広島県福山市は、瀬戸内海に面した城下町として栄え、四百年にわたって独自の食文化を育んできました。なかでも和菓子・銘菓づくりは、城下町の暮らし、武家社会に根づいた茶の湯の文化、そして瀬戸内の豊かな素材を背景に発展してきた、福山を語るうえで欠かせない伝統の一つです。元和五年(一六一九年)に水野勝成が入封し、翌々年に福山城が築かれて以降、城下では祝い事や贈答、季節の行事に菓子が用いられ、職人たちが代々その技と意匠を磨いてきました。現在も福山市内には創業から数十年、なかには「創業四百年」を掲げる老舗まで、さまざまな和菓子店が点在し、城下町の記憶を甘味のなかに伝えています。この記事では、福山の銘菓・和菓子の歴史を、城下町の成り立ちから現代の老舗まで、確認できる史実にもとづいてたどっていきます。
菓子という存在は、一見すると暮らしの片隅にある些細なものに思えるかもしれません。しかし、その背後には、城を築いた大名の好み、武家の儀礼、商家の繁栄、職人の家系、そして地域でとれる米・小豆・柑橘・酒といった素材の物語が幾重にも折り重なっています。福山の和菓子をたどることは、すなわち福山という町そのものの歩みをたどることにほかなりません。なお、年代や由来には諸説ある事項を含むため、本記事では確認できた範囲を断定し、不確実な点は「とされる」「伝わる」と明記しています。
ゆかりの史跡・図鑑
福山の和菓子文化を育んだ城下町には、菓子の歴史と深くかかわる史跡が数多く残されています。福山城をはじめとする城下の名所、茶の湯文化の舞台、職人町の名残などを、史跡図鑑からご覧いただけます。まずは一覧表で全体像をつかみ、比較表で特徴を見比べ、詳細でそれぞれの背景を確かめてください。
| 史跡 | 時代 | 概要 | 📍 エリア | 詳細 |
|---|---|---|---|---|
| 福山城 伏見櫓 | 江戸時代(元和年間) | 伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最… | 📍 福山駅前(福山市街) | 下へ ↓ |
| 福山城 | 近世(江戸) | 備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御… | 📍 丸之内 | 下へ ↓ |
| 福山城博物館 | 近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期) | 水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩… | 📍 福山駅前(福山市街) | 下へ ↓ |
| 草戸千軒町遺跡 | 中世 | 芦田川の中州にあった中世の港町・集落遺跡。発… | 📍 草戸町 | 下へ ↓ |
| 明王院 | 中世 | 本堂と五重塔がともに国宝。中世密教寺院で、五… | 📍 草戸町 | 下へ ↓ |
| 鞆の津の町並み(重伝建) | 江戸時代(中世〜近代の建造物群) | 潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 鞆の浦の常夜燈と港湾施設 | 江戸時代 | 江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 福山市鞆の浦歴史民俗資料館 | 近代(昭和) | 鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 鞆の浦 | 中世〜近世 | 瀬戸内の「潮待ちの港」。常夜燈・雁木・波止場… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 福禅寺 対潮楼 | 近世 | 朝鮮通信使の使節が「日東第一形勝」と讃えた客… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 太田家住宅 | 江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期) | 鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| いろは丸展示館 | 近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期) | 坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 仙酔島 | 古代(地質)/近代(指定) | 鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 廉塾(菅茶山旧宅) | 近世 | 儒学者・菅茶山が開いた私塾。当時の塾舎・住宅… | 📍 神辺町 | 下へ ↓ |
| 神辺城跡 | 中世 | 備後南部の中世山城。福山城が築かれる以前、備… | 📍 神辺町 | 下へ ↓ |
| 福山八幡宮 | 近世 | 福山城の北に鎮座し、東西二つの宮を備える。歴… | 📍 北吉津町 | 下へ ↓ |
| 沼名前神社 | 近世 | 鞆の「祇園さん」。夏の大松明を担ぐ「お手火神… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 阿伏兎観音(磐台寺観音堂) | 近世 | 断崖の上に建つ朱塗りの観音堂。国の重要文化財… | 📍 沼隈町 | 下へ ↓ |
| 吉備津神社(備後一宮) | 江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる | 備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で… | 📍 新市町 | 下へ ↓ |
| 素盞嗚神社(備後一宮) | 飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮 | 祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏の… | 📍 新市町 | 下へ ↓ |
福山城 伏見櫓
伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最古級の三層入母屋造の現存櫓。 福山城伏見櫓は、元和8年(1622年)の福山城築城に際し、城主水野勝成が将軍徳川秀忠から下賜を受け、京都の伏見城から移築させたと伝えられる櫓である。長らく伝承とされていたが、昭和29年(1954年)の解体修理の際、梁の陰刻に「松ノ丸ノ東やく(ら)」の文字が発見され、伏見城からの移築を裏付ける確かな遺構であることが明らかになった。構造は三層入母屋造で、初層と二層を同じ柱割とし、その上にやや小さい三層を望楼状に載せる。桁行八間・梁間三間、本瓦葺の規模をもつ。慶長期の城郭建築の様式を残す初期の典型として価値が高く、昭和8年(1933年)1月23日に国の重要文化財に指定された。福山城内に現存し、特別公開が行われることもある。
| 🕰 時代 | 江戸時代(元和年間) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 元和8年(1622年)水野勝成の福山城築城時に伏見城から移築。国指定重要文化財(昭和8年=1933年1月23日指定) |
| 📍 所在地 | 広島県福山市丸之内一丁目(福山城内) |
福山城
備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御門は京都伏見城からの移築と伝わる。2022年に築城400年を迎えた。
| 🕰 時代 | 近世(江戸) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 1622年(元和8)・水野勝成 |
| 👤 関連 | 水野勝成・阿部正弘 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市丸之内一丁目8 |
福山城博物館
水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩の歴史を体験型展示で伝える博物館 福山城博物館は、JR福山駅のすぐ北に建つ福山城天守内に置かれた市立の歴史資料館です。福山城は1622年(元和8年)、徳川譜代の大名・水野勝成が西国鎮衛の拠点として築いた近世城郭で、天守は1931年に国宝に指定されました。しかし1945年8月の福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリート造で外観が復興され、その内部が博物館として公開されました。2022年には築城400年に合わせて大規模リニューアルされ、北面の鉄板張り(黒い装い)の再現や、一番槍レース・火縄銃などの体験型コンテンツ、デジタル映像を用いた展示が整えられ、福山城と福山藩の歴史を学べる施設となっています。城内に現存する伏見櫓と筋鉄御門は、京都・伏見城からの移築と伝えられ、国の重要文化財に指定されています。常設展は有料、月曜休館とされます。
| 🕰 時代 | 近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 福山城は1622年(元和8年)に初代福山藩主・水野勝成が築城。天守は1945年福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリートで外観復興、内部を博物館として開館。2022年に大規模リニューアル |
| 📍 所在地 | 広島県福山市丸之内一丁目8番 |
草戸千軒町遺跡
芦田川の中州にあった中世の港町・集落遺跡。発掘成果は広島県立歴史博物館で町並みが原寸復元展示されている。
| 🕰 時代 | 中世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 鎌倉〜室町 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市草戸町 |
明王院
本堂と五重塔がともに国宝。中世密教寺院で、五重塔は全国でも有数の古塔。
| 🕰 時代 | 中世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 本堂1321年・五重塔1348年 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市草戸町1473 |
鞆の津の町並み(重伝建)
潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と町家が一体で残る重伝建地区 鞆の浦は瀬戸内海の中央に位置し、古来「潮待ちの港」として栄え、万葉集にも詠まれた歴史を持つとされる。江戸時代には北前船など廻船の寄港地として繁栄し、朝鮮通信使の寄港地ともなった。2017年(平成29年)11月28日、「福山市鞆町伝統的建造物群保存地区」として約8.6ヘクタールが国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。範囲は鞆字西町の全域を中心に、石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地の一部に及ぶ。中世から江戸期に整えられた地割の上に、江戸時代から昭和30年代までの町家や寺社、石垣などが一体的に残る近世港町の景観が評価された。常夜燈・雁木・波止・焚場・船番所の5つの港湾施設がほぼ完全に残る点は全国でも稀とされる。広島県内では3例目の選定で、2018年には日本遺産にも認定された。
| 🕰 時代 | 江戸時代(中世〜近代の建造物群) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 2017年(平成29年)11月28日に国の重要伝統的建造物群保存地区へ選定。地割は中世〜江戸期、建造物は江戸時代〜昭和30年代まで。 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町(鞆字西町全域ほか、字石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地字古城跡・草谷の各一部) |
鞆の浦の常夜燈と港湾施設
江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯一の近世港、鞆港。 鞆の浦の鞆港には、常夜燈・雁木・波止・焚場(たでば)・船番所という江戸時代の港湾施設5点がほぼ揃って現存し、これらが一体で残るのは全国でも鞆港のみとされる。シンボルの常夜燈は安政6年(1859)の刻銘をもつ石造灯台で、海中の基礎石から宝珠の頂までは約12.1mに及び、江戸期の石造常夜燈としては国内最大級とされる。雁木は潮の干満に応じて船を着けられる階段状の船着き場で、半円形の港内に連続して巡らされている。波止は花崗岩を積んだ全長約146mの防波堤で、江戸後期に築かれ明治期に修築された。鞆港を含む沿岸と沖の島々一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定され、鞆町西町を中心とする区域は2017年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。日本遺産「瀬戸の夕凪が包む 国内随一の近世港町」の構成要素でもある。
| 🕰 時代 | 江戸時代 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 常夜燈は安政6年(1859)造立とされる。雁木・波止・焚場・船番所は江戸後期築造、波止は明治期に修築。鞆港一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定。 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町鞆 |
福山市鞆の浦歴史民俗資料館
鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬戸内の歴史・民俗を伝える市立資料館 福山市鞆の浦歴史民俗資料館は、広島県福山市鞆町後地に建つ市立の博物館で、「潮待ちの館」の愛称で親しまれる。1977年(昭和52年)からの地元有志による調査・収集活動を背景に、福山市制70周年記念事業として1988年(昭和63年)に開館した。立地は、福島正則が築いたとされる鞆城跡(福山市指定史跡)の高台で、瀬戸内海を見渡せる。万葉の時代から潮待ち・風待ちの港として栄えた鞆の浦を中心に、古代から近世にいたる歴史資料を展示。鯛網漁のジオラマや錨を製造した鍛冶場、朝鮮通信使関連資料、保命酒に関する資料に加え、お手火神事・お弓神事といった地域の民俗文化財も常設展示する。鞆の歴史と暮らしを総合的に学べる拠点とされる。
| 🕰 時代 | 近代(昭和) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 1988年(昭和63年)開館。福山市制70周年記念事業として建設。建つ鞆城跡は福島正則が築いたとされる(福山市指定史跡) |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町後地536-1 |
鞆の浦
瀬戸内の「潮待ちの港」。常夜燈・雁木・波止場・焚場・船番所の港湾施設が一体で残る全国的にも貴重な町並み。
| 🕰 時代 | 中世〜近世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 古代〜 |
| 👤 関連 | 朝鮮通信使・足利義昭・坂本龍馬 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町 |
福禅寺 対潮楼
朝鮮通信使の使節が「日東第一形勝」と讃えた客殿からの眺め。仙酔島を望む座敷が名高い。
| 🕰 時代 | 近世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 客殿は元禄年間 |
| 👤 関連 | 朝鮮通信使 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町2 |
太田家住宅
鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で、国の重要文化財 鞆の浦を代表する歴史的建造物で、薬用酒「保命酒」の醸造で財を成した商家の旧宅。もとは大坂の漢方医を出自とする中村家の屋敷で、明暦元年(1655年)に鞆へ移り住み、まもなく十六味地黄保命酒の製造・販売を始めて大ヒットし、福山藩の御用名酒屋として販売独占権を得たとされる。明治期に廻船業を営んだ太田家が継承し、現在の名で呼ばれる。主屋を中心に保命酒蔵や各種土蔵など九棟が建ち並び、建築年代は18世紀中期から19世紀前期に及ぶ。瀬戸内の商家建築を伝える貴重な遺構として、1991年に国の重要文化財に指定された。幕末には三条実美ら尊王攘夷派の公卿が立ち寄ったと伝わり、別宅の朝宗亭とともに「鞆七卿落遺跡」として広島県の史跡(1940年指定)にもなっている。
| 🕰 時代 | 江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 主屋は18世紀中期、ほか北保命酒蔵が天明8年(1788年)、西蔵が寛政元年(1789年)、東保命酒蔵が寛政7年(1795年)など18世紀中期〜19世紀前期。国の重要文化財指定は1991年(平成3年)5月31日。 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町鞆842 |
いろは丸展示館
坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵を活かした資料館 鞆の浦のシンボル常夜灯(とうろどう)のすぐそばに建つ資料館。1867年(慶応3年)、坂本龍馬と海援隊が運航したいろは丸が紀州藩の明光丸と備後灘で衝突・沈没した「いろは丸事件」を伝える施設で、その談判が鞆の浦で行われた縁にちなむ。建物は江戸期に建てられた太い梁が印象的な土蔵で、地元では「大蔵」と呼ばれ、国の登録有形文化財とされる。館内には海底に沈むいろは丸を再現したジオラマ、引き揚げられた陶器や部品、調査風景の写真などを展示し、2階には龍馬が宿泊先で身を潜めたという「隠れ部屋」が再現され、龍馬の蝋人形も置かれている。1989年(平成元年)7月の開館。幕末史と鞆の港町文化を同時に味わえるスポットである。
| 🕰 時代 | 近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 1989年(平成元年)7月開館。建物は江戸期築の土蔵「大蔵(浜蔵)」で、国の登録有形文化財とされる。展示題材のいろは丸事件は1867年(慶応3年) |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町鞆843-1 |
仙酔島
鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連なる瀬戸内海国立公園の名勝 仙酔島は鞆の浦の沖合に浮かぶ周囲約6キロの島で、住所は福山市鞆町後地。鞆港から市営渡船で約5分の距離にあり、観光客の往来はあるが定住者のいない無人島とされる。1925年(大正14年)に国の名勝「鞆公園」の一部として指定され、1934年(昭和9年)には日本で最初に指定された国立公園・瀬戸内海国立公園に含まれた。島は約9000万年前の大規模な火山活動による溶結凝灰岩を主体とし、南側海岸には青・赤・黄・白・黒の岩が200メートル以上連なる「五色岩」が見られ、地質的に貴重とされる。「仙人が酔うほど美しい島」が名の由来と言われる。江戸後期の学者・頼山陽が当地の景観を「山紫水明」と評したとも伝わる。
| 🕰 時代 | 古代(地質)/近代(指定) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 1925年(大正14年)国名勝「鞆公園」に指定。1934年(昭和9年)日本初の国立公園・瀬戸内海国立公園に編入。島自体は約9000万年前の火山活動で形成されたとされる |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町後地 |
廉塾(菅茶山旧宅)
儒学者・菅茶山が開いた私塾。当時の塾舎・住宅が残り、国の特別史跡に指定されている。
| 🕰 時代 | 近世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 18世紀末 |
| 👤 関連 | 菅茶山 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市神辺町川北640 |
神辺城跡
備後南部の中世山城。福山城が築かれる以前、備後支配の拠点だった。
| 🕰 時代 | 中世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 南北朝期 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市神辺町 |
福山八幡宮
福山城の北に鎮座し、東西二つの宮を備える。歴代藩主の崇敬を集めた。
| 🕰 時代 | 近世 |
|---|---|
| 👤 関連 | 水野家 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市北吉津町1-2-16 |
沼名前神社
鞆の「祇園さん」。夏の大松明を担ぐ「お手火神事」で知られる古社。
| 🕰 時代 | 近世 |
|---|---|
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町後地 |
阿伏兎観音(磐台寺観音堂)
断崖の上に建つ朱塗りの観音堂。国の重要文化財。古来、海上安全と子授け・安産の祈願で知られる。
| 🕰 時代 | 近世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 16世紀末 |
| 👤 関連 | 毛利輝元 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市沼隈町能登原 |
吉備津神社(備後一宮)
備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で「いっきゅうさん」と親しまれる古社 福山市新市町宮内に鎮座する備後国一宮で、地元では「一宮さん(いっきゅうさん)」と親しまれる。社伝では大同元年(806年)に吉備国の吉備津神社から勧請し創建されたと伝わるが、延喜式神名帳に記載がないことなどから実際の成立はより後とする説もある。主祭神は吉備国を治めたとされる大吉備津彦命。現在の本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が旧規模にならい造営したもので、桁行七間・梁間四間の入母屋造檜皮葺、国の重要文化財に指定されている。ほかにも木造狛犬や太刀などが重要文化財として伝えられ、複数の建造物が広島県・福山市指定文化財となっている。隣接する櫻山城跡なども史跡として知られ、備後の信仰と歴史を今に伝える。
| 🕰 時代 | 江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が造営、国の重要文化財。創建は大同元年(806年)と伝わるが諸説ある |
| 📍 所在地 | 広島県福山市新市町宮内400 |
素盞嗚神社(備後一宮)
祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏のけんか神輿で名高い古社 福山市新市町戸手に鎮座する素盞嗚神社は、『延喜式神名帳』に載る式内社で備後国一宮を称し、旧社格は県社です。主祭神は素盞嗚尊で、稲田姫命・八王子を配祀します。社伝では天武天皇の治世、7世紀ごろ(679年か)の創建とされます。『釈日本紀』所収の「備後国風土記」逸文に伝わる蘇民将来説話の舞台「疫隈国社」と結びつけられ、茅の輪くぐりや祇園信仰・祇園祭発祥の地の一つとされています。神仏習合期には牛頭天王を祀り、遣唐使・吉備真備が734年に当社から播磨の広峯神社へ勧請したとも伝わります。毎年7月の例祭では、勇壮なけんか神輿(神輿合わせ)が行われることで知られます。
| 🕰 時代 | 飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 社伝では天武天皇期の7世紀ごろ(679年か)創建とされる。『延喜式神名帳』記載の式内社で、旧県社 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市新市町大字戸手1-1 |
これらの史跡は、福山の菓子文化が単独で生まれたものではなく、城下町の都市づくり、武家の儀礼、商業の発展、瀬戸内の交易といった大きな歴史の流れのなかで育まれてきたことを物語っています。図鑑で気になる場所を見つけたら、ぜひ実際に足を運び、甘味の背後に広がる町の記憶を感じてみてください。
起源・背景――城下町・福山の誕生と菓子文化の土壌

福山の和菓子文化を語るには、まず城下町・福山そのものの成り立ちから始めなければなりません。福山城は、一六一九年(元和五年)に初代藩主・水野勝成が築いた城です。勝成は徳川家康の従兄弟にあたる人物で、備後一帯を治める拠点としてこの地に城と城下町を整備しました。福山市の公的資料によれば、城下町は当初およそ十二町ほどの規模から始まり、水野氏の時代の終わりごろには三十町ほどへと拡大したとされます。その後、福山藩は水野氏、松平氏、阿部氏と藩主家が移り変わりながら、明治維新に至るまで備後の中心地としての地位を保ち続けました。
城下町の整備は、単に城と武家屋敷を配置するだけのものではありませんでした。城下には町人地が設けられ、商工業者が集まり、寺社が建立され、人々の暮らしと文化が花開く場が形づくられていきました。武士の住まいは城の南側や西側に配され、身分に応じて居住区が分けられていたと伝わります。こうした計画的な町づくりのなかで、贈答や祝祭、来客の接待といった場面が日常的に生まれ、それを彩る菓子の需要が育まれていったと考えられます。
武家社会と茶の湯がもたらした菓子の洗練
和菓子、とりわけ上生菓子の発展を語るうえで欠かせないのが、茶の湯の文化です。江戸時代、茶の湯(茶道)は武家社会の重要な教養として位置づけられ、幕府の儀礼にも取り入れられました。大名や上級武士のあいだでは「大名茶」と呼ばれる茶の湯が広く嗜まれ、茶席には季節を映した美しい菓子が欠かせないものとなっていきました。福山藩においても、藩主家や家臣団のあいだで茶の湯の素養が重んじられ、茶席にふさわしい主菓子や干菓子が求められたと考えられます。
茶の湯の菓子は、ただ甘いだけでなく、季節の移ろいや自然の風物を写し取る意匠の美しさ、そして茶の苦みと調和する繊細な味わいが求められます。こうした高い要求にこたえるなかで、菓子職人の技は磨かれていきました。練り切りや羊羹、こなしといった上生菓子の技法、そして和三盆を用いた干菓子の繊細な意匠は、武家文化のもとで洗練の度を増していったのです。福山の城下に菓子づくりの伝統が根づいた背景には、こうした茶の湯文化の存在があったとみてよいでしょう。
瀬戸内の素材が育んだ甘味の個性
福山の和菓子のもう一つの土壌は、瀬戸内海がもたらす豊かな素材です。温暖な気候に恵まれた瀬戸内沿岸は、米や小豆をはじめとする農産物が育ちやすく、また柑橘類の栽培でも知られています。柚子やはっさくをはじめとする柑橘の香りは、福山やその周辺の菓子にたびたび用いられ、瀬戸内らしい爽やかな個性を菓子に与えてきました。さらに、鞆の浦で江戸時代から造られてきた薬味酒「保命酒(ほうめいしゅ)」は、その酒粕などが菓子の素材として活用されるなど、地域の産物が菓子文化と結びついた例も見られます。
このように、福山の和菓子は、城下町という都市の構造、武家社会と茶の湯の文化、そして瀬戸内の素材という三つの土壌のうえに花開いたものです。城が築かれ、町が整い、人と物が行き交うなかで、菓子は祝いの席を、来客のもてなしを、そして日々の暮らしの小さな喜びを支える存在として、町の歴史とともに歩んできました。
城下町の始まりと菓子――水野勝成と「とんど饅頭」の伝承
福山の和菓子の歴史を象徴する逸話として、しばしば語られるのが、初代藩主・水野勝成と菓子のかかわりです。福山市内に本拠を置く老舗「虎屋本舗(とらやほんぽ)」の伝えるところによれば、同店は元和六年(一六二〇年)に菓子匠を開業したことをもって創業年としており、その起こりは福山城築城のころにまでさかのぼるとされています。同店の由緒では、初代・高田宗樹が伏見城から船を運んだ縁などにより、勝成から福山の地を拝領して宿老となったと伝えられています。
この虎屋本舗を代表する銘菓が「とんど饅頭」です。同店の伝承によれば、藩主に献上した饅頭が賞賛され、豊穣を祝う伝統の火祭り「左義長(さぎちょう=とんど)」の名を拝命したことが、その名の由来になったとされます。とんど(左義長)は、正月の松飾りなどを焼いて一年の無病息災や豊作を祈る、各地に伝わる小正月の行事です。その縁起のよい名を冠した饅頭は、祝いの菓子として親しまれてきました。なお、こうした創業由来や命名の逸話には伝承としての性格が含まれるため、年代や経緯には諸説あることをあらかじめお断りしておきます。
「創業四百年」が物語る城下町の連続性
元和六年(一六二〇年)を創業年とすると、現在まででおよそ四百年という長い時間が流れていることになります。虎屋本舗が「創業四百年」を掲げるゆえんはここにあります。一つの菓子店が城下町の誕生とほぼ同じころに起こり、藩主家が水野氏から松平氏、阿部氏へと移り変わり、やがて明治維新を迎え、近代を経て現代に至るまで、菓子づくりの灯を絶やさずに続けてきたという事実は、福山の城下町文化の連続性を物語る貴重な証といえるでしょう。
もっとも、四百年という歳月のあいだには、戦災や時代の変化など、菓子づくりを取り巻く環境にも数多くの困難があったと考えられます。それでも老舗が看板を守り続けてこられたのは、城下町の人々に愛され、贈答や祝祭の文化のなかに菓子が根づいていたからにほかなりません。とんど饅頭をはじめとする福山の銘菓は、単なる土産物ではなく、町の歴史そのものを今に伝える「生きた史料」としての一面を持っているのです。
勝成にちなんだ縁起菓子の系譜
初代藩主・水野勝成は、福山の人々にとって町の礎を築いた特別な存在であり続けてきました。その名は今日でも地域の誇りとして語り継がれ、菓子の世界にもその影響を見ることができます。たとえば、福山市内の和菓子店のなかには、勝成の名にちなんで縁起をかついだ菓子をつくる例もあり、地元産の素材を用いた最中などにその名を冠して、福山の歴史にちなんだ甘味として親しまれています。こうした菓子は、地域の歴史を学ぶきっかけにもなり、贈り物としても喜ばれてきました。
このように、城下町の始まりにまつわる人物や出来事が菓子の名前や由来に取り込まれていることは、福山の和菓子文化の大きな特徴です。菓子を通じて町の歴史を語り、味わいながら過去に思いを馳せる――そうした文化が、福山には脈々と受け継がれてきました。詳しくは、福山城そのものの歩みや、水野勝成の生涯を扱った関連記事もあわせてご覧ください。
江戸時代の城下――贈答・祝祭文化と菓子の役割

江戸時代の福山城下では、菓子は人と人とのつながりを結ぶ重要な役割を担っていました。武家社会には、年中行事や慶事に際して菓子を贈り合う習慣が広く根づいており、城下の町人地でもこうした文化が共有されていったと考えられます。婚礼や出産、節句、年始の挨拶といった節目には、縁起のよい菓子が用いられ、人々の暮らしを彩りました。菓子は、ただ食べるためのものではなく、相手への敬意や祝福の気持ちを形にして伝える媒介でもあったのです。
また、城下町には参勤交代や商用で行き交う人々があり、土産や進物としての菓子の需要も生まれていきました。とりわけ福山は、瀬戸内海の海運の要衝である鞆の浦を擁し、海路を通じて多くの人と物が行き交う土地柄でした。鞆の浦は古くから「潮待ちの港」として知られ、西国大名の参勤や外交使節の往来など、さまざまな人々が立ち寄る場でした。こうした交流の場では、もてなしや贈答の文化が育まれ、地域の名産が菓子や酒として珍重されたと考えられます。
鞆の浦と保命酒――菓子文化を支えた地域の名産
福山の食文化を語るうえで欠かせないのが、鞆の浦の薬味酒「保命酒」です。福山商工会議所などの資料によれば、保命酒は一六五九年(万治二年)に中村吉兵衛が鞆の地で製造・販売を始めたのがその起こりとされています。十三種類の漢方薬と、麹米・もち米・焼酎を合わせた、いわゆる「十六味」を漬け込んだ和製リキュールであり、独特の甘みと薬効から、福山藩を代表する幕府への高級献上品として全国的に知られるようになったと伝わります。
保命酒は酒でありながら、その甘く芳醇な風味は菓子文化とも親和性が高く、後世にはその酒粕などを用いた焼き菓子や、保命酒の風味を生かした土産菓子がつくられるようになりました。観光鯛網などで知られる鞆の浦の風情とあいまって、保命酒を使った菓子は今日でもこの地ならではの名産として親しまれています。江戸時代に城下の名産として育まれた保命酒の存在は、福山の菓子文化に独自の彩りを添えてきたといえるでしょう。鞆の浦の歴史的な街並みについては、関連記事もあわせてご覧ください。
瀬戸内の柑橘と季節の菓子
福山やその周辺で古くから親しまれてきた素材の一つに、柚子をはじめとする柑橘類があります。福山市内の老舗のなかには、明治期の創業とされる店で、爽やかな柚子の香りを生かした「柚餅(ゆうもち/ゆべし)」を伝統の銘菓とするところもあります。柚餅のような柑橘を用いた菓子は、瀬戸内地域に親しまれてきた甘味であり、その起こりは古い時代までさかのぼるとも語られています。爽やかな香りと上品な甘さは、茶席にも日常のおやつにも合う、瀬戸内らしい味わいとして受け継がれてきました。
季節を映した菓子づくりも、福山の和菓子文化の大切な要素です。春には桜や蓬を、夏には涼を呼ぶ水菓子を、秋には栗や柿を、冬には柚子や小豆を――というように、四季の素材を取り入れた菓子は、暮らしのなかに季節の移ろいを運んできました。瀬戸内の温暖な気候のもとで育つ豊かな素材は、こうした季節の菓子づくりを支える基盤となってきたのです。
近代へ――明治・大正期に生まれた福山の名店たち
江戸時代の城下町文化を土台としながら、福山の和菓子は近代に入って新たな展開を見せます。明治維新により藩制度が廃され、武家社会が解体されると、菓子の世界もまた大きな転換期を迎えました。それまで武家の儀礼や茶の湯のなかで培われてきた菓子づくりの技は、近代の市民社会へと開かれ、より広い層の人々に親しまれる商品へと姿を変えていきます。鉄道の開通や産業の発展とともに人や物の往来が活発になると、土産菓子の需要も高まり、新たな名店が次々と誕生していきました。
福山は近代以降、繊維(備後絣)や木工(松永の下駄)、そして鉄鋼業など多様な産業で発展した都市であり、人口の増加とともに菓子の市場も広がっていきました。こうした近代化の流れのなかで、明治から大正、昭和にかけて創業した和菓子店が、現在まで続く福山の銘菓の多くを生み出してきたのです。
大正創業の三河屋と銘菓「むろの木」
大正期の福山に生まれた名店として知られるのが、「お菓子処 三河屋」です。同店は大正十年(一九二一年)の創業とされ、百年を超える歴史を持つ和菓子処として福山市民に親しまれてきました。その代表銘菓が「むろの木」です。むろの木は、アーモンドの粉を用いて木の皮のように仕上げた生地が特徴で、その中には栗やオレンジピール、ワインやラムに漬け込んだレーズンを加えた餡が包まれています。和菓子の枠にとどまらない、洋の素材を取り入れた独創的な味わいが、長く愛される理由となってきました。
むろの木は、福山市の市制百周年にあたる二〇一六年(平成二十八年)に選定された「福の山百選」の一つにも選ばれており、福山を代表する銘菓として広く認知されています。大正期に生まれた一品が、和と洋を融合させた独自の発想によって時代を越えて支持され続けていることは、福山の菓子づくりが伝統を守りながらも常に新しい挑戦を続けてきたことを示す好例といえるでしょう。
昭和創業・勉強堂の歩みと和菓子専門店への道
昭和に入って創業した名店として知られるのが、「御菓子所 勉強堂」です。同店は昭和四年(一九二九年)の創業とされ、当初は日用品なども扱う雑貨店として始まったと伝えられています。やがて初代がパンを手がけるようになり、二代目の時代には洋菓子を取り入れ、昭和四十年(一九六五年)ごろには和菓子・パン・洋菓子を幅広く扱う総合的な菓子店へと成長していきました。そして昭和六十年(一九八五年)には、和菓子の専門店として歩む道を選び、現在に至っています。
勉強堂は備後地域を中心に複数の店舗を構え、広島駅構内にも出店するなど、福山の和菓子を広く届ける役割を担ってきました。代表的な商品には、栗を用いた菓子などがあり、瀬戸内の食文化を菓子のかたちで表現することを大切にしてきました。雑貨店からパン、洋菓子を経て、最終的に和菓子の専門店へと回帰したその歩みは、時代の変化に柔軟に対応しながらも、菓子づくりへの情熱を貫いてきた福山の職人気質を物語っています。
城下町の町割りと菓子屋が並んだ通り
江戸時代の福山城下では、町人地に商家や職人の店が立ち並び、暮らしを支える多様ななりわいが営まれていました。福山市の資料によれば、城下町は計画的に区画が整えられ、武士の住まいと町人地が区分されていたとされます。こうした町割りのなかで、菓子をつくり、売る店もまた城下の一角を占めていたと考えられます。米や小豆、砂糖といった素材を扱い、季節の行事に合わせた菓子を用意する菓子屋は、城下の暮らしに欠かせない存在でした。祝い事や寺社の祭礼、年中行事のたびに菓子の需要が生まれ、職人たちは注文に応じて腕をふるったことでしょう。
城下町の菓子文化は、こうした日々の積み重ねのなかで形づくられていきました。藩主家への献上や武家の儀礼といった「ハレ」の場面だけでなく、町人や農民の暮らしのなかにも、節句の菓子や寺社参りの土産といった形で菓子が溶け込んでいたと考えられます。上は藩主から下は庶民まで、身分を越えて人々の暮らしに彩りを添えてきたところに、菓子という文化の懐の深さがあります。福山の城下町は、そうした多層的な菓子文化を育む豊かな土壌であったといえるでしょう。
職人の技と意匠――福山の和菓子に息づくものづくり精神

福山の和菓子を支えてきたのは、何よりも職人たちのたゆまぬ技と意匠への探求心です。和菓子づくりは、餡を炊く火加減、生地のこね具合、成形の繊細さ、そして季節を映す色合いの妙など、数えきれないほどの工程と感性の積み重ねによって成り立っています。とりわけ上生菓子は、四季の風物を写し取る芸術品ともいうべき存在であり、職人の美意識がそのまま形に表れます。福山の老舗が長きにわたって支持されてきたのは、こうした手仕事の確かさと、意匠に込められた心づかいがあったからにほかなりません。
興味深いのは、福山という町が、繊維・木工・鉄鋼といった「ものづくり」の産業で発展してきた都市である点です。備後絣の織り、松永の下駄づくり、そして近代の鉄鋼業に至るまで、福山には手と技で物を生み出す文化が深く根づいてきました。和菓子づくりもまた、こうしたものづくりの精神を共有する営みであり、素材と向き合い、手をかけ、丁寧に仕上げるという姿勢において、福山の産業文化と通底するものがあるといえるでしょう。
和と洋を融合させる柔軟な発想
福山の和菓子のもう一つの特徴は、和と洋の素材を柔軟に融合させる発想の豊かさです。三河屋の「むろの木」がアーモンドやワイン漬けのレーズンを取り入れているように、福山の菓子には伝統的な和菓子の枠にとどまらない自由な創意が見られます。勉強堂が雑貨店からパン、洋菓子を経て和菓子専門店へと至った歩みもまた、時代の嗜好を取り入れながら菓子づくりを発展させてきた柔軟さの表れです。こうした姿勢は、瀬戸内の交易を通じてさまざまな文化に触れてきた港町・福山ならではの開かれた気風に通じるものかもしれません。
伝統を守ることと、新しいものを取り入れること――この一見相反する二つの姿勢を両立させてきたところに、福山の和菓子文化の強みがあります。古くからの製法や意匠を大切に受け継ぎながらも、時代の変化に応じて新たな素材や発想を加えていく。そうした柔軟さがあったからこそ、福山の銘菓は世代を越えて愛され続けてきたのです。
贈答と土産――菓子が結ぶ人と町
福山の和菓子は、贈答や土産の文化のなかで大切に育まれてきました。城下町の時代から、菓子は祝いや感謝の気持ちを伝える贈り物として用いられ、その伝統は近代以降も土産菓子という形で受け継がれています。福山を訪れた人が手にする銘菓は、町の歴史や風土を物語る「使者」であり、贈られた人はその甘味を通じて福山という町に思いを馳せることになります。菓子は、こうして人と人、町と町を結ぶ役割を今も果たし続けているのです。
福山駅周辺や市内の各所では、とんど饅頭やむろの木をはじめとする銘菓、保命酒を使った菓子、瀬戸内の柑橘を生かした甘味などが土産として並びます。これらの菓子は、それぞれに福山の歴史や素材の物語を背負っており、選ぶ楽しみ、味わう楽しみ、そして贈る楽しみを与えてくれます。菓子を手に取ることは、福山の四百年の歩みに触れることでもあるのです。
時代とともに歩む福山の菓子文化――戦災・復興・現代
福山の和菓子文化は、決して平坦な道を歩んできたわけではありません。とりわけ昭和の戦災は、城下町としての福山に大きな傷を残しました。多くの建物が失われ、町の景観は一変しましたが、人々は復興に立ち上がり、暮らしを立て直していきました。菓子づくりもまた、こうした困難を乗り越えながら続けられてきたのです。戦後の復興期から高度経済成長期にかけて、人々の暮らしが豊かになるにつれ、菓子は再び祝祭や贈答、日常の楽しみのなかに欠かせない存在として定着していきました。
高度経済成長期以降、菓子を取り巻く環境は大きく変化しました。洋菓子の普及、流通の発達、消費者の嗜好の多様化など、和菓子店にとっては新たな挑戦の連続でした。そうしたなかで、福山の老舗は伝統の銘菓を守りながらも、新しい商品の開発や販路の拡大に取り組み、時代に適応してきました。勉強堂が広島駅構内に出店して福山の菓子を県外にも届けたり、各店がオンライン販売に取り組んだりするのも、こうした適応の一例といえるでしょう。
市制百周年と「福の山百選」
福山の菓子文化が改めて見つめ直される契機となったのが、二〇一六年(平成二十八年)の市制百周年です。この節目に選定された「福の山百選」には、三河屋の「むろの木」をはじめとする福山ゆかりの品々が選ばれ、地域の名産として広く紹介されました。市制百周年という大きな節目において、菓子が町を代表する文化の一つとして位置づけられたことは、福山における和菓子の重みを物語っています。
こうした地域ぐるみの取り組みは、老舗の菓子に新たな光を当て、若い世代や観光客に福山の銘菓を知ってもらう機会を生み出しました。長い歴史を持つ菓子が、現代において改めて評価され、町のブランドとして発信されていくことは、福山の菓子文化が過去の遺産にとどまらず、現在進行形で受け継がれ、育てられていることを示しています。
老舗が守るもの、変えていくもの
現代の福山の和菓子店は、伝統を守ることと時代に応じて変化することのあいだで、たえずバランスを取りながら歩んでいます。創業以来の看板銘菓を守り続ける一方で、季節限定の新作を生み出したり、現代の生活様式に合わせた商品形態を工夫したりと、それぞれの店が独自の取り組みを重ねています。手仕事の温かみと品質を大切にしながらも、消費者のニーズに耳を傾ける――そうした姿勢が、老舗を老舗たらしめている理由といえるでしょう。
とんど饅頭のように城下町の始まりにまで起源をさかのぼる菓子から、むろの木のように大正期に生まれた独創的な銘菓、そして勉強堂のように時代の変化に柔軟に対応してきた菓子店まで、福山の和菓子は実に多彩です。それぞれの菓子には、つくり手の歴史と思いが込められており、味わうたびに福山という町の歩みが立ち上がってきます。
餡づくりに見る職人の真価
和菓子の味の核心は、何といっても餡にあります。小豆を選び、丁寧に煮て、砂糖を加えて練り上げる――この一連の工程には、職人の経験と勘がそのまま表れます。火加減を誤れば風味は損なわれ、練りが甘ければ口どけが悪くなる。逆に、最良の小豆を見極め、適切に炊き上げた餡は、上品な甘さと豊かな香りを放ち、菓子全体の格を決定づけます。福山の老舗が長く支持されてきた背景には、こうした餡づくりの確かな技があったと考えられます。瀬戸内をはじめとする良質な素材を生かし、手間を惜しまず仕上げる――その積み重ねが、銘菓の味を支えてきたのです。
餡をはじめとする和菓子づくりの技は、一朝一夕に身につくものではありません。多くの老舗では、先代から受け継いだ製法を守りながら、長い年月をかけて職人を育ててきました。レシピや配合といった目に見える部分だけでなく、季節や天候に応じて微妙に手加減を変える感覚など、言葉にしにくい暗黙の知恵もまた、世代を越えて伝えられてきました。福山の和菓子に宿る奥深い味わいは、こうした受け継がれた技と知恵の結晶にほかなりません。
意匠に込められた季節と祈り
和菓子のもう一つの魅力は、その意匠の美しさにあります。とりわけ上生菓子は、四季の花や風物を写し取り、見る人の目を楽しませてきました。春の桜、夏の清流、秋の紅葉、冬の雪――自然の移ろいを菓子のなかに表現する技は、日本の美意識の精華といえます。福山の和菓子もまた、こうした季節の意匠を大切にしながらつくられてきました。茶席に供される主菓子から、贈答用の詰め合わせまで、その意匠には季節への感性と、相手への心づかいが込められています。
さらに、菓子の意匠や名前には、しばしば縁起や祈りが込められてきました。とんど饅頭が豊穣を祝う火祭りの名を冠しているように、福山の菓子にも、無病息災や繁栄、祝福といった願いが託されたものが見られます。菓子を贈り、味わうという行為には、こうした目に見えない祈りのやりとりが含まれているのです。意匠の美しさと縁起のよさ――この二つを兼ね備えた和菓子は、まさに日本文化の豊かさを体現する存在といえるでしょう。
現在に受け継がれるもの――銘菓が伝える城下町の記憶
福山の和菓子・銘菓は、単なる嗜好品ではなく、城下町・福山の四百年の記憶を今に伝える文化遺産です。元和五年(一六一九年)の入封から始まった城下町の歴史、武家社会と茶の湯の文化、瀬戸内の豊かな素材、そして職人たちのものづくりの精神――そのすべてが、福山の菓子のなかに溶け込んでいます。一つの菓子を味わうことは、こうした幾重もの歴史の層に触れることであり、町の記憶を口にすることでもあるのです。
「創業四百年」を掲げる虎屋本舗のとんど饅頭、大正創業の三河屋のむろの木、昭和創業の勉強堂の菓子、明治創業とされる店の柚餅、そして鞆の浦の保命酒を生かした菓子――それぞれが異なる時代に生まれ、異なる物語を背負いながら、現代の福山に共存しています。これらが一つの町のなかに息づいていること自体が、福山の菓子文化の豊かさと層の厚さを物語っています。
城下町の文化を未来へつないでいくうえで、和菓子の果たす役割は決して小さくありません。菓子は、誰もが気軽に手に取り、味わうことのできる身近な文化です。歴史書を読まずとも、一つの銘菓を口にすることで、人は福山の物語に触れることができます。福山の和菓子文化が今後も大切に受け継がれ、新たな創意とともに育っていくことを願ってやみません。福山の歩み全体については、通史をまとめた関連記事もあわせてご覧ください。
関連年表――福山の城下町と菓子文化の歩み
福山の城下町と和菓子文化のおもな歩みを、確認できる範囲で年表にまとめました。年代や経緯には諸説ある事項を含むため、目安としてご覧ください。
この年表からも分かるように、福山の菓子文化は城下町の誕生とほぼ同時に始まり、江戸・明治・大正・昭和・平成・令和と、時代の変遷とともに途切れることなく続いてきました。それぞれの時代の老舗が、その時々の暮らしや嗜好を映しながら菓子をつくり続けてきたことが、福山の甘味の多様性を生み出しているのです。
福山の菓子文化を支えた藩主家の変遷
福山の城下町文化、そしてその一部としての菓子文化は、藩主家の変遷とともに歩んできました。福山藩は、初代・水野勝成から始まる水野氏の時代、続く松平氏の時代、そして阿部氏の時代へと、藩主家が移り変わりながら明治維新まで続きました。それぞれの時代に、城下町は規模や姿を変えながら発展し、人々の暮らしと文化が積み重ねられていきました。菓子もまた、こうした長い藩政の歴史のなかで、祝祭や贈答の文化とともに育まれてきたのです。
福山市の資料によれば、城下町は水野氏の時代に整備が進み、その規模を大きく広げたとされます。その後、阿部氏の時代に至るまで、城下の基本的な構造は大きくは変わらず、明治を迎えたと伝わります。長期にわたって安定した城下町が維持されたことは、菓子をはじめとする地域文化が腰を据えて育つ条件となりました。短命の城下町では根づきにくい老舗の伝統が、福山では世代を越えて受け継がれてきた――その背景には、こうした藩政の連続性があったといえるでしょう。
献上文化と地域ブランドの萌芽
江戸時代、各藩には名産を幕府や他大名に献上する文化がありました。福山においては、鞆の浦の保命酒が福山藩を代表する幕府への高級献上品として全国的に知られるようになったと伝わります。こうした献上文化は、地域の名産を磨き上げ、その品質と名声を高める原動力となりました。献上にふさわしい品質が求められることで、つくり手は技を競い、素材を吟味し、より優れた品を生み出そうと努めたのです。これは、いわば地域ブランドの萌芽ともいえる動きでした。
菓子の世界でも、藩主への献上や来客のもてなしといった場面が、品質向上の契機となったと考えられます。とんど饅頭の伝承が藩主への献上にまつわるものであるように、城下の菓子屋にとって、藩主家との関わりは技を磨く重要な機会でした。献上や進物にふさわしい菓子をつくることが、結果として福山の菓子全体の水準を引き上げ、後世に続く銘菓の礎を築いていったのです。こうした江戸時代の文化的な蓄積が、近代以降の老舗の繁栄へとつながっていきました。
楽しみ方・味わい方と関連スポット
福山の和菓子をより深く楽しむには、菓子そのものを味わうだけでなく、その背景にある城下町の歴史や風土にも目を向けるのがおすすめです。たとえば、福山城を訪れて城下町の成り立ちに思いを馳せたあとで、城下に続く老舗の銘菓を味わえば、菓子の一つひとつがより味わい深く感じられるはずです。とんど饅頭を手に取れば、初代藩主・水野勝成と城下町の始まりの物語が、むろの木を味わえば、大正期の職人の創意が、よりいっそう身近に感じられることでしょう。
鞆の浦を訪れる際には、保命酒とそれを生かした菓子をぜひ味わってみてください。古い街並みが今も残る鞆の浦は、「潮待ちの港」として栄えた往時の面影を色濃く伝えており、保命酒の歴史とあわせて散策すれば、福山の食文化の奥行きをいっそう深く感じられます。瀬戸内の柑橘を生かした柚餅のような菓子も、季節を感じながら味わいたい一品です。お茶とともにゆっくりと甘味を楽しむひとときは、城下町の茶の湯文化に通じる、ぜいたくな時間となるでしょう。
あわせて訪ねたい福山の歴史スポット
福山の和菓子文化に触れたあとは、町の歴史を物語るさまざまなスポットや産業文化にも目を向けてみてください。城下町の中心である福山城、海運の要衝として栄えた鞆の浦の街並み、そして城下町を築いた水野勝成にまつわる物語は、いずれも福山の菓子文化の背景を理解するうえで欠かせません。あわせて、福山が育んできた多彩な産業――繊維の備後絣、木工の松永の下駄、近代の鉄鋼業――に触れれば、福山という町のものづくりの精神が、和菓子づくりにも通じていることを実感できるはずです。
福山の歴史を総合的に知りたい方は、まず通史をまとめた記事から読み始め、関心のあるテーマへと読み進めていくのがおすすめです。和菓子という身近な切り口から始めて、城下町の歴史、産業の発展、港町の文化へと興味を広げていけば、福山という町の多面的な魅力がいっそう鮮やかに見えてくることでしょう。
- 福山の歴史を総まとめした通史ガイド――城下町の誕生から近現代までの大きな流れを一望できます。
- 福山城ガイド――和菓子文化の舞台となった城下町の中心、福山城の歴史と見どころ。
- 水野勝成――城下町と銘菓の起こりにかかわる初代藩主の生涯。
- 鞆の浦の街並みガイド――保命酒の故郷であり、菓子文化を育んだ港町の風情。
よくある質問(FAQ)
Q福山の和菓子文化はいつごろ始まったのですか?
福山の和菓子文化は、一六一九年(元和五年)に水野勝成が入封して城下町・福山が築かれたころに本格的に始まったと考えられます。市内の老舗・虎屋本舗は、元和六年(一六二〇年)の菓子匠開業を創業年としており、城下町の誕生とほぼ同じころから菓子づくりが行われてきたと伝わります。ただし、年代や由来には諸説ある事項が含まれます。
Q「とんど饅頭」の名前の由来は何ですか?
虎屋本舗の伝承によれば、藩主に献上した饅頭が賞賛され、豊穣を祝う伝統の火祭り「左義長(さぎちょう=とんど)」の名を拝命したことが由来とされています。とんど(左義長)は、小正月に松飾りなどを焼いて無病息災や豊作を祈る行事で、その縁起のよい名にちなんだ祝いの菓子として親しまれてきました。命名の経緯は伝承であり、諸説あります。
Q福山に「創業四百年」の和菓子店があるというのは本当ですか?
福山市内の老舗・虎屋本舗は、元和六年(一六二〇年)の菓子匠開業を創業年とし、「創業四百年」を掲げています。これは福山城の築城・城下町の整備が始まったころにほぼ重なり、城下町文化の連続性を物語る歴史といえます。なお、創業由来には伝承としての性格が含まれます。
Q「むろの木」とはどのような菓子ですか?
むろの木は、大正十年(一九二一年)創業とされる「お菓子処 三河屋」の代表銘菓です。アーモンドの粉を用いて木の皮のように仕上げた生地のなかに、栗・オレンジピール・ワインやラムに漬けたレーズンを加えた餡を包んだ、和と洋を融合させた菓子です。二〇一六年の市制百周年で選定された「福の山百選」の一つにも選ばれています。
Q勉強堂はどのような歴史を持つ店ですか?
御菓子所 勉強堂は昭和四年(一九二九年)の創業とされ、当初は日用品も扱う雑貨店として始まったと伝わります。やがてパン、洋菓子を手がけ、昭和四十年ごろには総合的な菓子店へ成長し、昭和六十年(一九八五年)に和菓子の専門店として歩む道を選びました。備後地域を中心に複数の店舗を構え、広島駅構内にも出店しています。
Q福山の和菓子に瀬戸内の素材はどう使われていますか?
瀬戸内の温暖な気候のもとで育つ柑橘類や、米・小豆などの農産物が、福山の和菓子に幅広く用いられてきました。柚子の香りを生かした柚餅のような菓子はその代表例です。また、鞆の浦の薬味酒・保命酒の酒粕などを用いた焼き菓子も、地域の名産を生かした菓子の一例です。
Q保命酒とは何ですか。菓子との関係はありますか?
保命酒は、鞆の浦で江戸時代から造られてきた薬味酒です。福山商工会議所などの資料によれば、一六五九年(万治二年)に中村吉兵衛が製造・販売を始めたとされ、十三種類の漢方薬と麹米・もち米・焼酎を合わせた「十六味」を漬け込んだ和製リキュールです。その甘く芳醇な風味は菓子とも相性がよく、後世には酒粕などを生かした焼き菓子や土産菓子がつくられています。
Q福山の和菓子が洗練された背景には何がありますか?
江戸時代、武家社会では茶の湯(茶道)が重要な教養とされ、茶席には季節を映した美しい菓子が欠かせませんでした。福山藩でも武家のあいだで茶の湯が嗜まれたと考えられ、茶席にふさわしい繊細な菓子が求められるなかで、職人の技と意匠が磨かれていきました。こうした茶の湯文化が、福山の和菓子を洗練させる土壌となったと考えられます。
Q福山城と和菓子にはどのような関係がありますか?
福山城は一六一九年(元和五年)に水野勝成が築いた城で、その城下町が福山の和菓子文化を育んだ舞台となりました。城下では祝祭や贈答、来客の接待などに菓子が用いられ、とんど饅頭のように初代藩主・勝成にまつわる伝承を持つ菓子も生まれました。福山城は、菓子文化の起点となった城下町の中心といえます。
Q福山の銘菓は「福の山百選」とどう関係していますか?
「福の山百選」は、二〇一六年(平成二十八年)の福山市制百周年にあたって選定された、福山を代表する品々のことです。三河屋の銘菓「むろの木」などが選ばれており、福山の和菓子が町を代表する文化として位置づけられた一例といえます。地域ぐるみで銘菓に光を当てる取り組みでもありました。
Q福山の和菓子はどこで買えますか?
福山駅周辺や市内各所の老舗店舗、駅構内の土産売り場などで購入できます。勉強堂のように広島駅構内に出店している店もあり、近年は各店がオンライン販売に取り組む例も見られます。鞆の浦を訪れれば、保命酒やそれを生かした菓子を現地で手に入れることもできます。最新の取扱状況は各店の公式情報でご確認ください。
Q福山の和菓子の歴史をもっと知るにはどうすればよいですか?
各和菓子店の公式サイトや、福山市・福山観光コンベンション協会・福山商工会議所などの情報のほか、郷土資料や地域の博物館の展示が参考になります。福山城博物館や鞆の浦の歴史資料も、城下町と食文化を理解するうえで役立ちます。本記事の関連リンクから、城下町や港町の歴史へと読み進めるのもおすすめです。
Q福山の和菓子文化はものづくりの伝統と関係がありますか?
福山は繊維(備後絣)、木工(松永の下駄)、近代の鉄鋼業など、手と技で物を生み出す「ものづくり」の産業で発展してきた都市です。和菓子づくりもまた、素材と向き合い丁寧に仕上げる手仕事であり、こうした産業文化と精神を共有しているといえます。福山の菓子に息づく職人気質は、町全体のものづくりの伝統と通じるものがあります。
まとめ――甘味に宿る城下町・福山の四百年
福山の銘菓・和菓子の歴史は、一六一九年(元和五年)に水野勝成が築いた城下町とともに始まり、四百年にわたって受け継がれてきました。城下町の暮らし、武家社会に根づいた茶の湯の文化、瀬戸内の豊かな素材、そして職人たちのものづくりの精神――そのすべてが、福山の甘味のなかに溶け込んでいます。元和六年創業とされる虎屋本舗のとんど饅頭、大正創業の三河屋のむろの木、昭和創業の勉強堂の菓子、明治創業とされる店の柚餅、そして鞆の浦の保命酒を生かした菓子まで、それぞれが異なる時代の物語を背負いながら、現代の福山に共存しています。
菓子は、誰もが気軽に手に取り味わえる、もっとも身近な文化です。一つの銘菓を口にすることで、人は福山という町の歩みに触れることができます。城下町の歴史、港町の交易、ものづくりの伝統――そうした幾重もの物語が、甘味のなかに静かに息づいているのです。福山を訪れる機会があれば、ぜひその土地の銘菓を味わい、四百年の城下町の記憶に思いを馳せてみてください。そして、この豊かな菓子文化が、これからも大切に受け継がれ、新たな創意とともに育っていくことを願っています。
出典・注意
本記事は、福山市ホームページ、福山観光コンベンション協会、福山商工会議所、福山城博物館、各和菓子店(虎屋本舗・お菓子処 三河屋・御菓子所 勉強堂など)の公式情報、および地域の紹介資料など、信頼できる情報を参照して作成しました。ただし、創業年・命名の由来・年代などには伝承や諸説が含まれる事項があり、本文ではそうした点を「とされる」「伝わる」と明記しています。各菓子の製法・素材・取扱状況は変更される場合があります。
※年代・経緯には諸説ある事項を含みます。詳細は各施設・公式情報や郷土資料でご確認ください。
最終更新: 2026年6月10日
史跡情報は福山NOTE 史跡図鑑(fn_history)より。