福山の街を歩いていると、必ずと言ってよいほどたどり着くのが福山駅です。福山城の真下、まさに城内を貫くように線路が敷かれた全国でもまれな駅であり、その開業は明治のなかば、1891年(明治24年)9月11日にさかのぼります。山陽鉄道が笠岡から延びてきて、福山がいったんの終着駅となったこの日から、福山は「鉄道のまち」としての歩みを始めました。さらに大正の世になると、福山の市街から北の山あいへと分け入る軽便鉄道が生まれ、これがやがて福塩線(ふくえんせん)へと育っていきます。本記事では、山陽本線と福塩線という二つの鉄道を軸に、福山駅と駅前のうつりかわりを、確認できる史実にもとづいてたどっていきます。
鉄道の歴史は、単なる線路や車両の話ではありません。どこに駅が置かれ、その駅前にどんな街ができ、人と物がどう動いたのか。それは都市そのものの成り立ちと深く結びついています。福山の場合、もともとは福山城を中心とした城下町でしたが、明治以降は鉄道が新しい都市の骨格をつくり、駅前が商業と交通の中心へと変わっていきました。城と鉄道、二つの時代の象徴がこれほど近く同居している街は、全国でも珍しいといえるでしょう。それでは、史跡図鑑で福山の歴史スポットを概観したうえで、鉄道史の物語へと入っていきましょう。
福山の史跡図鑑|鉄道とともに歩んだまちのスポット
まずは福山の歴史を語るうえで欠かせない史跡・スポットを、福山NOTEの史跡図鑑から一覧でご紹介します。鉄道の歴史を知るうえでも、福山城や城下町、そして鞆の浦といった周辺の歴史地を合わせて押さえておくと、街全体のうつりかわりが立体的に見えてきます。下の一覧表・比較・詳細の3つの切り口から、気になるスポットを探してみてください。
| 史跡 | 時代 | 概要 | 📍 エリア | 詳細 |
|---|---|---|---|---|
| 福山城 伏見櫓 | 江戸時代(元和年間) | 伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最… | 📍 福山駅前(福山市街) | 下へ ↓ |
| 福山城 | 近世(江戸) | 備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御… | 📍 丸之内 | 下へ ↓ |
| 福山城博物館 | 近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期) | 水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩… | 📍 福山駅前(福山市街) | 下へ ↓ |
| 草戸千軒町遺跡 | 中世 | 芦田川の中州にあった中世の港町・集落遺跡。発… | 📍 草戸町 | 下へ ↓ |
| 明王院 | 中世 | 本堂と五重塔がともに国宝。中世密教寺院で、五… | 📍 草戸町 | 下へ ↓ |
| 鞆の津の町並み(重伝建) | 江戸時代(中世〜近代の建造物群) | 潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 鞆の浦の常夜燈と港湾施設 | 江戸時代 | 江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 福山市鞆の浦歴史民俗資料館 | 近代(昭和) | 鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 鞆の浦 | 中世〜近世 | 瀬戸内の「潮待ちの港」。常夜燈・雁木・波止場… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 福禅寺 対潮楼 | 近世 | 朝鮮通信使の使節が「日東第一形勝」と讃えた客… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 太田家住宅 | 江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期) | 鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| いろは丸展示館 | 近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期) | 坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 仙酔島 | 古代(地質)/近代(指定) | 鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 廉塾(菅茶山旧宅) | 近世 | 儒学者・菅茶山が開いた私塾。当時の塾舎・住宅… | 📍 神辺町 | 下へ ↓ |
| 神辺城跡 | 中世 | 備後南部の中世山城。福山城が築かれる以前、備… | 📍 神辺町 | 下へ ↓ |
| 福山八幡宮 | 近世 | 福山城の北に鎮座し、東西二つの宮を備える。歴… | 📍 北吉津町 | 下へ ↓ |
| 沼名前神社 | 近世 | 鞆の「祇園さん」。夏の大松明を担ぐ「お手火神… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 阿伏兎観音(磐台寺観音堂) | 近世 | 断崖の上に建つ朱塗りの観音堂。国の重要文化財… | 📍 沼隈町 | 下へ ↓ |
| 吉備津神社(備後一宮) | 江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる | 備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で… | 📍 新市町 | 下へ ↓ |
| 素盞嗚神社(備後一宮) | 飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮 | 祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏の… | 📍 新市町 | 下へ ↓ |
福山城 伏見櫓
伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最古級の三層入母屋造の現存櫓。 福山城伏見櫓は、元和8年(1622年)の福山城築城に際し、城主水野勝成が将軍徳川秀忠から下賜を受け、京都の伏見城から移築させたと伝えられる櫓である。長らく伝承とされていたが、昭和29年(1954年)の解体修理の際、梁の陰刻に「松ノ丸ノ東やく(ら)」の文字が発見され、伏見城からの移築を裏付ける確かな遺構であることが明らかになった。構造は三層入母屋造で、初層と二層を同じ柱割とし、その上にやや小さい三層を望楼状に載せる。桁行八間・梁間三間、本瓦葺の規模をもつ。慶長期の城郭建築の様式を残す初期の典型として価値が高く、昭和8年(1933年)1月23日に国の重要文化財に指定された。福山城内に現存し、特別公開が行われることもある。
| 🕰 時代 | 江戸時代(元和年間) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 元和8年(1622年)水野勝成の福山城築城時に伏見城から移築。国指定重要文化財(昭和8年=1933年1月23日指定) |
| 📍 所在地 | 広島県福山市丸之内一丁目(福山城内) |
福山城
備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御門は京都伏見城からの移築と伝わる。2022年に築城400年を迎えた。
| 🕰 時代 | 近世(江戸) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 1622年(元和8)・水野勝成 |
| 👤 関連 | 水野勝成・阿部正弘 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市丸之内一丁目8 |
福山城博物館
水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩の歴史を体験型展示で伝える博物館 福山城博物館は、JR福山駅のすぐ北に建つ福山城天守内に置かれた市立の歴史資料館です。福山城は1622年(元和8年)、徳川譜代の大名・水野勝成が西国鎮衛の拠点として築いた近世城郭で、天守は1931年に国宝に指定されました。しかし1945年8月の福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリート造で外観が復興され、その内部が博物館として公開されました。2022年には築城400年に合わせて大規模リニューアルされ、北面の鉄板張り(黒い装い)の再現や、一番槍レース・火縄銃などの体験型コンテンツ、デジタル映像を用いた展示が整えられ、福山城と福山藩の歴史を学べる施設となっています。城内に現存する伏見櫓と筋鉄御門は、京都・伏見城からの移築と伝えられ、国の重要文化財に指定されています。常設展は有料、月曜休館とされます。
| 🕰 時代 | 近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 福山城は1622年(元和8年)に初代福山藩主・水野勝成が築城。天守は1945年福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリートで外観復興、内部を博物館として開館。2022年に大規模リニューアル |
| 📍 所在地 | 広島県福山市丸之内一丁目8番 |
草戸千軒町遺跡
芦田川の中州にあった中世の港町・集落遺跡。発掘成果は広島県立歴史博物館で町並みが原寸復元展示されている。
| 🕰 時代 | 中世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 鎌倉〜室町 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市草戸町 |
明王院
本堂と五重塔がともに国宝。中世密教寺院で、五重塔は全国でも有数の古塔。
| 🕰 時代 | 中世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 本堂1321年・五重塔1348年 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市草戸町1473 |
鞆の津の町並み(重伝建)
潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と町家が一体で残る重伝建地区 鞆の浦は瀬戸内海の中央に位置し、古来「潮待ちの港」として栄え、万葉集にも詠まれた歴史を持つとされる。江戸時代には北前船など廻船の寄港地として繁栄し、朝鮮通信使の寄港地ともなった。2017年(平成29年)11月28日、「福山市鞆町伝統的建造物群保存地区」として約8.6ヘクタールが国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。範囲は鞆字西町の全域を中心に、石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地の一部に及ぶ。中世から江戸期に整えられた地割の上に、江戸時代から昭和30年代までの町家や寺社、石垣などが一体的に残る近世港町の景観が評価された。常夜燈・雁木・波止・焚場・船番所の5つの港湾施設がほぼ完全に残る点は全国でも稀とされる。広島県内では3例目の選定で、2018年には日本遺産にも認定された。
| 🕰 時代 | 江戸時代(中世〜近代の建造物群) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 2017年(平成29年)11月28日に国の重要伝統的建造物群保存地区へ選定。地割は中世〜江戸期、建造物は江戸時代〜昭和30年代まで。 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町(鞆字西町全域ほか、字石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地字古城跡・草谷の各一部) |
鞆の浦の常夜燈と港湾施設
江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯一の近世港、鞆港。 鞆の浦の鞆港には、常夜燈・雁木・波止・焚場(たでば)・船番所という江戸時代の港湾施設5点がほぼ揃って現存し、これらが一体で残るのは全国でも鞆港のみとされる。シンボルの常夜燈は安政6年(1859)の刻銘をもつ石造灯台で、海中の基礎石から宝珠の頂までは約12.1mに及び、江戸期の石造常夜燈としては国内最大級とされる。雁木は潮の干満に応じて船を着けられる階段状の船着き場で、半円形の港内に連続して巡らされている。波止は花崗岩を積んだ全長約146mの防波堤で、江戸後期に築かれ明治期に修築された。鞆港を含む沿岸と沖の島々一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定され、鞆町西町を中心とする区域は2017年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。日本遺産「瀬戸の夕凪が包む 国内随一の近世港町」の構成要素でもある。
| 🕰 時代 | 江戸時代 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 常夜燈は安政6年(1859)造立とされる。雁木・波止・焚場・船番所は江戸後期築造、波止は明治期に修築。鞆港一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定。 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町鞆 |
福山市鞆の浦歴史民俗資料館
鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬戸内の歴史・民俗を伝える市立資料館 福山市鞆の浦歴史民俗資料館は、広島県福山市鞆町後地に建つ市立の博物館で、「潮待ちの館」の愛称で親しまれる。1977年(昭和52年)からの地元有志による調査・収集活動を背景に、福山市制70周年記念事業として1988年(昭和63年)に開館した。立地は、福島正則が築いたとされる鞆城跡(福山市指定史跡)の高台で、瀬戸内海を見渡せる。万葉の時代から潮待ち・風待ちの港として栄えた鞆の浦を中心に、古代から近世にいたる歴史資料を展示。鯛網漁のジオラマや錨を製造した鍛冶場、朝鮮通信使関連資料、保命酒に関する資料に加え、お手火神事・お弓神事といった地域の民俗文化財も常設展示する。鞆の歴史と暮らしを総合的に学べる拠点とされる。
| 🕰 時代 | 近代(昭和) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 1988年(昭和63年)開館。福山市制70周年記念事業として建設。建つ鞆城跡は福島正則が築いたとされる(福山市指定史跡) |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町後地536-1 |
鞆の浦
瀬戸内の「潮待ちの港」。常夜燈・雁木・波止場・焚場・船番所の港湾施設が一体で残る全国的にも貴重な町並み。
| 🕰 時代 | 中世〜近世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 古代〜 |
| 👤 関連 | 朝鮮通信使・足利義昭・坂本龍馬 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町 |
福禅寺 対潮楼
朝鮮通信使の使節が「日東第一形勝」と讃えた客殿からの眺め。仙酔島を望む座敷が名高い。
| 🕰 時代 | 近世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 客殿は元禄年間 |
| 👤 関連 | 朝鮮通信使 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町2 |
太田家住宅
鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で、国の重要文化財 鞆の浦を代表する歴史的建造物で、薬用酒「保命酒」の醸造で財を成した商家の旧宅。もとは大坂の漢方医を出自とする中村家の屋敷で、明暦元年(1655年)に鞆へ移り住み、まもなく十六味地黄保命酒の製造・販売を始めて大ヒットし、福山藩の御用名酒屋として販売独占権を得たとされる。明治期に廻船業を営んだ太田家が継承し、現在の名で呼ばれる。主屋を中心に保命酒蔵や各種土蔵など九棟が建ち並び、建築年代は18世紀中期から19世紀前期に及ぶ。瀬戸内の商家建築を伝える貴重な遺構として、1991年に国の重要文化財に指定された。幕末には三条実美ら尊王攘夷派の公卿が立ち寄ったと伝わり、別宅の朝宗亭とともに「鞆七卿落遺跡」として広島県の史跡(1940年指定)にもなっている。
| 🕰 時代 | 江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 主屋は18世紀中期、ほか北保命酒蔵が天明8年(1788年)、西蔵が寛政元年(1789年)、東保命酒蔵が寛政7年(1795年)など18世紀中期〜19世紀前期。国の重要文化財指定は1991年(平成3年)5月31日。 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町鞆842 |
いろは丸展示館
坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵を活かした資料館 鞆の浦のシンボル常夜灯(とうろどう)のすぐそばに建つ資料館。1867年(慶応3年)、坂本龍馬と海援隊が運航したいろは丸が紀州藩の明光丸と備後灘で衝突・沈没した「いろは丸事件」を伝える施設で、その談判が鞆の浦で行われた縁にちなむ。建物は江戸期に建てられた太い梁が印象的な土蔵で、地元では「大蔵」と呼ばれ、国の登録有形文化財とされる。館内には海底に沈むいろは丸を再現したジオラマ、引き揚げられた陶器や部品、調査風景の写真などを展示し、2階には龍馬が宿泊先で身を潜めたという「隠れ部屋」が再現され、龍馬の蝋人形も置かれている。1989年(平成元年)7月の開館。幕末史と鞆の港町文化を同時に味わえるスポットである。
| 🕰 時代 | 近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 1989年(平成元年)7月開館。建物は江戸期築の土蔵「大蔵(浜蔵)」で、国の登録有形文化財とされる。展示題材のいろは丸事件は1867年(慶応3年) |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町鞆843-1 |
仙酔島
鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連なる瀬戸内海国立公園の名勝 仙酔島は鞆の浦の沖合に浮かぶ周囲約6キロの島で、住所は福山市鞆町後地。鞆港から市営渡船で約5分の距離にあり、観光客の往来はあるが定住者のいない無人島とされる。1925年(大正14年)に国の名勝「鞆公園」の一部として指定され、1934年(昭和9年)には日本で最初に指定された国立公園・瀬戸内海国立公園に含まれた。島は約9000万年前の大規模な火山活動による溶結凝灰岩を主体とし、南側海岸には青・赤・黄・白・黒の岩が200メートル以上連なる「五色岩」が見られ、地質的に貴重とされる。「仙人が酔うほど美しい島」が名の由来と言われる。江戸後期の学者・頼山陽が当地の景観を「山紫水明」と評したとも伝わる。
| 🕰 時代 | 古代(地質)/近代(指定) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 1925年(大正14年)国名勝「鞆公園」に指定。1934年(昭和9年)日本初の国立公園・瀬戸内海国立公園に編入。島自体は約9000万年前の火山活動で形成されたとされる |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町後地 |
廉塾(菅茶山旧宅)
儒学者・菅茶山が開いた私塾。当時の塾舎・住宅が残り、国の特別史跡に指定されている。
| 🕰 時代 | 近世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 18世紀末 |
| 👤 関連 | 菅茶山 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市神辺町川北640 |
神辺城跡
備後南部の中世山城。福山城が築かれる以前、備後支配の拠点だった。
| 🕰 時代 | 中世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 南北朝期 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市神辺町 |
福山八幡宮
福山城の北に鎮座し、東西二つの宮を備える。歴代藩主の崇敬を集めた。
| 🕰 時代 | 近世 |
|---|---|
| 👤 関連 | 水野家 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市北吉津町1-2-16 |
沼名前神社
鞆の「祇園さん」。夏の大松明を担ぐ「お手火神事」で知られる古社。
| 🕰 時代 | 近世 |
|---|---|
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町後地 |
阿伏兎観音(磐台寺観音堂)
断崖の上に建つ朱塗りの観音堂。国の重要文化財。古来、海上安全と子授け・安産の祈願で知られる。
| 🕰 時代 | 近世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 16世紀末 |
| 👤 関連 | 毛利輝元 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市沼隈町能登原 |
吉備津神社(備後一宮)
備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で「いっきゅうさん」と親しまれる古社 福山市新市町宮内に鎮座する備後国一宮で、地元では「一宮さん(いっきゅうさん)」と親しまれる。社伝では大同元年(806年)に吉備国の吉備津神社から勧請し創建されたと伝わるが、延喜式神名帳に記載がないことなどから実際の成立はより後とする説もある。主祭神は吉備国を治めたとされる大吉備津彦命。現在の本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が旧規模にならい造営したもので、桁行七間・梁間四間の入母屋造檜皮葺、国の重要文化財に指定されている。ほかにも木造狛犬や太刀などが重要文化財として伝えられ、複数の建造物が広島県・福山市指定文化財となっている。隣接する櫻山城跡なども史跡として知られ、備後の信仰と歴史を今に伝える。
| 🕰 時代 | 江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が造営、国の重要文化財。創建は大同元年(806年)と伝わるが諸説ある |
| 📍 所在地 | 広島県福山市新市町宮内400 |
素盞嗚神社(備後一宮)
祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏のけんか神輿で名高い古社 福山市新市町戸手に鎮座する素盞嗚神社は、『延喜式神名帳』に載る式内社で備後国一宮を称し、旧社格は県社です。主祭神は素盞嗚尊で、稲田姫命・八王子を配祀します。社伝では天武天皇の治世、7世紀ごろ(679年か)の創建とされます。『釈日本紀』所収の「備後国風土記」逸文に伝わる蘇民将来説話の舞台「疫隈国社」と結びつけられ、茅の輪くぐりや祇園信仰・祇園祭発祥の地の一つとされています。神仏習合期には牛頭天王を祀り、遣唐使・吉備真備が734年に当社から播磨の広峯神社へ勧請したとも伝わります。毎年7月の例祭では、勇壮なけんか神輿(神輿合わせ)が行われることで知られます。
| 🕰 時代 | 飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 社伝では天武天皇期の7世紀ごろ(679年か)創建とされる。『延喜式神名帳』記載の式内社で、旧県社 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市新市町大字戸手1-1 |
福山駅は福山城のすぐ南、まさに城の三の丸を横切る位置にあります。駅から城へは徒歩数分。鉄道の歴史をたどる旅は、そのまま城下町の歴史を歩く旅へとつながっています。福山の通史については福山の歴史完全ガイドで全体像を確認できますので、あわせてご覧ください。城そのものの歴史は福山城ガイドにくわしくまとめています。
時代背景|鉄道が来る前の福山と山陽鉄道の建設
城下町・福山の成り立ち
福山は、江戸時代のはじめ、元和年間に水野勝成が築いた福山城を中心として開かれた城下町です。瀬戸内海に面し、芦田川の河口に広がる低湿地を干拓して市街地が整えられ、備後地方の政治・経済の中心として発展しました。江戸期には西国街道(山陽道)が通り、陸の交通の要衝でもありました。海の玄関口としては、古くから潮待ちの港として知られた鞆の浦が栄え、北前船や朝鮮通信使の寄港地としても重要な役割を果たしました。鞆の浦の歴史的な街並みについては鞆の浦の街並みガイドでくわしく紹介しています。
明治を迎えると、城下町の構造は大きく変わっていきます。廃藩置県によって福山藩は姿を消し、城の機能も失われていきました。福山城は明治の世になると多くの建物が取り壊され、堀も次第に埋め立てられていきます。そうしたなかで、近代の福山に新しい交通の動脈をもたらしたのが鉄道でした。陸上交通の主役が街道から鉄道へと移り変わる、その大きな転換点に福山も立っていたのです。
私鉄・山陽鉄道による建設
福山に最初に鉄道を通したのは、官営(国営)の鉄道ではなく、民間の私鉄である山陽鉄道でした。山陽鉄道は、神戸を起点に瀬戸内海沿いを西へと延びる幹線を建設するために設立された会社で、明治20年代に急ピッチで路線を西へ延ばしていきました。当時の日本では、東海道方面が官設鉄道(のちの東海道本線)として整備される一方、山陽方面は民間資本による山陽鉄道が建設を担うという形が取られていました。
山陽鉄道は岡山県側から順に西へ路線を延ばしてきました。1891年(明治24年)には岡山方面からの延伸が相次ぎ、同年7月に倉敷から笠岡まで開業すると、続いて9月11日に笠岡から福山までが開通します。この日が、福山駅の開業日です。当初の福山駅は、笠岡から延びてきた線路のいったんの終着駅でした。そしてわずか2か月後の同年11月3日には、福山から尾道までが延伸開業し、福山は終着駅から途中駅へと姿を変えます。山陽鉄道はその後も西へと路線を延ばし、やがて神戸から下関に至る大幹線を完成させていきました。
こうして福山は、瀬戸内を貫く大動脈の一駅として、近代日本の鉄道網のなかに組み込まれていきました。海運に頼っていた人や物の流れに、定時・大量輸送という新しい手段が加わったのです。
福山駅の開業|1891年、城の真下に汽笛が響く
城内を貫く異例の立地
福山駅の最大の特徴は、その立地にあります。駅は福山城の三の丸南側を東西に横断するように建てられました。城のすぐ南、いわば城内に食い込むように線路が敷かれたわけで、現在も「城から最も近い駅」と呼ばれています。実際、新幹線ホームに立つと、すぐ目の前に天守がそびえる光景を目にすることができ、これは全国を見渡しても極めて珍しい眺めです。
なぜ城のすぐそばに駅を置くことができたのか。その背景には、明治の世になって城の軍事的・政治的な役割が失われ、堀の埋め立てや城地の転用が進んでいたという事情があります。鉄道用地として城の南側を利用できたことで、市街地の中心に近い場所に駅を構えることができました。この立地が、その後の福山の都市発展を大きく方向づけることになります。城と駅がこれほど近接していることは、福山という街を理解するうえで欠かせないポイントです。福山城の歴史については福山城ガイドをあわせてご覧ください。
開業当初の福山駅
開業当初の福山駅がどのような姿だったか、現在の巨大な駅ビルからは想像しにくいかもしれません。当時は木造の駅舎に蒸気機関車が発着する、明治の地方駅らしいたたずまいだったと考えられます。旅客のほか貨物の取り扱いも重要で、備後地方の物産が鉄道を通じて各地へと運ばれ、また各地の物資が福山にもたらされました。海運中心だった備後の流通は、鉄道の登場によって陸へとその比重を移していきます。
福山駅の開業は、街の人々にとって新しい時代の到来を実感させる出来事だったことでしょう。汽笛の音が城の真下に響くようになり、人々は鉄道に乗って岡山や尾道、さらにその先の都市へと出かけていけるようになりました。鉄道は福山を、瀬戸内のなかの一つの地方都市から、近代的な交通ネットワークに連なる都市へと変えていったのです。
山陽鉄道の国有化と山陽本線の成立

鉄道国有化という大転換
民間の山陽鉄道として建設された福山駅でしたが、明治の終わりに大きな転機を迎えます。日露戦争後、国防や統一的な鉄道経営の観点から主要私鉄を国が買収する鉄道国有化が進められ、山陽鉄道もその対象となりました。1906年(明治39年)12月1日、山陽鉄道は国有化され、福山駅も官設鉄道(国の鉄道)の駅となります。
続いて1909年(明治42年)10月12日には国有鉄道の線路名称が制定され、神戸から下関に至るこの幹線は「山陽本線」と名づけられました。福山駅は山陽本線の駅として正式に位置づけられたのです。私鉄として産声を上げた福山の鉄道は、こうして国家の幹線鉄道網の一翼を担う存在となりました。
幹線としての発展
山陽本線の一駅となった福山は、本州西部を東西に貫く大動脈の上に位置することになりました。優等列車が行き交い、人と物の流れはますます活発になっていきます。瀬戸内工業地域の発展とともに、福山は山陽本線沿線の重要な拠点都市の一つとして成長していきました。鉄道は地域経済を支える基盤となり、駅前には商店や旅館、各種の事業所が集まり、近代都市・福山の中心地が形づくられていきます。
幹線である山陽本線が福山の「背骨」だとすれば、これから紹介する福塩線は、その背骨から内陸へと伸びる「枝」にあたります。福山という都市が、海沿いの幹線と内陸へのローカル線という二つの軸をもつことで、備後地方の交通の結節点としての性格をいっそう強めていったのです。
福塩線の誕生|両備軽便鉄道から始まる物語
762ミリの軽便鉄道として開業
福塩線の歴史は、山陽本線とは別の、民間の小さな鉄道から始まります。その前身となったのが両備軽便鉄道(りょうびけいべんてつどう)です。1914年(大正3年)7月21日、両備軽便鉄道は両備福山駅から府中町駅までの区間を開業しました。福山の市街から北の府中方面へと、内陸へ分け入る路線です。
この路線は当初、軌間762ミリメートルという軽便鉄道規格で建設されました。軽便鉄道とは、線路の幅(軌間)を狭くし、車両も小型にすることで建設費を抑えた、いわば簡易な鉄道のことです。山陽本線の軌間が1067ミリメートルであるのに対し、762ミリメートルははるかに狭く、小ぶりな機関車と客車がのんびりと走る、地方らしい鉄道でした。両備福山駅から府中町駅までの区間は、おおむね22キロメートルあまりで、芦田川沿いの平野から府中の盆地へと向かう路線として、沿線の人々の足となりました。
両備福山駅は、福山城の東外堀を埋め立てた一帯に設けられたと伝わります。山陽本線の福山駅とは別に、軽便鉄道の起点駅が市街に置かれていたわけです。城の堀が鉄道用地へと姿を変えていく――ここにも、城下町から近代都市へと移り変わる福山の姿が表れています。
電化と社名の変遷
両備軽便鉄道は、その後さまざまな変化を経ていきます。会社名は両備鉄道へと改められ、路線の近代化も進みました。注目すべきは、比較的早い時期に電化が行われたことです。1927年(昭和2年)6月25日には、両備福山と府中町の間で電化が実施されました(直流750ボルト)。地方の軽便規格の鉄道が早くから電車を走らせた例として、両備の鉄道は知られています。煙を上げる蒸気機関車から、軽快に走る電車へ。沿線の風景は少しずつ近代的なものへと変わっていきました。
このように、福塩線の前身は単なるローカルな軽便鉄道にとどまらず、電化という先進的な取り組みを早くから取り入れた、進取の気性に富む鉄道でもありました。福山という街がもつ、海と内陸を結ぶ交通の要としての性格は、この時期にいっそう確かなものになっていきます。
国有化から全通へ|福塩線の完成

1933年、国有化される
地方私鉄として出発した両備鉄道の福山〜府中間は、1933年(昭和8年)9月1日に国有化され、国有鉄道の路線となりました。これにより「福塩線」という名称が生まれます。同年には路線の整理が行われ、福山側の区間は「福塩南線」と呼ばれるようになりました。これは、福山側から北上する区間と、塩町側から南下して建設される区間とが、まだ一本につながっていなかったことを示しています。「福塩」という名は、起点の福山と、終点となる塩町の頭文字を取ったものです。
国有化されたことで、福塩線は国の鉄道網の一部として整備が進められることになりました。私鉄時代の軽便規格のままでは山陽本線とスムーズに直通できないため、国有化後には軌間の改良が大きな課題となります。
改軌と直通|山陽本線とつながる
国有化に伴い、福塩線は762ミリメートルの軽便規格から、山陽本線と同じ1067ミリメートルの軌間へと改められていきます。1935年(昭和10年)12月14日には、横尾から府中までの区間が1067ミリメートルに改軌され、福山駅への乗り入れが実現しました。これにより、福塩線の列車は山陽本線の福山駅に直接発着できるようになり、内陸と海沿いの幹線が一つの駅で結ばれることになりました。軽便鉄道時代の独立した両備福山駅は、その役割を山陽本線の福山駅へと譲っていったのです。
軌間の統一は、福山駅を福塩線と山陽本線の双方が発着する結節点へと変える、大きな意味をもつ出来事でした。これによって福山駅は、瀬戸内沿いの幹線輸送と、府中・三次方面への内陸輸送とを束ねる、備後の鉄道の中心としての地位を確立していきます。
1938年、福山〜塩町が全通
福塩線の全通は、1938年(昭和13年)7月のことです。府中から上下方面へと建設が進められていた区間が延伸開業し、福山側の福塩南線と、塩町側から建設されていた福塩北線とがつながって、福山から塩町までが一本の「福塩線」として全通しました。全長はおよそ78キロメートル。終点の塩町駅で芸備線と接続し、福山から三次方面へと抜けるルートが完成したのです。
こうして、大正のはじめに福山近郊の軽便鉄道として産声を上げた路線は、四半世紀ほどの時を経て、備後の海と中国山地の内陸とを結ぶ一本の鉄道へと育ちました。福山駅を起点に、芦田川沿いをさかのぼり、府中、上下を経て三次盆地の塩町へと至る福塩線。山あいを縫うように走るその姿は、いまも沿線の人々の暮らしを支える大切な路線として親しまれています。福山市によれば、福塩線は福山市・府中市・世羅町・三次市の地域を結び、通学や通院など沿線の暮らしに欠かせない移動手段となっています。
戦争と福山駅|福山空襲と駅の被害
1945年8月8日、福山大空襲
福山の近代史を語るうえで、避けて通れないのが福山大空襲です。太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)8月8日の夜、福山の市街地はアメリカ軍のB-29爆撃機による大規模な空襲を受けました。多数の焼夷弾が投下され、市街地の大部分が焼失する壊滅的な被害を受けたと伝えられています。城下町以来の街並みと、明治・大正・昭和にかけて築かれてきた近代都市の姿は、一夜にして大きく損なわれました。
この空襲では、市の象徴である福山城の天守も焼失しました。現在の福山城天守は、戦後の1966年(昭和41年)に再建されたものです。鉄道の中心である福山駅もまた、空襲による被害を免れることはできませんでした。駅舎は焼け、福山の交通の中枢は大きな打撃を受けたと伝えられています。
焦土からの復旧
戦争で大きな被害を受けた福山駅と駅前ですが、人や物を運ぶ鉄道の機能は、復興にとってなくてはならないものでした。被災した駅も、限られた条件のなかで運転の再開と復旧が図られ、福山の街は焦土からの再建へと歩み出していきます。戦後の都市計画によって市街地は新しく整え直され、駅前は近代都市の玄関口として再び姿を整えていきました。
福山がいかに大きな被害から立ち直ったかは、現在の福山駅周辺のにぎわいを見れば分かります。戦争の記憶を伝える取り組みも各地で続けられており、平和の尊さを次の世代へと受け継ぐことが大切にされています。鉄道史をたどる旅は、こうした戦争と復興の歴史にも自然と触れることになります。
高度成長と新幹線|駅が大きく変わる
戦後復興から成長の時代へ
戦後の福山は、めざましい復興と成長をとげました。とりわけ大きかったのが、臨海部への大規模な製鉄所の進出に代表される重化学工業の発展です。福山は鉄鋼の街として知られるようになり、人口も急増していきました。工業都市として発展する福山にとって、鉄道は人と物を運ぶ生命線であり続けました。山陽本線は旅客・貨物の両面で福山の産業を支え、福塩線は内陸部と市街を結ぶ通勤・通学の足として、地域の暮らしを支えました。
都市の成長とともに、福山駅とその周辺も大きく変わっていきます。駅前には百貨店や商業ビルが立ち並び、バス路線が集まり、備後地方一帯から人が集まる中心地となっていきました。城下町の名残をとどめながらも、駅前は現代的な都市の顔へと変貌していったのです。
1975年、山陽新幹線が福山に
福山駅の歴史のなかでも、ひときわ大きな出来事が山陽新幹線の開業です。1975年(昭和50年)3月10日、山陽新幹線が岡山から博多まで延伸開業し、福山駅にも新幹線が乗り入れることになりました。これにより福山は、新幹線でアクセスできる都市の仲間入りを果たし、大阪・広島・博多といった大都市と高速で結ばれることになりました。
新幹線の停車駅となったことは、福山にとって計り知れない意味をもちました。ビジネスや観光の利便性が飛躍的に高まり、福山は備後地方の中心都市としての地位をいっそう確かなものにします。そして、新幹線ホームから天守を間近に望むという全国でも珍しい眺めは、城と鉄道が共存する福山ならではの名物となりました。1891年に城の真下に開かれた小さな駅は、新幹線の停まる大都市の玄関口へと、84年の歳月をかけて大きく姿を変えたのです。
駅前のうつりかわり|城下町から現代都市へ
城の堀から鉄道へ
福山駅前のうつりかわりは、城下町から近代都市へと移り変わる福山の歴史を、もっとも象徴的に映し出す舞台です。もともと駅とその周辺は、福山城の三の丸や堀のあった一帯でした。明治になって城の機能が失われ、堀が埋め立てられていくなかで、その用地が鉄道へと転用され、駅が生まれました。城を守るための堀や郭が、人と物を運ぶ鉄道へと姿を変えていく――この劇的な転換こそが、福山駅前の出発点だったのです。
駅が置かれたことで、人の流れは城下町の中心から駅前へと移っていきました。旅館や商店、運送業者などが駅周辺に集まり、新しい商業地が形づくられていきます。明治・大正期を通じて、福山の経済活動の中心は、徐々に駅前へと比重を移していきました。
戦後の駅前再建と再開発
福山大空襲で焦土と化した駅前は、戦後の都市計画によって新しく整え直されました。区画が整理され、広い道路が通され、近代的な商業地として再建されていきます。高度経済成長期には百貨店や商業ビルが建ち並び、駅前は備後地方一の繁華街へと発展しました。新幹線の開業はこの流れをさらに加速させ、駅前は名実ともに福山の中心となります。
近年では、福山城の城郭の整備や復元が進み、城と駅前とが一体となった歴史的な景観づくりも行われています。鉄道によって街の中心となった駅前に、城下町・福山の象徴である福山城が寄り添う。その姿は、福山という都市が歩んできた歴史そのものを物語っています。駅を降りてすぐに天守を望めるという体験は、まさに福山ならではの魅力といえるでしょう。
福塩線の沿線をたどる|内陸へ伸びるローカル線の魅力
電車が走る福山〜府中
福塩線は、その歴史的な経緯から、福山〜府中の区間と、府中〜塩町の区間とで性格が大きく異なります。福山から府中までの区間は、軽便鉄道時代から電化されてきた歴史を受け継ぎ、電車が運行されています。市街地から芦田川沿いをさかのぼり、田畑や住宅地のあいだを抜けて府中の盆地へと向かうこの区間は、通勤・通学の利用が多く、地域の暮らしに密着した路線です。
かつて両備軽便鉄道として762ミリメートルの軽便規格で生まれ、早くから電化され、やがて山陽本線と同じ軌間に改められて福山駅へ乗り入れた――この区間には、福塩線の歩んできた歴史がそのまま刻まれています。沿線を旅すれば、軽便鉄道時代をしのばせる地形や、内陸へと向かう路線ならではの風景に出会うことができるでしょう。
山あいを走る府中〜塩町
府中から先、上下を経て塩町に至る区間は、中国山地の山あいを縫うように走る、いっそうローカル色の濃い区間です。1938年の全通によって完成したこの区間は、本数も少なく、のんびりとした旅が楽しめる区間として、鉄道ファンにも知られています。川沿いの渓谷や、山あいの小さな駅々をたどりながら、終点の塩町で芸備線へと接続します。塩町からはさらに三次方面へと鉄路が続いています。
福山という海沿いの都市から出発し、内陸の山あいへと分け入っていく福塩線の旅は、備後地方の地形と歴史を体感できる旅でもあります。瀬戸内の幹線である山陽本線と、内陸ローカル線の福塩線。この二つの鉄道が出会う福山駅は、海と山をつなぐ結節点として、いまも大切な役割を担い続けています。
鉄道と産業|運ばれた人と物
貨物輸送が支えた備後の経済
鉄道の歴史を語るとき、旅客輸送に目が向きがちですが、福山の鉄道がもたらした大きな変化の一つが貨物輸送でした。明治の福山駅開業以前、備後地方の物流は瀬戸内海の海運に大きく依存していました。米や塩、瀬戸内の特産品などは、船によって各地へと運ばれていたのです。そこへ鉄道が登場したことで、天候や潮の影響を受けにくい、定時かつ大量の陸上輸送が可能になりました。山陽本線によって、福山と岡山・尾道・広島、さらにその先の大都市とが、確実な物流網で結ばれたのです。
福塩線もまた、内陸の府中や三次方面の産物を福山へと運び、福山の港や山陽本線へと積み替える役割を担いました。府中は古くから家具などの産業で知られた町であり、内陸で生産された品々が鉄道を通じて市場へと届けられました。海と内陸を鉄道で結ぶことで、福山は備後地方の物流の結節点としての性格をいっそう強めていったのです。鉄道は単に人を運ぶだけでなく、地域の産業そのものを支える基盤として機能していました。
工業都市・福山と鉄道
戦後、福山は臨海部への大規模工業の進出によって、中国地方を代表する工業都市の一つへと成長しました。製鉄をはじめとする重化学工業が発展し、原料や製品の輸送において鉄道は欠かせない役割を果たしました。山陽本線の貨物輸送は、福山の産業を文字どおり下支えする動脈であり続けました。工業都市としての発展と人口の増加は、駅前のさらなるにぎわいと、通勤・通学を支える鉄道需要の高まりへとつながっていきます。
このように、福山の鉄道史は、街の産業史と分かちがたく結びついています。城下町から商工業都市へ、そして近代的な工業都市へ。福山という街の発展の節目には、いつも鉄道の姿がありました。鉄道の歴史をたどることは、福山がどのように経済的に発展してきたのかをたどることでもあるのです。
軽便鉄道とは何だったのか|福塩線の原点を知る
建設費を抑えた地方の鉄道
福塩線の前身が「軽便鉄道」だったという事実は、この路線の性格を理解するうえでとても重要です。軽便鉄道とは、線路の幅(軌間)を狭くし、車両も小型にすることで、建設費や運営費を大きく抑えた簡易な鉄道のことを指します。明治末から大正にかけて、日本各地でこうした軽便鉄道が数多く建設されました。国の幹線のように大きな資本を投じることが難しい地方では、まず軽便規格で鉄道を通し、地域の交通を確保しようとしたのです。
両備軽便鉄道が採用した軌間762ミリメートルは、山陽本線の1067ミリメートルと比べてはるかに狭いものでした。小ぶりな機関車と客車が、福山の市街から府中の盆地へとのんびり走る――それが福塩線の出発点の姿だったのです。線路が狭く小型であるぶん、急な地形にも対応しやすく、限られた予算でも内陸へと路線を延ばすことができました。地方の人々にとって、軽便鉄道は待ち望んだ近代の交通手段だったのです。
軽便から幹線並みへ
しかし、軽便規格のままでは、山陽本線をはじめとする国有鉄道の幹線と直通することができません。そこで国有化後には、軌間を1067ミリメートルへと改める改軌工事が行われました。1935年(昭和10年)に横尾〜府中間が改軌され福山駅への乗り入れが実現したことは、福塩線が「地方の軽便鉄道」から「国の鉄道網に連なる路線」へと脱皮した、大きな節目でした。早くから電化を実現していたことと合わせて考えると、福塩線の前身は地方私鉄のなかでも近代化に積極的な路線だったといえるでしょう。
こうして福塩線は、軽便鉄道として産声を上げながら、改軌と電化、そして全通を経て、現在へと続く路線へと成長しました。その歩みは、地方鉄道がたどった近代化の一つの典型的な姿として、鉄道史のうえでも興味深いものといえます。今日、福山駅から福塩線の電車に揺られるとき、その線路の下には、こうした軽便鉄道時代からの長い歴史が積み重なっているのです。
ゆかりの地・現在に残るもの
城の真下に立つ福山駅
福山の鉄道史を今に伝える最大の「現場」は、なんといっても福山駅そのものです。福山城の三の丸を貫く立地は、明治の開業以来変わっていません。新幹線ホームから天守を見上げれば、城と鉄道が共存する福山ならではの歴史を、その目で実感することができます。駅から城まではほんの数分。鉄道史を学んだうえで福山城を訪ねれば、城下町と近代都市という二つの時代の重なりを、いっそう深く味わえるはずです。
福塩線の駅と沿線
福塩線の沿線には、軽便鉄道時代の名残や、内陸路線ならではの古い駅舎、山あいの風景など、鉄道の歴史を感じさせるものが点在しています。実際に列車に乗って沿線をたどることは、福山の鉄道史を体で感じる、もっとも生き生きとした方法のひとつです。福山駅を起点に、芦田川をさかのぼる小さな旅へと出かけてみるのもよいでしょう。
鞆の浦に残る海の交通史
鉄道が来る前、福山地方の交通の主役は海運でした。なかでも鞆の浦は、瀬戸内海の潮の流れが行き交う要衝として、古くから港町として栄えました。鞆の浦には、潮待ちの港の歴史を今に伝える街並みや、福禅寺対潮楼、いろは丸事件にまつわる施設、太田家住宅などが残されています。鉄道による陸上交通の時代を迎える前の、海の交通の歴史をたどることは、福山の交通史を立体的に理解する助けになります。鞆の浦の街並みは鞆の浦の街並みガイドで、福禅寺対潮楼は福禅寺 対潮楼ガイドで、それぞれくわしく紹介しています。
海運から鉄道へ、そして新幹線へ。福山の交通の歴史は、こうした移り変わりの連続でした。海の港町・鞆の浦と、鉄道の都市・福山駅前。その対比のなかに、福山という地域が歩んできた長い歴史が見えてきます。
海運から鉄道へ|福山の交通史の大きな流れ
潮待ちの港・鞆の浦の時代
福山地方の交通の歴史を大きな流れで見ると、鉄道が登場する前は、長く海運が主役の時代でした。瀬戸内海は、東西の潮の流れがちょうど鞆の沖あたりでぶつかり合うため、古くから船は鞆の浦で潮の流れが変わるのを待つ「潮待ち」を行いました。そのため鞆の浦は潮待ちの港として栄え、人と物が行き交う海の要衝となったのです。江戸時代には北前船の寄港地となり、朝鮮通信使が立ち寄った地としても知られています。海の道が、福山地方と各地とを結ぶ大動脈だった時代が長く続いたのです。鞆の浦の歴史的な街並みについては鞆の浦の街並みガイドでくわしく紹介しています。
陸の鉄道が主役になる
ところが、明治になって鉄道が登場すると、交通の主役は徐々に海から陸へと移っていきました。船は天候や潮の影響を受けやすく、時間も読みにくいのに対し、鉄道は定時に大量の人や物を運ぶことができます。1891年の福山駅開業によって、福山は陸上交通の新しい時代へと足を踏み入れました。海運で栄えた港町の役割は次第に小さくなり、代わって鉄道の駅前が街の中心となっていきます。皮肉なことに、こうした交通の主役交代によって、鞆の浦のような古い港町は大きな開発を免れ、結果として歴史的な街並みが今日まで残されることにもなりました。
海から陸へ、そして在来線から新幹線へ。福山の交通史は、移動と物流の手段が次々と進化していく歴史でもありました。鉄道史をたどることは、この大きな流れのなかで福山という街がどのように姿を変えてきたのかを知ることでもあります。福山を訪れる際には、鉄道の福山駅と、海運の鞆の浦という二つの「交通の現場」を合わせて巡ってみると、福山の歴史をいっそう深く感じられるはずです。福山の歴史全体は福山の歴史完全ガイドでご確認ください。
福山の鉄道史 関連年表
ここまでたどってきた福山の鉄道史を、年表の形で整理します。年代や経緯には諸説ある事項も含まれますので、目安としてご覧ください。
この年表を眺めると、福山の鉄道がたどってきた大きな流れが見えてきます。私鉄として始まり国有化され幹線となった山陽本線、軽便鉄道から育ち国有化を経て全通した福塩線、戦争による被害と復興、そして新幹線の開業。およそ一世紀のあいだに、福山の鉄道はめまぐるしい変化を重ねてきました。
モデルコース|福山の鉄道史をめぐる一日
午前:福山駅と福山城
福山の鉄道史をめぐる旅は、やはり福山駅から始めるのがよいでしょう。新幹線ホームや在来線ホームに立ち、城の真下を線路が貫いている立地を実感してみてください。駅の北口を出れば、そこはもう福山城の足元です。徒歩数分で天守へと向かい、城下町・福山の歴史をたどります。城から駅を見下ろせば、城と鉄道が一体となった福山ならではの景観を一望できます。福山城の見どころは福山城ガイドでご確認ください。
昼:駅前と街なかを歩く
城を見たあとは、駅前から街なかへと歩を進めます。戦後の復興と再開発で生まれ変わった駅前の商業地を歩きながら、城の堀から鉄道へ、そして現代都市へと移り変わった福山駅前のうつりかわりを思い描いてみてください。昼食には、福山の郷土の味を楽しむのもおすすめです。街なかには城下町時代の名残をとどめる場所も点在しています。
午後:福塩線に乗って内陸へ
午後は、福山駅から福塩線の電車に乗り込み、内陸の府中方面へと向かいます。芦田川沿いをさかのぼる車窓を楽しみながら、軽便鉄道として生まれた福塩線の歴史に思いをはせましょう。時間に余裕があれば、府中で下車して街を散策するのもよいでしょう。さらに足を延ばせば、山あいを走る府中〜塩町の区間で、いっそうローカル色豊かな旅を味わうこともできます。
番外編:海の交通史をたどる鞆の浦
鉄道の歴史だけでなく、海の交通史も合わせて味わいたいなら、福山駅からバスで鞆の浦へと向かうコースもおすすめです。鉄道が来る前、福山地方の交通を支えた港町・鞆の浦には、いろは丸事件ゆかりのいろは丸展示館や、朝鮮通信使を迎えた福禅寺 対潮楼、歴史ある太田家住宅など、海の交通史を伝える見どころが数多く残されています。陸の鉄道と海の港。福山の交通史を、二つの視点から立体的に楽しむことができます。
よくある質問(FAQ)
Q福山駅はいつ開業しましたか?
福山駅は1891年(明治24年)9月11日に、山陽鉄道の駅として開業しました。当初は笠岡から延びてきた線路の、いったんの終着駅でした。同年11月3日に尾道まで延伸されると、福山駅は途中駅となりました。
Q山陽鉄道とはどんな会社ですか?
山陽鉄道は、神戸から下関方面へと瀬戸内海沿いに鉄道を建設した民間の私鉄です。現在の山陽本線の前身にあたります。1906年(明治39年)12月1日に国有化され、福山駅も官設鉄道の駅となりました。1909年には線路名称が制定され、「山陽本線」が成立しています。
Q福山駅はなぜ福山城のすぐ近くにあるのですか?
福山駅は福山城の三の丸南側を東西に横断するように建てられたためです。明治になって城の機能が失われ、堀の埋め立てなどが進むなかで、城の南側の用地を鉄道に利用できたことが背景にあると考えられます。そのため福山駅は「城から最も近い駅」と呼ばれ、新幹線ホームから天守を間近に望むことができます。
Q福塩線とはどんな路線ですか?
福塩線は、福山駅と塩町駅(広島県三次市)を結ぶJRのローカル線です。全長はおよそ78キロメートル。福山から芦田川沿いをさかのぼり、府中、上下を経て、終点の塩町で芸備線と接続します。路線名の「福塩」は、起点の福山と終点の塩町の頭文字を取ったものです。
Q福塩線の前身は何ですか?
福塩線の前身は、両備軽便鉄道(のちの両備鉄道)です。1914年(大正3年)7月21日に、両備福山駅から府中町駅までの区間が、軌間762ミリメートルの軽便鉄道として開業しました。これが福塩線の始まりです。
Q福塩線はいつ全通しましたか?
福塩線は1938年(昭和13年)7月に全通しました。福山側から建設された区間(福塩南線)と、塩町側から建設された区間(福塩北線)とがつながり、福山から塩町までが一本の福塩線として完成しました。
Q福塩線が国有化されたのはいつですか?
福塩線の前身である両備鉄道の福山〜府中間は、1933年(昭和8年)9月1日に国有化され、国有鉄道の「福塩線」となりました。その後、軌間の改良や延伸を経て、1938年の全通へとつながっていきます。
Q福塩線はなぜ軌間を変更したのですか?
前身の両備軽便鉄道は軌間762ミリメートルの軽便規格で建設されていましたが、これは山陽本線の1067ミリメートルとは異なるため、そのままでは直通できませんでした。国有化後の1935年(昭和10年)12月14日に横尾〜府中間が1067ミリメートルに改軌され、福山駅への乗り入れが実現しています。
Q福山駅に新幹線が停まるようになったのはいつですか?
1975年(昭和50年)3月10日に、山陽新幹線が岡山から博多まで延伸開業し、福山駅にも新幹線が乗り入れるようになりました。これにより福山は、新幹線でアクセスできる都市となりました。
Q福山駅は戦争で被害を受けましたか?
1945年(昭和20年)8月8日の福山大空襲では、市街地の大部分が焼失する大きな被害が出ました。福山駅も被害を受けたと伝えられています。戦後、駅と駅前は復興と再開発を経て、現在の姿へと整えられていきました。
Q福塩線の電化区間と非電化区間はどう違いますか?
福塩線は歴史的な経緯から、福山〜府中の区間と府中〜塩町の区間で性格が異なります。福山〜府中は軽便鉄道時代から電化されてきた歴史を受け継ぎ電車が走る区間で、通勤・通学の利用が中心です。府中以北は山あいを走るいっそうローカル色の濃い区間となっています。
Q福山の鉄道史を楽しむにはどこを訪ねればよいですか?
まずは福山駅そのものを訪ね、城の真下を貫く立地を実感するのがおすすめです。すぐ近くの福山城とあわせて巡れば、城下町と近代都市の歴史を立体的に味わえます。さらに福塩線に乗って内陸へ向かえば、軽便鉄道から育った路線の歴史を体感できます。鉄道が来る前の海の交通史をたどるなら、港町・鞆の浦もぜひ訪ねてみてください。
Q「両備福山駅」とは今の福山駅とは別の駅ですか?
はい、両備福山駅は、両備軽便鉄道が福山城の東外堀を埋め立てた一帯に設けた、軽便鉄道の起点駅でした。当初は山陽本線の福山駅とは別の駅でしたが、国有化後に軌間が改められて福山駅への乗り入れが実現すると、その役割は山陽本線の福山駅へと引き継がれていきました。
まとめ|城と鉄道が共存するまち、福山
福山の鉄道史をたどると、この街が城下町から近代都市へと移り変わっていく姿が、くっきりと浮かび上がってきます。1891年(明治24年)、福山城の真下に山陽鉄道の福山駅が開業し、城の堀が鉄道へと姿を変えました。やがて山陽鉄道は国有化されて山陽本線となり、福山は本州西部を貫く大動脈の上に位置づけられます。一方、1914年(大正3年)には軽便鉄道として両備軽便鉄道が生まれ、国有化と改軌、延伸を経て、1938年(昭和13年)には福山から塩町までを結ぶ福塩線が全通しました。
その後、福山は戦争による大きな被害を乗り越えて復興し、工業都市として発展しました。1975年(昭和50年)には山陽新幹線が乗り入れ、福山駅は備後地方の玄関口としての地位をいっそう確かなものにします。城の真下に開かれた小さな駅は、新幹線の停まる大都市の玄関口へと姿を変えながらも、城との近さという独自の魅力を保ち続けています。
新幹線ホームから天守を見上げる――その光景は、城と鉄道という二つの時代の象徴が共存する、福山ならではの歴史の風景です。福山を訪れた際には、ぜひ駅と城、そして福塩線の沿線をめぐりながら、この街が歩んできた長い物語に思いをはせてみてください。福山の歴史の全体像は福山の歴史完全ガイドにまとめていますので、あわせてご覧いただければ、福山という街への理解がいっそう深まるはずです。
出典・注意
本記事は、福山市公式ホームページ、広島県(県立文書館)の資料、総務省の戦災に関する資料、および各種百科事典等の公開情報をもとに、福山の鉄道史をまとめたものです。年号・経緯については、複数の資料で確認できた事項を中心に記載しています。
※年代・経緯には諸説ある事項を含みます。詳細は各施設の公式情報や郷土資料でご確認ください。
最終更新: 2026年6月10日
史跡情報は福山NOTE 史跡図鑑(fn_history)より。