瀬戸内海のほぼ中央、満ち潮と引き潮がぶつかり合う潮の分かれ目に位置する鞆の浦(とものうら)は、古来「潮待ちの港」として栄えた港町です。風と潮の力だけで進んだ帆船の時代、船は順潮を待ってこの港に幾日も停泊しました。その停泊のあいだに錨を直し、傷んだ船体を繕い、船釘を打ち替える――そうした海の必要から、鞆には独特の鍛冶(かじ)文化が育ちました。碇(いかり)を鍛え、刃物を打ち、船を支えた鉄の技。本稿では、鞆の鍛冶と船具づくりの歩みを、史実に基づいてできるだけ正確にたどります。なお、年代や経緯には諸説を含む事項があり、断定できない部分は「〜とされる」「〜と伝わる」と明記しています。
鞆の鍛冶は、単なる地場産業のひとつにとどまりません。それは「潮待ちの港」という鞆の地理的・歴史的な性格そのものから生まれ、瀬戸内を行き交う無数の木造船を陰で支えた技術でした。錨を打つ音、鞴(ふいご)が送る風、火床(ほど)から立ちのぼる熱気は、長らく鞆の町の日常の風景だったのです。そして近代に入っても鞆の鉄の技は途絶えず、形を変えながら今日の福山の鉄鋼業へと受け継がれています。鞆を歩くとき、保命酒や町並みの美しさとともに、この「鉄のまち」としての横顔を知っておくと、港町の奥行きが何倍にも深まります。
ゆかりの史跡・図鑑
鞆の鍛冶と船具にゆかりの深い史跡・スポットを、福山NOTEの史跡図鑑から一覧・比較・詳細の三つの形でご紹介します。鍛冶屋町の名残や、鍛冶用具・製品を伝える資料館など、現地を歩く際の手がかりとしてご活用ください。
| 史跡 | 時代 | 概要 | 📍 エリア | 詳細 |
|---|---|---|---|---|
| 福山城 伏見櫓 | 江戸時代(元和年間) | 伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最… | 📍 福山駅前(福山市街) | 下へ ↓ |
| 福山城 | 近世(江戸) | 備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御… | 📍 丸之内 | 下へ ↓ |
| 福山城博物館 | 近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期) | 水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩… | 📍 福山駅前(福山市街) | 下へ ↓ |
| 草戸千軒町遺跡 | 中世 | 芦田川の中州にあった中世の港町・集落遺跡。発… | 📍 草戸町 | 下へ ↓ |
| 明王院 | 中世 | 本堂と五重塔がともに国宝。中世密教寺院で、五… | 📍 草戸町 | 下へ ↓ |
| 鞆の津の町並み(重伝建) | 江戸時代(中世〜近代の建造物群) | 潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 鞆の浦の常夜燈と港湾施設 | 江戸時代 | 江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 福山市鞆の浦歴史民俗資料館 | 近代(昭和) | 鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 鞆の浦 | 中世〜近世 | 瀬戸内の「潮待ちの港」。常夜燈・雁木・波止場… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 福禅寺 対潮楼 | 近世 | 朝鮮通信使の使節が「日東第一形勝」と讃えた客… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 太田家住宅 | 江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期) | 鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| いろは丸展示館 | 近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期) | 坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 仙酔島 | 古代(地質)/近代(指定) | 鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 廉塾(菅茶山旧宅) | 近世 | 儒学者・菅茶山が開いた私塾。当時の塾舎・住宅… | 📍 神辺町 | 下へ ↓ |
| 神辺城跡 | 中世 | 備後南部の中世山城。福山城が築かれる以前、備… | 📍 神辺町 | 下へ ↓ |
| 福山八幡宮 | 近世 | 福山城の北に鎮座し、東西二つの宮を備える。歴… | 📍 北吉津町 | 下へ ↓ |
| 沼名前神社 | 近世 | 鞆の「祇園さん」。夏の大松明を担ぐ「お手火神… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 阿伏兎観音(磐台寺観音堂) | 近世 | 断崖の上に建つ朱塗りの観音堂。国の重要文化財… | 📍 沼隈町 | 下へ ↓ |
| 吉備津神社(備後一宮) | 江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる | 備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で… | 📍 新市町 | 下へ ↓ |
| 素盞嗚神社(備後一宮) | 飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮 | 祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏の… | 📍 新市町 | 下へ ↓ |
福山城 伏見櫓
伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最古級の三層入母屋造の現存櫓。 福山城伏見櫓は、元和8年(1622年)の福山城築城に際し、城主水野勝成が将軍徳川秀忠から下賜を受け、京都の伏見城から移築させたと伝えられる櫓である。長らく伝承とされていたが、昭和29年(1954年)の解体修理の際、梁の陰刻に「松ノ丸ノ東やく(ら)」の文字が発見され、伏見城からの移築を裏付ける確かな遺構であることが明らかになった。構造は三層入母屋造で、初層と二層を同じ柱割とし、その上にやや小さい三層を望楼状に載せる。桁行八間・梁間三間、本瓦葺の規模をもつ。慶長期の城郭建築の様式を残す初期の典型として価値が高く、昭和8年(1933年)1月23日に国の重要文化財に指定された。福山城内に現存し、特別公開が行われることもある。
| 🕰 時代 | 江戸時代(元和年間) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 元和8年(1622年)水野勝成の福山城築城時に伏見城から移築。国指定重要文化財(昭和8年=1933年1月23日指定) |
| 📍 所在地 | 広島県福山市丸之内一丁目(福山城内) |
福山城
備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御門は京都伏見城からの移築と伝わる。2022年に築城400年を迎えた。
| 🕰 時代 | 近世(江戸) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 1622年(元和8)・水野勝成 |
| 👤 関連 | 水野勝成・阿部正弘 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市丸之内一丁目8 |
福山城博物館
水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩の歴史を体験型展示で伝える博物館 福山城博物館は、JR福山駅のすぐ北に建つ福山城天守内に置かれた市立の歴史資料館です。福山城は1622年(元和8年)、徳川譜代の大名・水野勝成が西国鎮衛の拠点として築いた近世城郭で、天守は1931年に国宝に指定されました。しかし1945年8月の福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリート造で外観が復興され、その内部が博物館として公開されました。2022年には築城400年に合わせて大規模リニューアルされ、北面の鉄板張り(黒い装い)の再現や、一番槍レース・火縄銃などの体験型コンテンツ、デジタル映像を用いた展示が整えられ、福山城と福山藩の歴史を学べる施設となっています。城内に現存する伏見櫓と筋鉄御門は、京都・伏見城からの移築と伝えられ、国の重要文化財に指定されています。常設展は有料、月曜休館とされます。
| 🕰 時代 | 近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 福山城は1622年(元和8年)に初代福山藩主・水野勝成が築城。天守は1945年福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリートで外観復興、内部を博物館として開館。2022年に大規模リニューアル |
| 📍 所在地 | 広島県福山市丸之内一丁目8番 |
草戸千軒町遺跡
芦田川の中州にあった中世の港町・集落遺跡。発掘成果は広島県立歴史博物館で町並みが原寸復元展示されている。
| 🕰 時代 | 中世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 鎌倉〜室町 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市草戸町 |
明王院
本堂と五重塔がともに国宝。中世密教寺院で、五重塔は全国でも有数の古塔。
| 🕰 時代 | 中世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 本堂1321年・五重塔1348年 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市草戸町1473 |
鞆の津の町並み(重伝建)
潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と町家が一体で残る重伝建地区 鞆の浦は瀬戸内海の中央に位置し、古来「潮待ちの港」として栄え、万葉集にも詠まれた歴史を持つとされる。江戸時代には北前船など廻船の寄港地として繁栄し、朝鮮通信使の寄港地ともなった。2017年(平成29年)11月28日、「福山市鞆町伝統的建造物群保存地区」として約8.6ヘクタールが国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。範囲は鞆字西町の全域を中心に、石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地の一部に及ぶ。中世から江戸期に整えられた地割の上に、江戸時代から昭和30年代までの町家や寺社、石垣などが一体的に残る近世港町の景観が評価された。常夜燈・雁木・波止・焚場・船番所の5つの港湾施設がほぼ完全に残る点は全国でも稀とされる。広島県内では3例目の選定で、2018年には日本遺産にも認定された。
| 🕰 時代 | 江戸時代(中世〜近代の建造物群) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 2017年(平成29年)11月28日に国の重要伝統的建造物群保存地区へ選定。地割は中世〜江戸期、建造物は江戸時代〜昭和30年代まで。 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町(鞆字西町全域ほか、字石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地字古城跡・草谷の各一部) |
鞆の浦の常夜燈と港湾施設
江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯一の近世港、鞆港。 鞆の浦の鞆港には、常夜燈・雁木・波止・焚場(たでば)・船番所という江戸時代の港湾施設5点がほぼ揃って現存し、これらが一体で残るのは全国でも鞆港のみとされる。シンボルの常夜燈は安政6年(1859)の刻銘をもつ石造灯台で、海中の基礎石から宝珠の頂までは約12.1mに及び、江戸期の石造常夜燈としては国内最大級とされる。雁木は潮の干満に応じて船を着けられる階段状の船着き場で、半円形の港内に連続して巡らされている。波止は花崗岩を積んだ全長約146mの防波堤で、江戸後期に築かれ明治期に修築された。鞆港を含む沿岸と沖の島々一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定され、鞆町西町を中心とする区域は2017年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。日本遺産「瀬戸の夕凪が包む 国内随一の近世港町」の構成要素でもある。
| 🕰 時代 | 江戸時代 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 常夜燈は安政6年(1859)造立とされる。雁木・波止・焚場・船番所は江戸後期築造、波止は明治期に修築。鞆港一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定。 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町鞆 |
福山市鞆の浦歴史民俗資料館
鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬戸内の歴史・民俗を伝える市立資料館 福山市鞆の浦歴史民俗資料館は、広島県福山市鞆町後地に建つ市立の博物館で、「潮待ちの館」の愛称で親しまれる。1977年(昭和52年)からの地元有志による調査・収集活動を背景に、福山市制70周年記念事業として1988年(昭和63年)に開館した。立地は、福島正則が築いたとされる鞆城跡(福山市指定史跡)の高台で、瀬戸内海を見渡せる。万葉の時代から潮待ち・風待ちの港として栄えた鞆の浦を中心に、古代から近世にいたる歴史資料を展示。鯛網漁のジオラマや錨を製造した鍛冶場、朝鮮通信使関連資料、保命酒に関する資料に加え、お手火神事・お弓神事といった地域の民俗文化財も常設展示する。鞆の歴史と暮らしを総合的に学べる拠点とされる。
| 🕰 時代 | 近代(昭和) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 1988年(昭和63年)開館。福山市制70周年記念事業として建設。建つ鞆城跡は福島正則が築いたとされる(福山市指定史跡) |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町後地536-1 |
鞆の浦
瀬戸内の「潮待ちの港」。常夜燈・雁木・波止場・焚場・船番所の港湾施設が一体で残る全国的にも貴重な町並み。
| 🕰 時代 | 中世〜近世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 古代〜 |
| 👤 関連 | 朝鮮通信使・足利義昭・坂本龍馬 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町 |
福禅寺 対潮楼
朝鮮通信使の使節が「日東第一形勝」と讃えた客殿からの眺め。仙酔島を望む座敷が名高い。
| 🕰 時代 | 近世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 客殿は元禄年間 |
| 👤 関連 | 朝鮮通信使 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町2 |
太田家住宅
鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で、国の重要文化財 鞆の浦を代表する歴史的建造物で、薬用酒「保命酒」の醸造で財を成した商家の旧宅。もとは大坂の漢方医を出自とする中村家の屋敷で、明暦元年(1655年)に鞆へ移り住み、まもなく十六味地黄保命酒の製造・販売を始めて大ヒットし、福山藩の御用名酒屋として販売独占権を得たとされる。明治期に廻船業を営んだ太田家が継承し、現在の名で呼ばれる。主屋を中心に保命酒蔵や各種土蔵など九棟が建ち並び、建築年代は18世紀中期から19世紀前期に及ぶ。瀬戸内の商家建築を伝える貴重な遺構として、1991年に国の重要文化財に指定された。幕末には三条実美ら尊王攘夷派の公卿が立ち寄ったと伝わり、別宅の朝宗亭とともに「鞆七卿落遺跡」として広島県の史跡(1940年指定)にもなっている。
| 🕰 時代 | 江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 主屋は18世紀中期、ほか北保命酒蔵が天明8年(1788年)、西蔵が寛政元年(1789年)、東保命酒蔵が寛政7年(1795年)など18世紀中期〜19世紀前期。国の重要文化財指定は1991年(平成3年)5月31日。 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町鞆842 |
いろは丸展示館
坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵を活かした資料館 鞆の浦のシンボル常夜灯(とうろどう)のすぐそばに建つ資料館。1867年(慶応3年)、坂本龍馬と海援隊が運航したいろは丸が紀州藩の明光丸と備後灘で衝突・沈没した「いろは丸事件」を伝える施設で、その談判が鞆の浦で行われた縁にちなむ。建物は江戸期に建てられた太い梁が印象的な土蔵で、地元では「大蔵」と呼ばれ、国の登録有形文化財とされる。館内には海底に沈むいろは丸を再現したジオラマ、引き揚げられた陶器や部品、調査風景の写真などを展示し、2階には龍馬が宿泊先で身を潜めたという「隠れ部屋」が再現され、龍馬の蝋人形も置かれている。1989年(平成元年)7月の開館。幕末史と鞆の港町文化を同時に味わえるスポットである。
| 🕰 時代 | 近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 1989年(平成元年)7月開館。建物は江戸期築の土蔵「大蔵(浜蔵)」で、国の登録有形文化財とされる。展示題材のいろは丸事件は1867年(慶応3年) |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町鞆843-1 |
仙酔島
鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連なる瀬戸内海国立公園の名勝 仙酔島は鞆の浦の沖合に浮かぶ周囲約6キロの島で、住所は福山市鞆町後地。鞆港から市営渡船で約5分の距離にあり、観光客の往来はあるが定住者のいない無人島とされる。1925年(大正14年)に国の名勝「鞆公園」の一部として指定され、1934年(昭和9年)には日本で最初に指定された国立公園・瀬戸内海国立公園に含まれた。島は約9000万年前の大規模な火山活動による溶結凝灰岩を主体とし、南側海岸には青・赤・黄・白・黒の岩が200メートル以上連なる「五色岩」が見られ、地質的に貴重とされる。「仙人が酔うほど美しい島」が名の由来と言われる。江戸後期の学者・頼山陽が当地の景観を「山紫水明」と評したとも伝わる。
| 🕰 時代 | 古代(地質)/近代(指定) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 1925年(大正14年)国名勝「鞆公園」に指定。1934年(昭和9年)日本初の国立公園・瀬戸内海国立公園に編入。島自体は約9000万年前の火山活動で形成されたとされる |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町後地 |
廉塾(菅茶山旧宅)
儒学者・菅茶山が開いた私塾。当時の塾舎・住宅が残り、国の特別史跡に指定されている。
| 🕰 時代 | 近世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 18世紀末 |
| 👤 関連 | 菅茶山 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市神辺町川北640 |
神辺城跡
備後南部の中世山城。福山城が築かれる以前、備後支配の拠点だった。
| 🕰 時代 | 中世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 南北朝期 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市神辺町 |
福山八幡宮
福山城の北に鎮座し、東西二つの宮を備える。歴代藩主の崇敬を集めた。
| 🕰 時代 | 近世 |
|---|---|
| 👤 関連 | 水野家 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市北吉津町1-2-16 |
沼名前神社
鞆の「祇園さん」。夏の大松明を担ぐ「お手火神事」で知られる古社。
| 🕰 時代 | 近世 |
|---|---|
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町後地 |
阿伏兎観音(磐台寺観音堂)
断崖の上に建つ朱塗りの観音堂。国の重要文化財。古来、海上安全と子授け・安産の祈願で知られる。
| 🕰 時代 | 近世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 16世紀末 |
| 👤 関連 | 毛利輝元 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市沼隈町能登原 |
吉備津神社(備後一宮)
備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で「いっきゅうさん」と親しまれる古社 福山市新市町宮内に鎮座する備後国一宮で、地元では「一宮さん(いっきゅうさん)」と親しまれる。社伝では大同元年(806年)に吉備国の吉備津神社から勧請し創建されたと伝わるが、延喜式神名帳に記載がないことなどから実際の成立はより後とする説もある。主祭神は吉備国を治めたとされる大吉備津彦命。現在の本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が旧規模にならい造営したもので、桁行七間・梁間四間の入母屋造檜皮葺、国の重要文化財に指定されている。ほかにも木造狛犬や太刀などが重要文化財として伝えられ、複数の建造物が広島県・福山市指定文化財となっている。隣接する櫻山城跡なども史跡として知られ、備後の信仰と歴史を今に伝える。
| 🕰 時代 | 江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が造営、国の重要文化財。創建は大同元年(806年)と伝わるが諸説ある |
| 📍 所在地 | 広島県福山市新市町宮内400 |
素盞嗚神社(備後一宮)
祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏のけんか神輿で名高い古社 福山市新市町戸手に鎮座する素盞嗚神社は、『延喜式神名帳』に載る式内社で備後国一宮を称し、旧社格は県社です。主祭神は素盞嗚尊で、稲田姫命・八王子を配祀します。社伝では天武天皇の治世、7世紀ごろ(679年か)の創建とされます。『釈日本紀』所収の「備後国風土記」逸文に伝わる蘇民将来説話の舞台「疫隈国社」と結びつけられ、茅の輪くぐりや祇園信仰・祇園祭発祥の地の一つとされています。神仏習合期には牛頭天王を祀り、遣唐使・吉備真備が734年に当社から播磨の広峯神社へ勧請したとも伝わります。毎年7月の例祭では、勇壮なけんか神輿(神輿合わせ)が行われることで知られます。
| 🕰 時代 | 飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 社伝では天武天皇期の7世紀ごろ(679年か)創建とされる。『延喜式神名帳』記載の式内社で、旧県社 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市新市町大字戸手1-1 |
潮待ちの港・鞆の浦という舞台

鞆の鍛冶を語るには、まずその舞台である鞆の浦という港の性格を理解しておく必要があります。鞆の浦は瀬戸内海のほぼ中央に位置し、潮の流れの分かれ目にあたります。満ち潮になると、西は豊後水道や関門海峡の方面から、東は紀伊水道の方面から潮が押し寄せ、ちょうど鞆の沖あたりでぶつかり合うとされます。引き潮になると逆に、鞆を境にして潮が東西へ分かれて引いていきます。動力を持たない帆船にとって、この潮の流れは進路を左右する決定的な条件でした。
そのため、瀬戸内を航行する船は、鞆の沖で潮の向きが順方向に変わるのを待ちました。これが「潮待ち」であり、鞆の浦が「潮待ちの港」と呼ばれるゆえんです。順潮を待つあいだ、船は数日にわたって鞆に停泊することも珍しくありませんでした。船乗りたちはその間、港町で食料や水を補給し、酒を求め、傷んだ船具を修理しました。多くの船が長く滞在するということは、それだけ港町に人と需要が集まるということでもあります。鞆が単なる通過点ではなく、独自の文化と産業を育てた背景には、この「潮待ち」という条件があったのです。
鞆の浦が港として機能していた歴史は古く、日本最古の歌集『万葉集』には、鞆の浦を詠んだ和歌が八首あるとされます。奈良時代にはすでに海上交通の要衝として知られていたことがうかがえます。中世から近世にかけても、鞆は瀬戸内航路の重要な寄港地として栄え続けました。朝鮮通信使が立ち寄った地としても知られ、国際的な交流の場でもありました。こうした港町の活況は、後述する鍛冶業をはじめ、酒造業(保命酒など)、商業、漁業といった多様な生業を支える土台となりました。
港町としての鞆の性格を決定づけた出来事のひとつが、近世初頭の鞆城の廃城です。鞆には一時、鞆城が築かれていましたが、慶長十四年(一六〇九年)に廃城になったと伝えられます。城を失った鞆は、軍事拠点としての性格を弱める一方で、港を中心とする商業・鍛冶業・酒造業・漁業を生業とする人々で賑わう町へと姿を変えていきました。武の町から、海と職人の町へ。この転換が、鞆の鍛冶が発展していく素地を整えたともいえるでしょう。なお、城の廃城年や経緯の細部については資料によって表現に幅があり、ここでは一般に伝えられる年代を示しています。
港町・鞆を象徴する文化として、薬味酒「保命酒(ほうめいしゅ)」も挙げられます。保命酒は万治二年(一六五九年)ごろ、大阪の漢方医の家に生まれた中村吉兵衛によって、備後鞆の地で造り始められたと伝えられます。もち米と多種の薬味を原料とするこの酒は、潮待ちの港・鞆を訪れる船乗りや旅人に親しまれ、鞆の名産として今日まで受け継がれています。鍛冶も保命酒も、ともに「人と船が集まる港」という鞆の性格から生まれた産業であり、両者は港町の表と裏を成す存在だといえます。
なぜ鞆で鍛冶が栄えたのか
鞆で鍛冶、とりわけ船具を専門とする「船鍛冶(ふなかじ)」が栄えた理由は、大きく二つの条件に整理できます。ひとつは「需要」、もうひとつは「材料(鉄)」です。この二つがそろっていたからこそ、鞆は単なる小さな港の片隅の鍛冶ではなく、瀬戸内有数の船具づくりの拠点へと成長することができました。
需要――潮待ちの船が生んだ修理と新調の市場
第一の条件は、潮待ちの港ゆえに生まれた船具の需要です。前述のとおり、鞆には順潮を待つ船が数多く停泊しました。停泊しているあいだは、まさに船を点検・修理する絶好の機会です。航海で傷んだ錨、緩んだ船釘、摩耗した金具――こうした船具は、停泊の合間に修理したり、新調したりする必要がありました。多くの船が幾日も停泊する鞆では、自然とこうした修理・新調の需要が集中したのです。
需要が集まれば、それに応える職人が集まり、技術が磨かれ、産業として根づいていきます。鞆の鍛冶が「船鍛冶」として特色づけられたのは、まさにこの船具修理・新調の需要に応えるなかで専門化していったためだと考えられます。停泊する船の数だけ、錨や船釘の注文があり、鍛冶職人の仕事があった。潮待ちの港という地理的条件が、そのまま鍛冶業を支える市場となったのです。
材料――中国山地のたたら製鉄が支えた鉄
第二の条件は、鉄という材料を比較的得やすかったことです。鞆の背後に広がる中国山地は、日本有数の鉄の産地でした。中国山地では、砂鉄と木炭を用いる伝統的な製鉄法「たたら製鉄」が古くから盛んに行われていました。風化した花崗岩に由来する良質な砂鉄が広く分布し、木炭の原料となる森林にも恵まれていたためです。江戸後期から明治初期にかけての最盛期には、中国山地一帯が国内の鉄生産の大きな割合を占めたとされます。
たたら製鉄の産地は、出雲(島根県東部)や石見(島根県西部)、伯耆(鳥取県)、備中・美作(岡山県)、そして備後(広島県東部)など、中国地方の各地に広がっていました。鞆を含む備後地方もその一角を担っており、鍛冶の材料となる鉄を比較的入手しやすい環境にありました。「鉄の産地が近い」ということは、鍛冶業にとって決定的に重要な条件です。良質な鉄が手に入る場所でこそ、優れた鍛冶の技が育ちます。鞆の鍛冶は、中国山地という巨大な鉄の供給源を背後に持っていたのです。
こうして「潮待ちの港による旺盛な船具需要」と「中国山地のたたら製鉄による鉄の供給」という二つの条件が結びついたところに、鞆の船鍛冶が花開きました。海と山、需要と材料――その両方に恵まれた稀有な立地が、鞆を瀬戸内有数の鍛冶の町に育て上げたといえるでしょう。
刀鍛冶から船鍛冶へ――泰平の世の技の転換

鞆の鍛冶の歩みを語るうえで欠かせないのが、「刀鍛冶から船鍛冶への転換」という物語です。戦乱の世から泰平の世へと移り変わるなかで、刀を打っていた鍛冶職人が、その鍛造の技を船具づくりへと振り向けていったと伝えられます。これは鞆の鍛冶が船具に特化していった大きな要因のひとつとされています。
戦国の世が終わり、世の中が平和になると、武器としての刀の需要は次第に減っていきます。一方で、海上交通が活発化し、瀬戸内を行き交う船が増えれば増えるほど、錨や船釘といった船具の需要は高まりました。刀を鍛える高度な鍛造技術は、そのまま船具づくりにも応用できます。鉄を熱し、打ち、鍛え、形を整えるという基本の技は、刀でも錨でも船釘でも共通しているからです。こうして、戦のための鉄の技が、海と暮らしのための鉄の技へと、自然な形で受け継がれていったと考えられます。
この「刀鍛冶から船鍛冶へ」という転換は、鞆の鍛冶が持つ技術の高さを物語っています。船具づくりは決して粗雑な仕事ではありません。錨は船の命綱であり、強度と形状の精度が求められます。船釘も、木造船の各部位に応じて使い分けが必要で、用途ごとに繊細な作り分けがなされました。刀づくりで培われた緻密な鍛造の技があったからこそ、鞆の船具は信頼され、瀬戸内の船乗りたちに重んじられたのでしょう。なお、刀鍛冶から船鍛冶への転換の具体的な経緯や時期については、史料による裏づけに限りがあり、地域に伝わる説として受け止めるのが妥当です。
関連して、福山城の天守に施されていた鉄板張り(鉄板を外壁に張る構造)について、その鉄板が鞆で作られた可能性が高いとする見方も伝えられています。福山城は元和年間に水野勝成によって築かれた近世の名城で、その天守の鉄板張りは全国的にも珍しいものでした。もしその鉄板の一部が鞆の鍛冶の手によるものであったとすれば、鞆の鉄の技が城づくりの最前線でも用いられていたことになります。これはあくまで「可能性が高い」とされる伝承の域を出ない事柄ですが、鞆の鍛冶の技量と広がりを想像させる興味深い話です。福山城については本稿末尾の内部リンクもあわせてご覧ください。
鍛冶屋町と祇園町――鍛冶が集まった町
鞆の鍛冶は、町のなかでも特定の区域に集中していました。明治期から昭和初期にかけて、鍛冶屋は現在の鞆町の鍛冶屋町(かじやちょう)や祇園町(ぎおんちょう)と呼ばれる一帯を中心に集まっていたと伝えられます。「鍛冶屋町」という地名そのものが、この地に鍛冶が集積していた歴史を今に伝えています。地名は土地の記憶であり、鍛冶屋町という名は鞆の鉄の歴史を語る生きた証です。
この地域に集まった鍛冶屋の規模は相当なものだったとされます。明治から昭和初期にかけて、鞆にはおよそ二百軒もの鍛冶の仕事場があり、約二万平方メートルの範囲に広がっていたと伝えられます。その多くは、独立した大きな工場ではなく、住居の一部を仕事場として使う家内工業の形態をとっていました。つまり、職人の家がそのまま鍛冶場であり、暮らしと仕事が一体となっていたのです。鍛冶屋町を歩けば、あちこちから鎚を打つ音や鞴の風の音が聞こえ、火床の熱気が町に満ちていたことでしょう。
家内工業として鍛冶が営まれていたということは、鞆の鍛冶が町の暮らしと深く結びついていたことを意味します。鍛冶は特別な職人だけのものではなく、町のごく身近な存在でした。家ごとに得意とする製品があり、親から子へ、師から弟子へと技が伝えられました。鍛冶屋町・祇園町という地名のなかに、そうした職人たちの日々の営みが幾世代にもわたって積み重なっていたのです。
約二百軒という数字は、鞆という決して大きくはない港町にとって、極めて高い鍛冶の密度を示しています。それだけ多くの鍛冶屋を支える需要が、潮待ちの港・鞆にはあったということです。瀬戸内を行き交う船の錨や船釘、さらには漁具や農具まで、鞆の鍛冶はさまざまな鉄製品を生み出し、地域の暮らしと海の営みを支えていました。
家内労働的な徒弟制度――技はどう受け継がれたか

鞆の鍛冶において、技術はどのように受け継がれていったのでしょうか。鞆の鍛冶職人のあいだでは、近世以来の「家内労働的な徒弟制度」が昭和初期まで続けられていたとされます。親方と弟子がともに同じ火床で鍛造に向き合い、日々の作業のなかで技を伝え、また学んでいく――そうした人から人への直接的な技術継承が、長く鞆の鍛冶を支えていました。
家内労働的な徒弟制度とは、文字どおり、家のなかでの労働を基盤とした師弟関係です。弟子は親方の家に身を寄せ、暮らしをともにしながら鍛冶の技を覚えていきました。鉄の見極め方、火の加減、鎚の打ち方、焼き入れのタイミング――こうした技術の多くは、言葉だけでは伝えきれない、身体で覚える「暗黙知」の世界です。だからこそ、親方とともに長い時間を過ごし、その手元を見て、同じ作業を繰り返すなかでしか身につかないものでした。
この徒弟制度が「近世以来」続いていたという点は重要です。江戸時代の早い段階で確立した技術継承の仕組みが、明治・大正を経て昭和初期まで、世の中が大きく近代化していくなかでも維持されていたのです。それは、鞆の鍛冶の技がそれだけ高度で、簡単には機械化・標準化できない職人技であったことの裏返しでもあります。手仕事の精度がものをいう船具づくりだからこそ、人から人へ技を伝える徒弟制度が長く生き続けたのでしょう。
こうして受け継がれた技は、単なる技術にとどまらず、職人たちの誇りや、鉄に向き合う姿勢、ものづくりへの心構えまでをも含んでいました。鞆の鍛冶が今日まで一定の形で受け継がれているのは、この人から人への継承の伝統があったからこそだといえます。
錨(碇)――船の命を支える鉄
鞆の鍛冶が手がけた製品のなかでも、最も象徴的なものが錨(いかり・碇)です。錨は船を停泊させるための要であり、まさに「船の命を支える鉄」といえます。順潮を待って鞆に停泊する船にとって、確実に船を留め置く錨は欠かせない道具でした。潮待ちの港・鞆で錨づくりが盛んになったのは、ごく自然なことだったのです。
鞆で作られた錨には、いくつかの種類があったことが知られています。代表的なものとして「四爪錨(よつめいかり)」と「唐人錨(とうじんいかり)」が伝えられています。四爪錨はその名のとおり四つの爪を持つ錨で、爪が海底をしっかりと掴むことで船を安定させます。唐人錨は二爪、すなわち二つの爪を持つ形式の錨とされ、「唐人」の名が示すように大陸由来の形式を伝えるものと考えられます。爪の数や形状の違いは、船の大きさや停泊する海底の状態に応じた使い分けを反映していたとみられます。
錨づくりは、鍛冶の技術のなかでも高度なものです。大きく重い鉄の塊を熱し、何度も打ち鍛えて、強度のある爪や軸を成形しなければなりません。爪は海底を掴むために適切な角度と鋭さが求められ、軸は錨全体を支える強さが必要です。一本の錨を仕上げるには、相当な労力と熟練が要ったことでしょう。鞆の鍛冶職人たちは、こうした重く硬い仕事に日々向き合い、瀬戸内を行く船の安全を陰で支えていました。
今日でも、鞆では錨づくりの伝統的な技術を継承しようとする取り組みが続けられています。後述するように、鞆鍛冶の技を伝える工房では、錨づくりにつながる鍛造の体験ができる場も生まれています。海を支えた鉄の技は、形を変えながらも鞆の地に生き続けているのです。
船釘――木造船を組み上げる鉄の要
錨と並んで、鞆の鍛冶を支えたもうひとつの主力製品が船釘(ふなくぎ)です。木造船は、多くの木材を組み合わせて作られますが、その接合を担うのが船釘でした。船釘は木造船を組み上げる「鉄の要」であり、船の強度と耐久性を左右する重要な部品です。鞆では、用途に応じてさまざまな種類の船釘が作り分けられていました。
鞆で作られた船釘には、「縫釘(ぬいくぎ)」「通釘(とおしくぎ)」「包釘(つつみくぎ)」「貝折釘(かいおれくぎ)」などの種類があったことが伝えられています。それぞれ名称が異なるのは、形状や用途が異なるからです。木造船を造るうえでは、板と板を縫い合わせるように接合する箇所、貫通させて留める箇所、端を折り曲げて固定する箇所など、部位ごとに最適な釘の形が求められます。鞆の鍛冶職人は、こうした多様な接合の要求に応えるべく、種類豊富な船釘を打ち分けていました。
船釘は、その大きさも木造船の建造目的に応じてさまざまだったとされます。大型の船を造るなら大きく頑丈な釘が、小型の船なら細かな釘が必要になります。一見地味な部品ですが、船釘の良し悪しは船全体の安全に直結します。海の上で釘が緩めば、それは船体の崩壊につながりかねません。だからこそ、信頼できる船釘を打てる鞆の鍛冶は、船大工たちから重んじられたのでしょう。
船釘づくりは、錨づくりとはまた違った技術を要します。数多くの釘を、用途ごとに正確な形で、しかも量産的に打ち続けなければなりません。一本一本は小さくとも、それを過たず仕上げる精度と、安定した品質を保つ熟練が求められました。鞆の鍛冶の底力は、こうした船釘づくりの確かさにも表れていたといえます。
鍛冶の道具たち――鞴・金床・鎚・鑢
鞆の鍛冶を支えたのは、職人の技だけではありません。その技を形にするための道具もまた、鍛冶仕事に欠かせないものでした。鞆の鍛冶用具として伝えられているものには、鞴(ふいご)、金床(かなとこ)、箸(はし)、鎚(つち)、鑢(やすり)、キサゲなどがあります。これらの道具一つひとつに、鉄を鍛えるための明確な役割がありました。
「鞴」は、鉄を熱処理する火床に風を送り込むための道具です。火床の炭に空気を送ることで、鉄を加工に適した高温まで熱します。鞴が送る風の量と加減は、鍛冶仕事の出来を左右する重要な要素でした。職人は風の音と火の色を見ながら、鉄が最適な状態になるのを見極めたのです。鞴の規則的な音は、鍛冶場を象徴する音であり、鞆の鍛冶屋町に響いていた日常の音でもありました。
「金床」は、熱した鉄を打つときの作業台にあたる道具です。職人はこの金床の上に赤熱した鉄を置き、鎚で打って成形しました。「箸(鍛冶箸)」は、熱い鉄を挟んで保持するための道具で、これがなければ高温の鉄を扱うことはできません。「鎚」は鉄を打つための工具で、鍛造そのものを担う最も基本的な道具です。これら鞴・金床・箸・鎚がそろって初めて、鉄を熱し、挟み、打ち、形を整えるという一連の鍛造作業が成り立ちます。
成形のあとは仕上げの工程です。「鑢(やすり)」は鉄の表面を削って整える道具、「キサゲ」も同じく仕上げに用いる道具です。打って形を作るだけでなく、表面を丁寧に整えることで、製品としての完成度が高まります。荒々しい鍛造から繊細な仕上げまで、鞆の鍛冶はこれらの道具を使い分けて、確かな船具を生み出していたのです。これらの鍛冶用具は、鞆の鍛冶の技を物語る貴重な物証として、後述する資料館に大切に保存されています。
船具にとどまらない――漁具・農具にも広がった鉄の技
鞆の鍛冶は船具づくりを中心としていましたが、その技は船具だけにとどまりませんでした。鞆の鍛冶用具・製品のなかには、「漁網の錘(おもり)の鋳型」や「備中鍬(びっちゅうぐわ)の爪」といったものも含まれていたことが伝えられています。これは、鞆の鍛冶が海の道具だけでなく、漁業や農業の道具づくりにも携わっていたことを示しています。
「漁網の錘の鋳型」は、漁網に取り付ける錘を作るための型です。漁網を海中で適切に沈めるには錘が欠かせず、その錘を量産するための鋳型もまた鍛冶仕事の一環でした。鞆は漁業も盛んな港町でしたから、漁具の製作にも鍛冶の技が活かされていたのは自然なことです。海に生きる町として、船具と漁具の両方を支えていたのです。
「備中鍬の爪」は、農具である備中鍬の刃にあたる部分です。備中鍬は、何本かの爪を持つ鍬で、固い土を耕すのに適した農具として広く用いられました。その爪を鍛えるのも鍛冶の仕事です。鞆の鍛冶が農具の部品まで手がけていたということは、鞆の鉄の技が海だけでなく、周辺地域の農の暮らしまで支えていたことを物語ります。船・海・農――鞆の鍛冶は、地域のさまざまな営みに鉄の力で寄り添っていたのです。
このように、鞆の鍛冶は「船具に特化した専門技術」でありながら、同時に「地域の暮らしを総合的に支える鉄の技」でもありました。錨や船釘という花形の製品の陰で、漁具や農具といった生活の道具づくりも担っていたことを知ると、鞆の鍛冶の懐の深さが見えてきます。
「鞆の鍛冶用具及び製品」が文化財に――567点の重み
鞆の鍛冶の歴史的価値は、近年あらためて公的に認められました。「鞆の鍛冶用具及び製品」が、令和三年(二〇二一年)三月十一日に国の登録有形民俗文化財として登録されたのです。これは、鞆の鍛冶が育んできた技術と、それが生み出した製品が、日本の民俗文化を伝える貴重な遺産であると評価されたことを意味します。
登録された「鞆の鍛冶用具及び製品」は、総数五百六十七点に及びます。その内訳は、鍛冶用具が百九十三点、製品が三百七十四点とされています。鍛冶用具には、前述した鞴・金床・箸・鎚・鑢・キサゲなどが含まれ、製品には四爪錨や唐人錨といった錨、縫釘・通釘・包釘・貝折釘などの船釘、さらに漁網の錘の鋳型や備中鍬の爪などが含まれています。これらの用具は、昭和の中頃まで実際に使われていたものとされ、近代の鞆の鍛冶の実態を今に伝える生きた資料です。
五百六十七点という点数は、決して小さな数ではありません。これだけまとまった形で鍛冶の用具と製品が保存・登録されていることは、鞆の鍛冶が地域の産業として確かな実体を持っていたこと、そしてその記録を後世に残そうとする地域の意志があったことを示しています。道具と製品の両方がそろって残されているからこそ、「どんな道具を使って、どんな製品を作っていたのか」という鍛冶仕事の全体像を具体的にたどることができるのです。
登録有形民俗文化財という区分は、人々の生活の推移を理解するうえで欠かせない、衣食住・生業・信仰・年中行事などに関わる有形の民俗資料を対象とするものです。鞆の鍛冶用具及び製品がこの区分で登録されたことは、鞆の鍛冶が単なる技術ではなく、港町に生きた人々の「生業(なりわい)」そのものを物語る文化として位置づけられたことを意味します。鉄を打つ営みが、鞆という町の暮らしの根幹を成していたのです。
鞆の浦歴史民俗資料館に伝わる鍛冶の記憶
「鞆の鍛冶用具及び製品」を所蔵し、伝えているのが、鞆町にある福山市鞆の浦歴史民俗資料館です。所在地は広島県福山市鞆町五三六番地の一とされ、鞆の浦を見下ろす高台に位置しています。この資料館では、鞆の鍛冶をはじめ、鞆の浦の歴史と民俗を物語るさまざまな資料を見ることができます。
資料館で実際の鍛冶用具や製品を目にすると、これまで言葉でたどってきた鞆の鍛冶の歴史が、ぐっと身近に感じられます。風を送る鞴、鉄を打つ金床と鎚、熱い鉄を挟む箸――それらの道具を前にすれば、火床の前で汗を流した職人たちの姿が目に浮かぶようです。四爪錨や唐人錨の実物は、船の命を支えた鉄の重みを静かに伝えてくれます。船釘の一つひとつには、木造船を組み上げた職人たちの確かな仕事が宿っています。
歴史を文章で読むことと、実物を目で見ることは、まったく別の体験です。鞆の浦を訪れた際には、ぜひこの資料館に足を運び、鞆の鍛冶が残した道具と製品に直接触れてみてください。潮待ちの港・鞆が、なぜ「鉄の町」でもあったのか――その答えが、展示された一点一点のなかに息づいています。なお、開館日や開館時間、入館料などの最新情報は、訪問前に資料館の公式案内で確認することをおすすめします。
現代に受け継がれる鞆の鉄――鉄鋼のまちへ
鞆の鍛冶の伝統は、過去のものとして博物館のなかに閉じ込められているわけではありません。鞆の鉄の技は、形を変えながら現代にも受け継がれています。鞆には、鍛冶の伝統を背景とする鉄鋼関連の企業が今も数多く存在します。二〇二三年の時点でも、鞆にはおよそ七十もの鉄鋼関連の会社があるとされ、かつての鍛冶の町は、現代の鉄鋼産業の集積地へと姿を変えながら生き続けています。
木造船の時代が終わり、錨や船釘を手で打つ需要は大きく減りました。しかし、鉄を加工する技術と、それを担う人々の集積は、新たな鉄鋼産業の土壌となりました。潮待ちの港に集まった鍛冶の技が、近代以降の鉄鋼業へと連なっていったと考えれば、鞆の鉄の歴史は途切れることなく続いているといえます。鞆を「鉄のまち」として捉える視点は、鞆の浦という港町を理解するうえで欠かせないものです。
福山市全体を見渡せば、現代の福山は瀬戸内有数の「鉄のまち」として知られています。臨海部には大規模な製鉄所が立地し、鉄鋼業は福山の基幹産業のひとつです。鞆の鍛冶から福山の鉄鋼業へ――その大きな流れのなかに、鞆の鉄の技がどのように位置づけられるかを考えることは、福山という地域の産業史を深く理解する手がかりになります。鞆の小さな火床から始まった鉄の物語が、現代の巨大な製鉄の風景へとつながっていると思うと、感慨深いものがあります。
鞆鍛冶の技を伝える工房と鍛造体験
鞆の鍛冶の伝統を、現代に体験として伝えようとする取り組みも生まれています。鞆には、伝統的な鍛冶の技を背景に、錨や船釘などを作ってきた鍛造の技術を継承し、一般の人が鍛造を体験できる工房があります。代表的なものとして、鞆鍛冶の技術を伝える工房「santo(サント)」が知られています。これは、約七十年前に鍛冶屋としてスタートした事業者が運営するもので、鞆の鉄の技を未来へつなぐ場となっています。
こうした工房では、訪れた人が実際に鉄を熱し、打ち、自分の手で鉄製品を作る鍛造体験ができます。報道などによれば、こうした体験には鉄製のフライパンといったキャンプ用品などを作るメニューも用意されているとされ、伝統技術を現代の暮らしに結びつける工夫がなされています。鍛冶という、ともすれば遠い過去の営みに思える技術を、自分の身体で体験できることは、鞆の鉄の歴史を肌で理解する貴重な機会です。
「読む歴史」から「触れる歴史」へ。鞆の鍛冶を体験を通して知ることは、本や資料からは得られない実感を与えてくれます。熱せられた鉄の重み、鎚を打つ手応え、火床の熱――そうした身体的な体験のなかで、かつて鞆の鍛冶職人たちが向き合っていた世界の一端を、わずかながらも追体験することができます。鞆を訪れる際には、こうした鍛造体験を旅程に組み込むのも、鞆の鉄の歴史を深く味わう一つの方法です。なお、体験の実施日や予約方法、料金などは時期によって変わるため、必ず各工房の最新の公式案内をご確認ください。
関連年表――鞆の鍛冶と港町の歩み
ここまでたどってきた鞆の鍛冶と港町の歴史を、年表の形で整理します。年代や経緯には諸説を含む事項があるため、おおよその流れをつかむための目安としてご覧ください。
鞆の鍛冶をめぐる――歩き方と関連スポット
鞆の鍛冶の歴史を実際に巡るなら、いくつかの楽しみ方があります。まずおすすめしたいのが、福山市鞆の浦歴史民俗資料館での鑑賞です。前述のとおり、ここには文化財に登録された鍛冶用具と製品が所蔵されており、鞆の鉄の歴史を実物で確かめることができます。高台に位置するため、鞆の浦の港と町並みを一望できる眺望も魅力です。
資料館で鞆の鍛冶の全体像をつかんだら、次は鍛冶屋町・祇園町の界隈を歩いてみましょう。かつて約二百軒の鍛冶屋が軒を連ねたとされるこの一帯には、地名のなかに鉄の記憶が刻まれています。古い町並みのなかを歩きながら、ここで鎚の音が響き、火床の熱気が満ちていた時代を想像してみてください。鞆の浦の美しい町並みそのものが、潮待ちの港・鍛冶の町の歴史を物語る生きた展示室です。鞆の浦の街並みについては、本稿末尾の内部リンクから詳しいガイドをご覧いただけます。
鍛造体験ができる工房を訪れるのも、鞆の鉄を深く味わう方法です。実際に鉄を打つ体験は、資料を読むだけでは得られない実感を与えてくれます。さらに、鞆の鍛冶とあわせて、保命酒の蔵元を訪ねたり、常夜燈や雁木といった港の遺構を巡ったりすれば、潮待ちの港・鞆の浦の多面的な魅力をまるごと味わうことができます。鍛冶は鞆という町を理解するための一つの切り口であり、それを入り口に鞆の歴史と文化の全体へと旅を広げていくのがおすすめです。
鞆の鍛冶の歴史は、福山という地域の産業史とも深くつながっています。鞆の鉄から福山の鉄鋼業へという大きな流れ、城づくりに用いられたかもしれない鉄板張り、そして備後の地に育まれた他の地場産業――こうした関連するテーマへと視野を広げると、鞆の鍛冶がより立体的に見えてきます。福山の歴史全体のなかに鞆の鍛冶を位置づけるために、本稿末尾の通史ガイドや関連記事もぜひあわせてお読みください。
よくある質問(FAQ)
Q鞆の浦はなぜ鍛冶が栄えたのですか?
鞆の浦は「潮待ちの港」として、順潮を待つ船が数多く停泊する港町でした。停泊中の船が錨や船釘などの船具を修理・新調する需要が集まったことが、鍛冶(船鍛冶)が栄えた大きな理由とされます。加えて、背後の中国山地が鉄の産地であり、材料となる鉄を比較的得やすかったことも、鍛冶業の発展を支えたと考えられます。
Q「潮待ちの港」とはどういう意味ですか?
動力を持たない帆船の時代、船は潮の流れに乗って進みました。鞆の浦は瀬戸内海の潮の分かれ目にあたり、潮の向きが変わるのを待つのに適した港でした。船が順方向の潮を待って停泊することを「潮待ち」といい、その港を「潮待ちの港」と呼びます。鞆の浦はその代表的な港のひとつです。
Q鞆では刀鍛冶もいたのですか?
戦乱の世から泰平の世へと移るなかで、刀を打っていた鍛冶職人が、その技を船具づくりへと転じていった、すなわち刀鍛冶が船鍛冶へと仕事を変えていったと伝えられています。これにより鞆では船釘や錨の生産が盛んになったとされます。ただし、その具体的な経緯や時期については史料の裏づけに限りがあり、地域に伝わる説として受け止めるのが妥当です。
Q鞆ではどんな製品が作られていたのですか?
主力製品は錨と船釘です。錨には四爪錨や二爪の唐人錨があり、船釘には縫釘・通釘・包釘・貝折釘などの種類がありました。船釘は木造船の建造目的に応じて大きさもさまざまでした。このほか、漁網の錘の鋳型や備中鍬の爪なども作られていたことが伝えられています。
Q唐人錨とはどんな錨ですか?
唐人錨は、二つの爪を持つ形式の錨とされ、「唐人」の名が示すように大陸由来の形式を伝えるものと考えられます。四つの爪を持つ四爪錨と並んで、鞆で作られた代表的な錨の一種として知られています。爪の数や形状の違いは、船の大きさや海底の状態に応じた使い分けを反映していたとみられます。
Q鞆の鍛冶屋はどこに集まっていたのですか?
明治期から昭和初期にかけて、鍛冶屋は現在の鞆町の鍛冶屋町や祇園町と呼ばれる一帯を中心に集まっていたと伝えられます。「鍛冶屋町」という地名そのものが、この地に鍛冶が集積していた歴史を今に伝えています。およそ二百軒もの鍛冶の仕事場が、約二万平方メートルの範囲に広がっていたとされます。
Q鞆の鍛冶はどのくらいの規模だったのですか?
明治から昭和初期にかけて、鞆にはおよそ二百軒の鍛冶の仕事場があり、約二万平方メートルの範囲に広がっていたと伝えられます。その多くは独立した工場ではなく、住居の一部を仕事場とする家内工業の形態をとっていました。決して大きくない港町にしては、極めて高い鍛冶の密度を示す規模です。
Q技術はどのように受け継がれたのですか?
鞆の鍛冶職人のあいだでは、近世以来の「家内労働的な徒弟制度」が昭和初期まで続けられていたとされます。親方と弟子がともに同じ火床で鍛造に向き合い、日々の作業のなかで技を伝え、また学んでいくという、人から人への直接的な技術継承が長く行われていました。
Q「鞆の鍛冶用具及び製品」とは何ですか?
鞆の鍛冶が用いた道具と、その道具によって作られた製品をまとめた民俗資料です。令和三年(二〇二一年)三月十一日に、国の登録有形民俗文化財として登録されました。総数は五百六十七点で、内訳は鍛冶用具が百九十三点、製品が三百七十四点とされています。福山市鞆の浦歴史民俗資料館が所蔵しています。
Q鍛冶用具や製品はどこで見られますか?
福山市鞆の浦歴史民俗資料館(広島県福山市鞆町五三六番地の一)が所蔵しています。鞆の浦を見下ろす高台に位置し、鞆の鍛冶をはじめ鞆の歴史と民俗を物語る資料を見ることができます。開館日や開館時間、入館料などの最新情報は、訪問前に資料館の公式案内でご確認ください。
Q福山城の鉄板張りは鞆で作られたのですか?
福山城の天守に施されていた鉄板張りについて、その鉄板が鞆で作られた可能性が高いとする見方が伝えられています。ただし、これは「可能性が高い」とされる伝承の域を出ない事柄であり、確定した史実として断定できるものではありません。鞆の鍛冶の技量と広がりを想像させる話として受け止めるのが適切です。
Q今でも鞆で鍛冶の技は受け継がれていますか?
はい。鞆には鍛冶の伝統を背景とする鉄鋼関連の企業が今も数多くあり、二〇二三年時点でおよそ七十社あるとされます。また、鞆鍛冶の技術を伝える工房では、錨づくりにつながる鍛造の体験ができる場も生まれています。鞆の鉄の技は、形を変えながら現代にも受け継がれています。
Q鞆の鍛冶を旅で楽しむにはどうすればよいですか?
まずは福山市鞆の浦歴史民俗資料館で鍛冶用具と製品を鑑賞し、鞆の鉄の歴史をつかむのがおすすめです。そのうえで鍛冶屋町・祇園町の界隈を歩いて地名に刻まれた記憶をたどり、鍛造体験ができる工房で実際に鉄を打ってみると、鞆の鉄の歴史をより深く味わえます。保命酒の蔵元や港の遺構巡りと組み合わせれば、潮待ちの港・鞆の浦の魅力をまるごと楽しめます。
まとめ――海を支えた鉄の技と、その記憶
鞆の鍛冶と船具の歴史は、「潮待ちの港」という鞆の浦の性格から生まれ、瀬戸内を行き交う無数の木造船を陰で支えた、鉄の技の物語でした。順潮を待つ船が集まる港には、錨や船釘を修理・新調する需要が生まれ、背後の中国山地から供給される鉄を材料に、船鍛冶が花開きました。戦乱の世から泰平の世へと移るなかで、刀を打った技が船具づくりへと振り向けられたと伝えられ、鞆は瀬戸内有数の鍛冶の町へと成長していったのです。
明治から昭和初期にかけて、鍛冶屋町・祇園町を中心におよそ二百軒もの鍛冶が家内工業として営まれ、近世以来の徒弟制度のもとで技が受け継がれました。四爪錨や唐人錨、縫釘・通釘・包釘・貝折釘といった製品は、海と暮らしを確かに支えました。そして令和三年(二〇二一年)、「鞆の鍛冶用具及び製品」五百六十七点が国の登録有形民俗文化財となり、鞆の鉄の記憶は公的に未来へと託されました。今日でも鞆にはおよそ七十の鉄鋼関連企業があり、鍛造体験を通じて伝統に触れることもできます。
鞆の浦を訪れるとき、保命酒や美しい町並みとともに、ぜひこの「鉄のまち」としての横顔を思い出してください。碇を鍛え、刃物を打ち、船を支えた鉄の技は、潮待ちの港の歴史そのものです。火床の前で汗を流した職人たちの営みに思いを馳せながら鞆を歩けば、この港町の奥行きが、きっと何倍にも深く感じられることでしょう。
関連記事
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出典・注意
- 福山市「鞆の鍛冶用具及び製品」
- 文化遺産オンライン(文化庁)「鞆の鍛冶用具及び製品」
- 福山市「鞆の浦について」
- 広島県(ひろしまラボ)「千年の歴史をもつ港町『鞆の浦』その魅力とは?」
- 備後とことこ「santo(サント)~鞆鍛冶の技術を伝える工房で鍛造体験」
- 鉄の道文化圏ほか、中国山地のたたら製鉄に関する資料
※年代・経緯には諸説ある事項を含みます。詳細は各施設・公式情報や郷土資料でご確認ください。
最終更新: 2026年6月10日
史跡情報は福山NOTE 史跡図鑑(fn_history)より。