広島県福山市の南端、沼隈半島の先に位置する鞆の浦(とものうら)は、瀬戸内海の歴史を語るうえで欠かすことのできない港町です。古代の万葉集に詠まれ、中世には足利義昭が身を寄せ、江戸時代には朝鮮通信使が「日東第一形勝(じっとうだいいちけいしょう)」と讃え、幕末には坂本龍馬が「いろは丸事件」の談判に臨んだ――。この小さな入り江には、千年を超える日本の海の歴史が幾重にも積み重なっています。そして何より、鞆の浦は「潮待ちの港」として栄えました。常夜燈・雁木(がんぎ)・波止(はと)・焚場(たでば)・船番所という江戸時代の港湾施設がほぼ揃って現存する、全国でも唯一無二の港です。
では、なぜこの場所に港町が栄えたのでしょうか。その答えは、瀬戸内海特有の「潮の分かれ目」という地理にあります。本記事では、潮待ちの港・鞆の浦がどのようにして交易と文化の結節点となったのか、史実を一つひとつ確かめながら、その歴史をたどっていきます。福山市の通史については福山の歴史 完全ガイドもあわせてご覧ください。
史跡図鑑|鞆の浦と福山の史跡を一覧で見る
本論に入る前に、福山NOTEの史跡図鑑(fn_history)から、鞆の浦をはじめとする市内の史跡を一覧・比較・詳細の3つの形でご紹介します。鞆の浦は単独の名所ではなく、福山城下や草戸千軒、明王院といった史跡群とともに、備後地域の歴史を構成しています。位置関係や時代を見比べながら、訪問の計画づくりにお役立てください。
| 史跡 | 時代 | 概要 | 📍 エリア | 詳細 |
|---|---|---|---|---|
| 福山城 伏見櫓 | 江戸時代(元和年間) | 伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最… | 📍 福山駅前(福山市街) | 下へ ↓ |
| 福山城 | 近世(江戸) | 備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御… | 📍 丸之内 | 下へ ↓ |
| 福山城博物館 | 近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期) | 水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩… | 📍 福山駅前(福山市街) | 下へ ↓ |
| 草戸千軒町遺跡 | 中世 | 芦田川の中州にあった中世の港町・集落遺跡。発… | 📍 草戸町 | 下へ ↓ |
| 明王院 | 中世 | 本堂と五重塔がともに国宝。中世密教寺院で、五… | 📍 草戸町 | 下へ ↓ |
| 鞆の津の町並み(重伝建) | 江戸時代(中世〜近代の建造物群) | 潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 鞆の浦の常夜燈と港湾施設 | 江戸時代 | 江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 福山市鞆の浦歴史民俗資料館 | 近代(昭和) | 鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 鞆の浦 | 中世〜近世 | 瀬戸内の「潮待ちの港」。常夜燈・雁木・波止場… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 福禅寺 対潮楼 | 近世 | 朝鮮通信使の使節が「日東第一形勝」と讃えた客… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 太田家住宅 | 江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期) | 鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| いろは丸展示館 | 近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期) | 坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 仙酔島 | 古代(地質)/近代(指定) | 鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 廉塾(菅茶山旧宅) | 近世 | 儒学者・菅茶山が開いた私塾。当時の塾舎・住宅… | 📍 神辺町 | 下へ ↓ |
| 神辺城跡 | 中世 | 備後南部の中世山城。福山城が築かれる以前、備… | 📍 神辺町 | 下へ ↓ |
| 福山八幡宮 | 近世 | 福山城の北に鎮座し、東西二つの宮を備える。歴… | 📍 北吉津町 | 下へ ↓ |
| 沼名前神社 | 近世 | 鞆の「祇園さん」。夏の大松明を担ぐ「お手火神… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 阿伏兎観音(磐台寺観音堂) | 近世 | 断崖の上に建つ朱塗りの観音堂。国の重要文化財… | 📍 沼隈町 | 下へ ↓ |
| 吉備津神社(備後一宮) | 江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる | 備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で… | 📍 新市町 | 下へ ↓ |
| 素盞嗚神社(備後一宮) | 飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮 | 祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏の… | 📍 新市町 | 下へ ↓ |
福山城 伏見櫓
伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最古級の三層入母屋造の現存櫓。 福山城伏見櫓は、元和8年(1622年)の福山城築城に際し、城主水野勝成が将軍徳川秀忠から下賜を受け、京都の伏見城から移築させたと伝えられる櫓である。長らく伝承とされていたが、昭和29年(1954年)の解体修理の際、梁の陰刻に「松ノ丸ノ東やく(ら)」の文字が発見され、伏見城からの移築を裏付ける確かな遺構であることが明らかになった。構造は三層入母屋造で、初層と二層を同じ柱割とし、その上にやや小さい三層を望楼状に載せる。桁行八間・梁間三間、本瓦葺の規模をもつ。慶長期の城郭建築の様式を残す初期の典型として価値が高く、昭和8年(1933年)1月23日に国の重要文化財に指定された。福山城内に現存し、特別公開が行われることもある。
| 🕰 時代 | 江戸時代(元和年間) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 元和8年(1622年)水野勝成の福山城築城時に伏見城から移築。国指定重要文化財(昭和8年=1933年1月23日指定) |
| 📍 所在地 | 広島県福山市丸之内一丁目(福山城内) |
福山城
備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御門は京都伏見城からの移築と伝わる。2022年に築城400年を迎えた。
| 🕰 時代 | 近世(江戸) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 1622年(元和8)・水野勝成 |
| 👤 関連 | 水野勝成・阿部正弘 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市丸之内一丁目8 |
福山城博物館
水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩の歴史を体験型展示で伝える博物館 福山城博物館は、JR福山駅のすぐ北に建つ福山城天守内に置かれた市立の歴史資料館です。福山城は1622年(元和8年)、徳川譜代の大名・水野勝成が西国鎮衛の拠点として築いた近世城郭で、天守は1931年に国宝に指定されました。しかし1945年8月の福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリート造で外観が復興され、その内部が博物館として公開されました。2022年には築城400年に合わせて大規模リニューアルされ、北面の鉄板張り(黒い装い)の再現や、一番槍レース・火縄銃などの体験型コンテンツ、デジタル映像を用いた展示が整えられ、福山城と福山藩の歴史を学べる施設となっています。城内に現存する伏見櫓と筋鉄御門は、京都・伏見城からの移築と伝えられ、国の重要文化財に指定されています。常設展は有料、月曜休館とされます。
| 🕰 時代 | 近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 福山城は1622年(元和8年)に初代福山藩主・水野勝成が築城。天守は1945年福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリートで外観復興、内部を博物館として開館。2022年に大規模リニューアル |
| 📍 所在地 | 広島県福山市丸之内一丁目8番 |
草戸千軒町遺跡
芦田川の中州にあった中世の港町・集落遺跡。発掘成果は広島県立歴史博物館で町並みが原寸復元展示されている。
| 🕰 時代 | 中世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 鎌倉〜室町 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市草戸町 |
明王院
本堂と五重塔がともに国宝。中世密教寺院で、五重塔は全国でも有数の古塔。
| 🕰 時代 | 中世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 本堂1321年・五重塔1348年 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市草戸町1473 |
鞆の津の町並み(重伝建)
潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と町家が一体で残る重伝建地区 鞆の浦は瀬戸内海の中央に位置し、古来「潮待ちの港」として栄え、万葉集にも詠まれた歴史を持つとされる。江戸時代には北前船など廻船の寄港地として繁栄し、朝鮮通信使の寄港地ともなった。2017年(平成29年)11月28日、「福山市鞆町伝統的建造物群保存地区」として約8.6ヘクタールが国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。範囲は鞆字西町の全域を中心に、石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地の一部に及ぶ。中世から江戸期に整えられた地割の上に、江戸時代から昭和30年代までの町家や寺社、石垣などが一体的に残る近世港町の景観が評価された。常夜燈・雁木・波止・焚場・船番所の5つの港湾施設がほぼ完全に残る点は全国でも稀とされる。広島県内では3例目の選定で、2018年には日本遺産にも認定された。
| 🕰 時代 | 江戸時代(中世〜近代の建造物群) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 2017年(平成29年)11月28日に国の重要伝統的建造物群保存地区へ選定。地割は中世〜江戸期、建造物は江戸時代〜昭和30年代まで。 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町(鞆字西町全域ほか、字石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地字古城跡・草谷の各一部) |
鞆の浦の常夜燈と港湾施設
江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯一の近世港、鞆港。 鞆の浦の鞆港には、常夜燈・雁木・波止・焚場(たでば)・船番所という江戸時代の港湾施設5点がほぼ揃って現存し、これらが一体で残るのは全国でも鞆港のみとされる。シンボルの常夜燈は安政6年(1859)の刻銘をもつ石造灯台で、海中の基礎石から宝珠の頂までは約12.1mに及び、江戸期の石造常夜燈としては国内最大級とされる。雁木は潮の干満に応じて船を着けられる階段状の船着き場で、半円形の港内に連続して巡らされている。波止は花崗岩を積んだ全長約146mの防波堤で、江戸後期に築かれ明治期に修築された。鞆港を含む沿岸と沖の島々一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定され、鞆町西町を中心とする区域は2017年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。日本遺産「瀬戸の夕凪が包む 国内随一の近世港町」の構成要素でもある。
| 🕰 時代 | 江戸時代 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 常夜燈は安政6年(1859)造立とされる。雁木・波止・焚場・船番所は江戸後期築造、波止は明治期に修築。鞆港一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定。 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町鞆 |
福山市鞆の浦歴史民俗資料館
鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬戸内の歴史・民俗を伝える市立資料館 福山市鞆の浦歴史民俗資料館は、広島県福山市鞆町後地に建つ市立の博物館で、「潮待ちの館」の愛称で親しまれる。1977年(昭和52年)からの地元有志による調査・収集活動を背景に、福山市制70周年記念事業として1988年(昭和63年)に開館した。立地は、福島正則が築いたとされる鞆城跡(福山市指定史跡)の高台で、瀬戸内海を見渡せる。万葉の時代から潮待ち・風待ちの港として栄えた鞆の浦を中心に、古代から近世にいたる歴史資料を展示。鯛網漁のジオラマや錨を製造した鍛冶場、朝鮮通信使関連資料、保命酒に関する資料に加え、お手火神事・お弓神事といった地域の民俗文化財も常設展示する。鞆の歴史と暮らしを総合的に学べる拠点とされる。
| 🕰 時代 | 近代(昭和) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 1988年(昭和63年)開館。福山市制70周年記念事業として建設。建つ鞆城跡は福島正則が築いたとされる(福山市指定史跡) |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町後地536-1 |
鞆の浦
瀬戸内の「潮待ちの港」。常夜燈・雁木・波止場・焚場・船番所の港湾施設が一体で残る全国的にも貴重な町並み。
| 🕰 時代 | 中世〜近世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 古代〜 |
| 👤 関連 | 朝鮮通信使・足利義昭・坂本龍馬 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町 |
福禅寺 対潮楼
朝鮮通信使の使節が「日東第一形勝」と讃えた客殿からの眺め。仙酔島を望む座敷が名高い。
| 🕰 時代 | 近世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 客殿は元禄年間 |
| 👤 関連 | 朝鮮通信使 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町2 |
太田家住宅
鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で、国の重要文化財 鞆の浦を代表する歴史的建造物で、薬用酒「保命酒」の醸造で財を成した商家の旧宅。もとは大坂の漢方医を出自とする中村家の屋敷で、明暦元年(1655年)に鞆へ移り住み、まもなく十六味地黄保命酒の製造・販売を始めて大ヒットし、福山藩の御用名酒屋として販売独占権を得たとされる。明治期に廻船業を営んだ太田家が継承し、現在の名で呼ばれる。主屋を中心に保命酒蔵や各種土蔵など九棟が建ち並び、建築年代は18世紀中期から19世紀前期に及ぶ。瀬戸内の商家建築を伝える貴重な遺構として、1991年に国の重要文化財に指定された。幕末には三条実美ら尊王攘夷派の公卿が立ち寄ったと伝わり、別宅の朝宗亭とともに「鞆七卿落遺跡」として広島県の史跡(1940年指定)にもなっている。
| 🕰 時代 | 江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 主屋は18世紀中期、ほか北保命酒蔵が天明8年(1788年)、西蔵が寛政元年(1789年)、東保命酒蔵が寛政7年(1795年)など18世紀中期〜19世紀前期。国の重要文化財指定は1991年(平成3年)5月31日。 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町鞆842 |
いろは丸展示館
坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵を活かした資料館 鞆の浦のシンボル常夜灯(とうろどう)のすぐそばに建つ資料館。1867年(慶応3年)、坂本龍馬と海援隊が運航したいろは丸が紀州藩の明光丸と備後灘で衝突・沈没した「いろは丸事件」を伝える施設で、その談判が鞆の浦で行われた縁にちなむ。建物は江戸期に建てられた太い梁が印象的な土蔵で、地元では「大蔵」と呼ばれ、国の登録有形文化財とされる。館内には海底に沈むいろは丸を再現したジオラマ、引き揚げられた陶器や部品、調査風景の写真などを展示し、2階には龍馬が宿泊先で身を潜めたという「隠れ部屋」が再現され、龍馬の蝋人形も置かれている。1989年(平成元年)7月の開館。幕末史と鞆の港町文化を同時に味わえるスポットである。
| 🕰 時代 | 近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 1989年(平成元年)7月開館。建物は江戸期築の土蔵「大蔵(浜蔵)」で、国の登録有形文化財とされる。展示題材のいろは丸事件は1867年(慶応3年) |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町鞆843-1 |
仙酔島
鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連なる瀬戸内海国立公園の名勝 仙酔島は鞆の浦の沖合に浮かぶ周囲約6キロの島で、住所は福山市鞆町後地。鞆港から市営渡船で約5分の距離にあり、観光客の往来はあるが定住者のいない無人島とされる。1925年(大正14年)に国の名勝「鞆公園」の一部として指定され、1934年(昭和9年)には日本で最初に指定された国立公園・瀬戸内海国立公園に含まれた。島は約9000万年前の大規模な火山活動による溶結凝灰岩を主体とし、南側海岸には青・赤・黄・白・黒の岩が200メートル以上連なる「五色岩」が見られ、地質的に貴重とされる。「仙人が酔うほど美しい島」が名の由来と言われる。江戸後期の学者・頼山陽が当地の景観を「山紫水明」と評したとも伝わる。
| 🕰 時代 | 古代(地質)/近代(指定) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 1925年(大正14年)国名勝「鞆公園」に指定。1934年(昭和9年)日本初の国立公園・瀬戸内海国立公園に編入。島自体は約9000万年前の火山活動で形成されたとされる |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町後地 |
廉塾(菅茶山旧宅)
儒学者・菅茶山が開いた私塾。当時の塾舎・住宅が残り、国の特別史跡に指定されている。
| 🕰 時代 | 近世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 18世紀末 |
| 👤 関連 | 菅茶山 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市神辺町川北640 |
神辺城跡
備後南部の中世山城。福山城が築かれる以前、備後支配の拠点だった。
| 🕰 時代 | 中世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 南北朝期 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市神辺町 |
福山八幡宮
福山城の北に鎮座し、東西二つの宮を備える。歴代藩主の崇敬を集めた。
| 🕰 時代 | 近世 |
|---|---|
| 👤 関連 | 水野家 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市北吉津町1-2-16 |
沼名前神社
鞆の「祇園さん」。夏の大松明を担ぐ「お手火神事」で知られる古社。
| 🕰 時代 | 近世 |
|---|---|
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町後地 |
阿伏兎観音(磐台寺観音堂)
断崖の上に建つ朱塗りの観音堂。国の重要文化財。古来、海上安全と子授け・安産の祈願で知られる。
| 🕰 時代 | 近世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 16世紀末 |
| 👤 関連 | 毛利輝元 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市沼隈町能登原 |
吉備津神社(備後一宮)
備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で「いっきゅうさん」と親しまれる古社 福山市新市町宮内に鎮座する備後国一宮で、地元では「一宮さん(いっきゅうさん)」と親しまれる。社伝では大同元年(806年)に吉備国の吉備津神社から勧請し創建されたと伝わるが、延喜式神名帳に記載がないことなどから実際の成立はより後とする説もある。主祭神は吉備国を治めたとされる大吉備津彦命。現在の本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が旧規模にならい造営したもので、桁行七間・梁間四間の入母屋造檜皮葺、国の重要文化財に指定されている。ほかにも木造狛犬や太刀などが重要文化財として伝えられ、複数の建造物が広島県・福山市指定文化財となっている。隣接する櫻山城跡なども史跡として知られ、備後の信仰と歴史を今に伝える。
| 🕰 時代 | 江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が造営、国の重要文化財。創建は大同元年(806年)と伝わるが諸説ある |
| 📍 所在地 | 広島県福山市新市町宮内400 |
素盞嗚神社(備後一宮)
祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏のけんか神輿で名高い古社 福山市新市町戸手に鎮座する素盞嗚神社は、『延喜式神名帳』に載る式内社で備後国一宮を称し、旧社格は県社です。主祭神は素盞嗚尊で、稲田姫命・八王子を配祀します。社伝では天武天皇の治世、7世紀ごろ(679年か)の創建とされます。『釈日本紀』所収の「備後国風土記」逸文に伝わる蘇民将来説話の舞台「疫隈国社」と結びつけられ、茅の輪くぐりや祇園信仰・祇園祭発祥の地の一つとされています。神仏習合期には牛頭天王を祀り、遣唐使・吉備真備が734年に当社から播磨の広峯神社へ勧請したとも伝わります。毎年7月の例祭では、勇壮なけんか神輿(神輿合わせ)が行われることで知られます。
| 🕰 時代 | 飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 社伝では天武天皇期の7世紀ごろ(679年か)創建とされる。『延喜式神名帳』記載の式内社で、旧県社 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市新市町大字戸手1-1 |
なぜ鞆の浦は「潮待ちの港」と呼ばれたのか

鞆の浦を語るとき、必ず登場するのが「潮待ちの港」という言葉です。これは単なる風雅な呼び名ではなく、瀬戸内海の物理的な海洋現象に裏打ちされた、きわめて実際的な表現でした。鞆の浦が港町として栄えた根本的な理由は、この「潮待ち」という地理的条件にあります。
瀬戸内海の中央で潮がぶつかる場所
瀬戸内海は、東は紀伊水道、西は豊後水道・関門海峡を通じて外洋とつながっています。満ち潮になると、西からは豊後水道や関門海峡を通って、東からは紀伊水道を通って、それぞれ海水が瀬戸内海へと流れ込みます。この東西からの潮流が、瀬戸内海のほぼ中央に位置する鞆の浦の沖でちょうどぶつかり合うのです。逆に干潮時には、鞆の浦の沖を境にして潮が東西へと分かれて流れ出していきます。つまり鞆の浦は、瀬戸内海における「潮の分かれ目」「潮の境目」にあたる、特異な地点なのです。
この海洋現象は、地形と天体の力が生み出す自然のリズムです。鞆の浦を境に潮の流れが逆転するため、船はこの地点で潮の流れが変わるのを待つ必要がありました。逆に言えば、潮の変わり目を見極めれば、潮流に乗って効率よく東西へ航海できる。鞆の浦は、瀬戸内海航路における天然の「結節点」だったのです。
「地乗り」航海の時代と潮待ちの必然
動力をもたない時代の和船は、帆に受ける風と、潮の干満が生む潮流を頼りに進みました。とりわけ古代から中世にかけては、陸地の山や岬を目印に沿岸を伝っていく「地乗り(じのり)」と呼ばれる航法が主流でした。羅針盤や正確な海図のない時代、船乗りは目に見える陸地と、体で覚えた潮の流れを頼りに海を渡ったのです。
沼隈半島の沖を横断して瀬戸内海を東西に航海するには、鞆の浦で潮流が変わるのを待たなければなりませんでした。流れに逆らって進むのは困難であり、潮が順方向に変わるのをじっと待つ――これが「潮待ち」です。順潮を待つあいだ、船は鞆の港に停泊し、船乗りたちは上陸して休息や補給を行いました。こうして自然に、潮を待つ人と船が集まる港町が形づくられていったのです。鞆の浦が「潮待ちの港」として古くから知られたのは、こうした地理的・航海技術的な必然の結果でした。
潮待ちがもたらした繁栄
潮を待つということは、人と船が一定時間その地に留まるということです。停泊する船の数が増えれば、水や食料、薪、酒を売る商いが生まれ、宿が建ち、船を修理する職人が集まります。潮待ちの時間は、人と人が出会い、物資が行き交い、情報が交換される時間でもありました。鞆の浦には、流通や移動の要として、多くの文化・学問・技術・物資・情報が集まったとされます。日本各地の数ある港のなかでも、鞆の浦は「潮待ち」の港としてとりわけ恵まれた立地にあったといえるでしょう。
この「潮待ち」という機能こそが、鞆の浦の歴史を貫く背骨です。万葉の歌人が船を停めて木を眺め、朝鮮通信使の大船団が寄港し、北前船の商人が立ち寄り、龍馬の蒸気船がこの海を通った――そのすべての根底に、潮の分かれ目という地理がありました。
「鞆」という地名が示すもの
「鞆(とも)」という地名の由来については、いくつかの説が伝わります。「鞆」とは本来、弓を射るときに左腕に着けて弦が腕を打つのを防ぐ革製の防具のことで、その丸い形が鞆の浦の入り江の地形に似ていることに由来するという説があります。また、神功皇后(じんぐうこうごう)にまつわる伝承から名づけられたとする説など、信仰や伝説に結びつく由来も語られています。いずれも確証のある定説とまでは言いにくく、諸説あるというのが実情ですが、古くから特別な地名として意識されてきたことは確かです。
こうした地名の古さもまた、鞆の浦が早くから瀬戸内海航路の要として認識されてきた証といえます。地名が伝説と結びつくほどに、この港は人々の記憶に深く刻まれてきたのです。なお、これらの由来はあくまで伝承であり、史実として断定できるものではないことを付記しておきます。
古代の鞆の浦と万葉集
鞆の浦の歴史は、文字記録に残るだけでも実に古くまでさかのぼります。弥生時代にはすでに集落が成立していた可能性が高いとされ、瀬戸内海航路の要衝として、古代から人々の営みがあったと考えられています。そしてこの地の名は、奈良時代に編まれた日本最古の歌集『万葉集』にも刻まれているのです。
大伴旅人が詠んだ「鞆の浦」
『万葉集』には、鞆の浦を詠んだ歌が複数残されています。なかでもよく知られるのが、奈良時代の貴族・歌人である大伴旅人(おおとものたびと)の歌です。旅人は神亀5年(728年)ごろ、大宰府(だざいふ)の長官として九州・筑紫へ赴任しました。その任地で妻を亡くし、帰京の途上、ふたたび瀬戸内海を東へ向かう船旅のなかで鞆の浦を通りかかります。かつて妻とともに見た鞆の浦の木は今も変わらずそこにあるのに、その木を見た妻はもういない――そうした悲嘆を詠んだとされる歌が、『万葉集』巻三に収められています。
その一首が「吾妹子(わぎもこ)が 見し鞆の浦の むろの木は 常世(とこよ)にあれど 見し人ぞなき」です。「むろの木」はネズ(杜松)の類とされる常緑の樹木で、鞆の浦の景物として旅人の心に刻まれていたのでしょう。亡き妻を悼むこの歌は、変わらぬ自然と移ろう人の命とを対比させ、深い哀切をたたえています。鞆の浦という地名が、日本文学の黎明期にこれほど情感豊かに詠まれていたことは、この港がいかに早くから人々に知られた航海の要地であったかを物語っています。
『万葉集』の成立と鞆の浦
『万葉集』は奈良時代後半、759年ごろまでの歌を収めた歌集とされ、天皇や貴族から名もなき民衆まで、幅広い人々の歌が収録されています。その全二十巻のなかに鞆の浦が登場するということは、当時すでにこの港が、都から九州へ向かう人々の航路上にあり、広く認識された地名であったことを示しています。潮待ちの港・鞆の浦は、すでに古代において瀬戸内海航路の重要な寄港地だったのです。
現在、鞆の浦には大伴旅人の歌にちなむ万葉歌碑が建てられており、福禅寺対潮楼のあたりや歴史民俗資料館の周辺などで、その歌に触れることができます。なお、歌に詠まれた「むろの木」そのものが現在も残っているかどうかについては諸説あり、断定はできませんが、歌に込められた鞆の浦の情景は、千三百年近い時を経た今も、この港の風光のなかに息づいています。
平安から中世へ|寺院の創建と航路の発展

古代に名を知られた鞆の浦は、平安時代以降も瀬戸内海航路の要として歩み続けます。この時代には、港を見下ろす地に寺院が次々と創建され、信仰の拠点としての性格も帯びていきました。
古刹の創建と信仰の港
平安時代初期には、静観寺(じょうかんじ)や医王寺(いおうじ)といった寺院が創建され、布教の拠点になったと伝えられています。医王寺は鞆の町を見下ろす後山(うしろやま)の中腹に位置し、現在もそこから望む鞆の浦と瀬戸内海の眺望は格別です。港に出入りする船乗りたちにとって、寺は航海の安全を祈る場であり、また旅の無事を感謝する場でもありました。潮待ちの港には、こうした信仰の営みも自然と集まっていったのです。
南北朝時代には、この地でも北朝と南朝の勢力が衝突し、合戦が繰り返されたと伝わります。そうした動乱のなかで貴重な文化財が失われたともいわれますが、それでも鞆の浦が航路の要衝としての重要性を失うことはありませんでした。むしろ瀬戸内海の制海権をめぐる争いのなかで、鞆の浦は戦略的にも重視される港であり続けたのです。
瀬戸内海交易の結節点として
中世を通じて、瀬戸内海は西国と畿内を結ぶ大動脈であり、年貢の輸送や交易、さらには大陸との交流の通り道でもありました。潮の分かれ目に位置する鞆の浦は、その航路上で船が必ず潮を待つ地点であったため、自然と物資と人が集積する商業港として発展していきます。海運に従事する人々、商いを営む人々、そして寺社に集う人々――潮待ちの時間が、多様な人々をこの小さな入り江に呼び寄せ続けたのです。
足利義昭と「鞆幕府」
鞆の浦の歴史のなかでも、とりわけ政治史に名を刻むのが、室町幕府最後の将軍・足利義昭(あしかがよしあき)との関わりです。瀬戸内海の一港町が、一時的にせよ「幕府」の所在地と称される――そんな数奇な歴史が、この地にはあります。
織田信長に追われた将軍
室町幕府第15代将軍・足利義昭は、織田信長の擁立を受けて将軍の座につきましたが、やがて信長と対立します。天正元年(1573年)、義昭は信長によって京都を追放され、室町幕府は事実上ここに滅亡しました。京を追われた義昭は各地を流浪し、やがて中国地方の有力大名・毛利氏を頼ることになります。
鞆に拠点を移した「鞆幕府」
天正4年(1576年)、足利義昭は毛利氏の勢力圏にあった鞆の浦へと拠点を移しました。義昭はここで反信長勢力の結集を図り、なおも将軍としての権威を保とうとしたとされます。この鞆を拠点とした義昭の体制は、後世「鞆幕府(とものばくふ)」と呼ばれるようになりました。京を遠く離れた瀬戸内の港町に「幕府」が置かれたという事実は、鞆の浦が単なる地方の港ではなく、政治的にも一定の重みをもつ要地であったことを示しています。
義昭が鞆を選んだ背景には、ここが瀬戸内海航路の要衝であり、毛利氏の海上勢力に守られた安全な地であったことが大きいと考えられます。潮待ちの港として人と物が集まる鞆の浦は、情報の集散地でもありました。流浪の将軍が再起を期すうえで、この港町は格好の拠点だったのでしょう。なお、義昭の鞆滞在の具体的な経緯や期間、その政治的実態については諸説あり、研究も進められています。いずれにせよ、室町幕府の最後の局面に鞆の浦の名が刻まれていることは確かです。
余談ながら、室町幕府を開いた足利尊氏も、南北朝の動乱期に鞆の地と関わりをもったと伝えられ、足利氏の興りと終わりの双方に鞆の浦が登場するともいわれます。福山城下の歴史とあわせて見ると、備後地域がいかに歴史の舞台となってきたかがよくわかります。城下町の歩みは福山城ガイドでご確認ください。
なぜ義昭は鞆を選んだのか
京都を追われた義昭にとって、再起の拠点に求められたのは、第一に安全であること、第二に情報と物資が集まること、そして第三に各地の勢力と連絡を取りやすいことでした。鞆の浦は、まさにこの三つの条件を兼ね備えていました。瀬戸内海の制海権をもつ毛利氏の勢力圏にあり、海上から守られていたため安全性が高く、潮待ちの港として全国から船と人が集まるため、情報も物資も自然と流れ込みます。さらに、海路を使えば各地の大名や寺社勢力と書状をやり取りするのも容易でした。流浪の将軍が反信長の包囲網を構想するうえで、鞆の浦は地理的に理にかなった選択だったと考えられます。
また、鞆の浦という地に「足利氏ゆかりの地」という歴史的な由緒があったことも、義昭がここを選んだ理由のひとつとされることがあります。権威の正統性を重んじた義昭にとって、由緒ある土地に身を置くことには、政治的な意味があったのかもしれません。ただし、この点をめぐっても解釈には幅があり、断定はできません。いずれにせよ、鞆の浦が単なる避難先ではなく、戦略的に選ばれた拠点であったことは、この港町の重要性をよく物語っています。
江戸時代の繁栄|朝鮮通信使と対潮楼

江戸時代に入ると、鞆の浦は瀬戸内海航路の重要な寄港地として、いっそうの繁栄を迎えます。国内の物流を担う廻船はもちろん、国家的な外交使節までもがこの港に立ち寄りました。その代表が、朝鮮王朝から派遣された朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)です。
福禅寺と対潮楼の建立
鞆の浦の港を見下ろす高台に、真言宗の寺院・福禅寺(ふくぜんじ)があります。その客殿として、元禄年間にあたる1690年ごろに建てられたのが対潮楼(たいちょうろう)です。対潮楼の座敷からは、目の前に広がる瀬戸内海と、仙酔島(せんすいじま)や弁天島が浮かぶ景色を、まるで一幅の絵画のように一望できます。この眺望は、訪れる人々を魅了してやみませんでした。
江戸時代、対潮楼は朝鮮通信使を迎える迎賓・応接の施設として使われました。鞆の浦は通信使の一行が瀬戸内海を行き来する際の重要な寄港地であり、ここで日本の儒学者や文人たちと、朝鮮の使節たちとのあいだに、学問や文芸を通じた交流が生まれたのです。漢詩の応酬や書のやり取りが行われ、対潮楼は国際的な文化交流の舞台となりました。
朝鮮通信使とは何だったのか
朝鮮通信使とは、江戸時代に朝鮮王朝から日本へ派遣された外交使節のことです。豊臣秀吉による朝鮮出兵で断絶した両国の関係を、江戸幕府が国交回復へと導いたのち、おもに将軍の代替わりなどの機会に、祝賀の使節として派遣されました。一行は数百人にもおよぶ大規模なもので、正使・副使・従事官といった高官のほか、文人や画家、楽士、医師など多彩な人々を含み、その通行は沿道の人々にとって一大イベントでした。釜山を発した使節は対馬を経て瀬戸内海を東へ進み、大坂から陸路で江戸へと向かいます。その瀬戸内海の航路上で、鞆の浦は重要な寄港地のひとつだったのです。
使節の一行が鞆に滞在するあいだ、対潮楼では日本側の文人たちとの筆談や漢詩のやり取りが行われました。共通の漢字文化を土台に、国境を越えた知的交流がこの座敷で繰り広げられたのです。瀬戸内一の絶景を前に、日朝の文人が詩を競う――潮待ちの港・鞆の浦は、物資だけでなく、文化と学問が行き交う国際交流の舞台でもありました。こうした朝鮮通信使に関する文化遺産は、近年、日韓の関係資料が国際的な記憶遺産として登録されるなど、改めて注目を集めています。
「日東第一形勝」と讃えられた絶景
正徳元年(1711年)、第8回の朝鮮通信使が来日した際、その従事官であった李邦彦(りほうげん/イ・バンオン)が対潮楼からの眺めに深く感嘆し、これを「日東第一形勝」――すなわち「日本(日東)で第一の景勝地」と讃えたと伝えられます。この賞賛の言葉は、額として書き残され、現在も福禅寺対潮楼に掲げられています。異国の使節が日本一と讃えた景色が、今もそのまま残っているのです。
対潮楼という名そのものが、「潮に対する楼閣」を意味し、潮待ちの港・鞆の浦の本質を映しています。座敷の柱と鴨居が額縁となり、その向こうに瀬戸内の海と島々が切り取られる――この景観は、鞆の浦を訪れる際にぜひ味わいたい白眉です。福禅寺対潮楼の詳細は福禅寺 対潮楼ガイドでご紹介しています。
江戸の港湾施設|常夜燈・雁木・波止・焚場・船番所
鞆の浦が他のどの港町とも一線を画す最大の理由――それが、江戸時代の港湾施設がほぼ揃って現存している点です。常夜燈・雁木・波止・焚場跡・船番所跡という、近世の港を構成する五つの主要施設がそろって残っている例は、全国でもこの鞆の浦をおいて他にないとされています。これらは、潮待ちの港がいかに機能していたかを今に伝える、生きた歴史の証人です。
鞆の浦のシンボル・常夜燈
港の入り口に立つ常夜燈(じょうやとう)は、鞆の浦のシンボルともいえる存在です。安政6年(1859年)に建てられたもので、夜間に船の出入りを誘導する灯台の役割を果たしてきました。海中の基礎部分から宝珠の先端までの高さは約12.1メートルあり、現存する江戸時代の常夜燈としては最大級の大きさを誇るとされます。石造りの堂々たる姿は、潮待ちの港の繁栄を象徴するモニュメントです。灯台部分には金毘羅(こんぴら)信仰にちなむ文字や守護を刻んだ石が見られ、海の安全を願う人々の祈りが込められています。
夕暮れどき、灯のともる常夜燈と、半円形の港に映る空の色――この風景は、訪れる人の心に深く刻まれます。鞆の浦が「日本でいちばん夕凪(ゆうなぎ)の似合う港」と呼ばれるゆえんも、こうした情景にあります。
階段状の船着き場・雁木
雁木(がんぎ)とは、階段状に石を積んだ船着き場のことです。潮の干満によって海面の高さが大きく変わる瀬戸内海では、桟橋を固定してしまうと、満潮時には船が高く、干潮時には船が低くなって、荷の積み下ろしが困難になります。そこで雁木は、海に向かって階段状に石段を設けることで、潮位がどのように変化しても、ちょうど水面の高さに合った段で船を着けられるように工夫されているのです。まさに「潮待ちの港」ならではの知恵が結晶した施設といえます。
鞆港の雁木は、半円形をなす港の内側に沿って、ほぼ連続的に巡らされています。その全長はおよそ150メートルにおよび、最も多いところでは20段を超える石段が積まれているとされ、その規模は全国でも類を見ないものとされています。連なる石段が描く曲線は、機能美そのものであり、近世の港湾土木技術の高さを今に伝えています。
波止・焚場・船番所
波止(はと)は、外海からの波を防いで港内を穏やかに保つための防波堤です。鞆港の波止は大規模なもので、停泊する船を守る要となっていました。焚場(たでば)は、船底に付着した貝や海藻を火であぶって取り除き、船を修理・整備するための場所の跡です。長い航海の途中、潮待ちのあいだに船を手入れする――潮待ちの港は、船のメンテナンス拠点でもあったのです。
そして船番所(ふなばんしょ)は、港に出入りする船を監視し、管理する役所の跡です。どの船がいつ入港し、いつ出ていくのか、積み荷は何か――港の秩序を保つために、こうした管理機能は欠かせませんでした。常夜燈(灯台)、雁木(船着き場)、波止(防波堤)、焚場(修理場)、船番所(管理所)。この五つがそろって初めて、近世の港は完全な機能を発揮します。それらがまとまって現存する鞆の浦は、まさに「江戸時代の港がそのまま残る町」と呼ぶにふさわしい場所なのです。
なぜ五施設がそろって残ったのか
日本各地には数多くの港町がありますが、その多くは近代以降、港湾の拡張や埋め立て、コンクリートによる護岸の整備などによって、江戸時代の姿を失っていきました。動力船や大型船の時代には、雁木のような階段状の船着き場も、焚場のような修理場も不要となり、より効率的な近代的港湾へと姿を変えていったのです。そうしたなかで、鞆の浦は近代化の大きな波からやや距離を置く形となり、結果として江戸時代の港湾施設群が壊されずに残されました。
この「そろって残っている」という点こそが、鞆の浦の港湾施設の価値を決定的なものにしています。一つひとつの施設が単独で残っているだけなら、他の港町にも例はあります。しかし、灯台・船着き場・防波堤・修理場・管理所という、近世の港を機能させるための要素が一式そろって現存している――この総体としての完全性が、鞆の浦を全国唯一とも称される存在にしているのです。港湾施設を順に見て歩けば、江戸時代の船乗りや港の役人がどのように働いていたかを、具体的に思い描くことができます。
幕末の鞆の浦|いろは丸事件と坂本龍馬
江戸時代の終わり、幕末の動乱期に、鞆の浦は日本史上に名高い「いろは丸事件」の舞台となりました。その主役は、土佐藩出身の志士・坂本龍馬(さかもとりょうま)です。蒸気船が瀬戸内海を行き交うようになった新しい時代に、潮待ちの港・鞆の浦は、近代的な海難賠償交渉の現場となったのです。
いろは丸と明光丸の衝突
慶応3年(1867年)4月23日深夜、坂本龍馬率いる海援隊(かいえんたい)が運用していた蒸気船「いろは丸」が、瀬戸内海を航行中、紀州藩の蒸気船「明光丸(めいこうまる)」と衝突しました。いろは丸は大洲(おおず)藩が所有していた約160トンの船で、海援隊がこれを借り受けて運航していたとされます。一方の明光丸は約887トンと、いろは丸よりもはるかに大型の船でした。衝突は現在の笠岡諸島・六島(むしま)付近で起きたとされ、損傷したいろは丸は曳航される途中、宇治島の沖あたりで沈没してしまいます。
鞆の浦での賠償交渉
事故のあと、両者は近くの港である鞆の浦に入り、賠償をめぐる談判(だんぱん)に臨みました。龍馬と海援隊の一行は、鞆の商家である桝屋清右衛門(ますやせいえもん)宅に宿泊し、紀州藩側は圓福寺(えんぷくじ)に滞在したと伝えられます。交渉の場のひとつには、あの福禅寺の対潮楼も使われたとされ、瀬戸内一の絶景を望む座敷で、緊迫した談判が交わされたことになります。
龍馬は、当時はまだ十分に整備されていなかった「万国公法(国際法)」の考え方を交渉の論拠として持ち出し、巨大藩である紀州藩を相手に賠償を求めたとされます。鞆の浦での数日間にわたる談判では決着がつかず、最終的には長崎での交渉を経て、紀州藩から海援隊側へ賠償金が支払われることになりました。なお、賠償金の正確な金額や交渉の細部については諸説があり、後世に脚色された部分も含まれるとされますので、ここでは断定を避けます。いずれにせよ、近代的な海難賠償交渉の先駆けともいえる出来事の舞台が、この鞆の浦だったのです。
いろは丸展示館に残る記憶
現在、鞆の浦の常夜燈広場の一角には、いろは丸展示館があります。江戸時代の蔵を活用した館内では、いろは丸事件にまつわる資料や、海底に沈んだいろは丸の引き揚げ調査で見つかった遺物などが展示され、幕末の鞆の浦と龍馬の足跡を今に伝えています。龍馬が身をひそめたと伝わる桝屋清右衛門宅の隠れ部屋など、町なかには龍馬ゆかりのスポットも点在しています。いろは丸事件の詳しい解説はいろは丸展示館ガイドをご覧ください。
保命酒と豪商たち|潮待ちの港が生んだ富
潮待ちの港として人と物が集まった鞆の浦では、独自の特産品も生まれ、それを商う豪商たちが繁栄しました。その代表が、鞆の浦を代表する薬味酒「保命酒(ほうめいしゅ)」です。
鞆の名産・保命酒の誕生
保命酒は、大坂の医師であった中村吉兵衛(なかむらきちべえ)が考案したと伝えられる薬味酒で、万治2年(1659年)ごろから備後・鞆の地で造られ始めたとされます。もち米・米麹・焼酎などを原料とする酒に、十数種類の生薬を漬け込んで造られ、その正式な名は「十六味地黄保命酒(じゅうろくみじおうほうめいしゅ)」と呼ばれました。滋養強壮に効くとされ、薬としても飲まれた高級な酒で、鞆の浦を代表する名産品として、寄港する船の人々や全国の客に珍重されました。
中村家は、江戸時代を通じてこの保命酒を独占的に製造・販売し、莫大な富を築きました。潮待ちの港に集う多くの人々が、この鞆の名酒を求めたのです。現在も鞆の浦には複数の蔵元が保命酒を造り続けており、町を歩けばその独特の甘く芳しい香りに出会うことができます。
豪商の屋敷・太田家住宅
保命酒で財を成した中村家の屋敷が、現在太田家住宅(おおたけじゅうたく)として知られる建物です。この住宅はもともと、保命酒を醸造した中村家の屋敷でした。江戸時代中期から後期にかけて中村家が増築を重ねた主屋や醸造蔵など、9棟もの建物群からなり、瀬戸内海の商家建築を代表する貴重な遺構です。明治時代に入って、廻船問屋を営んだ太田家がこれを受け継いだことから、現在は太田家住宅の名で呼ばれています。
太田家住宅は、その歴史的・建築的価値の高さから、平成3年(1991年)に国の重要文化財に指定されました。広い屋敷のなかには、保命酒造りに使われた大きな醸造蔵が今も残り、潮待ちの港が生んだ富の大きさを物語っています。また、幕末には京を追われた七人の公卿(くぎょう)が鞆に立ち寄った「鞆七卿落(とものしちきょうおち)」の舞台のひとつとも伝えられ、太田家住宅は幕末史の一場面にも名を残しています。太田家住宅の見どころは太田家住宅ガイドで詳しくご紹介しています。
近代から現代へ|町並み保存と日本遺産
明治以降、動力船の発達と航海技術の進歩によって、「潮待ち」という機能そのものは次第に必要とされなくなっていきます。蒸気機関を備えた船は、潮の流れを待たずとも自力で航海できるようになったからです。鉄道や陸上交通の発達も加わり、瀬戸内海の港町の多くは、かつての繁栄の場から、静かな漁港や生活の場へと姿を変えていきました。
繁栄の記憶を残した町
ところが、この「繁栄の終わり」こそが、皮肉にも鞆の浦の歴史的景観を守ることにつながりました。大規模な近代化や再開発の波から取り残されたことで、江戸時代の港湾施設や、商家・蔵が建ち並ぶ古い町並みが、ほぼそのままの姿で残されたのです。常夜燈・雁木・波止・焚場・船番所がそろって現存し、その背後に近世の町割りと町家が広がる――こうした港町の総体としての姿を保っている例は、全国を見渡してもきわめて稀です。
鞆の浦の中心部は、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、町ぐるみで歴史的景観の保存が図られています。狭い路地に面して建つ町家、保命酒の蔵元、寺社、そして港を縁取る石造りの施設群――歩くこと自体が歴史をたどる体験となる町並みが、ここには残されています。鞆の浦の町並みの魅力は鞆の浦の街並みガイドでも詳しくご紹介しています。
日本遺産・鞆の浦
こうした価値が広く認められ、鞆の浦は文化庁の「日本遺産(Japan Heritage)」のストーリーの構成要素として認定されています。「瀬戸の夕凪が包む 国内随一の近世港町」として、潮待ちの港の歴史と景観が、地域の誇るべき文化遺産として位置づけられているのです。古代の万葉集から、中世の鞆幕府、江戸の朝鮮通信使、幕末の龍馬まで――鞆の浦は、ひとつの港にこれほど多層的な歴史を重ねた、稀有な町といえるでしょう。
なお、近年の鞆の浦では、生活道路の整備をめぐって港湾の埋め立て・架橋計画が持ち上がり、歴史的景観の保存との両立が大きな議論となった経緯もあります。最終的には景観保全を重視する方向で計画が見直されたとされますが、こうした議論そのものが、鞆の浦の景観がいかに貴重で、守るに値するものであるかを物語っています。
鞆の浦と草戸千軒・備後の歴史
鞆の浦の歴史をより深く理解するには、福山という地域全体の歴史のなかに位置づけて見ることが大切です。鞆の浦は孤立した港ではなく、備後地域の交易ネットワークの一部として機能していました。
中世の交易都市・草戸千軒
福山市内には、芦田川(あしだがわ)の中州にあったとされる中世の交易都市「草戸千軒(くさどせんげん)」の遺跡があります。鎌倉時代から室町時代にかけて栄えたこの町は、瀬戸内海と内陸を結ぶ水運の拠点として機能していました。海の玄関口である鞆の浦と、内陸へとつながる草戸千軒。両者は、瀬戸内海の海運と備後の内陸経済を結ぶ、ひとつの経済圏を構成していたと考えられます。草戸千軒のそばには、国宝の本堂と五重塔をもつ明王院(みょうおういん)があり、中世の備後の繁栄を今に伝えています。
古代の港・鞆の浦、中世の交易都市・草戸千軒、そして近世の城下町・福山。これらを時系列で眺めると、備後地域がいかに長く、瀬戸内海の交易と文化のなかで重要な役割を果たし続けてきたかが見えてきます。草戸千軒や明王院については草戸千軒・明王院ガイドをあわせてご覧ください。
関連年表|鞆の浦の歴史
ここまでたどってきた鞆の浦の歴史を、年表の形で整理します。年代や経緯には諸説ある事項も含みますので、おおよその流れとしてご覧ください。
鞆の浦の歩き方|潮待ちの港を楽しむモデルコース
歴史を頭に入れたところで、実際に鞆の浦を歩いてみましょう。狭い範囲に見どころが密集しているため、徒歩でゆっくり巡るのが鞆の浦の楽しみ方です。半日から一日かけて、潮待ちの港の歴史を体感するモデルコースをご紹介します。
半日でめぐる定番コース
まずは港のシンボル・常夜燈からスタートするのがおすすめです。半円形の港を縁取る雁木の石段を眺めながら、潮待ちの港の風情を味わいましょう。常夜燈のそばのいろは丸展示館で、坂本龍馬と幕末の鞆の歴史を学んだら、高台の福禅寺対潮楼へ。座敷から望む「日東第一形勝」の絶景を、ぜひその目で確かめてください。そのあとは、保命酒の蔵元が並ぶ通りや太田家住宅を訪ね、江戸時代の豪商の暮らしと町並みを楽しみます。狭い路地を歩けば、随所に歴史の痕跡が顔をのぞかせます。
一日かけてじっくり巡るコース
時間に余裕があれば、町を見下ろす医王寺まで足を延ばしてみましょう。中腹からは鞆の浦と瀬戸内海の島々を一望でき、潮待ちの港の地形をまるごと俯瞰できます。さらに、港から渡船でわずか数分の仙酔島へ渡れば、自然豊かな島の景観と、対潮楼から眺めた島影を逆の視点から楽しめます。夕暮れには再び常夜燈のあたりへ戻り、瀬戸内特有の「夕凪」のなかにともる灯を眺める――これが鞆の浦のもっとも美しい時間のひとつです。
あわせて訪れたい福山の史跡
鞆の浦と福山市街は車で30分ほどの距離にあります。鞆の浦を訪れた前後には、福山駅前にそびえる福山城や、中世の交易都市の遺跡である草戸千軒・明王院もあわせて巡ると、備後地域の歴史を立体的に理解できます。古代の港・鞆の浦から、中世の交易都市、近世の城下町まで――福山には、日本の海と陸の歴史が凝縮されています。地域全体の流れは福山の歴史 完全ガイドでご確認ください。
よくある質問(FAQ)
Q鞆の浦はなぜ「潮待ちの港」と呼ばれるのですか?
鞆の浦が瀬戸内海のほぼ中央に位置し、東西から流れ込む潮がちょうどこの沖でぶつかり、また分かれて流れ出す「潮の分かれ目」にあたるためです。動力のない時代の船は、この地点で潮の流れが順方向に変わるのを待ってから航海を続けました。潮を待つために船が集まったことから「潮待ちの港」と呼ばれます。
Q鞆の浦の歴史はどのくらい古いのですか?
弥生時代にはすでに集落が成立していた可能性が高いとされ、奈良時代の『万葉集』にも鞆の浦を詠んだ歌が残っています。少なくとも千数百年にわたって、瀬戸内海航路の要地として知られてきた港町です。
Q万葉集にはどんな歌が残っているのですか?
大伴旅人が、亡き妻を偲んで詠んだとされる「吾妹子が見し鞆の浦のむろの木は常世にあれど見し人ぞなき」などの歌が『万葉集』巻三に収められています。鞆の浦には、これにちなんだ万葉歌碑も建てられています。
Q「鞆幕府」とは何ですか?
室町幕府最後の将軍・足利義昭が、織田信長に京都を追われたのち、天正4年(1576年)に毛利氏を頼って鞆に拠点を移しました。鞆を拠点とした義昭の体制を、後世「鞆幕府」と呼びます。瀬戸内の港町が一時的に幕府の所在地と称された、珍しい歴史です。
Q「日東第一形勝」とは誰の言葉ですか?
正徳元年(1711年)に来日した朝鮮通信使の従事官・李邦彦が、福禅寺対潮楼からの眺めを讃えて記したとされる言葉で、「日本で第一の景勝地」という意味です。その額は今も対潮楼に掲げられています。
Qいろは丸事件とは何ですか?
慶応3年(1867年)、坂本龍馬率いる海援隊が運用していた蒸気船「いろは丸」が、瀬戸内海で紀州藩の蒸気船「明光丸」と衝突して沈没した事件です。その後、賠償をめぐる談判が鞆の浦で行われました。近代的な海難賠償交渉の先駆けともいわれます。
Q坂本龍馬は鞆の浦のどこに滞在したのですか?
いろは丸事件の際、龍馬らは鞆の商家・桝屋清右衛門宅に宿泊し、隠れ部屋に身をひそめていたと伝えられます。紀州藩側は圓福寺に滞在したとされ、交渉の場には福禅寺対潮楼なども使われたと伝わります。
Q常夜燈はいつ建てられたものですか?
安政6年(1859年)に建てられたとされます。海中の基礎から宝珠の先端まで約12.1メートルあり、現存する江戸時代の常夜燈としては最大級とされます。鞆の浦のシンボルとして親しまれています。
Q「雁木」とは何ですか?
階段状に石を積んだ船着き場のことです。潮の干満で海面の高さが変わっても、ちょうど水面の高さに合った段で船を着けられるよう工夫されています。鞆港の雁木は半円形の港に沿って約150メートルにわたって連続し、その規模は全国でも類を見ないとされます。
Q鞆の浦に江戸時代の港湾施設がそろって残っているというのは本当ですか?
はい。常夜燈・雁木・波止・焚場跡・船番所跡という、近世の港を構成する主要施設がそろって現存している例は、全国でも鞆の浦をおいて他にないとされています。「江戸時代の港がそのまま残る町」と呼ばれるゆえんです。
Q保命酒とは何ですか?
鞆の浦を代表する薬味酒で、大坂の医師・中村吉兵衛が考案したと伝えられ、万治2年(1659年)ごろから鞆で造られ始めたとされます。十数種類の生薬を漬け込んだ滋養強壮の酒で、現在も鞆の浦の複数の蔵元が造り続けています。
Q太田家住宅はどんな建物ですか?
もとは保命酒を造った豪商・中村家の屋敷で、明治以降に廻船問屋の太田家が受け継いだことから太田家住宅と呼ばれます。主屋や醸造蔵など9棟からなり、平成3年(1991年)に国の重要文化財に指定されました。瀬戸内海の商家建築を代表する貴重な遺構です。
Q鞆の浦へのアクセスは?
JR福山駅からバスで30分ほどの距離にあります。町なかの見どころは徒歩圏内に集中しているため、現地では歩いて巡るのがおすすめです。詳しいアクセスや見学情報は、各施設の公式情報でご確認ください。
まとめ|潮の分かれ目が生んだ千年の港町
鞆の浦がこの場所に港町として栄えた根本の理由は、瀬戸内海の中央という地理にありました。東西から流れ込む潮がぶつかり、また分かれて流れ出す「潮の分かれ目」――この地点で潮を待たねばならなかったからこそ、人と船と物資が集まり、千年を超える歴史をもつ港町が育まれたのです。「潮待ちの港」という呼び名は、まさにこの町の本質そのものでした。
古代には万葉の歌人が船を停めて木を眺め、中世には足利義昭が再起を期して身を寄せ、江戸時代には朝鮮通信使が「日東第一形勝」と讃え、幕末には坂本龍馬が海難賠償の談判に臨んだ――ひとつの小さな入り江に、これほど多層的な歴史が積み重なった港は、全国でも類を見ません。そして、その繁栄を支えた常夜燈・雁木・波止・焚場・船番所という江戸時代の港湾施設が、今もほぼそのままの姿で残っています。
潮待ちの港・鞆の浦を歩くことは、日本の海の歴史をそのままたどることでもあります。常夜燈のたもとに立ち、雁木の石段に腰かけ、対潮楼から瀬戸内の海を眺めれば、潮の流れに導かれてこの地に集った無数の人々の営みが、きっと感じられるはずです。福山を訪れた際には、ぜひこの千年の港町に足を運んでみてください。
出典・ご利用にあたっての注意
本記事は、福山市の公式情報、文化庁日本遺産ポータルサイト、博物館・観光協会等の公開情報、および百科事典等の一般的な歴史記述をもとに構成しています。年代・人物・出来事については複数の資料で確認したうえで記述していますが、解釈や伝承には幅があります。
※年代・経緯には諸説ある事項を含みます。詳細は各施設の公式情報や郷土資料でご確認ください。
最終更新: 2026年6月10日
史跡情報は福山NOTE 史跡図鑑(fn_history)より。