広島県の東部、瀬戸内海に面した福山市は、城下町としての風格と、古代から続く備後地方の歴史が幾重にも重なってできた街です。福山城の白い天守を仰ぎ、芦田川のほとりに眠る中世の港町を思い、潮待ちの港・鞆の浦に立てば、ひとつの街に何層もの時間が積み重なっていることに気づきます。この記事では、古代の備後国から、中世に栄えた草戸千軒、1622年に完成した福山城と城下町の誕生、水野氏から阿部氏へと続く福山藩、朝鮮通信使や幕末の動乱を見つめてきた鞆の浦、そして近代の地場産業の発展と戦災・復興を経た現代まで——福山・備後の歩みを通史でたどります。
歴史というと年号と人名の暗記を思い浮かべがちですが、ここでは「この土地で人々がどのように暮らし、何を営み、どんな出来事に立ち会ってきたのか」という大きな流れを中心に据えました。確かな史実をたどりながら、諸説ある事項についてはそのことを明記し、できるだけ中立に整理しています。福山の歴史を初めて知る方の入り口として、また街を歩く前の手引きとして、長くお手元に置いていただける「決定版ガイド」を目指しました。
福山・備後の歴史をたどっていくと、いくつかの大きなテーマが繰り返し顔を出します。ひとつは「海とのつながり」です。古代の瀬戸内海路、中世の港町、近世の鞆の浦の海運、近代以降の海に面した産業立地と、海はつねにこの地の発展を支えてきました。もうひとつは「都市の移り変わり」です。芦田川河口の草戸千軒から、計画的に築かれた城下町・福山、そして近代都市へと、人々のにぎわいの中心は時代とともに姿を変えてきました。こうした大きなテーマを意識しながら読み進めると、ばらばらに見える出来事が一本の流れとしてつながって見えてくるはずです。
福山・備後の歴史をひと目で——通史年表の概観

まずは福山・備後の歴史を、大きな時代の流れとして概観しておきましょう。細かな年号は後の各章でていねいにたどりますので、ここでは「どんな順番で、どんな出来事が起きたのか」という骨格をつかんでください。地図の上に時間の軸を引くようなイメージで読んでいただければと思います。
古代、この地には律令制のもとで「備後国(びんごのくに)」が置かれました。国を治める役所である国府や、仏教によって国を鎮めようとした国分寺が、現在の府中市や神辺(かんなべ)のあたりに営まれたと考えられています。瀬戸内海の海路は当時の大動脈であり、備後はその要衝として早くから開けていました。
中世になると、芦田川の河口に「草戸千軒(くさどせんげん)」と呼ばれる港町・市場町が現れ、にぎわいを見せます。その近くに建つ明王院(みょうおういん)には、1321年の本堂と1348年の五重塔という、いずれも国宝の建築が今も残されています。やがて戦国の世になると備後各地に山城が築かれ、毛利氏や尼子氏といった大勢力が覇権を争いました。
近世の幕開けは1619年、水野勝成(みずのかつなり)が備後福山10万石の領主として入ってきたことに始まります。1622年に福山城が完成し、ここに城下町・福山が産声を上げました。藩主は水野氏、松平氏を経て、1710年からは阿部氏が治めることになります。幕末には福山藩主の阿部正弘(あべまさひろ)が江戸幕府の老中首座として日米和親条約を主導し、鞆の浦の沖では「いろは丸事件」が起きました。
近代に入ると、備後絣(びんごがすり)や備後畳表(びんごたたみおもて)、福山琴、松永の下駄といった地場産業が発展し、1916年には福山市制が施行されます。しかし1945年8月の福山空襲によって市街地と福山城天守が焼失するという大きな痛手を受けました。戦後は復興とともに鉄鋼業が立地し、1966年には福山城天守が再建されて、現在の福山の姿が形づくられていきます。およそ千数百年にわたるこの流れを、これから一章ずつ丁寧にたどっていきましょう。
古代——律令国家のなかの備後国
福山を含むこの地方の歴史を語るうえで、まず押さえておきたいのが「備後国」という枠組みです。古代の日本では、律令制と呼ばれる中央集権的な国家のしくみが整えられ、全国が「国(くに)」という単位に区分されました。現在の広島県東部にあたる地域には、この律令制のもとで備後国が置かれました。隣には備前国・備中国があり、これらはもともと「吉備(きび)」と呼ばれた大きなまとまりが分割されてできたとされる地域です。
国には、国を治める役所である「国府(こくふ)」が置かれました。備後国の国府は、現在の府中市のあたりに営まれたと考えられています。「府中」という地名そのものが、かつてここに国府が置かれていたことを物語る手がかりとなっています。国府には国司と呼ばれる役人が中央から派遣され、税の徴収や治安の維持、土木事業などの行政を担いました。古代の地方統治の中心が、この備後の地に存在していたのです。
国分寺と仏教による鎮護
古代の国家は、仏教の力によって国を安んじようと考えました。そのために全国の国ごとに建てられたのが「国分寺(こくぶんじ)」です。備後国にも国分寺が営まれ、これも現在の府中市や神辺周辺の一帯に位置していたと考えられています。国分寺は単なる寺院ではなく、国家の安泰を祈る公的な施設であり、当時としては大規模な伽藍を備えていました。こうした施設が置かれたことからも、備後がこの地方の政治・宗教の中心地であったことがうかがえます。
瀬戸内海路の要衝として
古代の備後を語るうえで欠かせないのが、瀬戸内海という海の道です。当時、都と西国・大陸を結ぶ大動脈は陸路ではなく海路でした。穏やかな内海を、人や物資、そして文化が行き交います。備後はこの瀬戸内海路に面した要衝であり、海を通じて外の世界とつながっていました。後の章で詳しく述べる鞆の浦が「潮待ちの港」として古くから知られたのも、この瀬戸内海路の交通の要であったからこそです。海とともにあるという備後の地理的性格は、古代から現代に至るまで、この地方の歴史を貫く大きな特徴だといえるでしょう。
帆船や手こぎの船が交通の主役だった時代、波が穏やかで島々が点在する瀬戸内海は、外洋に比べてはるかに航行しやすい「内なる海の道」でした。風や潮の流れを読みながら島から島へと渡っていく航海にとって、途中に立ち寄ることのできる港の存在は欠かせません。備後の海岸線は、そうした寄港と交易の拠点として早くから人々の往来を集めていたと考えられます。古代の国府や国分寺が内陸寄りの地に営まれた一方で、海に開かれた港もまた、この地方の発展を支える車の両輪であったといえるでしょう。陸の統治の中心と、海の交通の要——この二つの性格を併せ持っていたことが、備後という地の古代以来の豊かさの源だったのです。
中世——よみがえった幻の港町・草戸千軒
中世の備後を象徴する存在が、芦田川の河口に栄えた港町「草戸千軒」です。正式には「草戸千軒町遺跡(くさどせんげんちょういせき)」と呼ばれるこの場所は、中世に市場町としてにぎわいを見せた都市の跡であり、福山の歴史を語るうえで特別な意味を持っています。「千軒」という名は、千の家が建ち並ぶほどに繁栄したという町のありさまを伝える呼び名だとされています。
草戸千軒は芦田川の流れと深く結びついた町でした。河口という立地は、川を通じた内陸との物流と、海を通じた瀬戸内の交易の両方を結ぶ結節点です。市が立ち、人と物が集まり、商工業者が暮らす——そうした中世の都市の活気が、この河口の町には満ちていたと考えられています。明王院との関わりも深く、門前町・港町としての性格を併せ持っていたとみられます。
なぜ「幻の町」と呼ばれるのか
草戸千軒が人々の関心を集めるのは、その繁栄もさることながら、近世初頭までに姿を消してしまったという事実によります。かつてここにあったはずの町は、いつしか地上から失われ、長く土と川の下に眠っていました。そのため草戸千軒は「幻の町」とも呼ばれます。衰退の理由については諸説あり、決定的な定説があるわけではありません。芦田川の洪水によって埋もれたとする見方などが語られてきましたが、いずれにせよ、はっきりと言い切れる確かな結論には至っていないのが現状です。安易な断定を避け、「諸説ある」ものとして受け止めるのが正確な態度だといえます。土の下に長く眠っていた町が、後の世になってその姿の一端を私たちに伝えるようになったこと自体が、草戸千軒という遺跡の大きな価値です。中世の人々が実際にこの河口の町でどのように暮らし、何を売り買いし、どんな信仰を持っていたのか——失われた町は、かえって私たちの想像をかきたて、中世という時代を身近に感じさせてくれる存在となっています。華やかに栄え、やがて静かに消えていったという草戸千軒の物語は、歴史のはかなさと奥深さの両方を私たちに教えてくれるのです。
国宝・明王院——本堂と五重塔
草戸千軒のすぐ近くに建つのが明王院です。この寺院には、中世建築の傑作として知られる二つの国宝があります。ひとつは1321年に建てられた本堂、もうひとつは1348年に建てられた五重塔です。いずれも14世紀という中世の時代に建立された建築で、長い歳月を経て今日まで伝えられてきました。とりわけ五重塔は、その均整のとれた姿が高く評価されています。明王院の存在は、草戸千軒という町が単なる商業地ではなく、信仰の拠点でもあったことを示しています。町そのものは姿を消しても、寺の建築は残り、中世の備後の文化の高さを今に伝えているのです。本堂が1321年、五重塔が1348年と、わずか30年に満たない近い時期に相次いで建てられた建築が、いずれも国宝として今日まで守り伝えられていることは、この地の中世がいかに充実した時代であったかを物語っています。商いの活気と信仰の篤さが隣り合っていた——草戸千軒と明王院が並び立つ景観は、そんな中世の備後の姿を私たちに想像させてくれます。草戸千軒や明王院の見どころについては、草戸千軒・明王院をめぐるガイドもあわせてご覧ください。
戦国——備後の山城と群雄の争い
中世も後半の戦国時代になると、備後の地もまた戦乱の波に呑まれていきます。各地に山城が築かれ、武将たちが領地と覇権をめぐって争いました。山の地形を利用した山城は、見晴らしのきく要害であり、戦国の世における軍事と統治の拠点でした。備後の各地に点在したこれらの城は、当時の緊張した情勢を物語っています。
この時代の中国地方では、毛利氏や尼子氏といった大きな勢力が台頭し、覇を競い合いました。備後はこうした大勢力のせめぎ合いの舞台のひとつとなり、地域の武将たちもまた、こうした大きな力関係のなかで去就を定めていくことになります。瀬戸内に面し、内陸へも通じる備後の地は、戦略上も重要な位置にありました。海路を押さえれば物資や兵の輸送に有利となり、内陸への道を押さえれば後背地の支配につながります。そうした地理的な重要性ゆえに、備後は大勢力にとって見過ごすことのできない土地であり、たびたび争いの焦点となったのです。山の上に築かれた数々の城は、そのような緊張のなかで、人々が身を守り、領地を治めるために生み出したものでした。
戦国から近世へ——時代の転換
戦国の争乱は、やがて天下統一へと向かう大きな流れのなかで収束していきます。各地に割拠した山城の時代は終わりを告げ、平地に大きな城と城下町を築き、領国を一円的に支配する近世大名の時代へと移り変わっていきました。備後福山においても、この転換は決定的な意味を持ちます。次の章で述べる水野勝成の入封と福山城の築城は、まさに戦国の山城の時代に幕を引き、近世の城下町の時代を開く出来事だったのです。中世の港町・草戸千軒が姿を消し、新たな都市・福山が誕生していく——その歴史の節目が、この時期に訪れます。戦乱の時代に各地に分かれていた力が、やがて一つの大きな秩序のもとにまとめられ、平和な世のなかで城下町が栄えていく。福山の近世のはじまりは、こうした日本全体の歴史の転換と歩調を合わせたものでした。山城が役目を終え、平地の城と城下町が新しい時代の主役となっていく流れのなかで、福山という都市は産声を上げることになるのです。
福山城築城と水野勝成——城下町・福山のはじまり

福山という都市の歴史は、1619年に水野勝成が備後福山10万石の領主として入ってきたことに始まります。それまでこの地に「福山」という城下町は存在しませんでした。水野勝成の入封と、それに続く築城によって、まったく新しい都市がこの地に生み出されたのです。福山の歴史を語るうえで、この出来事はまさに原点というべきものです。
水野勝成は徳川家とゆかりの深い武将であり、その入封は西国における幕府の備えという意味合いも持っていたとされます。西国には大きな外様大名が控えており、それに対する押さえとして、この要地に信頼のおける大名が配されたという文脈です。10万石という石高は、城下町を構え、藩としての体制を整えるにふさわしい規模でした。
1622年、福山城の完成
そして1619年の入封から間もない1622年、福山城が完成します。この年が、城下町・福山の実質的な誕生の年といってよいでしょう。城が築かれると、その周囲には武家屋敷が配置され、商人や職人が暮らす町人地が整えられ、寺社が置かれ、街道が通されていきます。城を中心として計画的に都市が形づくられていく——それが近世の城下町であり、福山もまたそうして生まれた都市です。今日の福山市の中心市街地の骨格は、このとき築かれた城下町の構造に源を発しています。中世まで備後の中心的なにぎわいの場であった芦田川河口の草戸千軒が近世初頭までに姿を消したことを思うと、福山城の築城は、地域の都市としての重心が新たな城下町へと移っていく転換点でもあったといえます。海と川の交わる港町の時代から、城を核とした計画都市の時代へ——福山の誕生は、そうした大きな都市史の流れのなかに位置づけることができるのです。
伏見櫓と筋鉄御門——伏見城からの移築
福山城には、城そのものの歴史を伝える貴重な建造物が残されています。なかでも知られるのが「伏見櫓(ふしみやぐら)」と「筋鉄御門(すじがねごもん)」です。これらは、京都の伏見城から移築されたものと伝えられています。伏見城は、かつて天下人の城として築かれた城であり、その建物が福山に運ばれ、城の一部として組み込まれたと伝わるのです。新たに築かれた福山城に、由緒ある城の建築が取り入れられたことは、この城の格式を高める意味を持っていたと考えられます。これらの建造物については「伝わる」とされている事項であり、その由来の伝承を含めて、福山城の歴史的な重みを今に伝える存在となっています。
福山城の見どころや歴史については、福山城の完全ガイドでさらに詳しく紹介しています。城下町としての福山の出発点を、ぜひ現地でも感じてみてください。
福山藩の歩み——水野氏から松平氏、そして阿部氏へ
福山城の完成によって始まった福山藩は、江戸時代を通じてこの地を治める政治の枠組みとなりました。藩を治めた藩主の家は、時代とともに移り変わっていきます。その流れを整理しておくことは、福山の近世史を理解するうえで欠かせません。
まず藩政の最初を担ったのが、福山藩を開いた水野氏でした。水野氏は5代にわたってこの地を治めたとされます。城下町を整え、領国の経営の基礎を築いたのがこの水野氏の時代です。福山という都市と藩のかたちが定まっていったのは、この最初の藩主家の時代であったといえるでしょう。
松平氏の時代
水野氏の後、福山藩は松平氏が治める時代を迎えます。藩主家の交代は、江戸時代を通じて各地の藩で起こりうることであり、福山藩もまたその例外ではありませんでした。松平氏の時代を経て、福山藩は次の阿部氏の時代へと続いていきます。
1710年からの阿部氏
そして1710年から、福山藩は阿部氏が治めることになります。阿部氏は幕末に至るまで福山藩の藩主家として続き、福山の歴史に深く刻まれる存在となりました。とりわけ後の章で詳しく述べる阿部正弘は、この阿部氏から出て幕府の中枢を担った人物として知られています。水野氏が福山という都市の礎を築き、松平氏を経て阿部氏が長く治めるなかで、福山藩は地域の政治・経済・文化の中心としての役割を果たし続けました。藩主家は変わっても、城下町・福山という都市は連綿と受け継がれ、そこに暮らす人々の営みは続いていったのです。水野氏、松平氏、阿部氏という三つの藩主家がこの地を治めたという事実は、江戸時代を通じて福山が西国の要地として重んじられ続けたことの表れでもあります。およそ250年に及ぶ江戸時代を通じて、城下町には武士や商人、職人が暮らし、寺社が信仰を集め、街道が人と物を運びました。そうした日々の積み重ねこそが、福山という都市の土台を厚くしていったのです。
鞆の浦——潮待ちの港と朝鮮通信使

福山の歴史を語るとき、城下町と並んでもうひとつ欠かせないのが、瀬戸内海に面した港町・鞆の浦(とものうら)です。鞆の浦は古くから「潮待ちの港」として知られてきました。瀬戸内海では潮の満ち引きによって流れの向きが変わるため、帆船の時代には潮の流れが順になるのを待つ必要があり、その潮待ちの拠点として鞆の浦は早くから栄えたのです。海路の要衝・備後を象徴する場所だといえます。
江戸時代、鞆の浦は朝鮮通信使の寄港地としても重要な役割を果たしました。朝鮮通信使とは、朝鮮から日本へ派遣された外交使節団であり、その一行が瀬戸内海を行き来する際に、鞆の浦に立ち寄ったのです。異国の使節を迎えるこの港は、国際的な交流の舞台でもありました。海をへだてた隣国からの使節が、瀬戸内海を進む長い旅の途上で鞆の浦に錨を下ろしたという事実は、この港が単なる地方の港ではなく、東アジアの交流のネットワークのなかに組み込まれた場所であったことを示しています。古代から海の道の要衝であった備後の性格が、江戸時代の国際交流という形で改めて生かされたともいえるでしょう。
福禅寺・対潮楼——「日東第一形勝」
鞆の浦で朝鮮通信使ゆかりの地として名高いのが、福禅寺(ふくぜんじ)とその客殿である対潮楼(たいちょうろう)です。対潮楼からは鞆の浦の海と島々を一望することができ、その眺めは格別です。朝鮮通信使がこの景観を「日東第一形勝(にっとうだいいちけいしょう)」、すなわち日本で一番すぐれた景勝の地であると賞したと伝えられています。海をへだてて訪れた異国の使節の目にも、鞆の浦の風景はそれほどまでに美しく映ったのです。この眺めは今もほとんど変わらず楽しむことができます。詳しくは福禅寺 対潮楼のガイドをご覧ください。
太田家住宅——保命酒の商家と七卿落ちの宿
鞆の浦の歴史を伝える建物として、重要文化財に指定されている太田家住宅(おおたけじゅうたく)があります。太田家住宅は、鞆の浦の名産として知られる「保命酒(ほうめいしゅ)」を商った商家であり、その建物群は港町の繁栄を今に伝えています。また太田家住宅は「七卿落ち(しちきょうおち)」の宿として知られる場所でもあります。幕末の動乱のなかで都を追われた公卿たちが、この地に身を寄せたという歴史が刻まれているのです。保命酒という地場の産物と、幕末の政争という大きな歴史の両方を物語る建物として、太田家住宅は貴重な存在です。太田家住宅のガイドもあわせてご覧ください。
重要伝統的建造物群保存地区としての鞆の浦
こうした歴史を積み重ねてきた鞆の浦は、町並み全体が貴重な文化遺産となっています。鞆の浦は重要伝統的建造物群保存地区に選定されており、港を中心とした古い町並みが守られています。潮待ちの港として栄えた当時の面影を色濃く残すその景観は、訪れる人を江戸時代の港町へといざないます。狭い路地や古い商家、港の常夜灯などが織りなす町並みは、まさに歴史が生きている場所です。鞆の浦の町並みについては鞆の浦の街並みガイドで詳しく紹介しています。
幕末の福山——阿部正弘と日米和親条約
幕末という日本史の大きな転換期に、福山藩から国政の中枢を担った人物が現れます。福山藩主・阿部正弘(1819年-1857年)です。阿部正弘は江戸幕府の老中首座という、幕政を統べる最高の地位にあって、激動の時代の舵取りを担いました。一地方の藩主が、日本全体の進路を左右する立場に立った——それが阿部正弘という人物の歴史的な位置です。
阿部正弘の名が日本史に刻まれている最大の理由は、1854年の日米和親条約を主導したことにあります。当時の日本は長く続いた対外政策の転換を迫られ、開国へと向かう大きな岐路に立っていました。そのなかで阿部正弘は老中首座として国政の中心にあり、この条約の締結を主導しました。日本が新しい時代へと踏み出していく重要な局面に、福山藩の藩主が深く関わっていたのです。1619年に水野勝成が入り、1622年に城が完成してから、およそ230年あまり。城下町・福山を治める阿部家から、日本の進路そのものを左右する立場の人物が出たことは、福山という地方都市の歴史が、日本全体の歴史と確かに結びついていたことを示しています。地方に根ざしながらも、時代の大きな流れに無縁ではなかった——阿部正弘という存在は、福山の歴史のそうした一面を象徴しています。
いろは丸事件——1867年、鞆の浦沖
幕末の福山にまつわるもうひとつの大きな出来事が、1867年に鞆の浦の沖で起きた「いろは丸事件」です。これは、坂本龍馬(さかもとりょうま)が率いる海援隊が運用していた船「いろは丸」と、紀州藩の船とが衝突し、いろは丸が沈没したという事件です。この事件をめぐっては、海援隊側と紀州藩側との間で交渉が行われ、その談判の舞台のひとつが鞆の浦となりました。幕末の動乱期において、瀬戸内の港・鞆の浦が歴史の表舞台に登場した出来事として知られています。鞆の浦には、このいろは丸事件にまつわる資料を展示する施設もあります。事件の詳細についてはいろは丸展示館のガイドをご覧ください。海とともに歩んできた鞆の浦が、幕末という時代の渦のなかで果たした役割を知ることができます。
近代の備後——地場産業の発展と市制施行
明治以降の近代になると、福山・備後の地は産業の発展という新たな歴史の局面を迎えます。この地方には古くから培われてきた手仕事の伝統があり、それが近代の地場産業として花開いていきました。代表的なものをいくつか挙げてみましょう。
まず織物では、備後絣(びんごがすり)が知られています。絣は、糸を部分的に染め分けてから織ることで模様を表す織物で、備後絣はその産地として名を高めました。また畳の表に用いる備後畳表(びんごたたみおもて)も、この地方を代表する産物です。質の高い畳表は「備後表」として広く知られ、和の住空間を支えてきました。
福山琴と松永の下駄
工芸の分野では、福山琴(ふくやまごと)が挙げられます。琴という伝統楽器の産地として福山は知られ、その製作の技は受け継がれてきました。また、松永(まつなが)の地域では下駄の生産が盛んに行われました。松永の下駄は、履物の産地として全国に知られる存在となりました。織物、畳表、楽器、履物——こうした多彩な地場産業が並び立っていたことは、近代の備後がいかに豊かな手仕事の土壌を持っていたかを物語っています。これらの産業は、地域の人々の暮らしを支える生業であると同時に、福山・備後の名を外へと広める役割も果たしました。
1916年、福山市制の施行
こうした産業の発展を背景に、福山は近代都市としての歩みを進めます。そして1916年、福山市制が施行されました。城下町として生まれた福山が、近代の地方自治制度のもとで「市」となったのです。市制の施行は、福山が近代都市として新たな段階に入ったことを示す節目でした。江戸時代の城下町の枠組みから、近代の都市行政の枠組みへ——福山という街は、時代に合わせてその姿を更新しながら、連続して発展を続けてきたのです。注目したいのは、近代の福山を支えた地場産業の多くが、江戸時代以前から培われてきた手仕事の伝統に根ざしていたという点です。織物や畳表、楽器や履物といった産物は、一朝一夕に生まれたものではなく、長い年月をかけて地域に蓄えられた技術と人の手によって育まれてきました。城下町として築かれた都市の基盤の上に、こうした産業の厚みが重なったことで、福山は近代の地方都市として確かな歩みを進めることができたのです。
戦災と復興——福山空襲から現代へ

近代都市として発展を続けた福山は、しかし第二次世界大戦の末期に大きな試練に見舞われます。1945年8月、福山空襲によって市街地が焼かれ、多くのものが失われました。このとき、城下町・福山の象徴であった福山城の天守もまた焼失してしまいます。1622年の完成以来、長く街を見守ってきた天守が戦火によって失われたことは、福山の人々にとって計り知れない喪失でした。戦争がこの街にもたらした傷の深さを、私たちは忘れてはなりません。
しかし福山の人々は、焼け跡から立ち上がりました。戦後の復興とともに、街は少しずつその姿を取り戻していきます。住まいが再建され、産業が再び動き出し、人々の暮らしがよみがえっていきました。古代以来この地が積み重ねてきた歴史は、戦災によって断ち切られることなく、戦後へと受け継がれていったのです。焼け跡から街を立て直すという営みは、決してたやすいものではありませんでした。それでも人々は、住む場所を整え、働く場をつくり、子どもたちが育つ環境を取り戻していきました。古代の備後国に始まり、中世の港町、近世の城下町、近代の産業都市と姿を変えながら続いてきたこの地の歴史は、戦争という最大の試練をも乗り越えて、現代へと脈々とつながっていったのです。
鉄鋼業の立地と現代の福山
戦後の福山の発展を語るうえで大きいのが、鉄鋼業の立地です。戦後、福山には鉄鋼業が立地し、これが現代の福山の産業の柱のひとつとなっていきました。古代以来の地場産業の伝統を持つ街に、近代的な重工業が加わったことで、福山は新たな産業都市としての性格を備えていきます。瀬戸内海に面するという、古代から続くこの地の地理的な利点が、近代以降もまた産業の発展を支えたのです。古代に海路の要衝として開けたこの地が、千数百年の時を経て、近代的な重工業の立地という形で再び海の恵みを受けたことは、福山の歴史を貫く「海とともにある街」という性格を改めて感じさせます。地場産業の伝統と、新たに加わった重工業——この二つが重なり合うことで、福山は戦後の日本において確かな存在感を持つ産業都市へと成長していきました。
1966年、福山城天守の再建
そして戦後復興の歩みのなかで、福山の人々の願いが結実したのが、1966年の福山城天守の再建です。空襲で失われた天守が、戦後20年あまりを経て再びその姿を取り戻しました。再建された天守は、城下町・福山の象徴として、また街の復興のシンボルとして、人々の心の支えとなりました。今日、私たちが福山駅のすぐそばに仰ぐことのできる福山城の天守は、この1966年に再建されたものです。戦火による喪失と、復興による再建——その両方の記憶を背負って、福山城は今も街の中心に立っています。古代の備後国から始まった長い歴史は、こうして現代の福山へとつながっているのです。1622年の完成、1945年の焼失、そして1966年の再建——三つの時代の記憶を一身に背負った福山城の天守は、戦争による喪失の痛みと、それを乗り越えて街を立て直そうとした人々の願いの両方を、静かに語りかけてきます。失われたものを嘆くだけでなく、それを取り戻し、未来へとつないでいこうとする力。福山城の再建は、戦後の福山が見せたそうした前向きな歩みの象徴でもあったのです。
福山・備後の史跡図鑑
ここまでたどってきた福山・備後の歴史は、今も街のあちこちに残る史跡を通じて、実際に目で見て、足で歩いて感じることができます。福山城をはじめ、明王院、鞆の浦の福禅寺・対潮楼や太田家住宅など、歴史の舞台となった場所が数多く残されています。以下の史跡図鑑では、福山・備後の歴史を物語る史跡を一覧でご紹介します。それぞれの場所の歴史的な背景を知ったうえで訪ねれば、街歩きはいっそう味わい深いものになるはずです。
📊 主要史跡をひと目で比較
所在エリアや時代を一覧で見比べられます。
| 史跡 | 時代 | 概要 | 📍 エリア | 詳細 |
|---|---|---|---|---|
| 福山城 伏見櫓 | 江戸時代(元和年間) | 伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最… | 📍 福山駅前(福山市街) | 下へ ↓ |
| 福山城 | 近世(江戸) | 備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御… | 📍 丸之内 | 下へ ↓ |
| 福山城博物館 | 近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期) | 水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩… | 📍 福山駅前(福山市街) | 下へ ↓ |
| 草戸千軒町遺跡 | 中世 | 芦田川の中州にあった中世の港町・集落遺跡。発… | 📍 草戸町 | 下へ ↓ |
| 明王院 | 中世 | 本堂と五重塔がともに国宝。中世密教寺院で、五… | 📍 草戸町 | 下へ ↓ |
| 鞆の津の町並み(重伝建) | 江戸時代(中世〜近代の建造物群) | 潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 鞆の浦の常夜燈と港湾施設 | 江戸時代 | 江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 福山市鞆の浦歴史民俗資料館 | 近代(昭和) | 鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 鞆の浦 | 中世〜近世 | 瀬戸内の「潮待ちの港」。常夜燈・雁木・波止場… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 福禅寺 対潮楼 | 近世 | 朝鮮通信使の使節が「日東第一形勝」と讃えた客… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 太田家住宅 | 江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期) | 鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| いろは丸展示館 | 近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期) | 坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 仙酔島 | 古代(地質)/近代(指定) | 鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 廉塾(菅茶山旧宅) | 近世 | 儒学者・菅茶山が開いた私塾。当時の塾舎・住宅… | 📍 神辺町 | 下へ ↓ |
| 神辺城跡 | 中世 | 備後南部の中世山城。福山城が築かれる以前、備… | 📍 神辺町 | 下へ ↓ |
| 福山八幡宮 | 近世 | 福山城の北に鎮座し、東西二つの宮を備える。歴… | 📍 北吉津町 | 下へ ↓ |
| 沼名前神社 | 近世 | 鞆の「祇園さん」。夏の大松明を担ぐ「お手火神… | 📍 鞆町 | 下へ ↓ |
| 阿伏兎観音(磐台寺観音堂) | 近世 | 断崖の上に建つ朱塗りの観音堂。国の重要文化財… | 📍 沼隈町 | 下へ ↓ |
| 吉備津神社(備後一宮) | 江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる | 備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で… | 📍 新市町 | 下へ ↓ |
| 素盞嗚神社(備後一宮) | 飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮 | 祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏の… | 📍 新市町 | 下へ ↓ |
📖 史跡を一つずつ詳しく
各史跡の概要・所在地・見どころを個別に紹介します。最新の公開状況は各施設の公式情報でご確認ください。
福山城 伏見櫓
伏見城から移築されたと裏付けられる、福山城最古級の三層入母屋造の現存櫓。 福山城伏見櫓は、元和8年(1622年)の福山城築城に際し、城主水野勝成が将軍徳川秀忠から下賜を受け、京都の伏見城から移築させたと伝えられる櫓である。長らく伝承とされていたが、昭和29年(1954年)の解体修理の際、梁の陰刻に「松ノ丸ノ東やく(ら)」の文字が発見され、伏見城からの移築を裏付ける確かな遺構であることが明らかになった。構造は三層入母屋造で、初層と二層を同じ柱割とし、その上にやや小さい三層を望楼状に載せる。桁行八間・梁間三間、本瓦葺の規模をもつ。慶長期の城郭建築の様式を残す初期の典型として価値が高く、昭和8年(1933年)1月23日に国の重要文化財に指定された。福山城内に現存し、特別公開が行われることもある。
| 🕰 時代 | 江戸時代(元和年間) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 元和8年(1622年)水野勝成の福山城築城時に伏見城から移築。国指定重要文化財(昭和8年=1933年1月23日指定) |
| 📍 所在地 | 広島県福山市丸之内一丁目(福山城内) |
福山城
備後福山藩の居城。日本100名城。伏見櫓・筋鉄御門は京都伏見城からの移築と伝わる。2022年に築城400年を迎えた。
| 🕰 時代 | 近世(江戸) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 1622年(元和8)・水野勝成 |
| 👤 関連 | 水野勝成・阿部正弘 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市丸之内一丁目8 |
福山城博物館
水野勝成築城の福山城天守を復興し、城と福山藩の歴史を体験型展示で伝える博物館 福山城博物館は、JR福山駅のすぐ北に建つ福山城天守内に置かれた市立の歴史資料館です。福山城は1622年(元和8年)、徳川譜代の大名・水野勝成が西国鎮衛の拠点として築いた近世城郭で、天守は1931年に国宝に指定されました。しかし1945年8月の福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリート造で外観が復興され、その内部が博物館として公開されました。2022年には築城400年に合わせて大規模リニューアルされ、北面の鉄板張り(黒い装い)の再現や、一番槍レース・火縄銃などの体験型コンテンツ、デジタル映像を用いた展示が整えられ、福山城と福山藩の歴史を学べる施設となっています。城内に現存する伏見櫓と筋鉄御門は、京都・伏見城からの移築と伝えられ、国の重要文化財に指定されています。常設展は有料、月曜休館とされます。
| 🕰 時代 | 近代(昭和・現代の博物館/城は江戸時代初期) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 福山城は1622年(元和8年)に初代福山藩主・水野勝成が築城。天守は1945年福山大空襲で焼失し、1966年に鉄筋コンクリートで外観復興、内部を博物館として開館。2022年に大規模リニューアル |
| 📍 所在地 | 広島県福山市丸之内一丁目8番 |
草戸千軒町遺跡
芦田川の中州にあった中世の港町・集落遺跡。発掘成果は広島県立歴史博物館で町並みが原寸復元展示されている。
| 🕰 時代 | 中世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 鎌倉〜室町 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市草戸町 |
明王院
本堂と五重塔がともに国宝。中世密教寺院で、五重塔は全国でも有数の古塔。
| 🕰 時代 | 中世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 本堂1321年・五重塔1348年 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市草戸町1473 |
鞆の津の町並み(重伝建)
潮待ちの港・鞆の浦の港町。江戸期の港湾施設と町家が一体で残る重伝建地区 鞆の浦は瀬戸内海の中央に位置し、古来「潮待ちの港」として栄え、万葉集にも詠まれた歴史を持つとされる。江戸時代には北前船など廻船の寄港地として繁栄し、朝鮮通信使の寄港地ともなった。2017年(平成29年)11月28日、「福山市鞆町伝統的建造物群保存地区」として約8.6ヘクタールが国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。範囲は鞆字西町の全域を中心に、石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地の一部に及ぶ。中世から江戸期に整えられた地割の上に、江戸時代から昭和30年代までの町家や寺社、石垣などが一体的に残る近世港町の景観が評価された。常夜燈・雁木・波止・焚場・船番所の5つの港湾施設がほぼ完全に残る点は全国でも稀とされる。広島県内では3例目の選定で、2018年には日本遺産にも認定された。
| 🕰 時代 | 江戸時代(中世〜近代の建造物群) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 2017年(平成29年)11月28日に国の重要伝統的建造物群保存地区へ選定。地割は中世〜江戸期、建造物は江戸時代〜昭和30年代まで。 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町(鞆字西町全域ほか、字石井町・関町・江之浦町・道越町・古城跡、後地字古城跡・草谷の各一部) |
鞆の浦の常夜燈と港湾施設
江戸期の港湾施設5点が全て揃って現存する全国唯一の近世港、鞆港。 鞆の浦の鞆港には、常夜燈・雁木・波止・焚場(たでば)・船番所という江戸時代の港湾施設5点がほぼ揃って現存し、これらが一体で残るのは全国でも鞆港のみとされる。シンボルの常夜燈は安政6年(1859)の刻銘をもつ石造灯台で、海中の基礎石から宝珠の頂までは約12.1mに及び、江戸期の石造常夜燈としては国内最大級とされる。雁木は潮の干満に応じて船を着けられる階段状の船着き場で、半円形の港内に連続して巡らされている。波止は花崗岩を積んだ全長約146mの防波堤で、江戸後期に築かれ明治期に修築された。鞆港を含む沿岸と沖の島々一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定され、鞆町西町を中心とする区域は2017年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。日本遺産「瀬戸の夕凪が包む 国内随一の近世港町」の構成要素でもある。
| 🕰 時代 | 江戸時代 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 常夜燈は安政6年(1859)造立とされる。雁木・波止・焚場・船番所は江戸後期築造、波止は明治期に修築。鞆港一帯は1925年に国の名勝「鞆公園」に指定。 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町鞆 |
福山市鞆の浦歴史民俗資料館
鞆城跡の高台に建つ「潮待ちの館」。鞆の浦と瀬戸内の歴史・民俗を伝える市立資料館 福山市鞆の浦歴史民俗資料館は、広島県福山市鞆町後地に建つ市立の博物館で、「潮待ちの館」の愛称で親しまれる。1977年(昭和52年)からの地元有志による調査・収集活動を背景に、福山市制70周年記念事業として1988年(昭和63年)に開館した。立地は、福島正則が築いたとされる鞆城跡(福山市指定史跡)の高台で、瀬戸内海を見渡せる。万葉の時代から潮待ち・風待ちの港として栄えた鞆の浦を中心に、古代から近世にいたる歴史資料を展示。鯛網漁のジオラマや錨を製造した鍛冶場、朝鮮通信使関連資料、保命酒に関する資料に加え、お手火神事・お弓神事といった地域の民俗文化財も常設展示する。鞆の歴史と暮らしを総合的に学べる拠点とされる。
| 🕰 時代 | 近代(昭和) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 1988年(昭和63年)開館。福山市制70周年記念事業として建設。建つ鞆城跡は福島正則が築いたとされる(福山市指定史跡) |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町後地536-1 |
鞆の浦
瀬戸内の「潮待ちの港」。常夜燈・雁木・波止場・焚場・船番所の港湾施設が一体で残る全国的にも貴重な町並み。
| 🕰 時代 | 中世〜近世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 古代〜 |
| 👤 関連 | 朝鮮通信使・足利義昭・坂本龍馬 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町 |
福禅寺 対潮楼
朝鮮通信使の使節が「日東第一形勝」と讃えた客殿からの眺め。仙酔島を望む座敷が名高い。
| 🕰 時代 | 近世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 客殿は元禄年間 |
| 👤 関連 | 朝鮮通信使 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町2 |
太田家住宅
鞆名産「保命酒」の蔵元として栄えた商家建築で、国の重要文化財 鞆の浦を代表する歴史的建造物で、薬用酒「保命酒」の醸造で財を成した商家の旧宅。もとは大坂の漢方医を出自とする中村家の屋敷で、明暦元年(1655年)に鞆へ移り住み、まもなく十六味地黄保命酒の製造・販売を始めて大ヒットし、福山藩の御用名酒屋として販売独占権を得たとされる。明治期に廻船業を営んだ太田家が継承し、現在の名で呼ばれる。主屋を中心に保命酒蔵や各種土蔵など九棟が建ち並び、建築年代は18世紀中期から19世紀前期に及ぶ。瀬戸内の商家建築を伝える貴重な遺構として、1991年に国の重要文化財に指定された。幕末には三条実美ら尊王攘夷派の公卿が立ち寄ったと伝わり、別宅の朝宗亭とともに「鞆七卿落遺跡」として広島県の史跡(1940年指定)にもなっている。
| 🕰 時代 | 江戸時代(建築は18世紀中期〜19世紀前期) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 主屋は18世紀中期、ほか北保命酒蔵が天明8年(1788年)、西蔵が寛政元年(1789年)、東保命酒蔵が寛政7年(1795年)など18世紀中期〜19世紀前期。国の重要文化財指定は1991年(平成3年)5月31日。 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町鞆842 |
いろは丸展示館
坂本龍馬といろは丸事件を伝える、江戸期の土蔵を活かした資料館 鞆の浦のシンボル常夜灯(とうろどう)のすぐそばに建つ資料館。1867年(慶応3年)、坂本龍馬と海援隊が運航したいろは丸が紀州藩の明光丸と備後灘で衝突・沈没した「いろは丸事件」を伝える施設で、その談判が鞆の浦で行われた縁にちなむ。建物は江戸期に建てられた太い梁が印象的な土蔵で、地元では「大蔵」と呼ばれ、国の登録有形文化財とされる。館内には海底に沈むいろは丸を再現したジオラマ、引き揚げられた陶器や部品、調査風景の写真などを展示し、2階には龍馬が宿泊先で身を潜めたという「隠れ部屋」が再現され、龍馬の蝋人形も置かれている。1989年(平成元年)7月の開館。幕末史と鞆の港町文化を同時に味わえるスポットである。
| 🕰 時代 | 近代(開館は平成)/題材は幕末(江戸時代末期) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 1989年(平成元年)7月開館。建物は江戸期築の土蔵「大蔵(浜蔵)」で、国の登録有形文化財とされる。展示題材のいろは丸事件は1867年(慶応3年) |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町鞆843-1 |
仙酔島
鞆の浦に浮かぶ無人島。五色岩や溶結凝灰岩が連なる瀬戸内海国立公園の名勝 仙酔島は鞆の浦の沖合に浮かぶ周囲約6キロの島で、住所は福山市鞆町後地。鞆港から市営渡船で約5分の距離にあり、観光客の往来はあるが定住者のいない無人島とされる。1925年(大正14年)に国の名勝「鞆公園」の一部として指定され、1934年(昭和9年)には日本で最初に指定された国立公園・瀬戸内海国立公園に含まれた。島は約9000万年前の大規模な火山活動による溶結凝灰岩を主体とし、南側海岸には青・赤・黄・白・黒の岩が200メートル以上連なる「五色岩」が見られ、地質的に貴重とされる。「仙人が酔うほど美しい島」が名の由来と言われる。江戸後期の学者・頼山陽が当地の景観を「山紫水明」と評したとも伝わる。
| 🕰 時代 | 古代(地質)/近代(指定) |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 1925年(大正14年)国名勝「鞆公園」に指定。1934年(昭和9年)日本初の国立公園・瀬戸内海国立公園に編入。島自体は約9000万年前の火山活動で形成されたとされる |
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町後地 |
廉塾(菅茶山旧宅)
儒学者・菅茶山が開いた私塾。当時の塾舎・住宅が残り、国の特別史跡に指定されている。
| 🕰 時代 | 近世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 18世紀末 |
| 👤 関連 | 菅茶山 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市神辺町川北640 |
神辺城跡
備後南部の中世山城。福山城が築かれる以前、備後支配の拠点だった。
| 🕰 時代 | 中世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 南北朝期 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市神辺町 |
福山八幡宮
福山城の北に鎮座し、東西二つの宮を備える。歴代藩主の崇敬を集めた。
| 🕰 時代 | 近世 |
|---|---|
| 👤 関連 | 水野家 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市北吉津町1-2-16 |
沼名前神社
鞆の「祇園さん」。夏の大松明を担ぐ「お手火神事」で知られる古社。
| 🕰 時代 | 近世 |
|---|---|
| 📍 所在地 | 広島県福山市鞆町後地 |
阿伏兎観音(磐台寺観音堂)
断崖の上に建つ朱塗りの観音堂。国の重要文化財。古来、海上安全と子授け・安産の祈願で知られる。
| 🕰 時代 | 近世 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 16世紀末 |
| 👤 関連 | 毛利輝元 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市沼隈町能登原 |
吉備津神社(備後一宮)
備後国一宮。1648年造営の本殿は国重文、地元で「いっきゅうさん」と親しまれる古社 福山市新市町宮内に鎮座する備後国一宮で、地元では「一宮さん(いっきゅうさん)」と親しまれる。社伝では大同元年(806年)に吉備国の吉備津神社から勧請し創建されたと伝わるが、延喜式神名帳に記載がないことなどから実際の成立はより後とする説もある。主祭神は吉備国を治めたとされる大吉備津彦命。現在の本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が旧規模にならい造営したもので、桁行七間・梁間四間の入母屋造檜皮葺、国の重要文化財に指定されている。ほかにも木造狛犬や太刀などが重要文化財として伝えられ、複数の建造物が広島県・福山市指定文化財となっている。隣接する櫻山城跡なども史跡として知られ、備後の信仰と歴史を今に伝える。
| 🕰 時代 | 江戸時代(現本殿造営)/創建は平安時代とされる |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 本殿は慶安元年(1648年)に初代福山藩主・水野勝成が造営、国の重要文化財。創建は大同元年(806年)と伝わるが諸説ある |
| 📍 所在地 | 広島県福山市新市町宮内400 |
素盞嗚神社(備後一宮)
祇園信仰・蘇民将来伝説ゆかりの備後一宮。夏のけんか神輿で名高い古社 福山市新市町戸手に鎮座する素盞嗚神社は、『延喜式神名帳』に載る式内社で備後国一宮を称し、旧社格は県社です。主祭神は素盞嗚尊で、稲田姫命・八王子を配祀します。社伝では天武天皇の治世、7世紀ごろ(679年か)の創建とされます。『釈日本紀』所収の「備後国風土記」逸文に伝わる蘇民将来説話の舞台「疫隈国社」と結びつけられ、茅の輪くぐりや祇園信仰・祇園祭発祥の地の一つとされています。神仏習合期には牛頭天王を祀り、遣唐使・吉備真備が734年に当社から播磨の広峯神社へ勧請したとも伝わります。毎年7月の例祭では、勇壮なけんか神輿(神輿合わせ)が行われることで知られます。
| 🕰 時代 | 飛鳥時代(創建)/式内社・備後一宮 |
|---|---|
| 🏛 成立・築造 | 社伝では天武天皇期の7世紀ごろ(679年か)創建とされる。『延喜式神名帳』記載の式内社で、旧県社 |
| 📍 所在地 | 広島県福山市新市町大字戸手1-1 |
気になる史跡があれば、ぜひ個別のページもあわせてご覧ください。本記事でたどってきた通史と照らし合わせながら巡れば、それぞれの史跡が福山の歴史のどの場面に位置づけられるのかが、より立体的に見えてくることでしょう。
福山の歴史をめぐるモデルコース

福山・備後の歴史を「読む」だけでなく「歩いて」体感したい方のために、ここでは歴史をめぐるモデルコースの考え方をご紹介します。福山の歴史の舞台は、大きく分けて「城下町エリア(福山駅周辺)」と「鞆の浦エリア(港町)」の二つに集約されます。この二つを軸に巡ると、古代から近代までの流れを効率よくたどることができます。
まず城下町エリアでは、なんといっても福山城が出発点です。1622年に完成し、1945年の空襲で天守を焼失、1966年に再建されたこの城は、福山の歴史そのものを体現しています。福山駅のすぐ目の前という立地の良さも魅力です。城下町・福山の誕生から戦災・復興までの物語を、現地で実感することができます。
中世の福山をたどる——草戸千軒・明王院
近世の城下町を見たら、時代をさかのぼって中世の福山へ。芦田川のほとりにあった幻の港町・草戸千軒と、国宝の本堂(1321年)・五重塔(1348年)を持つ明王院は、中世の備後の繁栄と文化を伝える場所です。城下町が築かれる以前、この地にどのような都市があったのかを知ることで、福山の歴史の奥行きを感じられます。詳しくは草戸千軒・明王院をめぐるガイドを参考にしてください。
鞆の浦で港町と幕末を感じる
もう一つの主役が、潮待ちの港・鞆の浦です。鞆の浦の街並みを歩けば、重要伝統的建造物群保存地区に選定された港町の風情を存分に味わえます。朝鮮通信使が「日東第一形勝」と賞した福禅寺 対潮楼からの眺め、保命酒の商家であり七卿落ちの宿でもあった太田家住宅、そして1867年のいろは丸事件を伝えるいろは丸展示館。これらをめぐれば、海とともに歩んだ備後の歴史と、幕末の動乱の記憶を一度に体感できます。
城下町エリアと鞆の浦エリア、それぞれをじっくり巡ろうとすると、半日から一日ずつの時間を見ておくと安心です。具体的な巡り方や所要時間の組み立てについては、福山歴史巡りプランをご覧ください。ご自身の興味や日程に合わせて、古代から現代までの福山の歴史をたどる旅を組み立ててみてください。
よくある質問(FAQ)
Q「備後国」とは何ですか。福山との関係は?
備後国は、律令制のもとで現在の広島県東部に置かれた古代の行政区分です。国を治める国府や、仏教で国を鎮めるための国分寺が、現在の府中市や神辺周辺に営まれたと考えられています。福山はこの備後国の範囲に含まれ、現代でも「備後地方」と呼ばれるまとまりの中心都市となっています。
Q草戸千軒とはどんな場所ですか。
草戸千軒(草戸千軒町遺跡)は、芦田川の河口に栄えた中世の港町・市場町です。「千軒」という名のとおり、多くの家が建ち並ぶほどにぎわったとされます。しかし近世初頭までに姿を消したため「幻の町」とも呼ばれています。衰退の理由には諸説あり、はっきりとした定説はありません。
Q明王院の国宝について教えてください。
草戸千軒の近くに建つ明王院には、二つの国宝があります。1321年に建てられた本堂と、1348年に建てられた五重塔です。いずれも14世紀(中世)の建築で、中世備後の高い文化水準を今に伝えています。
Q福山城はいつ、誰によって築かれたのですか。
1619年に水野勝成が備後福山10万石の領主として入封し、1622年に福山城が完成しました。この築城によって城下町・福山が誕生しました。城内の伏見櫓と筋鉄御門は、京都の伏見城から移築されたものと伝えられています。
Q福山藩の藩主はどのように変わっていったのですか。
福山藩を開いた水野氏が5代にわたって治め、その後、松平氏の時代を経て、1710年からは阿部氏が藩主家となりました。阿部氏は幕末まで福山藩を治め、幕府の老中首座を務めた阿部正弘もこの阿部氏から出ています。
Q阿部正弘とはどんな人物ですか。
阿部正弘(1819年-1857年)は福山藩主で、江戸幕府の老中首座を務めた人物です。1854年の日米和親条約を主導したことで知られ、日本が開国へと向かう幕末の重要な局面で国政の中枢を担いました。
Q「いろは丸事件」とは何ですか。
1867年、鞆の浦の沖で、坂本龍馬の海援隊が運用していた船「いろは丸」と紀州藩の船が衝突し、いろは丸が沈没した事件です。その後の交渉の舞台のひとつが鞆の浦となりました。鞆の浦には、この事件を伝える展示施設があります。
Q鞆の浦が「日東第一形勝」と呼ばれるのはなぜですか。
鞆の浦の福禅寺・対潮楼からの眺めを、朝鮮通信使が「日東第一形勝(日本で一番すぐれた景勝の地)」と賞したと伝えられていることに由来します。瀬戸内海の島々を望むその眺望は、今もほとんど変わらず楽しむことができます。
Q太田家住宅はどんな建物ですか。
太田家住宅は鞆の浦にある重要文化財で、地元の名産である保命酒を商った商家の建物群です。また、幕末に都を追われた公卿たちが身を寄せた「七卿落ち」の宿としても知られています。
Q福山ではどんな地場産業が発展したのですか。
近代の福山・備後では、備後絣(織物)、備後畳表(畳の表)、福山琴(楽器)、松永の下駄(履物)などの地場産業が発展しました。古くからの手仕事の伝統が、近代の産業として花開いたものです。
Q福山城の天守が再建されたのはなぜですか。
福山城の天守は、1945年8月の福山空襲によって市街地とともに焼失しました。戦後の復興のなかで再建が進められ、1966年に天守が再建されました。現在見ることのできる天守は、この1966年に再建されたものです。
Q福山市が誕生したのはいつですか。
福山市制が施行されたのは1916年です。江戸時代に城下町として生まれた福山が、近代の地方自治制度のもとで「市」となりました。これは福山が近代都市として新たな段階に入った節目です。
Q福山の歴史を効率よく巡るにはどうすればよいですか。
福山の史跡は「城下町エリア(福山駅周辺の福山城)」と「鞆の浦エリア(港町)」の二つに大きく分かれます。この二つを軸に巡ると、古代から近代までの流れを効率よくたどれます。詳しい巡り方は福山歴史巡りプランを参考にしてください。
まとめ——一つの街に積み重なる千数百年の時間
古代の備後国に始まり、中世の港町・草戸千軒、戦国の山城、1622年の福山城築城と城下町の誕生、水野氏から阿部氏へと続いた福山藩、朝鮮通信使や幕末の動乱を見つめた鞆の浦、近代の地場産業と1916年の市制、そして戦災と復興を経た現代まで——福山・備後の歴史は、ひとつの街に千数百年の時間が幾重にも積み重なってできた、奥行きの深い物語です。
この街を歩くと、その時間の層を実際に感じることができます。福山駅の目の前にそびえる福山城の天守は、1622年の築城、1945年の焼失、1966年の再建という三つの時代を背負って立っています。芦田川のほとりには中世の港町の記憶が眠り、鞆の浦の古い町並みは江戸時代の海運の活気を今に伝えています。歴史を知って訪ねれば、何気ない風景の一つひとつが、深い意味を帯びて見えてくるはずです。
福山の歴史は、決して過去のなかに閉じたものではありません。古代から続く瀬戸内海とのつながり、城下町として築かれた都市の骨格、地場産業の伝統、そして戦災を乗り越えた復興の記憶——それらはすべて、現代の福山という街のなかに生き続けています。この記事が、福山・備後の歴史への入り口となり、街を歩く楽しみを広げる一助となれば幸いです。ぜひ実際に足を運び、ご自身の目と足で、この街に積み重なった時間を確かめてみてください。
出典・ご利用にあたっての注意
本記事は、福山・備後地方に関して広く知られている史実をもとに、通史としてわかりやすく整理したものです。記載した年代や経緯のなかには、研究上さまざまな見解があり、諸説ある事項を含みます。とりわけ草戸千軒の衰退の理由や、伏見櫓・筋鉄御門の伏見城からの移築など、「〜とされる」「伝わる」と記した事項については、断定を避け、定説の範囲で中立に記述するよう努めました。より詳しく、また正確に知りたい場合は、福山城博物館や広島県立歴史博物館をはじめとする公的機関の展示・資料、各史跡の現地解説などをあわせてご参照いただくことをおすすめします。
※年代・経緯には諸説ある事項を含みます。
最終更新: 2026年6月9日
史跡情報は福山NOTE 史跡図鑑(fn_history)より。