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🏯 歴史

国宝・伏見櫓と筋鉄御門|伏見城から移された福山城の至宝

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国宝・伏見櫓と筋鉄御門|伏見城から移された福山城の至宝

福山城本丸の南西、二の丸から本丸へと続く石段を登りきった先に、ひときわ古色を帯びた三層の櫓が立っています。これが国の重要文化財「福山城伏見櫓」です。そしてその足元、本丸の正門にあたる位置に、鉄の筋金で固められた重厚な門が構えます。こちらも重要文化財の「福山城筋鉄御門(すじがねごもん)」です。

この二つの建造物は、1945年(昭和20年)8月8日の福山大空襲によって天守をはじめとする多くの建物が焼失したなか、奇跡的に戦災を免れて今日まで残りました。とりわけ伏見櫓は、京都の伏見城から移築されたことが部材の刻銘や古文書によって裏付けられている、わが国でほぼ唯一の確かな伏見城の遺構として、城郭研究のうえでもきわめて価値が高いとされます。築城から400年以上を経てなお当時の姿をとどめるこれらの建造物は、まさに「福山城の至宝」と呼ぶにふさわしい存在です。

本稿では、伏見櫓と筋鉄御門の歴史、伏見城からの移築をめぐる経緯、その建築としての見どころ、そして現在福山市が進める「国宝化」への取り組みまでを、自治体・博物館・公的機関の情報に基づいて丁寧にたどっていきます。なお、年代や経緯には諸説ある事項も含まれるため、本文中ではそのつど「とされる」「伝わる」と明記し、確証のある事実と伝承とを区別して記述します。福山城全体の歴史や周辺の史跡については、福山の歴史まるわかり通史ガイドもあわせてご覧ください。

史跡図鑑:福山の歴史を彩る史跡たち

伏見櫓や筋鉄御門をはじめ、福山には先人たちが残した史跡が数多く点在しています。まずは福山NOTEの「史跡図鑑(fn_history)」から、市内・備後地域の主要な史跡を一覧・比較・詳細の3つの視点で見渡してみましょう。本稿で取り上げる福山城関連の史跡はもちろん、鞆の浦や草戸千軒など、福山の歴史を立体的に理解するための入り口としてご活用ください。

福山城 伏見櫓 📖江戸時代(元和年間)📍 福山駅前(福山市街)福山城 📖近世(江戸)📍 丸之内福山城博物館 📖近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)📍 福山駅前(福山市街)草戸千軒町遺跡 📖中世📍 草戸町明王院 📖中世📍 草戸町鞆の津の町並み(重伝建) 📖江戸時代(中世〜近代の建造物群)📍 鞆町鞆の浦の常夜燈と港湾施設 📖江戸時代📍 鞆町福山市鞆の浦歴史民俗資料館 📖近代(昭和)📍 鞆町鞆の浦 📖中世〜近世📍 鞆町福禅寺 対潮楼 📖近世📍 鞆町太田家住宅 📖江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)📍 鞆町いろは丸展示館 📖近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)📍 鞆町仙酔島古代(地質)/近代(指定)📍 鞆町廉塾(菅茶山旧宅) 📖近世📍 神辺町神辺城跡 📖中世📍 神辺町福山八幡宮 📖近世📍 北吉津町沼名前神社 📖近世📍 鞆町阿伏兎観音(磐台寺観音堂)近世📍 沼隈町吉備津神社(備後一宮)江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる📍 新市町素盞嗚神社(備後一宮) 📖飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮📍 新市町
史跡時代概要📍 エリア詳細
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福山城 伏見櫓

江戸時代(元和年間) / 📍福山駅前(福山市街)

伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最古級の三層入母屋造の現存櫓。 福山城伏見櫓は、元和8年(1622年)の福山城築城に際し、城主水野勝成が将軍徳川秀忠から下賜を受け、京都の伏見城から移築させたと伝えられる櫓である。長らく伝承とされていたが、昭和29年(1954年)の解体修理の際、梁の陰刻に「松ノ丸ノ東やく(ら)」の文字が発見され、伏見城からの移築を裏付ける確かな遺構であることが明らかになった。構造は三層入母屋造で、初層と二層を同じ柱割とし、その上にやや小さい三層を望楼状に載せる。桁行八間・梁間三間、本瓦葺の規模をもつ。慶長期の城郭建築の様式を残す初期の典型として価値が高く、昭和8年(1933年)1月23日に国の重要文化財に指定された。福山城内に現存し、特別公開が行われることもある。

🕰 時代江戸時代(元和年間)
🏛 成立・築造元和8年(1622年)水野勝成の福山城築城時に伏見城から移築。国指定重要文化財(昭和8年=1933年1月23日指定)
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目(福山城内)
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福山城

近世(江戸) / 📍丸之内

備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御門は京都伏見城からの移築と伝わる。2022年に築城400年を迎えた。

🕰 時代近世(江戸)
🏛 成立・築造1622年(元和8)・水野勝成
👤 関連水野勝成・阿部正弘
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目8
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福山城博物館

近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期) / 📍福山駅前(福山市街)

水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩の歴史を体験型展示で伝える博物館 福山城博物館は、JR福山駅のすぐ北に建つ福山城天守内に置かれた市立の歴史資料館です。福山城は1622年(元和8年)、徳川譜代の大名・水野勝成が西国鎮衛の拠点として築いた近世城郭で、天守は1931年に国宝に指定されました。しかし1945年8月の福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリート造で外観が復興され、その内部が博物館として公開されました。2022年には築城400年に合わせて大規模リニューアルされ、北面の鉄板張り(黒い装い)の再現や、一番槍レース・火縄銃などの体験型コンテンツ、デジタル映像を用いた展示が整えられ、福山城と福山藩の歴史を学べる施設となっています。城内に現存する伏見櫓と筋鉄御門は、京都・伏見城からの移築と伝えられ、国の重要文化財に指定されています。常設展は有料、月曜休館とされます。

🕰 時代近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期)
🏛 成立・築造福山城は1622年(元和8年)に初代福山藩主・水野勝成が築城。天守は1945年福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリートで外観復興、内部を博物館として開館。2022年に大規模リニューアル
📍 所在地広島県福山市丸之内一丁目8番
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鞆の津の町並み(重伝建)

江戸時代(中世〜近代の建造物群) / 📍鞆の浦

潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と町家が一体で残る重伝建地区 鞆の浦は瀬戸内海の中央に位置し、古来「潮待ちの港」として栄え、万葉集にも詠まれた歴史を持つとされる。江戸時代には北前船など廻船の寄港地として繁栄し、朝鮮通信使の寄港地ともなった。2017年(平成29年)11月28日、「福山市鞆町伝統的建造物群保存地区」として約8.6ヘクタールが国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。範囲は鞆字西町の全域を中心に、石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地の一部に及ぶ。中世から江戸期に整えられた地割の上に、江戸時代から昭和30年代までの町家や寺社、石垣などが一体的に残る近世港町の景観が評価された。常夜燈・雁木・波止・焚場・船番所の5つの港湾施設がほぼ完全に残る点は全国でも稀とされる。広島県内では3例目の選定で、2018年には日本遺産にも認定された。

🕰 時代江戸時代(中世〜近代の建造物群)
🏛 成立・築造2017年(平成29年)11月28日に国の重要伝統的建造物群保存地区へ選定。地割は中世〜江戸期、建造物は江戸時代〜昭和30年代まで。
📍 所在地広島県福山市鞆町(鞆字西町全域ほか、字石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地字古城跡・草谷の各一部)
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鞆の浦の常夜燈と港湾施設

江戸時代 / 📍鞆の浦

江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯一の近世港、鞆港。 鞆の浦の鞆港には、常夜燈・雁木・波止・焚場(たでば)・船番所という江戸時代の港湾施設5点がほぼ揃って現存し、これらが一体で残るのは全国でも鞆港のみとされる。シンボルの常夜燈は安政6年(1859)の刻銘をもつ石造灯台で、海中の基礎石から宝珠の頂までは約12.1mに及び、江戸期の石造常夜燈としては国内最大級とされる。雁木は潮の干満に応じて船を着けられる階段状の船着き場で、半円形の港内に連続して巡らされている。波止は花崗岩を積んだ全長約146mの防波堤で、江戸後期に築かれ明治期に修築された。鞆港を含む沿岸と沖の島々一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定され、鞆町西町を中心とする区域は2017年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。日本遺産「瀬戸の夕凪が包む 国内随一の近世港町」の構成要素でもある。

🕰 時代江戸時代
🏛 成立・築造常夜燈は安政6年(1859)造立とされる。雁木・波止・焚場・船番所は江戸後期築造、波止は明治期に修築。鞆港一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定。
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆
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福山市鞆の浦歴史民俗資料館

近代(昭和) / 📍鞆の浦

鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬戸内の歴史・民俗を伝える市立資料館 福山市鞆の浦歴史民俗資料館は、広島県福山市鞆町後地に建つ市立の博物館で、「潮待ちの館」の愛称で親しまれる。1977年(昭和52年)からの地元有志による調査・収集活動を背景に、福山市制70周年記念事業として1988年(昭和63年)に開館した。立地は、福島正則が築いたとされる鞆城跡(福山市指定史跡)の高台で、瀬戸内海を見渡せる。万葉の時代から潮待ち・風待ちの港として栄えた鞆の浦を中心に、古代から近世にいたる歴史資料を展示。鯛網漁のジオラマや錨を製造した鍛冶場、朝鮮通信使関連資料、保命酒に関する資料に加え、お手火神事・お弓神事といった地域の民俗文化財も常設展示する。鞆の歴史と暮らしを総合的に学べる拠点とされる。

🕰 時代近代(昭和)
🏛 成立・築造1988年(昭和63年)開館。福山市制70周年記念事業として建設。建つ鞆城跡は福島正則が築いたとされる(福山市指定史跡)
📍 所在地広島県福山市鞆町後地536-1
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太田家住宅

江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期) / 📍鞆の浦

鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で、国の重要文化財 鞆の浦を代表する歴史的建造物で、薬用酒「保命酒」の醸造で財を成した商家の旧宅。もとは大坂の漢方医を出自とする中村家の屋敷で、明暦元年(1655年)に鞆へ移り住み、まもなく十六味地黄保命酒の製造・販売を始めて大ヒットし、福山藩の御用名酒屋として販売独占権を得たとされる。明治期に廻船業を営んだ太田家が継承し、現在の名で呼ばれる。主屋を中心に保命酒蔵や各種土蔵など九棟が建ち並び、建築年代は18世紀中期から19世紀前期に及ぶ。瀬戸内の商家建築を伝える貴重な遺構として、1991年に国の重要文化財に指定された。幕末には三条実美ら尊王攘夷派の公卿が立ち寄ったと伝わり、別宅の朝宗亭とともに「鞆七卿落遺跡」として広島県の史跡(1940年指定)にもなっている。

🕰 時代江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期)
🏛 成立・築造主屋は18世紀中期、ほか北保命酒蔵が天明8年(1788年)、西蔵が寛政元年(1789年)、東保命酒蔵が寛政7年(1795年)など18世紀中期〜19世紀前期。国の重要文化財指定は1991年(平成3年)5月31日。
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆842
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いろは丸展示館

近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期) / 📍鞆の浦

坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵を活かした資料館 鞆の浦のシンボル常夜灯(とうろどう)のすぐそばに建つ資料館。1867年(慶応3年)、坂本龍馬と海援隊が運航したいろは丸が紀州藩の明光丸と備後灘で衝突・沈没した「いろは丸事件」を伝える施設で、その談判が鞆の浦で行われた縁にちなむ。建物は江戸期に建てられた太い梁が印象的な土蔵で、地元では「大蔵」と呼ばれ、国の登録有形文化財とされる。館内には海底に沈むいろは丸を再現したジオラマ、引き揚げられた陶器や部品、調査風景の写真などを展示し、2階には龍馬が宿泊先で身を潜めたという「隠れ部屋」が再現され、龍馬の蝋人形も置かれている。1989年(平成元年)7月の開館。幕末史と鞆の港町文化を同時に味わえるスポットである。

🕰 時代近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期)
🏛 成立・築造1989年(平成元年)7月開館。建物は江戸期築の土蔵「大蔵(浜蔵)」で、国の登録有形文化財とされる。展示題材のいろは丸事件は1867年(慶応3年)
📍 所在地広島県福山市鞆町鞆843-1
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仙酔島

古代(地質)/近代(指定) / 📍鞆の浦

鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連なる瀬戸内海国立公園の名勝 仙酔島は鞆の浦の沖合に浮かぶ周囲約6キロの島で、住所は福山市鞆町後地。鞆港から市営渡船で約5分の距離にあり、観光客の往来はあるが定住者のいない無人島とされる。1925年(大正14年)に国の名勝「鞆公園」の一部として指定され、1934年(昭和9年)には日本で最初に指定された国立公園・瀬戸内海国立公園に含まれた。島は約9000万年前の大規模な火山活動による溶結凝灰岩を主体とし、南側海岸には青・赤・黄・白・黒の岩が200メートル以上連なる「五色岩」が見られ、地質的に貴重とされる。「仙人が酔うほど美しい島」が名の由来と言われる。江戸後期の学者・頼山陽が当地の景観を「山紫水明」と評したとも伝わる。

🕰 時代古代(地質)/近代(指定)
🏛 成立・築造1925年(大正14年)国名勝「鞆公園」に指定。1934年(昭和9年)日本初の国立公園・瀬戸内海国立公園に編入。島自体は約9000万年前の火山活動で形成されたとされる
📍 所在地広島県福山市鞆町後地
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吉備津神社(備後一宮)

江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる / 📍新市・北部

備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で「いっきゅうさん」と親しまれる古社 福山市新市町宮内に鎮座する備後国一宮で、地元では「一宮さん(いっきゅうさん)」と親しまれる。社伝では大同元年(806年)に吉備国の吉備津神社から勧請し創建されたと伝わるが、延喜式神名帳に記載がないことなどから実際の成立はより後とする説もある。主祭神は吉備国を治めたとされる大吉備津彦命。現在の本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が旧規模にならい造営したもので、桁行七間・梁間四間の入母屋造檜皮葺、国の重要文化財に指定されている。ほかにも木造狛犬や太刀などが重要文化財として伝えられ、複数の建造物が広島県・福山市指定文化財となっている。隣接する櫻山城跡なども史跡として知られ、備後の信仰と歴史を今に伝える。

🕰 時代江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる
🏛 成立・築造本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が造営、国の重要文化財。創建は大同元年(806年)と伝わるが諸説ある
📍 所在地広島県福山市新市町宮内400
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素盞嗚神社(備後一宮)

飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮 / 📍新市・北部

祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏のけんか神輿で名高い古社 福山市新市町戸手に鎮座する素盞嗚神社は、『延喜式神名帳』に載る式内社で備後国一宮を称し、旧社格は県社です。主祭神は素盞嗚尊で、稲田姫命・八王子を配祀します。社伝では天武天皇の治世、7世紀ごろ(679年か)の創建とされます。『釈日本紀』所収の「備後国風土記」逸文に伝わる蘇民将来説話の舞台「疫隈国社」と結びつけられ、茅の輪くぐりや祇園信仰・祇園祭発祥の地の一つとされています。神仏習合期には牛頭天王を祀り、遣唐使・吉備真備が734年に当社から播磨の広峯神社へ勧請したとも伝わります。毎年7月の例祭では、勇壮なけんか神輿(神輿合わせ)が行われることで知られます。

🕰 時代飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮
🏛 成立・築造社伝では天武天皇期の7世紀ごろ(679年か)創建とされる。『延喜式神名帳』記載の式内社で、旧県社
📍 所在地広島県福山市新市町大字戸手1-1

史跡をひととおり俯瞰したところで、ここからは伏見櫓と筋鉄御門という二つの建造物に焦点を絞り、その来歴をひもといていきます。これらを理解するには、まず母体となった「伏見城」と、福山城を築いた人物「水野勝成」を押さえておく必要があります。

伏見城とは何か——天下人たちが築いた城

福山駅前から望む福山城(石垣と伏見櫓)
福山駅前から望む福山城(石垣と伏見櫓)(画像:Wikimedia Commons / CC)

伏見櫓のルーツをたどるには、京都・伏見の地に築かれた「伏見城」の歴史を知らなければなりません。伏見城は、豊臣秀吉と徳川家康という二人の天下人によって、合わせて三度にわたり築かれた城だとされています。

秀吉が築いた指月伏見城と木幡山伏見城

最初の伏見城は、1594年(文禄3年)ごろ、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が、隠居後の住まいとして伏見・指月(しげつ)の地に築いたものとされます。これがいわゆる「指月伏見城」です。しかし、この城は1596年(慶長元年)に発生した「慶長伏見地震」と呼ばれる大地震によって倒壊したと伝わります。

秀吉はただちに、近隣の木幡山(こはたやま)に城を再建しました。これが「木幡山伏見城」です。秀吉はこの城で晩年を過ごし、1598年(慶長3年)に没したとされています。豪壮華麗な桃山文化を象徴する城として、当時の建築・装飾技術の粋が結集されていたと考えられています。

関ヶ原の前哨戦と家康による再建

秀吉の死後、伏見城は徳川家康の拠点のひとつとなりました。1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いの前哨戦として、家康の家臣・鳥居元忠が城将を務める伏見城が、西軍の大軍に攻められて落城したと伝わります。この「伏見城の戦い」での激戦は、後世にさまざまな逸話を残しました。

この「伏見城の戦い」で討死した城将・鳥居元忠と将兵の血が染み込んだとされる床板は、後に各地の寺院へ移され「血天井」として供養されたという伝承も各地に残っています。こうした逸話の真偽には諸説ありますが、伏見城が関ヶ原前夜の重要な舞台であったことは、多くの伝承を生むほどに人々の記憶に刻まれていたことをうかがわせます。

その後、家康によって伏見城は再建されたとされます。家康はこの城で征夷大将軍の宣下を受けたとも伝えられ、江戸幕府初期において伏見城は重要な政治拠点でした。徳川将軍家にとって、伏見城は上方(京都・大坂)を押さえる西国支配の要であり、二代将軍・徳川秀忠もこの城で将軍宣下を受けたと伝わります。しかし、徳川の世が安定し、政治の中心が江戸へと移っていくなかで、伏見城は次第にその役割を終えていきます。

伏見城が果たしてきた役割の一端は、福山城の伏見櫓を通じて理解することができます。天下人の城の建物が西国の新しい城へと受け継がれていったという事実は、徳川幕府による全国支配の再編が、城という形で具体的に進められていたことを物語っています。伏見城の建物の移築は、単なる資材の再利用にとどまらず、天下人の権威を地方の拠点へと引き継ぐという象徴的な意味も帯びていたと考えることができるでしょう。

廃城と各地への建物の移築

伏見城は、1623年(元和9年)ごろに廃城になったとされています。城が廃されると、その建造物の多くは解体され、各地の城や寺社へと移築されていきました。こうした建物の再利用は当時珍しいことではなく、伏見城の遺構と伝わる建物は西日本を中心に各地に点在しています。

ただし、それらの多くは「伏見城からの移築」という言い伝えにとどまり、確たる証拠を欠くものが少なくありません。そうしたなかで、福山城伏見櫓は、部材に残る刻銘と古文書という二重の根拠によって移築が裏付けられている、きわめて稀有な事例とされているのです。この点については後ほど詳しく述べます。

水野勝成と福山城の築城

伏見城の建物がなぜ福山の地に運ばれたのか。その鍵を握るのが、福山藩初代藩主・水野勝成(みずの・かつなり)です。

徳川一門の猛将・水野勝成

水野勝成は、徳川家康の母・於大の方の実家である水野氏の出身で、家康とは従兄弟にあたる関係にあったとされます。徳川一門の有力者であり、各地の戦で武功を重ねた猛将として知られた人物です。

大坂の陣を経て徳川の天下が定まると、勝成は西国の要として備後の地を任されることになります。1619年(元和5年)、勝成は備後・備中などにまたがる10万石の領主として、この地に入りました。当時、安芸・備後を治めていた福島正則の改易にともなう国替えの一環であったとされています。

西国鎮衛の拠点としての福山城

勝成に与えられた大きな使命は、西国の外様大名を監視し、徳川の支配を西へと固める「西国鎮衛(ちんえい)」の拠点を築くことだったとされます。そのため福山城は、単なる一大名の居城を超えた、幕府の戦略上きわめて重要な城として築かれました。

勝成は、それまで「野上村」「神島(かしま)」などと呼ばれていた一帯の小高い丘(常興寺山)を城地に選び、大規模な築城工事に着手します。城下町の整備や芦田川の治水、上水道の敷設なども同時に進められ、城と城下町が一体となった新しい都市がつくられていきました。「福山」という地名も、この築城に際して縁起のよい名として名づけられたと伝わります。

水野勝成による築城と城下町づくりは、単に防衛拠点を整えるだけのものではありませんでした。湿地が広がっていた地を干拓し、用水を引き、町割りを定めるという一連の事業は、近世都市・福山の礎を築くものでした。今日の福山市街地の骨格の多くが、勝成の時代に形づくられたものに由来するとされています。城の建物としての伏見櫓や筋鉄御門も、こうした壮大な都市建設の一環として据えられたものであり、現代の福山に至るまちの記憶の出発点に位置づけられる存在なのです。

勝成自身は、領国経営にも力を注いだ名君として伝えられています。新田開発や産業の振興に努め、福山藩の基礎を固めたとされ、その治世は領民からも慕われたと伝わります。猛将としての勇名だけでなく、為政者としての手腕もあわせ持った人物として、勝成は福山の歴史において特別な位置を占めています。

1622年、福山城の完成

福山城は、1622年(元和8年)に完成したとされています。五重の天守を中心に、本丸・二の丸・三の丸が幾重にも石垣と堀で固められた、近世城郭の完成形ともいえる壮大な城でした。元和の一国一城令により、新規の築城が厳しく制限された時代にあって、これほど大規模な城が新たに築かれたことは、福山城に寄せられた幕府の期待の大きさを物語っています。

そして、この築城に際して、将軍・徳川秀忠から特別に下賜されたのが、伏見城の建物だったのです。福山城の歴史をさらに詳しく知りたい方は、福山城の見どころ完全ガイドもご参照ください。

伏見櫓——伏見城から移された三層の櫓

福山城(再建天守)
福山城(再建天守)(画像:Wikimedia Commons / CC)

ここからは、本稿の主役のひとつである伏見櫓について詳しく見ていきます。

将軍からの下賜と移築の経緯

福山市の公式情報によれば、福山城伏見櫓は、1622年(元和8年)の福山城築城にあたり、城主・水野勝成が将軍・徳川秀忠から下賜を受け、伏見城の一部を移築させたものとされています。新しく築く城に、天下人ゆかりの城の建物を移すという行為には、幕府が福山城をいかに重視していたかが象徴的に表れているといえるでしょう。

伏見櫓は、福山城本丸の南西隅に位置する三重三階(三層)の隅櫓です。城の正面側を守る重要な位置にあり、その堂々たる姿は、二の丸から本丸を見上げたときにまず目に飛び込んでくる、福山城を代表する景観のひとつとなっています。

「松ノ丸ノ東やく(ら)」——移築を裏付ける刻銘

長らく、伏見櫓が伏見城から移されたという話は「伝承」として語られてきました。しかし、それを決定づける発見が、戦後の修理の際にもたらされます。

福山市の公式情報によると、1954年(昭和29年)に行われた解体修理の際、櫓の梁(はり)の陰刻から「松ノ丸ノ東やく(ら)」という銘が発見されました。これは、この部材がもともと伏見城の「松の丸」の東櫓を構成していたことを示すものであり、移築の言い伝えが正しかったことを裏付ける物証となりました。

さらに、福山藩主・水野家に伝わる「結城水野家文書」にも、伏見城からの移築建造物であることが明記されているとされます。部材そのものに残る刻銘と、文書による記録という二重の根拠がそろっている点で、伏見櫓は伏見城からの移築であることが確実といえる、わが国でほぼ唯一の建造物とされているのです。

建築としての特徴と価値

伏見櫓は三層入母屋造で、初層と二層は同じ平面の柱割を持ち、その上に下層よりも小さい三層を載せるという構成をとっています。この構造や手法には、城郭建築のなかでも初期の様式がよく残されているとされ、慶長年間(17世紀初頭)の建物の典型として、建築史のうえでも貴重なものと評価されています。

桃山文化の華やかさを伝える天下人の城の遺構が、こうしてほぼそのままの姿で残されていること自体が、全国的にも極めて珍しいことです。伏見城そのものは早くに廃城となり、地上の建物はほとんど失われてしまいました。だからこそ、各地に散った遺構のなかでも「確かな伏見城の建物」と言える伏見櫓の存在意義は大きいといえます。

城郭建築としての伏見櫓を眺めるとき、注目したいのが屋根の構成です。三層の入母屋造の屋根が重なり合うことで生まれる陰影は、初期城郭建築ならではの力強さと格調を感じさせます。装飾過多にならず、構造の合理性がそのまま美しさとして表れている点に、慶長期の建築の特徴が読み取れるとされています。後の時代の華美な装飾を凝らした櫓とは異なる、質実剛健な趣がこの櫓の魅力です。

なぜ伏見櫓は「唯一」と言えるのか

全国各地には「伏見城から移築された」と伝わる建物が数多く存在します。しかし、その大半は伝承の域を出ず、移築を裏付ける確かな物証や同時代の文書を欠いています。なかには、近代以降に観光的な価値づけのために伏見城ゆかりとされた例もあると指摘されています。

これに対して福山城伏見櫓は、解体修理という建物そのものに踏み込んだ調査の過程で「松ノ丸ノ東やく(ら)」という具体的な部材の刻銘が確認され、さらに藩主家に伝わる文書という別系統の記録によっても裏付けられている点で、際立っています。建物・物証・文書という複数の根拠がそろうことで、移築が「伝承」ではなく「事実」として語れる、稀有な事例となっているのです。これこそが、伏見櫓が国宝化の有力候補とされる学術的な理由です。

筋鉄御門——本丸を守る鉄の門

伏見櫓とならんで重要文化財に指定されているのが、本丸の正門にあたる筋鉄御門です。

名前の由来と構造

「筋鉄御門」という独特な名前は、門扉に打ちつけられた鉄の筋金(すじがね)に由来します。福山市の公式情報によれば、門扉は内開きの二枚建てで、12条の筋鉄を鋲(びょう)で打ちつけて補強しているとされます。この縦に走る鉄の帯が、門を堅固に守ると同時に、門の名の由来となっているのです。

構造としては、入母屋造・本瓦葺の「脇戸付櫓門(わきどつきやぐらもん)」で、規模は桁行10間(約18メートル)、梁間3間とされます。一階部分が門、その上に櫓を載せた櫓門の形式をとり、両側の石垣の上に建つ堂々たる構えです。門の柱や扉には鉄板が打ちつけられ、二階の櫓部分は白漆喰で仕上げられているなど、防御性と格式の高さを兼ね備えた造りとなっています。

本丸の正門としての役割

筋鉄御門は、福山城の本丸へと至る正門として、城の防御の要となる位置に築かれました。敵がここを突破しなければ本丸にたどり着けない、城の心臓部を守る最後の関門ともいえる門です。鉄で固められた重厚な扉は、まさにその役割を体現しています。

築城当時から本丸の正門としてこの位置に建ち続けてきたとされ、福山城の歴史をその場で見守ってきた数少ない建造物のひとつです。現在も、登城して本丸に入る際には、誰もがこの筋鉄御門をくぐることになります。

移築をめぐる諸説

筋鉄御門についても、伏見櫓と同じく伏見城から移築されたものと「いわれている」と紹介されることが多くあります。ただし、その点については確たる物証が示されているわけではなく、伏見城移築説は近代以降に形づくられた可能性も指摘されており、諸説あるとされています。伏見櫓のように移築を裏付ける刻銘や明確な文書が確認されているわけではないため、本稿では「伏見城から移築されたとされる」という伝承として扱い、断定は避けることとします。

いずれにせよ、筋鉄御門が築城当初からの貴重な遺構であり、城郭建築として高い価値を持つことに変わりはありません。現存する櫓門のなかでも、その構造には他に例を見ない特徴があるとされ、文化財としての重要性は揺るぎないものです。

櫓門という防御の知恵

筋鉄御門の形式である「櫓門」は、近世城郭の門のなかでも最も格式が高く、防御性に優れた形式とされています。一階部分を門とし、その上に櫓を載せることで、門を突破しようとする敵を上方から見張り、攻撃することができます。両側の石垣の上に渡された梁が門の屋根を支え、門全体が城の構えの一部として機能する仕組みです。

福山市の情報によれば、筋鉄御門の櫓内部は中央に板敷きの床を設け、その両側を土間とする構成になっており、これは現存する他の櫓門には見られない特徴とされています。こうした独自の構造は、筋鉄御門が単なる門ではなく、設計に工夫を凝らした城郭建築の貴重な遺構であることを示しています。門の柱や扉には鉄板が打ちつけられ、二階の櫓部分は白漆喰で仕上げられており、防御性の高さと格式の両立を図った造りとなっています。

門をくぐって感じる城の構え

実際に筋鉄御門をくぐってみると、頭上に櫓がのしかかるような重厚感と、門前から本丸広場へと視界が一気に開ける開放感の対比を体感できます。狭く守りの固い門を抜けた先に城の中枢があるという配置は、敵の侵入を最後まで阻もうとする築城の思想そのものです。鉄で固められた扉に手を触れれば、400年前にこの門を守った人々の緊張感が、わずかながらでも伝わってくるかもしれません。

重要文化財への指定

福山城
福山城(画像:Wikimedia Commons / CC)

伏見櫓と筋鉄御門は、その歴史的・建築的価値の高さから、早くに国の文化財として保護されることになりました。

1933年(昭和8年)の指定

福山市の公式情報によれば、福山城伏見櫓と筋鉄御門は、いずれも1933年(昭和8年)1月23日に国の重要文化財(当時の制度では国宝に相当する旧国宝)に指定されました。戦前のこの段階で、これらの建造物がいかに重要なものと認識されていたかがうかがえます。

なお、戦後の文化財保護法の制定(1950年)にともなって文化財の指定制度が再編され、現在は両者とも「国指定重要文化財」という区分に位置づけられています。後述する天守などが戦災で失われたあとも、これら二棟は重要文化財として大切に守られ続けてきました。

福山城に現存する江戸期の建造物

福山城には、伏見櫓・筋鉄御門のほかにも、江戸時代から残る建造物として鐘櫓(かねつぐら)などが伝えられています。一方で、天守をはじめとする多くの建物は失われ、後に再建されたものです。創建当時の姿を今に伝える伏見櫓と筋鉄御門は、福山城の長い歴史のなかで連綿と受け継がれてきた、文字どおりの「生き証人」といえる存在です。

城を訪れた際には、復興された天守と、現存する伏見櫓・筋鉄御門とを意識して見比べてみると、より深く城の歴史を味わえます。鉄筋コンクリートで再建された天守は、外観こそ往時の姿を再現していますが、その素材も歴史も現代のものです。これに対して伏見櫓と筋鉄御門は、木の一本一本、扉の鉄の一条一条に400年の時間が刻まれています。同じ城内にありながら、まとう時間の重みが大きく異なる——その対比こそが、福山城という場所の奥行きを生み出しているといえるでしょう。

福山大空襲と天守の焼失——なぜ二棟は残ったのか

伏見櫓と筋鉄御門の価値を語るうえで欠かせないのが、太平洋戦争末期の福山大空襲です。

1945年8月8日の福山大空襲

1945年(昭和20年)8月8日、福山市は大規模な空襲に見舞われました。市街地の広い範囲が焼け野原となり、多くの尊い命が失われたこの福山大空襲によって、福山城も甚大な被害を受けます。築城以来320年余りにわたって市街を見下ろしてきた壮麗な天守も、この空襲によって焼失したとされています。

木造の天守をはじめ、長い歴史を経た貴重な建造物が炎に包まれたことは、福山の人々にとって計り知れない喪失でした。戦争が文化財に与える破壊の大きさを、福山城の被災はあらためて物語っています。

戦火を免れた伏見櫓と筋鉄御門

そうしたなかで、伏見櫓と筋鉄御門は焼失を免れ、今日まで残りました。天守という城の中心が失われた一方で、これら二棟が生き残ったことは、福山城にとって、そして日本の城郭史にとって、不幸中の幸いというべき出来事でした。もしこの二棟が失われていれば、確実な伏見城の遺構は永遠に失われていたかもしれません。

戦後、福山の人々はこの二棟を心の拠りどころとしつつ、城の再建に取り組んでいきました。古き建物が残ったからこそ、福山城は「ただ復元された城」ではなく、本物の歴史を内に抱えた城であり続けることができたのです。

伏見櫓と筋鉄御門が戦火を免れた理由については、本丸の隅や正門という位置関係や、当日の延焼の経路など、さまざまな要因が考えられますが、確たることは分かっていません。いずれにせよ、これらが残ったことは偶然の積み重ねの結果であり、文化財がいかに脆く、そして失われやすいものであるかを、福山城の被災と現存はあわせて教えてくれます。今ある建物を後世に確実に引き継いでいくことの大切さを、この二棟の存在は静かに訴えかけています。

天守の復興と「令和の大普請」

焼失した天守は、1966年(昭和41年)、市制施行50周年を記念する事業として、鉄筋コンクリート構造で外観復興されました。月見櫓や御湯殿(おゆどの)なども、このときあわせて再建されたとされます。復興された天守の内部は、福山城博物館として福山の歴史を伝える施設となりました。

さらに、2022年(令和4年)の築城400年を迎えるにあたり、「令和の大普請」と呼ばれる大規模な改修が行われました。このとき注目されたのが、天守北側の鉄板張りです。創建当時の福山城天守は、防御力を高めるために北側の壁面に鉄板が張られていたとされ、これは全国でも例を見ない特徴だったといわれます。令和の大普請では、この鉄板張りを含む外観の復元が行われ、福山城は築城当時の姿により近づいたとされています。福山城をめぐる戦災と復興の歩みは、福山城の見どころ完全ガイドでもさらに詳しく紹介しています。

「国宝化」をめざす福山市の取り組み

伏見櫓と筋鉄御門は、現在さらに高い評価をめざす動きのなかにあります。それが「国宝化」の取り組みです。

国宝と重要文化財の違い

まず確認しておきたいのは、現在の伏見櫓と筋鉄御門の指定区分です。本稿の冒頭でも触れたとおり、両者は「国宝」ではなく「国指定重要文化財」に指定されています。重要文化財は、わが国にとって重要な文化財として国が指定するものであり、そのなかでも世界文化の見地から特に価値の高いものが「国宝」に指定されます。つまり国宝は、重要文化財のなかでもさらに選び抜かれた、最高ランクの文化財という位置づけです。

したがって「伏見櫓は国宝」と紹介されることがあれば、それは現時点では正確ではなく、正しくは「国宝化をめざす重要文化財」となります。本稿のタイトルにある「国宝」という言葉も、こうした取り組みと将来への期待を込めたものとして捉えていただければと思います。

市内4棟の国宝化プロジェクト

福山市は、2024年(令和6年)11月から、市内の文化財建造物の国宝化をめざす取り組みを始めたとされています。対象となっているのは、福山城伏見櫓と筋鉄御門に加え、吉備津神社本殿、沼名前(ぬなくま)神社能舞台の合わせて4棟です。いずれも備後地域を代表する貴重な建造物であり、これらの国宝指定を目標に、調査研究や機運の醸成が進められています。

とりわけ伏見櫓については、伏見城からの移築を裏付ける刻銘と「結城水野家文書」という二重の根拠を持つ、わが国唯一ともいえる確かな伏見城遺構であることが、国宝化を後押しする大きな価値とされています。天下人たちが築いた伏見城の記憶を今に伝える唯一の建物として、その学術的・歴史的意義はきわめて高いと考えられています。

特別公開と市民の関心

国宝化への機運を高めるため、伏見櫓は近年、期間限定で内部が特別公開されることがあります。普段は外観のみの見学となる櫓の内部に入り、移築を物語る梁や柱を間近に見られる貴重な機会として、多くの来訪者の関心を集めています。こうした取り組みを通じて、福山城の至宝の価値が、地域の内外に少しずつ広まりつつあります。

国宝への指定は、価値が認められれば自動的に行われるものではなく、調査研究の蓄積や保存修理の記録、社会的な認知の広がりなど、さまざまな要素が積み重なって実現に向かうものです。福山市が4棟をまとめて国宝化の対象としているのも、地域全体で文化財の価値を守り高めていこうとする姿勢の表れといえます。伏見櫓や筋鉄御門が将来、国宝に指定される日が来れば、それは福山の歴史にとって新たな画期となるでしょう。本稿を読んで関心を持たれた方は、ぜひこうした取り組みにも目を向けてみてください。

伏見櫓・筋鉄御門の見どころと観賞のポイント

実際に福山城を訪れた際に、伏見櫓と筋鉄御門のどこに注目すればよいのか、観賞のポイントを整理しておきましょう。

伏見櫓の見どころ

伏見櫓は、まずその全体の佇まいに注目したい建造物です。三層の屋根が織りなす均整のとれたシルエットは、慶長期の城郭建築の風格をよく伝えています。天守が鉄筋コンクリートで復興されたものであるのに対し、伏見櫓は400年前の木造建築がそのまま残るという点で、両者を見比べると、本物の歴史的建造物が放つ独特の存在感がより際立って感じられるはずです。

福山駅のホームからも、伏見櫓と石垣を間近に望むことができます。新幹線の駅と城が至近距離にある全国でも珍しい立地で、列車を待つわずかな時間でも、天下人ゆかりの建物を眺められるのは福山城ならではの魅力です。

筋鉄御門の見どころ

筋鉄御門では、何といっても門扉に打ちつけられた筋鉄に注目してください。縦に走る12条の鉄の帯と、それを留める鋲の連なりは、この門が単なる入口ではなく「守りの要」であったことを雄弁に物語ります。鉄で固められた門をくぐる体験は、城の防御の厳しさを身体で感じさせてくれるでしょう。

また、櫓門という構造そのものにも目を向けてみてください。門の上に櫓を載せることで、上から門前を見張り、守ることができる仕組みになっています。本丸へと続く石段を登り、筋鉄御門をくぐって本丸広場に出るという一連の動線は、当時の登城の感覚を追体験できる貴重な機会です。

石垣や周辺の遺構もあわせて

伏見櫓と筋鉄御門の足元を支える石垣にも、ぜひ目を向けてみてください。築城当時の石積みの技術がうかがえる石垣は、それ自体が貴重な遺構です。櫓・門・石垣が一体となって築き上げる本丸南西の景観は、福山城を象徴する眺めとなっています。

時間帯による表情の違い

伏見櫓や筋鉄御門は、訪れる時間帯によってまったく異なる表情を見せます。朝の柔らかな光のなかでは、古色を帯びた木肌や白漆喰の壁が清々しく映え、夕方には西日を受けて建物全体が温かみのある色に染まります。とりわけ伏見櫓は本丸の南西に位置するため、夕暮れどきの光をまっすぐに受けて、その立体感がいっそう際立ちます。時間に余裕があれば、光の移ろいとともに変化する姿をゆっくりと眺めてみてください。

写真に収めるなら

伏見櫓を写真に収めるなら、二の丸側から本丸を見上げる構図が定番です。石垣と櫓が一体となった力強い眺めを切り取ることができます。筋鉄御門は、門の正面から櫓部分まで含めて見上げる構図のほか、門をくぐった本丸側から振り返って撮るのもおすすめです。福山駅のホームからは、石垣越しに伏見櫓を望む独特の構図が得られ、城と現代の交通拠点が隣り合う福山らしい一枚になります。

伏見櫓・筋鉄御門が伝えるもの——城郭史のなかの位置づけ

伏見櫓と筋鉄御門を、より大きな歴史の流れのなかに置いてみると、その意義がいっそう鮮明になります。

天下普請から一国一城令の時代へ

福山城が築かれた1622年(元和8年)という年は、城をめぐる時代が大きく転換した時期にあたります。1615年(元和元年)の一国一城令によって、大名は原則として一国に一城しか持てなくなり、多くの城が破却されました。新規の築城も厳しく制限されるようになったのです。そうした時代にあって、福山城のような大規模な新城が築かれたこと自体が異例であり、幕府が西国支配のためにこの城を特別に重視していたことを物語ります。

伏見城の建物が福山城へと移されたのも、こうした時代背景と無縁ではありません。役割を終えた天下人の城を解体し、その建物を新たな戦略拠点へと再配置するという動きは、徳川幕府による全国の城のネットワークの再編を象徴する出来事だったといえます。伏見櫓は、その再編の生きた証人なのです。

慶長期建築の貴重な手本

建築史の観点からも、伏見櫓と筋鉄御門は重要です。慶長から元和にかけての時期は、城郭建築の様式が完成へと向かう過渡期にあたります。この時代の建物が、後の改変を受けずにまとまって残っている例は決して多くありません。伏見櫓に見られる初期的な構造手法や、筋鉄御門の独自の内部構成は、当時の築城技術や設計思想を知るうえで貴重な手がかりを与えてくれます。

失われた伏見城を直接知ることはもはやできませんが、福山城の伏見櫓を通じて、私たちは天下人の城がどのような建物であったのかを、わずかながらでも想像することができます。一棟の櫓が、消えた巨大な城の記憶を後世へとつなぐ——文化財の持つそうした力を、伏見櫓は静かに体現しているのです。

関連年表で見る伏見櫓・筋鉄御門の歩み

ここまでの内容を、年表の形で整理しておきましょう。なお、年代には諸説ある事項も含まれます。

年(西暦/和暦) おもなできごと
1594年ごろ(文禄3年) 豊臣秀吉が伏見・指月に伏見城(指月伏見城)を築いたとされる
1596年(慶長元年) 慶長伏見地震により指月伏見城が倒壊したと伝わる
1597年ごろ(慶長2年) 木幡山に伏見城(木幡山伏見城)が再建されたとされる
1600年(慶長5年) 関ヶ原の前哨戦で伏見城が落城したと伝わる
1619年(元和5年) 水野勝成が備後10万石の領主としてこの地に入る
1622年(元和8年) 福山城が完成。築城に際し伏見城の建物が移築されたとされる
1623年ごろ(元和9年) 伏見城が廃城になったとされる
1933年(昭和8年)1月23日 伏見櫓・筋鉄御門が国の文化財に指定される
1945年(昭和20年)8月8日 福山大空襲。天守などが焼失。伏見櫓・筋鉄御門は焼失を免れる
1954年(昭和29年) 伏見櫓の解体修理で「松ノ丸ノ東やく(ら)」の刻銘を発見
1966年(昭和41年) 天守などが鉄筋コンクリートで外観復興される
2022年(令和4年) 築城400年。「令和の大普請」で天守の外観復元が完了
2024年(令和6年)11月 市内4棟の国宝化をめざす取り組みが始まる

伏見櫓・筋鉄御門を楽しむモデルコース

せっかく福山を訪れるなら、伏見櫓と筋鉄御門だけでなく、周辺の歴史スポットもあわせてめぐりたいところです。ここでは、福山の歴史を一日で味わうモデルコースをご紹介します。

半日コース:福山城をじっくり

福山駅北口を出ると、目の前にすぐ福山城があります。まずは石垣ぞいに歩いて伏見櫓を間近に眺め、その風格を堪能しましょう。続いて本丸へと登り、筋鉄御門をくぐって本丸広場へ。復興天守(福山城博物館)に入れば、福山城と備後地域の歴史を体系的に学ぶことができます。城内には鐘櫓や月見櫓など見どころが点在しているので、半日かけてゆっくりめぐるのがおすすめです。福山城の歩き方は、福山城の見どころ完全ガイドを参考にしてください。

一日コース:古代から幕末まで

時間に余裕があれば、福山城に加えて市内の他の史跡もめぐってみましょう。中世の港町の遺跡として知られる草戸千軒町や、国宝の本堂・五重塔を有する明王院は、福山の中世史を語るうえで欠かせないスポットです。これらの周辺は草戸千軒・明王院エリアのガイドでまとめていますので、あわせてご覧ください。城下町の福山と中世の草戸千軒を一日で訪れれば、福山の歴史の重層性を体感できます。

足を延ばして鞆の浦へ

福山を代表する歴史的景観といえば、瀬戸内の港町・鞆の浦です。福山城から鞆の浦へは路線バスで向かうことができ、潮待ちの港として栄えた町並みが今も色濃く残っています。朝鮮通信使も賞賛したという絶景の客殿福禅寺 対潮楼、坂本龍馬ゆかりのいろは丸展示館、重要文化財の太田家住宅など、見どころが凝縮しています。情緒あふれる鞆の浦の街並みを散策すれば、城とはまた違った福山の歴史の魅力に出会えるでしょう。城(武家の歴史)と港(庶民・交易の歴史)を一日でめぐる行程は、福山の歴史を立体的に味わう理想のコースです。

よくある質問(FAQ)

Q伏見櫓と筋鉄御門は国宝ですか?
A

いいえ、2026年6月時点では、いずれも「国指定重要文化財」です。国宝ではありません。ただし福山市は、これらを含む市内4棟の国宝化をめざす取り組みを進めているとされています。「国宝化をめざす重要文化財」というのが正確な位置づけです。

Q伏見櫓は本当に伏見城から移築されたのですか?
A

はい、伏見櫓については移築を裏付ける根拠があります。1954年(昭和29年)の解体修理で梁から「松ノ丸ノ東やく(ら)」という刻銘が見つかり、また「結城水野家文書」にも移築のことが記されているとされます。物証と文書の両面から移築が裏付けられている、わが国でほぼ唯一の確かな伏見城遺構とされています。

Q筋鉄御門も伏見城から移築されたのですか?
A

筋鉄御門についても伏見城から移築されたといわれていますが、伏見櫓のような明確な物証や文書は確認されておらず、諸説あるとされています。本稿では伝承として扱い、断定は避けています。

Q伏見城とはどんな城だったのですか?
A

伏見城は、豊臣秀吉と徳川家康によって築かれた城で、京都・伏見の地にありました。秀吉が指月、次いで木幡山に築き、家康が再建したとされ、1623年(元和9年)ごろに廃城になったと伝わります。桃山文化を象徴する豪壮な城だったと考えられています。

Q福山城を築いたのは誰ですか?
A

福山藩初代藩主・水野勝成です。徳川家康の従兄弟にあたるとされる徳川一門の有力者で、西国を監視する拠点として1622年(元和8年)に福山城を完成させました。

Q「筋鉄御門」という名前の由来は何ですか?
A

門扉に打ちつけられた鉄の筋金(筋鉄)に由来します。福山市の情報によれば、門扉には12条の筋鉄が鋲で打ちつけられており、これが門の名の由来であると同時に、堅固な守りの象徴となっています。

Q伏見櫓や筋鉄御門は福山大空襲で焼けなかったのですか?
A

はい、1945年(昭和20年)8月8日の福山大空襲では天守などが焼失しましたが、伏見櫓と筋鉄御門は焼失を免れて現存しています。創建当時の姿を伝える貴重な建造物です。

Q現在の天守はいつ建てられたものですか?
A

現在の天守は、戦災で焼失した後、1966年(昭和41年)に鉄筋コンクリート構造で外観復興されたものです。2022年(令和4年)の築城400年に向けた「令和の大普請」では、北側の鉄板張りを含む外観復元が行われたとされています。

Q伏見櫓の内部は見学できますか?
A

通常は外観のみの見学となりますが、国宝化への機運を高めるため、近年は期間限定で内部の特別公開が行われることがあります。公開の有無や日程は時期によって異なるため、訪問前に福山城や福山市の公式情報をご確認ください。

Q伏見櫓・筋鉄御門はいつ重要文化財に指定されましたか?
A

福山市の情報によれば、いずれも1933年(昭和8年)1月23日に指定されました。戦後の文化財保護法の制定にともなう制度再編を経て、現在は国指定重要文化財に位置づけられています。

Q福山城へのアクセスは?
A

福山城はJR福山駅のすぐ北側に隣接しており、駅から徒歩数分で到着します。新幹線の駅と城がこれほど近接している例は全国的にも珍しく、列車のホームからも伏見櫓や石垣を間近に望むことができます。

Q伏見櫓・筋鉄御門とあわせてめぐりたいスポットは?
A

福山城内の天守(福山城博物館)や鐘櫓のほか、中世の遺跡である草戸千軒・明王院、瀬戸内の港町・鞆の浦がおすすめです。鞆の浦には対潮楼やいろは丸展示館、太田家住宅などの歴史スポットが集まっており、城と港を一日でめぐると福山の歴史を立体的に楽しめます。

まとめ——400年の時を超える福山城の至宝

福山城の伏見櫓と筋鉄御門は、1622年(元和8年)の築城以来、400年以上にわたって本丸を見守り続けてきた、かけがえのない建造物です。とりわけ伏見櫓は、部材に残る「松ノ丸ノ東やく(ら)」の刻銘と「結城水野家文書」によって伏見城からの移築が裏付けられている、わが国でほぼ唯一の確かな伏見城遺構とされ、天下人たちが築いた幻の城の記憶を今に伝える、文字どおりの「至宝」です。

1945年(昭和20年)の福山大空襲で天守を失いながらも、この二棟が焼失を免れて残ったことは、福山城が本物の歴史を内に抱える城であり続けることを可能にしました。現在、福山市はこれらを含む4棟の国宝化をめざす取り組みを進めており、その価値はさらに広く知られようとしています。

福山を訪れる機会があれば、ぜひ本丸の南西に立つ伏見櫓を見上げ、鉄で固められた筋鉄御門をくぐってみてください。そこには、教科書だけでは決して伝わらない、本物の400年が静かに息づいています。福山の歴史全体を知りたい方は、福山の歴史まるわかり通史ガイドもあわせてご覧ください。

出典・注意

本記事は、福山市公式ホームページ(文化財関連ページ)、福山城博物館の公開情報、文化遺産オンラインなどの公的機関・百科的情報をもとに作成しています。年代・経緯・人物関係については、自治体・博物館の公開情報に基づいて記述しましたが、史料や研究者によって解釈が異なる場合があります。

※年代・経緯には諸説ある事項を含みます。詳細は各施設の公式情報や郷土資料でご確認ください。

最終更新: 2026年6月10日

史跡情報は福山NOTE 史跡図鑑(fn_history)より。