹に巻いて焼く古い形から、板蒲鉾やちくわへと分化しながら、各地の風土に合わせて多様に発展してきました。福山・鞆の浦では、焼きちくわやねぶと天のように、地元の魚を生かした練り物が地域の味として根づいてきたのです。

明治期や昭和期に創業した老舗が、手にぎりちくわや鯛ちくわ、ねぶと天といった伝統の味を守り続ける一方で、冷凍すり身による近代化の波も経験しました。大量生産の時代にあっても、地魚を使い、職人の手で焼き上げる鞆の浦の練り物は、その個性を保ちながら受け継がれています。一本のちくわ、一枚の蒲鉾の向こうには、瀬戸内の海と、そこに生きる人びとの知恵と技の物語が広がっています。福山を訪れた際には、ぜひその味わいとともに、海辺の町が積み重ねてきた歴史を感じ取っていただければ幸いです。

出典・注意

本記事は、福山市・農林水産省などの公的機関の情報、練り物業界団体や老舗事業者の公開情報、百科事典等の信頼できる情報をもとに作成しました。蒲鉾・ちくわの起源や名称の変遷、冷凍すり身の歴史については、業界団体や食品メーカーの公開資料を参照しています。ねぶと(テンジクダイ)やねぶとの唐揚げについては農林水産省「うちの郷土料理」等を、鞆の浦の鯛網については福山市の公開情報等を参照しました。

※年代・経緯には諸説ある事項を含みます。詳細は各施設・公式情報や郷土資料でご確認ください。

最終更新: 2026年6月10日

史跡情報は福山NOTE 史跡図鑑(fn_history)より。