畳の上に座ると、足の裏や手のひらに伝わってくる、あの独特のなめらかさと張り。古い日本家屋に上がったとき、青々とした香りとともに「いい畳だな」と感じた経験は、多くの人が持っているはずです。その「いい畳」の代名詞として、長く全国に知られてきたのが、広島県東部・備後地方で育まれてきた備後表(びんごおもて)、すなわち備後畳表でした。表皮が厚く、つやがあり、青味を帯びた銀白色に仕上がるその畳表は、近世には朝廷や幕府への献上品となり、近代には全国の市場を席巻したと伝わります。
この記事では、福山市を中心とする備後地方が、なぜ畳表のものづくりで全国に名を知られる産地となったのか、その歩みを史料に残る年号や出来事をたどりながら見ていきます。中世の海運記録に現れる「備後筵(びんごむしろ)」から、福山藩による厳格な品質管理と専売的な保護政策、明治以降の機械化と最盛期、そして昭和後期からの急激な衰退と現在の継承の取り組みまで。地域の暮らしと産業がどのように結びついてきたのかを、できるかぎり確かな史実に沿ってお伝えします。なお、年代や経緯には諸説ある事項を含みますので、断定しにくい点は「とされる」「伝わる」と記しています。
史跡図鑑|備後表ゆかりの地と福山の歴史スポット
備後表の歴史は、福山藩の城下町や瀬戸内の港町、芦田川流域の村々と密接に結びついています。まずは、福山NOTEの史跡図鑑から、備後表の物語に関わる地や、あわせて訪ねたい福山の歴史スポットを一覧・比較・詳細の三つの形で確認しておきましょう。産地の位置関係や時代背景をつかんでおくと、このあとの本文がぐっと立体的に読めるようになります。
| 史跡 | 時代 | 概要 | 📍 エリア | 詳細 |
|---|---|---|---|---|
| 福山城 伏見櫓 | 江戸時代(元和年間) | 伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最… | 📍 福山駅前(福山市街) | 下へ ↓ |
| 福山城 | 近世(江戸) | 備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御… | 📍 丸之内 | 下へ ↓ |
| 福山城博物館 | 近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期) | 水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩… | 📍 福山駅前(福山市街) | 下へ ↓ |
| 草戸千軒町遺跡 | 中世 | 芦田川の中州にあった中世の港町・集落遺跡。発… | 📍 草戸町 | 下へ ↓ |
| 明王院 | 中世 | 本堂と五重塔がともに国宝。中世密教寺院で、五… | 📍 草戸町 | 下へ ↓ |
| 鞆の津の町並み(重伝建) | 江戸時代(中世〜近代の建造物群) | 潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 鞆の浦の常夜燈と港湾施設 | 江戸時代 | 江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 福山市鞆の浦歴史民俗資料館 | 近代(昭和) | 鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 鞆の浦 | 中世〜近世 | 瀬戸内の「潮待ちの港」。常夜燈・雁木・波止場… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 福禅寺 対潮楼 | 近世 | 朝鮮通信使の使節が「日東第一形勝」と讃えた客… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 太田家住宅 | 江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期) | 鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| いろは丸展示館 | 近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期) | 坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 仙酔島 | 古代(地質)/近代(指定) | 鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 廉塾(菅茶山旧宅) | 近世 | 儒学者・菅茶山が開いた私塾。当時の塾舎・住宅… | 📍 神辺町 | 下へ ↓ |
| 神辺城跡 | 中世 | 備後南部の中世山城。福山城が築かれる以前、備… | 📍 神辺町 | 下へ ↓ |
| 福山八幡宮 | 近世 | 福山城の北に鎮座し、東西二つの宮を備える。歴… | 📍 北吉津町 | 下へ ↓ |
| 沼名前神社 | 近世 | 鞆の「祇園さん」。夏の大松明を担ぐ「お手火神… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 阿伏兎観音(磐台寺観音堂) | 近世 | 断崖の上に建つ朱塗りの観音堂。国の重要文化財… | 📍 沼隈町 | 下へ ↓ |
| 吉備津神社(備後一宮) | 江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる | 備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で… | 📍 新市町 | 下へ ↓ |
| 素盞嗚神社(備後一宮) | 飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮 | 祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏の… | 📍 新市町 | 下へ ↓ |
福山城 伏見櫓
伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最古級の三層入母屋造の現存櫓。 福山城伏見櫓は、元和8年(1622年)の福山城築城に際し、城主水野勝成が将軍徳川秀忠から下賜を受け、京都の伏見城から移築させたと伝えられる櫓である。長らく伝承とされていたが、昭和29年(1954年)の解体修理の際、梁の陰刻に「松ノ丸ノ東やく(ら)」の文字が発見され、伏見城からの移築を裏付ける確かな遺構であることが明らかになった。構造は三層入母屋造で、初層と二層を同じ柱割とし、その上にやや小さい三層を望楼状に載せる。桁行八間・梁間三間、本瓦葺の規模をもつ。慶長期の城郭建築の様式を残す初期の典型として価値が高く、昭和8年(1933年)1月23日に国の重要文化財に指定された。福山城内に現存し、特別公開が行われることもある。
| 🕰 時代 | 江戸時代(元和年間) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 元和8年(1622年)水野勝成の福山城築城時に伏見城から移築。国指定重要文化財(昭和8年=1933年1月23日指定) |
| 📍 所在地 | 広島県福山市丸之内一丁目(福山城内) |
福山城
備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御門は京都伏見城からの移築と伝わる。2022年に築城400年を迎えた。
| 🕰 時代 | 近世(江戸) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 1622年(元和8)・水野勝成 |
| 👤 関連 | 水野勝成・阿部正弘 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市丸之内一丁目8 |
福山城博物館
水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩の歴史を体験型展示で伝える博物館 福山城博物館は、JR福山駅のすぐ北に建つ福山城天守内に置かれた市立の歴史資料館です。福山城は1622年(元和8年)、徳川譜代の大名・水野勝成が西国鎮衛の拠点として築いた近世城郭で、天守は1931年に国宝に指定されました。しかし1945年8月の福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリート造で外観が復興され、その内部が博物館として公開されました。2022年には築城400年に合わせて大規模リニューアルされ、北面の鉄板張り(黒い装い)の再現や、一番槍レース・火縄銃などの体験型コンテンツ、デジタル映像を用いた展示が整えられ、福山城と福山藩の歴史を学べる施設となっています。城内に現存する伏見櫓と筋鉄御門は、京都・伏見城からの移築と伝えられ、国の重要文化財に指定されています。常設展は有料、月曜休館とされます。
| 🕰 時代 | 近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 福山城は1622年(元和8年)に初代福山藩主・水野勝成が築城。天守は1945年福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリートで外観復興、内部を博物館として開館。2022年に大規模リニューアル |
| 📍 所在地 | 広島県福山市丸之内一丁目8番 |
草戸千軒町遺跡
芦田川の中州にあった中世の港町・集落遺跡。発掘成果は広島県立歴史博物館で町並みが原寸復元展示されている。
| 🕰 時代 | 中世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 鎌倉〜室町 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市草戸町 |
明王院
本堂と五重塔がともに国宝。中世密教寺院で、五重塔は全国でも有数の古塔。
| 🕰 時代 | 中世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 本堂1321年・五重塔1348年 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市草戸町1473 |
鞆の津の町並み(重伝建)
潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と町家が一体で残る重伝建地区 鞆の浦は瀬戸内海の中央に位置し、古来「潮待ちの港」として栄え、万葉集にも詠まれた歴史を持つとされる。江戸時代には北前船など廻船の寄港地として繁栄し、朝鮮通信使の寄港地ともなった。2017年(平成29年)11月28日、「福山市鞆町伝統的建造物群保存地区」として約8.6ヘクタールが国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。範囲は鞆字西町の全域を中心に、石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地の一部に及ぶ。中世から江戸期に整えられた地割の上に、江戸時代から昭和30年代までの町家や寺社、石垣などが一体的に残る近世港町の景観が評価された。常夜燈・雁木・波止・焚場・船番所の5つの港湾施設がほぼ完全に残る点は全国でも稀とされる。広島県内では3例目の選定で、2018年には日本遺産にも認定された。
| 🕰 時代 | 江戸時代(中世〜近代の建造物群) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 2017年(平成29年)11月28日に国の重要伝統的建造物群保存地区へ選定。地割は中世〜江戸期、建造物は江戸時代〜昭和30年代まで。 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町(鞆字西町全域ほか、字石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地字古城跡・草谷の各一部) |
鞆の浦の常夜燈と港湾施設
江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯一の近世港、鞆港。 鞆の浦の鞆港には、常夜燈・雁木・波止・焚場(たでば)・船番所という江戸時代の港湾施設5点がほぼ揃って現存し、これらが一体で残るのは全国でも鞆港のみとされる。シンボルの常夜燈は安政6年(1859)の刻銘をもつ石造灯台で、海中の基礎石から宝珠の頂までは約12.1mに及び、江戸期の石造常夜燈としては国内最大級とされる。雁木は潮の干満に応じて船を着けられる階段状の船着き場で、半円形の港内に連続して巡らされている。波止は花崗岩を積んだ全長約146mの防波堤で、江戸後期に築かれ明治期に修築された。鞆港を含む沿岸と沖の島々一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定され、鞆町西町を中心とする区域は2017年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。日本遺産「瀬戸の夕凪が包む 国内随一の近世港町」の構成要素でもある。
| 🕰 時代 | 江戸時代 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 常夜燈は安政6年(1859)造立とされる。雁木・波止・焚場・船番所は江戸後期築造、波止は明治期に修築。鞆港一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定。 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町鞆 |
福山市鞆の浦歴史民俗資料館
鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬戸内の歴史・民俗を伝える市立資料館 福山市鞆の浦歴史民俗資料館は、広島県福山市鞆町後地に建つ市立の博物館で、「潮待ちの館」の愛称で親しまれる。1977年(昭和52年)からの地元有志による調査・収集活動を背景に、福山市制70周年記念事業として1988年(昭和63年)に開館した。立地は、福島正則が築いたとされる鞆城跡(福山市指定史跡)の高台で、瀬戸内海を見渡せる。万葉の時代から潮待ち・風待ちの港として栄えた鞆の浦を中心に、古代から近世にいたる歴史資料を展示。鯛網漁のジオラマや錨を製造した鍛冶場、朝鮮通信使関連資料、保命酒に関する資料に加え、お手火神事・お弓神事といった地域の民俗文化財も常設展示する。鞆の歴史と暮らしを総合的に学べる拠点とされる。
| 🕰 時代 | 近代(昭和) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 1988年(昭和63年)開館。福山市制70周年記念事業として建設。建つ鞆城跡は福島正則が築いたとされる(福山市指定史跡) |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町後地536-1 |
鞆の浦
瀬戸内の「潮待ちの港」。常夜燈・雁木・波止場・焚場・船番所の港湾施設が一体で残る全国的にも貴重な町並み。
| 🕰 時代 | 中世〜近世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 古代〜 |
| 👤 関連 | 朝鮮通信使・足利義昭・坂本龍馬 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町 |
福禅寺 対潮楼
朝鮮通信使の使節が「日東第一形勝」と讃えた客殿からの眺め。仙酔島を望む座敷が名高い。
| 🕰 時代 | 近世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 客殿は元禄年間 |
| 👤 関連 | 朝鮮通信使 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町2 |
太田家住宅
鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で、国の重要文化財 鞆の浦を代表する歴史的建造物で、薬用酒「保命酒」の醸造で財を成した商家の旧宅。もとは大坂の漢方医を出自とする中村家の屋敷で、明暦元年(1655年)に鞆へ移り住み、まもなく十六味地黄保命酒の製造・販売を始めて大ヒットし、福山藩の御用名酒屋として販売独占権を得たとされる。明治期に廻船業を営んだ太田家が継承し、現在の名で呼ばれる。主屋を中心に保命酒蔵や各種土蔵など九棟が建ち並び、建築年代は18世紀中期から19世紀前期に及ぶ。瀬戸内の商家建築を伝える貴重な遺構として、1991年に国の重要文化財に指定された。幕末には三条実美ら尊王攘夷派の公卿が立ち寄ったと伝わり、別宅の朝宗亭とともに「鞆七卿落遺跡」として広島県の史跡(1940年指定)にもなっている。
| 🕰 時代 | 江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 主屋は18世紀中期、ほか北保命酒蔵が天明8年(1788年)、西蔵が寛政元年(1789年)、東保命酒蔵が寛政7年(1795年)など18世紀中期〜19世紀前期。国の重要文化財指定は1991年(平成3年)5月31日。 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町鞆842 |
いろは丸展示館
坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵を活かした資料館 鞆の浦のシンボル常夜灯(とうろどう)のすぐそばに建つ資料館。1867年(慶応3年)、坂本龍馬と海援隊が運航したいろは丸が紀州藩の明光丸と備後灘で衝突・沈没した「いろは丸事件」を伝える施設で、その談判が鞆の浦で行われた縁にちなむ。建物は江戸期に建てられた太い梁が印象的な土蔵で、地元では「大蔵」と呼ばれ、国の登録有形文化財とされる。館内には海底に沈むいろは丸を再現したジオラマ、引き揚げられた陶器や部品、調査風景の写真などを展示し、2階には龍馬が宿泊先で身を潜めたという「隠れ部屋」が再現され、龍馬の蝋人形も置かれている。1989年(平成元年)7月の開館。幕末史と鞆の港町文化を同時に味わえるスポットである。
| 🕰 時代 | 近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 1989年(平成元年)7月開館。建物は江戸期築の土蔵「大蔵(浜蔵)」で、国の登録有形文化財とされる。展示題材のいろは丸事件は1867年(慶応3年) |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町鞆843-1 |
仙酔島
鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連なる瀬戸内海国立公園の名勝 仙酔島は鞆の浦の沖合に浮かぶ周囲約6キロの島で、住所は福山市鞆町後地。鞆港から市営渡船で約5分の距離にあり、観光客の往来はあるが定住者のいない無人島とされる。1925年(大正14年)に国の名勝「鞆公園」の一部として指定され、1934年(昭和9年)には日本で最初に指定された国立公園・瀬戸内海国立公園に含まれた。島は約9000万年前の大規模な火山活動による溶結凝灰岩を主体とし、南側海岸には青・赤・黄・白・黒の岩が200メートル以上連なる「五色岩」が見られ、地質的に貴重とされる。「仙人が酔うほど美しい島」が名の由来と言われる。江戸後期の学者・頼山陽が当地の景観を「山紫水明」と評したとも伝わる。
| 🕰 時代 | 古代(地質)/近代(指定) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 1925年(大正14年)国名勝「鞆公園」に指定。1934年(昭和9年)日本初の国立公園・瀬戸内海国立公園に編入。島自体は約9000万年前の火山活動で形成されたとされる |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町後地 |
廉塾(菅茶山旧宅)
儒学者・菅茶山が開いた私塾。当時の塾舎・住宅が残り、国の特別史跡に指定されている。
| 🕰 時代 | 近世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 18世紀末 |
| 👤 関連 | 菅茶山 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市神辺町川北640 |
神辺城跡
備後南部の中世山城。福山城が築かれる以前、備後支配の拠点だった。
| 🕰 時代 | 中世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 南北朝期 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市神辺町 |
福山八幡宮
福山城の北に鎮座し、東西二つの宮を備える。歴代藩主の崇敬を集めた。
| 🕰 時代 | 近世 |
|---|---|
| 👤 関連 | 水野家 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市北吉津町1-2-16 |
沼名前神社
鞆の「祇園さん」。夏の大松明を担ぐ「お手火神事」で知られる古社。
| 🕰 時代 | 近世 |
|---|---|
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町後地 |
阿伏兎観音(磐台寺観音堂)
断崖の上に建つ朱塗りの観音堂。国の重要文化財。古来、海上安全と子授け・安産の祈願で知られる。
| 🕰 時代 | 近世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 16世紀末 |
| 👤 関連 | 毛利輝元 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市沼隈町能登原 |
吉備津神社(備後一宮)
備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で「いっきゅうさん」と親しまれる古社 福山市新市町宮内に鎮座する備後国一宮で、地元では「一宮さん(いっきゅうさん)」と親しまれる。社伝では大同元年(806年)に吉備国の吉備津神社から勧請し創建されたと伝わるが、延喜式神名帳に記載がないことなどから実際の成立はより後とする説もある。主祭神は吉備国を治めたとされる大吉備津彦命。現在の本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が旧規模にならい造営したもので、桁行七間・梁間四間の入母屋造檜皮葺、国の重要文化財に指定されている。ほかにも木造狛犬や太刀などが重要文化財として伝えられ、複数の建造物が広島県・福山市指定文化財となっている。隣接する櫻山城跡なども史跡として知られ、備後の信仰と歴史を今に伝える。
| 🕰 時代 | 江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が造営、国の重要文化財。創建は大同元年(806年)と伝わるが諸説ある |
| 📍 所在地 | 広島県福山市新市町宮内400 |
素盞嗚神社(備後一宮)
祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏のけんか神輿で名高い古社 福山市新市町戸手に鎮座する素盞嗚神社は、『延喜式神名帳』に載る式内社で備後国一宮を称し、旧社格は県社です。主祭神は素盞嗚尊で、稲田姫命・八王子を配祀します。社伝では天武天皇の治世、7世紀ごろ(679年か)の創建とされます。『釈日本紀』所収の「備後国風土記」逸文に伝わる蘇民将来説話の舞台「疫隈国社」と結びつけられ、茅の輪くぐりや祇園信仰・祇園祭発祥の地の一つとされています。神仏習合期には牛頭天王を祀り、遣唐使・吉備真備が734年に当社から播磨の広峯神社へ勧請したとも伝わります。毎年7月の例祭では、勇壮なけんか神輿(神輿合わせ)が行われることで知られます。
| 🕰 時代 | 飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 社伝では天武天皇期の7世紀ごろ(679年か)創建とされる。『延喜式神名帳』記載の式内社で、旧県社 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市新市町大字戸手1-1 |
福山城を中心とする城下町、草戸千軒や明王院のある芦田川下流、そして潮待ちの港・鞆の浦。これらの地と、い草を育てた沼隈・松永一帯の水田地帯とは、いずれも芦田川と瀬戸内海でゆるやかにつながっています。畳表という一見地味な特産品が、なぜ「備後」という地域ブランドを背負って全国に流通しえたのか。その答えは、この地理的なつながりのなかにあります。
そもそも畳表とは何か――い草・経糸・畳床の関係
備後表の歩みを追う前に、まず「畳表」というものが何であるかを整理しておきましょう。私たちがふだん「畳」と呼んでいるものは、大きく三つの要素から成り立っています。芯にあたる土台の畳床(たたみどこ)、表面を覆う畳表(たたみおもて)、そして縁取りの畳縁(たたみべり)です。このうち、肌に直接触れ、見た目や香り、肌ざわりを決定づけるのが畳表で、備後表とはこの畳表の銘柄の一つを指します。
い草を緯糸に、糸を経糸にして織る
畳表は、い草(藺草)を緯糸(よこいと)、麻や綿の糸を経糸(たていと)として織り上げた敷物の布です。い草は単子葉植物で、水田で栽培される多年草。収穫したい草を乾燥させ、長さや色をそろえて選別したうえで、専用の織機にかけて一本一本織り込んでいきます。一畳分の畳表には、産地や等級にもよりますが、おおよそ四千本から七千本ものい草が使われるとされ、本数が多く密に織り込まれているほど厚みと張りのある上質な畳表になると言われています。
備後表は、この「い草」を用いた畳表です。畳表のなかには大分・熊本などで作られる琉球表のように七島藺(しちとうい/七島い)という別種の植物を割いて織るものもありますが、備後表は七島藺ではなく一般的ない草を用いる点が特徴とされています。い草を使う畳表のなかでも、備後表は表皮が厚く、青味を帯びた銀白色に仕上がる点で高く評価されてきました。
織り方による種類――引通表と諸目表
畳表は、経糸の数や織り方によっていくつかの種類に分けられます。備後地方で古くから織られてきたものとしては、経糸を比較的少なくして一目ごとにい草を通していく引通表(ひきどおしおもて)と呼ばれる織り方が知られ、史料のうえでも沼隈郡山南村で「引通表」の製造が始まったと伝わります。経糸を二本一組にして織る諸目表(もろめおもて)など、用途や格に応じた織り分けも発達してきました。こうした織りの技術と、後述する泥染めをはじめとする仕上げの工夫が積み重なって、「備後表」という銘柄の品質が形づくられていったのです。
畳という敷物そのものの歴史は古く、奈良時代の文献にも「畳」の語が見え、平安時代には貴族の住まいで板敷きの一部に置畳として用いられました。室町時代に書院造が広まると、部屋全体に畳を敷き詰める形が広がっていきます。畳が一般庶民の住まいにまで普及するのは江戸時代後期から明治以降とされますが、その普及の波にのって全国に流通したのが、備後をはじめとする各地の畳表でした。
中世の備後筵――『師守記』と海を渡った筵
備後の畳表(筵)が史料に現れる最も古い例として知られているのが、南北朝時代の公家・中原師守(なかはらのもろもり)が記した日記『師守記(もろもりき)』です。1347年(貞和3年/正平2年)ごろの記述に「備後筵(びんごむしろ)」の語が見えるとされ、この時期にはすでに備後産の筵が、都の公家社会にまで名の知られた品であったことがうかがえます。中世において「筵」と「畳表」は厳密には区別されない場合もありましたが、いずれにせよ備後の地が早くから敷物の産地として認識されていたことを示す貴重な記録です。
『兵庫北関入船納帳』に見える流通
備後の筵が広域に流通していたことを具体的に物語るのが、室町時代の海運記録『兵庫北関入船納帳(ひょうごきたぜきいりふねのうちょう)』です。これは、摂津国の兵庫北関(東大寺が管掌した関所)を、1445年(文安2年)から翌年にかけて通過した船とその積荷・関銭を記録した帳簿で、室町中期の瀬戸内海交易の実態を伝える第一級の史料として知られています。
この納帳には、備後の港である鞆(とも)の船や尾道(おのみち)の船が、筵を兵庫へと運んでいた記録が見られると伝わります。一説では、鞆船によって三百枚規模、尾道船によって二百枚以上の筵が運ばれた記録があるとされ、備後の敷物がこの時代すでに、瀬戸内海を東へ向かう商品作物として一定の地位を占めていたことがわかります。潮待ちの港として栄えた鞆の浦や、商都・尾道が、産地と消費地・京都とを結ぶ流通の結節点となっていたのです。なお、具体的な枚数については史料の読み方に諸説があり得るため、ここでは「そうした規模の取引が記録される時代であった」という大枠でとらえておくのがよいでしょう。
なぜ備後だったのか――風土と地理
い草の栽培には、夏に水を張れる肥沃な低湿地と、温暖で日照の安定した気候が欠かせません。芦田川の下流域に広がる沼隈・松永一帯は、河口部の干拓地や低湿の水田に恵まれ、い草の生育に適した土地でした。さらに、瀬戸内海の海上交通の便がよく、鞆や尾道、のちの松永などの港から大消費地・上方へと製品を送り出せたことが、この地を単なる栽培地から「産地」へと押し上げました。良質な原料、織りの技術、そして流通の動脈。この三つがそろっていたことが、備後が畳表の名産地となった土台であったと考えられます。
天文・弘治年間の始まり――沼隈郡山南村の水田い草

備後表の「本格的な始まり」として広く伝えられているのが、天文・弘治年間(おおむね1532年〜1557年ごろ、約450年前)に、沼隈郡山南村(さんなむら、現在の福山市沼隈町山南)で、野生していたい草を水田で栽培するようになり、これを織って畳表としたという伝承です。福山商工会議所や福山市の紹介でも、「天文年間に沼隈町山南地方に野生していたい草を水田に栽培し、これを製織したものが始まり」とされています。
「野生のい草」から「栽培のい草」へ
注目すべきは、もともと自生していたい草を、人の手で水田に植え替えて計画的に育てるようになった、という点です。これは、自然から採るだけの「採集」から、安定した品質と量を確保する「栽培」へと、地域の産業が大きく一歩を踏み出したことを意味します。水田を使った栽培が定着することで、年ごとの収量や品質のばらつきが抑えられ、商品として継続的に供給できる体制が整っていきました。山南の地が「備後い草発祥の地」として語り継がれてきたのは、この転換を象徴する場所だからだと言えるでしょう。
もっとも、『師守記』や『兵庫北関入船納帳』が示すように、それ以前から備後では筵が織られ、流通していました。したがって天文・弘治年間の伝承は、「何もないところから突然始まった」というよりは、「水田い草栽培という新しい技術が定着し、産地としての基盤が固まった画期」として理解するのが適切でしょう。中世以来の素地のうえに、近世的な産業へと脱皮していく転換点が、この時期にあったと考えられます。
沼隈・松永という土地
備後表の主産地となったのは、沼隈半島の付け根にあたる沼隈町山南一帯と、芦田川河口の干拓で広がった松永(まつなが)地域でした。松永は近世以降、塩田と並んでい草・畳表の集散地として発展し、近代には「畳表のまち」として全国にその名を知られるようになります。のちに松永は履物(下駄)産業でも栄えますが、それ以前から備後表の生産・流通の中心地の一つであり続けました。現在も福山市松永町には広島県藺業協会が置かれるなど、この地が長く備後表の拠点であったことを今に伝えています。
「備後」という地名ブランドの力
中世から近世にかけて、商品に産地の名を冠して品質を保証する「地名ブランド」が各地で育ちました。備後の場合、早くから『師守記』に「備後筵」、海運記録に「備後」由来の筵が現れ、都の公家社会や上方の市場で「備後の敷物は良い」という評価が形づくられていきました。良いものが「備後」の名で流通し、その評判がさらに需要を呼び、需要があるからこそ産地が育つ――こうした好循環のなかで、「備後」は畳表の世界における信頼の代名詞へと成長していったのです。地名がそのまま品質の保証になる。この目に見えない資産こそ、備後表が長く全国で愛用された大きな理由の一つでした。後世の藩による品質保護や、近代以降のブランド管理も、この中世以来の「備後」ブランドの蓄積があってこそ意味を持ったと言えます。
福山藩の登場――水野勝成と産業育成
備後表が「全国を席巻するブランド」へと飛躍する決定的な後押しとなったのが、近世の備後福山藩による保護政策でした。その出発点に立つのが、福山藩の初代藩主・水野勝成(みずのかつなり)です。
水野勝成の福山入封
水野勝成は徳川家康の従兄弟にあたる譜代の武将で、1619年(元和5年)、安芸・備後を治めていた福島正則の改易にともない、備後南部に新たに立てられた福山藩へ入封しました。勝成は新たな城下町・福山の建設に着手するとともに、城下や領内の産業育成にも力を注いだことで知られます。土地を与えて地子(土地税)を免除するなど、人と産業を呼び込む施策を進め、その一環として、すでに地域に根づいていたい草・畳表の生産を藩の重要な産業として位置づけ、統制・育成していったとされます。
福山藩成立に先立つ1602年(慶長7年)には、当時備後を含む広島を領していた福島正則が、幕府に対して畳表三千百枚を献上したという記録が伝わります。これは、備後の畳表がこの時期すでに、大名が幕府への献上品とするにふさわしい高級品として認識されていたことを示しています。慶長年間(おおむね約400年前)に福山藩の産業として奨励されたことで産地の基盤が固まった、と福山市などが紹介しているのは、こうした流れを踏まえたものです。
城下町づくりと特産品の振興
勝成が築いた福山城は、瀬戸内の要衝を押さえる近世城郭として整備され、その城下には商工業者が集められました。藩の財政を支えるうえで、領内の特産品を育て、その販売を統制して利益を確保することは、近世大名にとって重要な政策でした。備後表は、塩や綿などと並ぶ福山藩の代表的な産物として、藩の保護のもとに品質と生産が管理されていくことになります。城・城下町・特産品が一体となって地域経済を形づくっていく――その典型的な姿が、福山藩と備後表の関係に見てとれます。福山城の歴史については、別記事の福山城ガイドもあわせてご覧ください。
献上品としての備後表――幕府買い上げと品質管理

備後表のブランドを決定的にしたのは、幕府への献上・買い上げという仕組みと、それを支える厳格な品質管理でした。近世を通じて備後表は「最高級の畳表」として朝廷や幕府で用いられ、その格式が産地の名声を支えたと伝わります。
1622年・幕府による買い上げ制度
水野勝成の福山入封からまもない1622年(元和8年)、幕府が福山藩から備後表九千枚を買い上げる制度が始まったと伝わります。これは、備後表が単なる地方特産品ではなく、幕府が公的に必要とする「御用の品」となったことを意味します。江戸城をはじめとする公儀の御殿や、各地の幕府関連施設の畳に、備後の畳表が用いられたと考えられ、このことが「備後表=最高級」という評価を全国に決定づけました。
「九カ条御定法」と献上表改役
高級品としての評価を維持するには、品質を厳しく管理する仕組みが欠かせません。福山藩では、水野勝成のもとで畳表の品質規格を定めた『九カ条御定法(くかじょうおさだめほう)』が制定されたと伝わります。い草の長さや色、織りの密度、仕上げの基準などを定め、規格に合わない粗悪品が「備後表」として出回らないよう統制したものと考えられます。
さらに藩は、献上用・御用の畳表を検査する「献上表改役(けんじょうおもてあらためやく)」とも呼ばれる役職を置き、出荷される畳表の品質を厳しく検査したとされます。基準を満たした品だけが「備後表」として認められ、品質の劣るものは排除される。この徹底した品質管理こそが、長く崩れない「備後ブランド」の信用を支えたのです。現代でいう産地のブランド認証や検査制度に通じる発想が、すでに近世の福山藩に芽生えていたと見ることができます。
い草の他領移出禁止という専売的統制
福山藩は品質を守るだけでなく、原料の流出を防ぐ統制も行いました。い草を他領へ持ち出すことを禁じる移出禁止の措置をとったと伝わり、これによって良質ない草の確保と、産地としての優位を保とうとしたものと考えられます。原料の囲い込み、規格による品質管理、そして幕府買い上げによる安定した需要。これら近世的な産業統制が一体となって機能したことで、備後表は他産地に対する強いブランド力と、高い供給量の両方を手にしていきました。中世に確立した「備後」という地名ブランドが、近世の福山藩・広島藩による品質保護政策によって磨かれ、揺るぎないものになっていったのです。
備後表の製法――泥染めと仕上げの技
備後表のあの青味を帯びた銀白色のつやは、単に良いい草を織るだけで生まれるものではありません。収穫から織り上げ、仕上げに至るまでの一連の工程に、産地で培われた技と工夫が込められています。ここでは、い草が畳表になるまでの主な流れを見ていきましょう。
栽培から収穫まで
い草は冬から早春にかけて水田に植え付けられ、夏に向けて背を伸ばし、初夏に収穫期を迎えます。長く、まっすぐで、太さのそろったい草を育てることが、上質な畳表づくりの前提です。収穫は、い草の色と香りが最も良い時期を見計らって、手早く行う必要があるとされます。刈り取られたい草は、傷まないうちに次の工程へと送られます。
泥染め(染土)という独特の工程
備後表をはじめ、上質な畳表づくりに欠かせないのが泥染め(どろぞめ)と呼ばれる工程です。収穫したい草を、染土(せんど)と呼ばれる良質の粘土粉を水に溶いた液にくぐらせてから乾燥させます。い草の表面は高温に弱いため、泥をまとわせることで水分の蒸発を助け、六十〜七十度ほどの比較的低い温度でゆっくりと均一に乾かすことができるとされます。
この泥染めには、乾燥を均一にするだけでなく、い草の色合いを落ち着いた銀白色に整え、独特の香りを引き出し、織りやすさを高めるといった効果があると言われています。備後地方で用いられる染土は淡い茶褐色で、吸水性などにすぐれるとされ、産地ごとの染土の違いが仕上がりの個性につながってきました。い草に泥のような粉が付いているのは、この泥染めの名残です。泥染めの良し悪しが、畳表の見た目と質を大きく左右する、まさに産地の技の見せどころでした。
選別と製織
乾燥させたい草は、長さや太さ、色合いで丁寧に選別されます。一畳分の畳表に同じ品質のい草をそろえることが、均一で美しい仕上がりの鍵です。選別を終えたい草は織機にかけられ、麻や綿の経糸とともに織り込まれていきます。表皮が厚く、密に織り込まれた備後表は、踏んでも腰があり、長く使ううちに飴色へと変化していく経年の美しさも持ち合わせています。この一連の手間と技の積み重ねが、「備後表は格が違う」と言わしめてきた品質の正体なのです。
仕上げ・選別と「等級」
織り上がった畳表は、最後に仕上げと検品を経て出荷されます。表面の毛羽を整え、汚れや傷を取り除き、長さ・幅を一定にそろえる。そのうえで、い草の本数や織りの密度、色つや、傷の有無などによって等級が分けられます。上等な備後表ほどい草の本数が多く、隙間なく密に織り込まれ、ふっくらとした厚みと均一な色合いを持ちます。近世に藩が「九カ条御定法」で規格を定め、献上表改役が検査したのも、こうした等級・品質を厳しく管理するためでした。手間をかけて選り抜かれた最上級の品だけが、献上品や名建築の畳として用いられたのです。一枚の畳表に込められた選別と仕上げの積み重ねが、「備後表は別格」と言われる品質を裏側から支えていました。
明治・大正の機械化と最盛期
近世を通じて藩の保護のもとに発展した備後表は、明治維新による藩の消滅という大きな環境変化を迎えます。しかし、藩の統制がなくなったあとも、備後表は生産者たちの組織化と技術革新によって、むしろ生産を拡大し、近代日本を代表する畳表産地へと成長していきました。
生産者の組織化――1881年の畳表商同盟規約
藩による品質管理がなくなった近代において、品質と信用を守る役割を担ったのは、生産者・商人たち自身の組織でした。1881年(明治14年)には、備後の畳表をめぐって『畳表商同盟規約』が締結されたと伝わります。これは、産地の業者が連携して品質基準や取引のルールを取り決め、「備後表」というブランドの価値を共同で守ろうとした動きと考えられます。近世の藩による上からの統制から、近代の同業者組合による自律的な品質管理へ。備後表のブランドを支える仕組みが、時代に応じて形を変えながら受け継がれていったことがうかがえます。
足踏織機の発明――1906年・枝広菊右衛門
備後表の生産を飛躍的に押し上げた技術革新が、織機の改良でした。1906年(明治39年)、枝広菊右衛門(えだひろきくえもん)が足踏式の織機を発明し、特許を取得したと伝わります。それまで手作業に頼っていた製織が、足踏みの力を使って効率化されたことで、一人あたりの生産量が大きく向上しました。熟練の技を要する手織りの世界に機械の力が導入されたことは、備後表の生産規模を拡大する大きな転機となりました。
動力織機の導入――1931年と量産化
機械化はさらに進みます。1931年(昭和6年)ごろには動力織機が導入され、生産量が急増したと伝わります。電力で動く織機の普及によって、備後表は大量生産が可能な近代産業へと姿を変えていきました。明治後期から昭和初期にかけてのこの機械化の波が、備後表を全国市場へ大量に送り出す原動力となり、「全国を席巻した」と語られる最盛期を支えたのです。畳が庶民の住まいにまで広く普及していった時代の追い風も受け、備後・松永は名実ともに日本有数の畳表産地として栄えました。
昭和後期の衰退――暮らしの変化と産地の縮小
近代を通じて発展を続けた備後表でしたが、戦後の高度経済成長期を境に、産地は急速な縮小へと向かいます。その背景には、日本人の暮らしと住まいの大きな変化がありました。
住まいの洋風化と畳需要の変化
昭和30年代(1955年〜)以降、産業構造の転換と生活様式の洋風化が進むなかで、備後い草の生産は減少に転じたとされます。フローリングの床やカーペットを使う住宅が増え、一軒あたりの畳の枚数が減っていったこと、畳を使う和室そのものが減っていったことが、畳表の需要を押し下げました。い草の栽培は手間がかかり、農家の担い手も高齢化・減少していきます。かつて全国を席巻した備後表は、需要と供給の両面から縮小を余儀なくされていきました。
産地間競争と輸入品の増加
国内では、熊本県(八代地方)が昭和後期以降にい草生産のシェアを大きく伸ばし、現在では国産い草のほとんどを占めるようになりました。岡山や広島といった旧来の産地は、栽培面積の縮小とともに生産の中心ではなくなっていきます。さらに平成以降は、安価な中国産い草・畳表の輸入が増え、畳表市場全体に占める国産の割合は大きく低下しました。こうした産地間競争と輸入品の波のなかで、備後でい草を栽培し、備後表を織る生産者は、ごくわずかにまで減っていきました。
わずかに残る備後い草
その縮小は、数字を見ると一層はっきりします。一説には、2016年(平成28年)末の時点で、備後い草を育てる圃場は五戸・十枚規模にまで減り、さらに2019年(令和元年)末には三戸・五枚規模にまで減少したと伝わります(枚数は田の区画を示す単位)。かつて全国を席巻し、何十万枚もの畳表を送り出した産地が、わずか数戸の農家によって地元のい草栽培の灯を守る状況になったのです。備後表が「絶滅の危機にある伝統産業」と語られるようになったのは、こうした厳しい現実があるからです。なお、これらの戸数・枚数は調査時点による数字であり、年によって変動があり得ます。
塩田・下駄と並ぶ松永の産業史のなかで
備後表の衰退を、松永という土地の産業史のなかに置いてみると、その意味がより立体的に見えてきます。芦田川河口の干拓で広がった松永は、近世から塩田の塩、そしてい草・畳表で栄え、近代には下駄(履物)産業でも全国に名を知られました。一つの土地が、時代ごとに主役となる産業を移り変えながら活気を保ってきたのです。塩田は製塩法の転換とともに姿を消し、下駄も生活様式の変化で縮小し、備後表もまた住まいの洋風化のなかで縮小していきました。地域の基幹産業が時代の波を受けて移ろっていく姿は、決して備後表だけの物語ではありません。だからこそ、かつて全国を席巻した備後表の技と名をどう残すかは、地域の歴史そのものをどう受け継ぐかという問いにつながっています。
なぜ今、伝統を残すのか
生産量が往時の何分の一にも満たない今、それでも備後表を残そうとする意味はどこにあるのでしょうか。一つは、何百年もかけて磨かれた栽培・泥染め・製織の技そのものが、いったん途絶えれば二度と元には戻せない文化遺産だからです。もう一つは、最高級畳表として国宝級の建造物の修復などに用いられる場面が今も残り、本物の備後表でなければ務まらない需要が確かにあるからです。さらに、地域のアイデンティティ――「ここは備後表のふるさとだ」という誇り――を未来へ手渡す意味もあります。量を競う時代は過ぎても、質と歴史で語れる産品として、備後表は新しい価値の見いだされ方を模索しています。継承会や地域プロジェクトの取り組みは、その模索の最前線にあると言えるでしょう。
現代の継承――地域ブランドと守り続ける人々
消えゆく危機にあるからこそ、備後表を未来へ残そうとする取り組みも、近年さまざまに進められています。最高級畳表の伝統と技術を、次の世代へどう手渡していくか。その挑戦が、いま備後の地で続いています。
地域団体商標としての「備後表」――2008年
備後表のブランドを法的にも守る取り組みとして、2008年(平成20年)に「備後表」が地域団体商標(地域ブランド)に登録されたと伝わります。地域団体商標は、産地名と商品名を組み合わせたブランドを、地域の組合などが商標として登録できる制度で、産地外の業者が無断で「備後表」を名乗ることを防ぎ、ブランドの信用を守る役割を果たします。近世の「九カ条御定法」や明治の「畳表商同盟規約」にも通じる、品質とブランドを守る仕組みが、現代の法制度のもとで受け継がれていると言えるでしょう。
技術継承の取り組み――2018年・備後表継承会
生産者の高齢化と減少が進むなか、栽培から製織までの技術を若い世代へ伝えようとする活動も生まれています。2018年(平成30年)には「備後表継承会」が設立されたと伝わり、い草の栽培技術や泥染め・製織の技を記録し、後継者へと受け渡す取り組みが続けられています。企業や財団による文化・伝統支援の動きもあり、地域ぐるみで備後表の伝統を守ろうとする機運が高まっています。「BINGO RUSH」といった、備後い草を地域資源として捉え直し、新たな商品や価値を生み出そうとするプロジェクトも登場しています。
現在に残るもの
今日、福山市松永町には広島県藺業協会が置かれ、備後表の産地としての歴史を今に伝えています。沼隈町山南は「備後い草発祥の地」として語り継がれ、地域の郷土資料館や歴史展示でも、備後表のものづくりが紹介されています。国宝級の歴史的建造物の畳替えに、いまも備後表が用いられることがあると伝わり、最高級畳表としての評価は失われていません。生産量こそ往時とは比べものにならないほど少なくなりましたが、「備後表」という名と技は、確かに今日まで受け継がれているのです。あわせて、福山の街そのものの歩みを知りたい方は、通史をまとめた福山市の歴史ガイドもご覧ください。
関連年表|備後表の歩み
これまで見てきた備後表の歴史を、年表の形で整理します。年代や経緯には諸説ある事項を含みますので、おおよその流れをつかむ目安としてご覧ください。
モデルコース|備後表の歴史をたどる福山さんぽ
備後表の物語は、福山城下から沼隈・松永の産地、そして瀬戸内の港町・鞆の浦まで、芦田川と海でつながっています。畳表のものづくりに思いをはせながら、福山の歴史スポットをめぐる一日のモデルコースをご紹介します。
午前|福山城と城下町から
まずは、備後表を藩の産業として育てた水野勝成ゆかりの福山城からスタートしましょう。JR福山駅のすぐ北に建つ城は、近世福山藩の中心であり、備後表が「御用の品」として幕府に納められた時代の政治の舞台です。天守からの眺めや城内の展示で、福山藩の成り立ちと産業のつながりを感じてみてください。詳しくは福山城ガイドが参考になります。
昼|芦田川の歴史と草戸千軒へ
城下から芦田川を下流へたどると、中世の港町遺跡・草戸千軒や明王院のあるエリアに出ます。備後の筵が瀬戸内の流通網に乗って各地へ運ばれた時代、この芦田川は産地と海とを結ぶ大切な水路でした。中世から続く備後のものづくりと交易の土壌を、川辺の史跡から感じ取ってみましょう。あわせて訪ねたいスポットは草戸千軒・明王院周辺のガイドでも紹介しています。
午後|潮待ちの港・鞆の浦へ
午後は、備後の筵を兵庫・上方へと送り出した港町・鞆の浦へ足を延ばしましょう。『兵庫北関入船納帳』に名の見える「鞆船」が活躍した、瀬戸内有数の潮待ちの港です。古い町並みが残る鞆の浦の街並みを歩けば、海運で栄えた時代の空気が今も感じられます。朝鮮通信使を迎えた福禅寺 対潮楼からの絶景や、江戸時代の商家・太田家住宅、坂本龍馬ゆかりのいろは丸展示館など、備後の海と歴史をめぐる見どころが集まっています。畳表というものづくりが、こうした海の道に支えられていたことを、ぜひ現地で実感してみてください。
よくある質問(FAQ)
Q備後表(びんごおもて)とは何ですか。
広島県東部・備後地方(現在の福山市を中心とする地域)で作られてきた高級畳表の銘柄です。い草を用い、表皮が厚く、青味を帯びた銀白色に仕上がる点が特徴とされ、近世には朝廷や幕府への献上品として用いられた最高級の畳表として知られてきました。「備後畳表」とも呼ばれます。
Q備後表はいつごろから作られていますか。
備後の敷物(筵)が史料に現れる最古の例は、1347年ごろの『師守記』に見える「備後筵」とされます。水田でのい草栽培と製織が本格的に始まったのは、天文・弘治年間(おおむね1532〜1557年ごろ、約450年前)に沼隈郡山南村で、と伝わります。中世以来の素地のうえに、近世の福山藩の保護で産地の基盤が固まったと考えられます。
Qなぜ備後で畳表づくりが盛んになったのですか。
芦田川下流の沼隈・松永一帯がい草栽培に適した低湿の水田に恵まれていたこと、鞆や尾道などの港から上方へ製品を送れる海運の便がよかったこと、そして福山藩が産業として保護・統制したことが重なったためと考えられます。良質な原料・織りの技術・流通の動脈がそろっていたことが、産地化の土台になりました。
Q福山藩は備後表にどう関わったのですか。
1619年に福山へ入封した初代藩主・水野勝成が、い草・畳表の生産を藩の重要産業として育成・統制したと伝わります。品質規格『九カ条御定法』を定め、献上用の畳表を検査する役職を置き、い草の他領移出を禁じるなどの統制を行い、幕府への買い上げ制度とあわせて「備後表」のブランドと品質を支えました。
Q「幕府への献上・買い上げ」とはどういうことですか。
1602年には福島正則が幕府に畳表三千百枚を献上したと伝わり、1622年には幕府が福山藩から備後表九千枚を買い上げる制度が始まったと伝わります。幕府が公的に必要とする「御用の品」として備後表が用いられたことが、「備後表=最高級」という全国的な評価を決定づけました。
Q備後表のあの色やつやは、どうやって生まれるのですか。
収穫したい草を、染土と呼ばれる良質の粘土粉を溶いた液にくぐらせてから乾燥させる「泥染め」という工程が大きく関わっています。泥をまとわせることで低温で均一に乾かすことができ、色合いが落ち着いた銀白色に整い、独特の香りや織りやすさも生まれるとされます。い草に泥のような粉が付いているのは、この泥染めの名残です。
Q備後表は普通の畳表と何が違うのですか。
備後表は、い草を密に織り込み、表皮が厚く張りのある仕上がりが特徴とされ、青味を帯びた銀白色の美しさと耐久性で高く評価されてきました。琉球表のように七島藺を割いて織るものとは異なり、い草を用いる畳表です。歴史的に朝廷・幕府の御用となった格式と、産地で守られてきた品質管理が、「備後表」というブランドを支えてきました。
Q明治以降、備後表はどう変わりましたか。
藩の統制がなくなったあとも、1881年の『畳表商同盟規約』のような生産者の組織化によって品質が守られ、1906年の枝広菊右衛門による足踏織機の発明や、1931年ごろの動力織機の導入といった機械化によって生産量が急増しました。畳が庶民にも普及した時代の追い風も受け、備後・松永は全国有数の畳表産地として最盛期を迎えたと伝わります。
Qなぜ備後表は衰退したのですか。
昭和30年代以降、住まいの洋風化で和室や畳の需要が減ったこと、い草栽培の担い手が高齢化・減少したこと、国内では熊本がい草生産のシェアを伸ばしたこと、平成以降は安価な中国産い草・畳表の輸入が増えたことなどが重なり、備後でのい草栽培と備後表の生産は大きく縮小しました。
Qいま備後表はまだ作られていますか。
生産量はごくわずかになりましたが、地元のい草栽培と製織の灯を守る取り組みは続いています。一説には2016年末で五戸・十枚規模、2019年末で三戸・五枚規模にまで圃場が減ったと伝わります。一方で、2018年に「備後表継承会」が設立されるなど、技術を次世代へ受け継ぐ活動が進められています。数字は調査時点によって変動があり得ます。
Q「備後表」は地域ブランドとして保護されていますか。
はい。2008年(平成20年)に「備後表」が地域団体商標(地域ブランド)に登録されたと伝わります。産地名と商品名を組み合わせたブランドを地域の組合などが守る制度で、産地外の無断使用を防ぎ、長年培われた「備後表」の信用を守る役割を果たしています。
Q備後表の歴史にゆかりの地を訪ねるには、どこへ行けばよいですか。
産業を育てた水野勝成ゆかりの福山城、い草発祥の地と伝わる沼隈町山南、産地の中心地だった松永(福山市松永町には広島県藺業協会があります)、そして筵を上方へ運んだ港町・鞆の浦などが挙げられます。地域の郷土資料館や歴史展示でも備後表が紹介されることがあります。訪問前に各施設の公式情報をご確認ください。
Q七島藺(しちとうい)と備後表は同じものですか。
異なります。七島藺は主に大分などで栽培され、茎を割いて織る琉球表などに使われる別種の植物です。備後表は七島藺ではなく、一般的ない草を用いる畳表とされます。同じ「畳表」でも、原料となる植物や織り方によって種類が分かれている点に注意が必要です。
まとめ|全国を席巻した備後のものづくり
備後表の歩みは、地域の風土と人の工夫、そして時代ごとの仕組みづくりが積み重なってきた歴史でした。1347年ごろの『師守記』に名を残す「備後筵」に始まり、室町期の海運記録に流通の姿を見せ、天文・弘治年間には沼隈郡山南村で水田い草栽培と製織が本格化したと伝わります。近世には福山藩初代・水野勝成のもとで、品質規格『九カ条御定法』や献上表改役、い草の移出禁止といった統制と、幕府への献上・買い上げが結びつき、「備後表=最高級」というブランドが確立しました。
明治以降は、1881年の同盟規約による組織化、1906年の足踏織機、1931年ごろの動力織機といった機械化を経て、備後・松永は全国を席巻する畳表産地へと発展します。しかし昭和30年代以降、住まいの洋風化や産地間競争、輸入品の増加のなかで生産は急速に縮小し、現在では数戸の農家が栽培の灯を守る状況になったと伝わります。それでもなお、2008年の地域団体商標登録や、2018年設立の備後表継承会の活動など、この最高級畳表の技と名を未来へ手渡そうとする取り組みが続いています。
足の裏に伝わる、あのなめらかな張り。その一畳の向こうには、芦田川と瀬戸内の海、福山藩の城下、そして何百年にもわたってい草を育て織り続けてきた人々の歩みが折り重なっています。福山を訪れる際は、ぜひ備後表の物語にも思いをはせてみてください。福山の歴史全体の流れを知りたい方は、通史をまとめた福山市の歴史ガイドもあわせてご覧ください。
出典・注意
本記事は、福山商工会議所「福山の誇る伝統産業(備後畳表)」、福山市ホームページ(びんご畳表/備後畳表)、Wikipedia「びんご畳表」、ひろしま文化大百科「備後表」、ならびに『師守記』『兵庫北関入船納帳』に関する一般的な解説、い草・畳表の製法に関する各種資料などを参照し、年号・人物・出来事を照合して作成しました。
※年代・経緯には諸説ある事項を含みます。詳細は各施設の公式情報や郷土資料でご確認ください。
最終更新: 2026年6月10日
史跡情報は福山NOTE 史跡図鑑(fn_history)より。