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🏯 歴史

朝鮮通信使と備後・鞆の浦|「日東第一形勝」の外交史

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朝鮮通信使と備後・鞆の浦|「日東第一形勝」の外交史

瀬戸内海のほぼ中央、潮の満ち引きが東西から出会う「潮待ちの港」鞆の浦。この小さな港町は、江戸時代を通じて日本と朝鮮王朝をつないだ外交使節「朝鮮通信使」の寄港地のひとつでした。なかでも福禅寺の客殿・対潮楼から望む仙酔島や弁天島の眺めは、正徳元年(1711年)に来日した通信使一行によって「日東第一形勝(にっとうだいいちけいしょう)」、すなわち「朝鮮より東で一番美しい景勝地」と賞されたと伝わります。本記事では、朝鮮通信使とはどのような使節であったのか、なぜ鞆の浦に立ち寄ったのか、そして対潮楼に残された外交と文化交流の足跡を、自治体・博物館・公的機関の記録に基づいてできるだけ正確にたどります。瀬戸内の港町が東アジアの平和外交の舞台となった、その歴史の奥行きを一緒に歩いていきましょう。

鞆の浦は、福山市の中心部から南へおよそ14キロメートル、沼隈半島の先端に位置する港町です。古代から潮流を利用した海上交通の要衝として栄え、万葉集にも詠まれた由緒ある土地でした。江戸時代には西廻り航路の寄港地として賑わい、北前船や朝鮮通信使、参勤交代の大名行列までもが行き交う、文字どおりの「海の十字路」となっていました。その鞆の浦の歴史のなかでも、ひときわ国際色豊かな一章が、朝鮮通信使の来航にまつわる物語です。

史跡図鑑|朝鮮通信使と鞆の浦ゆかりの史跡

まずは、本記事で紹介する朝鮮通信使と鞆の浦にゆかりの深い史跡を、福山NOTEの史跡図鑑(fn_history)から一覧でご覧ください。福禅寺対潮楼をはじめ、鞆の浦の歴史を物語る史跡を、一覧・比較・詳細の三つの視点で確認できます。気になる史跡から、本文の解説や個別ページへと読み進めてみてください。

福山城 伏見櫓 📖江戸時代(元和年間)📍 福山駅前(福山市街)福山城 📖近世(江戸)📍 丸之内福山城博物館 📖近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)📍 福山駅前(福山市街)草戸千軒町遺跡 📖中世📍 草戸町明王院 📖中世📍 草戸町鞆の津の町並み(重伝建) 📖江戸時代(中世〜近代の建造物群)📍 鞆町鞆の浦の常夜燈と港湾施設 📖江戸時代📍 鞆町福山市鞆の浦歴史民俗資料館 📖近代(昭和)📍 鞆町鞆の浦 📖中世〜近世📍 鞆町福禅寺 対潮楼 📖近世📍 鞆町太田家住宅 📖江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)📍 鞆町いろは丸展示館 📖近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)📍 鞆町仙酔島古代(地質)/近代(指定)📍 鞆町廉塾(菅茶山旧宅) 📖近世📍 神辺町神辺城跡 📖中世📍 神辺町福山八幡宮 📖近世📍 北吉津町沼名前神社 📖近世📍 鞆町阿伏兎観音(磐台寺観音堂)近世📍 沼隈町吉備津神社(備後一宮)江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる📍 新市町素盞嗚神社(備後一宮) 📖飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮📍 新市町
史跡時代概要📍 エリア詳細
福山城 伏見櫓江戸時代(元和年間)伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最…📍 福山駅前(福山市街)下へ ↓
福山城近世(江戸)備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御…📍 丸之内下へ ↓
福山城博物館近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩…📍 福山駅前(福山市街)下へ ↓
草戸千軒町遺跡中世芦田川の中州にあった中世の港町・集落遺跡。発…📍 草戸町下へ ↓
明王院中世本堂と五重塔がともに国宝。中世密教寺院で、五…📍 草戸町下へ ↓
鞆の津の町並み(重伝建)江戸時代(中世〜近代の建造物群)潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と…📍 鞆町下へ ↓
鞆の浦の常夜燈と港湾施設江戸時代江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯…📍 鞆町下へ ↓
福山市鞆の浦歴史民俗資料館近代(昭和)鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬…📍 鞆町下へ ↓
鞆の浦中世〜近世瀬戸内の「潮待ちの港」。常夜燈・雁木・波止場…📍 鞆町下へ ↓
福禅寺 対潮楼近世朝鮮通信使の使節が「日東第一形勝」と讃えた客…📍 鞆町下へ ↓
太田家住宅江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で…📍 鞆町下へ ↓
いろは丸展示館近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵…📍 鞆町下へ ↓
仙酔島古代(地質)/近代(指定)鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連…📍 鞆町下へ ↓
廉塾(菅茶山旧宅)近世儒学者・菅茶山が開いた私塾。当時の塾舎・住宅…📍 神辺町下へ ↓
神辺城跡中世備後南部の中世山城。福山城が築かれる以前、備…📍 神辺町下へ ↓
福山八幡宮近世福山城の北に鎮座し、東西二つの宮を備える。歴…📍 北吉津町下へ ↓
沼名前神社近世鞆の「祇園さん」。夏の大松明を担ぐ「お手火神…📍 鞆町下へ ↓
阿伏兎観音(磐台寺観音堂)近世断崖の上に建つ朱塗りの観音堂。国の重要文化財…📍 沼隈町下へ ↓
吉備津神社(備後一宮)江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で…📍 新市町下へ ↓
素盞嗚神社(備後一宮)飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏の…📍 新市町下へ ↓
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福山城 伏見櫓

江戸時代(元和年間) / 📍福山駅前(福山市街)

伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最古級の三層入母屋造の現存櫓。 福山城伏見櫓は、元和8年(1622年)の福山城築城に際し、城主水野勝成が将軍徳川秀忠から下賜を受け、京都の伏見城から移築させたと伝えられる櫓である。長らく伝承とされていたが、昭和29年(1954年)の解体修理の際、梁の陰刻に「松ノ丸ノ東やく(ら)」の文字が発見され、伏見城からの移築を裏付ける確かな遺構であることが明らかになった。構造は三層入母屋造で、初層と二層を同じ柱割とし、その上にやや小さい三層を望楼状に載せる。桁行八間・梁間三間、本瓦葺の規模をもつ。慶長期の城郭建築の様式を残す初期の典型として価値が高く、昭和8年(1933年)1月23日に国の重要文化財に指定された。福山城内に現存し、特別公開が行われることもある。

🕰 時代江戸時代(元和年間)
🏛 成立・築造元和8年(1622年)水野勝成の福山城築城時に伏見城から移築。国指定重要文化財(昭和8年=1933年1月23日指定)
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目(福山城内)
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福山城

近世(江戸) / 📍丸之内

備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御門は京都伏見城からの移築と伝わる。2022年に築城400年を迎えた。

🕰 時代近世(江戸)
🏛 成立・築造1622年(元和8)・水野勝成
👤 関連水野勝成・阿部正弘
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目8
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福山城博物館

近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期) / 📍福山駅前(福山市街)

水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩の歴史を体験型展示で伝える博物館 福山城博物館は、JR福山駅のすぐ北に建つ福山城天守内に置かれた市立の歴史資料館です。福山城は1622年(元和8年)、徳川譜代の大名・水野勝成が西国鎮衛の拠点として築いた近世城郭で、天守は1931年に国宝に指定されました。しかし1945年8月の福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリート造で外観が復興され、その内部が博物館として公開されました。2022年には築城400年に合わせて大規模リニューアルされ、北面の鉄板張り(黒い装い)の再現や、一番槍レース・火縄銃などの体験型コンテンツ、デジタル映像を用いた展示が整えられ、福山城と福山藩の歴史を学べる施設となっています。城内に現存する伏見櫓と筋鉄御門は、京都・伏見城からの移築と伝えられ、国の重要文化財に指定されています。常設展は有料、月曜休館とされます。

🕰 時代近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)
🏛 成立・築造福山城は1622年(元和8年)に初代福山藩主・水野勝成が築城。天守は1945年福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリートで外観復興、内部を博物館として開館。2022年に大規模リニューアル
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目8番
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鞆の津の町並み(重伝建)

江戸時代(中世〜近代の建造物群) / 📍鞆の浦

潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と町家が一体で残る重伝建地区 鞆の浦は瀬戸内海の中央に位置し、古来「潮待ちの港」として栄え、万葉集にも詠まれた歴史を持つとされる。江戸時代には北前船など廻船の寄港地として繁栄し、朝鮮通信使の寄港地ともなった。2017年(平成29年)11月28日、「福山市鞆町伝統的建造物群保存地区」として約8.6ヘクタールが国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。範囲は鞆字西町の全域を中心に、石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地の一部に及ぶ。中世から江戸期に整えられた地割の上に、江戸時代から昭和30年代までの町家や寺社、石垣などが一体的に残る近世港町の景観が評価された。常夜燈・雁木・波止・焚場・船番所の5つの港湾施設がほぼ完全に残る点は全国でも稀とされる。広島県内では3例目の選定で、2018年には日本遺産にも認定された。

🕰 時代江戸時代(中世〜近代の建造物群)
🏛 成立・築造2017年(平成29年)11月28日に国の重要伝統的建造物群保存地区へ選定。地割は中世〜江戸期、建造物は江戸時代〜昭和30年代まで。
📍 所在地広島県福山市鞆町(鞆字西町全域ほか、字石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地字古城跡・草谷の各一部)
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鞆の浦の常夜燈と港湾施設

江戸時代 / 📍鞆の浦

江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯一の近世港、鞆港。 鞆の浦の鞆港には、常夜燈・雁木・波止・焚場(たでば)・船番所という江戸時代の港湾施設5点がほぼ揃って現存し、これらが一体で残るのは全国でも鞆港のみとされる。シンボルの常夜燈は安政6年(1859)の刻銘をもつ石造灯台で、海中の基礎石から宝珠の頂までは約12.1mに及び、江戸期の石造常夜燈としては国内最大級とされる。雁木は潮の干満に応じて船を着けられる階段状の船着き場で、半円形の港内に連続して巡らされている。波止は花崗岩を積んだ全長約146mの防波堤で、江戸後期に築かれ明治期に修築された。鞆港を含む沿岸と沖の島々一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定され、鞆町西町を中心とする区域は2017年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。日本遺産「瀬戸の夕凪が包む 国内随一の近世港町」の構成要素でもある。

🕰 時代江戸時代
🏛 成立・築造常夜燈は安政6年(1859)造立とされる。雁木・波止・焚場・船番所は江戸後期築造、波止は明治期に修築。鞆港一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定。
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆
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福山市鞆の浦歴史民俗資料館

近代(昭和) / 📍鞆の浦

鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬戸内の歴史・民俗を伝える市立資料館 福山市鞆の浦歴史民俗資料館は、広島県福山市鞆町後地に建つ市立の博物館で、「潮待ちの館」の愛称で親しまれる。1977年(昭和52年)からの地元有志による調査・収集活動を背景に、福山市制70周年記念事業として1988年(昭和63年)に開館した。立地は、福島正則が築いたとされる鞆城跡(福山市指定史跡)の高台で、瀬戸内海を見渡せる。万葉の時代から潮待ち・風待ちの港として栄えた鞆の浦を中心に、古代から近世にいたる歴史資料を展示。鯛網漁のジオラマや錨を製造した鍛冶場、朝鮮通信使関連資料、保命酒に関する資料に加え、お手火神事・お弓神事といった地域の民俗文化財も常設展示する。鞆の歴史と暮らしを総合的に学べる拠点とされる。

🕰 時代近代(昭和)
🏛 成立・築造1988年(昭和63年)開館。福山市制70周年記念事業として建設。建つ鞆城跡は福島正則が築いたとされる(福山市指定史跡)
📍 所在地広島県福山市鞆町後地536-1
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太田家住宅

江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期) / 📍鞆の浦

鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で、国の重要文化財 鞆の浦を代表する歴史的建造物で、薬用酒「保命酒」の醸造で財を成した商家の旧宅。もとは大坂の漢方医を出自とする中村家の屋敷で、明暦元年(1655年)に鞆へ移り住み、まもなく十六味地黄保命酒の製造・販売を始めて大ヒットし、福山藩の御用名酒屋として販売独占権を得たとされる。明治期に廻船業を営んだ太田家が継承し、現在の名で呼ばれる。主屋を中心に保命酒蔵や各種土蔵など九棟が建ち並び、建築年代は18世紀中期から19世紀前期に及ぶ。瀬戸内の商家建築を伝える貴重な遺構として、1991年に国の重要文化財に指定された。幕末には三条実美ら尊王攘夷派の公卿が立ち寄ったと伝わり、別宅の朝宗亭とともに「鞆七卿落遺跡」として広島県の史跡(1940年指定)にもなっている。

🕰 時代江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)
🏛 成立・築造主屋は18世紀中期、ほか北保命酒蔵が天明8年(1788年)、西蔵が寛政元年(1789年)、東保命酒蔵が寛政7年(1795年)など18世紀中期〜19世紀前期。国の重要文化財指定は1991年(平成3年)5月31日。
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆842
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いろは丸展示館

近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期) / 📍鞆の浦

坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵を活かした資料館 鞆の浦のシンボル常夜灯(とうろどう)のすぐそばに建つ資料館。1867年(慶応3年)、坂本龍馬と海援隊が運航したいろは丸が紀州藩の明光丸と備後灘で衝突・沈没した「いろは丸事件」を伝える施設で、その談判が鞆の浦で行われた縁にちなむ。建物は江戸期に建てられた太い梁が印象的な土蔵で、地元では「大蔵」と呼ばれ、国の登録有形文化財とされる。館内には海底に沈むいろは丸を再現したジオラマ、引き揚げられた陶器や部品、調査風景の写真などを展示し、2階には龍馬が宿泊先で身を潜めたという「隠れ部屋」が再現され、龍馬の蝋人形も置かれている。1989年(平成元年)7月の開館。幕末史と鞆の港町文化を同時に味わえるスポットである。

🕰 時代近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)
🏛 成立・築造1989年(平成元年)7月開館。建物は江戸期築の土蔵「大蔵(浜蔵)」で、国の登録有形文化財とされる。展示題材のいろは丸事件は1867年(慶応3年)
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆843-1
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仙酔島

古代(地質)/近代(指定) / 📍鞆の浦

鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連なる瀬戸内海国立公園の名勝 仙酔島は鞆の浦の沖合に浮かぶ周囲約6キロの島で、住所は福山市鞆町後地。鞆港から市営渡船で約5分の距離にあり、観光客の往来はあるが定住者のいない無人島とされる。1925年(大正14年)に国の名勝「鞆公園」の一部として指定され、1934年(昭和9年)には日本で最初に指定された国立公園・瀬戸内海国立公園に含まれた。島は約9000万年前の大規模な火山活動による溶結凝灰岩を主体とし、南側海岸には青・赤・黄・白・黒の岩が200メートル以上連なる「五色岩」が見られ、地質的に貴重とされる。「仙人が酔うほど美しい島」が名の由来と言われる。江戸後期の学者・頼山陽が当地の景観を「山紫水明」と評したとも伝わる。

🕰 時代古代(地質)/近代(指定)
🏛 成立・築造1925年(大正14年)国名勝「鞆公園」に指定。1934年(昭和9年)日本初の国立公園・瀬戸内海国立公園に編入。島自体は約9000万年前の火山活動で形成されたとされる
📍 所在地広島県福山市鞆町後地
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吉備津神社(備後一宮)

江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる / 📍新市・北部

備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で「いっきゅうさん」と親しまれる古社 福山市新市町宮内に鎮座する備後国一宮で、地元では「一宮さん(いっきゅうさん)」と親しまれる。社伝では大同元年(806年)に吉備国の吉備津神社から勧請し創建されたと伝わるが、延喜式神名帳に記載がないことなどから実際の成立はより後とする説もある。主祭神は吉備国を治めたとされる大吉備津彦命。現在の本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が旧規模にならい造営したもので、桁行七間・梁間四間の入母屋造檜皮葺、国の重要文化財に指定されている。ほかにも木造狛犬や太刀などが重要文化財として伝えられ、複数の建造物が広島県・福山市指定文化財となっている。隣接する櫻山城跡なども史跡として知られ、備後の信仰と歴史を今に伝える。

🕰 時代江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる
🏛 成立・築造本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が造営、国の重要文化財。創建は大同元年(806年)と伝わるが諸説ある
📍 所在地広島県福山市新市町宮内400
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素盞嗚神社(備後一宮)

飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮 / 📍新市・北部

祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏のけんか神輿で名高い古社 福山市新市町戸手に鎮座する素盞嗚神社は、『延喜式神名帳』に載る式内社で備後国一宮を称し、旧社格は県社です。主祭神は素盞嗚尊で、稲田姫命・八王子を配祀します。社伝では天武天皇の治世、7世紀ごろ(679年か)の創建とされます。『釈日本紀』所収の「備後国風土記」逸文に伝わる蘇民将来説話の舞台「疫隈国社」と結びつけられ、茅の輪くぐりや祇園信仰・祇園祭発祥の地の一つとされています。神仏習合期には牛頭天王を祀り、遣唐使・吉備真備が734年に当社から播磨の広峯神社へ勧請したとも伝わります。毎年7月の例祭では、勇壮なけんか神輿(神輿合わせ)が行われることで知られます。

🕰 時代飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮
🏛 成立・築造社伝では天武天皇期の7世紀ごろ(679年か)創建とされる。『延喜式神名帳』記載の式内社で、旧県社
📍 所在地広島県福山市新市町大字戸手1-1

史跡図鑑では、各史跡の所在地や指定区分、見どころをまとめています。鞆の浦は町並み全体が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されており、ひとつひとつの史跡が点ではなく面としてつながっているのが大きな特徴です。図鑑で全体像をつかんだうえで、以下の本文で朝鮮通信使の歴史を深掘りしていきましょう。鞆の浦そのものの歩き方については、鞆の浦の街並みガイドもあわせてご覧ください。

朝鮮通信使とは何か|江戸時代の平和外交を担った使節団

鞆の浦の港と町並み
鞆の浦の港と町並み(画像:Wikimedia Commons / CC)

朝鮮通信使とは、朝鮮王朝(李氏朝鮮)の国王が、日本の将軍に対して派遣した外交使節団のことを指します。「通信」とは「信(よしみ)を通わす」、すなわち互いに信頼を通わせて誠実に交わるという意味であり、その名のとおり、両国の平和的な国交を象徴する存在でした。一般に「朝鮮通信使」と言うときは、江戸時代に来日した使節を指すことが多く、慶長12年(1607年)から文化8年(1811年)までの間に、合計12回にわたって来日したとされています。

国交回復から始まった通信使

16世紀末、豊臣秀吉による二度の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)によって、日本と朝鮮の関係は深刻に断絶していました。関ヶ原の戦いを経て天下を握った徳川家康は、対馬の宗氏を仲介役として朝鮮との国交回復を図ります。その努力が実り、慶長12年(1607年)に最初の使節が来日しました。当初の数回は、戦乱で連れ去られた朝鮮人を本国へ送り返すことなども目的に含まれており、「回答兼刷還使(かいとうけんさっかんし)」と呼ばれていたとされます。やがて関係が安定すると、名称も「通信使」へと改められ、将軍の代替わりを祝う慶賀の使節という性格が前面に出るようになりました。

将軍交代を祝う慶賀の使節

江戸時代の通信使は、多くの場合、新しい将軍が就任した際の祝賀を主たる名目として派遣されました。徳川幕府にとって、海外の国王から正式な祝賀の使節を迎えることは、将軍の権威を内外に示す重要な政治的行事でもありました。一方の朝鮮王朝にとっても、日本国内の情勢を把握し、再び戦乱が起こらないよう関係を安定させる意義があったとされます。こうして、通信使の来日は単なる儀礼にとどまらず、東アジアの平和を維持するための実質的な外交装置として機能していたと考えられています。

数百人規模の大使節団

朝鮮通信使の一行は、正使・副使・従事官という三人の高官(三使)を中心に編成されていました。これに加えて、儒学者や医師、画家、書家、音楽家、馬上才(馬術の名手)など、多彩な専門家が随行し、その総勢は500人前後、多いときには500人を超えることもあったと伝えられています。これだけの大人数が、漢城(現在のソウル)を出発し、釜山から船で対馬・壱岐を経て瀬戸内海を東進し、大坂から淀川をのぼって京都へ、さらに東海道を進んで江戸へと至る長大な旅をしました。往復には半年から1年近くを要することもあったとされ、まさに国家をあげての一大事業だったのです。

なぜ鞆の浦に立ち寄ったのか|潮待ちの港の地理

朝鮮通信使が瀬戸内海を進むうえで、鞆の浦は欠かせない寄港地のひとつでした。その理由は、鞆の浦が持つ特殊な地理的条件にあります。瀬戸内海では、東からと西からの潮流が、ちょうど鞆の浦の沖合で出会い、そしてここから再び東西へと分かれていきます。つまり鞆の浦は、潮の流れの「分岐点」にあたるのです。

潮の流れを待つ「潮待ち」の文化

動力を持たない帆船の時代、船は風と潮の力を頼りに航行していました。潮の流れに逆らって進むことは難しく、船乗りたちは潮が自分たちの進む方向へと変わるのを港で待ちました。これが「潮待ち」と呼ばれる航海の知恵です。鞆の浦は、東へ向かう船も西へ向かう船も、ここで有利な潮を待つことができる絶好の中継地でした。こうして鞆の浦には、潮待ちのために多くの船が集まり、港町としての賑わいが生まれていったのです。朝鮮通信使の大船団もまた、この潮待ちのために鞆の浦へ寄港したと考えられています。

天然の良港としての鞆の浦

鞆の浦は、入り江が湾曲し、沖合に仙酔島や弁天島などの島々が連なる、波の穏やかな天然の良港でした。江戸時代の港湾施設である常夜燈・雁木(がんぎ)・波止(はと)・船番所・焚場(たでば)のいわゆる「鞆の津の五要素」が今日まで比較的よく残っていることでも知られ、当時の港の機能をしのぶことができます。これだけ整った港であったからこそ、500人規模の通信使一行を安全に迎え入れることが可能だったのです。鞆の浦が朝鮮通信使の寄港地となった背景には、こうした地理と港湾の条件が重なっていました。

福山藩による手厚いもてなし

朝鮮通信使の接待は、寄港地ごとにその土地を治める藩が担当しました。鞆の浦は福山藩(備後福山藩)の領内にあり、藩は一行を迎えるために多大な労力と費用を投じたとされます。宿舎の準備、食事の提供、警護、そして文化交流の場の設営に至るまで、藩をあげての一大行事でした。とりわけ通信使を迎える迎賓館として用いられたのが、後に詳しく述べる福禅寺の客殿・対潮楼でした。福山藩の歴史や福山城との関わりについては、福山城ガイドもあわせてご覧ください。

古代からの港町・鞆の浦|通信使来航の前史

鞆の浦の町並み(保命酒屋の通り)
鞆の浦の町並み(保命酒屋の通り)(画像:Wikimedia Commons / CC)

朝鮮通信使が鞆の浦を寄港地に選んだ背景には、この港が古代から海上交通の要衝として栄えてきた長い歴史があります。通信使の時代に至るまでの鞆の浦の前史をたどると、なぜこの港が外交使節を迎えるにふさわしい場所であったのかが、いっそう深く理解できます。

万葉集にも詠まれた古代の鞆

鞆の浦の名は、古く奈良時代の歌集『万葉集』にも登場します。大伴旅人(おおとものたびと)が、亡き妻をしのびながら鞆の浦の磯のむろの木を詠んだとされる歌が伝わっており、当時すでにこの地が瀬戸内海航路の重要な寄港地として広く知られていたことをうかがわせます。潮の流れが東西から出会うこの港は、動力を持たない古代の船にとって、潮を待ち、風を待つための欠かせない中継地でした。鞆の浦が「潮待ちの港」として人々に親しまれてきた歴史は、千年以上の昔にまでさかのぼるのです。

中世の海上勢力と鞆の浦

時代が下って中世になると、鞆の浦は瀬戸内海の海上交通と政治の舞台としても重要性を増していきました。瀬戸内の制海権をめぐる勢力争いのなかで、鞆の浦は戦略的な拠点として注目されたとされます。室町幕府との関わりや、戦国期の動乱のなかでも、この港はその地理的な重要性ゆえにたびたび歴史の表舞台に登場しました。こうした中世の歩みのなかで培われた港湾機能と町の蓄積が、江戸時代に朝鮮通信使を迎えるための基盤となっていったのです。

江戸時代の繁栄へ

江戸時代に入り、西廻り航路が整備されると、鞆の浦は北前船をはじめとする廻船の寄港地として大いに栄えました。港には全国から船が集まり、保命酒などの名産品の取引でも賑わいました。こうした経済的な繁栄と、整った港湾施設、そして潮待ちの港という地理的条件が重なり合って、鞆の浦は朝鮮通信使という国家的な使節を迎えるにふさわしい港町となっていたのです。古代から連綿と続く港町の歴史の延長線上に、通信使来航という国際交流の一章が刻まれたことを、ぜひ心にとめておきたいものです。

福禅寺と対潮楼|通信使を迎えた迎賓館

朝鮮通信使と鞆の浦の歴史を語るうえで、最も重要な舞台が福禅寺の客殿・対潮楼です。福禅寺は、寺伝によれば平安時代の天暦年間(950年頃)に空也上人によって創建されたと伝えられる真言宗の寺院です。その本堂に隣接して建つ客殿が、対潮楼として知られる建物です。

元禄年間に建てられた客殿

福禅寺の客殿は、福山市の公的な説明によれば、元禄年間(1688年〜1703年頃)に建てられたと伝えられています。海に面した高台に建つこの客殿は、座敷の窓から瀬戸内海の島々を一望できる、絶好の眺望を備えていました。窓枠がまるで額縁のように景色を切り取り、対岸の仙酔島や弁天島が一幅の絵画のように見えることから、現在も多くの参拝者を魅了しています。朝鮮通信使が来航する際には、この客殿が一行をもてなす迎賓館として用いられました。

「日東第一形勝」と賞された眺望

福禅寺の客殿が歴史に名を刻んだのは、正徳元年(1711年)のことです。この年、6代将軍・徳川家宣の襲職を祝うために来日した朝鮮通信使の一行が鞆の浦に寄港し、客殿に滞在しました。このとき、従事官であった李邦彦(イ・バンオン)が、客殿からの眺めの素晴らしさに感銘を受け、「日東第一形勝」という言葉を書き残したと伝えられています。「日東」は日本を指し、「形勝」は地形の優れた景勝地を意味します。すなわち「日本で一番美しい景勝地」という最大級の賛辞でした。なお、この言葉を記した人物の役職については、自治体の観光案内などで「正使」と紹介される場合もありますが、より詳しい史料に基づく解説では「従事官」とされることが多いようです。いずれにせよ、1711年の正徳度の通信使一行による賞賛であった点は共通しています。

「対潮楼」という名の由来

「対潮楼」という名称そのものは、客殿が建てられた当初からのものではありませんでした。延享5年(1748年)、9代将軍・徳川家重の襲職を祝う通信使が来航した際、正使を務めた洪啓禧(ホン・ゲヒ)が、この客殿を「対潮楼」と名づけたと伝えられています。そして、その扁額の文字は、洪啓禧の子で軍官として随行していた洪景海(ホン・ギョンヘ)が書いたとされます。「潮(うしお)に対する楼」という名は、満ち引きする潮と向き合い、瀬戸内の海景を一望するこの建物の性格を見事に言い表しています。こうして、通信使たちの言葉によって、この客殿は「対潮楼」という美しい名を得たのです。福禅寺と対潮楼の詳しい見どころは、福禅寺 対潮楼ガイドでも紹介しています。

「日東第一形勝」と「対潮楼」という、いずれも朝鮮通信使の手になる言葉が、この一つの建物に重ねて刻まれていることは、たいへん象徴的です。正徳元年(1711年)に景観そのものが讃えられ、延享5年(1748年)にはその景観と向き合う建物に名が与えられました。海を越えてやって来た異国の使節たちが、この客殿に深い愛着と敬意を抱いていたことが、これらの言葉からありありと伝わってきます。建物の名前と評価のいずれもが他国の人々によって贈られたという例は、日本の歴史的建造物のなかでもきわめて珍しく、対潮楼の国際的な性格を際立たせています。

額縁のような窓が生む絶景

対潮楼の客殿の魅力は、なんといってもその座敷から望む眺望にあります。海に面した側の建具を開け放つと、長押(なげし)や柱、敷居が織りなす長方形の枠が、ちょうど一枚の絵を縁取る額縁のように瀬戸内の景色を切り取ります。対岸に浮かぶ仙酔島、すぐ近くに見える弁天島の朱い塔、そしてその奥に連なる島影。これらが座敷に座る人の視界に、計算され尽くした一幅の絵画のように収まるのです。朝の光、昼の輝き、夕暮れの茜色と、時間によって表情を変えるこの眺めは、何度訪れても飽きることがありません。300年余り前、朝鮮通信使の一行がこの座敷に通され、同じ景色を前にして感嘆の声をあげたであろう情景を思い描けば、対潮楼を訪れる楽しみはいっそう深まるでしょう。

対潮楼に残る文化交流の記録

福山城
福山城(画像:Wikimedia Commons / CC)

朝鮮通信使と日本との関わりは、単なる外交儀礼にとどまりませんでした。とりわけ対潮楼では、通信使に随行した儒学者や文人と、日本の知識人たちとの間で、漢詩や書をやり取りする文化交流が盛んに行われたと伝えられています。

漢詩と書を通じた交歓

当時の東アジアでは、漢字と漢文が国境を越えた共通の教養でした。言葉が通じなくとも、筆をとって漢詩を詠み交わせば、互いの学識や心情を伝え合うことができたのです。鞆の浦に滞在する通信使のもとには、福山藩の儒者をはじめ、各地の文人たちが訪れ、詩文の応酬を楽しんだとされます。対潮楼は、こうした筆談と詩の交歓が繰り広げられる、いわば国際的な文化サロンの役割を果たしていました。海を越えた知識人同士が、純粋な学問と芸術の喜びを分かち合った場であったと言えるでしょう。

数多く来鞆した通信使

福山市の記録によれば、朝鮮通信使は慶長12年(1607年)から宝暦14年(1764年)までの間に、11回にわたって鞆の浦に来航したことが確認されているとされます。一行が鞆に滞在するたびに、対潮楼では外交と文化の交流が積み重ねられていきました。江戸時代の長きにわたり、この小さな港町が東アジアの国際交流の最前線でありつづけたことは、特筆すべき歴史です。対潮楼には、こうした交流の証として、通信使が残した書や詩巻が今も大切に伝えられています。一度きりの来訪ではなく、半世紀以上の歳月のなかで繰り返し使節を迎えたという事実こそが、鞆の浦と朝鮮通信使の結びつきの深さを物語っています。世代を越えて受け継がれた交流の記憶が、この港町に確かな国際性を刻み込んだのです。

ユネスコ「世界の記憶」への登録

対潮楼に伝わる朝鮮通信使関係の史料は、その価値が国際的にも認められています。2017年(平成29年)10月31日、「朝鮮通信使に関する記録 ─ 17世紀から19世紀の日韓間の平和構築と文化交流の歴史 ─」が、ユネスコの「世界の記憶」(世界記憶遺産)に登録されました。これは、日本側のNPO法人朝鮮通信使縁地連絡協議会と韓国側の財団法人釜山文化財団が共同で申請したもので、両国の史料あわせて111件333点が登録対象となりました。このなかには、福禅寺対潮楼に所蔵される朝鮮通信使関係史料6点も含まれています。かつて鞆の浦で交わされた平和外交と文化交流の記録が、いまや人類共通の記憶として未来へ受け継がれることになったのです。

通信使の構成と役割|外交・学問・芸能を担った人々

朝鮮通信使は、単に国書を運ぶだけの使節ではありませんでした。一行には実にさまざまな専門家が含まれており、その構成を知ると、通信使が外交・学問・芸能のすべてにわたる総合的な文化使節であったことが見えてきます。

三使を中心とした序列

使節団の頂点に立つのが、正使・副使・従事官の三人、いわゆる「三使」です。正使は使節全体を統括する最高責任者であり、国王の国書を将軍に奉呈する重責を担いました。副使はその補佐役、従事官は一行の規律を取り締まり、旅程や記録を管理する役割を持っていたとされます。鞆の浦の対潮楼で「日東第一形勝」を記したと伝わる李邦彦は、正徳元年(1711年)の通信使においてこの従事官を務めた人物でした。三使はいずれも朝鮮王朝の優れた官僚・学者から選ばれ、その学識と人格が日本側の知識人にも深い感銘を与えたと伝えられています。

学者・医師・画家たちの随行

三使のもとには、製述官や書記といった文章のプロフェッショナルが随行しました。彼らは各地で日本の文人と漢詩を交わす文化交流の中心的な担い手でした。また、医師(良医)も同行しており、日本の医者と医学知識を交換したと伝えられています。さらに画員(画家)も随行し、求めに応じて絵を描き、日本の絵画にも影響を与えたとされます。こうした専門家たちが立ち寄る先々で、鞆の浦のような港町は、東アジア最先端の学問と芸術に触れる貴重な機会を得ていたのです。

人々を驚かせた馬上才と楽隊

通信使の行列には、馬上才(ばじょうさい)と呼ばれる馬術の名手や、楽器を奏でる楽隊も加わっていました。馬上で曲芸を披露する馬上才や、異国の音色を響かせる楽隊は、沿道の人々にとってまたとない見世物であり、通信使の来日は庶民にも大きな興奮をもたらしたと伝えられています。異国の衣装をまとった大行列が町を進む光景は、当時の日本人にとって、海の向こうの世界を実感する数少ない機会だったのです。鞆の浦の人々もまた、こうした異国の使節を迎えるたびに、外の世界の広さを感じ取っていたことでしょう。

通信使の旅路|釜山から江戸への道のり

朝鮮通信使が鞆の浦を通った背景をより深く理解するために、その長大な旅路全体を見ておきましょう。一行の旅は、海と陸をまたぐ壮大なものでした。

海路の難所をこえて

通信使は、まず漢城(ソウル)を陸路で発ち、朝鮮半島南端の釜山に至りました。釜山からは船に乗り換え、対馬・壱岐を経て、九州北部の藍島(相島)などを中継しながら瀬戸内海へと入っていきます。瀬戸内海では、上関・蒲刈・鞆の浦・牛窓・室津といった港々を、潮待ち・風待ちをしながら東へと進みました。瀬戸内海は穏やかな内海とはいえ、複雑な潮流と数多くの島々が航海者を悩ませる海域でもあり、各地の港が安全な中継地として重要な役割を担ったのです。鞆の浦の福禅寺、牛窓の本蓮寺、そして静岡の清見寺は、いずれも通信使を迎えた寺院として知られ、「朝鮮通信使遺跡」として国の史跡に指定されています。

大坂から江戸へ

瀬戸内海を抜けた一行は大坂に上陸し、ここからは川船に乗り換えて淀川をのぼり、京都へ向かいました。京都からは東海道を陸路で東進し、名古屋・浜松・三島・小田原などを経て、ついに江戸へと到達します。江戸では将軍に謁見し、国王の国書を奉呈するという外交の中心的な儀式が執り行われました。この往復の旅は、行く先々で沿道の人々の関心を集め、通信使の異国情緒あふれる行列を一目見ようと、各地で多くの見物人が詰めかけたと伝えられています。通信使の来日は、庶民にとっても異文化に触れる貴重な機会だったのです。

通信使がもたらした文化交流の広がり

朝鮮通信使の来日は、外交の枠を超えて、日本の文化に幅広い影響を残しました。通信使と日本側の人々との交流は、鞆の浦のような寄港地だけでなく、日本各地でさまざまな波及効果を生みました。

漢詩文と学問への影響

通信使に随行した朝鮮の儒学者たちは、当時の東アジアにおける学問の最先端を体現する存在でした。彼らとの筆談や詩のやり取りを通じて、日本の儒学者や文人は刺激を受け、自らの学識を磨いたとされます。通信使との交流のなかで詠まれた漢詩は、後に詩集としてまとめられることもあり、両国の文人の交わりの証として今に伝わっています。鞆の浦の対潮楼でも、こうした詩文の応酬が行われ、海を越えた知の交流の場となっていたのです。学問を共通の言語として国境を越えた交わりは、当時としては実に先進的な国際交流であったと言えるでしょう。

庶民文化への影響

通信使の影響は、知識人だけでなく庶民の文化にも及んだとされます。各地の祭礼のなかには、通信使の行列を模したとされる「唐人行列」や「唐子踊り」などが今も伝わっている地域があり、異国の使節の華やかな行列が人々の記憶に強く刻まれたことをうかがわせます。瀬戸内沿岸の港町でも、通信使の来航は地域の一大イベントであり、その記憶がさまざまな形で受け継がれてきました。通信使がもたらした異文化への憧れと関心は、江戸時代の人々の世界観を確かに広げていたのです。

現代に受け継がれる交流

朝鮮通信使ゆかりの地は、現在も日韓の友好交流の象徴として大切にされています。通信使が立ち寄った各地の自治体や民間団体は、その歴史を顕彰し、相互の理解を深める活動を続けています。前述のとおり、2017年には「朝鮮通信使に関する記録」がユネスコ「世界の記憶」に登録され、その平和構築と文化交流の意義が国際的にも認められました。鞆の浦の対潮楼に残る史料も、こうした現代の交流を支える貴重な財産です。過去の歴史が、未来へ向けた友好の架け橋として生きつづけているのです。

幕末の鞆の浦|いろは丸事件の舞台として

朝鮮通信使の時代から下って幕末になると、対潮楼は再び歴史の表舞台に登場します。慶応3年(1867年)に起きた「いろは丸事件」の交渉の舞台となったのです。朝鮮通信使と直接の関わりはありませんが、対潮楼という建物が歩んだ歴史を知るうえで欠かせない出来事です。

坂本龍馬と紀州藩の談判

慶応3年(1867年)4月、坂本龍馬が率いる海援隊が運用していた蒸気船「いろは丸」が、瀬戸内海の航行中に紀州藩(和歌山藩)の船「明光丸」と衝突し、鞆の浦の沖で沈没しました。この賠償をめぐって、龍馬ら海援隊と紀州藩との間で交渉が行われ、その談判の場のひとつとなったのが対潮楼であったと伝えられています。龍馬は、当時日本に伝わったばかりの国際法である「万国公法」を持ち出して紀州藩側の過失を追及したとされ、この事件は日本における海難をめぐる損害賠償交渉の先駆けとして知られています。鞆の浦で外交と交渉の舞台となった対潮楼の歴史は、こうして幕末にまで続いていたのです。

いろは丸事件を今に伝える資料館

このいろは丸事件の経緯や、引き揚げられた遺物などは、鞆の浦にある「いろは丸展示館」で詳しく知ることができます。江戸時代の蔵を活用した展示館では、事件の全貌や坂本龍馬と鞆の浦の関わりを学ぶことができ、対潮楼とあわせて訪れたいスポットです。朝鮮通信使の外交史から幕末の動乱まで、鞆の浦が日本史のさまざまな場面で重要な役割を果たしてきたことを実感できるでしょう。詳しくはいろは丸展示館ガイドをご覧ください。

瀬戸内海の港々と通信使|鞆の浦の位置づけ

朝鮮通信使は、釜山を出てから瀬戸内海を東へ進むなかで、いくつもの港に寄港しました。それらの港々のなかで、鞆の浦がどのような位置を占めていたのかを見ておくと、この港町の歴史的な重要性がより立体的に理解できます。

瀬戸内海の主要な寄港地

通信使が瀬戸内海で寄港した主な港としては、長州(山口県)の上関、安芸(広島県)の蒲刈(下蒲刈)、備後(広島県)の鞆の浦、備前(岡山県)の牛窓、播磨(兵庫県)の室津などが知られています。これらの港はいずれも潮待ち・風待ちの要衝であり、それぞれの土地を治める藩が一行を手厚くもてなしました。瀬戸内海の航路は、こうした港々を結ぶことで成り立っており、各港は単なる通過点ではなく、外交と文化交流が花開く舞台でもあったのです。なかでも鞆の浦は、瀬戸内海のほぼ中央に位置し、東西の潮が出会う特別な場所として、ひときわ重要な寄港地でした。

通信使を迎えた三つの寺院

瀬戸内海から東海道にかけて、通信使を迎えた寺院のうち、鞆の福禅寺・牛窓の本蓮寺・興津(静岡市清水区)の清見寺の三か所は、平成6年(1994年)10月に「朝鮮通信使遺跡」としてまとめて国の史跡に指定されています。これは、これらの寺院が通信使の宿所や交流の場として共通の歴史的価値を持つことが評価されたものです。鞆の福禅寺がこの三寺院のひとつに数えられていることは、対潮楼が通信使の歴史において全国有数の重要性を持つことを示しています。瀬戸内の小さな港町の寺が、東アジア外交史の貴重な証人として、国の史跡に名を連ねているのです。

鞆の浦ならではの眺望

数ある寄港地のなかでも、鞆の浦の対潮楼が「日東第一形勝」と賞されたことは、この地の眺望がとりわけ優れていたことを物語ります。対潮楼の客殿から見渡す海は、対岸に仙酔島や弁天島が浮かび、その背後に瀬戸内の島々が連なる、まさに一幅の絵巻のような景観です。長い旅路に疲れた使節たちが、この眺めに心を癒やされ、思わず最大級の賛辞を残したのも無理からぬことでしょう。鞆の浦は、地理的な要衝であると同時に、その美しさによっても通信使の心に深く刻まれた港だったのです。

鞆の浦に残る歴史的な建造物

朝鮮通信使の時代の面影を、鞆の浦の町並みは今もよく伝えています。対潮楼だけでなく、周辺には江戸時代の港町の暮らしを物語る建造物が数多く残されています。

太田家住宅

鞆の浦を代表する歴史的建造物のひとつが、国の重要文化財に指定されている太田家住宅です。江戸時代に「保命酒(ほうめいしゅ)」と呼ばれる薬味酒の醸造で栄えた商家の屋敷で、主屋や保命酒の醸造蔵などが連なる大規模な町家建築群です。保命酒は鞆の浦の名産として知られ、朝鮮通信使にも振る舞われたという話も伝わります。重厚な町家のたたずまいは、潮待ちの港として繁栄した鞆の浦の経済力をしのばせます。詳しくは太田家住宅ガイドをご覧ください。

常夜燈と雁木

鞆の浦のシンボルとして親しまれているのが、港に立つ常夜燈です。船の出入りを照らす灯台の役割を果たした常夜燈は、江戸時代後期に建てられたもので、海上の高さおよそ5.5メートルという大きさを誇り、現存する江戸時代の常夜燈としては国内有数の規模とされます。その足元には、潮の干満に応じて荷の積み下ろしができるよう階段状に築かれた雁木が広がります。これらの港湾施設は、潮待ちの港・鞆の浦の機能を象徴する貴重な遺構であり、町並みとともに往時の賑わいを今に伝えています。

町並み全体が伝える歴史

鞆の浦は、その歴史的な町並みが評価され、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。狭い路地に町家が軒を連ね、港の周りに歴史的建造物が点在する景観は、まるで時代がそのまま止まっているかのようです。朝鮮通信使が歩いた当時の雰囲気を色濃く残すこの町並みを歩けば、外交使節を迎えた港町の誇りと活気を、肌で感じ取ることができるでしょう。鞆の浦全体の歴史的背景については、福山の歴史 完全ガイドもあわせてご参照ください。

関連年表|朝鮮通信使と鞆の浦のあゆみ

ここで、朝鮮通信使と鞆の浦に関わる主な出来事を年表で整理しておきましょう。年代や経緯には諸説ある事項も含まれますので、おおまかな流れをつかむための目安としてご覧ください。

年(和暦・西暦) おもな出来事
天暦年間頃(950年頃) 福禅寺が空也上人により創建されたと伝わる
慶長12年(1607年) 江戸時代最初の朝鮮通信使が来日。以後の通信使来航が始まる
元禄年間(1688〜1703年頃) 福禅寺の客殿(後の対潮楼)が建てられたと伝わる
正徳元年(1711年) 通信使一行が鞆に寄港。従事官・李邦彦が「日東第一形勝」と賞したと伝わる
延享5年(1748年) 正使・洪啓禧が客殿を「対潮楼」と命名。扁額は洪景海の書とされる
宝暦14年(1764年) この年までに通信使が計11回、鞆に来航したと確認される
文化8年(1811年) 江戸時代最後(12回目)の朝鮮通信使。対馬での応接にとどまる
慶応3年(1867年) いろは丸事件。対潮楼が賠償交渉の舞台のひとつとなる
平成6年(1994年) 「朝鮮通信使遺跡 鞆福禅寺境内」が国の史跡に指定される
平成29年(2017年) 「朝鮮通信使に関する記録」がユネスコ「世界の記憶」に登録

この年表からも分かるように、鞆の浦と朝鮮通信使の関わりは、江戸時代の約200年にわたって続きました。さらに福禅寺・対潮楼という建物に注目すれば、その歴史は平安時代の創建から幕末のいろは丸事件、そして現代のユネスコ登録まで、実に千年以上にわたって連なっているのです。

朝鮮通信使ゆかりの地をめぐるモデルコース

朝鮮通信使と鞆の浦の歴史を体感したい方のために、半日から一日で回れるモデルコースをご紹介します。鞆の浦はコンパクトな町なので、徒歩でゆっくりめぐるのがおすすめです。

午前|対潮楼で「日東第一形勝」の眺めを

まずは本記事の主役、福禅寺の対潮楼を訪ねましょう。客殿の座敷に座り、額縁のような窓越しに仙酔島や弁天島を望めば、かつて朝鮮通信使が「日東第一形勝」と賞した眺めをそのまま味わうことができます。朝の柔らかな光のなかで眺める瀬戸内の海景は格別です。対潮楼に伝わる朝鮮通信使の歴史を学んだうえで景色を眺めると、その感慨もひとしおでしょう。詳細は福禅寺 対潮楼ガイドでご確認ください。

昼|港町の町並みと名産を楽しむ

対潮楼を後にしたら、港のシンボルである常夜燈や雁木を眺めながら、鞆の浦の町並みを散策しましょう。途中、太田家住宅に立ち寄り、保命酒づくりで栄えた商家の暮らしに思いをはせるのもおすすめです。鞆の浦には保命酒を扱う店や、瀬戸内の魚介を味わえる食事処もあり、港町ならではの味覚を楽しめます。狭い路地に残る歴史的な町並みを歩けば、潮待ちの港の賑わいが今もそこに息づいているのを感じられるはずです。

午後|いろは丸の歴史と海の景色を

午後は、いろは丸展示館で坂本龍馬と鞆の浦の関わりを学びましょう。朝鮮通信使の外交史とはまた違った、幕末の動乱のなかの鞆の浦を知ることができます。時間に余裕があれば、港から渡船で仙酔島へ渡るのもよいでしょう。対潮楼から眺めた島に実際に上陸すれば、瀬戸内の自然をより身近に感じられます。一日の締めくくりに、夕暮れの港でライトアップされた常夜燈を眺めれば、鞆の浦の旅の思い出はいっそう深いものになるでしょう。鞆の浦の歩き方の詳細は鞆の浦の街並みガイドをご覧ください。

よくある質問(FAQ)

Q朝鮮通信使とは何ですか。
A

朝鮮王朝(李氏朝鮮)の国王が日本の将軍に対して派遣した外交使節団です。「信(よしみ)を通わす」という名のとおり、両国の平和的な国交を象徴する存在でした。一般には、江戸時代に来日した使節を指すことが多いです。

Q朝鮮通信使は何回来日したのですか。
A

江戸時代には、慶長12年(1607年)から文化8年(1811年)までの間に、合計12回来日したとされています。なお最後の1811年の使節は、江戸まで行かず対馬での応接にとどまりました。

Qなぜ鞆の浦に立ち寄ったのですか。
A

鞆の浦は、瀬戸内海の潮流が東西から出会い、再び分かれる「潮待ちの港」でした。帆船時代には有利な潮を待つ中継地として重要で、波の穏やかな天然の良港でもあったため、大規模な通信使一行の寄港地となりました。

Q「日東第一形勝」とはどういう意味ですか。
A

「日東」は日本を、「形勝」は地形の優れた景勝地を意味し、「日本で一番美しい景勝地」という最大級の賛辞です。正徳元年(1711年)に通信使一行が福禅寺の客殿からの眺めを賞して書き残したと伝えられています。

Q「日東第一形勝」は誰が書いたのですか。
A

正徳元年(1711年)の通信使一行のうち、従事官の李邦彦(イ・バンオン)が書き残したと伝えられています。なお自治体の観光案内などでは「正使」と紹介される場合もありますが、より詳しい史料では「従事官」とされることが多いようです。

Q「対潮楼」という名前はいつ付けられたのですか。
A

延享5年(1748年)に来航した通信使の正使・洪啓禧(ホン・ゲヒ)が、福禅寺の客殿を「対潮楼」と名づけたと伝えられています。扁額の文字は、洪啓禧の子で随行していた洪景海(ホン・ギョンヘ)が書いたとされます。

Q福禅寺はいつ建てられたのですか。
A

寺伝によれば、平安時代の天暦年間(950年頃)に空也上人によって創建されたと伝えられています。客殿(対潮楼)は、福山市の説明によると元禄年間(1688〜1703年頃)に建てられたと伝わります。

Q通信使は鞆の浦に何回来たのですか。
A

福山市の記録によれば、慶長12年(1607年)から宝暦14年(1764年)までの間に、11回にわたって鞆の浦に来航したことが確認されているとされます。

Q対潮楼の史料はユネスコに登録されているのですか。
A

はい。2017年(平成29年)10月31日、「朝鮮通信使に関する記録」がユネスコ「世界の記憶」に登録されました。日韓の民間団体が共同申請したもので、対潮楼に所蔵される朝鮮通信使関係史料6点も登録対象に含まれています。

Qいろは丸事件と対潮楼の関係は何ですか。
A

慶応3年(1867年)に起きたいろは丸事件の際、坂本龍馬ら海援隊と紀州藩との賠償交渉の舞台のひとつが対潮楼であったと伝えられています。朝鮮通信使の時代から幕末まで、対潮楼が外交・交渉の場でありつづけたことを物語ります。

Q対潮楼は見学できますか。
A

福禅寺・対潮楼は拝観料を納めて見学することができます。拝観時間や料金は時期により変わることがあるため、訪問前に各施設の公式情報でご確認ください。鞆の浦のバス停「鞆港」から徒歩圏内に位置しています。

Q「朝鮮通信使遺跡」とは何ですか。
A

朝鮮通信使を迎えた寺院などのうち、鞆の福禅寺境内・牛窓の本蓮寺境内・興津の清見寺境内が、平成6年(1994年)に「朝鮮通信使遺跡」として国の史跡に指定されています。通信使の足跡を今に伝える貴重な史跡です。

Q鞆の浦には対潮楼のほかにどんな見どころがありますか。
A

国の重要文化財である太田家住宅、港のシンボルである常夜燈や雁木、幕末を学べるいろは丸展示館などがあります。町並み全体が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されており、歴史散策にうってつけの町です。狭い路地や港の風景そのものが、潮待ちの港として栄えた時代の空気を今に伝えており、町を歩くだけでも江戸時代の鞆の浦を追体験できます。

まとめ|瀬戸内が結んだ平和外交の記憶

朝鮮通信使は、江戸時代の約200年にわたって、日本と朝鮮王朝の平和的な交わりを支えた外交使節でした。慶長12年(1607年)から文化8年(1811年)までの12回の来日のなかで、瀬戸内海の潮待ちの港・鞆の浦は、繰り返し一行を迎える重要な寄港地となりました。とりわけ福禅寺の客殿・対潮楼は、正徳元年(1711年)に「日東第一形勝」と賞され、延享5年(1748年)に「対潮楼」と名づけられた、外交と文化交流の象徴的な舞台です。

対潮楼の窓から望む仙酔島や弁天島の眺めは、300年前に異国の使節が感嘆したそのままの姿を今に伝えています。そしてその史料は、2017年にユネスコ「世界の記憶」に登録され、人類共通の宝として未来へ受け継がれることになりました。さらに対潮楼は、幕末のいろは丸事件の舞台ともなり、外交と交渉の場としての役割を時代を越えて担いつづけてきました。鞆の浦を訪れ、対潮楼の座敷に座って瀬戸内の海を眺めるとき、私たちは海を越えて信頼を通わせようとした人々の願いと、平和外交の記憶に静かに触れることができるのです。戦乱の傷を乗り越え、誠実な交わりを築こうとした両国の人々の営みは、国境を越えた友好がいかにして可能になるのかを、今を生きる私たちに静かに問いかけています。鞆の浦の歴史をさらに深く知りたい方は、福山の歴史 完全ガイドもあわせてご覧ください。

出典・ご注意

本記事は、福山市ホームページ(福禅寺対潮楼・朝鮮通信使遺跡鞆福禅寺境内の各案内)、文化遺産オンライン(文化庁)、文部科学省・各自治体のユネスコ「世界の記憶」関連資料、および公開された百科事典・郷土資料などの公的・信頼できる情報を参照して作成しました。「日東第一形勝」を記した人物の役職(従事官か正使か)など、史料や紹介媒体によって記述が異なる事項については、その旨を本文中に明記しています。年号や人物名の表記は、できるかぎり公的機関の記載に準拠しました。

※年代・経緯には諸説ある事項を含みます。詳細は各施設の公式情報や郷土資料でご確認ください。

最終更新: 2026年6月10日

史跡情報は福山NOTE 史跡図鑑(fn_history)より。