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🏯 歴史

福山市制のあゆみ|1916年の市制施行から中核市へ

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福山市制のあゆみ|1916年の市制施行から中核市へ

広島県東部・備後地方の中心都市として、いまや人口約46万人を擁する福山市。瀬戸内の温暖な気候、ばらのまちとしての景観、ものづくりの産業集積、そして鞆の浦に代表される歴史遺産――。その姿は一日にしてできあがったものではありません。1916年(大正5年)に深安郡福山町が市制を施行して「福山市」が誕生してから、合併を重ね、戦災から立ち上がり、鉄鋼の街として発展し、1998年(平成10年)には中核市へと移行しました。この記事では、福山市が歩んできた市制110年余りのあゆみを、確かな史料にもとづいてたどります。城下町としての出自から現在の市域がかたちづくられるまでの流れを知ると、ふだん何気なく目にしている町名や地名、施設の配置にも、いくつもの歴史の層が重なっていることが見えてきます。

なお、本稿で扱う年代・経緯のなかには諸説ある事項も含まれます。年号や数値は福山市公式サイトの沿革・年表、総務省の資料、各百科事典などで確認できる範囲を中心に記述し、確証のない逸話は断定を避けています。福山の通史の全体像については福山の歴史まるわかり通史ガイドもあわせてご覧ください。

史跡図鑑|福山市制のあゆみに関わる史跡

福山市制のあゆみは、城下町の中核であった福山城を起点として、合併で結ばれた周辺の町や村、そして近代化・産業化の舞台となった港湾や鉄道へと広がっていきます。まずは福山NOTEの史跡図鑑から、この物語に関わりの深い場所を一覧でご覧ください。一覧表で全体を見渡し、比較表で立地や時代を見くらべ、詳細カードで一つひとつの背景を確かめる――三つの入り口から、福山の歩みを支えてきた土地に触れてみてください。

福山城 伏見櫓 📖江戸時代(元和年間)📍 福山駅前(福山市街)福山城 📖近世(江戸)📍 丸之内福山城博物館 📖近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)📍 福山駅前(福山市街)草戸千軒町遺跡 📖中世📍 草戸町明王院 📖中世📍 草戸町鞆の津の町並み(重伝建) 📖江戸時代(中世〜近代の建造物群)📍 鞆町鞆の浦の常夜燈と港湾施設 📖江戸時代📍 鞆町福山市鞆の浦歴史民俗資料館 📖近代(昭和)📍 鞆町鞆の浦 📖中世〜近世📍 鞆町福禅寺 対潮楼 📖近世📍 鞆町太田家住宅 📖江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)📍 鞆町いろは丸展示館 📖近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)📍 鞆町仙酔島古代(地質)/近代(指定)📍 鞆町廉塾(菅茶山旧宅) 📖近世📍 神辺町神辺城跡 📖中世📍 神辺町福山八幡宮 📖近世📍 北吉津町沼名前神社 📖近世📍 鞆町阿伏兎観音(磐台寺観音堂)近世📍 沼隈町吉備津神社(備後一宮)江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる📍 新市町素盞嗚神社(備後一宮) 📖飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮📍 新市町

史跡時代概要📍 エリア詳細
福山城 伏見櫓江戸時代(元和年間)伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最…📍 福山駅前(福山市街)下へ ↓
福山城近世(江戸)備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御…📍 丸之内下へ ↓
福山城博物館近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩…📍 福山駅前(福山市街)下へ ↓
草戸千軒町遺跡中世芦田川の中州にあった中世の港町・集落遺跡。発…📍 草戸町下へ ↓
明王院中世本堂と五重塔がともに国宝。中世密教寺院で、五…📍 草戸町下へ ↓
鞆の津の町並み(重伝建)江戸時代(中世〜近代の建造物群)潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と…📍 鞆町下へ ↓
鞆の浦の常夜燈と港湾施設江戸時代江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯…📍 鞆町下へ ↓
福山市鞆の浦歴史民俗資料館近代(昭和)鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬…📍 鞆町下へ ↓
鞆の浦中世〜近世瀬戸内の「潮待ちの港」。常夜燈・雁木・波止場…📍 鞆町下へ ↓
福禅寺 対潮楼近世朝鮮通信使の使節が「日東第一形勝」と讃えた客…📍 鞆町下へ ↓
太田家住宅江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で…📍 鞆町下へ ↓
いろは丸展示館近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵…📍 鞆町下へ ↓
仙酔島古代(地質)/近代(指定)鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連…📍 鞆町下へ ↓
廉塾(菅茶山旧宅)近世儒学者・菅茶山が開いた私塾。当時の塾舎・住宅…📍 神辺町下へ ↓
神辺城跡中世備後南部の中世山城。福山城が築かれる以前、備…📍 神辺町下へ ↓
福山八幡宮近世福山城の北に鎮座し、東西二つの宮を備える。歴…📍 北吉津町下へ ↓
沼名前神社近世鞆の「祇園さん」。夏の大松明を担ぐ「お手火神…📍 鞆町下へ ↓
阿伏兎観音(磐台寺観音堂)近世断崖の上に建つ朱塗りの観音堂。国の重要文化財…📍 沼隈町下へ ↓
吉備津神社(備後一宮)江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で…📍 新市町下へ ↓
素盞嗚神社(備後一宮)飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏の…📍 新市町下へ ↓

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福山城 伏見櫓

江戸時代(元和年間) / 📍福山駅前(福山市街)

伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最古級の三層入母屋造の現存櫓。 福山城伏見櫓は、元和8年(1622年)の福山城築城に際し、城主水野勝成が将軍徳川秀忠から下賜を受け、京都の伏見城から移築させたと伝えられる櫓である。長らく伝承とされていたが、昭和29年(1954年)の解体修理の際、梁の陰刻に「松ノ丸ノ東やく(ら)」の文字が発見され、伏見城からの移築を裏付ける確かな遺構であることが明らかになった。構造は三層入母屋造で、初層と二層を同じ柱割とし、その上にやや小さい三層を望楼状に載せる。桁行八間・梁間三間、本瓦葺の規模をもつ。慶長期の城郭建築の様式を残す初期の典型として価値が高く、昭和8年(1933年)1月23日に国の重要文化財に指定された。福山城内に現存し、特別公開が行われることもある。

🕰 時代江戸時代(元和年間)
🏛 成立・築造元和8年(1622年)水野勝成の福山城築城時に伏見城から移築。国指定重要文化財(昭和8年=1933年1月23日指定)
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目(福山城内)
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福山城

近世(江戸) / 📍丸之内

備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御門は京都伏見城からの移築と伝わる。2022年に築城400年を迎えた。

🕰 時代近世(江戸)
🏛 成立・築造1622年(元和8)・水野勝成
👤 関連水野勝成・阿部正弘
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目8
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福山城博物館

近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期) / 📍福山駅前(福山市街)

水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩の歴史を体験型展示で伝える博物館 福山城博物館は、JR福山駅のすぐ北に建つ福山城天守内に置かれた市立の歴史資料館です。福山城は1622年(元和8年)、徳川譜代の大名・水野勝成が西国鎮衛の拠点として築いた近世城郭で、天守は1931年に国宝に指定されました。しかし1945年8月の福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリート造で外観が復興され、その内部が博物館として公開されました。2022年には築城400年に合わせて大規模リニューアルされ、北面の鉄板張り(黒い装い)の再現や、一番槍レース・火縄銃などの体験型コンテンツ、デジタル映像を用いた展示が整えられ、福山城と福山藩の歴史を学べる施設となっています。城内に現存する伏見櫓と筋鉄御門は、京都・伏見城からの移築と伝えられ、国の重要文化財に指定されています。常設展は有料、月曜休館とされます。

🕰 時代近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)
🏛 成立・築造福山城は1622年(元和8年)に初代福山藩主・水野勝成が築城。天守は1945年福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリートで外観復興、内部を博物館として開館。2022年に大規模リニューアル
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目8番
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鞆の津の町並み(重伝建)

江戸時代(中世〜近代の建造物群) / 📍鞆の浦

潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と町家が一体で残る重伝建地区 鞆の浦は瀬戸内海の中央に位置し、古来「潮待ちの港」として栄え、万葉集にも詠まれた歴史を持つとされる。江戸時代には北前船など廻船の寄港地として繁栄し、朝鮮通信使の寄港地ともなった。2017年(平成29年)11月28日、「福山市鞆町伝統的建造物群保存地区」として約8.6ヘクタールが国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。範囲は鞆字西町の全域を中心に、石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地の一部に及ぶ。中世から江戸期に整えられた地割の上に、江戸時代から昭和30年代までの町家や寺社、石垣などが一体的に残る近世港町の景観が評価された。常夜燈・雁木・波止・焚場・船番所の5つの港湾施設がほぼ完全に残る点は全国でも稀とされる。広島県内では3例目の選定で、2018年には日本遺産にも認定された。

🕰 時代江戸時代(中世〜近代の建造物群)
🏛 成立・築造2017年(平成29年)11月28日に国の重要伝統的建造物群保存地区へ選定。地割は中世〜江戸期、建造物は江戸時代〜昭和30年代まで。
📍 所在地広島県福山市鞆町(鞆字西町全域ほか、字石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地字古城跡・草谷の各一部)
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鞆の浦の常夜燈と港湾施設

江戸時代 / 📍鞆の浦

江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯一の近世港、鞆港。 鞆の浦の鞆港には、常夜燈・雁木・波止・焚場(たでば)・船番所という江戸時代の港湾施設5点がほぼ揃って現存し、これらが一体で残るのは全国でも鞆港のみとされる。シンボルの常夜燈は安政6年(1859)の刻銘をもつ石造灯台で、海中の基礎石から宝珠の頂までは約12.1mに及び、江戸期の石造常夜燈としては国内最大級とされる。雁木は潮の干満に応じて船を着けられる階段状の船着き場で、半円形の港内に連続して巡らされている。波止は花崗岩を積んだ全長約146mの防波堤で、江戸後期に築かれ明治期に修築された。鞆港を含む沿岸と沖の島々一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定され、鞆町西町を中心とする区域は2017年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。日本遺産「瀬戸の夕凪が包む 国内随一の近世港町」の構成要素でもある。

🕰 時代江戸時代
🏛 成立・築造常夜燈は安政6年(1859)造立とされる。雁木・波止・焚場・船番所は江戸後期築造、波止は明治期に修築。鞆港一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定。
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆
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福山市鞆の浦歴史民俗資料館

近代(昭和) / 📍鞆の浦

鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬戸内の歴史・民俗を伝える市立資料館 福山市鞆の浦歴史民俗資料館は、広島県福山市鞆町後地に建つ市立の博物館で、「潮待ちの館」の愛称で親しまれる。1977年(昭和52年)からの地元有志による調査・収集活動を背景に、福山市制70周年記念事業として1988年(昭和63年)に開館した。立地は、福島正則が築いたとされる鞆城跡(福山市指定史跡)の高台で、瀬戸内海を見渡せる。万葉の時代から潮待ち・風待ちの港として栄えた鞆の浦を中心に、古代から近世にいたる歴史資料を展示。鯛網漁のジオラマや錨を製造した鍛冶場、朝鮮通信使関連資料、保命酒に関する資料に加え、お手火神事・お弓神事といった地域の民俗文化財も常設展示する。鞆の歴史と暮らしを総合的に学べる拠点とされる。

🕰 時代近代(昭和)
🏛 成立・築造1988年(昭和63年)開館。福山市制70周年記念事業として建設。建つ鞆城跡は福島正則が築いたとされる(福山市指定史跡)
📍 所在地広島県福山市鞆町後地536-1
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太田家住宅

江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期) / 📍鞆の浦

鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で、国の重要文化財 鞆の浦を代表する歴史的建造物で、薬用酒「保命酒」の醸造で財を成した商家の旧宅。もとは大坂の漢方医を出自とする中村家の屋敷で、明暦元年(1655年)に鞆へ移り住み、まもなく十六味地黄保命酒の製造・販売を始めて大ヒットし、福山藩の御用名酒屋として販売独占権を得たとされる。明治期に廻船業を営んだ太田家が継承し、現在の名で呼ばれる。主屋を中心に保命酒蔵や各種土蔵など九棟が建ち並び、建築年代は18世紀中期から19世紀前期に及ぶ。瀬戸内の商家建築を伝える貴重な遺構として、1991年に国の重要文化財に指定された。幕末には三条実美ら尊王攘夷派の公卿が立ち寄ったと伝わり、別宅の朝宗亭とともに「鞆七卿落遺跡」として広島県の史跡(1940年指定)にもなっている。

🕰 時代江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)
🏛 成立・築造主屋は18世紀中期、ほか北保命酒蔵が天明8年(1788年)、西蔵が寛政元年(1789年)、東保命酒蔵が寛政7年(1795年)など18世紀中期〜19世紀前期。国の重要文化財指定は1991年(平成3年)5月31日。
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆842
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いろは丸展示館

近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期) / 📍鞆の浦

坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵を活かした資料館 鞆の浦のシンボル常夜灯(とうろどう)のすぐそばに建つ資料館。1867年(慶応3年)、坂本龍馬と海援隊が運航したいろは丸が紀州藩の明光丸と備後灘で衝突・沈没した「いろは丸事件」を伝える施設で、その談判が鞆の浦で行われた縁にちなむ。建物は江戸期に建てられた太い梁が印象的な土蔵で、地元では「大蔵」と呼ばれ、国の登録有形文化財とされる。館内には海底に沈むいろは丸を再現したジオラマ、引き揚げられた陶器や部品、調査風景の写真などを展示し、2階には龍馬が宿泊先で身を潜めたという「隠れ部屋」が再現され、龍馬の蝋人形も置かれている。1989年(平成元年)7月の開館。幕末史と鞆の港町文化を同時に味わえるスポットである。

🕰 時代近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)
🏛 成立・築造1989年(平成元年)7月開館。建物は江戸期築の土蔵「大蔵(浜蔵)」で、国の登録有形文化財とされる。展示題材のいろは丸事件は1867年(慶応3年)
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆843-1
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仙酔島

古代(地質)/近代(指定) / 📍鞆の浦

鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連なる瀬戸内海国立公園の名勝 仙酔島は鞆の浦の沖合に浮かぶ周囲約6キロの島で、住所は福山市鞆町後地。鞆港から市営渡船で約5分の距離にあり、観光客の往来はあるが定住者のいない無人島とされる。1925年(大正14年)に国の名勝「鞆公園」の一部として指定され、1934年(昭和9年)には日本で最初に指定された国立公園・瀬戸内海国立公園に含まれた。島は約9000万年前の大規模な火山活動による溶結凝灰岩を主体とし、南側海岸には青・赤・黄・白・黒の岩が200メートル以上連なる「五色岩」が見られ、地質的に貴重とされる。「仙人が酔うほど美しい島」が名の由来と言われる。江戸後期の学者・頼山陽が当地の景観を「山紫水明」と評したとも伝わる。

🕰 時代古代(地質)/近代(指定)
🏛 成立・築造1925年(大正14年)国名勝「鞆公園」に指定。1934年(昭和9年)日本初の国立公園・瀬戸内海国立公園に編入。島自体は約9000万年前の火山活動で形成されたとされる
📍 所在地広島県福山市鞆町後地
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吉備津神社(備後一宮)

江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる / 📍新市・北部

備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で「いっきゅうさん」と親しまれる古社 福山市新市町宮内に鎮座する備後国一宮で、地元では「一宮さん(いっきゅうさん)」と親しまれる。社伝では大同元年(806年)に吉備国の吉備津神社から勧請し創建されたと伝わるが、延喜式神名帳に記載がないことなどから実際の成立はより後とする説もある。主祭神は吉備国を治めたとされる大吉備津彦命。現在の本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が旧規模にならい造営したもので、桁行七間・梁間四間の入母屋造檜皮葺、国の重要文化財に指定されている。ほかにも木造狛犬や太刀などが重要文化財として伝えられ、複数の建造物が広島県・福山市指定文化財となっている。隣接する櫻山城跡なども史跡として知られ、備後の信仰と歴史を今に伝える。

🕰 時代江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる
🏛 成立・築造本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が造営、国の重要文化財。創建は大同元年(806年)と伝わるが諸説ある
📍 所在地広島県福山市新市町宮内400
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素盞嗚神社(備後一宮)

飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮 / 📍新市・北部

祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏のけんか神輿で名高い古社 福山市新市町戸手に鎮座する素盞嗚神社は、『延喜式神名帳』に載る式内社で備後国一宮を称し、旧社格は県社です。主祭神は素盞嗚尊で、稲田姫命・八王子を配祀します。社伝では天武天皇の治世、7世紀ごろ(679年か)の創建とされます。『釈日本紀』所収の「備後国風土記」逸文に伝わる蘇民将来説話の舞台「疫隈国社」と結びつけられ、茅の輪くぐりや祇園信仰・祇園祭発祥の地の一つとされています。神仏習合期には牛頭天王を祀り、遣唐使・吉備真備が734年に当社から播磨の広峯神社へ勧請したとも伝わります。毎年7月の例祭では、勇壮なけんか神輿(神輿合わせ)が行われることで知られます。

🕰 時代飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮
🏛 成立・築造社伝では天武天皇期の7世紀ごろ(679年か)創建とされる。『延喜式神名帳』記載の式内社で、旧県社
📍 所在地広島県福山市新市町大字戸手1-1

時代背景|城下町から近代都市へ

戦前の福山駅(奥に焼失前の福山城天守。1945年以前)
戦前の福山駅(奥に焼失前の福山城天守。1945年以前)(画像:Wikimedia Commons / CC)

福山市の市制を語るうえで欠かせない前提が、江戸時代の城下町としての出自です。福山という都市は、自然発生的に大きくなった集落ではなく、近世初頭に計画的につくられた城下町を母体としています。この出発点を押さえておくと、なぜ1916年という比較的早い時期に市制を施行できたのか、なぜ備後地方の中心都市となり得たのかが理解しやすくなります。

水野勝成の入封と福山城の築城

1619年(元和5年)、徳川家康の従兄弟にあたる水野勝成が、備後国東南部と備中国西南部にまたがる10万石の領主として入封しました。勝成は大和国郡山藩からの転封で、西国の有力外様大名を抑える「西国鎮衛」の拠点を担う役割を期待されていたとされます。勝成は、現在の福山駅周辺にあたる深津郡の地に新たな城と城下町を築くことを決め、城が完成したのは1622年(元和8年)と伝わります。このとき、それまで「蝙蝠山(こうもりやま)」などと呼ばれていたとされる地に縁起のよい「福山」の名がつけられたと伝えられています。2022年(令和4年)には、この築城から数えて「福山城築城400年」が市を挙げて記念されました。

福山城は、一国一城令が徹底されていた時期としては異例の新規築城であり、近世城郭としては最後の大規模な新築の一つとされます。北面に城外が迫る立地のため、天守の北側は大砲の直撃に耐えられるよう鉄板で覆われていたと伝わり、これは全国でも珍しい構造として知られます。福山城そのものの見どころや歴史については福山城ガイドで詳しく紹介しています。

干拓と城下町の拡張

福山藩は、米の生産量を増やすため、藩政期を通じて海岸部の干拓を進めました。現在の新涯町(しんがいちょう)周辺などは、もともと海であった場所を干拓して造成した土地とされ、こうした新田開発によって城下の経済的な基盤が広がっていきました。城を中心に武家地・町人地が配置され、港と街道で他地域と結ばれた福山の城下町は、備後地方における政治・経済の要として機能していきました。後の市制施行や市域の拡大は、こうして近世に形づくられた都市の骨格を受け継ぐかたちで進んでいくことになります。

廃藩置県と「福山町」の成立

明治維新を経て廃藩置県が行われると、城下町福山は近代的な地方制度のなかに組み込まれていきます。1889年(明治22年)の市制・町村制の施行にともない、福山の市街地は「福山町」となりました。さらに1891年(明治24年)には山陽鉄道(後の山陽本線)が開通し、鉄道の駅を中心とする近代都市への歩みが始まります。江戸期の城下町としての蓄積に、鉄道という近代的な交通インフラが加わったことで、福山町は備後地方の玄関口としての性格を強めていきました。

備後における福山の位置づけ

備後地方は、古代から瀬戸内海の海上交通と山陽道の陸上交通が交わる要地でした。近世になって福山に城下町が築かれたことで、それまで尾道などが担っていた地域の中心機能の一部が、福山へと集まっていきます。城下町には藩の役所が置かれ、武士や商人、職人が集住し、周辺の農村から人や物が流れ込む拠点となりました。福山が後に備後の中心都市として市制を施行し、さらに合併を重ねて広域の核となっていく素地は、この近世の都市づくりのなかですでに整えられていたといえます。城を中心とした計画的な都市構造は、現在の福山の市街地にも、街路の骨格などのかたちで受け継がれているとされます。

1916年(大正5年)の市制施行

福山市制のあゆみの起点となるのが、1916年(大正5年)7月1日の市制施行です。この日、深安郡福山町は廃され、市制を施行して「福山市」が発足しました。福山市公式サイトの沿革によれば、市制施行当時の人口は32,356人、面積は約5.8平方キロメートルでした。これは全国で73番目、広島県内では広島市・尾道市・呉市に次ぐ4番目の市としての誕生であったとされています。

なぜ大正初期に市制を施行できたのか

当時の市制は、一定以上の人口や都市的な集積を備えた町に対して認められるものでした。福山町が大正初期という比較的早い段階で市制を施行できた背景には、江戸時代以来の城下町としての都市的な蓄積と、明治期の鉄道開通によって強まった交通の結節点としての機能があったと考えられます。県内では広島・尾道・呉という、いずれも港湾や軍事、商業で知られる都市に続く位置づけであり、福山が備後地方の中心都市として歩み始めたことを象徴する出来事でした。

市制施行時の市域のイメージ

市制施行時の面積が約5.8平方キロメートルであったという数値は、現在の福山市の市域(後述するとおり518平方キロメートル超)と比べると、ごく限られた範囲であったことを示しています。つまり発足当初の福山市は、福山城を中心とする旧城下町とその周辺にほぼ重なる、コンパクトな都市でした。今日の広大な市域は、この後におよそ一世紀をかけて、度重なる合併によって少しずつ形づくられていったものです。福山の歩みを理解するうえで、「市制施行=現在の市域の完成」ではなく、「市制施行=拡大の出発点」であったという視点が大切になります。

1930年の福山駅新築開業

市制施行から14年後の1930年(昭和5年)には、福山駅が新築開業しています。鉄道駅は近代都市の核であり、駅前を中心とする市街地の発展は、その後の福山の都市構造を大きく方向づけていきました。福山城のすぐ南側に駅が置かれたという立地は、城と駅、すなわち近世の中枢と近代の中枢が至近距離に並ぶという、福山ならではの都市景観を生み出しています。現在も福山駅のホームから福山城を間近に望めるのは、こうした歴史的な経緯によるものです。

福山城のすぐ南側に駅が置かれたという立地は、近世の城と近代の鉄道が至近に並ぶ独特の都市景観を生みました。一般に城は防御の都合上、市街の奥まった場所に築かれることも多いのですが、福山では平地に近い位置に城があり、その正面に近代の玄関口である駅が整備されました。この結果、福山の都市発展は駅と城を結ぶ南北の軸を中心に進み、商店街や官公庁、文化施設がこの軸の周辺に集積していくことになります。今日、福山駅の新幹線ホームから福山城の天守を間近に望めるのは、こうした歴史的な配置の名残であり、城下町と近代都市が重なり合う福山の特徴をよく示しています。

昭和初期の合併と市域の第一次拡大

福山城
福山城(画像:Wikimedia Commons / CC)

市制施行後の福山市は、周辺町村との合併を通じて市域を広げていきます。福山市公式サイトの沿革によれば、最初の大きな拡大は1933年(昭和8年)に行われた周辺10ヶ村との合併でした。さらに1942年(昭和17年)には2ヶ村が編入され、戦時下にかけて市域は段階的に広がっていきました。

1933年・1942年の合併

昭和初期の合併は、市街地の拡大と都市インフラの整備に対応するためのものでした。市制施行時に約5.8平方キロメートルだった市域は、これらの合併によって次第に広がり、隣接する農村部を取り込みながら、より大きな都市圏としての一体性を高めていきました。こうした初期の合併は、戦後の本格的な市域拡大の前段階として位置づけられます。なお個々の合併町村の詳細な範囲や経緯については、諸説や行政区域の変遷が複雑に絡むため、正確には福山市の公式資料や郷土史でご確認ください。

戦時下の都市・福山

昭和10年代後半、日本が戦時体制に深く入っていくなかで、福山もまた銃後の都市として戦争の影響を強く受けていきました。市街地には軍関連の施設も置かれ、人々の暮らしは統制と耐乏のなかに置かれていきます。そして1945年(昭和20年)の夏、福山は市の歴史上もっとも大きな災厄の一つに見舞われることになります。

福山大空襲と戦災からの復興

1945年(昭和20年)8月8日の夜、福山市はアメリカ軍による大規模な空襲を受けました。いわゆる「福山大空襲」です。総務省の戦災状況の記録などによれば、この空襲ではB-29爆撃機による焼夷弾攻撃が約1時間にわたって続き、市役所・警察署・学校など主要な建物が焼け落ち、旧国宝に指定されていた福山城の天守も焼失したと伝えられています。

空襲の被害

総務省の資料によれば、福山大空襲による死者は354人、重傷者122人、軽傷者742人、焼失家屋は約1万戸、被災者は約4万7千人にのぼったとされます。当時の福山市の人口の約8割が被災し、市街地のおよそ8割(約314ヘクタール)が焼失したと伝えられています。福山市公式サイトの年表でも、1945年に「福山空襲により市街地の約8割を焼失」と記録されており、市の中枢部がほぼ壊滅的な打撃を受けたことがわかります。なお被害の具体的な数値には、出典によって若干の違いが見られる場合があります。詳細は総務省や福山市の公式資料でご確認ください。

福山城天守の焼失と再建

江戸初期から市街地を見守ってきた福山城の天守は、この空襲で失われました。戦後、復興のシンボルとして再建が望まれ、福山城の天守は鉄筋コンクリート造で再建されています。現在私たちが目にする天守は、この戦後の再建によるものです。失われた歴史的建造物を市民の手で取り戻そうとした営みは、戦災からの復興という福山の歩みそのものを象徴しています。福山城の見学情報や歴史的背景については福山城ガイドをご覧ください。

焼け跡からの再出発

市街地の8割を焼失するという甚大な被害から、福山は戦後の復興へと歩みを進めます。区画整理や都市計画にもとづく街区の再編が行われ、焼け跡には新しい街並みが築かれていきました。後年、福山が「ばらのまち」として知られるようになるきっかけの一つも、この戦後復興期にあるとされます。荒廃した市街地に潤いを取り戻そうと、市民の手でばらが植えられていったことが、今日の「100万本のばらのまち」へとつながっていったと伝えられています。

復興のシンボルとしてのばら

福山が「ばらのまち」として歩み始めたきっかけは、戦後復興期にあると伝えられています。空襲で焼け野原となった市街地に、人々の心を癒やし、潤いある街を取り戻そうと、市民の手によってばらが植えられていったとされます。やがてばらは町のあちこちで育てられるようになり、市民運動的な広がりを見せていきました。荒廃からの再生を願う気持ちが花の栽培というかたちで結実したこの営みは、後年「100万本のばらのまち」というスローガンへとつながっていきます。戦災という負の記憶を、復興と再生の象徴であるばらへと転じていった点に、福山という都市の前向きな歩みが表れているといえるでしょう。ばらは単なる観光資源にとどまらず、市民が共有する復興の記憶でもあるのです。

高度経済成長期の合併と「鉄の町」への変貌

福山ばら公園(「ばらのまち福山」の象徴)
福山ばら公園(「ばらのまち福山」の象徴)(画像:Wikimedia Commons / CC)

戦後復興を経た福山は、高度経済成長期に入ると、合併による市域拡大と臨海部の工業化によって大きく姿を変えていきます。この時期の福山の歩みを特徴づけるのが、相次ぐ周辺町村の編入と、日本鋼管(NKK)福山製鉄所の立地に代表される鉄鋼業の発展です。

1956年の10町村合併

福山市公式サイトの沿革によれば、1956年(昭和31年)には隣接する10ヶ町村との合併が行われました。いわゆる「昭和の大合併」の流れのなかで、福山市は市域を大きく広げ、人口と面積の両面で備後地方の中心都市としての地位を確かなものにしていきます。この合併によって、それまで別個の自治体だった周辺地域が福山市の一部となり、現在の市域の骨格の一部が形づくられました。

日本鋼管福山製鉄所の立地

福山の産業史において画期となったのが、日本鋼管(後のJFEスチール)福山製鉄所の立地です。福山市の年表によれば、1961年(昭和36年)に日本鋼管福山製鉄所の立地決定が調印され、1966年(昭和41年)には操業が始まりました。臨海部の埋立地に巨大な製鉄所が建設されたことで、福山は西日本有数の鉄鋼の街へと変貌します。製鉄所の立地は、関連産業の集積、雇用の拡大、人口の増加をもたらし、戦後の福山の経済成長を牽引する原動力となりました。かつての城下町・福山が、近代以降は鉄鋼を中心とするものづくりの都市としての顔をあわせ持つようになったのは、この時期の出来事に由来します。

1962~1966年の合併

製鉄所の立地と前後して、合併もさらに進みました。福山市の沿革によれば、1962年(昭和37年)には深安町と、1966年(昭和41年)には松永市と合併しています。松永はかつて下駄の生産で知られた地域であり、独立した「市」であった松永市が福山市と一体化したことは、福山の市域拡大を象徴する出来事でした。これにより福山市は、瀬戸内の海岸線に沿って西へと大きく広がっていきます。

1974~1975年の合併と新幹線開通

合併の波はその後も続き、1974年(昭和49年)には芦田町、1975年(昭和50年)には駅家町(えきやちょう)と加茂町が福山市に編入されました。これにより市域は内陸部へも広がっていきます。同じ1975年(昭和50年)には山陽新幹線の岡山~博多間が開通し、福山駅にも新幹線が停車するようになりました。新幹線の開通は、福山と大都市圏との時間距離を一気に縮め、ビジネスや観光の面で福山の存在感を高める大きな出来事でした。城下町・鉄の町に、新幹線停車駅という新たな性格が加わったのです。

製鉄所がもたらした人口増と都市の拡張

日本鋼管福山製鉄所の操業開始は、福山の人口構造と都市空間に大きな変化をもたらしました。製鉄所とその関連産業には多くの労働者が必要となり、各地から人々が福山に集まりました。これにともなって住宅地が広がり、学校や商業施設、交通網の整備が進められていきます。臨海部の工業地帯と、内陸へ広がる住宅地、そして城下町以来の中心市街地――。この三層の構造が、高度経済成長期を通じて福山の都市像を形づくっていきました。合併による市域の拡大と、製鉄所立地による産業・人口の集積が同時並行で進んだことで、福山は短い期間に大きく姿を変えたのです。一方で、急速な工業化は環境への配慮という新たな課題ももたらし、後年の環境関連施設の整備や環境保全行政へとつながっていきます。

交通網の整備と広域拠点化

1975年(昭和50年)の山陽新幹線の岡山~博多間開通によって福山駅に新幹線が停車するようになったことは、福山の広域拠点化を大きく後押ししました。さらに1993年(平成5年)の山陽自動車道の開通により、高速道路網にも組み込まれます。鉄道・新幹線・高速道路という近代交通の各層が福山に集まったことで、福山は備後地方のみならず、周辺県も含めた広域圏の交通結節点としての役割を担うようになりました。城下町として街道や港で各地と結ばれていた近世の福山が、近代・現代の交通インフラの整備によって、より広い圏域の中心へと発展していった流れがここに見て取れます。

文化施設の充実と都市としての成熟

昭和末期から平成にかけて、福山市は産業都市としての発展に加え、文化や生活の質を高める施設の整備を進めていきます。経済成長を支えた都市が、市民の暮らしを豊かにする「文化都市」へと成熟していく過程が、この時期のあゆみに表れています。

ふくやま美術館とばらのまち

1985年(昭和60年)には、市の花として「ばら」が制定されました。戦後復興期に市民の手で植えられたばらが、福山を象徴する花として正式に位置づけられたのです。1988年(昭和63年)にはふくやま美術館が開館し、福山城公園周辺は文化的な空間としての性格を強めていきました。城を中心とするエリアに美術館や文学館などが集まることで、福山の中心部は歴史・芸術・自然が一体となった都市の顔となっていきます。

リーデンローズと拠点都市指定

1993年(平成5年)には福山地方拠点都市地域の指定を受け、山陽自動車道も開通しました。高速道路網に組み込まれたことで、福山は陸上交通の面でも備後地方の中心としての機能を高めます。翌1994年(平成6年)には、ふくやま芸術文化ホール「リーデンローズ」が開館しました。「リーデンローズ」という愛称は「ばら」にちなんだもので、文化の発信拠点として今日まで市民に親しまれています。1995年(平成7年)にはローズアリーナが、1999年(平成11年)にはふくやま文学館が開館するなど、文化・スポーツ施設の整備が続きました。

市民生活を支える施設の整備

2000年(平成12年)にはリサイクル関連施設が、2001年(平成13年)には福山すこやかセンターが開館するなど、環境・福祉の面でも市民生活を支える施設が整えられていきました。こうした施設整備の積み重ねは、産業都市・福山が、暮らしやすさと文化的な魅力を兼ね備えた中核都市へと成長していく過程を示しています。そして、こうした都市基盤の充実を背景に、福山は1998年(平成10年)の中核市移行という大きな節目を迎えることになります。

1998年(平成10年)の中核市移行

1998年(平成10年)4月、福山市は中核市へと移行しました。中核市制度は、政令指定都市に次ぐ規模の都市に対し、福祉・保健衛生・都市計画・環境保全など、さまざまな事務権限を県から移譲する制度です。福山市は、中四国地方では2番目の中核市に指定されたとされ、これは福山が単なる地方都市ではなく、広域的な役割を担う都市として位置づけられたことを意味します。

中核市とは何か

中核市になると、それまで都道府県が行っていた多くの事務を市が独自に処理できるようになります。たとえば保健所の設置・運営、福祉施設の認可、都市計画にかかわる権限などが市に移り、市民により近いところで行政サービスを提供できるようになります。福山市にとって中核市移行は、自治の幅を大きく広げ、独自のまちづくりを進めるための重要な制度的基盤となりました。市制施行から数えておよそ80年を経て、福山は名実ともに備後地方を代表する中枢都市となったのです。

中核市移行が市民にもたらしたもの

中核市への移行は、行政手続きの迅速化や、地域の実情に応じたきめ細かな施策の展開を可能にしました。保健・医療・福祉といった、市民の暮らしに直結する分野で市が主体的に動けるようになったことは、生活の質の向上につながる重要な変化でした。中核市・福山の誕生は、城下町から始まった福山の都市としての歩みが、現代的な自治体運営の段階に達したことを示す画期だったといえます。

平成の大合併と現在の市域の完成

中核市移行後の福山市は、いわゆる「平成の大合併」のなかで、さらに市域を広げていきます。福山市公式サイトの沿革によれば、2003年(平成15年)2月に内海町(うつみちょう)・新市町(しんいちちょう)と、2005年(平成17年)2月に沼隈町(ぬまくまちょう)と、2006年(平成18年)3月に神辺町(かんなべちょう)と合併しました。これら一連の合併によって、現在の福山市の市域が完成します。

2003~2006年の合併

このうち神辺町は、旧山陽道の宿場町として栄えた歴史を持つ地域であり、内海町は瀬戸内の島しょ部、沼隈町は鞆の浦に近い半島部にあたります。新市町は内陸部、芦田川中流域に位置します。性格の異なる地域が次々と福山市に加わったことで、福山は海・山・川・宿場町といった多彩な顔を一つの市域のうちに含み込むことになりました。福山市公式サイトの沿革によれば、これら一連の合併を経て、市域は518.07平方キロメートル、人口は約47万人に達しました。市制施行時に約5.8平方キロメートルだった面積と比べると、およそ90倍の広がりです。

鞆の浦という歴史遺産を抱えて

平成の大合併以前から福山市の一部であった鞆の浦は、江戸時代の港町の姿を色濃く残す歴史的な町並みで知られます。常夜燈や雁木(がんぎ)、船番所跡などが残り、いろは丸事件にゆかりの地としても有名です。鞆の浦は、近世から続く瀬戸内海交通の要衝であり、福山という都市が単なる近代の工業都市ではなく、深い歴史の蓄積を持つ町であることを物語っています。鞆の浦の町並みについては鞆の浦の街並みガイドで、坂本龍馬ゆかりのいろは丸展示館や、朝鮮通信使も賞賛した景勝の座敷福禅寺 対潮楼についてもそれぞれ詳しく紹介しています。

広域連携の時代へ

市域の拡大が一区切りついた後、福山市は周辺自治体との連携によって広域的な都市圏をかたちづくる段階に入ります。2015年(平成27年)には連携中枢都市宣言が行われ、近隣の市町と連携して圏域全体の発展を図る取り組みが進められています。市町村合併によって「面」を広げてきた福山が、今度は周辺自治体との「連携」によって、より大きな圏域の中心としての役割を果たそうとしているのです。

合併がもたらした多様性と地域づくりの課題

度重なる合併によって広大な市域を得た福山市は、その分だけ多様な地域を抱え込むことになりました。海に面した港町、島しょ部、宿場町、農村部、そして工業地帯――。それぞれの地域が独自の歴史と暮らしを持つなかで、一つの市として一体的なまちづくりを進めることは、合併を経た自治体に共通する課題でもあります。

編入された地域の歴史と誇り

1966年(昭和41年)に福山市と合併した旧松永市は、それ自体がかつて「市」として独立した自治体でした。下駄の生産で全国に知られた松永の地には、地場産業を育んできた歴史と地域の誇りがあります。同様に、2006年(平成18年)に合併した旧神辺町は、旧山陽道の宿場町として栄え、江戸時代には文人を輩出した文化的な土地柄でも知られます。これらの地域が福山市の一部となったことは、行政区域の統合であると同時に、それぞれの土地が育んできた歴史と文化を福山市全体の財産として受け継ぐことでもありました。合併後のまちづくりでは、こうした地域ごとの個性をどう活かし、守っていくかが大切なテーマとなっています。

島と半島を含む市域

2003年(平成15年)に合併した旧内海町は瀬戸内海の島しょ部にあたり、2005年(平成17年)に合併した旧沼隈町は鞆の浦に近い半島部に位置します。これらの地域が加わったことで、福山市は瀬戸内海の島々や海岸線の景観をその市域に含むことになりました。海とともに生きてきた人々の暮らしや、漁業・海運の歴史は、内陸の城下町とはまた異なる福山の一面です。山と川と海、そして城下町と港町と宿場町――。多彩な地域を内包する現在の福山市は、合併の積み重ねによって生まれた、いわば「備後地方の縮図」のような都市だといえるでしょう。

ゆかりの地・現在に残るもの

福山市制110年余りのあゆみは、市内のさまざまな場所に痕跡を残しています。城下町の名残、戦災と復興の記憶、合併によって結ばれた地域の個性――。それらをたどることで、福山の歴史を「現在進行形」のものとして実感することができます。

福山城公園と中心市街地

福山駅のすぐ北に広がる福山城公園は、城下町としての出発点であり、戦災と復興の記憶を刻む場所でもあります。戦後に再建された天守をはじめ、伏見櫓や筋鉄御門(すじがねごもん)など現存する遺構もあり、ふくやま美術館・ふくやま文学館・広島県立歴史博物館などの文化施設が周囲に集まっています。城を中心に近世・近代・現代の時間が積み重なったこのエリアは、福山のあゆみを一望できる場所といえます。

草戸千軒と明王院――中世の福山

福山の歴史は近世の城下町に始まるわけではありません。芦田川の河口付近には、中世に栄え、やがて姿を消した町「草戸千軒(くさどせんげん)」があったと伝えられ、発掘調査によってその実態が明らかにされてきました。近くにある明王院は、本堂と五重塔が国宝に指定されている古刹で、福山に城下町が築かれるはるか以前から続く信仰の場です。これらは、福山という土地が古くから人々の暮らしの舞台であったことを示しています。あわせて草戸千軒・明王院ゆかりのスポット案内もご覧ください。

合併で結ばれた町々の個性

松永の下駄づくり、神辺の宿場町、鞆の港町、内海の島しょ文化――。合併によって福山市の一部となった地域は、それぞれが独自の歴史と文化を持っています。鞆の浦に残る太田家住宅は、保命酒(ほうめいしゅ)の醸造で栄えた商家の建築として重要文化財に指定されており、合併で福山市が抱え込んだ歴史遺産の豊かさを象徴しています。市域を歩けば、それぞれの土地が福山市に統合される以前から育んできた個性に出会うことができます。

市制施行から現在までを振り返って

あらためて福山市制のあゆみを俯瞰すると、その歩みはいくつかの段階に整理できます。第一に、1619年の水野勝成の入封と1622年頃の福山城築城に始まる「城下町の形成期」。第二に、1889年の福山町成立と1916年の市制施行に至る「近代都市への移行期」。第三に、1933年以降の合併と1945年の戦災・復興、そして製鉄所立地による「拡大と工業化の時代」。第四に、文化施設の整備と1998年の中核市移行、平成の大合併を経た「成熟と広域化の時代」です。それぞれの段階で福山は新たな性格を獲得し、しかも古い顔を失うことなく重ね合わせてきました。城下町であり、鉄の町であり、ばらのまちであり、歴史遺産の町でもある――。この重層性こそが福山という都市の最大の魅力であり、市制110年余りの歩みが生み出した財産だといえます。

福山市制関連年表

ここまで述べてきた福山市制のあゆみを、年表のかたちで整理します。年号・出来事は福山市公式サイトの沿革・年表、総務省資料などにもとづいています。一部に諸説ある事項を含みます。

福山の歴史をたどるモデルコース

福山市制のあゆみを実際に歩いて感じたい方のために、半日~1日で巡れるモデルコースをご紹介します。城下町の出発点から、合併で結ばれた港町まで、福山の時間の層を体感する道のりです。

午前|福山駅周辺・城下町の中枢を歩く

スタートは福山駅。ホームから福山城を望んだら、北口を出てすぐの福山城公園へ向かいます。戦後に再建された天守や現存する伏見櫓・筋鉄御門を見学し、城下町としての福山の出発点に触れます。城のすぐ近くには、ふくやま美術館・ふくやま文学館・広島県立歴史博物館が集まっており、歴史と文化をまとめて学べます。福山城の歴史をあらかじめ知っておくと、見学がより深いものになります。福山城ガイドを事前にチェックしておくのがおすすめです。

午後|鞆の浦で港町の歴史に触れる

午後は福山駅前からバスに乗り、鞆の浦へ。常夜燈や雁木が残る港の風景を眺め、坂本龍馬ゆかりのいろは丸展示館、朝鮮通信使も絶賛したという座敷からの眺めが見事な福禅寺 対潮楼、保命酒の商家太田家住宅を巡ります。城下町の中枢から、合併で福山市に加わった歴史ある港町へと足を運ぶことで、福山という都市が抱える歴史の幅広さを実感できます。鞆の浦の見どころは鞆の浦の街並みガイドにまとめています。

時間に余裕があれば|中世の福山へ

もう一日かけられるなら、芦田川河口付近の明王院と草戸千軒ゆかりの地を訪ねてみましょう。国宝の本堂・五重塔を擁する明王院、そして中世の町・草戸千軒の歴史にふれることで、近世の城下町よりさらに古い福山の姿が見えてきます。草戸千軒・明王院ゆかりのスポット案内を参考に、福山の歴史を時代をさかのぼって楽しんでください。

よくある質問(FAQ)

Q福山市はいつ市制を施行したのですか?
A

福山市公式サイトの沿革によれば、1916年(大正5年)7月1日に深安郡福山町が廃され、市制を施行して福山市が発足しました。これが福山市制のあゆみの起点です。

Q市制施行当時の人口はどのくらいでしたか?
A

福山市の沿革によれば、市制施行当時の人口は32,356人、面積は約5.8平方キロメートルだったとされています。これは全国で73番目、広島県内では4番目の市としての発足でした。

Q福山市が中核市になったのはいつですか?
A

1998年(平成10年)4月に中核市へ移行しました。中四国地方では2番目の中核市に指定されたとされています。

Q「福山」という地名の由来は何ですか?
A

1619年(元和5年)に入封した水野勝成が、新たに城と城下町を築いた際に縁起のよい「福山」の名をつけたと伝えられています。地名の由来には諸説ありますが、城の築造とともに名づけられたとされる点はおおむね共通しています。

Q福山城はいつ築かれたのですか?
A

水野勝成によって1622年(元和8年)頃に築かれたと伝わります。2022年(令和4年)には築城400年が記念されました。一国一城令の時期としては異例の新規築城だったとされています。

Q福山大空襲はいつ、どのような被害があったのですか?
A

1945年(昭和20年)8月8日の夜に発生しました。総務省の資料などによれば、死者354人、市街地の約8割が焼失したとされ、福山城の天守も焼失したと伝えられています。被害数値は出典によって若干の違いがある場合があります。

Q福山市はどのような合併を経て現在の市域になったのですか?
A

1933年・1942年・1956年の合併に始まり、1962年に深安町、1966年に松永市、1974年に芦田町、1975年に駅家町・加茂町、そして平成に入って2003年に内海町・新市町、2005年に沼隈町、2006年に神辺町と合併を重ねて、現在の市域がかたちづくられました。

Q現在の福山市の面積と人口はどのくらいですか?
A

福山市公式サイトの沿革によれば、2006年の神辺町との合併を経て、市域は518.07平方キロメートル、人口は約47万人に達しました。広島県内では広島市に次ぐ人口規模を持つ都市です。

Q福山が「鉄の町」と呼ばれるのはなぜですか?
A

1961年(昭和36年)に日本鋼管(後のJFEスチール)福山製鉄所の立地が決定し、1966年(昭和41年)に操業を開始したことが大きな要因です。臨海部に巨大な製鉄所が立地し、鉄鋼業を中心とする産業都市として発展したことから、福山は「鉄の町」とも呼ばれるようになりました。

Q福山が「ばらのまち」と呼ばれるようになったのはなぜですか?
A

戦災で市街地の大半を失った福山で、戦後の復興期に市民の手でばらが植えられていったことがきっかけと伝えられています。1985年(昭和60年)には市の花に「ばら」が制定され、現在は「100万本のばらのまち」として知られています。

Q市制施行から現在まで、市域はどのくらい広がったのですか?
A

1916年の市制施行時の面積は約5.8平方キロメートルでしたが、度重なる合併を経て、2006年には518.07平方キロメートルに達しました。およそ90倍の広がりで、城下町を中心とする小さな市から、海・山・川・島・宿場町を含む広大な市域へと発展したことになります。

Q福山市制100周年はいつでしたか?
A

1916年の市制施行からちょうど100年にあたる2016年(平成28年)7月1日が、福山市制施行100周年でした。同年には「100万本のばらのまち」の達成も記念されています。なお市制施行を起点とすると、本稿執筆時点ではすでに110年余りの歴史を重ねていることになります。

Q福山市立大学はいつ開学しましたか?
A

福山市公式サイトの沿革によれば、福山市立大学は2011年(平成23年)4月に開学しました。中核市・福山として、高等教育や人材育成の面でも都市機能を充実させてきた歩みの一つです。

Q福山市の歴史を学べる施設はありますか?
A

福山城公園周辺には、ふくやま美術館やふくやま文学館、広島県立歴史博物館などが集まっており、福山や備後地方の歴史・文化を学ぶことができます。なかでも広島県立歴史博物館では、中世の町・草戸千軒に関する展示などを通じて、城下町以前の福山の姿にもふれられます。実際の見学にあたっては、各施設の開館日や展示内容を公式情報でご確認のうえお出かけください。

Q福山城の天守はなぜ新しく見えるのですか?
A

現在の福山城天守は、1945年(昭和20年)の福山大空襲で焼失した後、戦後に鉄筋コンクリート造で再建されたものだからです。江戸初期に築かれたオリジナルの天守は空襲で失われており、私たちが目にしている天守は復興のシンボルとして再建された姿です。一方で、伏見櫓や筋鉄御門など、戦災を免れて現存する遺構もあり、これらは近世以来の福山城を今に伝える貴重な建造物とされています。

まとめ|城下町から中核市へ、福山の110年

福山市制のあゆみは、1619年の水野勝成の入封と1622年頃の福山城築城に始まる城下町としての出自を土台に、1916年(大正5年)の市制施行を起点として展開してきました。昭和初期からの度重なる合併で市域を広げ、1945年の福山大空襲という甚大な戦災を乗り越えて復興し、日本鋼管福山製鉄所の立地によって鉄鋼の街として発展しました。文化施設の整備を進めながら都市として成熟し、1998年(平成10年)には中核市へと移行。さらに平成の大合併を経て、市域518.07平方キロメートル・人口約47万人の現在の福山市がかたちづくられました。

城下町の中枢である福山城、中世の明王院、合併で結ばれた港町・鞆の浦――。福山市内には、この長いあゆみの痕跡がいたるところに残っています。地名や町並み、施設の配置の背後にある歴史を知ることで、福山という都市の奥行きがいっそう感じられるはずです。福山の通史をさらに深く知りたい方は福山の歴史まるわかり通史ガイドを、実際に歩いてみたい方は本稿のモデルコースや各ガイド記事をあわせてご活用ください。

出典・注意

本記事は、福山市公式サイト「福山市のあゆみ」「福山市の歴史(年表)」、総務省「一般戦災死没者の追悼|福山市における戦災の状況」、および各百科事典などの公開情報を参照して作成しました。

※年代・経緯には諸説ある事項を含みます。詳細は各施設の公式情報や郷土資料でご確認ください。

最終更新: 2026年6月10日

史跡情報は福山NOTE 史跡図鑑(fn_history)より。